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2019年12月26日木曜日

マンガ 『きのう何食べた?⑮⑯』(よしなが ふみ、講談社、2019)-主人公たちはもう社会的な責任を負う年齢なのだな、と


すでに今年のはじめには第15巻が出版されていたのだが読まないまま年末になってしまっていた。第16巻が出版されたのを機会に、15巻と16巻をつづけて読むことにした。

14巻までと大きな変化といえば、帯にもあるようにテレビドラマ化されたことだろう。キャスティングにかんしては申し分ないと思うが、原作のマンガの読者としては、自分のアタマのなかに作り上げたイメージというものがあるので、どうしても実写版とは違和感が残る。

食事を作って食べるという日常行為であるが、その繰り返しを送りながらも、確実に月日はたっていくたっていくことに気がつかされる(というか、そういう形で前に進めている)のがこのマンガ。終わりなき現在ではなく、知らぬ間に過ぎていく時間という設計。人生とはそういうものであり、じつに巧みな構成であるとも言える。

50歳代となり責任あるポジションについた主人公2人は、今後どうなるのか楽しみだ。






<ブログ内関連記事>

マンガ 『きのう何食べた?⑬』(よしながふみ、講談社、2017)-主人公たち二人はついに50歳代に突入!

マンガ 『きのう何食べた?⑫』(講談社、2016)-まだまだ続くよこのマンガ


 
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(2017年5月18日発売の拙著です)


   
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2018年9月2日日曜日

マンガ『きのう何食べた?⑭』(よしなが ふみ、講談社、2018)ー ドラマがないような平凡な日々と、知らないうちに進行している変化。


よしながふみの『きのう何食べた?』。早いものでもう14巻。予算の制約条件のもとで、いかにおいしい家庭料理をつくるか、それが主人公の一生のテーマ。 

   
月1ベースの連載だが、これほど長く続くとは思わなかったが、飽きることなく最新巻の14巻も購入した。主人公とは年齢も近いので、ともに年を取っているなあ、という実感もまた。 
   
日々の料理つくりがマンガのテーマでありながら、中長期の時間が背景で動いているので人間関係も変化していく。ドラマがないかのような平凡な日々と、知らないうちに進行している変化。単行本化されてから読むと、時間の流れが感じられるから、飽きがこないのだろう。 

このマンガの前に出た『愛がなくても喰っていけます。』(2005年)は1巻で終わってしまったが、設定を根本的に変えたら長続きしている。作者は連載の初期段階でどこまで考えていたのかは知らないが、はたして最初から長期連載になると考えていたのかどうか。  

   
読み終えたあとも、たまに読み返して、マンガで取り上げられたこの料理をつくってみようかなという気持ちになったりもする(実際につくるときもある)。

さて、いつまで続くのか?? まだまだ延々と続くような気もするが、次の巻も買ってよむことになるのは間違いない。






<ブログ内関連記事>


マンガ 『きのう何食べた?⑬』(よしながふみ、講談社、2017)-主人公たち二人はついに50歳代に突入!


マンガ 『きのう何食べた?』(よしなが ふみ、講談社、2007~)


グルマン(食いしん坊)で、「料理する男」であった折口信夫

『檀流クッキング』(檀一雄、中公文庫、1975 単行本初版 1970 現在は文庫が改版で 2002) もまた明確な思想のある料理本だ


邱永漢のグルメ本は戦後日本の古典である-追悼・邱永漢


『こんな料理で男はまいる。』(大竹 まこと、角川書店、2001)は、「聡明な男は料理がうまい」の典型だ






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2017年6月10日土曜日

「逆回し」とは? ― 『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』は常識とは「真逆」の方法で製作された歴史書であり、ビジネス書である



つい先日(2017年5月18日)のことだが、『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン社、2017)というタイトルの本を出版した。2017年の現時点から、240年前の1776年までさかのぼった、ビジネス書のフォーマットで製作された歴史書だ。

内容は文字通り、「ビジネスパーソンのための近現代史」なのだが、コンセプト自体はもう少し長い。「ビジネスパーソンの、ビジネスパーソンによる、ビジネスパーソンのための」近現代史である。いうまでもなく、「人民の・・・」で始まる、リンカーン大統領の「ゲティスバーグ演説」の一節をもじったものだ。

なぜこのようなことを書くかというと、この3条件を備えたビジネスパーソン向けの歴史書がきわめて少ないからだ。

いわゆる「ビジネスパーソン向け」と銘打ってある本は、さまざまな分野で大量に出版されていくことだろう。だが、リアルなビジネス体験をもたない著者が書いた本は、現役のビジネスパーソンの立場から言わせてもらえば、いまひとつリアリティを欠いているといわざるをえない。

だが、それだけなら、それほどたいした特徴だとはいえないかもしれない。本書の最大の特徴は、「逆回し」という表現で「歴史を過去にさかのぼる」という手法を導入したことにあると考えている。経済学者のシュンペーター流にいえば、「新機軸」と言っていいかもそれない。


(カバーの袖に記載された本文からの引用)


 「逆回し」というのは、もちろん比喩的な表現だ。録画したビデオを「逆回し」すると、人間の動作がなんだかぎこちなく再生されてしまい、思わず笑ってしまうことがある。だが、そういう意味でつかったわけではない。ある意味では、「リバース・エンジニ アリング」の実践と考えていただいたほうがいいかもしれない。

