この本は2007年に出版されてすぐに購入したが、それはタイトルに表現されたテーマがあまりにも好奇心を刺激するものだからだ。著者のデビュー作である『新宗教と巨大建築』(講談社現代新書、2001)を読んでひじょうに感心していたこともある。通読したのは今回がはじめてである。
2007年の出版時にすぐに本書を購入したのは、当時の部下である若い人たちの結婚式に呼ばれてさまざまな形態の結婚式に参列者として経験するなかで、「結婚式教会」での結婚式にひじょうに違和感(!)を感じたからでもある。
ホテルの結婚式場に併設されたチャペルではなく、結婚式(・・というよりもウェディングとカタカナで書くべきだろう)だけを目的に建設された商業建築物である「結婚式教会」。ゴチック様式の建築物が都市部に出現してからすでにだいぶたつ。
結婚式教会で挙げられるウェディングはキリスト教の儀式で行われるが、それがじっさいにキリスト教にのっとったものかどうかは信者でなければわからないし、式をつかさどるのがニワカ牧師あるいはニセ牧師であるというのも常識だろう。だからといって、それが問題になったという話は聞いたことはない。
(千葉県柏市にある結婚式教会 筆者撮影)
本書には 2006年当時の調査データが引用されているが、数ある結婚式の形態のなかでもキリスト教結婚式を選択するカップルが圧倒的に多いようだ。
キリスト教信者が全人口の1%にも満たないのに、なぜ「結婚式教会」が好まれるのか?
その大きな理由は、ウェディングの主導権を握っているが女性であるということに求められるだろう。日本では消費社会をリードしているのは男性よりも女性である。
日本人女性がもつキリスト教の教会イメージとはゴチック様式であり、それは純白のウェディングドレスに似合う空間である。キリスト教の教義や信仰とは何の関係もない。日本人が抱く根強い西洋への憧れとファンタジーが、戦後大衆社会で実現されたのが「結婚式教会」でのウェディングということになるのだろう。ことし2013年に開業30年を迎えた東京ディズニーランドと同じなのだ。
ハリウッド映画や少女マンガに限らず、西洋式の教会でのウェディングのイメージはすでに日本人のアタマのなかに浸透し定着しているのである。「まぎれもない日本的なキリスト教の受容のかたち」(P.218)という著者の指摘にはおおいに納得する。
これはおなじく建築史家である井上章一氏が扱っている視点にも重なるものだ。教義や信仰ではなく、習俗としての「キリスト教的なもの」の日本人の受容にかんするケーススタディにもなっている。だが、著者の五十嵐氏は、建築そのものへの関心がより深いようだ
建築物には施主が存在することも見逃してはいけない。「結婚式教会」はなによりも商業建築である。そこに貫いているいのは商業性であり、ビジネス、投資、資本主義といった観点で考えなくてはいけないテーマでもある。
本場の教会建築とは異なり、日本の「結婚式教会」は安普請(やすぶしん)であり、流行遅れになれば取り壊されてしまう運命にあるものだ。日本ではスクラップ・アンド・ビルドが当たり前なので、その意味では著者もいうように「結婚式教会」はパチンコ屋となんら変わりはない
「結婚式教会」は、ホンモノとニセモノ、大衆社会におけるポピュリズムとキッチュなど、さまざまな文化論的なテーマを論ずる対象としても面白いが、「建築界でも歴史的な視野を通じた教会への興味は減っているように思われる。・・(中略)・・ 建築の分野においても教養の抑圧は薄れた」(P.142)という著者の指摘は、建築の専門家ではないわたしには興味深く思われる。
明治時代になってから、近代化=西洋化という枠組みののなかで西洋建築を徹底的に学んだ日本人は、西洋建築をその歴史性というコンテクストを離れて、商業建築物の一テーマとして設計し建設し、そして壊してゆく。建築もまた流行現象のヒトこまに過ぎない。
さて、出版から6年たっている現在2013年の状況はどうなのだろうか。もうすこし編集にチカラを入れたほうがよかったのではないかと思うので、ぜひ本書の増補版ないしは改訂版を読みたいものである。
目 次
まえがき
第1章 結婚式教会とは何か
先駆けはアメリカのウエディング・チャペル
女性とメディアのための建築
ウエディング・ドレスの舞台装置
第2章 祝祭のかたち-様式と比較
西洋の建築様式について
にっぽんのゴシックと古典主義
結婚式神社は存在するのか
本物の教会とフェイク教会
教会史から考える
第3章 いざ、「聖地巡礼」
名古屋の結婚式教会めぐり
東京で増える教会のようなもの
中国地方カテドラル紀行
第4章 建築家と教会
城館と教会のキッチュ
日本における教会の受容 ほか)
建築家による結婚式教会
ホテルのなかのチャペル
なんちゃってポストモダン
第5章 起源から現在へ-結婚式の歴史と空間
軽井沢という聖地
長崎と単塔式教会
母体としての互助会
拡大するブライダル産業
日本人と結婚観
あとがき
初出一覧
著者プロフィール
五十嵐太郎(いがらし・たろう)
建築史・建築批評家。1967年パリ生まれ。1990年、東京大学工学部建築学科卒業。1992年、東京大学大学院修士課程修了。博士(工学)。東北大学准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
あこがれのチャペルウェディング特集(ゼクシィnet)
<補論> 冠婚葬祭におけるキリスト教的なるものの浸透について-葬儀においてもその傾向が現れてきている
おなじく建築史家だが現在では風俗史家になっている井上章一氏は、『霊柩車の誕生 増補新版』(朝日文庫、2013 初版は1984)の「文庫版あとがき」で以下のように述べている。
かつて隆盛を誇っていた「宮型」の霊柩車にとってかわって「洋風」の霊柩車が増えてきたことについて、「どうやら、葬送の風俗にもキリスト教のそれは、しのびこんでいるようである」と述べている。
