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2025年1月13日月曜日

書評『論理的思考とは何か』(渡邉雅子、岩波新書、2024)ー 論理的思考には文化によって複数の「型」がある。「感想文」で教育された日本人が、さらに「ロジカルシンキング」を習得すれば「鬼に金棒」となる

 

『論理的思考とは何か』(渡邉雅子、岩波新書、2024)は、昨年10月に出版されてすぐに購入し、しばらくしてから通読した。  

すでにベストセラーとなっているので、あらたに書く必要はないと思うが、コメントを書く機会を逸していたので、ここで簡単に書いておくことにしたい。 

論理的思考には文化によって「型」があることを明解に説いた内容の本である。 

「形式合理性」をタテ軸に、「実質合理性」をヨコ軸にとった四次元マトリックスで分類されるのが、以下の4つの合理的行為の累計である。 

●経済領域/政治領域/法技術領域/社会領域 

経済領域は、形式合理的で主観的 
政治領域は、実質合理的で客観的 
法技術領域は、形式合理的で客観的 
社会領域は、実質合理的で主観的 

それぞれの領域に対応して、論理的思考の「型」(パタン)が存在する。 

●経済の論理/政治の論理/法技術の論理/社会の論理 

論理的思考の「型」のそれぞれを代表しているのが、アメリカ/フランス/イラン/日本 となる。 

経済の論理を代表するアメリカの論理的思考は、いわゆる「ロジカルシンキング」として日本のビジネス界でも近年は推奨されているものだ。 

「ロジカルシンキング」は、効率性と確実な目的の達成のために構築され定着してきたものであり、共感を重視した日本の「感想文」とは対極にある。 


■この本を読むべき人は?

わたしは、論理的思考方法に関心がある人なら、ぜひ読むべき本であると言っておきたい。ただし、ビジネスパーソンであるなら中堅以上であることが望ましい。 

なぜかというと、ビジネスパーソンなら、まずは「ロジカルシンキング」に習熟しておくべきだからだ。日本語で初等中等教育を受けた人なら、日本流の感想文については、あえて習得するまでもない。 

それ以外のフランスとイランの「型」については、知識として知っておく程度にとどめておけばよい。 これは中級以上のビジネスパーソンにとっては、「教養」程度にとどめておけば十分だ。

一般人もさることながら、この本をいちばん読むべきなのは、初等中等教育にたずさわる教育関係者であろう。 

というのは、ビジネス界では「ロジカルシンキング」が強調されるものの、それだけが論理的思考ではないことを知ることが重要であること、しかも初等中等教育で行われてきた「感想文」には共感力を養うという、きわめて重要な目的があることを自覚したほうがいいからだ。 

論理的思考には複数の「型」があり、それぞれをつかい分けることが重要だという、著者の主張には大いに納得する。 

日本人としての強みを活かすためにも、ひきつづき初等中等教育では「感想文」を書かせる教育をつづけつつ、ビジネス界に入る前後から「ロジカルシンキング」を身につけること。 

こうすれば、日本人が世界で生きていくうえで「鬼に金棒」となるはずだ。 


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目 次 
はじめに ー 論理的思考はひとつなのか 
序章 西洋の思考のパターン ― 4つの論理 
 1 論理学、レトリック、科学、哲学の論理と思考法の比較表 
 2 論理学の論理 
 3 説得(レトリック)の論理 
 4 科学的発見の論理 
 5 哲学的探究の論理 第
1章 論理的思考の文化的側面 
 1 何が “論理的” だと感じさせるのか 
 2 論理と文化 ― 価値の選択と優先順位 
 3 論理と合理性 
 4 経済・政治・法技術・社会のそれぞれの論理 
第2章 「作文の型」と「論理の型」を決める暗黙の規範 ― 4つの領域と4つの論理 
 1 求められる作文の型を知る 
 2 経済の論理 ― アメリカのエッセイと効率性・確実な目的の達成 
 3 政治の論理 ― フランスのディセルタシオンと矛盾の解決・公共の福祉 
 4 法技術の論理 ― イランのエンシャーと真理の保持 
 5 社会の論理 ― 日本の感想文と共感 
第3章 なぜ他者の思考を非論理的だと感じるのか 
 1 「自己の主張」の直線的な論証(経済)とは相容れない論理 
 2 弁証法の「手続き」(政治)とは相容れない論理 
 3 「ひとつに決まる結論」(法技術)とは相容れない論理 
 4 他者への共感(社会)とは相容れない論理
終章 多元的思考 ― 価値を選び取り豊かに生きる思考法 
おわりに 
参考・引用文献