いま目の前にある製品をバラバラに分解することで、その構造と機構、構成部品の詳細を知り、「見えない設計図」を再現する行為をさして「リバース・エンジニアリング」という。

「リバース・エンジニアリング」は、通常のものづくりの真逆の方向で行われる。最終製品をバラしてモジュールにし、モジュールを分解してユニットに、ユニットを分解して個々のパーツを取り出す。このプロセスで分解することで、逆に設計図が見えてくる。「リバース・エンジニアリング」の発想は、ものづくりのプロセスを「逆回し」にするものだ。

とはいえ、最終製品をバラバラにして取り出してきたパーツは、あくまでも断片であるに過ぎない。ユニットや、モジュールの単位まで再構成しなくては、設計図(=ストーリー)が見えてこない。ストーリーが明確でないと、アタマのなかで明確なイメージを構築できない恐れがある。執筆にあたって最大の難関はそこにあった。

「逆回し」で「さかのぼる」方法論によって制作された作品はないだろうか? なにかヒントになるものがないかと探した結果、NHKで『さかのぼり日本史』という番組が放送されていたことを知った。

2011年に放送されたこの番組は、ある特定のテーマを設定して日本史を「さかのぼる」という形式の歴史ものだ。放送後にはテーマごとに単行本化もされている。



■ヒントにしたのは「逆回し」で製作された映像作品

ほかに参考になるものがないかと探索している際に思い出したのが、韓国映画の『ペパーミント・キャンディー』(イ・チャンドン監督、1999年制作)という作品だ。


 (DVDのメインメニューより チャプター1~4)


この作品は、「20年間の韓国現代史を背景に、ひとりの男が絶望の淵から人生の最も美しい時期までをさかのぼっていくという手法」だと、DVDの解説文にある。

独立したが事業に失敗、悲劇的な最期をとげることになる主人公が、時間を「巻き戻し」て過去にさかのぼっていき、最後は人生でもっとも美しかった瞬間で終わるというストーリー展開だ。全体で7つの「チャプター」で構成されている。

一般的な映画とは真逆の発想だが、ハッピーエンドで終わる映画であることには変わりはない。見終わったあと、じつに不思議な印象が残る映画だ。


 (DVDのメインメニューより チャプター5~7)


似たような作品には、フランス映画の『ふたりの5つの分かれ路』(フランソワ・オゾン監督、2004年制作)がある。離婚した夫婦が、離婚からさかのぼって出会いまで時間をさかのぼるという映画だ。

映像作品はDVDで視聴する場合、チャプターごとに番号とタイトルがついているので、意識的に区分して視聴することも可能だ。チャプター内では、シークエンスごとに時間の流れにしたがって物語は展開するので違和感はない。

文字として記された書籍なら、紙の本であれ電子書籍版であれ、映像より対応しやすいのではないか? そこまで考えてから、ようやく本書の構想がまとまり、執筆を開始することができるようになったのだった。じつに3ヶ月も費やしてしまった。



■「逆回し」は、歴史書としては「常識」に反する発想だが・・・

人間にとって「さかのぼる」という行為は、じつは自然な発想なのである。

長い年月を生きてきた人なら当然のことであるが、それほど長い人生を生きていない若者だって、学校時代のことを思い出したりして懐かしい想いをするだろう。自分が「いま、ここに」存在するのは、その前に自分の親がいるからであり、その親にもまた親がいる。さかのぼれば、その連鎖は無限につづいていくことになる。

過去を振り返って出来事を思い出す。人間にとってはごく当たり前のことである。そして、人生にはいくつかの「分岐点」があることに気がつく。人生だけではない、歴史にもいくつもの「分岐点」がある。

これは「現在」からさかのぼってみてはじめてわかることだ。その渦中にいるとそれが分岐点であることは正確にはわからないが、振り返ってみて、はじめてそうだと気がつくことも多い。

「逆回し」とは、「流れ」を重視する歴史書にはあるまじき非常識な試みだろう。だが、「現在」を知り、「未来」を考えるために歴史を知ることが必要であるならば、「逆回し」という発想はけっして非常識ではないはずだ。



■「現在」を起点に「未来」と「過去」を認識する

かつてブログに 書評『人間にとって科学とはなにか』(湯川秀樹・梅棹忠夫、中公クラシック、2012 初版 1967)-「問い」そのものに意味がある骨太の科学論 という記事を書いているが、科学的認識の方向性は、現在を起点にして、過去と未来の二つの方向に展開されうることが、同書で指摘されていることを紹介した(・・下図を参照)。


(人間の認識は「現在」を起点に「未来」と「過去」に向かう)


ビジネスパーソンの活動は、基本的に「未来」に向けてのものである。
歴史家の活動は、基本的に「過去」に向けてのものである。

だが、科学的認識の方向とおなじく、これは認識のベクトルが異なるだけで、認識の方法そのもの基本的に同じ構造をもっているといってよい。

一般に「未来」を予測することは難しいが、自分自身が体験している「過去」を振り返ることは比較的容易であるといえる。だから、人間は自分自身の「過去」の体験をベースにして「未来」を予測するのである。

だが、人間の体験には限界がある。自分が体験していること自体は一次情報であるが、あくまでも主観的なものである。自分が体験していないことは、あくまでも伝聞であり、情報の性格としては二次情報、あるいは三次情報となってしまうことは仕方ない。

