かつてロシアはソ連とよばれていたが、そのロシアにおけるロシア正教の位置づけの重要性を的確に見抜いて指摘したのは小室直樹であった。ソ連崩壊を30年前に予測した名著『ソビエト帝国の崩壊』(1980年)において、ビザンツ帝国以来の「政教一致体制」こそロシアを特徴づけているのだ、と書いている。
本書『ろくでなしのロシア-プーチンとロシア正教-』によれば、ソ連崩壊からすでに20年以上たったいま、ロシアではプーチンのもとで急速に「ロシア正教の国教化」が進展しているという。マルクス主義に改宗したグルジア人神学生であった独裁者スターリンによって徹底的に弾圧されたロシア正教だが、現在ではロシア帝国時代以上の展開を示しているようだ。
ソ連崩壊後、とくに米国のプロテスタントの諸宗派や日本のオウム真理教もふくめた新宗教が大量に流れ込んできたロシアだが、この状態に危機感を感じたプーチンは国家統治の観点からロシア正教のテコ入れを開始した。
財政基盤の弱体化したロシア正教会に優遇措置を与えることによってビジネスに積極関与させ、すでに財閥の一角として成長したロシア正教会。カトリック教会もまた、財政基盤確立のため同じ道を進んだ結果、金融スキャンダルまみれになっていることは周知のとおりだが、ロシア正教もまたそのワナから逃れることのできない状態に陥っているようだ。
■西欧近代化 vs ロシア主義-「精神の近代化」が進まなかったロシア
プーチンが狙っているのは、宗教を政治に従属させることを意図した「政教一致国家体制」である。ある意味では、明治維新体制における国家神道の位置づけに近いものがあるかもしれない。
明治国家建設者の一人であった長州藩出身の元勲・山県有朋が、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に列席したとき、「これだ!」と内心うなったのがロシア正教の壮麗な儀式体系であったことはシンボリックな話である。
ビザンツ帝国とは東ローマ帝国のことだが、1492年にオスマントルコ帝国によって滅亡させられ、東方正教会(=正教)の中心はコンスタンティノープル(=イスタンブール)からモスクワに移動する。いわゆる「モノマフの冠」というやつだ。「第三帝国」というとナチスドイツの連想があるが、正教の文脈においてはロシアこそ「第三帝国」なのであった。
西欧世界とは異なり宗教改革を経験しなかったロシアでは、宗教組織と個人の内面の信仰との乖離が進展しないまま現在に至っている。
西欧ではプロテスタントによる「宗教改革」に呼応してイエズス会を中心とする「対抗宗教改革」が起こった。これにより西欧全体として「精神の近代化」が進展したのだが、ロシアではそういう動きは起こらなまま現在に至っているのである。
その端的な姿が、本書で指摘されているように、聖書を読まない、聖書について語らないロシア正教の聖職者に対する信者の不満にあらわれている。天上の権威が同時に地上の権威でもあるのは、西欧においては11世紀のカノッサの屈辱以前の世界であったが、ロシアにおいては21世紀の現在まで変化がないといっていいのだろうか。
遅れて近代化のはじまったロシアにおいては、「近代化=西欧化」という図式において日本と共通するものがあった。現在にいたるまで「西欧近代主義」対「スラブ主義」という対立構造がつづいている。
ロシアよりさらに遅れて近代化のはじまった日本においても同様に、「西欧派=啓蒙主義者」と「国粋派」の対立としてつづいてきた。その意味においては、後進国としての日本との共通性と相違点も存在する。
プーチンによる「正教国教化」が完成し「政教一致国家体制」が完成したとしても、現在のロシア共和国は世襲制の帝政ではないこと、しかも後継者を明確にしえない体制である以上、プーチン以後は混沌状態に陥るのは避けられないといいうことは容易に予想されることだ。
(東京駒込のロシア正教教会の十字架 筆者撮影)
■増大するムスリム人口-ロシア正教の将来は?
