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2009年5月31日日曜日

アッシジのフランチェスコ (4) マザーテレサとインド




NHKスペシャルで「インドの衝撃」という番組をやっている。過去の放送内容が文藝春秋社からは単行本としての2冊刊行されている。現在のシリーズもまた充実した内容であり、見るだけでもたいへん勉強になる。映像のもつ力といえよう。
 本日31日の放送内容は、今年5月行われた総選挙についてである。結果としては与党である国民会議派の続投となったので、ビジネスマンの私としては安心しているが、選挙権をもつものが7億人もいるという「世界最大の民主主義国家」インド最大のウッタル・プラデーシュ州を舞台に、4つのカーストの下に位置する「ダリット」(dalit:undercaste)を政治的基盤にした大衆社会党と国民会議派との一騎打ちの様子を密着取材した、たいへん興味深い内容であった。

 「ダリット」からは、インドの新仏教運動を興したアンベードカル博士が生まれている。放送では博士についてふれているが、新仏教について言及しないのは片手落ちであるといわざるをえない。しかも博士の後継者が日本人の僧侶であることは、日本人なら知っておくべきだ。『男一代菩薩道-インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々木秀嶺-』(小林三旅、今村守之=構成、アスペクト、2008)という本は近年にない熱い内容だ。

 個人的には、インドは1995年にブッダロードとチベット族居住地帯であるラダックを旅したあと、12年ぶりとなる2007年にはビジネス・ミッションに加わって、デリー(再訪)と近郊のグルガオン、南部の高原にあるIT産業の中心都市バンガロールを訪問したが、いまだボンベイ(現ムンバイ)もカルカッタ(現コルコタ)も訪問できていない。
 とくにカルカッタは、明治以来の日本とも密接な関係にあるベンガル地方の中心都市である。タゴールと岡倉天心に始り、中村屋カリーのボース、インド独立戦争のチャンドラ・ボース、経済学者アマルティヤ・センにつながる流れ。ベンガル地方訪問は私にとっては今後の懸案課題として残っている。さて、いつ実現することか?

 さて、カルカッタといえばスラム、スラムといえばマザー・テレサである。マザー・テレサこそ、20世紀後半のインドで「フランチェスコ精神」を貫いた人であったといえる。
 アンベードカル博士の新仏教でも、ヒンドゥー教でも、ビジネス関連でもなく、マザー・テレサを通じてインドをみることも重要だろう。

 数年前に日本で公開された、オリヴィア・ハッセイ主演の『マザー・テレサ』をみれば、マザー・テレサが不退転の意思で人生に臨み、明るく快活で、精神的に実にタフな人であったことがわかる。アッシジのフランチェスコそのものの、無私の精神に貫かれた、本当の意味のリーダーであったことも理解することができる。
 ただフランチェスコと大きく異なるのは、観想生活にひきこもることはせず、死ぬまで第一線で奉仕の人生を貫いたことにある。

 だいぶ前になるが、マザー・テレサのドキュメンタリーのビデオ『Mother Teresa : A Film by Ann and Jeanette Petrie with a Narration by Richard Attenborough』(1986年)を見てたいへん感銘を受けたので、その翌日雑談の際に会社でその話をしたら、どうやら場違いな話をしてしまったようで、その場ではやや敬遠されてしまった、という苦い経験がある。話題によっては話す相手を選ばないといけない、と深く胸に刻み込んだ。

  
 経済成長により都市と農村の格差が拡大し、人口の6割が貧困層になっているというインド。農村に居住するバラモンですら窮乏化しているという現実がある。
 本日の放送では触れられていなかったが、『ITとカースト-インド・成長の秘密と苦悩-』(伊藤洋一、日本経済新聞出版社、2007)によれば、能力主義を貫くIT産業発展のおかげで、少なくともIT産業内部ではカーストの壁も崩れつつあるらしい。
 とはいえ、中間層のあいだではビジネス社会における過度のストレスにさらされ、精神的な貧困も進んでいるということも聞く。『インドの時代-豊かさと苦悩の幕開け-』(中島岳志、新潮社、2006)を読むと、インドは日本化しているのか?という感想ももたざるを得ないほどだ。

 ビジネスを通じた貧困解消には限界があることは、中国をみれば明らかだ。貧富の差が極端に拡大しつつある中国は、いまや社会矛盾のかたまりと化している。
 たとえ、経済発展してもその成果が貧困層に再配分されるメカニズムが十分に機能しないと、とてもサステイナブルな経済発展とはならないであろう。
 世界銀行副総裁を務めた西水美恵子さんの著書、『国をつくるという仕事』(英治出版、2009)では、何よりもリーダーシップの重要性が強調されている。「・・貧困解消への道は、「何をなすべきか」ではなく、「すべきことをどう捉えるか」に始まると。その違いが人と組織を動かし、地域社会を変え、国家や地球さえをも変える力を持つのだと」(P.8)。

 経済的な貧しさならある程度まで解決可能かも知れない。
 しかし、マザー・テレサがいうように、先進国では(インドも一部ではそうなりつつある)、「精神の貧困」が大きな問題として拡大している。経済的な貧困、精神的な貧困、この二つの解決のためにはマザー・テレサのようなプローチも欠かせないのである。
 もちろん、マザー・テレサのように生きることは、大半の人にとっては、もちろん私も含めて、不可能である。だがそういう生き方もあるのだということを、せめて心の中だけにでも留めておきたいのである。
(つづく)

                        



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アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)


    



                           

2009年5月30日土曜日

アッシジのフランチェスコ (3)  リリアーナ・カヴァーニによる




 リリアーナ・カヴァーニ監督の『フランチェスコ(Francesco)』(1989年)を先日やっと見ることができた。これで主要なフランチェスコ映画をすべて見たことになる。

 主役のフランチェスコ役がミッキー・ロークというのは、実際のフランチェスコが小柄だったことを知っているので、DVDを見る前も見ている最中もミスキャストではないか、という感じをずっと抱きながら最後まで見たのだが、フランチェスコの生涯を、キアーラも含めた弟子たちが回想するという形をとったこの映画は、かなり鮮烈な印象の強い、宗教性の濃厚な作品であった。

 カヴァーニといえば、ナチス収容所所長と収容されていたユダヤ人少女との倒錯的愛を描いた『愛の嵐』(The Night Porter:1973年)で有名な女流監督である。女性哲学者ルー・サロメとニーチェとの関係を描いた『善悪の彼岸』(1977年)、谷崎潤一郎原作の『卍 The Berlin Affairs』(1985年)、チベットの聖者伝『ミラレパ』(1973年)は、私自身すでに見ている。
 ヴィスコンティ監督の弟子であるカヴァーニは、オペラ演出も手掛けており、師と同じくドイツものが多い。同じくヴィスコンティの弟子であるゼッフィレッリもオペラ演出家であるが、ゼッフェレッリの作品のもつほがらかさとは正反対の、耽美的な映像世界を作り出している。
 ゼッフィレッリは、シェイクスピア作品の映画化にみられるように、むしろ英国への親近感のほうが強いと思われる。フィレンツェ出身であることが、そうしているのであろう。『ムッソリーニとお茶を』(1999年)はまさに英国愛にあふれた作品である。

 カヴァーニの『フランチェスコ』は『愛の嵐』と同様、やや陰鬱な影をもった、深みのある映像に終始している。
 キャスティングについては、ミッキー・ローク(あくまでも当時の!)の醸し出すセクシュアルでかつセンシュアルな存在が、聖人といわれているフランチェスコも、実は生身の肉体をもつ一人の男でったことを忘れさせない、という意味だったのか、などと考えている。男と女という実存抜きに人生を、宗教を語ることはできない。

 そんなことを考えていたときに、イタリアの中世史家キアーラ・フルゴーニによる、『アッシジのフランチェスコ-ひとりの人間の生涯-』(三森のぞみ訳、白水社、2004、原著:Vita di un uomo: Francesco d'Assisi, Chiara Frugoni, 1995)の訳者解説をパラパラと読んでいたら、カヴァーニの映画のフランチェスコは、フルゴーニが描いたフランチェスコにかなり近い、といっているのが目にとまった。そこでこの本を通して読んでみたのだが、いままで『ブラザーサン シスタームーン』で頭の中に描いていたフランチェスコとは大いに異なるフランチェスコ像を初めて知ることができた。

 裕福な家庭の出身ながらすべてと訣別し、あらたな道に踏み出すことを決断した一人の青年フランチェスコ。
 人々の無理解と苦難を味わいながらも、自ら信じる道を切り開いていった人間フランチェスコ。
 世の中に認められ、弟子が増えていくにつれて直面した「組織」という問題に悩むフランチェスコ。
 いったん出来上がった組織は教団として制度化する方向へと動き出し、組織のもつ論理で存続発展しようとするために、そこに違和感を感じ、疎外感を感じ、最終的に居場所を見つけられなくなってしまうフランチェスコ。
 自分のいっていることが本当には理解されていないのではないか、という深い絶望の中に生きる一人の人間フランチェスコ。
 集団を離れ、山中にひきこもっての40日間の断食と瞑想、そして自らの肉体に受けた聖痕(stigma)という喜び・・・

 肉体をもつ人間であるからこそ、人間存在につきまとう悩み、苦しみ、希望、絶望、といったもろもろが、普通の人間であるわれわれにも感じることができる・・・
 フランチェスコは一歩踏み出した人である、種をまいた人である。だが決して成功者ではない、むしろ本人の自意識においては失敗者だったのだろう。

 こういう意味で、リリアーナ・カヴァーニとキアーラ・フルゴーニという二人のイタリア人女性が、フランチェスコをきわめて近い視線で見ていることに気づく。
 聖女キアーラ(=聖女クララ)と同じ名前をもつフルゴーニは、フランチェスコに寄り添い、慈しみのまなざしで見守っている。文献資料と図像研究をあわせた歴史記述は説得力がある。ジオットについても新しい見方を教えられた。
 フルゴーニはこう書いている。 「福音の教えに従うフランチェスコは男女の扱いには相違を認めなかった。・・・フランチェスコによれば、神は、明白な功または罪をもつひとりの男、あるいは女を創ったのではなく、ただ人間を創ったのであった。男であるか、女であるかは二次的な特徴にすぎなかった」(P133-134)。

 ゼッフイレッリ監督は、自伝の中でフランチェスコのことを、こういっている。「・・聖フランチェスコはイタリアでもとくに気難しい聖人として知られている。映画が描いた彼の人生の前半では、彼は自然と調和した素朴で聖なる生活を送ったが、年を取ってからは複雑で重い性格に変わった。老年期には神秘主義に傾き、妥協がなく気難しかった。瞑想に生き、超世俗的な生活を送り、厳しく近寄りがたい存在になったのである。この晩年の聖フランチェスコの精神を思えば、彼は人が来るのを好まなかったのだ」(自伝 P.456-7)。

 同じく男性のデンマークの詩人ヨルゲンセンは1907年に出版したフランチェスコ伝では、vita contemplativa(観想的生) と vita activa(活動的生) の間で揺れ動くフランチェスコを描いている。『アシジの聖フランシスコ』(永野藤夫訳、平凡社ライブラリー、1997)は、戦前の日本でもよく読まれたという。思想家の林達夫は久野収を聞き手にした対談集『思想のドラマトゥルギー』(平凡社選書、1974)では、第5章「聖フランチェスコ周辺」で、戦前1915年以降の日本でフランチェスコ・ブーム?があったことを回想して、ヨルゲンセンの本についても触れている。

 それぞれのフランチェスコ理解がある。
 男の実存と、女の実存は、同じ人間であるといっても違いがあるのは当然だ。
 同じ一人の人間をみるまなざしにも、さまざまなものがあっておかしくない。一人一人がフランチェスコに何を重ね合わせて見るのか・・・「自分が見たいものを見る」、「自分が見たいものしか見ない」、それはすべての人にとって否定できない事実である。
 もちろん私も例外でなく。

(つづく)


<朗報!>
ミッキー・ローク, ヘレナ・ボナム=カーター主演のDVD フランチェスコ-ノーカット完全版-、ついに日本版が発売!!(2010年1月22日)






     

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アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)

       



   

2009年5月29日金曜日

アッシジのフランチェスコ (2) Intermesso(間奏曲):「太陽の歌」


             
 聖フランチェスコは自然を賛美し、小鳥たちに説教した、などのエピソードから、教皇ヨハネ・パウロ2世が正式に「環境保護の聖者」として認定したという。カトリック教会もフランチェスコの現代的意義の一つをそこに見出しているようだ。

 フランチェスコ晩年の通称「太陽の歌」(正確には、「被造物の賛歌」 Cantico delle Creature)では、神が創造した被造物(creature)として、太陽も月も、その他水も火も、すべての自然物を兄弟姉妹として同等に扱っている。ゼッフィレッリ監督の『ブラザーサン・シスタームーン』という映画タイトルはこの「太陽の歌」から採られている。

 こころみに Google でイタリア語の Cantico delle Creature と検索してみるとよい。YouTube で「太陽の歌」の映像と音声を聴くことができる。
 一般にダンテがトスカーナ方言をもとにイタリア語文章の基礎を創ったといわれるが、それより以前に聖フランチェスコは教会で正式に使用されたラテン語ではなく、一般民衆向けの説教で使っていたイタリア語で詩作していることは意味が大きい。イタリア語による詩歌集の一番最初にでてくるのが聖フランチェスコの「太陽の歌」であることからもそれがわかる。つまりイタリア人ならみな知っている、ということだ。

 ところで、アッシジのフランチェスコについて書く前に、私のブログでは偶然のことながら、松尾芭蕉の『奥の細道』を取り上げていた。
 意図して取り上げたわけではないのだが、芭蕉も「太陽と月」を取り上げていた、なんという偶然か!

