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2021年11月18日木曜日

書評『80's エイティーズ ある80年代の物語』(橘玲、太田出版、2018)ー1959年生まれの元「宝島」編集長による「80年代体験」の活字化

 
『80's エイティーズ ある80年代の物語』(橘玲、太田出版、2018)を読んだ。ベストセラー作家の1980年代の「記憶のなかの物語」。  

元「宝島」編集長は1959年生まれ1962年生まれのわたしとは3年しか違わないので同時代人といっていいと思うが、10代後半から20代前半における3年間の違いはかなり大きなものもある。 

「人生はほぼ20歳までの経験で決まってしまう」という英国の作家の発言もある。この本もまた、同時代体験の捉え方の共通点と相違点を興味深く感じながら読んだ。 

著者は、「80年代」は「1995年に終わった」としているが、この点にかんしてはまったく同感だ。 

1995年は、阪神大震災に始まりオウム事件を体験した年だ。大地震動の時代が始まり、精神世界が前面に浮上してきた年だ。前者はバブル時代の余波への終止符後者はバブル時代の鬼子として。 

たまたま学生時代(1980年代前半)の大学ゼミの写真をさがしてほしいという友人からの依頼を受けて作業していたら、前回の地震で本棚から落ちて転がり落ちていた『80's』というタイトルの本が目に入った。買っていたことすら忘れていたのだった。 

不思議な偶然に驚きながら、さっそく読んでみた。偶然の一致(=シンクロニシティ)は夢のなかだけでなく、現実(うつつ)のなかでも起きることなのだな、と。 

著者は、あとがきの末尾をこう結んでいる。「振り返ってみれば、バカな頃がいちばん面白かった。だけど、ひとはいつまでもバカではいられない。そういうことなのだろう」 。この実感には、大いにうなづくものを感じる。

1980年代とは、そんな時代だった。 




<ブログ内関連記事>

・・「20歳までにその人の人生の大まかなところは決まってしまうと言ったのは、私の記憶ではたしか『長距離走者の孤独』を書いた英国の作家アラン・シリトーのことだったようだ」





(2021年11月28日 情報追加)


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2013年2月10日日曜日

書評 『「紙の本」はかく語りき』(古田博司、ちくま文庫、2013)-すでに「近代」が終わった時代に生きるわれわれは「近代」の遺産をどう活用するべきか


文庫オリジナルである。筑摩書房の「ちくま」に2009年から3年間連載されたものをまとめたものだという。もとの文章は読んでいなかったので、古田ファンとしてはありがたい。

著者の表現をつかえば、モダン(近代)の時代に出版という形で蓄積されてきた知的遺産を、ポストモダン(後近代)に生きる現代人がどう活用するかが本書のテーマである。

本書が書かれた背景は、いまという時代の状況がある。インターネットで検索すれば、たちどころに情報が収集できて、なにかしらのまとまった発言を行うことが容易になった時代である。

だが、著者の言うことに耳を傾けてみる必要があるだろう。

ネットに蓄積された知識を活用するとき、一番の問題は、それがどれくらい内容的に深いか、どのくらい広く領域をカバーしているのか、まるでわからないことである。もう一つの問題は、紙の知識と異なり、編集者や校閲者の目配りを経ていないため、事実上の誤認、誤記、誤植がまったくチェックされないまま、人々の目に触れることである。
これらの欠点を克服するためには、普段から広く深く紙の知識を漁り、相互に関連づけながら備えていくことが必要だろう。(P.22)

そう、まったくそのとおりだ。インターネットという日々進化する膨大な知識ベースに簡単にアクセスできる現代人は、その玉石混交(ぎょくせきこんこう)の膨大な情報の真贋を見極めるための目をもたなければならないのである。「目利き」にならなくてはならないということだ。

そのための試みが本書である。目利きとは技術の問題である。自分のアタマで考えるための技術である。

いまや Google Books がすべての単行本の内容を一元化して閲覧できる取り組みを行っている最中にある。現在は英語の単行本が対象となっているようだが、著作権の切れた日本語の本は国立国会図書館もマイクロフィッシュ化していることであるし、いずれデジタルデータとして容易に活用できる日も来ることだろう。