著者プロフィール
渡邉雅子(わたなべ・まさこ)
コロンビア大学大学院博士課程修了、Ph.D(博士・社会学)。現在、名古屋大学大学院教育発達科学研究科教授。専攻、知識社会学、比較教育、比較文化。著書に『「論理的思考」の文化的基盤』、『「論理的思考」の社会的構築』(岩波書店)など。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


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2025年1月12日日曜日

NHK大河ドラマ「べらぼう」第2回(2025年1月12日)も視聴。平賀源内が登場したが「しらが源内」だったはずなのだが・・

 

NHK大河ドラマ「べらぼう」の第2回、18時からBSで視聴。今回も面白かった。 

「男一筋」(!?)という平賀源内が登場、そもそも舞台が吉原であり、子ども向けの番組ではない(はずな)ので番組的にとくに問題はない。 

とはいえ、源内先生が総髪だったのはよしとして、黒髪だったのは違和感あり。 若白髪だったので「しらが源内」(笑)とよばれていたと『平賀源内』(水谷不倒、中公文庫、1977)に書かれていたのだが・・ 。

もっとも、この『平賀源内』ですら、カバー装画には黒髪で総髪姿の画像が掲載されているという、この締まりのないチグハグさ(笑) 




ちなみに平賀源内はベンジャミン・フランクリンとは同時代。その件は、拙著の『フランクリン 人生を切り拓く知恵』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2022)に長い解説文を書いているので、ご参照いただきたく。  

ただし、雷が静電気であることを発見し、避雷針を発明したフランクリンとくらべたら、せいぜいオランダ製のエレキテルを修理した程度の源内はでは、日本人としては残念なことながら、フランクリンとは比較するのも野暮というべきか。 

「万能の天才」であったフランクリンが、あまりにも「べらぼう」だったわけでありましてねえ・・。源内は「器用貧乏」としかいいようがなかったな、と。 



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2025年1月9日木曜日

書評『モンゴル帝国 ー 草原のダイナミズムと女たち 』(楊海英、講談社現代新書、2024)ー モンゴル人研究者の著者が日本語で書いた「女たちのモンゴル帝国」

 

昨年(2024年)7月に出版されたまま「積ん読」となっていた『モンゴル帝国  ー 草原のダイナミズムと女たち 』(楊海英、講談社現代新書、2024)を読了。  

ドラマのタイトル風にいえば、「女たちのモンゴル帝国」というべき内容。最新の研究動向を踏まえた、歴史学と人類学の融合の成果。モンゴル帝国史にかんする最新の書籍であり、新書本にしては、かなりボリュームのある1冊だ。 

著者の楊海英氏は、中共支配下の内モンゴル(=南モンゴル)に生まれたモンゴル人。日本に帰化して日本名をもっているが、モンゴル名はオーノス・チョクト。中国風の楊海英という著者名は、もっぱら学術用に使用しているペンネームだ。 

そんな「モンゴル人」としての著者が、「当事者」として日本語で書き上げた「モンゴル帝国史」である。無意識レベルの偏見や誤解にもとづく、日本人を含めた外国人による研究への異議申し立てでもある。 

モンゴル史は、学術的には旧ソ連や日本がリードしてきた分野だ。だが、近年では米国をはじめとする英語圏でも活発になっているらしい。ソ連崩壊後に活発している最新の研究動向については、「第1章 遊牧民と女性が世界史をつくった」に詳しい。 

「世界史」は13世紀のモンゴルによるユーラシア大陸制覇から始まるというのは、1992年に『世界史の誕生』と題した著書で発表された、歴史家の岡田英弘氏によるテーゼだが、現在ではすでに「常識」となっていてしかるべきものである(もし、「常識」としていないのなら、すくなくとも歴史家としては恥ずべきことだ)。 