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり・・・」という冒頭の文章は、日本語だと、月日イコール歳月なのでこれまで何も考えていなかったのだが、さきに紹介したSam Hamil による英訳では、「The Moon and Sun are eternal travelers. Even the years wander on.・・・」とあって、「月日」というのは、文字どおりに解釈して、物理的な月と太陽をさしているのか、とあらためて気がつかされた。
 そうか、月日というのは、ブラザーサン・シスタームーンと同じことをさしていっているではないか。順番は逆になっているとはいえ・・・

 イタリア語では太陽は男性名詞、月は女性名詞であり、現代イタリア語ではそれぞれ frate sole, sorella luna (フラーテ・ソーレ、ソレッラ・ルーナ)となる。フランス語も、スペイン語もラテン語系の言語ではみな太陽は男性、月は女性である。
 ちなみにフランチェスコは「死」のことを「姉妹である死」、といっているが、現代イタリア語では sorella morte (ソレッラ・モールテ)と、柔らかく包み込むようなやさしさをもった音であることは、「死」のとらえ方として重要かもしれない。英語で sister death というと、響きがあまりよくない。

 日本語には文法上の性であるジェンダーは存在しないが、記紀神話では太陽神である天照大神(アマテラス・オオミカミ)は女性(!)であるのに対し、ツクヨミといわれる月の神は一般に男性とされているのは面白い。「原始、女性は太陽であった」と宣言した平塚らいてふではないが、発想が正反対である。

 フランチェスコと芭蕉の共通点は、太陽も月も「擬人化」していることだ。フランチェスコは兄弟と姉妹に、芭蕉は旅人(性別不詳)になぞらえている。さらに芭蕉は、月も太陽も「永遠の旅人」、つまり循環する時間の中にあることをいっている。
 しかしながら両者のあいだでは、自然に対する見方がまったく異なることに気がつかされる。
 フランチェスコの歌では、太陽も月もその他自然と同じく、あくまでも神の「被造物」であるのに対し、芭蕉にあっては、太陽も月も自分とは異なる存在であって、しかも人間と同列の存在とはみていない。芭蕉にあっては、そもそも「究極の存在者」をどう想定しているのか不明である・・・

 こんなことを考えていくと、ひとくちにエコロジー、自然環境保護といっても、洋の東西では発想そのものが大きく異なることがわかってくる。
 神なき現在とはいえ、やはり西洋人の思考の深層には神が存在するのであり、つまり「隠れた神」の存在は無視できない。
  
 したがって、エコロジーに対する考え方も実は大きく異なるのではないか、と考えたほうがよさそうだ。
 このブログでもたびたび神社の森の話を書いているが、日本人はあくまでも神(々)が降りてくる「依りしろ」として森を捉えて神社の森を守ってきたのであり、森が神の被造物であるとは捉えてはいない。
 環境保護団体のグリーンピースや、シーシェパードにみられるように、イデオロギーとして過激化しがちなの環境保護とは大きく異なる。
 違和感を感じるのは、ここらへんに原因があるのではないか、という気がしてきた。そもそもシェパード(shepherd)というのは羊飼いのことであり、もともとはキリスト教的色彩の濃厚な比喩であることに注意しておきたい。「海の羊飼い」は、「海の羊であるクジラ」を襲う「日本の捕鯨船という狼」を絶対に許すわけにはいかないのだ、こういうロジックだろうか。

 まあ、結果よければすべてよし、最終的に環境が保護されればいいのではあるが・・・
 とはいえ、「環境保護の聖者」としての聖フランチェスコというのは、なんかあまり好きにはなれないのは考えすぎであろうか?
 何事であれ、現代の視点から、過剰な意味づけをしすぎるのは控えたほうがよいのではないだろうか? 
 かっかせず、ほがらかにいきたいものだ。

(つづく)



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アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)





   
   

2009年5月28日木曜日

アッシジのフランチェスコ (1) フランコ・ゼッフィレッリによる



           
 13世紀イタリアが生んだ聖フランチェスコについては、フランコ・ゼッフィレッリ監督の『ブラザーサン・シスタームーン(Brother Sun, Sister Moon)』(1972年)でよく知られている。
 イタリア中部ウンブリア地方のみずみずしく美しい自然、いっさいの所有からの自由を求める「清貧」。
 オペラ演出家でもあるゼッフェレッリの美しい映像は、ドノヴァンのフォーク調の穏やかな旋律の主題歌ともあいまって、見るたびに心を洗われてきた。ラストシーンは何度もDVDで繰り返してみているほどだ。
 映画制作当時のヒッピームーブメントの影響もあり、シンプルライフ志向のさきがけのような映画である。
 「カトリック青春映画」と銘打たれていたこともあるが、聖者伝というよりは青春映画といったほうが適切だろう。同じ監督によるオリヴィア・ハッセイ主演の 『ロミオとジュリエット』 (1968年)とともに忘れがたい青春映画の名作である。

 1991年にイタリアを北はヴェネツィアから南はシチリアまで一か月かけて鉄道で回った私は、当然のことながらアッシジも訪れている。大学院留学中の夏休みを利用してのはじめてのヨーロッパの旅、Eurail Pass と Youth Hostel 会員証をフルに活用した旅であった。
 ニューヨークから、ロンドン経由ボンベイ行きの格安のエア・インディアを使ってロンドンへ。英国から大陸へはフェリーでフランスのカレーへ。オランダ、ドイツはさっと通り抜け、ウィーンから夜行列車でヴェネツィアへ抜けたところからイタリアの旅が始まる。
 ゲーテではないが、イタリアにすっかり魅了されてしまったのだ。結局イタリア全土を回ることにしたのは成功だったと思う。人生も旅も予定のコースを外れて寄り道を歩くのは楽しいことだ。

 アメリカで購入して持参したガイドブック 『Let's Go Europe』 はアメリカの大学生が取材して作ったもので、たいへん役にたつスグレものであった。その当時の『地球の歩き方』は、とくにイタリア編は、ニューヨークの紀伊国屋書店で立ち読みしたが、観察力の乏しい旅行者の投稿情報を載せすぎで、しかも内容は情緒的な記事が多くて実用性に乏しく、まるで役に立たない代物であった。もっともその当時イタリアは現在ほどの人気はなく、しかも男性でイタリアに関心があるものなどきわめて少なかったのも事実だが。
 また、現在では定番のガイドブック 『Lonely Planet』 も当時はそれほど普及していなかった。その当時はどちらかといって、バックパッカー向けの辺境地帯のガイドブックが中心だったように思う。
 パリのセーヌ川にかかるミラボー橋で 『Let's Go Europe』を読みふけっていたら、アメリカ人の学生から声をかけられたことがあったのを思い出した。同じガイドブックをつかっていることに郷愁を感じたのだろうか?
 当時はよく「アメリカ人か?」とかいわれたものだ。アメリカ人というのは人種概念ではないから、英語をしゃべっていればアジア系だろうがアメリカ人扱いされることもある。
 なお、『Let's Go Europe』 は、amazonをみたら、現在でも改訂版がでているようだ。学生の身分でBudget Travel するなら、いいガイドブックである。日本では入手しにくいだろうが、アメリカの大学 Bookstore なら置いてあるはずだ。もちろん amazon でも購入可能。

 さて、イタリアの旅はヴェネツィアから始まったのだが、予約なしでヴェネツィアに宿泊するのは現在でもまったく不可能である。そこで、列車で30分ほど西に行ったパドヴァのユースホステルに宿泊することにした。
 パドヴァはヴェネツィア共和国にとって後背地にある知的センターであったことは、塩野七生の読者なら知っているかもしれない。パドヴァ大学には、1453年のコンスタンティノープル陥落でビザンツ帝国の学者が大量に亡命してきており、その後も「それでも地球はまわる」といったガリレイや、血液循環で有名なウィリアム・ハーヴェイなどがおり、また世界でもっとも古い円系劇場型の解剖学教室が残っていて素晴らしい。
 この時はこういった歴史的遺産を見ることができなかったが、2006年に15年ぶりに再訪した際に、パドヴァ大学内部だけでなく、ゲーテが訪れた植物園、ジオットの壁画で有名なスクロヴェーニ礼拝堂も見ることができた。15年目にして懸案事項が解決されたわけである。

 Youth Hostel 会員証は、北イタリアでは非常に使いでがあったことを記しておく。
 イタリアではかなり古くて趣のある建築を買い取ってユースホステルとして利用しているものも少なからずある。パドヴァのユースもそうであった。早朝、霧が立ち込める中、先着順でチェックインを待っていたことを思い出した。円形の筒のようなくすんだ色をした建物であったように記憶している。
 フィレンツェでも、シエナだったか覚えていないが、海岸沿いの小さな町で、壁にフレスコ画が残る御屋敷に泊まれたのも、ユース会員権のおかげであった。

 えらく遠回りしてきたが、そろそろアッシジに行かないといけない。
  『Let's Go Europe』には、アッシジは世俗的な傾向の強いイタリアのなかでは例外的で、女の子も男性の視線を気にすることなく安心して過ごせる町だと書かれていたが、まさにそのとおりだった。
 イタリアは全般的に男は男らしさを、女は女らしさを過度に強調して見せる傾向があり、地中海世界というか、ラテン的な特性が全面にでている国である。ファッション雑誌の『LEON』なんか持ち出さなくても周知のとおりだ。

 そんななかにあってアッシジは、かなり趣の異なる町なのである。
 小高い丘の上にある町で、石畳の坂道が多いのはイタリア共通だが(・・マラリアを避けるために丘の上に町が作られたとあったのを読んだことがある。イタリアのスーパーマケットでは日本の蚊取り線香を売っていた)、有名な「宗教都市」でありながら陰鬱なところのまったくない、修道士も含めほがらかな雰囲気に満ちた町であった。フランチェスコ教会にある、ジオットのフレスコ画ともども強い印象に残っている。
 その後の大地震でフレスコ画も損傷を受けたというニュースを聞いたが、修復は完了したようで安心している。先日も大きな地震があり被害も大きかったようだが、シチリアにストロンボリという活火山もあるイタリアは地震国である。ゼッフィレッリ監督も、撮影中18回も地震に見舞われたのだ!と自伝に書いている。
 アッシジ(Assisi)は実際の発音はアッスィージに近いので若干異なるのだが、日本人が日本語でアッシジと発音するとき、音が共通しているので、何かしら薬師寺(やくしじ)を連想させるのも、日本人にはしたしみやすいのかもしれない。

 『ブラザーサン・シスタームーン』が、時のローマ教皇インノケンティウス3世に布教を認められるシーンをハイライトとして終わるが、これは実はきわめて重要なシーンなのである。
 「組織」としてのローマカトリック教会を修復するために、その当時の時代状況のなかで異端すれすれであったフランチェスコを、教会内部に抱き込むことで一般信徒たちの離反を防いだ、という組織運営上の大決断であったのだ。
 このことは、中世史家である堀米庸三の名著 『正統と異端-ヨーロッパ精神の底流-』(中公新書、1964)が、教皇とフランチェスコ会見を「一つの世界史的な出会い」(P.181)と表現している。高校時代に読んでから約20数年ぶりに読み返して確認した。この本は残念ながら絶版。

 音楽については、最初はシンガーソングライターのレナード・コーエンと作業したがしっくりこないのでやめて、最終的にドノヴァンに依頼したと監督は回想している。結果としてこれは成功だったといえよう。
 ユダヤ系カナダ人のコーエンにはイエス・キリストを主題にした曲もあるが、むしろユダヤ神秘主義であるカッバーラー、禅仏教やチベット仏教に傾倒した人なので、曲は作れてもカトリックのゼッフィレッリ監督にしっくりはこなかった、というのもうなづける話だ。
 そもそも低音がウリの歌手だから「青春映画」にはふさわしくないし、フランチェスコの単純さとは異なる精神性を追求している。
 とはいえ、レナード・コーエンは私のもっとも好きな歌手である。いまも彼のCDかけながらこの文章を書いている。

 アッシジのフランチェスコを扱った映画は多数製作されている。イタリア人の映画監督によるものを挙げておく。

 ネオレアリスモの監督ロベルト・ロッセリーニの『神の道化師 フランチェスコ(Francesco, Giulare di Dio)』(1950年、脚本はフェデリコ・フェリーニ)は、ローマでの教皇との会見からアッシジに戻るシーンから始まり、布教のために弟子たちが各地に散っていくシーンで終わる。 イタリア人にとってはフランチェスコについて改めて説明する必要がないから、エピソードを集めたオムニバス形式にしたのであろう。

 さらにもう一つ、同じくイタリア人のリリアーナ・カヴァーニ監督の『フランチェスコ(Francesco)』(1989年)であるが、長くなったので、続きは次回としよう。 (つづく)

<参考>
フランコ・ゼッフィレッリ、木村博江訳、『ゼッフィレッリ自伝』、創元ライブラリー、1998





P.S.
『ブラザーサン シスタームーン』(日本語版)ラスト7分:クライマックスからエンディングテーマへ
http://www.youtube.com/watch?v=DBNYhr4QY6M (音声に注意!)