だからこそ、イマジネーションが必要とされるのである。

未来を知るために過去を知る。過去についての正確な認識をもつためにはイマジネーションで補う。そして、「過去」と「未来」が「現在」を規定していることを知れば、まずは「過去」に「逆回し」でさかのぼることが、「現在」をより深く、かつ正確に知ることにつながることが理解されるであろう。

「逆回し」の発想とは、ただ単に振り返るだけでなく、データをもとに事実をあぶりだし、それをイマジネーションで補うことを意味しているのである。

「逆回し」という発想の実践として製作された『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』は、この機会にぜひ読んでみて欲しいと思う次第だ。

執筆中は、『「現在」がわかる「逆回し」世界史講座』という「仮タイトル」だったが、最終的に出版社の判断で現在のタイトルに落ち着いたというエピソードをここに書き留めておくこととしよう。


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<ブログ内関連記事>

2017年5月18日に5年ぶりに新著を出版します-『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』(佐藤けんいち、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017)

「ビジネス書か歴史書か、それが問題だ!」-『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』を書店のどのコーナーに並べるか?

『正論』最新号(2017年9月号)に拙著の「書評」が掲載されました-「まことに厄介な、かつスリリングな歴史書」

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)
・・「私が知る歴史家の中に、過去が現在を照らすというよりも、現在が過去を照らすのだという事実を受け入れる者はいない。大半の歴史家は、目の前で起きていることに興味をしめさないのだ。」(ホッファー『自伝』より)

(2017年9月3日 情報追加)


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2014年4月10日木曜日

ミヒャエル・エンデの『モモ』ー 現代人はプロテスタント的な「近代的時間」から逃れることはできないのか?


『モモ』ですか! なつかしいですねえ~。

1980年代後半のまさにバブル時代のまっただなか、職場の同僚女性から薦められたので借りて読みました。そのとき23歳くらいだったかな? 岩波書店からでていたオレンジ色で装幀されたハードカバーでしたね。

当時、時間に支配されていたサラリーマンのあいだでも、「時間の奴隷」になっているビジネス社会へのアンチテーゼとして 『モモ』はけっこう流行りましたね。「24時間戦えますか~?」というスタミナドリンクのCMが時代を象徴してましたから(笑) さすがにアドレナリンは出続けません。

わたしも連日連夜、夜中まで仕事して、朝まで飲んで歌ってモーレツに走りすぎて、27歳で胃にポリープをこしらえてしまいましたが(苦笑) まさに疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)。

おかげで(?)、『モモ』の作者ミヒャエル・エンデ原作の映画『ネバー・エンディング・ストーリー』ではなく、いちおう終止符が打たれました。ちなみにエンデの原作は『はてしない物語』ですが、エンデ(Ende)というドイツ語は英語の End と同じ意味です。

その後、時間から、もとい、日本から脱出してアメリカの大学院に留学しましたが、以後ポリープは再発することなく現在に至っております。環境が変わったからでしょうか。しかし、胃カメラ飲むのがイヤなので、どうしてもアクセル全開ではなく、ブレーキをかけがちな人生になってしまいましたが・・・


■「プロテスタント的な近代的時間」からの逃避は可能か?

モモといえば、日本語人ならまずは桃を連想するでしょうが、チベット好きならチベット餃子の「モモ」のことを想起するでしょうね。ちいさくて皮の厚い餃子。

チベットといえばチベット仏教。連想をさらに仏教にシフトしてみましょう。

わたしが思うのは、「時間」という点にかんしては、仏教があきらかに現代生活にフィットしてないことは、認めざるをえないと思います。

わたしは、残念ながらブータンはまだ行ったことがないのでよく知りませんが、急速に資本主義化する上座仏教国タイの状況をずっと観察していると、つよくそう思わないではいられないのです。

大都市のバンコクでは、現代生活に疲れて仏教に癒しを求めるタイ人が多くいる一方で、因習的な仏教に見切りをつけてキリスト教に改宗するタイ人も少なくないという現実があります。現実に存在するのは、資本主義のマイナス面に影響されて肥大化する欲望、増殖する生臭坊主(なまぐさぼうず)。

キリスト教に改宗したタイ人とは何人もつきあいがあったので、かれらの心情もわからなくはありません。これは、マレーシアでもシンガポールでも同様で、東南アジアのキリスト教徒には華人系市民が少なくありませんが、同じ華人であってもキリスト教徒と仏教徒は、あきらかに違うカテゴリーの人間であるという印象を受けます。とくにプロテスタント系のキリスト教徒であればなおさらです。

2008年のリーマンショックの前ですが、「仏教と資本主義は両立するか?」というシンポジウムがタイのバンコクで開催されたようです。当時タイで働いていたわたしはタイの英語紙 Nation で記事(2008年4月10日付け)をよみましたが、その結論は残念ながら否定的なものだったようです。仏教と資本主義は両立しない、ということです。この結論は重く受け取るべきだと思います。

「近代」以降の社会は、ある意味ではプロテスタント的な近代時間原理で動いています。計画して実行するというマインドセット。ビジネスのマインドセット。

資本主義とキリスト教がきわめて親和性が高いことは、マックス・ウェーバーを持ち出すまでもなく「常識」でしょう。「ライフハック」(LifeHack)という IT業界から始まったマインドセットも、あきらかにプロテスタント的な印象が濃厚ですね。


