きょうはこういうセミナーに参加してきた。「法然セミナー2011 「苦楽共生」」。セミナーというよりイベントといったほうがよさそうな内容だが(笑)
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「法然セミナー2011 苦楽共生」
http://jodo.or.jp/onki800/kinen/presentation/seminar/2011.html
王貞治/宗次郎/八木季生
2011年9月10日(土)浄土宗大本山増上寺 大殿(本堂)
■開場:13:00 ■開演:13:30 ■終演予定:16:30
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上掲のポスターに書かれているコピーに「苦しい時ほど前を向く。毎日の小さな幸せを信じてみる」とある。このコピーに「じ~んとくるもの」を感じたから出席を決めた。。
もちろん苦しいことだけでなく、楽しいこともある。苦しいことだけの人生、楽しいことだけの人生。それはありえない。
本日のテーマは「四苦八苦」。生・老・病・死の「四苦」に、愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)をあわせて「四苦八苦」。これは釈尊仏陀が説かれたことそのもので、まさにそのとおりとしか言いようがない。仏教は苦を見つめることから始まるのだ。仏教は、なによりも観ることに始まる。
ふだんほとんど念仏も唱えないし、ぜんぜん熱心ではないとはいえ、わたしも浄土宗の家に生まれている。祖父が養子先のお寺から脱出しなければ、わたしも今頃、どこかの浄土宗の寺院で住職でもしていたかもしれない(笑)
ことしは「法然上人800年大遠忌」である。しかも 「3-11」にはじまった「末法の世」のはじまりでもあるという認識をわたしはもっている。そんな年に、たまには日本仏教の革命家・法然上人のことを考える一日にしたいと思って参加してみた。
法然上人(1133~1212年)が専修念仏(せんじゅねんぶつ)を広めることで、日本ではじめて仏教を一般民衆の手に届くものにしたことは、まさに日本仏教における革命としかいいようがない。法然上人は、それほど意義ある存在だからだ。
■セミナー内容についての感想-オカリナの宗次郎さんのコンサートはすばらしかった!
プログラムのなかでは、オカリナの宗次郎のコンサートは文句なしにすばらしかった。増上寺の本堂のなかでのコンサートは、音響は悪くない。欧州でも教会内部でコンサートを行うことは多いので、とくに違和感はない。
テレビなどでは見たことがあっても、ライブの演奏を聴くのははじめて。オカリナの澄んだ音色が、自然との共生というテーマにぴったりであっっといっていい。音の響きは魂の響きというが、まさに心に響くものがあった。
宗次郎氏はトークのなかで、茨城県常陸大宮市に「オカリーナの森」を開設して、土に根ざした生活をしていると語っていたが、そういう「自然との共生」の実践が、すばらしいオカリナの響きに反映しているというのは、そのとおりだろうと思った。
神社の境内やお寺の境内での演奏がふさわしいのだろうなと思ったのだった。
宗次郎のオカリナ以外は、それほど印象には残らなかったのは正直なところだ。王貞治氏の話も、野球に関心を失っているわたしにはあまり興味のあるものではなかった。現役時代の王選手のファンではあったが、王監督のファンではないからだろう。
年配者にとっては、おなじく年配者である王監督の存在そのものが同時代人として意味もあったのだろう。
ただ一点、話のなかにでてきたジャイアント馬場の話はなつかしかった。ジャイアント馬場はプロレスに転向する前は読売ジャイアンツの投手だったからだ。王選手とは1年ほど同じ時間を共有したという。
■「法然セミナー」でありながら、法然上人の話が皆無とは!?
