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2013年12月22日日曜日

書評『ミッション・スクール ー あこがれの園』(佐藤八寿子、中公新書、2006)ー キリスト教的なるものに憧れる日本人の心性とミッションスクールのイメージ


「ミッションスクール」は日本においては独特のイメージをもち、独自のポジションを確保して今日に至っている。

ミッションンスクールのイメージは、キリスト教人口がたかだか1%程度しかない現在においても一般的には高い。それはなぜか? この問いを教育社会学の観点から分析したのが本書である。ミッションスクールの中身よりも、それをメディアをとおして人々がそう見ているかというパーセプションの分析に限定されている。

ここでいう「ミッション」とはキリスト教伝道の意味であるが、キリスト教にもとづく人間教育を建学の理念においている学校は、日本では一般に「ミッションスクール」と総称されている。外国の宣教団の経営であるかは関係ない。本書の記述も基本的にこの考えにしたがっている。

わたしの個人的な偏見かもしれないが、ミッションスクールというと、どうしてもカトリック系の女子の中高一貫校というイメージがすぐに連想される。良家の子女という表現があるが、どうも「いいとこのお嬢様」イメージと結び付いているようなのだ。これはプロテスタント系のミッションスクールも同様だ。

もちろんカトリックの中高一貫の男子校は受験界においては厳然たる存在感を示しているし、プロテスタント系のミッションスクールも多い。大学の段階では男女共学が当たり前であるのだが。

本書でも触れられているように、「ミッションスクール=いいとこのお嬢様」イメージというのは、皇后陛下の美智子妃も皇太子妃の雅子妃も、ともにカトリック系の雙葉学園(ふたば・がくえん)の出身であることがあるのだろう。究極のセレブである皇室イメージとの相乗効果である。

明治時代にキリスト教が「解禁」され国家としての教育制度が未確立の時代に誕生した多くのミッションスクールだが、そのイメージが最初から一貫していたわけではないことが本書を読むとよくわかる。

「近代化=西洋化」であった明治日本において、キリスト教の学校は西洋への窓口というポジティブなイメージと同時に、忌避すべき存在であるというネガティブなイメージのあいだを揺れ動いてきた。もっぱらポジティブなイメージが定着したのは戦後大衆社会になってからだろう。

ミッションスクールが今後も「グローバル時代」(・・国際化時代という表現でもよい)に憧れとしてのポジティブイメージをもき続けるとすれば、英語を中心とした語学と(アメリカ的な)リベラルアーツがカギあであると本書から読み取れるかもしれない。キリスト教布教というミッション(=使命)にかんしてはほぼ完全に失敗しているのだが・・・。

「ミッションスクール」というタイトルをもつ本書は、女子教育に果たしてきたミッションスクールの意義や、カネを払って子女を入学させる親の立場の分析はほとんどないのが残念だ。前者については『モダンガール論』(斎藤美奈子、文春文庫、2003 単行本初版 2000)を読むことをすすめたい。

さらにいえば、ミッションを遂行する側の教団の意図や戦略についても考察がまったくないのは不満が残る。著者の関心がそこにはないためであろうが、ミッションスクールの側ではキリスト教布教というミッション(=使命)をどうとらえているのか、そのギャップを知りたいのであるが・・・・。

本書は、「キリスト教なるもの」が日本ではどう受容されてきたかというケーススタディの一つとして読むべきかもしれない。 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005) とあわせて読むべきだろう。





目 次
はじめに
序章 ミッション・スクールとは何か
第1章 忌避と羨望のアンビヴァレンス-明治
 1. 「あぶない」ミッションスクール
 2. 「あこがれ」のミッションスクール
第2章 ミッション・ガール-明治から大正へ
 1. 小説の中のミッション・ガール
 2. ヒロインたち
第3章 ファム・ファタル登場-大正から昭和へ
 1. 男たちの宿命
 2. 「リベラル」と「突貫」
 3. その後のミッション・ガール
第4章 大衆の欲望回路の中で-昭和から平成へ
 1. 昭和のミッション・ガール
 2. 物語の終焉
 3. 消費されるミッション・イメージ
おわりに-これからのミッション・スクール
あとがき
参考文献


著者プロフィール
佐藤八寿子(さとう・やすこ)1959(昭和34)年、東京に生まれる。1982年、上智大学文学部卒。2002年、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程学修認定退学。現在、神戸ファッション造形大学専任講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<補論> 著者が使用する「リスペクタビリティ」(モッセ)という概念でキリスト教受容を考える

本書の「第1章 忌避と羨望のアンビヴァレンス-明治」では、近代を貫いた原理である「リスペクタビリティ」(モッセ)と、それが学校教育において身につけた「ハビトゥス」と意識しなくても自然な形で振るまいとしてあらわれる「プラティーク」(ブルデュー)という社会学の概念でミッションスクール教育がもった意味が分析されている。

ブルデューについては教育社会学者の竹内洋氏が多用しているのでここでは省略する。ミッションスクールで教育を受けた者ならではの思考様式や行動様式が「ハビトゥス」であり「プラティーク」でる。「ハビトゥス」はラテン語で英語なら「ハビット」(habit)、「プラティーク」(pratique)は英語ならプラクティス(practice)である。

「リスペクタビリティ」(respectability)とは、著者が翻訳しているドイツ生まれの社会学者モッセの概念で、語義的にはリスペクトされるに値するという形容詞 respectable の名詞形

リスペクトされるに値する内容とは、慎み深く尊敬に値する振る舞いをすること。一言でいえば礼儀作法とマナーにのっとり、下品な振る舞いをしないことである。ヴィクトリア朝の英国の市民階級(=ブルジョワ階級)が体現した価値観のことだ。生まれながらの貴族ではないが、教育と訓練にによって身につけることができるもの。これによって自分より下の階級との絶対的な差別化を図ることができる。英語の decency である。 

これがアメリカの市民社会においても拡がり、プロテスタンティズムのキリスト教とともに日本にも入ってきたわけである。

キリスト教に根ざした「教育」とは「宣教」であり、上からの「啓蒙」であったわけだ。貫いているものは「教え」である。上から目線の「教え」である。もっときついコトバをつかえば「教化」ということになるだろう。先進文明であるキリスト教を「教化」するという姿勢。

明治日本で「リスペクタビリティ」を見につけたのは上層から。まさに上からの近代化であり、上からの西洋化である。だが維新の「勝ち組」となった上層階級はキリスト教の意味は理解しても受け入れはしなかった。

じっさいにキリスト教を受け入れたのは維新の「負け組」となった旧武士階級が多かったことは、社会的上昇手段として「下から目線」でキリスト教をみていたことがうかがわれる。ヴィクトリア朝英国の市民階級とは異なるが、ポジション的には近いものがあったのかもしれない。



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・・日本人は骨の髄まで、いや唱歌=讃美歌の旋律をつうじて、脳髄の隅々まで洗脳されてしまっているのである。これは不可逆な流れであり、もはや手遅れ(?)というべきか

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・・キリスト教的なるものという西洋への憧れは依然として日本女性のなかにポジティブなイメージとして健在

クレド(Credo)とは
・・企業組織における「信条」とキリスト教信仰の核にあるもの

書評 『新島襄-良心之全身ニ充満シタル丈夫-(ミネルヴァ日本評伝選)』(太田雄三、ミネルヴァ書房、2005) -「教育事業家」としての新島襄
・・最初はアメリカンボードのミッションスクールとして立ち上げた同志社

書評 『山本覚馬伝』(青山霞村、住谷悦治=校閲、田村敬男=編集、宮帯出版社、2013)-この人がいなければ維新後の「京都復興」はなかったであろう
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