『モモ』ですか! なつかしいですねえ~。
1980年代後半のまさにバブル時代のまっただなか、職場の同僚女性から薦められたので借りて読みました。そのとき23歳くらいだったかな? 岩波書店からでていたオレンジ色で装幀されたハードカバーでしたね。
当時、時間に支配されていたサラリーマンのあいだでも、「時間の奴隷」になっているビジネス社会へのアンチテーゼとして 『モモ』はけっこう流行りましたね。「24時間戦えますか~?」というスタミナドリンクのCMが時代を象徴してましたから(笑) さすがにアドレナリンは出続けません。
わたしも連日連夜、夜中まで仕事して、朝まで飲んで歌ってモーレツに走りすぎて、27歳で胃にポリープをこしらえてしまいましたが(苦笑) まさに疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)。
おかげで(?)、『モモ』の作者ミヒャエル・エンデ原作の映画『ネバー・エンディング・ストーリー』ではなく、いちおう終止符が打たれました。ちなみにエンデの原作は『はてしない物語』ですが、エンデ(Ende)というドイツ語は英語の End と同じ意味です。
その後、時間から、もとい、日本から脱出してアメリカの大学院に留学しましたが、以後ポリープは再発することなく現在に至っております。環境が変わったからでしょうか。しかし、胃カメラ飲むのがイヤなので、どうしてもアクセル全開ではなく、ブレーキをかけがちな人生になってしまいましたが・・・
■「プロテスタント的な近代的時間」からの逃避は可能か?
モモといえば、日本語人ならまずは桃を連想するでしょうが、チベット好きならチベット餃子の「モモ」のことを想起するでしょうね。ちいさくて皮の厚い餃子。
チベットといえばチベット仏教。連想をさらに仏教にシフトしてみましょう。
わたしが思うのは、「時間」という点にかんしては、仏教があきらかに現代生活にフィットしてないことは、認めざるをえないと思います。
わたしは、残念ながらブータンはまだ行ったことがないのでよく知りませんが、急速に資本主義化する上座仏教国タイの状況をずっと観察していると、つよくそう思わないではいられないのです。
大都市のバンコクでは、現代生活に疲れて仏教に癒しを求めるタイ人が多くいる一方で、因習的な仏教に見切りをつけてキリスト教に改宗するタイ人も少なくないという現実があります。現実に存在するのは、資本主義のマイナス面に影響されて肥大化する欲望、増殖する生臭坊主(なまぐさぼうず)。
キリスト教に改宗したタイ人とは何人もつきあいがあったので、かれらの心情もわからなくはありません。これは、マレーシアでもシンガポールでも同様で、東南アジアのキリスト教徒には華人系市民が少なくありませんが、同じ華人であってもキリスト教徒と仏教徒は、あきらかに違うカテゴリーの人間であるという印象を受けます。とくにプロテスタント系のキリスト教徒であればなおさらです。
2008年のリーマンショックの前ですが、「仏教と資本主義は両立するか?」というシンポジウムがタイのバンコクで開催されたようです。当時タイで働いていたわたしはタイの英語紙 Nation で記事(2008年4月10日付け)をよみましたが、その結論は残念ながら否定的なものだったようです。仏教と資本主義は両立しない、ということです。この結論は重く受け取るべきだと思います。
「近代」以降の社会は、ある意味ではプロテスタント的な近代時間原理で動いています。計画して実行するというマインドセット。ビジネスのマインドセット。
資本主義とキリスト教がきわめて親和性が高いことは、マックス・ウェーバーを持ち出すまでもなく「常識」でしょう。「ライフハック」(LifeHack)という IT業界から始まったマインドセットも、あきらかにプロテスタント的な印象が濃厚ですね。
■エンデの『モモ』がもつ意味
だからこそ、エンデの作品が、ドイツをはじめとして欧州でも日本でも、オルタナティブとしてココロに響くものがあるのでしょう。
信仰不在の「キリスト教国」日本だけでなく、本家本元の西欧世界でも、多くの人が「近代」に疲れてしまっているのですね、キリスト教的な近代という「ネバー・エンディング」な時間に。いったいどこまで馬車馬のように全速力で走らされるのか、と。
「時間」から逃れるというのは、甘美なささやきですが、しかしながらあまり強調しすぎるのは、いかがなことかと思わなくもないですね。いかにして現実と理想を折り合いを付けるか。なにごともバランスということでしょう。「時間」から解脱(げだつ)することは可能だとしても、いったん解脱してしまうと現世に戻るのが難しくなってしまいます(笑)
