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2019年5月6日月曜日

「城下町・古河」をはじめて歩いてみた(2019年5月5日)― 日光街道の街道筋で利根川と渡良瀬川が合流する地域にある古河は、かつて交通の要衝だった

(古河市の鷹見泉石記念館 筆者撮影)


 昨日(5月5日)、はじめて茨城県古河市にいってきた。訪問したいと思いながら、多忙その他の理由で何度も先送りしてきた、ここ数年の懸案事項がようやく解決した。


■「雪の殿様」土井利位と蘭学者であった家老・鷹見泉石

なぜ古河かというと、とくに古河という土地そのものに強い関心があるわけではないのだが、古河藩主で老中にもなった土井利位(どい・としつら)と、その家老で「ナンバー2」であった鷹見泉石(たかみ・せんせき)に多大な関心があるためだ。


(『雪華図説』(土井利位、1832(天保3)年刊)  wikipediaより)


譜代大名であった土井利位(どい・としつら 1789~1848)は、雪の結晶を顕微鏡で観察して、長年の観察結果を『雪華図説』として発表している「殿様学者」。


(渡辺崋山による鷹見泉石の肖像 Wikipediaより)


家老の鷹見泉石(1785~1858)は、渡辺崋山による肖像画(国宝!)で有名で、幕末期の著名な蘭学者でもあった。鷹見泉石の収集品を常設展示しているのが古河歴史博物館なので、展示物を実地に見に行きたかったというのが主な理由。ついでに古河市街を散策。

鷹見泉石が生きた当時の世界情勢は、フランス革命後のナポレオン戦争に最終的に勝利した英国が世界の覇権を握り、英国と対抗するロシアは南下策を実行して日本近海に出没、江戸後期から幕末にかけての日本をめぐる軍事情勢は、厳しいものに変化しつつあった。


(左側下部は鷹見泉石のオランダ名によるサイン 筆者撮影)


譜代大名の家老であった鷹見泉石は、だからこそ、みずからオランダ語を習得して、ありとあらえる海外情報と舶来品を精力的に収集し、政策立案のために分析していた。いわゆる「情報参謀」でもあったわけだ。そして蘭学をつうじて形成されたネットワークは、じつに広くかつ深いものがあった。渡辺崋山もその一人である。

ちなみに、当時大坂所司代であった土井利位は、鷹見泉石の多大な貢献によって「大塩平八郎の乱」を鎮圧し、最終的には老中まで出世している。幕末期は、国内的にも対外的にも、日本は危機的な状況にあったのだ。


(古河市横町にある鷹見泉石の墓 筆者撮影)



■「関東の中心」の古河は、利根川と渡良瀬川が合流する交通の要衝

古河は「関東の中心」に位置しているが、徳川家にとってきわめて重要な日光への街道筋にあり、しかも利根川と渡良瀬川が合流する地域にある交通の要衝。当時は水運がメインだったからだ。だが、それだからこそ、洪水になると大被害がもたらされる。


(Google map による古河市周辺)


いわゆる「カスリーン台風」(1947年=昭和22年)で渡良瀬川は決壊し、大被害を出している。利根川が氾濫すると逆して渡良瀬川に流れ込むからだ。こういった立地特性は、実際にその土地を歩いてみて実感できることでもある。

渡良瀬川の上流には、かつて足尾銅山があり、身を挺して谷中村の鉱害を訴えた田中正造の存在を忘れるわけにはいかない。


(渡良瀬川の土手の「カスリーン台風決壊口跡」の碑 筆者撮影)


日光街道の街道筋に立地する古河藩は譜代大名が領地で、16万石の旧城下町であるが、渡良瀬川の改修工事のため、明治時代に水没し、現在では城址の一部しか残っていないのは残念だ。


(古河城跡「獅子が崎」に立つ看板 筆者撮影)


今回は東武鉄道の新古河駅で下車して、渡良瀬川を渡って市街に歩いて入ることで、体感することができた。市街を散策したあと、帰りは市街を東に抜けて、JR古河駅から大宮へ。


(生家が古河にある歴史小説家・永井路子氏の旧宅 筆者撮影)



