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2025年6月11日水曜日

書評『お布施のからくり ー 「お気持ち」とはいくらなのか』(清水俊史、幻冬舎新書、2025)ー「お布施」という慣行から見えてくる日本仏教の根本的問題

 
 


タイトルや帯のコピーには販促目的の文言が並んでいるが、内容はきわめてラジカルな日本仏教批判である。 

「額がいくらなら適当か」といった実用的なテーマではなく、「お布施」という慣行の分析をつうじて、日本仏教の問題点があぶりだされる内容になっている。 

著者は、浄土宗の僧籍をもつ気鋭の仏教学者。専門分野は「初期仏教経典」の研究で、専門書はすでに3冊出している。 専門書の出版妨害という、きわけて陰湿で執拗なアカハラの被害者として、仏教者にはあるまじき加害を行ってきた東大教授を実名告発したことで有名になった。 

「あとがき」でアカハラ被害について告発したのが、一般書として出版された前著『ブッダという男 ー 初期仏典を読みとく』(ちくま新書、2023)である。本書にもその後の推移について触れられている。 




だが、本書の主たるテーマはそこにない。「お気持ち」とされる「お布施」について、多面的に考察を行い、日本仏教が抱える問題点が明らかにすることである。 

著者は、「初期仏教」における基本的な意味を押さえたうえで、「お布施」する側と「お布施」される側の双方にかかわる関係性について考察し、日本仏教の主要な宗派ごとにロジカルに検証を行っている。 

問題は、「お布施」する側ではなく、「お布施される側」にあることは言うまでもない。後者の「お布施される側」がそれに値するか否か、という問題だ。 

そもそも日本仏教の僧侶は、「お布施される条件」である「戒」を受けていないのである。そして「戒」を破る行為を律するための「律」もない。 

天台宗の宗祖である最澄が「出家戒」を否定して以来、「菩薩戒」しかない日本仏教。しかも、妻帯がなしくずしに行われるようになった明治維新以降は、「菩薩戒」すら有名無実化している。 

つまり、仏教僧侶としての国際基準を充たしていないのである。袈裟を着たコスプレの在家信徒でしかない、という著者による手厳しい批判もそのとおりである。(・・ただし、教理によって「戒律」を否定する浄土真宗は例外である)。 

僧侶たる国際基準を充たしていない日本仏教の僧侶に「お布施」するより、ペットにエサをやることや、「推し活」でアイドルを支援するほうがましではないかという著者の発言は、極端に聞こえなくもかいが、筋論としては間違ってはいないと言えよう。 

核家族化によって家族葬や直葬が普及し、人口減少によって檀家に依存してきた寺院経営の経済的基盤が崩壊しつつある現在、日本仏教はまさに存亡の危機にある。 

形骸化した日本仏教は、チベット仏教や上座仏教のように仏教本来の姿を取り戻すか、あるいは限りなく在家仏教的性格をもつ浄土真宗の指向性に習うか、新興仏教教団のように在家主義を貫くか。それとも、呪術に徹する道を選ぶか。岐路に立っているのではないか? 

もちろん、「お布施」をする側だけでなく、「お布施される側」も真剣に考え、取り組んでいかねばならない課題であることは言うまでもあるまい。


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目 次
はじめに 
第1章 お布施の起源と役割 ー 初期仏典を中心に
第2章 少ないお布施で大きな功徳を得る方法 
第3章 在家化する日本仏教とお布施 
第4章 日本仏教におけるお布施と悟り 
終章 現代におけるお布施の意義を再定義する 
より深く検討するために 
参考文献
[資料]破戒者か受戒者かを見極める判定基準 
出家戒(具足戒)/菩薩戒(大乗戒) 
あとがき

著者プロフィール
清水俊史(しみず・としふみ
仏教学者。2013年、佛教大学文学部卒業後、2013年同大学大学院博士課程修了(博士(文学)。博士論文題目は『部派仏教における業の研究』。 その後、日本学術振興会特別研究員PD、佛教大学総合研究所特別研究員などをつとめる。 2018年、『阿毘達磨仏教における業論の研究: 説一切有部と上座部を中心に』により浄土宗学術賞受賞。ベストセラーとなった一般書『ブッダという男 ー 初期仏典を読み解く』(清水俊史、ちくま新書、2023)で出版妨害というアカハラの実態を実名告発。(Wikipediaの記述に加筆)