だが、日本語で出版された本が完全にインターネット上で読めるとは考えないほうがいいだから、紙の本も読む必要が大いにあるということだ。それは本書で取り上げられた書籍名を一瞥(いちべつ)してみればすぐにわかることだ。

そしてまた、インターネットで調べたらわかるようなことで事実誤認がないよう、ブログなどの文章をアップする際には、細心の注意を払って事実関係の確認を行うことも同時に重要だ。ネットで調べればわかるような事実に言及していないのは怠漫と言わねばならない。

紙の本を読む習慣を身につけておいたほうがいいのは、自分なりの世界の見方、切り口を身につけるためである。それは権威にもたれかからないという姿勢をつくることでもある。判断を他人の言説にゆだねないということだ。

人文科学や社会科学の分野では、いまだにヘーゲルやマルクスに体現されたゲルマン的な観念論で語る人たちが少なくないようだ。「偉人」の虎の威を借りた、まことにもって愚かな習性である。

古田氏の議論は、周辺にいる人文社会科学の研究者たちの言動を前提にしているようだ。リアル世界に生きているビジネスパーソンにとっては、基本的に古田氏の主張のほうが、きわめてまっとうなものと映る。

膨大な情報の真贋を見極めるための目をもたなければならないためには、アングロサクソン的な経験論が不可欠となる。

アングロサクソン的な経験論は、ビジネスパーソンであれば当然のことながら身につけていなければならないことだ。アングロサクソン的発想の「粋」(すい)であるビジネス教育をMBAコースで学んだ人なら、決定論ではなく確率論で考えると表現するところだろう。これはビジネスに限らず理工系では当たり前の思考方法である。

その意味では、本書の基本姿勢は、社会科学や理科系の発想に慣れていない人には、よい手引きにはなるだろう。いまだに「近代的思考」から抜け出せない人が少なくないようだが、そういった人には、本書のような毒消しが必要だ。もちろん近代の成果は大いに使いこなしての上であるが。

取り上げられた本はいわゆるスタンダードな書籍ではないが、そんな本もあったのかという「発見」の喜びを得ることもできる。自分にとって「無関心の本」と偶然に遭遇してみる、そういうことも自分の思考枠を広げてくれることになる。「常識」を疑う基盤が自分のなかにできあがるということでもある。

こういったプロセスを繰り返していくことで、「自分で考え、自分で行動する」人間ができあがっていくのである。





目 次

まえがき
第1章 変配の章
第2章 直観の章
第3章 世界化の章
第4章 壊造の章
あとがき
作品名索引
人名索引

著者プロフィール

古田博司(ふるた・ひろし)
1953年横浜生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了(東洋史専攻)。延世大学、漢陽大学などで日本語講師を務める。滞韓6年の後、帰国。現在は筑波大学大学院教授。著書に『東アジアの思想風景』(サントリー学芸賞)、『東アジア・イデオロギーを超えて』(読売・吉野作造賞)などがある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。

(2001年に出版された若者向きのこの本も同じ趣旨である)