■『利根川図志』(赤松宗旦)に登場する古河

持参したわけではないが、旅を終えたあとは、まず開いてみる本が2冊ある。それは『利根川図志』と『新・利根川図志』。この2冊で、古河にかんする部分を読んでみるのだ。


(新旧の『利根川図志』 筆者撮影)


『利根川図志』は、江戸時代後期に利根川流域の布川(ふかわ)に住んだ医師・赤松宗旦(あかまつ・そうたん)による好著。子どもの頃、その地で暮らしたことのある日本民俗学の父・柳田國男が校訂している。

布川から利根川をさかのぼって関宿(せきやど)まで、布川から利根川をくだって海への出口である銚子まで、利根川流域の地域(かなり内陸部までカバー)にかんして、名所旧跡や物産、動植物がなんでも書き込まれている百科事典みたいな本。挿絵がまたいい。

必要なところだけ読むので、全部とおしで読んだことはないのだが、高校時代からの愛読書(?)で、これは3冊目。自分が住んでいる地域をこの本で読むと面白い。いわゆる好事家的アプローチではあるが。

もう一冊の『新・利根川図志 上・下』(山本鉱太郎、書房出版、1997)。千葉県流山市にある地方出版社からでている本。赤松宗旦の『利根川図志』の現代バージョン。20年以上前の情報だが、それでも江戸時代後期と平成時代の比較が面白い。

群馬県に発し、栃木県、茨城県、埼玉県、東京都、千葉県が流域の大河川である利根川。まだ源流には行ったことがないので、いずれ行ってみたいと思っている。


(画像をクリック!)



<参考>

『雪華図説』の研究(中谷宇吉郎)1939年
https://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/57860_60232.html
雪の結晶の顕微鏡写真あり

『雪華図説』の研究後日譚(中谷宇吉郎)1941年
⇒ https://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/57861_60233.html






<ブログ内関連記事>

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③

書評 『オランダ風説書-「鎖国」日本に語られた「世界」-』(松方冬子、中公新書、2010)-本書の隠れたテーマは17世紀から19世紀までの「東南アジア」

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」(国立歴史民俗博物館)に行ってきた(2016年8月12日)-江戸時代後期(=19世紀前半)の日本をモノをつうじて捉える

9月になると紫色の実をつけるムラサキシキブの学名(Callicarpa japonica)はツンベルクの命名

書評 『ニシンが築いた国オランダ-海の技術史を読む-』(田口一夫、成山堂書店、2002)-風土と技術の観点から「海洋国家オランダ」成立のメカニズムを探求

書評 『岩倉具視-言葉の皮を剝きながら-』(永井路子、文藝春秋、2008)-政治というものの本質、政治的人間の本質を描き尽くした「一級の書」

念願かなって「地下宮殿」を見学してきた(2018年8月11日)-世界最大級の「首都圏外郭放水路」がすごい。百聞は一見にしかず!

「天災は忘れた頃にやってくる」で有名な寺田寅彦が書いた随筆 「天災と国防」(1934年)を読んでみる


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2013年10月12日土曜日

書評『「大学町」出現 ー 近代都市計画の錬金術』(木方十根、河出ブックス、2010) ー1920年代以降に大都市郊外に形成された「大学町」とは?


「城下町」や「門前町」が前近代社会、すなわち土地を基本単位にした地方分権制であった近世封建制の時代に形成されてきたものであれば、「大学町」や「企業城下町」は近代の産物である。


大学町とは、東京や京阪、名古屋などの大都市郊外に形成された、大学を中核(コア)にして開発された市街地のことである。都心部でまとまった土地が確保できなくなった大学が、郊外に土地を求めて土地交換等によって確保し、移転したことによって誕生したものだ。

そのさきがけとして、大学町のプロトタイプとなったのが東京西郊の「くにたち大学町」(東京都国立市)である。国立と書いて「くにたち」と読むのだが、それは両隣の国分寺と立川に挟まれた未開発の雑木林であったためである。