増上寺の本堂は散歩の途中に何度も立ち寄ったことはあるが、本堂のなかに入ったのは久々だ。
本堂のなかに椅子を入れるとコンサート会場としても使えるわけだ。ライティングも行えば演出も十分にできる。本堂のなかには線香の匂いが充満しており、なんだか法事の席に参列しているような気もしたが。
来場者は、おそらく浄土宗の檀家の関係者が大半だったのではないだろうか。250~300人くらいは入っていたようだ。もっと多いかもしれない)。
大半はわたしよりもかなり年上の世代であるようだ。リタイアしたご年配者の世代が中心だろう。
そもそも人間は生まれた以上、かならず死すべき存在であるが、安心して「極楽浄土」にいく手助けをするのを最大の使命としているのが浄土系仏教であろう。
とはいえ、自分がまだまだ死ぬとは思っていない若い世代には、なかなか湧いてこない感情だろう。これは日本仏教だけでなく、欧州のカトリック教会でも似たようなことらしい。若年層の既存教団離れは否定できない流れのようだ。
だが、突然死や不慮の事故に巻き込まれて死ぬことは、年が若いかどうかにには関係ないことだ。「3-11」のような大地震と大津波で死ぬ事、これらがいきなり現実となって飛び込んできた。次から次へと自然災害や人災が続いて起こる状況になってきているのだ。日本仏教は果たして、こういう環境の激変にどこまで対応できているのだろうか?
世の中はふたたび、天変地異が続き、政治も混乱していた平安時代末期から鎌倉時代初期のような、「厭離穢土」(おんりえど)と「欣求浄土」(ごんぐじょうど)の時代相になってきているのではないか? こういう見方があってもおかしくない。
各種の調査で、「3-11」後に個人の価値観に大きな変化が現れてきていることは報告されている。自分の身の回りでもそれは実感できるはずだ。当然のことながら死生観にも影響がでてきているのではないだろうか?
だが、会社その他の組織は、こういった個人の価値観の変化にどこまで気が付いているのだろうか、対応できているのだろうか? 宗教組織もまた同じではないだろか? 浄土宗だけではないと思うが、なにか時代認識にズレがあるような気がしてならないのだ。
講話もあったが、心に響いてくるものはまったくなかった。コトバに人を魅了するものがないのは、法事の際のお坊さんの法話と同じである。可もなく不可もない話。すでに何度も失望しているわたしは、さらに失望を深める結果となってしまった。
浄土宗のような大きな宗教組織で出世する人というのは、そんなものなのだろうか。行政手腕が高いことは必要だが、せめて聞かせる話をしてもらいたいと思う。政治家もそうだが、上に立つ人はその語るコトバで判断されるものだからだ。
そもそも、民衆に仏教を布教する際の説教から落語が発生したのは日本芸能史の常識である。面白い話をしないと一般民衆の心をつなぎ止めることができないから、江戸時代の説教は落後みたいに面白いものだったらしい。説教と落語が分離してからは、説教はつまらないものの代名詞となってしまったのかもしれない。
■日本仏教に内部からの変革による再生は可能なのだろうか?
あらためて既成仏教教団には、まったく何も魅力も感じない自分をあらためて見いだしたのが、きょうの感想だ。
すでに宗教的情熱をまったく感じることのできない日本仏教の既成教団。ただ単に維持すべき制度と化して久しい組織体。日本で仏教離れが進行しているのは当然だろう。それは「葬式仏教」に対する批判だけではない。神社など、いわゆるパワースポットに若者が引きつけられる現象がさらに増大しているのとは好対照だろう。
「廃仏毀釈」は仏教弾圧であったが、いま顕在化しつつあるのは、見えないところで進行する「内部崩壊」現象ではないか?
あらてめて気がつかされたのは「法然上人=浄土宗」ではない、ということであった。わたしがナイーブ過ぎたのかもしれないが、いくら宗祖の法然上人を褒め称えたところで、法然上人の精神と実践から遠いのではないかという気がしてならないのだ。法然上人は祭り上げられてしまったのか?
