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2022年11月25日金曜日

「昭和」って江戸時代ですか?ー「昭和時代」に建立された馬頭観音の石碑がある

 自宅から10分くらい歩くと馬頭観音(=馬頭観世音)がある。馬頭観音とは、馬の頭をもった観音さまのことだ。 

もともと幕府直轄の馬の放牧場の「牧」があったためか、千葉県北西部には馬頭観音の石碑が多いような気がする。 なかには「昭和50年」なんてものもある(写真左)。 

昭和なら最近だなと思ったのは、自分が昭和時代に生まれたからだろう。だが、昭和50年は1975年であり、2022年から約半世紀も前のことになる。そう考えれば、けっしてあたらしいとは言いがたい。 

現在はまだ「昭和」といえば、「平成」の前の元号だねと答えが返ってくるだろう。

だが、いまから50年もたてば、いやそんな先ではないかもしれないが、「昭和って江戸時代ですか?」と質問してくる日本人がでてくるだろうな(笑) 

昭和は遠くなりにけり。 





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2022年11月14日月曜日

飯田道夫氏による二部作『庚申信仰-庶民宗教の実像』(人文書院、1989)と『日待・月待・庚申待』(人文書院、1991)で江戸時代の庶民信仰を知る


 
ここのところ、ふたたび近辺を歩き回っては石碑など見ている。カネを払って遠くにいく必要はない。とくに名所旧跡ではなくても、歩ける範囲でいろんなものがある。 

というわけで、千葉県北西部の船橋市に居住する「あまのじゃく」なわたしは自宅周辺を散策する。犬も歩けば棒に当たる。現代人はスマホを手に持って、google map を頼りに歩く。 歩けば石碑など、なにかしらあるものだ。


(船橋市高根にて筆者撮影)


写真は、江戸時代後期の「十九夜講」の石碑。月齢で19夜(=寝待ち月)の夜に女性たちが集まって供養し、安産など祈ったらしい。このほか、「二十三夜」などに集まる講があったようだ。一般庶民の信仰、民俗仏教である。

このほかよく目にするのが庚申塔や馬頭観音。それについて知ったからといって、とくに役に立つわけでもないが、純粋な好奇心というものは、抑えることはできないもの。もっと知りたい思うから関連文献を読む。 


(船橋市薬円台の倶利伽羅不動尊境内の「庚申塔」 筆者撮影)


ずいぶん以前に入手していながらまだ読んでなかった『庚申信仰-庶民宗教の実像』(人文書院、1989)『日待・月待・庚申待』(人文書院、1991)を読んだ。いずれも著者は飯田道夫氏で二部作。外資系航空会社のサラリーマンやりながら、まとめた研究成果。

ただし、京都在住なので関西の事例が中心となる。 庚申塔が多く残っている関東についての言及はそれほど多くない。サラリーマンと二足のわらじでは、それは難しかろう。とはいえ、庚申塔が関東に多く残っているのは、関東が信仰の中心だったことを意味しているわけではない。結果として、石碑が多く残されたというだけである。

庚申待ちや日待・月待といった庶民信仰は、月齢にもとづく特定の日に集まって行われたものだ。大都市部を除いて娯楽の少なかった江戸時代後期の民衆たちにとっては、飲食をともなう集会は、手軽に楽しめる娯楽の機会でもあったわけだ。

こういった庶民信仰が石碑という痕跡を残して消えていったのは、明治維新の際の「神仏分離令」にともなう「廃仏毀釈」が原因だったようだ。淫祠邪教を禁じるという、明治政府の宗教政策の断行が招いたものである。 

著者もいうように、この本がでた1990年前後には、庚申信仰や月待などは、ほぼ消滅の間際だったというから、30年後の現在2020年代には消滅したといってもいいのだろう。もちろん、生活環境が激変して娯楽なんていくらでもあるので、昔ながらの生活習慣が生き延びるはずがない。 

とはいえ、いまから150年前の江戸時代までは当たり前のように存在したものを、それがすでに消滅してしまった現在から、残された資料をもとに想像によって再構成するのは難しい。

石碑にこめられた庶民の喜怒哀楽の思いに想像をめぐらしてみるだけだ。そう、石もまた記憶媒体なのだ。アナログの。 



PS あらたに庚申塔の写真を追加した。(2024年3月24日)


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2021年6月23日水曜日

「國威宣揚」という石碑が日本各地に残っている ― 明治天皇による「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」(慶応4年=明治元年)に由来する「近代日本」の出発点

 

