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2024年5月16日木曜日

「東国三社参詣」5万歩ウォーク 体験記 その6 鹿島神宮といえば「要石」(かなめいし)。その意味について考えてみる(2024年5月11日)

 

やっとの思いで鹿島神宮に到着3度目の参詣である。

息栖(いきす)神社の参詣を済ませたら、すでに午後2時になっていた。 

先を急がなくてはと、ひたすら国道124号線を北上し、急ぎ足で歩いていたが、だんだんと足が重くなってきた。そうこうするうちに左足があがらなくなってくる。まめもできてきた。 

「足が棒のように」なるという表現が日本語にはあったな、そんな思いをするのはひさびさだ。 

(さすが鹿島だけにあって東京ヴェルディのバスが目の前に 筆者撮影)


途中なんども休憩をはさみながら、なんとか気合いで歩きつづける。知力は関係ない、体力を気力でカバーするのだ。 




歩いてあと30分というところでバス停があった。時刻表をみたら、あと数分でバスが来ることがわかった。悪の誘惑である。

だが、そんな誘惑を振り切って歩く。ここで妥協したらずっと後悔することになるぞ、「東国三社」を歩き通したぞと胸を張って言えなくなってしまうぞ、と。

そうこうするうちに鹿島神宮の森が見えてきた。あともうすこしだ。

側面から境内に入ったら、時間はちょうど16時半、ベンチがあったので、腰を下ろして座り込んでしまった。 


(側面からみた鹿島神宮の本殿)


そこで感じたのは「達成感」ではなかった。極度の「疲労感」のみである。

「達成感」というものは、その行為の記憶をなんども反復していくうち、時間がたつにつれて増大していくのだろう。 


■さあ、気を取り直して境内へ

さて、しばらく休んだあと立ち上がる。ぼやぼやしていると日が暮れてしまう。いくら神社は24時間開放スペースだとはいえ、暗くなったら見えなくなってしまうではないか。 


(正面から見た本殿 北向きである)


まずは本殿を参拝。日本の神社は基本的に南に正面があって、参拝者は北に向かって拝むことになっているのだが、鹿島神宮の本殿は正面が北を向いているのだという。理由は定かではない。 

(千年杉の森)


鹿島神宮そのあと、千年杉の森のなかに入っていくこのうっそうとした森こそ日本の神社であり、現代人にとっては森林浴という功徳をいただくことにもなるわけだ。明治神宮の参道と似ているが、過ごしてきた年月はヒトケタ違う。


(さざれ石)


まずは「さざれ石」がある。この意味は日本人にしかわからないだろう。


(鹿は神さまのお使い)


「鹿の園」がある。神さまのお使いの鹿たちだから「鹿島アントラーズ」なのだな。しかも、奈良の春日神社の鹿は、こちらが本家本元なのだそうだ。


(奥宮。この裏に「要石」がある)


さらに森を歩き続けて「奥宮」を参拝。そして、「要石」(かなめいし)へと向かう。これが今回の「東国三社参詣」のメーンイベントであり、締めくくりなのだ。 


(鹿島神宮の「要石」)


「要石」といえば鹿島神宮、そんな連想がある。鹿島の神さまが「要石」で大ナマズを押さえつけているという民間伝承だ。それでも、ときに大ナマズが大暴れして、押さえつけられないことがある。 


(大ナマズを押さえる鹿島の神さま)


2011年3月11日の「東日本大震災」では、その鹿島神宮でさえ、石造の鳥居が崩壊したのだという。現在の鳥居は千年杉をつかって再建したものだそうだ。 


(東日本大震災後に再建された鳥居)

そうはいうものの、ひきつづき鹿島の神さまには、「要石」で大ナマズを押さえつけておいてほしいと願うのみ。よろしくお願いします。 


(いわゆる「鯰絵」に描かれた鹿島大明神と「要石」)


これで香取神宮・息栖神社・鹿島神宮の「東国三社参詣」は完了した。感無量である。 あとは「鹿島立ち」して、帰途につくのみ。


(つづく) 




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<番外編> 2つの要石を結ぶラインと・・・


 

「東国三社参詣」でミッシングポイントとなっていたのが息栖(いきす)神社であった。 

鹿島と香取の2つの「神宮」と比べて知名度が低く、参詣者もそれほど多くない息栖神社だが、先にも見たように、息栖神社があることで、「東国三社」で直角二等辺三角形が形作られていることがわかる。 

そして、重要な点は、まずは鹿島と香取の2つの「神宮」には、ともに「要石」(かなめいし)があるということだ。 

「要石といえば鹿島神宮」という連想は、なにも現代人だけではなく、江戸時代後期もそうだったようだ。 


(鹿島神宮の「要石」は地表露出部分が小さくて凹型)

ところが、博物誌ともいうべき赤松宗旦の『利根川図志』には香取神宮の「要石」は記載されていない。

佐藤一斎も「日光山行記」では「鹿島神宮の要石」は、手で触れてみたと書いているが(・・かつてはそんなことができたのか!)、「香取神宮の要石」にはいっさい言及がない。 


(香取神宮の「要石」は地表露出部分が比較的大きくて凸型)

香取神宮の「要石」は、鹿島神宮の「要石」より大きい香取神宮のものは凸型、鹿島神宮のものはくぼみのある凹型。いずれも地表に現れているのはごく一部で、巨大な岩の先端に過ぎないのだという。 

「要石」は、その先端部分が地表にでているが、その地下には巨大な岩石があるといわれる。鹿島と香取の両神宮は、ともに小高い丘のうえに鎮座している。言い換えれば島のようなものだ。 

したがって、「要石」のある岩石そのものが信仰の対象だったと考えるべきだろう。古代の「巨石信仰」である。

そう考えると、現在の社殿そのものよりも、「要石」のほうが信仰としては、より原初的なものと考えるのが自然である。 

さらに重要なことは、息栖神社は現在地に遷ってから1200年近いが、かつては現在地よりも東南方向に鎮座していたらしいことだ。 


 「第2章 関東 前編 東国三社と蝦夷」と「第3章 関東 後編 水戸光圀と巨石信仰」に記されている。 




その65ページには、東国三社の関係図が掲載されており(上掲の図)、そこには以下のようなキャプションがつけられている。


鹿島神宮、香取神宮、息栖神社・・・・・東国三社を結ぶと表れる巨大な三角形。息栖神社の旧地とふたつの要石を結ぶと、ほぼ正三角形を成していることがわかる。 


鹿島神宮と出雲大社を結ぶ東西ラインは「太陽の道」とよばれることがあるが、それは日本のなかでは東西の最長距離となっているからだ。ちなみに鹿島神宮と出雲大社の中間ポイントに熱田神宮がある。  

そういった、「神聖幾何学」(sacred geometry)ともいうべき、もろもろの事実を踏まえるとなにが見えてくるのか。

答えはそう簡単には出てこないが、古代人の思考を知るうえで、なかなか興味深い謎解きとなることであろう。 





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