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2021年4月2日金曜日

「タタール」について知ることの重要性 ― 曲がりなりにもイスラム教徒との「共生」が実現しているロシアにもっと注目すべきであろう

 


既存の宗教が衰退し「世俗化」が進展している西欧諸国において、聖俗分離を認めないイスラム教は、特異な存在として嫌悪の対象となっている。いわゆる「イスラモフォビア」(=イスラム嫌い)である。

もちろん、だからといって西欧諸国からイスラム教徒がいなくなるわけではない。これからも「共生」への模索が続けられることになるわけだが、イスラム教とムスリム(=イスラム教徒)への反発は消えるどころか、ますます増大しつつあるのが現状だ。政治的理由から反イスラムを前面に出す政治家も後を絶つことはないであろう。

だが、イスラム教徒との「共生」の可能性について考える際、重要なピースが欠落しているのではないだろうか?

その重要なピースとはロシアだ。ソ連時代には唯物論で無神論を標榜していたが、ソ連崩壊後のロシアは革命以前に戻って、ロシア正教会のキリスト教徒が中心と思われがちだ。だが、その内部に大量のイスラム教徒を抱えていることは意外と知られていない。

ソ連崩壊後に激化した「チェチェン問題」が記憶に鮮明であるため、どうしてもロシアではイスラム教徒が徹底弾圧されているというイメージが消えないが、実態はかならずしもそうではないのである。

大国ロシアは、トルコやイランなどイスラーム圏と隣り合わせで、16世紀以降の東方進出の過程で、イスラム世界とムスリムを領土のなかに包含することになった。クリミア半島からボルガ川流域、そして中央アジアとカフカス(=コーカサス)である。
 
中央アジア諸国は、ソ連崩壊後に独立したのでロシアではないが、現在でもタタール人がロシアに生きている。

カフカースのチェチェンがロシアに併合されたのは19世紀とそれほど昔の話ではないのに対して、タタール人は16世紀以降にロシアに編入されて現在に至っている。タタール人は、ユーラシアの遊牧民テュルクの末裔である。トルコ人もまたテュルクである。

ロシア史には「タタールのくびき」というフレーズがある。

13世紀の「モンゴル西征」で支配されたロシアのステップ地帯は、約300年間にわたってモンゴル系のキプチャク・ハーン国の支配下にあった。これをさして「タタールのくびき」というのだが、「タタール」と「モンゴル」が混同されてしまった結果だ。言うまでもなく、スラブ人からみた表現である。

ちなみに、「タルタルソース」や「タルタルステーキ」の「タルタル」は「タタール」のことだ。このタタール人は、紆余曲折があったもののロシアという国家のなかでキリスト教徒のスラブ人と「共生」してきた歴史をもつ。


■タタール人は「共生」のモデル

曲がりなりにも「共生」が実現しているロシアにもっと注目すべきであろう。

現在のトルコやイランと地理的に近いタタールだが、ロシアの版図に入ったことで、イスラム圏から切り離されてしまった。このため、ロシア共和国のど真ん中にタタールスタン共和国とバシコルトスタン共和国というイスラム教徒が多数を占める地域が存在するのである。

ロシア帝国の統治下では、「同化政策」の一環としてイスラム教徒をキリスト教に「改宗」させる政策が強力に推進されたこともあり、キリスト教徒に改宗したタタール人もいる。タタール人貴族がキリスト教に改宗してロシア貴族になった例は多い。19世紀ロシア文学を代表する作家の1人であるツルゲーネフもタタール系らしい。

だが、大多数はイスラム教の信仰を捨てていない。「改宗」したように見せかけて、「隠れムスリム」として何世代も生き抜いた人たちもいたようだ。いったんイスラム教徒になったら改宗が許されないとはよく言われることだが、たしかにイスラム教徒を改宗させることは難しいことが、タタール人のケースからもわかる。

現代ロシアを代表する歌手の1人がアルスーだが、彼女もタタール人だ。本名は、アルスー・ラリーフ・クズ・アブラモヴァ。ボルガ系のタタール人で、宗教はイスラム教であるが、そのことに言及されることはほとんどない。

(ロシアで発行されたアルスーの楽譜集 マイコレクションより)


■16世紀ロシアと16世紀スペインの違いに注目

16世紀ロシアと16世紀スペインの違いにも注目したいものだ。

カトリックのスペインは、イスラーム教徒もユダヤ教徒もその領土から排除したが、東方正教会のロシアは逆に占領地としてあらたにその領土のなかに取り込んだ。おなじくキリスト教という一神教であり、しかもおなじ16世紀であるが、対応が異なるのである。