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アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)





  

2009年5月27日水曜日

行く春や 鳥啼き 魚の目は泪 (芭蕉)


 季節は初夏、すでに春は過ぎ、かつをの美味い季節である。

 そんなとき思い出すのが、芭蕉のこの一句。『奥の細道』の最初から二番目にでてくる俳句である。芭蕉46歳のときの旅だが、現在の年齢でいえばもう60歳を過ぎての旅立ち、と考えていいだろう。

 『奥の細道』冒頭の文章はいまでもソラで暗唱できる。暗唱というのはたいへんよい教育だといえよう。よい日本語の文章のリズムをカラダに沁み込ませることができるから。

 徒然草でも、方丈記でも、平家物語でも、源氏物語も、伊勢物語も、みなもちろんいまでも冒頭の文章は暗唱可能だ。百人一首も高校時代暗記させられたが、いまでは上の句と下の句がただちに結びつかなくなってしまっているのはまことにもって残念だ。正月に歌留多しなくなって久しいから仕方ない、か。

 暗唱は英語でも、それ以外の言語でも同様だ。極端にいえば、トロイを発掘したシュリーマンのように、本をまるごと1冊を暗記してしまうのが、語学上達の秘訣である。『古代への情熱』にその方法で古代ギリシア語含めて数ヶ国語をものにしたことが書かれていたのは、少年時代に読んで強く印象に残っている。とくにロシア語が自分の商売拡大の上で大いに役立ったことが強調されていた。
 
 さて、表題の句がでてくる前振りの文章は以下のとおりだ。

 弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明(ありあけ)にて光おさまれる物から、不二(ふじ)の峰幽(かすか)に みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
 むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云(いふ)所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
 
  行春や鳥啼魚の目は泪
  (ゆくはるや とりなき うをのめはなみだ)


 是を矢立(やたて)の初(はじめ)として、行道(ゆくみち)なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後(うしろ)かげのみゆる迄はと見送なるべし。


(出典)Japanese Text Initiative および 『芭蕉 おくのほそ道』(萩原恭男校注、岩波文庫、1979)   

(付記)Japanese Text Initiative は、バージニア大学図書館エレクトロニック・テキスト・センターとピッツバーグ大学東アジア図書館が行っている共同事業だ、とウェブサイトにある。アメリカの大学が日本文学のデータベース化をすすめているとはねえー、国文学は専門ではないので知らなかったが、驚きだ)


 陰暦3月27日は、太陽暦5月16日だと岩波文庫本の脚注にあるから、ちょうど今ごろの時分である。芭蕉は深川の芭蕉庵から舟で隅田川を約10kmをさかのぼり、千住まできて陸にあがったらしい。そこで詠んだのがこの句だが、意味は素直に読めば難しくない。英訳を示しておこう。

 Spring passes
 and the birds cry out ---
 tears in the eyes of fishes


(出典)Narrow Road to the Interior, translated by Sam Hamill, Shambala Centaur Edition, 1991

 高校時代、面白い解釈をしたヤツがいたのを思い出す。いわく、芭蕉は「魚の目」が痛くて泣いたのである、と。いわれてみれば面白いが、どうなんだろうかねー? たしかに魚の目は痛いが、これは「トンデモ」解釈としかいいようがないだろうなあ。
 
 これも同じく高校時代だが、日本史の授業で聖徳太子が隋の皇帝に親書を送った、という有名な史実を習ったあとの休み時間のことだ。この親書で聖徳太子は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」と書いているのだが、「つつがなきや、っていうのはツツガムシがいないから痒くないということなんだぜ、えーほんとかよー、なんて会話が交わされたのだが、こちらは必ずしも「トンデモ」でもないようだ。とはいえ、そうではないという主張も優勢ではある。

 まあ、民間語源説というのは話のネタとしては面白いが、信憑性については疑問、というケースが多いものだ。
 同じく文学作品の非常識な解釈もまた面白いことは面白いのだが・・・書かれた瞬間から作者の手を離れてしまうのは、けっして文学作品だけではない。難しいねー。
       

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・・『奥の細道』の旅の意味の一つが出羽三山の山伏修行

書評 『独学の精神』(前田英樹、ちくま新書、2009)
・・「古人の求めたる所を求める」(芭蕉)ことを通じて「独学」する



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2009年5月25日月曜日

『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』(植島啓司)-「屋久島」と対比しながら読んでみる




 宗教学者による「熊野考」。民俗学が人が神を祀る、という観点からの学問だとすれば、宗教学は神の側から人間へのアプローチを考える、と著者はいう。
 その著者からみれば、岩など自然物そのものが御神体となった神社の多い熊野は、まさにうってつけのフィールドといえるだろう。
 本書は、熊野出身の写真家・鈴木理策氏があらたに撮り下ろした写真とあいまって魅力的な熊野入門書になっている。

 熊野の魅力は、著者による以下のような多面的アプローチで解明されていく。
 熊野の神々は記紀神話からはみでてしまう土着の神々であり、産土(うぶすな)神の性格を濃厚にもったものであり、単体の神社というよりも熊野の神々を総称したものである。この上に神道、仏教、修験道が重層的に重なり合い神仏習合としての聖地となった。
 熊野は別名「こもりく」といわれるが、これは籠り(incubation:宗教学的な用法。もともとは親鳥が雛を育てること。ビジネスの世界では起業の孵化器の意味)と託宣の場であり、岩盤性の切り立った海に面した絶壁は、古代ギリシアのデルフォイに比すことのできるもの。
 火山性の固い岩盤と鉱物資源、豊富な温泉は、死と再生の場でもあり、厳しい自然環境の上に、豊富に降り注ぐ雨が作った豊かな森は、籠りの場として、むしろ母性的な意味合いをもつ。つまり、すべてを受け入れ、そしてあらたに何かが生み出される場所なのだ。

 近年パワースポットという表現がポピュラーになっているが、現代でも日本人は森を前にすると、森の中に入るとなぜか生き返ったように感じる。
 日本国内で熊野に匹敵しうるのは、同じような自然条件にある屋久島くらいだろう。さまざまな神話や物語が堆積している意味で、熊野は屋久島以上に魅力的といえるかもしれない。
 実際、私自身、熊野はすでに1995年と2003年の二回にわたって旅してしており、大雨という自然条件に泣かされたこともあっても、そのことも含めて私は強い印象が思い出となって記憶に刻み込まれている。
 屋久島も同様に、予期せぬ大雪で観光客のまばらな2005年2月に、登山靴にアイゼンつけて雪山を歩き、縄文杉をみにいってきた。屋久島でも熊野と同様、温泉で癒された。
 熊野、屋久島ともに再訪したいと心から念願している。

 日本人にとっての信仰の原点、聖域がこの森であり、とくに海と山が出会う場所である熊野は、きわめつきの魅力をもつのである。熊野は、世界遺産に登録されたことにより、日本人自身が原点に立ち戻るきっかけになることが望まれる。
 著者もいうように、近代日本を襲った数々の宗教弾圧・・・明治維新の際の神仏分離(=廃仏毀釈)、明治末期からの神社合祀令、敗戦後の占領軍による神道指令・・・でズタズタにされた日本人本来の信仰の回復のために。

 本書は導入に折口信夫の「産霊(むすび)の信仰」を使っているが、那智山中に3年間滞在した南方熊楠に一言も触れていない。折口信夫には釈超空の名で「海やまのあひだ」という歌集があるので、よりふさわしい人選ではある。
 いかなる理由かは知らないが、南方熊楠抜きの熊野、というのも熊野に対する一つの態度ではある。
 私としては、この両巨人をぶつけてほしかったのだが。


<読書案内> 

植島啓司、鈴木理策=写真、『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』、集英社新書ヴィジュアル版、2009
青山潤三、『屋久島-樹と水と岩の島を歩く-』、岩波ジュニア新書カラー版、2008




                

2009年5月24日日曜日

ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日 2009




ブッダン・サラナン・ガッチャーミ 
ダンマン・サラナン・ガッチャーミ 
サンガン・サラナン・ガッチャーミ 
 (日本語訳)
  私はブッダに帰依いたします
  私は法(ダンマ:真理)に帰依いたします
  私はサンガ(僧の集団)に帰依します

 三宝(=仏法僧)に帰依いたします、これをパーリ語で独特の節回しで三回朗誦する。
 これで仏教徒として最低限の必要条件を満たすこととなる。出家者ではないので、難しいことはまったく必要ない。私のように仏教徒といってもあまり熱心ではない人でも、さすがにこれぐらいはパーリ語で暗唱できる。

 さて、小雨降る中、「ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日 2009」にでかけてきた。代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターカルチャー棟大ホールにて開催、日本テーラヴァーダ仏教協会主催、スリランカ大使館などが共催のイベントである。私にとっては、今回が初めての参加である。

 テーラヴァーダ(Theravada)は大乗仏教(Mahayana)との違いを明確にするための表現で、通常は上座仏教という。スリランカおよび東南アジア各国(ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア)ではこの上座仏教が中心である。ブッダそのもののを重視する立場で、日本やチベットのように祖師信仰という要素はない。
 仏歴2553年(タイだと2552年)、本当は陰暦満月の日なので今年は5月19日が仏誕節(ヴィサカブチャー:釈尊誕生日)だが、上座仏教の国ではない日本では都合のよい日曜日にしたのだろう。
 大ホールの定員780人のかなりが埋まっていたので、よくこれだけ人が集まるものだなあ、と感心した。釈尊誕生日は、上座仏教ではもっとも重要な行事である、とのことだ。

 会場でもらった予定表をもとに本日のプログラムを紹介しておく:

12:45 スライドショー「釈尊の一生とインド仏蹟を訪ねて」
13:00 仏陀おねり&仏讃法要:パーリ文の三帰五戒、パーリ語経典の読経、日本人大乗仏教僧侶(真言宗、臨済宗、・・・)五戒受戒、舎利礼文
13:40 慈悲の瞑想 (パーリ語経典の朗誦、日本語の慈悲の瞑想)
13:50 スリランカ全権大使による挨拶
14:10~15:20 記念講演:パーリ学仏教文化学会会長・文化功労者 前田惠學博士『仏教の開祖 釈尊』
15:40~17:30 記念法話:アルボムッレ・スマナサーラ長老「最優の成功に至る道」および質疑応答
17:40~18:10 比丘サンガによる祝福の読経
18:10  聖糸・聖水の授与

 以下コメントを書いておく。

 スライドショー「釈尊の一生とインド仏蹟を訪ねて」は、Google Earth を使って上空から撮影した画像でたどるブッダロード。私自身の1995年の仏蹟巡礼の旅を思い出して懐かしかった。ブッダガヤでは私も菩提樹の下で瞑想してみたのだが、これについてはまた語ることもあるかも。

 スリランカ駐日全権大使による英語の挨拶は、大使自身が「仏教徒として挨拶する」といわれたが、大使のファーストネームはなんと Manjusri(マンジュシュリ)、すなわち文殊(菩薩)!というのはすごい。三人集まれば文殊の知恵、賢くなってほしいとつけられた命名か? スリランカ人の名前はあまり注意してみたことはなかったが、さすが仏教国である。
 スリランカはやっと内戦が終結したが、本当に平和が到来したといえるのだろうか? 私は内戦のはざまに1999年訪問しているが、もし平和になれば素晴らしい国である。

 前田惠學(えがく)博士は、インド哲学の前田専學(せんがく)博士の兄で、よく間違われるとのこと。私も勘違いしていた。仏教用語について、初期仏教ではなく、原始仏教というべきことと、上座部仏教ではなく上座仏教というべきこと、などを強調されていた。たいへん重要な指摘である。

 アルボムッレ・スマナサーラ長老はスリランカ上座仏教界の長老で、日本には留学時代含めすでに30年滞在、バカの壁の養老猛司との対談でも有名だ。日本語での法話は私は過去2回聴いているが、法事の際の僧侶によるつまらないことの多い(失礼!)法話とは異なり、ブッダその人から説き起こした内容は非常に示唆するところ多く、いつも納得させられている。
 本日の法話は、釈尊誕生日という記念すべき日であることもあり、釈尊の一生について、出家(29歳)⇒さとり(35歳)⇒入滅(80歳)の各ステージについての話だったが、とくに出家については、王子としての身分を捨て、王宮から自らの意思で出たことを、自分で自分の道を選び取った決断の重さについて特に強調されていたことが印象に残る。
 長老は日本語で冗談交えながら熱弁をふるわれ、今回もまたたいへん印象に残るお話であった。とにかく話が論理的である点、これが本来の仏教なのである、と思う。

 祝福の読経は、パーリ語のお経があまりにも長くて正直言って合掌居続けるのは無理、眠くさえなった。我ながらいかんなあー、と思いながらも、聞き慣れてないお経なので、自分にとってはまったくもって「馬の耳に念仏」みたいなものだから仕方ない、と自己正当化する(苦笑)

 最後の聖糸はいわばウィッシュリングで、右手の手首に比丘(お坊さん)自らが祝福しながら、赤白黄の三色の糸をより合わせて縁を結んでくれるもの。これは自然に外れるまでつけたままでないといけないので・・・入浴を繰り返しても通常1か月以上は外れない・・・どうしたものかなあと迷ったのだが、せっかくの機会なので巻いていただくこととした。
 これも何かの縁、いや単なる縁ではなくて、たいへんありがたい仏縁である!
 聖水は祝福されたミニペットボトル入りのもの。ありがたくいただいた。
 
 最後になったが、本日のプログラムにもあった「慈悲の瞑想」を紹介しておきます。出典は日本テーラワーダ仏教協会による日本語版。
 日本語だがパーリ語と同じように独特の節回しをつけて朗誦するのだが、目をつぶりながら比丘たちの朗誦に唱和していると、なんだか心が清らかになるのを感じる。日頃の行いを反省しつつ、そうあるべきなのだ、と心の中で繰り返しつぶやいている自分を発見するのである。


 「慈悲の瞑想

 私は幸せでありますように
 私の悩み苦しみがなくなりますように
 私の願いごとが叶えられますように
 私に悟りの光が現れますように
 私は幸せでありますように(3回)
   ※こころの中で「私は幸せでありますように」と繰り返し念じる。

 私の親しい人々が幸せでありますように
 私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
 私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
 私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
 私の親しい人々が幸せでありますように(3回)
   ※こころの中で「私の親しい人々が幸せでありますように」と繰り返し念じる。

 生きとし生けるものが幸せでありますように
 生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
 生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
 生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
 生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
   ※こころの中で「生きとし生けるものが幸せでありますように」と繰り返し念じる。