<ブログ内関連記事>

古田博司氏関連

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」

書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)-「日本文明」は「中華文明」とは根本的に異なる文明である
・・ 「モダン」(近代)と「ポストモダン」(後近代)の断層は限りなく大きい。19世紀後半から始まった「モダン」は、冷戦構造の終焉から解体がはじまり、いまやほぼ完全に終焉を迎え、不可逆の流れとして「ポストモダン」が進行している。
 「モダン」の時代に確固たるものと思われていた「中心」は、実は空洞であったことが次から次へと露見し、すべてが虚構であったことがわかってしまった。
 30歳台以下の世代と、私もその一人であるが40歳台以上とくに「モダン」時代にマインドセットを形成された50歳台以上の世代との断層は、たんなる世代間格差を超えたものがある。後者の世代が願う、失われた「共同体」再現というノスタルジックな夢は、徒労と終わるだけであろう。時代は完全に変わったのである。あらたな時代に、40歳台以上の人間がとるべき態度はあきらかだろう。
 むしろ、著者が指摘するように、下手に「モダン」の時代を知らない30歳台以下の若年層のほうが、この時代への適応力が強いのは当然だ。インターネットの普及がさらに「ポストモダン」を加速し、因果律ですべてを説明したがるドイツ的知性から、事実列挙式のアングロサクソン的知性への転換が定着しつつある。
 これは、日頃から大学生と接することの多い著者ならではの見解といえよう。著者による、2000年以降の時系列の大学生の観察と大学教育における試行錯誤の記録が、ドキュメントとしてもたいへん興味深く、説得力をもつ」(当ブログ記事から再録)。

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・日本が「儒教国」ではないことを、文化人類学者の泉靖一の発言を紹介して説明している。また、古田博司の著書について触れている。


紙の本

書評 『脳を創る読書-なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか-』(酒井邦嘉、実業之日本社、2011)-「紙の本」と「電子書籍」については、うまい使い分けを考えたい

書評 『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール、工藤妙子訳、阪急コミュニケーションズ2010)-活版印刷発明以来、駄本は無数に出版されてきたのだ

(2014年8月23日 情報追加)





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2010年5月25日火曜日

書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)-「日本文明」は「中華文明」とは根本的に異なる文明である


覚醒せよ、日本人。覚醒せよ、日本文明。時代はすでに根本的に変わったのだ!

「モダンという時代は本当に堅苦しかった」・・・

「そして今、ようやくモダンな時代は終わりを告げた」・・・

「ポストモダンは、明治以来はじめて我が国が迎える巨大なパラダイムシフトである」

「そして今、ようやくモダンな時代は終わりを告げた」・・・

「ポストモダンは、明治以来はじめて我が国が迎える巨大なパラダイムシフトである」・・・

 本書のいたるところに漏らされる、ため息にも似た感想の数々。1953年生まれの50歳台後半の著者が、意外と若い世代の感覚と近いように思われるのは、著者がつづる自らの人生を振り返る文章を読むとき、おのずから理解されるのである。

 著者は「モダン」の時代に、ずっと違和感を感じつづけた「異端」であったからだ。

 本書は、「ポストモダン」時代に生きる日本人に、「日本文明圏」の特質を抽出し、新しい時代を生きるための心構えをエッセイの形で描いた思索の書である。

 幕末維新の激動期を生ききった福澤諭吉は、「恰(あたか)も一身(いっしん)にして二生(にせい)を経(ふ)るが如く」と述懐しているが、著者もまた「モダン」時代と「ポストモダン」時代の2つの時代を体験した思索者の一人である。慶應出身の著者は、慶應に対するアンビバレントな感情を隠さないが・・・。

 「モダン」(近代)と「ポストモダン」(後近代)の断層は限りなく大きい。19世紀後半から始まった「モダン」は、冷戦構造の終焉から解体がはじまり、いまやほぼ完全に終焉を迎え、不可逆の流れとして「ポストモダン」が進行している。

 「モダン」の時代に確固たるものと思われていた「中心」は、実は空洞であったことが次から次へと露見し、すべてが虚構であったことがわかってしまった。

 30歳台以下の世代と、私もその一人であるが40歳台以上で、とくに「モダン」時代にマインドセットを形成された50歳台以上の世代との断層は、たんなる世代間格差を超えたものがある。後者の世代が願う、失われた「共同体」再現というノスタルジックな夢は、徒労と終わるだけであろう。時代は完全に変わったのである。あらたな時代に、40歳台以上の人間がとるべき態度はあきらかだろう。

 むしろ、著者が指摘するように、下手に「モダン」の時代を知らない30歳台以下の若年層のほうが、この時代への適応力が強いのは当然だ。インターネットの普及がさらに「ポストモダン」を加速し、因果律ですべてを説明したがるドイツ的知性から、事実列挙式のアングロサクソン的知性への転換が定着しつつある。