「國威宣揚」という石碑が日本各地に残っている。

冒頭に掲げたのは、東京都江東区の深川一丁目児童遊園に堂々と屹立(きつりつ)している石碑だ。4年前にはじめて見たときは驚いたものだ。よりによって、なぜ児童公園にあるのか、と。

いまこの「國威宣揚」について書いているのは、まったく違う場所でおなじ文言が書かれた石碑を目撃したからだ。つい最近のことである。

JR総武線と武蔵野線、そして東京メトロと東葉高速鉄道のジャンクションである西船橋駅から、10分程度離れた京成電鉄の京成西船駅(旧駅名:葛飾駅)に向かう途中に、目に入ってきたのは「國威宣揚」という4文字が記された石碑だった。


気になったらすぐに写真を撮って記録することが大事。そのときはすこし急いでいたのだが、10歩歩いてから戻って即スマホで撮影。これは基本動作である。写真さえ撮っておけば、あとから記録から記憶が蘇るからだ。


文字がかすれているのでわかりにくいが、たしかに「國威宣揚」と書かれている。文字列の上には日の丸らしきものが刻まれているが、これは、たまたまそう見えるだけのことだろう。国旗掲揚の際に、ひもを通す穴であろう。


■大東亜戦争開始以前に建てられた「國威宣揚」の石碑

東京都江東区の深川一丁目児童遊園の「國威宣揚」についてもう少し見ておこう。


石碑の裏面には、かすれてよく見えないが、昭和12年(1937年)と書かれてあった。1941年に始まった大東亜戦争時代ではないが、日中戦争が始まり戦時色が強まり始めていた「戦前」に建てられたことがわかる。


これまで目撃したのは、東京都江東区と千葉県船橋市の2件だが、おそらく日本全国各地にこの石碑は現存しているのだろう。たしかに、ネット検索してみると、いろんな画像がでてくる

西船橋の春日神社のものは現在のところアップないようなのでここで取り上げることにした。なお、西船橋の春日神社にある石碑の裏面には「昭和15年1月1日建立」と刻まれていることを確認した。


昭和15年とは1940年、いや皇紀2600年である! そうか、それにあわせてあらためて「国威宣揚」が強調されたというわけか!(*この件は、2021年6月28日に追記)

オリンピックがらみで「国威発揚」という表現がよくつかわれるが、石碑には「国威発揚」ではなく「国威宣揚」とある。正確にはこれまで記述してきたように、正字体による「國威宣揚」である。


■「國威宣揚」とは何か?

「國威宣揚」が気になったのでネット検索しているうちに、「国威宣揚」の文字が「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」に含まれていることがわかった。「おくちょうあんぶ こくいせんよう の ごしんかん」と読む。

「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」というものが知ったのは今回がはじめてのことだ。いまのいままでまったく知らなかった。

Wikipediaに記述によれば、「億兆安撫国威宣揚の御宸翰(おくちょうあんぶこくいせんようのごしんかん)とは、明治元年3月14日(1868年4月6日)、「五箇条の御誓文」の宣言に際して明治天皇が臣下に賜ったことば」とある。詔勅(royal decree)である。

「御宸翰之御写」が早稲田大学図書館にあるようで、その画像がアップされている(*下記にその一部を拡大)。「國威宣揚」は、「國威を四方に宣布し・・」という文言から取られたようだ。




「億兆安撫国威宣布の御宸翰」の全文は、 国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。詔勅の要旨は以下のようなものだ。引き続き wikipedia から引用しておこう。

中世以来、表面には朝廷を尊んで、実は敬して遠ざけていたため、君主と臣下の間は遠く隔たってしまったが、それでは君臨の意味がない。このたび朝政を一新するにあたり、国民の中に一人でもそのところを得ないものがあれば、それはすべて私、天皇に責任があるのだから、骨を折り心を苦しめて善政をおこなおうと思う。お前たちはよくよくこの方針を理解し、私見を捨てて公義を取り、天皇を助けて、国家をまもり、皇祖皇宗の神霊を慰めよ。
 

「五箇条の御誓文」が天皇が皇祖神に対して誓ったものであるのに対して、これは臣下と国民に向けて出された声明である。

「億兆」とは国民全体のことであり、天皇は「天下億兆、一人も其処を得ざる時は、皆朕が罪なれば」と述べて政治への決意と責任感を示した。Wikipediaにはそう書かれている。

明治初年度の時点では、いまだ国民国家という概念も実体もなかったので「国民」という表現は適切ではないが、日本という国に暮らす「民」すべてに向けての声明であるという点は重要だ。