 私の嫌いな人々も幸せでありますように
 私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
 私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように
 私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

 私を嫌っている人々も幸せでありますように
 私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
 私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように
 私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

 生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)


 いかがでしたか? 
 ではまた。
 
 合掌

2009年5月23日土曜日

”粘菌” 生活-南方熊楠について読む-



     
 4月分の国民年金をコンビニで払ってきた。再び厚生年金に戻るまで、しばし・・・。コンビニで納付できるなんて便利になったものだ。前回7年前にはそんなことはなかったので。
 
 「ねんきん」は「ねんきん」でも、これから書く話は「年金」ではなく「粘菌」のほうだ。粘菌とは、植物でも動物でもない、粘菌は粘菌としか分類不可能な生物のことである。変形菌ともいう。

 ここ1週間、これまで購入していながら未読であった南方熊楠(みなかた くまぐす)関連書籍をひたすら読み漁ってきた。
 南方熊楠(1867-1941)とは、柳田國男とともに日本民俗学を創った人であり、折口信夫とならんで日本民俗学の3人として称せられるが、民俗学という狭い分野というよりも、日本人ばなれした地球スケールの学問をした「民間学者」である。日本近代が生み出した「知の巨人」といってよい。
 南方熊楠の学問の中心が「粘菌」の研究にあったから、粘菌生活とダジャレてみたわけだ。働いておらず、しかもまだリタイアには程遠い現在の私の生活は、"年金"生活ではなく、"粘菌"生活というのにふさわしい。働いておらず死んでいるように見えるときは実は生きている、働いていて生きているように見えるときは実はくたびれて死んでいる、という粘菌。 

 南方熊楠漬けの1週間となったきっかけは、歴史家の川勝平太と社会学者の鶴見和子との対談、『「内発的発展」とは何か- 新しい学問に向けて-』(藤原書店、2008)を読んだことであった。 「内発的発展」とは、かつての日本を含めた開発途上国が、外部からの圧力による他律的なものだけでなく、外圧に触発されて危機感を抱いた個人やコミュニティーが主体となって、内側から発展(develop:発達)することを示した、鶴見和子が提唱した、日本発の社会科学理論である。
 大学時代、よく立ち寄っていた国立の増田書店の棚段に、茶色の装丁の単行本があって何度も立ち読みしたが、結局購入せず、通読しないまま現在に至っていたことを思い出したが、川勝平太との対談を通読することで、かつて大学時代に読んだ鶴見和子の『南方熊楠-地球志向の比較学-』(講談社学術文庫、1981)と「内発発展論」が結びつくことを知ったのは、うれしい収穫であった。

 これがきっかけとなって(・・・他の本も読んでいたのだが並行して)、鶴見和子の南方熊楠関連の本を読んだら、ついでに全部読みたくなったのだった。
 読んだ順番に列挙すると以下のとおり:

●鶴見和子、『南方熊楠・萃点の思想【未来のパラダイム転換に向けて】』、藤原書店、2001
●鶴見和子、『南方曼陀羅論』、八坂書房、1992  
●松井竜五、『南方熊楠-一切智の夢-』、朝日選書、1991     
●荒俣宏/田中優子/中沢新一/中瀬喜陽、『奇想天外の巨人 南方熊楠』、平凡社、1995
●松井竜五、ワタリウム美術館編、『クマグスの宇宙-南方熊楠の見た宇宙-(とんぼの本)』、新潮社、2007
●松居竜五/岩崎 仁=編、『南方熊楠の森 (CD-ROM付)』、方丈堂出版、2005
●近藤俊文、『天才の誕生-あるいは南方熊楠の人間学-』、岩波書店、1996
●荒俣宏/環栄賢=編、『南方熊楠の図譜』、青弓社、1991
●中沢新一、『森のバロック』、せりか書房、1992

 そしてこれに関連する書籍数冊にも参考書として目をとおす。

●中瀬喜陽/長谷川興蔵編、『南方熊楠アルバム』、八坂書房、1990
●『新文芸読本 南方熊楠』、河出書房新社、1993
●『現代思想 1997・7 特集 南方熊楠』、青土社、1992


 南方熊楠を知ったのは大学1年のときである。柳田国男は高校3年のとき、自分があまりにも日本について知らないことに愕然として、岩波文庫に入ったばかりのものを文庫本で手当たり次第に読み始めた。折口信夫もその当時、中公文庫から文庫版全集がでていたので入手しやすく、大学時代から読み始めていた。
 そのころ平凡社が倒産して再建途上にあったので、大学生協で「がんばれ平凡社フェア30%引き」というのをやっていた。この際に、『南方熊楠全集』の第一巻「十二支考」と東洋文庫数冊を注文して入手したのが、南方熊楠を入手した最初である。大学寮のベッドサイドにおいて、折にふれてページをめくって読み込んでは楽しんでいた。
 大学学部時代の前半は、合気道の稽古を終えたあと毎日大学図書館分館に入り浸り、自分の知的好奇心にまかせて片っぱしから本を見るという、いまから思えば夢のような日々を送っていたのだが、その頃よく図書館のなかで拾い読みしていた澁澤龍彦の文章にこういうものがあった。南方熊楠が私費で英国に遊学していた時代の日記に、大英図書館でやたら自分にからんでくるイギリス人をついに腕力でぶちのめした、という一節である。ほぼ同時期に国費で英国留学しながら、下宿にひきこもって毎日泣いていたという情けない夏目漱石とは大違いで、白人と対等にやりあう日本人がいたということは、大変うれしい驚きであり、深く記憶に刻み込まれた。もちろん、腕力だけでなく、現在でも有名な「ネイチャー」という自然科学の雑誌に何度も英語で書いた投稿論文が掲載されており、知力でも対等にやりあっていたのである。
 その南方熊楠が書いた文章はめっぽう面白く、引用は無限広大、文体は過剰で饒舌、講談調ながら、これだけ博識でかつ中身の濃い文章を書けるのは、スケールはだいぶ小さくなるが、現代では小室直樹くらいだろう。

 それはさておき、私自身が米国留学から日本に帰国した1992年頃は、空前の南方熊楠ブームとなっていたようである。出版物が集中していることがわかる。そのころ住んでいた南阿佐ヶ谷駅近くにあった書原というユニークな本屋は、自分の趣味にまったく合致した本屋で、かなりの本を買い込む結果となったが、南方熊楠ももちろんそのラインアップにあり、読む時間が確保されないのにもかかわらず、本を買いまくっていたのであった。その残滓が上記の蔵書ということになる。この時期には、なんと内田春菊も南方熊楠を漫画にしているくらいである(原作者からの原稿が遅いので、ブチ切れた内田は未完のまま終わらせた、と本人はあとがきに書いているが、残念だ)。ついでにいうと水木しげるの『猫楠-南方熊楠の生涯-』は実に味があっていい。

 この時期に出版されたもっとも中身の濃い南方熊楠論が、中沢新一の『森のバロック』であることは、今回初めて通読してみて納得された(*ただし単行本は絶版、文庫版は大幅に削除されているとのこと)。河出文庫の『南方熊楠コレクション全5冊』(現在品切れ状態)の解説が基になっているので、まったく読んでないわけではなかったが、最初から最後まで通読することによって、南方熊楠と全面的に取り組んで、南方熊楠論を書き上げたのは、鶴見和子と中沢新一の二人しかないことを実感した。いずれも著者が対象と共鳴、共振するものが多く、南方熊楠を語ることはそのまま自らを語ることになっているのは面白い。
 鶴見和子はアメリカで社会学の博士号を取得した西洋流の学問を完璧に修めた人であり、その点に南方熊楠に同質のものを見出したとすれば、中沢新一の場合はチベット密教の修行を経たうえで、南方熊楠の思考に密教の思考方法を見出したことにあるのだろう。あえて単純化していえば、鶴見和子の南方熊楠論は市民社会の範疇のもので、それを顕教(exoteric)とすれば、中沢新一のものはより密教(esoteric)的色彩が強い。
 そもそも南方熊楠は西洋的な因果関係論に飽き足らぬものを感じ、幼いころからどっぷりと浸かっていた真言密教の方法で独自の科学論を構想していたのだが、鶴見和子はこれを南方曼陀羅と命名した(直接は仏教学者中村元の指摘による)。中沢新一はこれに対し、華厳哲学と真言密教で表現したとして別の図を南方曼陀羅としている。南方曼陀羅に関しては、私は中沢新一に賛成である。必然性に偶然性の要素を持ち込んだ生成論である。
 鶴見和子が学者として語っているのに対し、中沢新一は思想家として語っているという違いもある。南方熊楠自身の思想なのか、それを発展させた中沢の思想なのか明瞭ではないのがひっかかるところである。個人的には、やたら「私たちは」という語り方をする中沢新一の文体は好きではない。
 南方熊楠の思想を知りたいと思えばまず鶴見和子のものを読むべきだろう。しかしながら、脳内出血で倒れ、半身不随になってから作歌に専念し、論文という形で自己表現するのをやめた鶴見和子は、直観的に生命について感じるようになったらしい。ある意味で、中沢新一がいっているのと近いところにきているような感も受ける。

 日本人の信仰の原型が森にあることは、ことさら森林浴などといわなくても、森にいると何か癒される気がすることからも十分に納得される。森はそれを構成する個々の生命体が、それぞれ自律的に生きていながら共生する関係にあり一つの全体を形成している生命体であること、そして神社の森を聖域化することで日本人は森を守ってきた。
 明治維新以降の日本人は資本主義のもと、徹底的に森を破壊してきたが、ようやく自然環境保護の観点から、またパワースポットという観点から神社の森に注目が集まるようになってきている。日本人はようやく自覚的に原点回帰できるようになってきた、ということっだろうか。
 一度破壊された森は二度とそのままの形では復活はしないが、なにせ高温多湿の日本である、耕作放棄された農地が各地で森と化しつつある、という話をよく聞く。森は生命力そのものであり、日本人はそれに対して癒しだけでなく、同時に懼れも抱いてきたのである。西行法師ではないが、「何ごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」、これが日本人の信仰の原点だ。森そのものが御神体なのである。

 とりとめないことを書いてきたが、そもそも南方熊楠を語るのは。群盲象をなでるに等しい行為である。南方熊楠は人生そのものが破天荒で面白い。伝記を追体験するだけでも十分に楽しめる。
 しかも粘菌学者としてはその当時、日本では昭和天皇と並ぶ存在であったという事実。昭和4年(1929年)に南方熊楠は昭和天皇に粘菌学についてのご進講を行っているが、これは彼の人生におけるハイライトであった。南方熊楠は昭和天皇について、「普通の家に生まれていらしたら、大変な学者になられたやろうにと、残念がっていた」といっていた、と娘が回想している。南方熊楠は昭和16年(1941年)に没し、昭和天皇も好きな生物学研究に専念できるような時代状況にはなく、日本の粘菌学は大きく遅れをとることいとなったたというのはまことに残念であった。
 理科少年であった私は、生物学者としての昭和天皇には少年時代から大いなる尊敬の念を抱いてきただけに、何やら感慨深いものを感じる。

 英国のジェントルマンシップに大いに感化され、戦前はたいへんゴルフに凝っていた昭和天皇は皇居にコースを作らせてよくプレーされていたらしいのだが、ある時きっぱりとゴルフをやめ、皇居内をいっさい人間の手をくわえさせずに、草木がはえるままにされたという話を、だいぶ昔に読売新聞の連載で読んだ記憶がある。これが現在の皇居の森である。南方熊楠とのかかわりはわからないが。
 明治神宮の森ともども、あと100年もすれば、さらに原始の状態に近い森になっていくことだろう。100年後は生きて確かめられないのが残念だが。


 

2009年5月21日木曜日

スワイン・フルー-パンデミック、すなわち感染症の爆発的拡大における「コトバ狩り」について


 ワイン・ブルーではない。スワイン・フルーです。

 ローマ字で書けば Swine Flu とつづる。Swine Influenza の略、すなわち豚インフルエンザのことである。

 Swine が豚を表す古語であるためか、音声として耳で聞く限り決して悪い響きではない。ちなみに鳥インフルエンザは bird flu という。
 
 ついに昨日(20日)には東京都内でも発症者発生か・・

 墓参りを兼ねて京都で友達と飲もうかな、などと考えていたが無期延期か・・・なんてこと考えること自体すでにナンセンスだな。ニューヨーク帰りの高校生が発病しなかったとしても、京都から新幹線で2時間ちょっと、景気が悪くて人の行き来が減っているとはいえ、時間の問題であったといえる。
 東京都内でもすでにマスクの品切れが始まっている。子供の頃に体験した石油ショック時のトイレットペーパー買占め事件を思い出すねー。
 日本中のどこかにマスクは滞留してるはずなので、全国でチェーン展開しているドラッグストアなら在庫情報はリアルタイムでわかるはず。マスクに対する総需要に対して総供給量は決して不足していないはずである。

 結局これはディストリビューションとロジスティクスの問題なのだ。ノーベル賞受賞の経済学者アマルティア・センが指摘する自然災害発生時における大量飢餓発生の問題とメカニズムは同じだろう。緊急食料援助がなされても、必要とする人々に効果的、効率的に行き届かない・・・
 
 パンデミック、すなわち感染症の爆発的拡大のことについて、時代を大幅に遡って考えてみてみよう。

 歴史学のぜミナールに所属し、ヨーロッパ中世史で卒論書いた私にとって、パンデミックといえばなんといっても「黒死病」である。ペストのことだ。
 黒死病が猛威をふるった時代に発生したユダヤ人虐殺が、ヨーロッパにおけるホロコーストの原型になったことは、歴史に詳しければご存じだろう。