「法然共生」(ほうねんともいき)というコンセプトを打ち出し、ロゴもデザイン性豊かな斬新なものとなったが、これは企業組織と同じで、 CI を導入したからすべてが解決するわけがない。
若者にくらべれば、比較的な意味では死期が近い老人たちにとっては、いまさら宗旨替えすることはないだろう。
だが、広範な層で「葬式仏教」が既存の仏教教団離れを招いているのは否定できないのである。だがそうははいっても、既存仏教教団から葬式が分離されたら、教団は経済基盤を失うことになるので存続が困難になるだろう。これが日本仏教を支える経済構造であるピラミッド型の「檀家制度」が、あまりにも強固に確立されたがゆえに動脈硬化を招いている実態である。
きょうのセミナーで何よりも失望したのは、「3-11」の影響が、ただイベントとしての「法然上人800年大遠忌」が延期されたことについてのみ言及されたことだ。
「3-11」がみずからの立ち位置にいかなる影響があったかの言及がまったくないのだ。わずかな時間のあいだに 2万人以上の人が死んでいるのに、しかも放射能被害がかなり長期にわたって続いており間違いなく被害が顕在化することが明かだというのに、たとえ重要なものだとはいえイベントの延期しかアタマにないのだろかという気がしてしまった。イベントの実務担当者の発言としては許容されても、仏教教団の発言としては、どうも腑に落ちないものを感じる。
人が死ぬということを、ただたんに仏教のものの見方である「無常」(=常ならず)という「変化の相」として確認しただけなのか?
世の中はすでに「末法の世」となっているのに、時代認識があまりにもギャップがありすぎる。安定していたヘレニズム期の世界が崩壊し、心の平安(アタラクシア)を求めた人たちがキリスト教に救いを求める方向にいった古代地中海世界を思い出してしまう。
「3-11」以後もある時期までは「1995年のオウム事件」の頃の終末意識とは違うのではないかと思っていたわたしも、あのときよりもさらに状況はひどくなりつつあるのではないかという気持ちになりつつある。原発事故による放射能の影響が、当初思っていたよりもはるかに長期的で悪い影響を与えつつあることが明らかになってきたからだ。
こんな時にこそ、末法の世に生きた法然上人の精神と実践が、いまこそ思い出されるべきではないのか? ただ単に宗祖のコトバとしてではなく、「いま、ここに」生きる人間・法然上人のコトバとして。
「法然原理主義」でもでてこない限り、内部からのほんとうの再生はないのではないかとさえ思う。もちろんここでいう「原理主義」とは、21世紀の「いま、ここで」法然を生きるという意味だが、そんな動きがでてきたらつぶされてしまうのだろうか? すくなくともほんとうの意味での「原点回帰」が不可欠だろう。コトバだけではなく、態度で示さないと。
日本の仏教教団は、「1995年のオウム事件」の総括もいまだにすることもなく、あれ以来から 16年の月日を浪費したままだ。オウム教団も途中から犯罪組織と変貌していったが、そもそも既存の仏教教団に対するアンチテーゼや異議申し立てとしての意味合いがあったことまで否定すべきではないだろう。。
日本の仏教教団は、その他もろもろの日本の制度と同様に、制度疲労しているだけでなく、「思考停止状態」なのだろうか? 「物言えば唇寒し」ではないが、何が起きてもモノ言わぬ集団と化してしまったのか? もちろん、教団内部には問題意識の高い人たちもいることだろうが。
「いま、ここに」生きる現代人の心に響かない仏教とはいったい何なのだろうか?
チベット仏教のダライラマ14世や、スリランカ上座仏教のスマナサーラ長老の話が、心に響くものがあるのとはあまりにも対照的だ。すくなくともこの二人は、「仏教が科学的」であることを前提に、多くの分野の人たちと積極的な対話を行っているからだろう。狭い教団内でのみ生きている人たちではない。
浄土宗の周辺にはいても教団内部の人間ではないわたしにとっては、極端な話、どうでもいいといえばどうでもいい話なのだが...
<関連サイト>
宗次郎オフィシャルサイト
・・「オカリーナの森」についても書いてある
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