ロシアも「同化政策」の観点から、改宗を迫ったが成功したとは言い難い。しかも、「無神論」を標榜するソビエト体制のもとでは、キリスト教徒もイスラム教徒も仏教徒も不自由を強いられたことを忘れるべきではない。

とはいえ、この紆余曲折に満ちた400年の歴史を振り返る意味は大きい。曲がりなりにも「共生」が実現しているケースとしてロシアについて考える必要があるのだ。


<参考書>

・・ロシア革命前のロシア帝国時代の状況について。啓蒙専制君主であったエカチェリーナ2世の時代に自由化が進んだことがわかる。

・・「タタールよいとこ一度はおいで」という内容のガイドブック。ロシアを代表するタタール人歌手アルスーについても言及されている

・・タタール人を含めたテュルク全般について扱っている。トルコ人もウイグル人もまた、広い意味のテュルクである

上記の3冊で、現在の状況とそこにいたる前史を知ることができる。


(チェリヤビンスク出身の在日ロシア人「あしや」による YouTube動画。本人もじつはタタール人とのこと。見た目は白人のロシア人だが、じつはタタール人というケースは多々ある)

(2022年5月2日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

・・第2章までにロシアにおけるタタール人の歴史が、ロシア革命の前史として書かれている

・・タタール系ロシア人のアルスーが、2000年代のロシアで愛国軍歌を歌う意味について考えてみるといいだろう

・・タタール系に近いバシコルトスタン共和国に本拠地を置いていたバシネフチ事件の顛末

タイのあれこれ (18) バンコクのムスリム
・・タイもまた、ロシアとおなじくムスリムがマイノリティである社会

書評 『日本のムスリム社会』(桜井啓子、ちくま新書、2003)
・・日本もまた、言うまでなくムスリムがマイノリティである社会

(2021年4月12日 情報追加)


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2013年8月3日土曜日

書評『ろくでなしのロシア ー プーチンとロシア正教』(中村逸郎、講談社、2013)-「聖なるロシア」と「ろくでなしのロシア」は表裏一体の存在である



かつてロシアはソ連とよばれていたが、そのロシアにおけるロシア正教の位置づけの重要性を的確に見抜いて指摘したのは小室直樹であった。ソ連崩壊を30年前に予測した名著『ソビエト帝国の崩壊』(1980年)において、ビザンツ帝国以来の「政教一致体制」こそロシアを特徴づけているのだ、と書いている。

本書『ろくでなしのロシア ー プーチンとロシア正教』によれば、ソ連崩壊からすでに20年以上たったいま、ロシアではプーチンのもとで急速に「ロシア正教の国教化」が進展しているという。マルクス主義に改宗したグルジア人神学生であった独裁者スターリンによって徹底的に弾圧されたロシア正教だが、現在ではロシア帝国時代以上の展開を示しているようだ。

ソ連崩壊後、とくに米国のプロテスタントの諸宗派や日本のオウム真理教もふくめた新宗教が大量に流れ込んできたロシアだが、この状態に危機感を感じたプーチンは国家統治の観点からロシア正教のテコ入れを開始した。

財政基盤の弱体化したロシア正教会に優遇措置を与えることによってビジネスに積極関与させ、すでに財閥の一角として成長したロシア正教会。カトリック教会もまた、財政基盤確立のため同じ道を進んだ結果、金融スキャンダルまみれになっていることは周知のとおりだが、ロシア正教もまたそのワナから逃れることのできない状態に陥っているようだ。


■西欧近代化 vs ロシア主義-「精神の近代化」が進まなかったロシア

プーチンが狙っているのは、宗教を政治に従属させることを意図した「政教一致国家体制」である。ある意味では、明治維新体制における国家神道の位置づけに近いものがあるかもしれない。

明治国家建設者の一人であった長州藩出身の元勲・山県有朋が、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に列席したとき、「これだ!」と内心うなったのがロシア正教の壮麗な儀式体系であったことはシンボリックな話である。

ビザンツ帝国とは東ローマ帝国のことだが、1492年にオスマントルコ帝国によって滅亡させられ、東方正教会(=正教)の中心はコンスタンティノープル(=イスタンブール)からモスクワに移動する。いわゆる「モノマフの冠」というやつだ。「第三帝国」というとナチスドイツの連想があるが、正教の文脈においてはロシアこそ「第三帝国」なのであった。

西欧世界とは異なり宗教改革を経験しなかったロシアでは、宗教組織と個人の内面の信仰との乖離が進展しないまま現在に至っている。

西欧ではプロテスタントによる「宗教改革」に呼応してイエズス会を中心とする「対抗宗教改革」が起こった。これにより西欧全体として「精神の近代化」が進展したのだが、ロシアではそういう動きは起こらなまま現在に至っているのである。