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2025年5月24日土曜日

いまこの時代に『歎異抄』を読むことの意味とは? ―『超訳シリーズ』の最新刊である『超訳 歎異抄』(安永雄彦、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2025)を読む

 

ビジネスマン出身の異色の僧侶・安永雄彦さまより『超訳 歎異抄』をいただいた。ディスカヴァー・トゥエンティワンの『超訳シリーズ』の最新刊。本日(5月23日)発売の新刊である。 

『歎異抄』と書いて「たんにしょう」と読む。日本最大の宗派である浄土真宗の宗祖で、中世日本に生きた親鸞聖人の言行を、その死後に直弟子の唯円(ゆいえん)が書き残したものだ。「異」説を「歎」くというのが、その本意である。 

「悪人正機」などパラドックスに充ち満ちた表現が多く、とかく誤解を生みやすいのが親鸞の教えだ。唯円は、その親鸞の言葉が語られた背景まで含めて後世に残そうとしたのである。 

そんな『歎異抄』は、名前は聞いたことはあっても、実際に読んだことのある人は、いったいどれくらいいるのだろうか?  現代語訳でわずか50ページほどの短い本だが、もし読んだとしても理解できない、納得がいかないと思った人も少なくないかもしれない。 

わたし自身は、20歳台の終わりに哲学者で日本学の梅原猛の訳で読んで以来、35年ぶりに『歎異抄』をとおしで読んでみた。そんな機会をあたえていただいた安永さまには、この場を借りてその仏縁に感謝したい。 


(留学のため渡米する前の1990年に読んだ梅原猛の2冊)


『歎異抄』の現代語訳や解説本は、それこそ山のように出版されつづけている。ビジネスパーソンを主要な読者層に設定した安永版は、その最新版となる。 

さっそく、「はじめに」に目をとおしたあと、項目別に整理された『歎異抄』の文章を読んでみる。これ以上ないと思われるほど、平易な現代語に訳されている。 

だが、平易な文章だからこそ、いまなお納得できない内容や、違和感を感じるものがあることは否定できない。先にも書いたように、親鸞の教えがパラドックスに充ち満ちたものであり、基本的に信心について説いた内容だからだ。 

親鸞には「絶対他力」という教えもある。だが、信仰の場面はさておき、はたして日常生活のなかで「絶対他力」は成り立つのかどうか? 「自力」で努力することに意味はないのか?  そんな問いがわき上がってくるのは当然だろう。

わたし自身もそうであったが、とかく若いときには自信過剰気味になりがちであり、なんでも「自力」で成し遂げることができると思いがちだ。 

ところが、「自力」だけでは物事が動かないことを知る瞬間が、かならずやってくる。しかも、「自力」に頼らないほうが、かえって物事がスムーズに進行することがある。そんなことを、悟る機会もあるだろう。ミドルエイジ以降の人なら人なら、誰でもそんな経験があるのではないか。 

ビジネスパーソンであれば、いやそうではなくても、そんな気づきを得ることができれば、『歎異抄』に触れることの意味があるというべきだろう。いま読んでも理解できないフレーズ、納得のいかないフレーズが、「ああ、そういうことなのか」とストンと理解できる瞬間が訪れることがあるはずだ。 

基本的に親鸞の教えは浄土真宗の教えであり、阿弥陀仏への絶対的な帰依と、「南無阿弥陀仏」という念仏が強調される。仏教でありながら、限りなくキリスト教に近い印象さえ受けるかもしれない。 

だが、浄土真宗の門徒ではなくても(・・かくいうわたしの場合も、母方の祖母は熱心な門徒であったが、わたし自身は宗門の人ではない)、また仏教徒ではなくても、あるいは宗教には距離を置いている人であっても、親鸞の教えに触れることの意味は大きなものがあるはずだ。 

ぜひこの機会に、安永版『超訳 歎異抄』を手にとって、読んでみてほしいと思う。読んでみて、すんなりと理解できなくてもいいのである。親鸞の教えに対しては、異論や違和感があって当然なのだ。 

いろいろな読み方があると思うが、まずは後半に収録されている「超訳歎異抄 全文」を通しで読んでみてから、前半の104条に整理された項目ごとに読んでみるといいのではないか。

というのは、項目別の文章だけつまみ食いして読むと、誤読しかねないものが多々あるからだ。そもそも現著者の唯円が「異」説を「歎」いていたように、『歎異抄』という本は誤読を生みやすい本なのだ。