「五箇条の御誓文」についてはよく知られているが、「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」についてはまったく知らなかった。はじめて知ったという驚きとともに、いかに知識が偏っているか痛切に感じる。

「國威」という概念は、すでに慶応4年(=明治元年)には存在していたのか、と。しかも、詔勅として臣民に下されていたのだと。

「國威宣揚」という文言は古くさい印象はぬぐえないし、いまさら「国威宣揚」や「国威発揚」でもないだろうという気持ちがある。正直なところ敬遠したい気持ちがなくもない。

だが、この文言が明治天皇によって改元前の慶応4年に出されていたことの意味を受け取らなければ、「近代日本」を知ることにならないと、あらためて深く感じている。


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<関連サイト>
「幼弱」の身で即位した天皇は、慶応4年3月14日に国家の基本綱領を、「五箇条の誓文」と「億兆安撫 国威宣揚の宸翰」で天下に告げ知らせました。この政治綱領は、新政府の方針を、新国家を統治する政治の主体者である天皇の想いとして説いたものです。 
とくに「国威宣揚の宸翰」は、冒頭で「朕幼弱を以て猝に大統を紹き爾来何を以て万国に対立し、列祖に事へ奉らんと朝夕恐懼に堪へさるなり」と語り、武家政権の下で「朝政衰てより」「表は朝廷を推尊して実は軽して是れを遠け億兆の父母として絶て赤子の情を知ること能はさる様計りなし、遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果」た状況から説き起こし、最後に世界における日本の姿を提示しました。
日本は、世界が大きく開け、各国が雄飛している「世界の形勢にうとく旧習を固守し一新の効」をはからず、「九重に安居し一日の安きを偸み百年の憂を忘るるときは遂に各国の凌侮を受け」ている。この現状こそは、上は「列祖」を辱しめ、下は「億兆を苦し」めることとなったのだと。
そこで天皇は、親らが「四方を経営し汝億兆を安撫し遂には万里の波涛を拓開し国威を四方に宣布し天下を富岳の安きに置んことを」と、天皇の国日本の明日を言挙げしております。 この決意は、「今日ノ事、朕自身骨ヲ労シ、心志ヲ苦メ、艱難ノ先ニ立」つことで、「治蹟を勤メテコソ始テ天職ヲ奉ジテ億兆ノ君タル所ニ背カザルベシ」と負うべき天皇の強き政治的主体性による宣言です。
しかし天皇は、「今日朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて朝威は倍衰へ上下相離るゝこと霄壤の如し かゝる形勢にて何を以て天下に君臨せんや」と、高らかに「億兆安撫 国威宣揚」を問いかけたものの、おのれの統治に不安をいだいてもいた。まさに天皇の政治的主体性は、不安にさらされていただけに、文明国家としての法的枠組みを整備し、確乎たるものに造形されていかねばならなかったのです。


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PS あらたに「国威宣揚」を発見! 船橋市の道祖神社

2022年1月8日の初詣のため意富比神社(=船橋大神宮)を参拝したあと、「世界最小の東照宮」である船橋東照宮を参拝し、そのまま船橋駅方向に向かって歩いて行くと、道祖神社が目に入った。参拝を済ませたあと石造りの鳥居の外に出たところ、目に入ってきたのが「国威宣揚」の石碑だった(下記の写真参照)。犬も歩けば棒に当たる、いや「国威宣揚」の石碑が目に入る。意外なところに、まだまだありそうだ。(2022年1月8日 記す)



PS あらたに「国威宣揚」を発見!2 船橋市の神明神社

本日(2023年12月9日)、またあらたに「国威宣揚」を発見。船橋市飯山満(はざま)にある神明神社である。ここもまた隣がしんめい幼稚園であり、神社と幼稚園や児童公園との親和性が高いというべきか、なぜか「国威宣揚」が撤去されずに残っている。犬も歩けば棒に当たる。発見次第、また情報を追加していきたい。(2023年12月9日 記す)




PS またまた「国威宣揚」を発見!3 船橋市海神の「龍神社」(りゅうじんんしゃ)

本日(2024年1月5日)、初詣で船橋市海神の「龍神社」を訪れたが、なんとここにも「国威宣揚」があった! これまた「紀元二千六百年記念」である。ちかづいて石碑に刻まれた文字を見ていると、なんと鈴木貫太郎書とあるではないか! 「ポツダム宣言」を受諾したあの鈴木貫太郎首相である。どういうつながりがあったのか知らないが、なにごとも「現地・現物・現実」の「三現主義」が重要だなと、あらたに痛感した。(2024年1月5日 記す)