その端的な姿が、本書で指摘されているように、聖書を読まない、聖書について語らないロシア正教の聖職者に対する信者の不満にあらわれている。天上の権威が同時に地上の権威でもあるのは、西欧においては11世紀のカノッサの屈辱以前の世界であったが、ロシアにおいては21世紀の現在まで変化がないといっていいのだろうか。

遅れて近代化のはじまったロシアにおいては、「近代化=西欧化」という図式において日本と共通するものがあった。現在にいたるまで「西欧近代主義」対「スラブ主義」という対立構造がつづいている。

ロシアよりさらに遅れて近代化のはじまった日本においても同様に、「西欧派=啓蒙主義者」と「国粋派」の対立としてつづいてきた。その意味においては、後進国としての日本との共通性と相違点も存在する。

プーチンによる「正教国教化」が完成し「政教一致国家体制」が完成したとしても、現在のロシア共和国は世襲制の帝政ではないこと、しかも後継者を明確にしえない体制である以上、プーチン以後は混沌状態に陥るのは避けられないといいうことは容易に予想されることだ。


(東京駒込のロシア正教教会の十字架 筆者撮影)



■増大するムスリム人口-ロシア正教の将来は?

しかも、人口動態の観点から考えると、ロシア共和国においてはムスリム人口が増大する一方であるのに対し、スラブ系の人口は減少の一途をたどっている。出生率の違いが顕著に反映している。

このままでは21世紀の終わりまでにはスラブ系ロシア人は消滅する(?)とさえ言われており、人口問題にかんしてはロシアは日本よりはるかに困難な状況を迎えることが予想されている。

増大するムスリム人口は出稼ぎ労働者が極東ロシアにまで及んでいる。極東ロシアの人口問題は近隣諸国の中国や北朝鮮からの合法、非合法の人口流入問題だけではないのだ。

かつてロシアは長きにわたってモンゴル人の支配下に入るという「タタールのくびき」のもとにあったが、こんどはイスラーム国家のもとで「アッラーのくびき」(?)に置かれるになるのかもしれない。

じっさいロシア人はその他のスラブ系諸民族よりもはるかにアジア系との混血がすすでおり、かなりアジア的な風貌の人間も多い。

ムスリム人口がマジョリティとなり、スラブ系がマイノリティとなったとき、ロシア正教もまたマイノリティの宗教となるのである。イスラームの大海に浮かぶ小島のような存在になるのかもしれない。

スラブ人にとってはかなり暗い(?)未来図ではあるが、想定外とは言い切れないものがある。すでに約30年前に 『ソ連がイスラム化する日』(ヴァンサン・モンテイユ、森安達也訳、中公文庫、1986)という本が出版されていることも想起しておきたい。


■ロシアをロシアたらしめているものを知る

本書を読むにはある程度までロシア史について知っていることが望ましい。

本書のタイトルは『ろくでなしのロシア』というかなり変わった印象を与えるものだが、「聖なるロシア」と「ろくでなしのロシア」がつねに表裏一体の存在であることをアタマに入れておく必要がある。このまったく相矛盾する自己認識が同時に両立しているのがロシア人のメンタリティーなのである。

本書にも引用されているが、19世紀ロシアの詩人チュチェフの有名なフレーズ「ロシアはアタマでは理解できない」(ウモーム・ラシーユ・ニェ・パニャーチ)そのものだ。この点については、井筒俊彦の『露西亜文学』(慶應義塾大学出版会、2011)をあわせて読むといいだろう。

「マドンナの理想を抱きながら、ソドムの深淵に惑溺する」という、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にでてくる有名なフレーズ。人間とは矛盾に満ちた存在だが、ロシア人はとくにその傾向がつよいのか。

ロシアという存在は、ある種の日本人に特有の単細胞な教条的思考や希望的観測をつねに裏切る存在である。

著者は「あとがき」で、くどくどとなんやら弁解めいた口上を述べているが、これは読者層と想定される人が、ロシアに関心のある読者か、ロシア好きに限定されがちな日本の状況を反映しているのかもしれない。

かくいうわたしも、かつては「ロシア好き」でロシア語まで勉強した人間だ。仕事でもかかわっていた一時期はそうとうつっこんで研究もしたが、いまではロシアへの愛は冷めてしまった。

だが、もしロシアについて関心があり、しかもロシアに対して距離をおいたスタンスをとれる人ならぜひ読むべきだと薦めたい。衰えつつあるとはいえ、現代世界においてロシアという存在そのものが無視できないことは言うまでもないからだ。

本書は、つかみどころのないロシアをなんとかつかみとろう試みてきたロシア研究者の奮闘の産物である。


 
(画像をクリック!)