「くにたち大学町」の中核となるのが一橋大学である。当時は東京商科大学という名称であったが、1923年の関東大震災で都心部のキャンパスが被災したため、震災復興とキャンパス移転を同時に実現すべく移転が実行された。大学町そのものとしては理路整然としているが、キャンパス内の建物の配置がかならすしもそうではないのは、「復興事業的色彩が濃厚」なためだったと著者は指摘している。

このように大学町形成の背景にあったのは1923年(大正12年)の関東大震災があったのだが、それだけではなく、1920年代の「大学昇格運動」があったことも重要である。むしろ後者の流れのなかで、大震災がまったなしの状況として拍車をかけたというべきだろう。

1918年(大正7年)の「大学令」で、東京商科大学、東京工業大学など官立単科大学が誕生、1920年には慶應義塾大学、早稲田大学を皮切りに私立大学がぞくぞくと誕生している。1920年は大正時代のまっただなかであるが、普通選挙や労働運動など大衆時代の幕開けであり、高等教育へのニーズがひじょうに高まった時期でもある。

面白いのは、大都市とはいっても東京と大阪、そして名古屋では大学町形成の主体とプロセスが異なることだ。

東京は、民間デベロッパーのビジネスとして宅地分譲と一体型の開発が行われたのに対し、阪神では鉄道会社がミッションスクールを誘致して大学を育成しながら大学町のブランディングを重視した姿勢、大阪は大阪商大(現在の大阪市立大学)が大阪市の都市計画の一環として計画されたのだと著者は整理している。

大学町は学園都市ともいうが、東京の東急沿線に形成された大学町は学園都市というべきかもしれない。田園都市との類比を想起するからだ。

わたし自身、アメリカでもヨーロッパでも、大学都市は多く歩き回ってみたが、大学という制度が誕生したヨーロッパでは、大学はキャンパスに集中しておらず、大学町に分散しているのが当たり前だ。その意味では日本の大学キャンパスはアメリカ型のキャンパスを小規模に再現したといえるかもしれないという感想をもつ。

著者によれば、図書館のタワーの前に広場がある一橋大学や関西学院大学はアメリカ的な意味でのキャンパスの正統だという(P.119)。慶應の日吉キャンパスのように並木道があるのは日本型なのだと。

本書が出版されたのは2010年であり、東日本大震災(2011年3月11日)の前である。大震災の復興事業の一環として大学キャンパスの郊外移転が実行されたことは、「3-11」後の現時点では興味深く感じる。

博士論文をベースにしたものだけに、記述は精緻なものとなっており、やや読みにくいのは否めないが、郊外キャンパスから大学と都市開発を考える視点が面白いので一読の価値はあると言っておこう。




目 次

はじめに
序章 「大学町」の成立背景
第1章 「国立大学町」はいかにつくられたか
第2章 沿線開発と大学町
第3章 大学町の展開とキャンパス・デザイン
第4章 大学をわが村へ-組合による郊外開発と大学町
第5章 近代都市計画の理想とキャンパス
終章 近代都市計画の錬金術
あとがき
参考文献・図版出典

著者プロフィール

木方十根(きかた・じゅんね)
1968年岐阜県生まれ。名古屋大学卒業後、東京藝術大学大学院、名古屋大学助手を経て、鹿児島大学大学院理工学研究科准教授。専門は、建築・都市計画史。2004年度日本都市計画学会論文奨励賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


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■城下町と門前町




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2012年5月5日土曜日

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった ― 城下町佐倉を歩き回る ③



国立歴史民俗博物館で開催されている特別展を見るのが主目的であったが、雨も降ってないし、何よりもそれ以外の佐倉については何も知らないということに気づかされたので、佐倉市内を歩いて探索することとした。

観光案内所で観光地図をもとにブリーフィングを受けた際、地図のなかでは右端にあって中心街からやや離れているが、ここはいくべきだとアドバイスを受けたのが佐倉順天堂であった。

武家屋敷と麻賀多神社までは、国立歴史民俗博物館は常設展示が面白い!-城下町佐倉を歩き回る ① と 城下町・佐倉はかつて「北総の学都」だった!-城下町佐倉を歩き回る ② を参照されたい。

武家屋敷群からはやや離れているが、そのままひたすら東にむけて「蘭学通り」を歩いて行く。この「蘭学通り」というネーミングは、言うまでもなく佐倉順天堂にちなむものである。



■佐倉順天堂から順天堂大学が生まれた!