モンゴル帝国成立以前に「世界史」は存在しないのである。存在していたのは、あくまでも現在につながる「人類史」である。

モンゴル帝国が実現させたのは「初期グローバル化」(・・わたしなら「第0次グローバリゼーション」と表現したい)である。ユーラシア大陸を東西に結びつけたことで「世界史」が始まったのである。 


■モンゴル帝国をつくりあげたのは母親の息子

その「モンゴル帝国」を一代でつくりあげたのは、モンゴルやテュルクなど、まとまりのない遊牧諸民族をまとめあげた、チンギス・ハーンという空前絶後の傑物であったことは言うまでもない。

逆にいえば、チンギス亡きあとのモンゴル帝国が絶頂を迎えたのちバラバラとなり、あっけなく崩壊に向かったのも、ある意味では当然だというべきかもしれない。

企業経営における創業経営者と同様、傑出した創業者のリーシップもカリスマも、たとえ血がつながっていても継承不可能だからだ。ティトー大統領亡きあとのユーゴスラヴィア崩壊を想起させるものがある。とはいえ、「継承原理としてのチンギスの血脈」は長くユーラシアで生き続けた。 

空前絶後の傑物チンギス・ハーンを育てたのは、モンゴル人女性であった母親だ。それだけではない。大きな役割を果たしたのがチンギス・ハーンの王妃となった妻たちであり、姫である娘たちであった。 

領土的野心の薄い遊牧民ではあるが、男たちが支配領域を拡大し、獲得された領土を女たちが保全する。「性差による役割分担」といってしまえばその通りなのだが、遊牧民の女たちを抜きにモンゴル帝国は成立しえなかったのである。本書は、全編にわたってこの事情が活写されている。 

モンゴル人として生まれ育った著者は、モンゴル人社会における女性について、「母性愛に淵源する遊牧民の精神世界」、「女のいない遊牧民の歴史は成り立たない」、「東西を自由に行き来する女性たち」などのフレーズで表現している。 


同書によれば、相撲界の力士に代表されるように、腕力にかんしては男性に優位性があるにしても、知性という面では女性に優位性があるようだ。男女ともに馬に乗れるモンゴル人だが、モンゴル人女性は高学歴志向が高いと書いてあったと記憶している。ウランバートル出身の照ノ富士のもまた、モンゴル出身の賢妻に支えられているようだ。  

都市部への移住が進んでいる現在のモンゴル国においても、依然としてモンゴル人は遊牧民としての特性を持ち続けているということになる。言い換えれば、女性の存在を抜きにモンゴルを語ることはできないのである。 

そんな女たちがつくった「モンゴル帝国」だが、著者はモンゴル史を通観して、13世紀のチンギス・ハーンによるモンゴル帝国の建設から、14世紀以降のモンゴル帝国崩壊後の15世紀まで描いている。 

西欧が主導した16世紀以降の「第1次グローバリゼーション」によって、モンゴルは世界史の表舞台からは後退していくことになるが、モンゴル帝国が主導した「第0次グローバリゼーション」が「世界史」においてもつ意味についてはいうまでもなく、その存在を支えたものが何であったのか。本書を読むと、それが手に取るようにわけるのである。 

ただし、日本人読者の立場からいえば、中国史でいう「元朝」、モンゴル史でいう「大元ウルス」については、もっと詳しい記述がほしかったところだ。 

遊牧民であるモンゴル人が定住農耕民である漢人を支配して体制、そして隣接する朝鮮半島の高麗人と複雑にからみあう歴史は、遊牧文明と農耕文明とのせめぎ合いと、その末路を示している。 

「蒙古襲来」という形で日本とのかかわりの深かった13世紀から先は、専門研究者ではない一般の日本人にはなじみにくい。記憶に残りにくいカタカナの人名や地名ががつらなり、ズンズン読み進めたいという気持ちになりにくいのは、正直いって仕方ないであろう。


■「王妃マンドハイ以後」のモンゴル史は? 