 時代は下るが、英国の小説家ダニエル・デフォー(Daniel Defoe)には、そのものずばりのタイトル 『ペスト』 という小説がある。原題は、The Journal of the Plague Year (1722)、1665年に大流行したロンドンのペストの記録文学である。
 内容はさすが『ロビンソン・クルーソー』の作者だけある。17世紀ロンドンを襲ったペストの被害を、死亡者にかんする統計データをこれでもかこれでもかと出し、かつ即物的に、実に細かく描写した知られざる作品だ。ナマナマしい印象が読後感として残る。平井正穂訳で中公文庫から出ていたので大学時代に読んだのだが、残念ながら現在は在庫切れのままである。パンデミックが「いまここにある危機」なんだから、復刊すればいいのにね。

 また、19世紀米国の文学者エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe :これにあやかって江戸川乱歩というペンネームが考案された)には、『赤死病の仮面』(The Masque of the Red Death)という、実に恐ろしい短編ホラー小説がある。
 赤死病とは、黒死病をもじって創作した架空の伝染病なのだが、E.A. ポーのイマジネーションとリアルな描写力が強く印象に残る作品だ。
 舞台設定は中世ヨーロッパ、パンデミックで死者が大量発生した状況下、浮世の憂さを晴らすため、プリンスが健康な男女の友人多数を、外部から完全にシャットアウトした城砦に集めて引きこもり、連日飲めや歌えのどんちゃん騒ぎを続けていたある日、仮面舞踏会(マスカレード)の最中・・・・。
 短い作品なので、ぜひ文庫本で読んでください。著作権は切れてるので、英語原文ならネットで公開されています。

 最後に「コトバ狩り」について苦言を。

 最近のメディアでは、いつからか特定しにくいが、「豚インフルエンザ」を知らないうちに「新型インフルエンザ」と言い換えていることに、本日ふと気がついた。

 かつて大きな話題になった「狂牛病」も、知らないうちに「BSE」などという何の略語かわからない専門用語にとってかわられてしまっている。発音しにくいし、一般人には何のことかさっぱりわからない。

 ところが、英語圏ではいまだに、mad cow disease といい続けている。読んで字の如く狂牛病である。フラフラになって倒れた牛の映像が、このネーミングのリアリティを担保していたのではなかったのか? 冒頭に書いたように、今回流行しているインフルエンザも同様に Swine Flu(豚インフルエンザ) のままだ。

 「豚インフルエンザ」という表現が消えたのはなぜだ?? 

 豚肉食べてもまったく関係ないのにかかわらず、食肉業界からロビー活動でもあったのか、それともマスコミによる自主規制か? イスラーム圏のエジプトで少数派であるコプト教徒(キリスト教)が飼育する豚が大量処分されたからか? 
 発生源が鳥ではなく豚だった、ということが今回のインフルエンザの重要なポイントなのに・・・本当に怖いのは鳥インフルエンザなのに、すでにパンデミックは今回でおしまいと勘違いしてしまわないのか?
 
 日本は、本当におかしな国になってしまっている。

 作家の筒井康隆が過剰なコトバ狩りに抗議して「断筆宣言」したことなど、もうとうの昔に日本人の記憶から消えているのだろうか。なぜ現実から目をそらすのだ、いや目をそらさせるのだ?

 何か不透明なものを感じるのは私だけなのだろうか?





<付記>

ダニエル・デフォーの『ペスト』が中公文庫から改版として復刊されるようだ。時宜を得た復刊は歓迎だ(2009年7月18日記す)。





<ブログ内関連記事>

大飢饉はなぜ発生するのか?-「人間の安全保障」論を展開するアマルティヤ・セン博士はその理由を・・・

                         
P.S. 2011年11月12日にタイトルを改題して、行替えを行い加筆した。




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2009年5月20日水曜日

書評 『プーチンと柔道の心』(V・プーチン/ V・シェスタコフ/A・レヴィツキー、山下泰裕/小林和男=編、朝日新聞出版、2009)




 やっと日本語版がでたか、そういう思いである。もしプーチンが首相という形で最高権力者として残らなかったら、本書出版企画は流れたことであろう。
 「プーチン大統領(当時)が柔道の本を書いた!」、そういう噂は2002年頃、ニュース配信されていたので覚えている。翻訳してほしいものだ、と思っていたがその件はすっかり忘れていた。

 ロシアの大統領が柔道をたしなんでいる、しかしそれは決して不思議なことではない。
 私は、仕事の関係で1998年に仕事で合計3週間ロシアにいったときにさまざまな話を見聞しているが、ロシアでは柔道、剣道のみならず、合気道、空手も広く愛好されている。ただし、空手は危険だというので、ソ連時代は禁止されていたという話をロシア人の空手愛好家から聞いた。
 日本武道を通じて、日本的な礼儀作法とその精神が、日本人が思っている以上に浸透していると考えるべきだろう。日露関係は相思相愛ではないが、もしかするとロシア側の片思いの関係なのかもしれない。エリツィン大統領時代に来日したキリエンコ首相(当時)は、趣味はアメリカンポップスと剣道、合気道、とのことであった。
 それにしてもプーチン首相(前大統領)という国家の最高指導者が、日本の武道を少年時代から本格的にたしなんできたというのは、実にうれしいことではないか。そしてまた、日本の至宝、「世界の山下」とも非常に親しい、これもまたうれしいことだ。

 本書を読むに当たってはまず、山下泰裕氏による解説、元NHKモスクワ支局長の小林和男氏によるプーチン本人と、柔道の師匠へのインタビューを読むことを奨める。その上で、抄訳された本文を読むと、本書が単なる柔道の実技解説本ではないことが実感されるはずだ。柔道の歴史に始り、道着についての解説、礼に始って礼に終わる心など、本格的な柔道入門書になっているのだ。
 過度の競技スポーツ化により、「勝ちさえすればいい」という堕落が目に余る昨今の国際柔道界であるが、本書のような日本武道の精神面にまで踏み込んだ柔道書で指導されたロシア柔道界は、数少ない希望といえるかもない。
 また、であるからこそ、プーチンという政治家は侮れないのである。柔道を通じての人格陶冶、これは決して古臭い考えでも何でもない。プーチンは「大切なことはすべて柔道から学んだ」と述懐している。私自身、合気道を通じて同様な感想を抱いているので大いに共感できるものがある。

 2003年に行われた小林和男氏によるインタビュー後記にこうある。「報道官はますます私たちを急かす。それもそのはずだった。私の後には中国の胡錦濤総書記が初めてのロシア公式訪問でプーチン大統領と会談する予定になっていたのだ。中国との首脳会談の時間を押してまで柔道の話を続けるプーチン大統領の柔道への思いは・・(以下略)」。
 この文章にすべてが言い尽くされているといえよう。

*この書評は下記のインターネット書店サイトに投稿、すでに掲載済みです。

■bk1掲載:「やっと日本語版がでたか・・」(2009/05/19 掲載)
■amazon 掲載: 「やっと日本語版がでたか・・」(2009/05/20 掲載)

           


              

2009年5月19日火曜日

「信仰と商売の両立」の実践-”建築家” ヴォーリズ


 「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 恵みの居場所をつくる」(William Merrell Vories as an Architect)という展覧会に足を運んできた。巡回展(2009年4月4日~6月21日)で、東京では汐留のパナソニック電工(旧松下電工)本社のショールームに併設されたミュージアムで開催されている。

 ヴォーリズの建築物は、かなりの数が日本各地に残されており、本拠地であった近江八幡、軽井沢以外にも、大阪では「大丸心斎橋店」、東京ではお茶の水の「山の上ホテル」「明治学院大学の礼拝堂」などが残されている。ミッションスクール、教会堂、個人の洋風住宅なども数多い。

 そもそも建築物はその場所に自分の足で行き、自部の目で見て、そして触ってみないと、さらにいえば、その中に住んだり、利用しないと本当にはその良さはわからないものだが、展覧会という形で写真パネルと解説文を読み、模型を見るだけでも意味のあることだろう。

 今回の展覧会では、一般住宅が復元展示されており、実際に中に入る体験をすることができたのは幸いであった。また何よりも、ネット含め一般書店ではなかなか入手しにくい資料が何点か入手できたことは収穫である。展覧会とはいえ「現場」である。現場にいく意味は大きい。


建築家ヴォリーズは、メンソレータム(現在はメンターム)の創業者でもあったキリスト教伝道者

 もともとウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories:1880-1964)という人は、キリスト教伝道(=ミッション)を志し、琵琶湖東岸の近江八幡という地方都市に単身やってきたアメリカ青年であった。

 コロラド大学在学中、建築家になる夢をかなえるために MIT(=Massachusetts Institute of Technology)に転学するはずだったのだが、トロントで開催された会議で、中国ミッションの困難と苦難に関する講演を聴いている最中、キリストの姿(=ビジョン)を幻視し、キリストから直接語りかけられたという劇的な回心を体験し、キリスト教の海外伝道という自らの使命(=ミッション)に目覚めた結果、建築家になる夢をあきらめ、後ろ盾もなく身一つで英語教師として日本に渡ったのである。自伝である『失敗者の自叙伝』にはそう書かれている(・・この自伝については後述)。

 YMCA運動から出発したヴォーリズは宣教師ではなく、既存の教団という後ろ盾がなかったため、まったくの無一文から自力でキリスト教伝道とビジネスという二つの事業を始めたということが重要だ。

 英語教師を解任されたことが建築設計監督の仕事を始めた直接のきっかけになっているが、その時役にたったのがアマチュアながら続けていた建築学へのかかわりであった。

 そもそもがキリスト教伝道のための活動資金を作るための事業活動であり、知的作業である設計料は正当な報酬としていっさい値引きすることなく要求したという。

 「信仰と商売の両立」を理念として掲げたヴォーリズならではである。日本人でも、内村鑑三が『後世への最大遺物』という講演で、ほぼ同じようなことを主張している。

 家庭用の塗り薬メンソレータム(・・現在の商品名はメンターム)を中軸に大いに繁盛し、後に近江兄弟社となった事業は、税引き後利益の大半をもってさまざまな社会事業(学校、病院その他)の形で地域に還元していった。

 儲けても本人はいっさい自ら所有はせず、ほぼすべて社会に還元していったという意味において、社会起業家(social entrepreneur)のさきがけといえるだろう。

 とはいえ、創業者の精神がいつまで保てるかということは難しいところである。実際、ヴォーリズの死後、近江兄弟社は1974年、石油ショック後に一度倒産を経験、再建して今日に至るという痛い経験をしている。「信仰と商売」の両立は決して容易ではない

 ヴォーリズについて初めて知ったのは、荒俣宏の『開化異国助っ人奮戦記』(小学館ライブラリー、1993)であった。荒俣は、一章をヴォリーズに割いて紹介している。この本を読んで以来、自分にとってヴォーリズは気になる人物の一人となった。


「信仰と商売の両立」の実践した起業家たち-精密測定機器メーカー・ミツトヨと仏教伝道事業

 同じようなケースが、他にも日本にはないだろうかと思ってかなり前に調べてみたことがある。キリスト教ではピーナッツバターのソントン、仏教では精密計測機器のミツトヨなどがあることがわかった。

 塗り薬のメンソレ(現在の商品名はメンターム)やピーナッツバターは一般消費財だから知らない人はいないだろうが、ミツトヨノギスなど精密測定機器の老舗メーカーで、機械工業にいれば知らぬ人間はいない。

 ミツトヨの創業者・沼田惠範(ぬまた・けいはん)は、もともと米国での仏教布教のため西本願寺から派遣された開教師であった。カリフォルニア大学バークレー校を卒業後にい日本に帰国、人を押しのけることはきらいだという仏教精神のもと、きわめて高い精度が求められるため開発が困難で、参入障壁が高かった精密測定機器という分野で起業したことがあいまって成功し、世界トップシェアを誇る事業に成長させた。

 創業者は初心を貫くべく、戦後に仏教伝道協会を設立、『仏教聖典』各国語版を無償で配布している。よく出張する人であれば、ビジネスホテルの引出しに、『ギデオン協会の聖書』だけでなく、オレンジ色の表紙の『仏教聖典』が入っていることはよくご存じであろう。

 しかしながらミツトヨも創業者の死後、企業倫理に反する行為で信用を失墜したことは記憶に新しい。

 余談だが、芝公園の仏教伝道協会ビル二階にある「菩提樹は中国素菜料理(Chinese vegetarian)専門店」で、すべての素材にいっさい肉を使用せず形をつくりあげているのがすごい。もちろん味も良い。タイの華人系市民で熱心な人は、少なくとも年に一回は齊(ジェー)という形でベジタリアンライフを送る。この話についてはまた別途書く予定。

 機械産業に従事するみなさん、以上の事実を知っていて毎日ノギス使って測定してるのかな? 「アタマの引き出し」のなかにいれておいてください。


洋風一般建築とモノに込められたキリスト教精神-日本近代のライフスタイル変化と見えざるキリスト教

 閑話休題、ヴォーリズに戻るが、彼は「洋風一般住宅」の設計も多数行っている。

 彼はその著書の中で、食事スペースと寝室スペースだけでは住宅とはいえず、居間(リビングルーム)がないとだめだ、キリスト教精神に基づいた暮らしはそうした住宅で行われるべきだ、と考えていたことを記している。

 このことから、建築設計もまた伝道の一手段であったことがわかる。とはいえ、教会堂やミッショスクールの校舎とは違って、一般住宅にはキリスト教はダイレクトには表現されてはいない
 
 これに関連して、かつて私は大学の卒業論文の序論で以下のように書いている。

モノに込められた精神、あるいは知らないうちに入り込んで背景となっている精神、心性といったものには(・・意識しない限り、あるいはたとえ意識していても)盲目同然である。したがって、われわれは知らないうちにキリスト教精神、特にプロテスタンティズムの中にどっぷりと浸かっていながらそれに気づかず、またそれを解読する手段も持ち合わせていない・・(以下略)・・ 

