■ギリシアとギリシア人、そして現代ギリシア史とは?
本書は、ギリシアとギリシア人が、いかにしてつくられてきたのか、近現代におけるその苦闘の歴史を、ギリシア人によりそいながら内在的に描こうとした「物語」=「歴史」である。
『物語 ギリシア史』ではない、『物語 近現代ギリシア史』である。このタイトルに意味があることは、本書を通読すればよく理解できることだろう。
そもそもギリシア人とは何なのか?
現代ギリシアは古代ギリシアとはいかなるつながりをもつのか?
古代と現代のあいだには、ギリシア人はいかなる状態にあったのか。
こういった問いに対しての答えが、オスマン帝国から1830年に独立して以後の近現代ギリシア近現代史であったともいえるだろう(序章、第1章、第2章)。
ギリシアをギリシアたらしめているのは、ギリシア語と東方正教会のキリスト教、そして古代遺跡である。
また、近代ギリシア語の問題は、まさに社会言語学の恰好のテーマであろう。新約聖書がそれによって書かれたコイネーというギリシア語の流れを汲むのが、現代のギリシア語の諸方言。新訳聖書の現代語訳がもたらした政治的問題というのは興味深い(第3章)。
こういうアイデンティティにかかわる根本的な問題は、当のギリシア人たち自身も長年にわたって論争をつづけ、ときには政治問題にもなりながら、解決を目指して取り組み続けてきたものなのである。
■ギリシアはヨーロッパか?-ヨーロッパ人のもつバイアス
ギリシア近現代史について日本語で読める本には、ケンブリッジ・コンサイス・ヒストリー・シリースの一冊として、『ギリシャ近現代史』(リチャード・クロッグ、高久 暁訳、新評論、1999)がある。
英国人歴史家が書いたこの本は、収録された写真や地図も多く、読んで益するものが大きい。この本は、現在、『ギリシャの歴史 (ケンブリッジ版世界各国史) 』と改題されて、創土社 から 2004年に復刊されている。日本版のタイトルを変更したのは、「近現代史」では売れないと出版社が判断したためだろうか。
しかし、基本姿勢が「オスマン=トルコ帝国の支配を脱して、ついに「ヨーロッパ共通の家」に回帰」というものであるのは、ヨーロッパ人特有のバイアスがかかっていると言わねばならないのではないか?
やはり、日本人読者には、日本人が日本語で書いた歴史書がいい。
その意味でも、日本人が日本語読者のために書いた『物語 近現代ギリシャの歴史』は、日本人の認識をあらためるために書かれた一冊だ。さまざまな局面から、きわめて自尊心のつよい近現代のギリシア人の苦難の歴史を描いた本書は、読み応えのある一冊であった。
財政破綻問題で「ユーロ危機」のなか、急速にクローズアップされたギリシアだが、TVやその他マスコミ報道で流される映像情報以外には、観光立国であるという事実しか知られていないのが、日本人の常識かもしれない。
その意味でも、ギリシアの現在を知るためには、ギリシア人の近現代史を知る意味が大いにあるといえる。広いパースペクティブから描いた本書は、歴史書のあるべき好例としてすすめたい
ちなみに、「物語」も「歴史」もギリシア語ではともにヒストリア。日本語と英語以外では、この両者は区別しないのが常識である。
目 次
はじめに
序章 古代ギリシャの影
第1章 独立戦争と列強の政治力学(1821~1832)
第2章 コンスタンティノープル獲得の夢(1834~1923)
第3章 国家を引き裂く言語
第4章 闘う政治家ヴェニゼロスの時代(1910~1935)
第5章 「兄弟殺し」―第二次世界大戦とその後(1940~1974)
第6章 国境の外のギリシャ人
終章 現代のギリシャ
おわりに
ギリシャ史年表
主要参考文献
著者プロフィール
村田奈々子(むらた・ななこ)
1968(昭和43)年、青森県生まれ。東京大学文学部西洋史学科卒業。同大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。ニューヨーク大学大学院歴史学科博士課程修了。PhD. 現在、法政大学非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
<書評への付記>
■「半島国家」としてのギリシア
1830年の「ギリシア独立」後ですらも、国民国家(ネーション・ステート)の国民としての「ギリシア人という意識」が形成されるまでに時間がかかったのである。これは、本書では詳述されている。
そもそも古代においてもギリシアは概念として存在しても、個々の共同体はあくまでもアテネやスパルタという都市国家の集合体に過ぎなかったギリシアである。
もちろん、ナショナリズムの時代には、1868年に明治維新を断行した日本もまた、「日本人という意識」を形成するのに時間がかかったが、せいぜい20~30年であり、ギリシア人ほど時間がはかからなかった。それはなぜだろうか?