■エンデの『モモ』がもつ意味

だからこそ、エンデの作品が、ドイツをはじめとして欧州でも日本でも、オルタナティブとしてココロに響くものがあるのでしょう。

信仰不在の「キリスト教国」日本だけでなく、本家本元の西欧世界でも、多くの人が「近代」に疲れてしまっているのですね、キリスト教的な近代という「ネバー・エンディング」な時間に。いったいどこまで馬車馬のように全速力で走らされるのか、と。 

「時間」から逃れるというのは、甘美なささやきですが、しかしながらあまり強調しすぎるのは、いかがなことかと思わなくもないですね。いかにして現実と理想を折り合いを付けるか。なにごともバランスということでしょう。「時間」から解脱(げだつ)することは可能だとしても、いったん解脱してしまうと現世に戻るのが難しくなってしまいます(笑)

エンデの作品はあくまでもファンタジー。極楽浄土や天国も涅槃もまたファンタジー。ファンタジーはいっときの現実逃避をもたらしてくれますが、あくまでもそれはいっときの白昼夢のようなもの。ユートピアもまた夢やファンタジーのようなものに過ぎません。

エンデの意図とは離れてしまうかもしれませんが、現実世界に生きて経済生活を送っているいる以上、現実からまったく離れて生きることはできません。

資本の回転を最重要視する「資本主義」が限界にぶつかり、資本主義の終わりが見えてきたのは事実ですが、いますぐに資本主義が終わるわけではありません。現在はまだまだ「移行期」であり、のたうちまわりながら「移行期」は長く続いていくのです。中世末期から近代初期にかけてのように。

ジョン・レノンのようにアタマのなかで空想を働かせて「イマジン」(Imagine)するくらいにとどめておいたほうが良いのではないか、と。わたしはまだまだ、涅槃(ニルヴァーナ)からのお迎えは不要です(笑)

とはいえ、ミヒャエル・エンデの問いかけに対しては、アタマの片隅において、ときどき考え続けることも大事なことですね。





<付記> この文章は、ある人からの問いかけに対して3年ほど前に執筆した未発表原稿に手を入れてブログ記事にしたものです。



<ブログ内関連記事>

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる
・・ミヒャエル・エンデはシュタイナー思想の熱心な信奉者

『ミヒャエル・エンデが教えてくれたこと-時間・お金・ファンタジー-(とんぼの本)』(池内 紀・子安美知子・小林エリカ、新潮社、2013)は、いったん手に取るとついつい読みふけってしまうエンデ入門


■仏教関連

「チベット・フェスティバル・トウキョウ 2013」(大本山 護国寺)にいってきた(2013年5月4日)
・・チベット餃子の「モモ」の写真を掲載してある

『Sufficiency Economy: A New Philosophy in the Global World』(足を知る経済)は資本主義のオルタナティブか?-資本主義のオルタナティブ (2) ・・「足るを知る経済」はタイのプーミポン国王ラーマ9世が主唱する仏教をベースにした経済思想

「雷龍の国ブータンに学ぶ」に「学ぶ」こと-第3回 日経GSRシンポジウム「GSR と Social Business 企業が動けば、世界が変わる」に参加して

「無憂」という事-バンコクの「アソーク」という駅名からインドと仏教を「引き出し」てみる


■信仰なき「キリスト教国」という「近代日本」

書評 『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)-イスラーム経済思想の宗教的バックグラウンドに見いだした『緑の資本論』
・・一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラーム)の経済思想。
・・「時間は私有できない」、「カネはカネを生まない」というアリストテレスの思想がトマス・アクィナスを経て、中世スコラ哲学では「時間は普遍的な存在なのでわたくししてはならない」とされていた。それを最終的に打ち壊したのはジャン・カルヴァンであることは、わたしは大学学部の卒論に書いている。そのことをブログ記事に書いておいた


修道院から始まった「近代化」-ココ・シャネルの「ファッション革命」の原点はシトー会修道院にあった
・・修道院の生活は超早寝早起き。「規律による自律」の集団生活。中世カトリックの修道院で生まれた「時間」は、機械時計によって計測可能となった近代的時間の前段階である

書評 『アメリカ精神の源-「神のもとにあるこの国」-』(ハロラン芙美子、中公新書、1998)-アメリカ人の精神の内部を探求したフィールドワークの記録
・・アメリカの圧倒的影響下で「近代化」を完成した日本を支配するプロテスタント的時間

讃美歌から生まれた日本の唱歌-日本の近代化は西洋音楽導入によって不可逆な流れとして達成された
・・「唱歌」の旋律は「賛美歌」であった! 西洋音楽をつうじて日本人の心性に浸透したキリスト教、とくにプロテスタント的なるものに注意を向けるべき