明治時代にキリスト教が「解禁」されてからも、葬儀にかんしてはなかなかキリスト教式が認められなかった。明治17年まで葬儀は仏教式以外は認められていなかった(!)のである。それまでたびたびキリスト教式による「自葬」事件が起こっていた。NHK大河ドラマ『八重の桜』では新島襄の葬儀がキリスト教式に行われているのは、新島襄が死去したのが明治23年だからである。
『「唱歌」という奇跡 十二の物語-讃美歌と近代化の間で-』(安田寛、文春新書、2003)にも書かれているが、現在の告別式と仏教式の葬儀で音楽が演奏されることもあるが、これはキリスト教式の葬儀の影響だという。この動きを主導したのがキリスト教の聖歌の旋律をそのままつかった唱歌にあることは、讃美歌から生まれた日本の唱歌-日本の近代化は西洋音楽導入によって不可逆な流れとして達成された を参照されたい。
人生の通過儀礼のなかで、結婚がキリスト教式となり、葬送もまたキリスト教的なるものとなりつつあるという事実。これをどう読みとるか・・・。
意匠そのものに注目すれば、「宮型」の霊柩車も現在の「結婚式教会」も、ともにキッチュ以外のなにものでもない。その意味では、逆転現象がみられるといっていいのかもしれない。
冠婚葬祭レベルで「キリスト教なるもの」が浸透している日本であるが、洗礼を受けてキリスト教の信者となるということは、よほどの覚悟と思い切りがなければできないことだとみなされるわけである。
葬儀と先祖祭祀の関係については、書評 『テレビ霊能者を斬る-メディアとスピリチュアルの蜜月-』(小池 靖、 ソフトバンク新書、2007)-宗教社会学者が分析した「テレビ霊能者」現象 に書いておいた。意匠がキリスト教的になったとしても、先祖祭祀という本質には影響はないのではないだろうか?
カトリック国フランスでもカトリックの位置づけは「家の宗教」であり、多くの人はそれほど熱心に信仰しているわけではなく、日本における仏教の位置づけと似ていると、浄土真宗の僧侶で宗教学者の大村英昭は『日本人の心の習慣-鎮めの文化論-』(大村英昭、NHKライブラリー、1997)のなかで述べていることが参考になるだろう。
<ブログ内関連記事>
書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに
・・「結婚式教会」は、宣教する側の意図せざる「土着」という形での日本人によるキリスト教受容の一形態であることは、この本を読むと納得できるだろう。
「免疫系の比喩でいえば、キリスト教という異物に対する免疫反応は拒絶するか、取り込んで自分のものとしてしまうかの二つしかない。その意味では、キリスト教はもはや日本では増えることはないだろうが、多くの日本人は無意識のうちに取捨選択してキリスト教の要素をすでに何らかの形で取り込んでしまっているといってもよいかもしれない。しかも自分に都合のいい、「いいとこ取り」という形で。これは冒頭で言及した「キリスト教式結婚式」に端的にあらわれている。」
書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・抜書きしておいた「日本におけるキリスト教の不振」にはぜひ目を通していただきたい。文化人類学者・泉靖一氏の見解に説得力がある
書評 『日本人とキリスト教』(井上章一、角川ソフィア文庫、2013 初版 2001)-「トンデモ」系の「偽史」をとおしてみる日本人のキリスト教観
書評 『なんでもわかるキリスト教大事典』(八木谷涼子、朝日文庫、2012 初版 2001)一家に一冊というよりぜひ手元に置いておきたい文庫版サイズのお値打ちレファレンス本
・・この本の著者は、キリスト教徒ではない「キリスト教オタク」。こんな人が日本にはいるのだ
■「習俗化」したキリスト教
書評 『普通の家族がいちばん怖い-崩壊するお正月、暴走するクリスマス-』(岩村暢子、新潮文庫、2010 単行本初版 2007)-これが国際競争力を失い大きく劣化しつつある日本人がつくられている舞台裏だ
・・クリスマスは日本の習俗化したキリスト教の一つ。教義と信仰抜きのキリスト教的なもの
バレンタイン・デーに本の贈り物 『大正十五年のバレンタイン-日本でチョコレートをつくった V.F.モロゾフ物語-』(川又一英、PHP、1984)
ケルト起源のハロウィーン-いずれはクリスマスのように完全に 「日本化」 していくのだろうか?
書評 『ミッション・スクール-あこがれの園-』(佐藤八寿子、中公新書、2006)-キリスト教的なるものに憧れる日本人の心性とミッションスクールのイメージ
■建築におけるキリスト教要素の日本化
「信仰と商売の両立」の実践-”建築家” ヴォーリズ
・・「キリスト教が解禁されてから約125年、日本における仏教の衰退は生活習慣の洋風化を通じて、敗戦後は圧倒的なアメリカナイズ、とくに高度成長以降の前近代的要素の払拭を通じて、知らず知らずのうちに達成されたというべきであろう。ヴォーリズの洋風建築は先導役の一つとなったといえる」 「大丸心斎橋店」、東京ではお茶の水の「山の上ホテル」、「明治学院大学の礼拝堂」なを設計したヴォーリズは宣教師ではないが伝道を志して日本にやってきた人である
「聖徳記念絵画館」(東京・神宮外苑)にはじめていってみた(2013年9月12日)
・・「日本が洋風建築を受け入れたうえで、そのうえで日本の洋風建築を意図したとのことです。一言でいえば和風テイストの洋風建築となるのでしょうか。これ自体が明治時代の学習成果というべきでしょう」
(2014年8月22日 情報追加)
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