エンデの作品はあくまでもファンタジー。極楽浄土や天国も涅槃もまたファンタジー。ファンタジーはいっときの現実逃避をもたらしてくれますが、あくまでもそれはいっときの白昼夢のようなもの。ユートピアもまた夢やファンタジーのようなものに過ぎません。
エンデの意図とは離れてしまうかもしれませんが、現実世界に生きて経済生活を送っているいる以上、現実からまったく離れて生きることはできません。
資本の回転を最重要視する「資本主義」が限界にぶつかり、資本主義の終わりが見えてきたのは事実ですが、いますぐに資本主義が終わるわけではありません。現在はまだまだ「移行期」であり、のたうちまわりながら「移行期」は長く続いていくのです。中世末期から近代初期にかけてのように。
ジョン・レノンのようにアタマのなかで空想を働かせて「イマジン」(Imagine)するくらいにとどめておいたほうが良いのではないか、と。わたしはまだまだ、涅槃(ニルヴァーナ)からのお迎えは不要です(笑)
とはいえ、ミヒャエル・エンデの問いかけに対しては、アタマの片隅において、ときどき考え続けることも大事なことですね。
<ブログ内関連記事>
「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる
・・ミヒャエル・エンデはシュタイナー思想の熱心な信奉者
『ミヒャエル・エンデが教えてくれたこと-時間・お金・ファンタジー-(とんぼの本)』(池内 紀・子安美知子・小林エリカ、新潮社、2013)は、いったん手に取るとついつい読みふけってしまうエンデ入門
■仏教関連
「チベット・フェスティバル・トウキョウ 2013」(大本山 護国寺)にいってきた(2013年5月4日)
・・チベット餃子の「モモ」の写真を掲載してある
『Sufficiency Economy: A New Philosophy in the Global World』(足を知る経済)は資本主義のオルタナティブか?-資本主義のオルタナティブ (2) ・・「足るを知る経済」はタイのプーミポン国王ラーマ9世が主唱する仏教をベースにした経済思想
「雷龍の国ブータンに学ぶ」に「学ぶ」こと-第3回 日経GSRシンポジウム「GSR と Social Business 企業が動けば、世界が変わる」に参加して
「無憂」という事-バンコクの「アソーク」という駅名からインドと仏教を「引き出し」てみる
■信仰なき「キリスト教国」という「近代日本」
書評 『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)-イスラーム経済思想の宗教的バックグラウンドに見いだした『緑の資本論』
・・一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラーム)の経済思想。
・・「時間は私有できない」、「カネはカネを生まない」というアリストテレスの思想がトマス・アクィナスを経て、中世スコラ哲学では「時間は普遍的な存在なのでわたくししてはならない」とされていた。それを最終的に打ち壊したのはジャン・カルヴァンであることは、わたしは大学学部の卒論に書いている。そのことをブログ記事に書いておいた
修道院から始まった「近代化」-ココ・シャネルの「ファッション革命」の原点はシトー会修道院にあった
・・修道院の生活は超早寝早起き。「規律による自律」の集団生活。中世カトリックの修道院で生まれた「時間」は、機械時計によって計測可能となった近代的時間の前段階である
・・「唱歌」の旋律は「賛美歌」であった! 西洋音楽をつうじて日本人の心性に浸透したキリスト教、とくにプロテスタント的なるものに注意を向けるべき
書評 『近代の呪い』(渡辺京二、平凡社新書、2013)-「近代」をそれがもたらしたコスト(代償)とベネフィット(便益)の両面から考える
書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない
書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ
「ユートピア」は挫折する運命にある-「未来」に魅力なく、「過去」も美化できない時代を生きるということ
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