佐倉順天堂記念館まで行ったのは、じつに正解であった。今回の佐倉散策での最大の成果の一つといってもよい。




なぜなら佐倉順天堂は、蘭医(=蘭方医学、すなわちオランダ医学の略)のメッカだったところ。佐倉順天堂は蘭学医の研究と教育が行われた塾であった。順天堂というと、東京・お茶の水の順天堂大学をすぐに思いつくが、なんと順天堂大学は佐倉から生まれたのだ!

これは、順天堂大学の公式サイトにもキチンと記されていることだ。じつはわたしも、初めてその事実を知った! 起源にかんするところだけ抜き書きしておこう。

1838年(天保9年) 佐藤泰然、蘭方医学塾を開塾
江戸薬研堀(現:中央区東日本橋2-6-8 薬研堀不動院境内)に蘭方医学塾「和田塾」を創設する。この年をもって順天堂開学の年とする。

1843年(天保14年) 医学塾「順天堂」と命名
「和田塾」江戸より佐倉に移り、医学塾「順天堂」を開設する。「日新の医学、佐倉の林中より生ず」と謳われる。

1873年(明治6年) 下谷練塀町に開院
佐倉より下谷練塀町九番地(現:JR秋葉原駅付近)に「順天堂医院」を開院し、順天堂医学塾を継承する。


ここから先は、順天堂大学の歴史になるので省略する。

順天堂の順天とは、天に順(したが)うという意味である。

佐倉順天堂では蘭方医学の研究と教育だけでなく、診療も行われていた。医は仁術というが、それだけでなく、きわめて実践的な教育が行われていたわけだ。だからこそ、佐倉順天堂の門下から綺羅星のごとく人材が巣立っていったのであった。




佐倉順天堂では、いちはやく西洋式の人痘接種が実施されたという。種痘というと、華岡青洲を想起するが、佐藤泰然は一世代あとの一人になる。

いただいた小冊子によれば、佐倉順天堂では、このほか、膀胱穿刺(ぼうこう・せんし)、帝王切開、卵巣水腫開腹、乳癌摘出などの最先端の外科手術が行われていたというから驚きだ。佐藤泰然は華岡流の麻酔手術ではなく。あえて無麻酔で手術を行ったという。麻酔の安全性に疑問をもっていたためだ。


(佐倉市教育委員会発行の小冊子より)


なお、佐倉に残った順天堂」については、記念館のすぐ右隣に、いまでも佐倉順天堂医院が開業して現在に至っている。

蘭方医学は明治になってからはドイツ医学にとってかわられ、すぐ忘れ去られたとはいえ、熱心な先覚者たちのおかげで、近代医学の導入がスムーズに進んだことは特筆すべきことだろう。




なお、佐倉順天堂記念館の建物は、TVドラマ化もされた、村上ともかの人気マンガ 『JIN-仁-』に登場する仁友堂のモデルとなっているという。手術道具も参考にされたらしいが、記念館には関連文書だけでなく、当時の外科手術道具や医療器具が展示されているので、見る価値がある。



■佐倉は蘭医(=蘭方医学:オランダ医学)と蘭学の一大中心地となる

幕末の佐倉藩は、蘭医だけでなく、蘭学研究の一大中心であった。かつては、「西の長崎 東の佐倉」と称される蘭学研究の中心地でもあるのだ。この事実も、じつは今回の探索行までまったく知らなかった。棚からぼた餅とは、まさにこのことである。

もちろん、「西の長崎、東の佐倉」といったところで、オランダとの直接の窓口であった長崎と比べると、非対称性は明らかである。ただ、江戸からも近い佐倉に蘭学研究の一大中心地があったということが重要なのだ。信州の松代藩出身の佐久間象山は有名だが、より人びとのためになる医術研究と教育機関が佐倉にあったことは、それに劣らず重要なのである。