(出典:『中世フランスにおけるユダヤ人の経済生活』、拙稿、1985年3月)

 つまり「生活様式の洋風化」とは、好むと好まざるにかかわらず、目に見えないアメリカ化、すなわち宗教なきプロテスタンティズム化なのである。

 1990年から2年間、M.B.A>取得のために米国留学した際、日本から持参したマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(通称プロリン)は繰り返し再読してみたが、アメリカ資本主義がプロテスタンティズムとかなり親和性の高いことは、現地で強く実感したものである。

 キリスト教が解禁されてから約125年、日本における仏教の衰退は生活習慣の洋風化を通じて、敗戦後は圧倒的なアメリカナイズ、とくに高度成長以降の前近代的要素の払拭を通じて、知らず知らずのうちに達成されたというべきであろう。ヴォーリズの洋風建築は先導役の一つとなったといえる。

 消費社会化が急速に進展し、グローバル資本主義に完全に巻き込まれているタイでも同様の現象が観察できる。大都市である首都バンコクの中流階級以上の市民の間では、モノを通じてアメリカ風ライフスタイル(American Way of Life)が急速に普及しつつある。

 実際、バンコクでは仏教に見切りをつけてキリスト教に改宗するタイ人も少なからずいることは、目に見える形での現れであろう。どうも資本主義≒物質主義≒アメリカ≒プロテスタンティズムの傾向は否定できないのではないか?実証するのは難しいが。

 「仏教と資本主義は両立可能か?」という公開討論会が昨年(=2008年)バンコクで行われている残念ながら両立不可能、という結論が無情にも出たのだが、この論点については、あらためてじっくり考えてみたい。

 私自身はキリスト教の中でもプロテスタンティズムには正直言って親近感を感じないが、現代人として日本の大都市、とくに東京に生きるということは、無意識のうちにプロテスタンティズム的時空間の中で生きている、ということになっているわけなのだ。この流れが不可逆なものでないことを願うが、しかし後戻りはもはや不可能かもしれない。

 もっとも、わたしも日本人仏教徒(・・ぜんぜん熱心ではないが)だからといって、畳の生活に戻りたいとは思わないのも正直なところだ。高度成長以前の「貧しくても幸せ」な時代にノスタルジーは感じても、実際にそういう生活を送りたいわけではない。

 資本主義がもたらす過度の合理主義、そしてまた傲慢をいかに回避しうるか。問題設定はできても、最適解を見つけるのは難しい。


『失敗者の自叙伝』というタイトルに込められた「成功者」の思いとは?

 ヴォーリズは日本語で、『失敗者の自叙伝』(近江兄弟社、初版1970、第三版2000)という未完におわった自伝を書いている。今回の展覧会場で入手した本だが、「成功本」ばかりがあふれかえっている現在の日本ではきわめて珍しいタイトルだ。

 客観的に見て成功者であるヴォーリズが、自らの生涯を「失敗者」と位置付けている。自分の死後10年後の近江兄弟社の倒産を予見していたわけではあるまいが、なんとも意味深長なネーミングである。

 アメリカ人にもこのような「(神の前ではつねに)謙虚な姿勢」の人がいたこと、いや現在でもいることは知っておくべきであろう。

 これは社会起業家としての、いやほんものの宗教者がもつ、本来的にきわめてすぐれた態度である。それがキリスト教であろうとなかろうと。



<参考文献>

『失敗者の自叙伝』(一柳米来留=メレル・ヴォーリズ、近江兄弟社、1970 2008年第三版)
『ヴォーリズ建築の100年-恵みの居場所をつくる-』(山形政明=監修、創元社、2008)
・・展覧回のカタログも兼ねている
『青い眼の近江商人 メレル・ヴォーリズ-「信仰と商売の両立の実践」を目指して-』(岩原 侑、文芸社、1997)
・・近江兄弟社の社長が書いたヴォーリズ伝







<関連サイト>

ヴォーリズ記念館(財団法人近江兄弟社)
・・財団法人近江兄弟社(メンタームの会社の財団)のウェブサイト

近江兄弟社メンターム
青い眼の近江商人ヴォリーズ

一粒社ヴォーリズ建築事務所ホームページ
・・ヴォーリズの建築事務所のウェブサイト

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
・・社団法人近江八幡観光物産協会のウェブサイト

株式会社 ミツトヨ : 精密測定機器の総合メーカー
・・「仏教伝道の支援を通じて人々の幸福に寄与する」が理念の会社

財団法人 仏教伝道協会
財団法人 仏教伝道協会 発願者 沼田惠範について





<ブログ内関連記事>

建築家関係

「ルイス・バラガン邸をたずねる」(ワタリウム美術館)
・・ピンクの色調が特徴のメキシコの建築家

『連戦連敗』(安藤忠雄、東京大学出版会、2001) は、2010年度の「文化勲章」を授与された世界的建築家が、かつて学生たちに向けて語った珠玉のコトバの集成としての一冊でもある

本の紹介 『建築家 安藤忠雄』(安藤忠雄、新潮社、2008)
・・いわずとしれた世界的建築家。ヴォーリズとは対照的に、饒舌な人である

「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷 展」(INAXギャラリー)に立ち寄ってきた


キリスト教の「回心」体験

アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)
・・アッシジのフランッチェスコも壊れた教会建物の再建をつうじて、自らの手で「建築家」としての仕事もそている


社会起業家(ソーシャル・アントレプレナー)

書評 『チェンジメーカー-社会起業家が世の中を変える-』(渡邊奈々、日本経済新聞社、2005)
・・シャーシャルビジネスの事例

書評 『ブルー・セーター-引き裂かれた世界をつなぐ起業家たちの物語-』(ジャクリーン・ノヴォグラッツ、北村陽子訳、英治出版、2010)
・・"Patient Capital" というソーシャルファンドについて

書評 『『薔薇族』編集長』(伊藤文学、幻冬舎アウトロー文庫、2006)-「意図せざる社会起業家」による「市場発見」と「市場創造」の回想録-


中国素菜料理

タイのあれこれ(9)-華人系タイ人の"キンジェー"(齋)について 



* 文意を明確にし、読みやすくするために、行替えを行うなどのほか、加筆修正を行って手を入れたほか、リンクの差し替えと大幅増補を行った(2011年5月18日)




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2009年5月18日月曜日

味噌を肴に酒を飲む


 酒席の話題である。 

 『徒然草』に味噌を肴に酒を飲むという話があるが知ってるか?、高校の古文の教科書に載っていたぞ、とある酒席で話題にしたら、同席していた飲み友達たちはそんなこと覚えてない、という。少し前の話であるが、いやあまったくどうしようもないねー(笑い) 古文は受験とともに去りぬ、かい?

 まあ高校時代、「日本古典文学少年」といわれた私のことだから覚えているのかもしれないが、とはいえ教科書はとうの昔に処分してしまったので確かめようもない。

 彼らの蒙をひらいてやるために、ここでひとつ出典をキチンと示しておいてやろう。参考にしたまえ。


 第二百十五段

 平 宣時(たいらののぶとき)朝臣、老いの後、昔語(むかしがたり)に、「最明寺入道、或宵の間に呼ばるゝ事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂(ひたたれ)のなくて、とかくせし程に、また、使(つかい)来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異樣(ことよう)なりとも、疾く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのまゝにて罷(まか)りたりしに、銚子に土器(かはらけ)取り添へて持て出でて、『この酒をひとりたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ。人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭(しそく)さして、隈々(くまぐま)を求めし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく數獻(すこん)に及びて、興に入られ侍りき。その世にはかくこそ侍りしか」と申されき。
 出典:『新訂 徒然草』(西尾実・安良岡康作校注、岩波文庫、1985)


(現代語訳)
 平 宣時朝臣(大仏宣時)が、老後の述懐談に、最明寺入道北条時頼からある宵の口に召されたことがあったが、「すぐさま」と答えておいて直垂(ひたたれ=武士の平服)が見えないのでぐずぐずしていると、また、使者が来て「直垂でもないのですが、夜分のことではあり、身なりなどかまいませんから早く」とのことであったから、よれよれの直垂のふだん着のままで行ったところ、入道はお銚子に土器を取りそろえて出て来て「これをひとりで飲むのが物足りないので、来てくださいと申したのです。肴がありませんが、もう家のものは寝たでしょう。適当なものはありますまいか、存分に探してください」と言われたので、紙燭(ロウソクがわりの一種のたいまつ)をつけて隅々まで探したところが、台所の棚に、小土器に味噌の少しのせてあったのを見つけて「こんあものがありましたが」と言うと、「それでけっこう」と、それを肴に愉快に数杯を傾け合って興に入られた。その当時はこんな質素なものであったと申された。
 出典:『現代語訳 徒然草』(吉田兼好作、佐藤春夫訳、河出文庫、2004、原版1976)



 飲み屋で、もろきゅう(=もろみ味噌をつけた生きゅうり)を肴に日本酒飲むと旨い。現代語訳を行った佐藤春夫の解釈とは違って、味噌で酒を飲むのは決して質素なことではない、と思う。

 もっとも、一般庶民とは違って、鎌倉幕府第五代執権という時の最高権力者にまつわる話だけに、兼好法師も記すに値すると思ったのだろう。

 徒然草は、大人になってから、とくに中年以降に読むと面白い。



<ブログ内関連記事>

「家の作りやうは、夏をむねとすべし」 (徒然草)-「脱・電気依存症文明のために顧みるべきこと ・・第五十五段

「目には青葉 山ほととぎず 初かつを」 -五感をフルに満足させる旬のアイテムが列挙された一句 ・・第百十九段

成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 (1) こんなうまい食事は滅多にない
・・断食後の食事のうまさ。重湯と梅干し、そして焼き味噌


P.S. 写真を挿入し、一部加筆と情報の追加を行った。(2011年10月23日)




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2009年5月17日日曜日

「無計画の計画」?


    
 前にも書いたが、3月末にバンコクでの会社を閉めてからは、しばらく日本でフリーの身を享受している。
 本人はこの状態をさして「休養&充電」といっているが、この状態をいつまで続けるかは、とくに期限は決めていない。日々の活動に追われる状態から身を離したとき、そこに生まれたエアポケットがいかに貴重な時間であるかをあらためて身にしみて感じている次第だ。
 もちろん先立つものはカネ、カネの切れ目は縁の切れ目というが、カネが切れる前に次のプロジェクト・・・私は人生はプロジェクトの集合体だと捉えている・・・に取り掛かりたいと考えている。それまでに、読めなかった本、見れなかったDVDを、貪欲に消化しながらひたすら思考している状況だ。

 そんなときふと、「無計画の計画」という表現を思い出した。
 下村湖人の『次郎物語』にでてきたことばだ。中学校時代に読んだとき、強く印象に残ったので、この表現は自分の中に奥深く記憶されていた。
 現在はどうか知らないが、『次郎物語』はいわゆる「学校指定図書」として、強く読むことが薦められていた児童文学である。
 中学校の頃から文庫本を買って読むことを覚えた私は、非常に分厚い角川文庫の一巻本で読んだ。次郎の少年時代の記述は、たしか第三部以降だったか、急速に観念的な文章が中心になってきて、中学生には理解しがたいものが多くなっきた。その当時はクソ真面目なことに、本は最初から最後まで読み切るべきである、という考えが支配的であったのでなんとか最後まで読みとおしたのだが、主人公の次郎たちが歩いて探検に出発したときに、級友が口にしたことばが「無計画の計画」なのだ。いいかえれば「無計画という計画」ということになろう。あてもなく歩きだすことを指していったセリフだ。
 
 今から考えてみると、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」みたいな、なにやらわかったような、わからない、旧制高校的なというか、禅仏教めいたセリフだが、このことばは自分の中に深く刻み込まれ、潜在意識の中に長く沈んでいたようだ。
 長らくビジネスマンとして一貫して企画畑にいる私は、経営コンサルティングの世界に入って以来、実業の世界に身を移してからも戦略や経営計画などに携わってきたのだが、2008年に発生したリーマンショック、トヨタショックはビジネスの上でも、経済社会全体に関しても大きな転換期の引き金になるだろうと感じている。こういう転換期においては計画はきわめて立てにくい。といって無計画というわけにもいくまい。ましてや「無計画の計画」だ、などとうそぶくわけにもいくまい。

 キリスト教をバックボーンにした西洋文明は、量子力学的世界観ができたといっても、まだまだ「因果」関係でものをみることが中心である。戦略というのは、こうしたキリスト教的な時間観念の上に成り立っている。それに対して、仏教的な世界観では「縁」(あるいは因縁:interconectedness)というものを重視する。前者が直線的時間の延長線上にある必然性であれば、後者は直線的時間や循環的時間が交差するポイントにおいて生じる偶然性について語っているのだが、この両者をともに組み込んだ「計画」が必要だろう。
 米国のビジネス界では、1973年の第一次石油ショック後にシェル石油で開発された「シナリオ思考」(Scenario Thinking)がまた復活のきざしがあるようだが、それだけでもまだまだ何か足りないような気がする。物語そのものが作りにくい、秩序生成以前の、いまだ混沌とした状態だからである。

 大学で歴史学を専攻した私は、社会というものはそもそもが、少し前に流行したコトバを借りれば、自分自身もその要素として含んだ「複雑系」(Complexities)以外の何物でもないと思ってきたが、今後の自分の身の振り方を考えるには、世の中の動きが現在のこの混沌(Caos)状態から、どのように再生成されていくのか、方法論として作り上げるのは難しいにしても、100年単位ではなく、少なくとも500年単位の変化に目をこらして考えなければならない、と感じている。

 考えた内容は随時、スケッチという形で、この場に書き記していきたいと思う。
 
 

2009年5月16日土曜日

タイ・ フェスティバル 2009




 タイ・ フェスティバル 2009 に行ってきた。今年で10回目というから、代々木公園で行われる5月のイベントとしてすっかり定着したようだ。明日17日までの二日間開催。