AI(=人工知能)がもてはやされ、とかく「知能」や「知性」ばかりが重視される現代社会である。いや、であるからこそ、知性の限界を超えた存在に、自分自身を開いていく必要があるのではないか。 

ビジネスパーソンであろうとなかろうと、いまこんな時代に生きる人が『歎異抄』を読むことの意味は、そんなところにあるのではないか。わたしはそう考えている。 


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2025年2月17日月曜日

鈴木大拙はエマソンの愛読者であった ― 日本の仏教者たちは霊性(スピリチュアリティ)の立場に立つエマソンの『自己信頼』にインスパイアされてきた

(若き日に米国で暮らしていた大拙はエマソンの墓の前で座禅している) 


鈴木大拙というと「禅の大家」というイメージが流布している。これが一般人の認識であろう。

さらに、世界に禅仏教を広めた功績を知っている人も少なくないかもしれない。英語圏を中心に D.T. Suzuki 名義で出版された本は、現在なお新刊書として簡単に入手可能だ。

D.T. Suzuki の D が大拙であることは容易に推測できるだろう。では英語風のミドルネームの T はなにか? それは、本名の貞太郎(ていたろう)の略であり、言うまでもなくクリスチャンネームではない。現在でも華人が英語圏で「イングリッシュ・ネーム」をつかいたがるのと同様だ。

そんな大拙は、若き日にエマソンの「論文集」(エッセイズ)を読んで感激したと回想している。かの有名な『自己信頼』は「エッセイズ」に収録されている。

大拙自身の文章を引用しておこう。出典は「明治の精神と自由」(1947年)。『新編 東洋的な見方』(上田閑照編、岩波文庫、1997)に収録されている(読みやすくするために漢字は適宜かなに直し行替えを行った。本文にない注釈は(=●●)として示してある)


語学の勉強からどんな新鮮なものを取り得たかといま考えて見ると、「自由」ということであったらしい。(・・中略・・)
そのようなところから、セルフ・ヘルプの精神が強く、自由へのあこがれが深くなって行ったのは自然であろう。(・・中略・・)
その後、エマスンの論文集を何かの機会で読んだ。これがまた自分をして新たな思想に赴かしめた。そのなかに次のような言葉があったように今うろ覚えに覚えている。
「自分の心に動くことを表現するに躊躇するな。大人物だといわれている人でも、自分の心の中に在るもの以上に、何ものをも持っているのではない。今ここに一条の光明が射し込んで来て、自分の頭の上に落ちたとせよ。いかに微ほのかでも、この光の証人は自分だけのほかに誰もないのだ。これを天下に宣言するに誰を憚ることもいらぬ」と、このようなことがあったように覚えている。
自分はこれを読んだ時、深く感動した。これがセルフ・レライアンス(=自己信頼)だ、これが本当の自由だ、これが本当の独立不羈なるものだ。小さいといって自ら卑しめるに及ばぬ。小さいは小さいながらに、その持っているすべてを表現すればよいのだ、これがシンセリティ(=誠実)だと、こういう風に自分は感激したのだ。(・・中略・・)
エマスンの時代は、米国でも思想転換をやる時代であった。四囲の事情はもとより日本とは違っていた。が、新しいものをあこがれる気風は米国にもあった。ヨーロッパを通って入ってきた東洋思想すなわちインド思想は、ニュー・イングランドの思想家を動かした。そのスポークスマンになった一人はエマスンであった。日本の青年が彼を読んで、なんとなく共鳴せざるをえないのは、そのなかに東洋的なものがあるからではなかろうか。すなわち東洋的なものが、米国のはつらつとして若々しい人々の頭を濾過して来ると、その表現形式がまた清新の気がしてくるのである。(・・後略・・)


若き日に米国で暮らしていた大拙は、1900年頃のものだが、東海岸のコンコードにあるエマソンの墓の前で座禅している(上掲の写真)。この写真は『思い出の小箱からー鈴木大拙のこと』(岡村美穂子/上田閑照、燈影社、1997)に口絵として挿入されている。

大拙は、英文著書でもエマソンやその弟子のソローを引き合いに出して論じている。アメリカと東洋思想の接点がエマソンいあるからだ。

禅仏教の大家である大拙にとって、エマソンの『自己信頼』が根底にあって支えつづけたことが見て取れる。「自力」イメージの強い禅仏教だからだろう、そんな感想をもつかもしれない。