書評 『近代の呪い』(渡辺京二、平凡社新書、2013)-「近代」をそれがもたらしたコスト(代償)とベネフィット(便益)の両面から考える

書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ

「ユートピア」は挫折する運命にある-「未来」に魅力なく、「過去」も美化できない時代を生きるということ


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2011年12月25日日曜日

書評『聖書を語る ー 宗教は震災後の日本を救えるか』(中村うさぎ/ 佐藤優、文藝春秋、2011)ー キリスト教の立場からみたポスト「3-11」論


■同志社大学に学んだプロテスタントの二人が語る、キリスト教を軸にしたポスト「3-11」論■

出来の悪い生徒役を中村うさぎが演じて疑問を提出し、先生役を演じる佐藤優がその質問に答えながら、議論を発展させていくという対話本。

なかなかこの二人の掛け合いが面白い。

中村うさぎは、福岡のミッションスクールで中高とすごし、同志社大学文学部を卒業した、プロテスタントとしての洗礼も受けた作家。言うまでもなく、ブランド買いあさりや成形手術、ホストクラブ勤務など、現代の無頼派作家のような人生を送ってきた人生探求派である。

佐藤優は、同志社大学神学部で修士号を取得したという異色の元外交官。いわゆる「国策捜査」による獄中生活も信仰のチカラで乗り切った筋金入りのプロテスタント。現在は膨大な知の集積をもとに、さまざまな分野で活発な評論活動をつづける作家である。

この二人による対談集、というよりも対話集が意外と議論がかみ合っているのは、二人がほぼ同時期に同志社大学に学んだプロテスタントという共通点があるからだろう。

とはいえ、同じプロテスタントであるといっても、佐藤優のそれはもっとも厳格で容赦のないカルヴィニズム(=カルヴァン主義)、それに対して中村うさぎはバプテスト派であるようだ。

カルヴィニズムは、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で描いたように、神に選ばれて運命はすでに決まっているという浄土真宗にも似た絶対他力の信仰。こういった知識はアタマでは理解しておいたほうがいいだろう。共感できなくても、いかなる立場から発言しているかがわかる。

内容的には前半の「3-11」以前になされた「春樹とサリンジャーを読む」が面白い。

「3-11」後の対談については、日本人が政府への不信感をつのらせアナーキーになっているといった指摘や、若者たちは『エヴァンゲリオン』にみられるように終末論をなんどもシミュレーションしてきたというデジャヴュ感の指摘も興味深いが、かならずしも賛同しかねる指摘も多々ある。

日本人キリスト教徒の目から「3-11」後の日本を見るとどう写るかに興味のある人は、ざっ目を通してみるのもいいだろう。異なる視点で日本社会を見る一つの物の見方になっているからだ。



<初出情報>

■bk1書評「同志社大学に学んだプロテスタントの二人が語る、キリスト教を軸にしたポスト「3-11」論」投稿掲載(2011年11月7日)


PS 2014年1月に文庫化された。(2014年1月27日 記す)



目 次


プロローグ  佐藤優
第1章 「聖書」を語る
第2章 「春樹とサリンジャー」を読む
第3章‐1 「地震と原発」を読む-チェルノブイリ、そして福島
第3章‐2 「地震と原発」を読む―日本人を繋ぐものは?
エピローグ  中村うさぎ

著者プロフィール


佐藤優(さとう・まさる)


1960年東京都生まれ。作家・元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了。著書に『国家の罠』(毎日出版文化賞特別賞受賞)、『自壊する帝国』(新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞)など多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。

中村うさぎ(なかむら・うさぎ)


1958年福岡県生まれ。作家・エッセイスト。同志社大学文学部英文学科卒。コピーライター、雑誌専属ライターを経て、小説家デビュー(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。




<書評への付記>

いっけん異色の組み合わせに見えるが、じつはそうではないことは書評にも書いたとおりである。

以前から中村うさぎの本に解説を執筆していた佐藤優は、本書でも中村うさぎが内面の衝動に突き動かされて探求してきたテーマは、キリスト教プロテスタンティズムの限界を無意識のうちに試そうという行為であると指摘しているのは興味深い。

本書で佐藤優が指摘しているなかでもっとも興味深いのは、時間には二種類あるという論点だ。

それは、クロノス と カイロス という二種類の時間についてである。

ともにギリシア語で時間をあらわすコトバだが、クロノスは一般につかう時間の意味。時系列で連続している物理的な時間のことである。

一方、カイロスはエピソードによって切断され時間のことである。エピソードとエピソードのなかにつなげられた時間のこと。

日本人の歴史認識も、その意味ではカイロス的であるといえる。「戦前」と「戦後」といった時代区分は、大東亜戦争(≑ 太平洋戦争)というカイロス的時間によって分断されたもの。

その意味では、「3-11」によって、あらたな時代認識が発生したのは当然のことなわけだ。

人間の記憶というものが、そもそも「エピソード記憶」という点を核にして連想ゲーム的に集積されているものである以上、それはきわめてナチュラルな話でもある。



<ブログ内関連記事>

本の紹介 『交渉術』(佐藤 優、文藝春秋、2009)

書評 『「独裁者」との交渉術』(明石 康、木村元彦=インタビュー・解説、集英社新書、2010)


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2009年8月1日土曜日

書評『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)ー イスラーム経済思想の宗教的バックグラウンドに見いだした『緑の資本論』




■イスラーム経済思想の宗教的バックグラウンドに見いだした『緑の資本論』■

 2001年のアルカーイダによる「9-11テロ」の衝撃から生まれたという本書が、単行本として出版されたのは2002年のことだった。

 キリスト教からチベット仏教へ脱出した中沢新一がなぜイスラームについて書くのか、『緑の資本論』というタイトルは、また例のごとく奇をてらったレトリックかと思い、手に取ることはなく時は過ぎ去っていた。

 しかし、それから7年、状況は一変した。

 2008年のリーマンショックで、資本主義の暴走と、歯止めがきかないままクラッシュした事態を目撃することとなったからだ。

 2009年、文庫版として再版されたのは、まことに時宜にかなった出版だといえる。ようやく本書、とくに中心となる「緑の資本論」をよむ環境が整ってきたのである。

 資本主義を暴走させないためには何をすべきなのか?