ギリシアというと、多島海という異名をもつエーゲ海の島国というイメージをもちやすいが、ギリシア本土はバルカン半島の先端に位置している。これは「島国である日本」と、「半島国家であるギリシア」との地政学条件の違いも反映しているといっていいのであろう。
というのも、バルカン半島の先端に位置し、ヨーロッパ大陸とアジア大陸の接点に位置するという地政学上の重要性が、この小国の運命をつねに翻弄してきたのである。
独立以降、間断なくつづく国家的危機。「メガリ・イデア」(=大理想)という対外膨張主義と、「見果てぬ夢」に終わったその挫折。そしてさらなる苦難は、第2次大戦におけるナチスドイツによる占領と共産主義の伸張、内戦、兄弟殺し、そして軍事独裁と、まさに、ねじれにねじれた歴史をもつのが近現代ギリシアなのである。そしていま、財政破綻による「破綻国家」という苦難のページが、開かれつつあるのが現在である。
「半島」に生きるということは、東アジアにおいてもそうであるが、島国とはまったく異なる「人間の条件」を強いられるのである。近現代ギリシア史をみていると、東アジアの半島国家のことを考えてしまうのである。
独立以後のギリシア史は、つねにデモと暴動のつきることのない、いつ分裂してもおかしくない内紛状態を続けてきた歴史である。デモや暴動も、けっしてここ最近、急に現れてきた現象ではないことが、本書を読むとよく理解することができるのである。
■東地中海世界(レバント)におけるギリシア
地中海世界において、古代文明の一翼をになった栄光ある民族が、近現代史において苦闘しているのは、ギリシア民族も、ユダヤ民族のイスラエルも同じだ。いずれも地政学的にみた要衝に位置するため、嘗めてきた苦労はただものではない。
いずれも自己主張のきわめて強い人間のあつまりである。よほどのことでもない限り、一致団結して事にのぞむということにはなりにくい。
また、クレタ島はギリシアではあるが、かなりの長期にわたって外国の支配下にあった島であり、北はギリシアを向いているが、南はエジプトを向いている。
独立を勝ち取ったトルコとの一対一の関係だけでなく、おなじくオスマントルコ帝国解体から生まれてきた、アラブ諸国との関係であった。
また、ヨーロッパとの関係だけでなく、中近東の一国としてのギリシアという視点がほしかったところだ。いわゆる「レバント」という東地中海世界を地域として捉える発想である。
ギリシア料理やギリシア民謡を知れば、それがヨーロッパ的であるというよりも、明らかに地中海的であり、中東風であることに気がつくはずだ。ギリシア・コーヒーとはトルコ・コーヒーとじつは同じであり、いくら否定しようが現代ギリシアがトルコ化されたギリシアであることは否定できないのである。
ギリシアは、ヨーロッパ人の意識の底にある「ヨーロッパ文明の源」というイメージを大いに利用してきたといえる。しかし、実際のギリシアは、明らかにトルコの影響を多大に受けた、中近東の一国である。
■ギリシア外の地のギリシア人
現代日本人にとっての現代ギリシアといえば、冒頭にも記した財政破綻に苦しむギリシアを除けば、映画俳優や歌手といった個々のギリシア人の存在だろう。
マリア・カラス、メリナ・メルクーリ、ジョージ・チャキリス、ジョルジュ・ムスタキ、ナナ・ムスクーリ・・・・。ここにあげた名前の多くが、ギリシア本土以外のギリシア人だ。
わたしもギリシア本土以外でのシカゴやニューヨーク、そしてメルボルンで出会ったギリシア人のほうが多い。
第6章では「国境の外のギリシア人」を扱っており、とくに黒海沿岸地方に居住していたポンドス人の記述が興味深く思われた。なぜ、ソ連やロシアで活躍するギリシア系ロシア人が多いのか、これで理解できたからだ。
<関連サイト>