 天気は曇りだったが、ものすごい人出で、年末の上野アメ横なみの混みようである。夏日でなくてよかったかもしれない。
 まあ基本的に祭りの縁日みたいなものなので、とくにこれがといったものはないのだが、パフォーマンス関連のイベントは充実している。
 T-Pop のアイドル歌手、ロック歌手のコンサート、タイダンス(古典舞踊)などなど。

 とはいえ、なんといっても来客者の関心はタイフードだろう。タイカレーの匂い、そしてまた独特なドリアンの匂い、ガイヤーン(タイ東北部イサーン風炭火焼き鳥)を焼く匂いが食欲を誘い、またタイへの思いをかき立てる。
 バンコクで小さな現地法人を立ち上げ、今年3月末まで社長(MD:Managing Director)をやってたこともあり、タイは自分にとっては特別の存在である。
 志半ばにして会社をたたむことになったので、「しばらくバンコクには行かない」などど現地では語っていたものの、片雲の風に誘われた芭蕉ではないが、ガイヤーンの匂いに誘われて訪タイへの思いやまず、といったところである。

 出店しているタイ料理の店はどの店もものすごい混雑で、基本的に行列が嫌いな私は、比較的待ち時間が短いと思われたタイフルーツの店でドリアンを買うことにした。
 ドリアンは一切れ500円だが、せっかくなので一人で2切れ食べることにした。ドリアン食べるのは今年は今回が初めてだが、このネチャネチャ感がなんともいえずたまらない。クセになる味である。
 雨期に入ったいまが一番フルーツの美味い季節なので、ドリアン以外も食べたいところだが、今回はあきらめる。しかしドリアンが大玉1個3,000円というのは、輸入品だから仕方ないが驚きの高価格だ。タイ関連は日本では儲かるビジネスかもしれないなあ・・
 そのあと、先にも記したガイヤーンへの思いやまず、これも1皿500円の焼きたてを2皿食べることに。これだけ食べておけばしばらくは我慢できるだろう。
 しかしいかんせん、ドリアン食べてしまったのでビールは飲めないのだ、残念。ドリアン食べてビールは飲むなといわれているが、さすがに実験精神旺盛な元理科少年の私も、自らの体を使って人体実験したことはない。食べ合わせというものは科学的な根拠のあるなしにかかわらず、守るにこしたことはない。

 こうしたイベントに参加するだけならタイっていいなあ、観光で遊びに行くとタイはいいなあ、で終わる話だが、実際に働くとなると、話は180°変わってくる。タイでなんらかの形で働いた経験があれば異議なく賛成してくれるはずだ。いや東南アジアはシンガポール以外はどこでも同じようなものだろう。
 そんなことを考えながらも、せっかくタイで暮らしていたわけなので・・毎月バンコクと東京を往復する生活を続けていた・・、タイに関する話をぼつぼつ書きながらまとめていきいたい、と考えている今日この頃である。


<追記>
 「タイ民俗舞踊(タイ・フェスティバル 2009 東京)」と題してビデオ映像を YouTube にアップしましたのでご覧あれ。手の動きに注目されたい。(2009年11月19日)

              

2009年5月15日金曜日

「西部邁(にしべすすむ)ゼミナール」と秋山祐徳太子




 Tokyo MX という東京ローカルのUHF放送が地デジでも見れるので、最近よく見てるのだが、毎週土曜日に「西部邁ゼミナール-戦後タブーをけっとばせ-」という30分番組があることをついこないだ知った。生放送は一回も見てないのだが、ウェブサイトに YouTube を使った動画アーカイブがあるので、過去の番組をパソコンでみると、これが実に面白い。

 私はとくに西部邁のファンではないので、彼が書いたものは実はあまり読んでないのだが、いわゆる「保守思想家」ということになっているようだ。映像で見る限り、1939年生まれで今年70歳の西部は、なかなかいい味出している。
 でも実はこの番組が面白いのは、番組タイトルには出てこないのだが、ホスト役にアーチストの秋山祐徳太子(1935年生まれ)も出ていることだ。R70の二人の老人は飲み友達で親友らしい。「年寄りだから許される」という特権を活かして、好き放題しゃべっているのがこの番組の特色で、「老人力」をうまく利用した好企画である。

 実は、私は秋山祐徳太子のファンで、その昔、東京都知事選挙(二回目)に出馬したときの政見放送をNHKでみた記憶がある。子供心に変な名前だなあ、本名なんだろうか?、と思い記憶に強く焼き付いていた。
 余談だが、同時に立候補した「オカマの東郷健」(本人がそう言っている)の政見放送は実に鮮明に記憶として残っている。政見放送は放送コード無視してしゃべれるので、インターネット時代に入るまでは、自らの思想を語るのに、これほど適した放送メディアはなかったのだ。東郷健の政見放送は、NHKアーカイブにあるのだろうか?

 秋山祐徳太子の著者は最新刊のもの以外はすべて読んでおり、アーチストの突き抜けた自由な生き方には限りない共感を感じてきた。とくに『泡沫桀人列伝-知られざる超前衛-』(二玄社、2002)は素晴らしいの一語に尽きる。取り上げられている「泡沫」アーチストは、ボクシング・ペインティングの篠原有司男以外はまったくの無名人で、世の中にはこれほど変わった人がいることにうれしい驚きを感じる。

 現代美術の世界では、ルイ・ヴィトンとのコラボレーションなどで有名になった村上隆のような「戦略性」をもった成功者もいるが、戦略なんてビジネスだけで十分じゃないか。なんだかアメリカ資本主義そのもので、あざとい感じがしていやだね。
 それに比べて、「泡沫」アーチストたちは、はたからみると変人でしかない。とはいえ、本人たちの自意識においては、みな大真面目にアートに取り組んできたのであり、その結果とんでもない方向にいってしまっている。自分しか見てないから世の中の大半とはズレていってしまうのだが、他人の目線を感じることなく、一貫して一本筋の通った生き方をする人間は、芸術家であれ、科学者であれ、たいへんいい生き方ではないか。
 『近世畸人伝』(伴 蒿蹊、森 銑三校註、岩波文庫、1940)に登場する17~18世紀の江戸時代の人たちにも通じるものがある。必ずしもカネにつながらないし、非生産的なことであるとしても、精神衛生的にはたいへんよい。

 また秋山祐徳太子の自叙伝である『ブリキ男』(晶文社、2007)もいい。パフォーマンスのさきがけである行動芸術、ブリキを使った彫刻、石原慎太郎とともに落選した東京都知事選の話、赤尾敏とチョコレートパフェを食べた話など、明るく笑える話が満載で、精神の自由にみちみちている魅力的な本だ。肩の力が抜けて、しかも生きる元気が湧いてくるのを覚える。
 大阪万博に関してはまったく正反対の立場にあった岡本太郎も好きだが、彼の「爆発」的自由・・これは、フランス的個人主義を基盤にした日々戦って勝ち取ってきた自由・・とは違って、秋山祐徳太子の自由は、日本人が昔からもっている、軽さ、つまり俳諧に通じる精神の自由である。どちらの自由もいい。

 「世間」なんかにとらわれず、好きなように生きたらいいではないか。





                        

2009年5月13日水曜日

実に久々のミャンマー料理




 赤坂のミャンマー料理店に、ビルマ語に堪能な友人と「エスニック・ランチ」をしに行った。SHWE ZIN YAW(金のかもめ)、という名前のお店だ。
 
 ミャンマー料理は実に12年ぶりだ。1997年、Visit Myanmar Year にひとり旅をして以来。現地の味を知っているだけに、なんとなくミャンマー料理はこれまで避けてきた。基本的に油ギチギチで、油の中にカレーと具が浮かんでいる、これが典型的なミャンマー料理だからだ。
 隣国のタイ料理は、屋台料理ではふんだんに食用パームオイル(やし油)を使うとはいえ、ミャンマー料理はその比ではない。だから、何も好き好んでミャンマー料理を食べたいとは・・・というのが正直な気持ちだったわけ。

 今回はランチメニューの中から、お店のすすめでスパイシーチキンカレーとシャン族の米の麺のセットを注文した。スープとサラダ、それに食後のコーヒーもついて1,050円。お茶の葉のあえものであるラペットウは品切れというのは残念だったが・・。友人には、日本人向けじゃなく、現地並みに辛くしてほしいというリクエストを、ビルマ語で直接お店の人にしてもらった。
 味はたしかに辛くはしてもらったが、タイ料理や韓国料理に慣れている、私のような日本人にはさほど辛いとは思えなかった。とくに、タイのプリッキーヌー(小さくて激辛の唐辛子)に慣れた私には物足りない。しかも、油ギチギチのカレーを期待していた私にはちょっとがっかりだった。しかし、そんなことしたら日本人のリピーターがいなくなってまうだろう。お店の経営がなりたたくなってしまう。
 水曜日の昼は日本人でほぼ満席になっていた。東京でも有数のエスニック料理集中地帯である赤坂、という好立地もあずかっているのだろう。おそらく夜はもっと来店客が多いはずだ。

 会計の際、流暢にビルマ語をあやつる友人は、お店のミャンマー人女性たちと違和感なくビルマ語で会話をしている。お店の女主人は、色白で小柄な友人のことをずっとシャン族と思いこんでいたようだ。そもそも日本人と思っていなかった、というのは現場にいあわせた私にとっても面白い。
 これはミャンマーに限らず東南アジアではよく経験することで、とくにミャンマーはビルマ族以外にも多数の民族で構成される多民族国家なので、ビルマ語をしゃべる人=ミャンマー国民と考えるのだろう。私もどちらかといって色白なので、ミャンマーでもタイでも、よく華人扱いされてきたが、まあそんなもんだろうと受け止めてきた。

 さて、久々のミャンマー料理であったが、やはり油ギチギチ!のカレーを食べたい、と思った私は、三たびミャンマーに渡航するかどうか、いま真剣に考えている。


以下はおまけ。
過去に書いたミャンマー(ビルマ)関連書籍の書評を掲載しておきます。

●『ミャンマーの柳生一族』(高野秀行、集英社文庫、2006)
●『ミャンマーという国への旅』(エマ・ラーキン、大石健太郎訳、晶文社、2005)




                

2009年5月10日日曜日

新緑の風に誘われて明治神宮を参拝




 ジャマイカフェスティバル2009が代々木公園で行われているというので、天気もいいことだし出かけてみたが、単なる縁日みたいなかんじだったので、そこは早めに切り上げることとした。カリブには1991年に英国領グランドケイマン島にいって友人とスキューバダイビングしているのだが、その時にケイマンで現地人から耳にしたジャマイカの悪評を思い出した。私はよほどジャマイカとは相性が悪いのだろうか?
 せっかくなので、脚の向くままに明治神宮の森へと散策を行った。本日のように天気がいいと、鬱蒼と茂った森の中を歩くのは実に気持ちいい。都会のど真ん中で森林浴を楽しめる。なんせこの5月の新緑の匂いは格別なのだ。
 もちろん明治神宮まで参道をゆっくりと歩いて行くのだが、この玉砂利の参道は国際色豊かで、さまざまな人が散策を楽しめる東京では有数の観光スポットなのだろう。金髪の白人はそれとすぐに識別できるが、黒髪のアジア人は日本人なのか中国人なのかは耳に入ってくる会話を聞かなければわからない。それでも、中国人だけでなく、なんとタイ人観光客たち(今年の三月末までバンコクにいた私にはそれがタイ語であることはすぐにわかる)も少なからずいることがわかって面白い。タイ人でも華人系だと見た目は日本人とほとんど区別できない。
 明治神宮は観光スポットでもあるが、一方近年はパワースポットとしても有名になりつつあるようだ。神社がパワースポットであるのは当然だが、歴史が百年にも満たない明治神宮が東京でもかなり有数のパワースポットとなっていることは面白い。晴れた日も、曇った日も、また雨の日ですら何やら歩いて気持がいいのは、神社の森のありがたいことである。
 御手水舎で手と口をすすぎ、参拝を行う。明治神宮に来るのはもう何回目かわからないが、お賽銭を入れて、二拝二拍手一拝、この瞬間を実に気持ちよいと感じるのは、日本人としては自然な感情であろう。
 結婚式をやっていた。神官が先導する花嫁花婿の行列に、外国人観光客が撮影している風景、きっと日本古来のしきたりをみることができてラッキーとおもっているのだろう。神前結婚は大正以降のもので、いわば「作られた伝統」でしかないのだが。これは日本人でも知る者は少ない。
 お守り販売所などをひやかしながら歩いていると、「教育勅語」が書かれた短冊が「無料でお持ちください」と置かれたアクリルケースに入れている。なんとなしに一部取って中身をみると、「教育勅語」の裏はなんと「五箇條の御誓文」になっているではないか。五箇條の御誓文は内容が素晴らしい。久々に読み返してみてなおさらその感を強くした。せっかくなので原文を転載しておこう(写真参照)。

 五箇條の御誓文

一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
一、上下(しょうか)心を一(いつ)にして、盛に経綸を行ふべし
一、官武一途庶民に至る迄、各(おのおの)其(その)志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
一、智識を世界に求め、大(おおい)に皇基を振起すべし

我国未曾有の変革を為さんとし、朕(ちん)躬(み)を以て衆に先(さきん)じ、天地神明に誓ひ、大に斯 (この)国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆亦此(この)趣旨に基き協心努力せよ。