 『資本主義はなぜ自壊したのか』で、自らの言動を懺悔し、改悛するという経済学者・中谷巌のような道もあろう。

 しかし、そこから果たして何がまれるのか? せいぜいオルタナティブとしてブータンやキューバを礼賛し、ベーシック・インカムの導入を提言するのがせいぜいのところだろう。もちろん、それでも一歩前進ではある。

 その他宗教と比較して、「増殖への欲望」を抑制しない傾向のあるキリスト教が、もともと資本主義と親和性が高いことは知られてきた。キリスト教そのものがもつ構造に深く探りを入れないと、本当の問題はわからないのではないか?

 本書に収められた『緑の資本論』で中沢新一が試みたのは、この問いに対する回答の試みである。しかし、仏教の立場からの資本主義批判ではない。

 「自己増殖」への態度を比較検討の軸にして、同じくユダヤ教をルーツとして派生した2つの一神教、キリスト教とイスラームの比較から、資本主義が根源的に抱えている問題に迫る。

 明らかになったのは、キリスト教はそもそもの出発点から、一神教であるのにかかわらず「父と子と聖霊の三位一体」を内部構造として抱え込んだことにある。

 これが中世のスコラ哲学における諸議論を通じても、実体経済での「利子禁止」を抑止することを不可能とし、西欧社会における資本主義の発達を促進したメカニズムにほかならない。

 そして「三位一体」こそは、マルクスが『資本論』で資本主義を分析するために使用した方法でもあった。

 絶対他者である唯一神アッラー以外のいっさいを認めない徹底した一神教であるイスラームからみると、キリスト教が一神教からのとんでもない逸脱と映るのも当然だろう。イスラームの一元的世界観である「タウヒード」を視野に入れると、それがはっきりとみえてくる。このポイントにかんする中沢新一の説明はきわめて明晰だ。

 本書はポスト資本主義に対する見取り図そのものを示すものではないが、「資本主義にとっての他者」としてのイスラームを知ることの重要性を教えてくれる。

 そしてまた、いままさに生成、成長しつつあるイスラーム経済について、根本から理解するためにはきわめて有用な本であるともいえる。

 単行本が出版されてからの大きな変化は、「イスラーム金融」が世界の金融界で大きく浮上し、日本でも解説書が次々と何冊も出版されたことである。

 しかしながら、これらはほぼすべてが実務家による金融技術の解説書であって、宗教的、思想的意味について納得のいく説明は提供してくれない。

 「資本の自己増殖」を未然に防ぐ装置として、辣腕の商人であった預言者ムハンマド自身によってイスラームにビルトインされた「利子禁止思想」、この経済思想的な意味を考えることは「イスラーム金融」とは何かを考える上で必要であり、イスラームにとって経済とは何か、商行為とは何かを根本的に考える上で大いに参考になる。

 こういう観点から本書を読むことも可能である。

 「9-11以前」の中沢新一に見られた、持って回ったレトリック過剰な文体が大きく後退し、問題構造そのものに肉薄しようという気迫が感じられる文体に変化している。

 一気呵成に執筆したという気合いが伝わってくる本である。


■bk1書評「イスラーム経済思想の宗教的バックグラウンドに見いだした『緑の資本論』」投稿掲載(2009年7月30日)





<書評にかんする付記-「卒論」で取り扱ったテーマ>

 中沢新一が扱ったこのテーマは、かなりの部分、私自身が執筆した大学学部の「卒業論文」のテーマにかさなるものである。

 『中世フランスにおけるユダヤ人の経済生活』と題した卒論において、ユダヤ人信用業者について実態を詳しく検討するための前提として、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの「利子禁止思想」のそれぞれについて調べて言及している。

 卒論執筆当時に使用した参考文献で、中沢新一が言及していないが、重要なものについて解説することで、中沢論文の補強をしておこう。


■ユダヤ教の経済思想について

●Baron, Salo.W. , A Social and Religious History of the Jews Vol.7, Columbia University Press, 1968


 上記文献は、ユダヤ人コミュニティ内で「利子禁止」を守るために、いかなる議論が全世界に離散したディアスポーラのユダヤ人の間でかわされたかを示している。

 最終的にでた結論は、土地所有を禁じられたユダヤ人が生きていくためには、金貸しをやることを避けられない、しかしユダヤ人共同体内部では利子は禁止、ユダヤ人以外からは利子をとってもよい、というものであった。ウチとソトでの経済倫理の使い分けである。

 余談だが、ユダヤ人ネットワークのあいだで回覧された「レスポンサ」は、インターネットによるメールの原型的思考と考えてよい。バチカンを頂点とする中央集権型組織の原型をつくったカトリック教会とはまさに対極にある、ネットワーク型組織の1つの原型である。