 これは、日頃から大学生と接することの多い著者ならではの見解といえよう。著者による、2000年以降の時系列の大学生の観察と大学教育における試行錯誤の記録が、ドキュメントとしてもたいへん興味深く、説得力をもつ。

 著者は、韓国・朝鮮問題の本質を語って右に出る者はいない論客である。いままさに「モダン」の最中にある中国、すでに「ポストモダン」にあるが民主主義が破綻した韓国、そしていまだ「プレモダン」である北朝鮮。この中国と韓国朝鮮というアジアのなかでも特殊な「中華文明圏」の二カ国とは根本的に異なる「日本文明圏」の特質を、複数の「文化端末」という形で抽出し、日本人が今後の時代を生き抜いてゆくうえでの、「文化端末」ごとのメリット・デメリットについて論じている。

 「文化端末」の詳細については直接本文を読んでみていただきたいが、中華文明と日本文明の2つの文明の差異について展開してきた議論が、ついに「アジア主義との永遠の訣別」の表明に至るのを読むとき、同じく東アジアの二国に深く関与したが故に「脱亜論」を説かねばならなかった福澤諭吉を想起するのは、私だけではないだろう。

 訣別すべき「アジア主義」もまた、「モダン」時代の産物であった。

 「モダン」が崩壊したあとの廃墟に残ったのは、ある種のニリヒリズムである。しかし、そのニヒリズムからこそ、現実を直視するためのリアリズムが生まれ、あらたな時代へのポジティブな展望をもつことが可能となる。

 覚醒せよ、日本人。覚醒せよ、日本文明。

 時代はすでに根本的に変わったのだ。 

 すでに新しい時代は始まっている。



<初出情報>

■bk1書評「覚醒せよ、日本人。覚醒せよ、日本文明。時代はすでに根本的に変わったのだ!」投稿掲載(2010年5月24日)
■amazon書評「覚醒せよ、日本人。覚醒せよ、日本文明。時代はすでに根本的に変わったのだ!」投稿掲載(2010年5月24日)

*再録にあたって字句の一部を修正補正した。





<書評への付記>


「日本文明」は「中華文明」とは根本的に異なる文明である

 「日本文明」が「中華文明」と異なる文明であること明確に主張して話題になったのは、政治学者サミュエル・ハンチントンの大著『文明の衝突』(鈴木主税訳、集英社、1996)であったが、これは必ずしも文明論を専攻するわけではない政治学者が、ときの政権の意向を強くうけて執筆したという性格が強いようなので、内容についてわきにおいておこう。

 ハンチントンよりはるか以前に、日本では京大理学部の梅棹忠夫が『文明の生態史観』(1957)で主張したことである。ユーラシア大陸の東端に位置する島国の日本は、大陸の文明とは異なる文明であることを明瞭に主張している。以来すでに60年を経て、梅棹忠夫の主張が、大陸国家中国と半島国家韓国朝鮮の専門研究者によって、ほぼ完全に裏書されるに至ったといっていいだろう。

 古田博司による本書は、東アジア研究35年の末に生まれたものである。日本文明は、中華文明とは根本的に異なるものである、と。

 ただし、本書は大上段に振りかぶった議論はいっさい行わず、エッセー体で全編貫いている。

 「上から目線の啓蒙」はまさに「モダン」時代の遺物であり、「ポストモダン」時代においては、上から教えを垂れるのではなく、なによりも説得しなくては話が通じないので、自ずから「ですます調」になるということなのだ。