         明治元年三月十四日
 
 鳥羽伏見の戦い(1868年)で幕府側についたために「負け組」となった貧乏公家の末裔である私は、明治以降の近代日本にはアンビバレントな感情ももっているのだが、五箇條の御誓文その出発点にもつことで明治維新は基本的に肯定してきた。明治の出発点で、これだけすばらしい宣言がすべての人に向けて発信されたのである!昨年は1868年の明治維新から140年、その際行われた奉祝コンサートにも出かけたが、すでに約五世代が過ぎ去っている。「勝ち組」も「負け組」も、恩讐を超えて、良い点は良いとして受け止めるべきなのだ。
 五箇條の御誓文に続いて、明治天皇御製と昭憲皇太后御歌一日一首が載せてある。参考までに昨日9日と本日10日のものを載せておこう。奇数日は御製、偶数日は御歌である。
 
 9日 世の中の人におくれをとりぬべしすすまむ時にすすまざりしは(明治天皇御製)
10日 人ごとによきもあしきもこころしてきけばわが身のためとこそあれ(昭憲皇太后御歌)

 いわば人の道を説いた道歌なのであるが、日本の西欧近代化を推進した一方、こうしたわかりやすい表現で一般民衆を導いた明治帝は、まさに明治大帝と呼ぶにふさわしい。
 そして何よりも、崩御の後、明治神宮の森という形で首都のど真ん中に、これだけの規模の森が作られ、そして守られてきたことは、日本国民だけでなく、世界にとっても、最大の贈り物といえるだろう。





                     

2009年5月9日土曜日

善光寺御開帳 2009 体験記




 今年は7年に一回の御開帳の年にあたる。ということで私も、時間的な余裕があるので(もちろんそれだけが理由ではないが・・)、さる4月23日にでかけてみた。御開帳の期間は5月末までだが、連休がものすごく混むであろうことが予想されていたためだ。

 牛にひかれて善光寺参り、これで1984年以来、通算3回目の参拝である。前回の御開帳の時は、時間的余裕はあったのだが、なんとなくやり過ごしてしまった。したがって今回が御開帳初体験となった。
 善光寺は宗派には関係ないが、とはいえ天台宗と浄土宗が中心になって管理運営している。つい最近天台宗の総本山である比叡山にいったばかりなので(浄土宗の宗祖法然上人はもちろん比叡山で修業)、なにやら仏縁を感じるばかりである。 

 まず「回向柱(えこうばしら)」という巨大な一本木から作った卒塔婆にまず触れるのだが、これが平日とはいえ30分くらいの待ち時間があった。回向柱と御本寺は糸で結ばれており、この柱にふれることで極楽往生が可能となる(*写真に写っている腕時計のついた手は、右手で撮影した私の左手)。

 御本尊は「前立(まえだち)本尊」という。7年に一度だけの御開帳だが、この御本尊事態が複製で、ホンモノは秘仏として誰も目にすることがないというのもまた驚きだ。内陣はやや暗いのだが、平安時代にとくにあらゆる階層の人間に強い願望のあった極楽浄土が表現されている。

 今回何よりも強く宗教的な(あるいはスピリチュアルなといってもいいか・・)感覚を覚えたのは、「お戒壇(かいだん)巡り」であった。
 御本尊の真下の真っ暗な回廊をめぐるのだが、この回廊は全長45メートルもあるという。
 回廊は、これが本当に真っ暗で、5メートルも進むとまったく何も見えない暗闇となるのだ。御開帳の最中ということもあり。、数珠つなぎといっていいほど人が戒壇めぐりをするので、いったん中に入ったら怖くなっても後ろがつかえているので引き返すこともできない。まさに inch by inch で、壁を手で触りながら手探りで前に進むしかないのだ。
 腰のあたりを右手で手探りで探りながらだいぶ進むと、突然手に「極楽の錠前」を探り当て、思わずしっかりとつかむことになる。この時はうれしさのあまり、無意識のうちに右手につかんだ鉄製の重い錠前を二度も、三度も上下に振ってガチャン、ガチャンと音を鳴らしている自分に気づくことになる。この感激は体験した者にしかわからないだろう。これによって極楽往生は完全に約束されたのだ、救われたという実感をもつ瞬間(Moment of Truth)である。これで安心して残りの人生を生きていくことができる!
 そしてしばらく壁づたいに進むと、ほのかに光が差し込んでくる。闇に差し込む一条の光、まさに浄土の光である!中世の人間はまちがいなくこう感じたはずである。
 これは胎内めぐりであり、その意味で生と死の象徴ともいえるだろう。一度死んで暗いトンネルをくぐったあと再び蘇る。いわば生と死のイニシエーション体験なのである。

 さて、善光寺参りの後はもちろん門前で信州そばを食べる。ざるそばがうまいなあ。低カロリーでなおよし。

 参道を長野駅に戻る途中に西光寺というお寺がある。かるかや山という名前のとおり、説教節の刈萱ゆかりのお寺である。「月に村雨 花に雨 散ってはかなき世のならい・・・(以下略)」の刈萱である。善光寺は比叡山と密接な関係があるが、刈萱を通じて高野山ともつながりがある。刈萱の主人公である石童丸は高野山で修業している。日本というのは、現代人には見えなくなってしまったが、こうした神仏のネットワークでつながった国なのである。

 善光寺が南向きに建てられていることはご存じだろうか?これは別所温泉の北向観音の存在を知ると意味をもってくる。善光寺は南向きで来世の幸せを、北向観音は北向きで現世の幸せを祈る。こういう形でこの二つは対になっており、片方だけでは片詣りになってしまうという。

 今回は別所温泉に宿をとり、二日目に善光寺を参拝するという日程とした。善光寺参りのあとは北向観音に参り、信州の鎌倉と呼ばれる別所温泉で精進落としをし、おいしい料理をいただき、温泉で癒される。
 今回はこういう旅なのであった。


<関連サイト>

善光寺お戒壇めぐり(善光寺の公式サイト)




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2009年5月8日金曜日

チベット・スピリチュアル・フェスティバル 2009




チベット・スピリチュアル・フェスティバル 2009 が、連休中の5月1日から5日間、新宿の常円寺にて開催された。私は初日のみ参加してみた。

 内容だが、南インドで再興したタシルンポ寺から来日したチベット仏教僧たちによる、声明、チャム(チベット密教僧による仮面舞儀礼)、砂曼荼羅(マンダラ)作成などである。
 タシルンポ寺は、ダライラマについで重要なパンチェンラマの寺、私は1995年にチベット(中国)にいった際に参拝しているが、今回来日のタシルンポ寺は、チベットから脱出した僧侶が再興したもののほうである。

 チャム(チベット密教僧による仮面舞儀礼)は静止画像では見たことがあるが、ライブをみたのは今回が初めての経験であった。プロの舞踊家による舞踊ではなく、修行を積んだ密教僧が仮面をかぶり、雅楽のような装束を着て、静かに、また激しく舞う、これは純然たる仏教儀礼なのである。チャムについては、『モンゴルの仮面舞儀礼チャム』(木村理子、風響社、2007)がもっとも簡単に入手できる文献であり、大いに参考になる。チャムは、モンゴルを含む中央アジアに広がる「チベット仏教文明圏」で行われている。

 チベットには1995年に訪問したが、このときはラダック(インド)、ブッダロード(インド)、ネパールをあわせて40日間の旅をした。まだ、モンゴルやブータン、ブリヤート(ロシア)などは訪問していないが、北京の雍和宮(ようわきゅう)はこれまで2回参拝している。清朝皇帝はチベット・モンゴル統治政策のため、チベット仏教を大いに利用したため、首都のど真ん中に大規模なチベット仏教寺院が存在するのである。18メートルの木彫り弥勒菩薩立像(一本の木からくりぬいたもの!)は圧倒的だ。

 その観点からいうと、現在の中国共産党によるチベット統治策はいささか稚拙の感なきにしもあらずである。清朝時代の版図を維持したいのなら、前王朝の政策を徹底研究すべきであろう。抱き込み政策としては完全に失敗している。清朝皇帝は自らチベット仏教に帰依していた。もっとも漢民族でかつ宗教を否定する政権である以上、この政策はとりようもない。いまだ清朝の正史が編纂されていないことは、現政権がいまだ確立したものとなっていないことを意味するのだろうか。チベット独立は難しいが、せめて自治権の拡大は認めてしかるべきである。

 昨日7日からは、大チベット展という形で、信州の善光寺大門の西方寺でも開催されている。善光寺といえば、昨年の北京オリンピックの聖火リレー出発点となるはずだったのを、若い僧侶たちの反対によって、結果として辞退に至ったことは記憶に新しい。チベットで苦しんでいる仏教徒のことを考えればとして当然のことなのだが、その地でチベット関連のイベントが開催されることは、今年が7年に一回の御開帳ということもあいまって、たいへん意義深い。善光寺御開帳についてはあらためて書くつもり。

 チベット・スピリチュアル・フェスティバルは、参加するのは今回が初めてである。AFR-Tokyo (American Forces Radio:横田基地米軍放送)の I'm Hisano Yamazaki with What's Happening outside the Gate という告知放送で知り、ウェブサイトで検索した次第。日本で開催されているイベントをこういう形で知って参加する日本人はあまりいないだろうなあ。高校時代から当時FENといっていた米軍放送は聴いているが、まあこの国は、米国の「属国」状態から完全に脱していないわけで。とはいえ、現在のチベットよりは、はるかにマシな状態だ。

<付記>
チベット密教僧による「チャム」牛と鹿の舞」と題して、YouTube にビデオ映像をアップしました。ご覧あれ(2009年11月18日)

           



                       

2009年5月6日水曜日

「泣いてたまるか」




 現在、前職を辞めて休養&充電中なので、昼の番組も見ています。

 『泣いてたまるか』というドラマが面白い。
 TOKYO-MX TV(東京ローカルのUHF)で月~木、お昼の12時から50分。さまざまな職業を、渥美清(あるいは青島幸男)が主人公を演じ分ける一話完結型のドラマで、昭和41年(1966年)から43年(1968年)にかけて制作されたモノクロ作品です。地デジでみると画面が鮮明。初めて見るだけにすごく新鮮な内容だ。

 いやあいいね、ノスタルジックないい味だしてる。
 高度成長まっただ中の時代に子供時代を送った私には、「ああこんな世の中だったなあ」「こんな人がいたなあ」、という懐かしさと同時に、「こんな職業もあったのか」という感想と、失ってしまったものの大きさも感じています。
 まだ「今日よりも明日」が信じられた時代、がんばれば報われた時代、ひたむきに生きる主人公の姿に共感するものが多いのも事実です。また、このほかにも『肝っ玉かあさん』のような、大人も子供も楽しめるドラマがあったなあ、と。

 とはいっても、高度成長後期は公害が最悪だった時代であることもわすれてはなりませんね。その意味では現代の方がはるかに良い生活になっているはずですが・・・。
 平凡社からでている『貧乏だけど幸せ-われら日本人昭和25年〜35年の実写記録-』(コロナブックス編集部編、1999)をパラパラとページめくりながら、そういうことを考えます。

 それにしても、この40年間で日本も、日本人も大きく変貌したものだ。このドラマが製作された時点では、まだ敗戦後20年にしかすぎなかったのだから。

<付記>
YouTubeに渥美清が歌った主題歌がアップロードされている。(6月11日)

         





               

2009年5月4日月曜日

ブログはじめました



いまさらながら、という感なきにしもあらず。
とはいえ、近況報告等に使いたいと思います。
また、このブログに書いたつれづれは、
私のものの考え方を知るよすがともなりましょう。
では、つれづれと・・・・とりとめもなく、
森羅万象について書いていきます。

「円安バブル崩壊」


                       
 1997年の金融危機から10年あまり、昨年のリーマンショックが引き金となった世界経済危機は、トヨタショックという形で日本の製造業に大きな打撃を与えた。4割から5割の減産が当たり前になっている。
 これは正直いって敗戦にも匹敵する壊滅的状態である。
 経済学者の野口悠紀雄によれば、これは「円安バブル」の崩壊だという。つまり、米ドルに対して円安基調が維持されてきたこの約5年間は、とくに製造業の構造的問題を先送りにしたままま、円安という神風に吹かれたなかで棚ぼた式に発生したバブルに他ならないのだ、と。アメリカという借金漬けの、垂れ流し的消費を続けてきた国を主たる輸出先とした経済構造となってきたのだ。実は、中国の輸出も、日本製造業の中国生産拠点を通じての迂回輸出にすぎないのだ、と。
 となると、今後しばらくは円安になることは考えられない現在、製造業もまた復活にはかなりの時間がかかるということだ。しかも、私自身の感覚的な話だが、昨年ピーク時の7割前後までしか回復しないのではないか、と感じている。しかもその7割ですら3年から5年後のことだろう。
 なぜなら、円高基調が続けば、かつての1985年からの数年のように、東南アジアそして中国へ量産型製造業は大幅に移転することとなり、これらの国々から日本が輸入したほうが合理的だ、という結論になるためだ。
 一言でいえば日本の「製造業の空洞化」がさらに本格化するということだ。今回はもう逆戻りはあるまい。
 東京大学の藤本隆宏教授が説く「ものつくり」は、生産だけでなく設計から始まるコンセプトだが、果たして、試作設計だけの製造業が可能なのだろうか?製造基盤がないまま設計だけが可能だろうか?アメリカの製造業がだめになったのは過度のオフショアリングのせいではないのか? さまざまな疑問が浮かんでは消える。
 この6年半、金融の世界から製造業の世界に移り、さらにこの約3年間タイ王国での製造業関連ビジネスに従事した私が感じるところである。
 最近読んだ経済学者(いや広い意味での社会科学者というべきだろう)都留重人の自伝に、彼の師であるシュンペーターが、関東大震災後の1925年当時の日本の経済発展は、「創造的破壊(creative destruction)」の好例だといっていた、という一節があった。これは一つのヒントとなるだろう。
 では具体的に、この日本は(いやこれはあまりにも一般的すぎるな・・)、私自身は何をなすべきなのか、自問自答する今日この頃である。   
 答えは各人が一人一人実践を通じて考えるしかない。