目 次

序章 絶望のロシア社会
第1章 神権政治
第2章 “第三のローマ”復興のかげに
第3章 極東の愛国主義は高揚する
第4章 プーチンとは何者か
第5章 反プーチンの逆説
終章 正教国家ロシアのゆくえ
註
あとがき
参考文献

著者プロフィール

中村逸郎(なかむら・いつろう)
1956年、島根県生まれ。学習院大学法学部卒業。同大学大学院政治学研究科博士後期課程単位取得退学。政治学博士。島根県立大学助教授を経て、現在、筑波大学国際総合学類長・教授。専攻はロシア現代政治。著書に『東京発モスクワ秘密文書』(新潮社、のちに『ソ連の政治的多元化の過程』と改題して成蹊堂より刊行)、『ロシア市民―体制転換を生きる』(岩波新書)、『帝政民主主義国家ロシア―プーチンの時代』『虚栄の帝国ロシア―闇に消える「黒い」外国人たち』(ともに岩波書店)『ロシアはどこに行くのか-タンデム型デモクラシーの限界』(講談社現代新書)などがある。



<関連サイト>

第2次プーチン政権 課題は人口問題(NHKワールドWAVE特集まるごと 2012年5月8日)

ロシアの人口減少は日本より深刻 (門倉貴史 日経ビジネスオンライン 2006年6月26日)


<ブログ内関連記事>

書評 『シベリア最深紀行-知られざる大地の七つの紀行-』(中村逸郎、岩波書店、2016)-シベリアは想像を絶する多様性に富んだ奥行きの深い世界


■ソ連とロシア

『ソビエト帝国の崩壊』の登場から30年、1991年のソ連崩壊から20年目の本日、この場を借りて今年逝去された小室直樹氏の死をあらためて悼む

書評 『ソ連史』(松戸清裕、ちくま新書、2011)-ソ連崩壊から20年! なぜ実験国家ソ連は失敗したのか?

書評 『プーチンと柔道の心』(V・プーチン/ V・シェスタコフ/A・レヴィツキー、山下泰裕/小林和男=編、朝日新聞出版、2009)

書評 『モンゴル帝国と長いその後(興亡の世界史09)』(杉山正明、講談社、2008)

書評 『「シベリアに独立を!」-諸民族の祖国(パトリ)をとりもどす-』(田中克彦、岩波現代全書、2013)


■東方正教会とギリシア、そして反共姿勢のカトリック

本日12月6日は「聖ニコラウスの日」・・東方正教会とニコライ堂

書評 『物語 近現代ギリシャの歴史-独立戦争からユーロ危機まで-』(村田奈々子、中公新書、2012)-日本人による日本人のための近現代ギリシア史という「物語」=「歴史」

書評『ブーメラン ー 欧州から恐慌が返ってくる』(マイケル・ルイス、東江一紀訳、文藝春秋社、2012)-欧州「メルトダウン・ツアー」で知る「欧州比較国民性論」とその教訓
・・「ギリシアの女子禁制のアトス山にあるヴァトペディ修道院。ここがまさかギリシアの腐敗の中心にあったとは(!?)と思いながらページをめくっていくと、ギリシア財政問題の構造が手にとるように理解できる仕組みに・・」

書評 『バチカン株式会社-金融市場を動かす神の汚れた手-』(ジャンルイージ・ヌッツィ、竹下・ルッジェリ アンナ監訳、花本知子/鈴木真由美訳、柏書房、2010)

書評 『バチカン近現代史-ローマ教皇たちの「近代」との格闘-』(松本佐保、中公新書、2013)-「近代」がすでに終わっている現在、あらためてバチカン生き残りの意味を考える


■人口問題とムスリム人口増大

書評 『自爆する若者たち-人口学が警告する驚愕の未来-』(グナル・ハインゾーン、猪俣和夫訳、新潮選書、2008)-25歳以下の過剰な男子が生み出す「ユース・バルジ」問題で世界を読み解く

書評 『アラブ革命はなぜ起きたか-デモグラフィーとデモクラシー-』(エマニュエル・トッド、石崎晴己訳、藤原書店、2011)-宗教でも文化でもなく「デモグラフィー(人口動態)で考えよ!

書評 『中東激変-石油とマネーが創る新世界地図-』(脇 祐三、日本経済新聞出版社、2008) 
・・過剰人口、とくに若年層の失業問題をかかえる現在の中近東諸国、はたして解決策は・・・?

(2014年1月11日、6月13日、2020年10月15日、2023年10月4日 情報追加)


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