 参考のために、目次を紹介しておこう。

第1章 日本のレアリズム
 蔵出し中華文明論
 国風のある風景
 日本文明圏における男女の深淵
第2章 日本文明圏の現在
 廃墟を疾駆する狩猟民
 ニヒルなポストモダン社会の誕生
 中枢から端末へ
第3章 日本文明の再発見
 モダンな時代概念が覆い隠していたもの
 モダンな時代の擬似科学
 甦るティーゼーション文化
第4章 日本文明圏の国際政治学
 ポストモダン時代の東アジア
 日本の反対側からみた中華文明圏
 別亜としての日本文明圏
第5章 近代日本の終焉とその超克
 モダンの清算
 ポストモダン時代の創造的破壊
 神々の夜明け


 いくつか注釈をしておく必要があるだろう。

 「ティーゼーション」とは著者の造語。英語の tease(からかう)からもじって teasation とした。日本語の「茶化す」ともひっかけている。Tea-sation という著者一流のダシャレである。

 日本では、権威をからかって、茶化して、おちょくるのは、古代以来の「もどき」からきたもので、これは著者も引用しているが、国文学者で民俗学者の折口信夫の学説の援用である。

 折口信夫に言及しているのは、著者が慶應出身であることもまったく関係がないだろう。國學院出身で國學院大學教授と慶應義塾大学教授を兼任していた折口信夫は、慶應ではずっと異端者でありつづけたようなので、こうした面への共感もあるのかもしれない。

 「日本の反対側からみた中華文明圏」とは、大清帝国を建設した女真族からみた中華文明のことだ。女真(ジュシェン)族は、遊牧民のモンゴル民族とは異なり、農業も行う狩猟民族であった。

 中国に対しては辛口の発言の多い中国史の碩学・岡田英弘のもともとの研究テーマは、満洲史とモンゴル史であり、世界的な研究成果である『満文老档』(まんぶんとうろう)の翻訳から、古田氏はいろいろな引用を行っている。これらを読むと、いかに中華文明が異なる文明世界であるか、日本とは反対の側から検証されることになる。

 著者は言及していないが、このテーマについては、司馬遼太郎の最後の小説『韃靼疾風録』(だったん・しっぷうろく)にまとめているので、をぜひ読んでみてほしい。明末の時代に日本人が大陸で大活躍する物語である。

 中華文明圏からみれば夷狄(いてき)であった女真も日本もほぼ同時期に、中華文明の中心である北京を攻め落とそうとしたことは歴史的にみて、実に興味深い。豊臣秀吉の二回にわたる野望は、朝鮮半島の外に出ることができなかったが、女真族のヌルハチ(太祖)の孫がついに成功している。

 日本は17世紀はじめに徳川家康が天下をとったのち、朝鮮とは国交を回復し正式な外交関係を結ぶにいたった。17世紀なかばに中国を征服した清とは、中国商船の長崎貿易は許可したが、江戸幕府とは室町幕府とは違って朝貢しなかったので、正式な外交関係はなかった。いわゆる「華夷秩序」のなかに組み込まれるのを拒否したのである。琉球王国は清とは朝貢関係にあった。

 江戸幕府は、明朝の遺臣を政治的亡命者として少なからず受け入れている。


韓国朝鮮の本質を知りたければ古田博司の著作を数冊じっくりと読み込めば、それで必要にして十分だ

 むかし、東京の南阿佐谷に住んでいた頃、JR阿佐ヶ谷駅の近くに「三中堂」という韓国朝鮮関連の専門書店があって、よくそこに通っては、いろいろな本や雑誌や直輸入の Korean Pops の CD を買っていたものである。

 NHKラジオ講座で韓国語を勉強していたからだ。マンションのワンフロアにびっちりと本が詰まったその空間は一種独特なものがあった。「韓流ブーム」のおこるはるかに前、1990年代前半のことである。

 韓国朝鮮関係の本は少なくとも100冊以上は読んでいるが、その専門書店で出会ったのが古田博司の初期の著作2冊であり、この2冊で私の韓国朝鮮理解は飛躍的に深まった。

『ソウルという異郷で』(古田博司、人間の科学社、1988)
『ソウルの儒者たち-韓国人の精神風土-』(古田博司、草風館、1988)