PS 卒論執筆当時は知らなかったが、ユダヤ史の S.W. バロンは、ほぼ独力で「ユダヤ史」という分野を確立した歴史家。そもそもユダヤ民族には「歴史」という観念が欠けていたので歴史学が発達しなかったのである。この点は、インド人と似ている面がある。 (2014年1月24日 追記)


■キリスト教、とくに中世カトリックの経済思想について

●Noonan, John T., The Scholastic Analysis of Usury, Harvard University Press, 1957
●上田辰之助、『古代及び中世経済学史』、日本評論社、1939
●上田辰之助、『聖トマス経済学-中世経済学史の一文献-』、刀江書房、1933


 高利(=ウスラ:usura)禁止が崩れていくことに関しては、経済思想家でクエーカー教徒であった上田辰之助の著作をぜひ参照してほしかったもの。戦後の日本はあまりこの分野に関心がなかったようで、まとまった文献が存在しない。

 日本の経済学の建設者的存在であった福田徳三は、すでに明治36年(1904年)の論文「トマス・ダキノの経済学説」において、中世スコラ哲学、なかでもトマス・アクィナスの利子禁止学説は、近代経済学なかでもウィーン学派のベーム・バヴェルクの議論とは構造的に同じで、議論の前提をひっくり返すと利子がなぜ発生するかの議論になることを指摘している。

 日本経済学の草創期の知的関心のありかを示しており興味深い。

 中沢新一の議論にやや欠けているのは、「時間」にかんする議論である。中世スコラ哲学では、時間は普遍的な存在なのでわたくししてはならない、というのが根拠の1つであった。

 現在、資本主義社会おいて利子が正当化されるのは、まさにその「時間」ゆえである。

 ラテン語起源の「利子」(Inter-est) とは、あいだに(inter)存在する(est)ものを意味するコトバである。この存在する者を正当化したものが利子であり、宗教的な足かせが解除されたとき、利子は大手をふって正当化され、「自己増殖」への道がつけられることになる。

 キリスト教世界で最終的に利子を完全に正当化したのは、宗教改革後のプロテスタント神学者、スイスの国際的商業都市ジュネーブのカルヴァンであった。これ以後、資本主義は Point-of-No-Return を超え、もはや逆戻りのできない道へと入り込むこととなる。


■イスラームの経済思想について

●マクシム・ロダンソン、山内昶訳、『イスラームと資本主義(岩波現代選書)』、岩波書店、1978 が、卒論執筆当時は日本語で読めるほぼ唯一の文献であった。


 同書によれば、利子(リバー)禁止回避のテクニックは、「ひろく流布していたので、中世の西欧人にも、アラビア語の名前のままで使用されたほどであった」(P.58)とある。

 ユダヤ教とキリスト教の経済思想については研究上の大きな進歩はないが、この20年でイスラームの経済思想の研究は飛躍的に進歩しているようだ。

 とくに、中沢新一も使用している、現代イラクのシーア派哲学者ムハンマド・バーキル=サドルの三部作、とくに経済思想に関する書籍が日本語に翻訳されたことは画期的だといえるだろう。


●ムハンマド・バーキル=サドル、黒田壽郎訳、今村仁司解説、『イスラーム経済論』、未知谷、1993
●ムハンマド・バーキル=サドル、黒田壽郎/岩井聡訳、今村仁司解説、『無利子銀行論』、未知谷、1994



■中沢新一の「着眼点」の面白い点

 中沢新一の議論が面白いのは、資本主義をプロテスタンティズムと結びつけてきたこれまでの "陳腐な発想" から一歩踏み出して、キリスト教の構造そのものに深く迫っていることにある。それも信仰の観点ではなく、経済思想の観点から。この着眼点は素晴らしい。

 「父と子と聖霊の三位一体」、このうち「聖霊」とはギリシア語の「プネウマ」(pneuma)、キリスト教徒の評論家・山本七平が「空気」と呼んだものだ。

 中沢新一の論文『緑の資本論』を読むに当たっては、「聖霊」は「空気」と読み替えると理解しやすいかもしれない。

 いや、"スピリット"(Spirit)といったほうがより適切か? ドイツ語ではガイスト(Geist)。

 マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus)も、この「ガイスト」(Geist)を中沢新一的に「聖霊」と読み替えると、なにやら『プロ倫』の異なる側面が立ち上がってくるような気がする。 

 英語でいえば the Spirit of Capitalism、ドイツ語の原文だと der 'Geist' des Kapitalismus のことだが、念のためドイツ語の Geist を辞書で確認しておこう(Ref:『木村・相良 独和辞典(新訂版)』、博友社、1963)

①生命、生命力、活気、気息、息吹、生気、活気
②精神、心、霊魂
③智、智力、理知、才能、才気、判断力、思慮
④・・・精神の持ち主
⑤(時代・団体などに共通の)精神、気風、風潮
⑥霊、魂、亡霊、幽霊
⑦精霊、妖精、魔物、神
⑧根本思想(精神)、心髄、本質、精髄

  中沢新一は、プロテスタンティズムは「三位一体から精霊を解き放った」という表現をしているが、資本の無限増殖を加速させたメカニズムのさらなるアクセレレーターについての説明としては、レトリカルだが核心をついているというべきだろう。