本書は、モンゴル史において、きわめて大きな役割をはたした15世紀の王妃マンドハイで締めくくられているが、著者による「マンドハイ以後」のモンゴルと遊牧民の歴史については、ぜひまとまった1冊を期待したいところだ。 

というのも、モンゴル帝国の最盛期はさることながら、その後のモンゴル史については、先にあげた宮脇氏によるものをのぞくと、日本語で読めるものは、著者が精力的に研究を推進している分野を含めて、日本との関係が密接になった以降の近現代史にかんするものしかないからだ。

モンゴル人を中心とする「遊牧民の世界観」を明確にするため、『草原の遊牧文明』(財団法人千里文化財団、1998)に掲載されている「モンゴル高原からの視点」と題された、南北を逆転した「逆さ地図」が本書にも必要だったのでないか、とも思う。

『東洋的専制』の著者ウィットフォーゲルが定義する「亜周辺」である日本列島からは、どうしても「中心」となる中国の存在が大きく見えてしまうからだ。ちなみに中国からした「周辺」は朝鮮半島であり、日本海で隔てられた日本列島は「亜周辺」となる。

本書は歴史人類学の成果であって、社会経済史ものではない。したがって、後者にかんする記述が薄いのは仕方がない。

また、ユーラシア大陸西部のジョチ・ウルス(=キプチャク・ハーン国)や、中東のフレグ・ウルス(=イル・ハーン国)についての記述が薄いのも、やや残念なところだ。大学学部時代に西洋中世史を専攻したわたしは、モンゴル帝国の西側への関心がつよいから。

モンゴル帝国を構成していたこれらのハーン国は、現在のロシアやイランを知るために不可欠である。従来は、それぞれロシア史と中東史の一部として扱われてきたが、当然のことながら今後は「西欧中心史観」や「中華史観」だけでなく、「ロシア中心史観」などからの「脱構築」も必要となる。
 
ユーラシア大陸を東からの進出で陸路で東西を結び、はじめて「世界史」を誕生させた「モンゴル帝国」については、わたしとしても腰を据えて取り組まなくてはいけないなと、本書を読んでいた、あらためて痛感している。


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目 次
第1章 遊牧民と女性が世界史をつくった 
第2章 チンギス・ハーンと四つの宮帳(オルド) 
第3章 国母ウゲルンとボルテ后 
第4章 キリスト教徒の姫君と遊牧社会 
第5章 帝国のために、名誉のために 
第6章 ハラ・ホリムとオゴダイ・ハーンの宮廷 
第7章 二人の孤独な女 
第8章 ソルカクタニ・ベキとその息子たち 
第9章 大都に交錯する光と血 
第10章 高麗の虹 
第11章 ユーラシア大再編のなかで 
第12章 マンドハイ妃の物語 
あとがき 
年表
参考文献

著者プロフィール
楊海英(よう・かいえい)
静岡大学人文社会科学部教授。1964年、南モンゴル・オルドス高原生まれ。楊海英は中国名のペンネームである。北京第二外国語学院大学日本語学科卒業後、来日し文化人類学を修める。国立総合研究大学院大学博士課程修了。2000年に帰化。2006年より現職。モンゴル近現代史にかんする著書多数。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに加筆)。



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2025年1月7日火曜日

2024年に出版されたPHP新書の『中国を見破る』(楊海英)と9月にでた『中国ぎらいのための中国史』(安田峰俊)を読むと、日本人は依然として中国と中国人がわかっていないを痛感することになる

 
 
昨年2024年にPHP新書から面白い中国関連本がつづけて出版されている。8月にでた中国を見破る』(楊海英と9月にでた『中国ぎらいのための中国史』(安田峰俊)の2冊だ。この2冊を昨日つづけて読んだ。 


■ユーラシアからの視点で「中国」を相対化する

まずは『中国を見破る』(楊海英)から。著者の楊海英氏は静岡大学教授。中共支配下の内モンゴル(=南モンゴル)に生まれた著者は、現在は帰化して日本国籍を所有しているがモンゴル人。モンゴル名はオーノス・チョクト、日本名は大野旭。 