 1988年のソウル・オリンピックに合わせた出版だと思うが、中身は非常に濃く、まさに希釈前の原液のような本である。ある程度の知識がないと、消化不良になる可能性もあるが、現在でもこれらを越える内容の本はないと思う。

 前者は、『悲しみに笑う韓国人』(1986年刊)の改題新版だが、この2冊をじっくり熟読すれば、表層をだけを扱った韓国朝鮮本を読む必用はほとんどないのではないかという感想をもち、いろんな人にすすめてきた。 

 この2冊は再編集されて、『悲しみに笑う韓国人』(古田博司、ちくま文庫、1999)として出版されているが、残念ながら品切れ状態だ。中身がある本は必ずしも売れ行きがいいとはいえないのは淋しい話である。



(追記) 

 『朝鮮民族を読み解く-北と南に共通するもの-』(古田博司、ちくま学芸文庫、2005)は現在でも入手可能である。これはちくま新書を文庫化したもの。それだけ水準が高い内容だということだ。(2010年8月10日)


 著者はこの本の文庫版あとがきで、韓国について書きながら韓国語には一冊も翻訳されず、韓国内で評価されないのは、韓国人が外国人が書くものに期待する内容ではないからだろうと述懐している。逆にいえば、それほど鋭い観察眼に貫かれた著作群であるわけなのだ。 (2010年8月11日 追記)。


 著者は、近年では「アジア主義に訣別した論者」として知られているようだが、もともとは中国史から出発し、韓国朝鮮を研究対象としてきた学者であることを明記しておきたいので、このような話を書いておいた。



 「アジア主義に訣別した論者」としての方向性は、すでに1998年に出版された、『東アジアの思想風景』(岩波書店、1998)において、強く打ち出されている。

 私は簡潔な書評を書いているので、再録しておこう。

世に流布する浅はかな儒教理解は木っ端微塵に粉砕される
サトケン
2002/09/12
評価 ( ★マーク )
★★★★★
本書を読むことで、世に流布する浅はかな儒教理解は木っ端微塵に粉砕されるであろう。
日本が「儒教圏」などとは二度と口にできなくなる。
東アジアの住人である「日中韓」の真の相互理解のために、この1冊はぜひ読んでおきたい必読書だ。

 著者が指摘するように、日本では『論語』の一部だけが取り出されて、人生修養の面だけが強調されてきた儒教だが、そもそも儒教とは人生全般にかかわる儀礼体系であり、とくに葬送儀礼にかんしては精緻な体系が構築されていることは、なぜか一般的に日本人は知らないようである。

 その意味では、日本は、中国や韓国(北朝鮮)とは異なり、儒教圏ではまったくないのである。


「ポストモダン」(後近代)と「プレモダン」(前近代)とは

 「モダン」(近代)とは、一般的につかう「モダン」とは若干ニュアンスを異にする。同語反復的ないいかたになるが、「プレモダン」(前近代)と「ポストモダン」(後近代)に挟まれた時代が「モダン」に該当する。

 「プレモダン」(前近代)とは文字どおり「近代以前」をさすコトバだが、かつては日本では「封建的」という間違った使用法のコトバが多用されてきた。「ポストモダン」というのはもともと思想用語なので、一般にはあまりなじみがないと思うし、ペダンティックな響きがなんだかいやらしい。

 具体的な社会状況にあてはめてみれば、これらのコトバがいかなる状況を指しているのか、おのずから理解されるだろう。あえて単純化してあてはめてみよう。

 ●北朝鮮は、「前近代」そのもの。日本でいえば江戸時代の身分制社会のようなもの。
 ●中国は、まさに「近代」そのもの。日本でいえば1960年からの高度成長期のようなものか。
 ●日本は、すでに「近代は終わっている」ことは実感されるはず。
 ●韓国は、「近代が終わりつつある」ことは「韓流ドラマ」でわかるはず
 
 もちろん、日本については「プレモダン」の要素を遺したまま「ポストモダン」になってしまっていると批判的な浅田彰のような人もいるが、「ポストモダン」は、現象だけみたら「プレモダン」(前近代)と酷似している。しかしながら、「モダン」を通り抜けたわれわれは、「プレモダン」とはイコールではない。