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・・月山(がっさん)の山頂付近には「八紘一宇」の石碑がそのまま撤去されることなく残っている

(2025年7月23日 情報追加)


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2018年8月4日土曜日

東日本橋の「薬研堀不動院」に行ってみると、そこには「順天堂発祥之地の石碑」があった!(2018年8月2日)

(薬研堀不動院はビルの谷間にある 筆者撮影)


一昨日(2018年8月2日)のことだが、東京都中央区の東日本橋に所用があって訪れた。その際、せっかくなのでついでに薬研堀不動院を参拝した。日本橋ではなく「東」日本橋である。

薬研堀は「やげんぼり」と読む。川崎大師東京別院である。深川不動院が成田山東京別院であるのと同様のものか。 


(薬研堀不動院 筆者撮影)


そこで知ったのは、不動院の敷地内に「順天堂発祥之地」の石碑があるという情報。さっそく石碑を見に行った。 

そうか、順天堂は現在の東日本橋が発祥の地だったのか! てっきり、順天堂大学と病院のあるお茶の水に一貫して存在するのかと思い込んでいた


(順天堂発祥之地の石碑 筆者撮影)


黒御影石の石碑は、なんだかお墓みたいな印象だが(笑)、側面にある碑面には「昭和57年建立」とある(上掲の写真の碑面の裏側なので見えないが・・)それほど昔に作られたものではない。

思い込みというのは、じつに危険だ。と同時に、偶然の遭遇もまた大事にしなくてはならないなと、あらためて痛感。神仏のお導きでありますね。 


(さすがに薬研堀では読めないか? 筆者撮影)


もちろん、順天堂の前身は、江戸時代末期の「佐倉順天堂」ではある。現在の千葉県佐倉市。佐倉藩が蘭方医の佐藤泰然を誘致して日本で先端医療(とくに外科)を行っていたのである。

佐藤泰然が佐倉に招致される前は、この東日本橋の薬研堀不動院の境内に「オランダ医学塾」を開設し、外科治療も行っていたというわけだ。

順天堂の名前そのものは佐倉が発祥の地だが、そもそもの原点である蘭方医の塾は東日本橋が発祥の地なのである。ちなみに「順天」とは、「天道に順(したが)う」という意味だ。


(東日本橋から隅田川を見る 筆者撮影)


東日本橋は、隅田川にも近い隅田川を東日本橋から見るのは初めてだ。普段はJR総武線の浅草橋付近から見ることが多いので。見ていると、ほとんど誰も乗ってない水上バスが通過していった。平日のお昼だったから当然か。豪雨になれば自然の猛威の前に人間は立ち尽くすことさえできないが、平時であれば水辺には癒やされる

東日本橋は、機会があればまたいろいろと歩き回ってみたいものだ。「犬も歩けば棒に当たる」のでね(笑)




<関連サイト>

東京別院 薬研堀不動院 略縁起
・・「その後、明治25年(1892)より川崎大師の東京別院となり現在に至っています。また、順天堂の学祖と仰がれている佐藤泰然(たいぜん)が、天保9年(1838)に和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所でもあります。」


「発祥の地コレクション」 より「順天堂発祥之地」
・・「地下鉄・東日本橋駅の東 200m の地に「薬研堀不動院」がある。 これの中庭のように囲まれたところに, 発祥碑が建つ。 同じ場所に 講談発祥記念碑 もある。 
長崎で蘭学を学んだ 佐藤泰然(当時 和田姓)は, 1838(天保9)年 この地 薬研堀に 蘭学塾「和田塾」を開き, 塾生に蘭学を教えると同時に 外科専門の治療を行った1843(天保14)年, 佐倉藩主に招かれ 佐倉に「順天堂」を開いた。 (この建物は 現在「旧佐倉順天堂記念館」=千葉県指定史跡 として公開されている。) これが「順天堂」の名前の発祥。 
同時に 泰然は 母方の姓 和田から 父方の姓 佐藤に変えた。 
佐藤泰然は 当時画期的であった 種痘を行うなど 優れた新技術の導入に積極的であった。 その後 1873(明治6)年 養子の 尚中 の代に, 東京下谷練塀町に病院を開き, 1875(明治8)年 湯島に順天堂医院を開業。 1946(昭和21)年 順天堂医科大学が認可され, 1951(昭和26)年 には 順天堂大学が開設され, 現在の 順天堂大学と附属順天堂医院 に引き継がれている。」





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