ギリシャ現地レポート:「破綻国家」を救うのは「EU」か「中国」か (フォーサイト、2015年1月30日)
ギリシア-ヨーロッパの内なる中東 (中東-危機の震源を読む(88) )(池内恵、フォーサイト、2015年7月8日)
・・「ギリシア問題は、歴史的に遡ってみれば、「中東問題」の一部とも言えるのではないのか」という視点からの論考。「政治経済的な苦境に直面した時に、極右ではなく極左のポピュリズムが台頭する様は、やはり西欧先進国よりもアラブ諸国に近い。 チプラスを「かなり遅れてきたナセル」と形容すれば、さすがに類推の度が過ぎるだろうか。」という一節は興味深い
(2015年1月30日 項目新設)
(2015年7月10日 情報追加)
<ブログ内関連記事>
■ギリシア財政破綻危機
書評 『ギリシャ危機の真実-ルポ「破綻」国家を行く-』(藤原章生、毎日新聞社、2010)
書評 『ユーロが危ない』(日本経済新聞社=編、日経ビジネス人文庫、2010)
書評 『ユーロ破綻-そしてドイツだけが残った-』(竹森俊平、日経プレミアシリーズ、2012)-ユーロ存続か崩壊か? すべてはドイツにかかっている
書評 『ブーメラン-欧州から恐慌が返ってくる-』(マイケル・ルイス、東江一紀訳、文藝春秋社、2012)-欧州「メルトダウン・ツアー」で知る「欧州比較国民性論」とその教訓
・・「ギリシアの女子禁制のアトス山にあるヴァトペディ修道院。ここがまさかギリシアの腐敗の中心にあったとは(!?)と思いながらページをめくっていくと、ギリシア財政問題の構造が手にとるように理解できる仕組みになっている。これ自体が読み物としてバツグンに面白い。・・(中略)・・ギリシアについては、それだけではなく、ユーロ導入に際して行った統計操作や、ギリシアは「相互不信社会」の最たるものであることが、経済に重点を置いた記述から読み取ることができる」
■多島海というエーゲ海と多様なギリシア
エル・グレコ展(東京都美術館)にいってきた(2013年2月26日)-これほどの規模の回顧展は日本ではしばらく開催されることはないだろう
・・当時ヴェネツィア共和国領であったクレタ島生まれのエル・グレコ
書評 『そのとき、本が生まれた』(アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ、清水由貴子訳、柏書房、2013)-出版ビジネスを軸にしたヴェネツィア共和国の歴史
■社会言語学と歴史学
書評 『ノモンハン戦争-モンゴルと満洲国-』(田中克彦、岩波新書、2009)
■新約聖書とギリシア語
書評 『聖書を語る-宗教は震災後の日本を救えるか-』(中村うさぎ/ 佐藤優、文藝春秋、2011)-キリスト教の立場からみたポスト「3-11」論
(2015年6月29日、7月7日 情報追加)
P.S. この記事で今年(2012年)の99本目、今月(6月)の9本目、999のぞろ目となった。通算934本目。1,000本まであと66本か。これは99の逆ぞろ目になるな。
(2022年12月23日発売の拙著です)
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(2021年10月22日発売の拙著です)
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(2019年4月27日発売の拙著です)
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(2019年4月27日発売の拙著です)
(2017年5月18日発売の拙著です)
(2012年7月3日発売の拙著です)
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