しかも、人口動態の観点から考えると、ロシア共和国においてはムスリム人口が増大する一方であるのに対し、スラブ系の人口は減少の一途をたどっている。出生率の違いが顕著に反映している。
このままでは21世紀の終わりまでにはスラブ系ロシア人は消滅する(?)とさえ言われており、人口問題にかんしてはロシアは日本よりはるかに困難な状況を迎えることが予想されている。
増大するムスリム人口は出稼ぎ労働者が極東ロシアにまで及んでいる。極東ロシアの人口問題は近隣諸国の中国や北朝鮮からの合法、非合法の人口流入問題だけではないのだ。
かつてロシアは長きにわたってモンゴル人の支配下に入るという「タタールのくびき」のもとにあったが、こんどはイスラーム国家のもとで「アッラーのくびき」(?)に置かれるになるのかもしれない。
じっさいロシア人はその他のスラブ系諸民族よりもはるかにアジア系との混血がすすでおり、かなりアジア的な風貌の人間も多い。
ムスリム人口がマジョリティとなり、スラブ系がマイノリティとなったとき、ロシア正教もまたマイノリティの宗教となるのである。イスラームの大海に浮かぶ小島のような存在になるのかもしれない。
スラブ人にとってはかなり暗い(?)未来図ではあるが、想定外とは言い切れないものがある。すでに約30年前に 『ソ連がイスラム化する日』(ヴァンサン・モンテイユ、森安達也訳、中公文庫、1986)という本が出版されていることも想起しておきたい。
■ロシアをロシアたらしめているものを知る
本書を読むにはある程度までロシア史について知っていることが望ましい。
本書のタイトルは『ろくでなしのロシア』というかなり変わった印象を与えるものだが、「聖なるロシア」と「ろくでなしのロシア」がつねに表裏一体の存在であることをアタマに入れておく必要がある。このまったく相矛盾する自己認識が同時に両立しているのがロシア人のメンタリティーなのである。
本書にも引用されているが、19世紀ロシアの詩人チュチェフの有名なフレーズ「ロシアはアタマでは理解できない」(ウモーム・ラシーユ・ニェ・パニャーチ)そのものだ。この点については、井筒俊彦の『露西亜文学』(慶應義塾大学出版会、2011)をあわせて読むといいだろう。
「マドンナの理想を抱きながら、ソドムの深淵に惑溺する」という、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にでてくる有名なフレーズ。人間とは矛盾に満ちた存在だが、ロシア人はとくにその傾向がつよいのか。
ロシアという存在は、ある種の日本人に特有の単細胞な教条的思考や希望的観測をつねに裏切る存在である。
著者は「あとがき」で、くどくどとなんやら弁解めいた口上を述べているが、これは読者層と想定される人が、ロシアに関心のある読者か、ロシア好きに限定されがちな日本の状況を反映しているのかもしれない。
かくいうわたしも、かつては「ロシア好き」でロシア語まで勉強した人間だ。仕事でもかかわっていた一時期はそうとうつっこんで研究もしたが、いまではロシアへの愛は冷めてしまった。
だが、もしロシアについて関心があり、しかもロシアに対して距離をおいたスタンスをとれる人ならぜひ読むべきだと薦めたい。衰えつつあるとはいえ、現代世界においてロシアという存在そのものが無視できないことは言うまでもないからだ。
本書は、つかみどころのないロシアをなんとかつかみとろう試みてきたロシア研究者の奮闘の産物である。
目 次
序章 絶望のロシア社会
第1章 神権政治
第2章 “第三のローマ”復興のかげに
第3章 極東の愛国主義は高揚する
第4章 プーチンとは何者か
第5章 反プーチンの逆説
終章 正教国家ロシアのゆくえ
註
あとがき
参考文献
著者プロフィール
中村逸郎(なかむら・いつろう)
1956年、島根県生まれ。学習院大学法学部卒業。同大学大学院政治学研究科博士後期課程単位取得退学。政治学博士。島根県立大学助教授を経て、現在、筑波大学国際総合学類長・教授。専攻はロシア現代政治。著書に『東京発モスクワ秘密文書』(新潮社、のちに『ソ連の政治的多元化の過程』と改題して成蹊堂より刊行)、『ロシア市民―体制転換を生きる』(岩波新書)、『帝政民主主義国家ロシア―プーチンの時代』『虚栄の帝国ロシア―闇に消える「黒い」外国人たち』(ともに岩波書店)『ロシアはどこに行くのか-タンデム型デモクラシーの限界』(講談社現代新書)などがある。
<関連サイト>
第2次プーチン政権 課題は人口問題(NHKワールドWAVE特集まるごと 2012年5月8日)
ロシアの人口減少は日本より深刻 (門倉貴史 日経ビジネスオンライン 2006年6月26日)
<ブログ内関連記事>
書評 『シベリア最深紀行-知られざる大地の七つの紀行-』(中村逸郎、岩波書店、2016)-シベリアは想像を絶する多様性に富んだ奥行きの深い世界
■ソ連とロシア
『ソビエト帝国の崩壊』の登場から30年、1991年のソ連崩壊から20年目の本日、この場を借りて今年逝去された小室直樹氏の死をあらためて悼む
書評 『ソ連史』(松戸清裕、ちくま新書、2011)-ソ連崩壊から20年! なぜ実験国家ソ連は失敗したのか?