というのも、禅仏教とは異なるが、おなじく大乗仏教で絶対肯定を説く『法華経』の信者にも、エマソンは大きな影響をあたえているからだ。

たとえば、創価学会を大規模組織に育て上げた池田大作は、『新編 若き日の読書』(第三文明社、2023)に収録された「民衆に愛された哲人 『エマソン論文集』」で、戦後になってからであるが、エマソンの『自己信頼』が支えになったことを回想的に記している。池田氏は、「エマソンは、しっかり読みなさい」と恩師の戸田城聖から勧められたと書いている。



「民衆に愛された哲人 『エマソン論文集』」の小見出しを抜き出してみよう。池田氏がエマソンになにを感じていたかがわかることだろう。


「変動する時代」の空気を吸って
「実践とはただの形式ではない」
ハーバード大学での講演の波紋
人間主義を宣した「自己信頼」の哲学


この文章の末尾は、「民衆に生きる人は強い。民衆に愛される人は永遠である。ダイヤモンドのごときエマソンの生涯は、私たちに限りない勇気をあたえてくれる」と結んでいる。

このように見ていくと、戦前の明治時代前半の鈴木大拙や、戦後になってからの池田大作がそうであったように、「自力」の禅仏教や、「絶対肯定」を説く『法華経』信者が、「自己信頼」(セルフ・リライアンス)を説くエマソンと親和性が高いことがわかることだろう。



■鈴木大拙は浄土真宗への目線も有していた

ところが、鈴木大拙は禅仏教に限らず、浄土真宗への目線も有していた世界的仏教学者というのが真相に近い。この事実を押さえておくと、「他力」を説く浄土真宗であっても、エマソンの世界はけっして無縁ではないと言えるのではないだろうか。

大拙は、米国で11年間過ごしたのち、日本に帰国後は学習院で英語を教えていたが、その後に大谷大学に招聘され教鞭をとっていた。

大谷大学は、浄土真宗の東本願寺系統の教育機関である。大拙は、その環境で浄土真宗にも親しく接していたわけだ。戦後になってから、90歳になってからの最晩年の大仕事として、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人による『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)の英語訳を完成している。

もともと、大拙の母親が浄土真宗の「秘事法門」の信者で、大拙自身も少年時代にそれに触れさせられていたことも、無意識レベルで影響をあたえているのかもしれない。




大拙の主著でもっとも知られており、実際に読まれているのは『日本的霊性』であろう。鎌倉時代に生まれた新仏教こそ、日本的霊性(Japanese spirituality)を生み出したのでありう、その重要な要素が禅仏教と浄土真宗である、というのがその骨子である。


(大拙の英文著書から。禅画の仙厓と浄土真宗の光明思想)


大拙は、浄土真宗を教義の側面ではなく、南無阿弥陀仏の名号を唱えることで浄土真宗を生きた妙好人(みょうこうにん)を取り上げて論じている。これは、学習院時代の生徒であった民藝運動の柳宗悦と共通する。柳宗悦には『南無阿弥陀仏』という著書もある。前近代の工芸職人に浄土真宗の信者が多いことに注意を向けている。

「自力」と「他力」と対比されがちな禅と浄土教だが、大乗仏教であることは共通している。自力と他力が融合してこそ、日本的霊性は完成するのであり、大乗仏教も完成すると考えるべきなのであろう。

禅仏教における座禅という自発的に行う瞑想も、大いなる存在の覚醒を求めるものであり、浄土教における念仏という行為もまた、生活習慣化されるまでは自発性をともなうものだ。


■宗教から霊性(スピリチュアリティ)の時代こそエマソンが読まれるべき

キリスト教の牧師から講演家へと転身したのがエマソンである。形式主義に堕した宗教ではなく、霊性(スピリチュアリティ)の観点から、イエスを親しい存在と感じていたエマソンである。

そんなエマソンが、明治時代前半において中村敬宇や内村鑑三といったキリスト者、トルストイと同様洗礼を受けたものの決別した徳富蘇峰・徳冨蘆花の兄弟だけでなく、禅仏教の鈴木大拙、そして戦後には池田大作など、キリスト教以外の仏教者にも影響をあたえていることは、けっして不思議ではないのである。

米国の思想史家ヴァン・ミーター エイムズ(Van Meter Ames)は、『禅とアメリカ思想』(中田祐二訳、欧史社、1995)という著書で、エマソンを「アメリカの菩薩」としていることも紹介しておこう。