■イスラームは「商人による商人のための宗教」

 本書は非常に面白い議論を提出しているが、単行本も文庫版も、カバーデザインがあまり感心しない。

 もっとイスラームの商人的特性を前面に出して、モロッコのスーク(市場)などのほうがいいのではないか? 最後の預言者であるムハンマド自身が辣腕の商人であったのだから。

 おそらく第一論文「圧倒的な非対称」執筆の契機となった、テロリスト・アルカーイダのイメージなのだろうが、イスラームをアルカーイダで表象するのは大きな問題、さらなる曲解を招くだけである。徹底した一神教の非妥協的性格の極限、という意味ではそのとおりなのだが・・・

 東南アジアのイスラームを知っている私には、正直いって違和感が強い。


(以上)



PS 本文を読みやすくするために改行を増やした。全文を点検したうえでリンクをアップデートし、<ブログ内関連記事>の項目を追加した。 (2014年1月24日)



<関連サイト>

イスラーム式経営術:「ある時払いの催促無し」案外合理的なイスラーム式お金の貸し借り (中田 考、日経BPネット、2014年5月2日)
イスラーム式経営術:自分のお金は手持ち現金のみと考える (中田 考、日経BPネット、2014年5月15日)

(2014年5月21日 項目新設)



<ブログ内関連記事>

■「一神教」の経済思想

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む
・・書評 『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)とこの2つのブログ記事で、一神教の宗教思想と経済思想については、ほぼ書き尽くしたはず。島田裕己の問題点は「ユダヤ=キリスト教」という宗教学の用語を無造作に使用しているために、現実のユダヤ教とキリスト教の区別がついていないことにある

書評 『アメリカ精神の源-「神のもとにあるこの国」-』(ハロラン芙美子、中公新書、1998)-アメリカ人の精神の内部を探求したフィールドワークの記録
・・イスラームを除いたキリスト教とユダヤ教という「一神教」についてのアメリカにおけるフィールドワーク

『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック、南満州鉄道株式会社調査部特別調査班、大連、1943)-25年前に卒論を書いた際に発見した本から・・・

書評 『1492 西欧文明の世界支配 』(ジャック・アタリ、斎藤広信訳、ちくま学芸文庫、2009 原著1991)-「西欧主導のグローバリゼーション」の「最初の500年」を振り返り、未来を考察するために
・・アルジェリア生まれのユダヤ系フランス人ジャック・アタリの「ユダヤ経済史」

マイケル・ムーアの最新作 『キャピタリズム』をみて、資本主義に対するカトリック教会の態度について考える

書評 『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)-魂の哲学者・井筒俊彦の全体像に迫るはじめての本格的評伝
・・世界的なイスラーム思想研究の権威はまた日本が生みだした不世出の哲学者でもあり、若き日にはカトリック神秘思想に近づいていた人でもある

ユダヤ教の「コーシャー」について-イスラームの「ハラール」の最大の問題はアルコールが禁止であることだ
・・宗教による「食事規制」について、生活全般を律するユダヤ教とイスラームには共通点と相違点がある。共通点は家畜(pecus)としての羊。家畜は貨幣(pecunia)となる

タイのあれこれ (18) バンコクのムスリム
・・この記事では、タイ人ムスリムを中心に書いてある

バンコクのアラブ人街-メディカル・ツーリズムにかんする一視点

本日よりイスラーム世界ではラマダーン(断食月)入り
・・井筒俊彦訳の『コーラン』(クルアーン)についても言及。『ハディース』の詳細についても

「マレーシア・ハラール・マーケット投資セミナー」(JETRO主催、農水省後援)に参加

書評 『マネーの公理-スイスの銀行家に学ぶ儲けのルール-』(マックス・ギュンター、マックス・ギュンター、林 康史=監訳、石川由美子訳、日経BP社、2005) ・・聖職者カルヴァンを生んだスイスは金融の中心地のひとつになった


■資本主義の「自壊」(?)と資本主義の「オルタナティブ」

『資本主義崩壊の首謀者たち』(広瀬 隆、集英社新書、2009)という本の活用法について

書評 『資本主義以後の世界-日本は「文明の転換」を主導できるか-』(中谷 巌、徳間書店、2012)-タイトル負けした残念な内容の本

「雷龍の国ブータンに学ぶ」に「学ぶ」こと-第3回 日経GSRシンポジウム「GSR と Social Business 企業が動けば、世界が変わる」に参加して

資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」について
 
『Sufficiency Economy: A New Philosophy in the Global World』(足を知る経済)は資本主義のオルタナティブか?-資本主義のオルタナティブ (2)

資本主義のオルタナティブ (3) -『完全なる証明-100万ドルを拒否した天才数学者-』(マーシャ・ガッセン、青木 薫訳、文藝春秋、2009) の主人公であるユダヤ系ロシア人数学者ペレリマン

ETV 「日本人は何を考えてきたのか」 第8回「人間復興の経済学をめざして-河上肇と福田徳三」は見るべき価値のある番組


■中沢新一関連

"粘菌" 生活-南方熊楠について読む-

書評 『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)-東京という土地の歴史を縄文時代からの堆積として重層的に読み解く試み

書評 『日本の文脈』(内田樹/中沢新一、角川書店、2012)-「辺境日本」に生きる日本人が「3-11」後に生きる道とは?

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ
・・先行する宗教学者としての中沢新一と島田裕己批判の書でもある


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