書評 『プーチンと柔道の心』(V・プーチン/ V・シェスタコフ/A・レヴィツキー、山下泰裕/小林和男=編、朝日新聞出版、2009)
書評 『モンゴル帝国と長いその後(興亡の世界史09)』(杉山正明、講談社、2008)
書評 『「シベリアに独立を!」-諸民族の祖国(パトリ)をとりもどす-』(田中克彦、岩波現代全書、2013)
■東方正教会とギリシア、そして反共姿勢のカトリック
本日12月6日は「聖ニコラウスの日」・・東方正教会とニコライ堂
書評 『物語 近現代ギリシャの歴史-独立戦争からユーロ危機まで-』(村田奈々子、中公新書、2012)-日本人による日本人のための近現代ギリシア史という「物語」=「歴史」
書評『ブーメラン ー 欧州から恐慌が返ってくる』(マイケル・ルイス、東江一紀訳、文藝春秋社、2012)-欧州「メルトダウン・ツアー」で知る「欧州比較国民性論」とその教訓
・・「ギリシアの女子禁制のアトス山にあるヴァトペディ修道院。ここがまさかギリシアの腐敗の中心にあったとは(!?)と思いながらページをめくっていくと、ギリシア財政問題の構造が手にとるように理解できる仕組みに・・」
書評 『バチカン株式会社-金融市場を動かす神の汚れた手-』(ジャンルイージ・ヌッツィ、竹下・ルッジェリ アンナ監訳、花本知子/鈴木真由美訳、柏書房、2010)
書評 『バチカン近現代史-ローマ教皇たちの「近代」との格闘-』(松本佐保、中公新書、2013)-「近代」がすでに終わっている現在、あらためてバチカン生き残りの意味を考える
■人口問題とムスリム人口増大
書評 『自爆する若者たち-人口学が警告する驚愕の未来-』(グナル・ハインゾーン、猪俣和夫訳、新潮選書、2008)-25歳以下の過剰な男子が生み出す「ユース・バルジ」問題で世界を読み解く
書評 『アラブ革命はなぜ起きたか-デモグラフィーとデモクラシー-』(エマニュエル・トッド、石崎晴己訳、藤原書店、2011)-宗教でも文化でもなく「デモグラフィー(人口動態)で考えよ!
書評 『中東激変-石油とマネーが創る新世界地図-』(脇 祐三、日本経済新聞出版社、2008)
・・過剰人口、とくに若年層の失業問題をかかえる現在の中近東諸国、はたして解決策は・・・?
(2022年12月23日発売の拙著です)
(2022年6月24日発売の拙著です)
(2021年11月19日発売の拙著です)
(2021年10月22日発売の拙著です)
(2020年12月18日発売の拙著です)
(2020年5月28日発売の拙著です)
(2019年4月27日発売の拙著です)
(2017年5月18日発売の拙著です)
(2020年5月28日発売の拙著です)
(2019年4月27日発売の拙著です)
(2017年5月18日発売の拙著です)
(2012年7月3日発売の拙著です)
ツイート
ケン・マネジメントのウェブサイトは
ご意見・ご感想・ご質問は ken@kensatoken.com にどうぞ。
禁無断転載!
ツイート
ケン・マネジメントのウェブサイトは
ご意見・ご感想・ご質問は ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。
禁無断転載!
end