エマソンと仏教、このテーマはさらに深掘りして考えるべきである。



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・・ジャーナリストの杉村楚人冠の旧宅である記念館の書庫にあった旧蔵書に鈴木大拙の著作が英文のものも含めて多数架蔵されている。我孫子と柳宗悦、学習院で生徒だった柳宗悦と英語教師の鈴木大拙との師弟関係。鈴木大拙は学習院で英語教師として柳宗悦の先生であったことを想起すべきだろう。白樺派の面々はみな学習院出身者であった。さまざまな縁で、つながれた人たちが集まっていたわけだ。 


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2017年11月11日土曜日

マンガ『月をさすゆび ①~④』(永福一成=原作、能條純一=作画、小学館、2015~2016)― この「仏教マンガ」は人生の岐路にある人すべての心の奥底に触れるものがある



『月をさす指』(原作:永福一成、作画:能條純一、小学館ビッグコミックス、2015~2016)というマンガがある。『ビッグコミックス』に連載され、全4巻で完結した作品だ。

内容は、第1巻の帯に書いてあるように、「仏教の学校で紡がれる青春譜」。主人公はフリーの男性カメラマン38歳独身。親族の実家のお寺を継ぐために仏教僧侶の資格を取得することを求められ、そのための専門学校に入ることになる。

カバーに描かれた画像からわかるように、東京の築地本願寺付属の仏教学校を舞台にした青春マンガだ。築地本願寺なので、浄土真宗ということだろう。しかも西本願寺系列の本願寺派ということになる。

つい最近までこのマンガのこと知らなかったが、amazonで書籍検索しているうちに、たまたま知った。さっそく第1巻を取り寄せて読んでみたところ、面白いので一気に読んでしまった




仏教に目覚める。それがみずからの内から発する内面の声に従った「内発的動機」か、あるいは「外発的な動機」かは、とくに問う必要はなかろう

主人公のカメラマンは外発的動機から仏教に触れることになったが、学友たちはお寺の息子や娘、あるいは定年退職後の第二の人生を住職に設定している元ビジネスマンなど、多岐にわたる。なかには仏教オタクともいうべき論争好きの若者も。かれらをひとまとめにしているのは、まさに「仏縁」というべきであろう。

1年間の仏教専門学校の生活をつうじて、主人公や学友たちは、それぞれ仏教への関わりを深めていく。そして、最後には京都の西本願寺で「得度」し、僧侶としての資格を取得、卒業後はそれぞれの道(=人生)を歩んでいくことになる。成長物語でもあり、恋愛ものでもある。


■「月をさす指」とは?

タイトルの「月にさす指」とは、いわゆる「指月の譬(たとえ)」のことだ。


(仙厓 「指月布袋画賛」)


これは、仙厓(せんがい)の「指月布袋画賛」。禅仏教の「公案」である。出光佐三翁がこよなく愛して収集した仙厓の代表的作品。

「指月の譬」とは、指がさしている先にある本質と、指そのものを混同するな、という教えのこと。

ブルース・リーのセリフとして有名な Don’t think. feel! の次にでてくる It’s like a finger pointing away to the moon. Don’t concentrate on the finger, or you will miss all the heavenly glory. は、まさに「指月の譬」のことなのである。




『燃えよドラゴン』(Enter the Dragon)にこのシーンが登場する。 





浄土真宗という制約条件はあるが・・・

仏教といっても、あまりにも広範囲で多岐にわたるものであり、キリスト教やイスラームのような単一の簡潔な経典があるわけではない。

このマンガの仏教とは、浄土真宗のことだ。浄土真宗は、信者の人口規模で見れば、日本で最大の仏教教派である。「仏教」といっても「大乗仏教」、しかも「日本仏教」で「近代仏教」、そのなかでも「近代化」をリードした日本最大の教派である「浄土真宗」だということを念頭において読むべきだろう。

つい昨日、第3巻と第4巻を一気読みしたが、人生の岐路に立っている主人公たちに感情移入している自分を見いだしていた。読み終えた夜、夢のなかにその続きともいうべきシーンがでてきたくらいだ。自分でも不思議な思いをしている。このマンガは、人生の岐路にある人の心の奥底に触れることは間違いない。

仏教ものであり、人生もののマンガである。「仏教青春もの」である。

たいへん地味なテーマだが、いまこの国の仏教が置かれている状況を踏まえた内容の濃いマンガとして、年齢性別にかかわらず、関心のある人にはぜひ読んでほしいと思う。


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BS ブルース・リーによる「月をさすゆび」の画像(スクリーンショット)を1枚挿入しておいた(2021年9月23日)




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