医学は実学である。それにしても、日本が関係をもっていた国が、同じくプラクティカル志向のつよいオランダであったのは、じつに幸いであったというべきだろう。

「西の長崎、東の佐倉」を知るには、さらに佐倉高校まで足を伸ばす必要がある。

佐倉高校の敷地内に併設されている学内資料館に、佐倉藩の藩校から受け継いだ蔵書と順天堂関係の蔵書が「鹿山文庫」(ろくざん・ぶんこ)として所蔵され、一部が展示されているからだ。




佐倉順天堂から京成佐倉駅までの道は、さらに歩き続けるのである。しかし、それだけの価値はある。

千葉県立佐倉高等学校は、千葉県では最古の高校で(?)、その出自は佐倉藩の藩校にたどることができるらしい。

『藩校-人を育てる伝統と風土-』(村山吉廣、明治書院、2011)によれば、佐倉は「北総の学都」と呼ばれていたそうだ。なるほど、各地に藩校出身の高校は多々あるが、佐倉高校という単純なネーミングから藩校を想像したことはなかった。

ちなみに、わが母校の千葉県立船橋高校は、船橋大神宮の神主がはじめた私塾が出発点。出自によって、校風というのは大きくかわるものであるな、と感じる次第だ。

さてその「鹿山文庫」だが、土日は開館して入場無料でなかを見ることができる。わたしが訪れた5月4日は金曜日であったが「みどりの日」として国民の祝日であり、土日に準じて開館していたのは、じつに幸いなことであった。

鹿山文庫と佐倉順天堂とあわせて閲覧することで、「西の長崎、東の佐倉」を実感することができたからだ。 

鹿山文庫がなんといってもすごいのは、展示されている蘭書がすごいのだ。

日本初の蘭和辞書「ハルマ和解」や、医学書、その他科学書が陳列されている。

『ホッタイン博物誌』はリンネの分類学い基づく博物誌で、当時の日本では佐賀藩、仙台藩と佐倉藩が買ったという貴重本。


(「ホッタイン博物誌」)


佐倉順天堂関係の医学書やその翻訳書も陳列されている。一例は、医学全書である『モスト医事韻理』、外科の必修教科書であった『リセランド人身窮理』、内科の『コンスブルック治療書』、そのほか外科、内科、眼科などの医学書のオランダ語原書である。


(右が「リュエテ眼科書」 眼の解剖図がある)


幕末の佐倉藩がここまで蘭学にちからを入れていたとは!

佐倉藩は、佐藤泰然の影響もあって、全面的に蘭学に舵を切ったらしい、その意味でも、佐藤泰然を招聘した佐倉藩主の堀田正睦の炯眼には驚かされるのである。トップに立つ人次第で、組織は大きく影響を受けるわけだ。

京成線で成田空港に行く際(・・スカイライナーは北総鉄道の線路を走るようになったのが残念だが)、佐倉駅手前で進行方向左手に目に飛び込んでくる風車におやっと思った人も少なくないと思う。なぜオランダの風車かという謎は、佐倉藩が蘭学の中心であったことを知ると解けるのである。




今回は国立歴史民俗博物館からはじめた探索行であったが、これらの展示をすべて一緒にみると、日本人はなんとすごいのかと思うだけでなく、ここ佐倉の地に国立歴史民俗博物館が来たことも、「北総の学都」であった佐倉の意味を掘り起こすことにもつながることとなった。

そのため、かなり長い記事になったが、三回にわけて書き綴ったのである。

ぜひ、城下町・佐倉は本格的に探索してほしい。わたしにとっても、佐倉はまったくの盲点であった。キッカケはなんであれ、今回じっくりと探索したことで、わたし自身の視野が大いに広がったことを感じている。



■佐倉は「お味噌の産地」です

そうそう、「佐倉はおみその産地です」。写真はヤマニ味噌。
お土産には、ぜひお味噌をお忘れなく!






<関連サイト>

佐倉市観光協会 公式サイト

千葉県立佐倉高等学校のなかにある「鹿山文庫」 

佐藤泰然 wikipedia項目 

「城下町探訪」 佐倉―チューリップが咲きオランダ風車が回る城下町

特別展『医は仁術』(国立科学博物館 2014年3月15日~6月15日)

(2021年6月4日 情報追加)

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