現在なお南北に分断されているのは朝鮮半島だけではない。あまり知られていないが、モンゴルもまた分断状況がつづいている。 

中共支配下の南モンゴルでは、文革時代にモンゴル人が大量虐殺の「ジェノサイド」が行われただけでなく、現在は母語であるモンゴル語を抹殺するという「ジェノサイド」も進行している。中共支配下で苦難を味わっているのは、チベット人やウイグル人だけではないのだ。 

そんな南モンゴルで生まれ育った著者自身の「自分史」が、そのまま「世界史」と直結しているのである。 ユーラシア大陸からの視点で中国を「相対化」し、中国人の本質が明らかにされる。

本書に収録された、モンゴルを中心に置いた「逆さ地図」(本書のカバー)には、目を開かれることであろう。

ただし、北の中国人と南の中国人を十把一絡げに同一視してしまっていいのか、わたしは疑問を感じないわけではない。というのも、華僑・華人として東南アジアに生きる中国人と、北方の遊牧人と対峙してきた中国人とでは、置かれてきた環境が異なるからだ。

とはいえ、「いま、そこにある危機」の本質を知るため、日本国民が読むべき本である。そう言っても過言ではない。 


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目 次
序章 私の体験的中国論 
Ⅰ部 中国の本質を見破る視点① 歴史を「書き換える」習近平政権 
Ⅱ部 中国の本質を見破る視点② 「多民族弾圧」の歴史と現在 
Ⅲ部 中国の本質を見破る視点③ 「対外拡張」の歴史と現在 
おわりに 
終章にかえて 



■エンタメの世界と現実の中国をつなげる試みで、中国人の「歴史」意識について知る

 さて、『中国ぎらいのための中国史』(安田峰俊)は、中国関連で旺盛な取材と執筆活動をつづけているジャーナリストの著者によるもの。  

「現在」の中国を理解するための有用なツールとして、「過去」である中国史を活用すべきだという趣旨のもと、テーマ別のトピックとしてまとめた読み物だ。

著者は、大学院で中国近現代史を専攻している。 「目次」を紹介しておこう。

第1章 奇書[諸葛孔明(三国志演義)/水滸伝] 
第2章 戦争[孫子/元寇/アヘン戦争] 
第3章 王朝[唐/明] 
第4章 学問[孔子/科挙/漢詩と李白] 
第5章 帝王[始皇帝/毛沢東] 
おわりに 武器としての中国史 

テーマ別なので、通史としての理解はできない。だが通読すると、現在の中国と中国人について、日本人がいかに理解していないかがよくわかる。中国人にとっての「歴史」の位置づけが、日本人とはまったく異なるのである。 

歴史上の人物になぞらえた政敵への攻撃や、現体制である中共政府にとって「不都合な事実」など、知っておくべき知識が書かれている。カバーにあるように、「歴史を学び直して習近平の謀略」を知らなくては鳴らない。

そのためにも、中国人にとっての「歴史」の意味と位置づけ、そして中国人による中国史の使い方を知っていくべきなのだ。 


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■この2冊を読むと、依然として日本人がいかに中国と中国人を理解していないかを痛感することになる

『中国を見破る』(楊海英)と『中国ぎらいのための中国史』8安田峰俊)は、スタンスは大きく異なるが、日本人がいかに中国と中国人を理解していないかということを知らしめている点は共通している。 

どうしても人間は、無意識のうちに自分の都合のいいように解釈するというバイアスがはたらきがちだ。中国と中国人の「本質」をただしく理解するためには、バイアスの存在を意識する必要がある。 

そのためには「歴史」を知り、それを活用しなくてはならないのである。そのためのツールが歴史的事実という知識であり、歴史をベースにものを見る思考法である。

さらに「異文化」という視点も不可欠だ。これは文化人類学の知識の応用だ。中国は日本人にとっての「異文化」であることは言うまでもないが、「中国史」そのものが「異文化」と考えるべきなのだ。

 まさに「孫子の兵法」にあるように、「彼を知り己を知れば百戦殆からず」である。


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