 『日本文明圏の覚醒』の背表紙部分の帯には、「あたらしい過去 よみがえる未来」というコピーが記されているが、このコピーはまさに秀逸である。



「アジア主義との永遠の訣別」とは

 福澤諭吉は、いわゆる悪名高き「脱亜論」を、こういうフレーズで締めくくっている。
 
「悪友を親しむ者は共に悪友を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」

「脱亜論」は、『時事新報』の1885年(明治18年)年3月16日付けの社説である。全文は、http://www.jca.apc.org/kyoukasyo_saiban/datua2.html を参照。

 明治維新にあたって、「五箇条の御誓文」という形でいち早く欧化政策を採用して、「西欧近代化」への道へ舵を切った日本は、アジアで先頭を切って突っ走っていたことは周知のとおりである。だから、日本の動きは、中国でも朝鮮でも目覚めた人たちに与えた影響は絶大なものがあったのだ。

 明治18年当時の日本において、福澤諭吉が上記の所感を述べざるをえなかったのは、彼が中国と朝鮮の改革運動の志士たちとは深い交わりをもっていたからに他ならない。深くコミットしていたがゆえの愛であり、それが成就しなかったことによる絶望の表明と考えるべきなのだ。

 詳しく論じるヒマはないが、西郷隆盛の「征韓論」も、彼の本意は、死を覚悟してでも説得にいくつもりだったことにあり、武力でもって制圧することをいとしていたわけではない。日本も教科書も偏向していたため、こういった基本的な事実がキチンと教えられないままになっていたのは、日本国民だけでなく、近隣諸国にとっても大きな不幸の源になっている。

 「アジア主義」とは、日本の命運はアジアとともにあるという思想のもと、積極的にアジアに関与していった民間主導による一大運動であるが、これも論じていてはキリがない。著名人としては、頭山満、内田良平、杉山茂丸与謝野鉄幹、宮崎滔天(みやざき・とうてん)、犬養毅(いぬかい・つよし)、大川周明・・・と枚挙にいとまがない。

 これもまた「モダン」時代の産物であるとして、古田博司氏は切って捨てる。なぜなら、アジアは同文同種ではないし、「日本文明」は「中華文明」とは根本的に異なるからだ。

 その点において、福澤諭吉の深い絶望と呼応しているように、私には思えるのだ。

 古田博司氏は、中国や韓国とは「サラっと付き合えばよい」という。これにはまったく賛成だ。

 ビジネスパーソンは、あくまでもビジネスライクに付き合えばよいのであり、情緒的にコミットする必用はサラサラない。深く知る必用はあるが、身も心も捧げる必用などまったくない。

 知っていることと、好きであることは別物である。知れば知るほどキライになることもある。要はバランスだということだろう。
 

40歳台以上の世代の人間が、「ポストモダン」時代にいかに生きるかのヒント

 「ポストモダンは、明治以来はじめて我が国が迎える巨大なパラダイムシフトである」と古田博司はいっているが、これは人間の生き方には大きな影響を与える。いまこの時点で何歳であるか、どの世代に属するかによって人間の生き方は大きく左右されてしまうからだ。

 明治維新時点で40歳台以上だった人間が、明治維新後いかなる人生行路をたどったかについては、山口昌男の歴史人類学のシリーズ三部作のひとつ『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995 現在は、岩波現代文庫 2005)を読むことをすすめたい

 時代の流れにうまく乗れた者、乗れなかったが趣味の世界で独自の世界を切り開いた者など、さまざまな生き方が紹介されている。とくに後者のオモテに出てこないネットワークについての著者の共感が全編にあふれている。

 40歳代以上(とくに50歳台)の人間の生きる方向は、30歳台以下の人たちのバックアップをするか、あるいは趣味の世界に逃げ込むか、いずれか2つしかないだろう。

 山口昌男の後期の歴史人類学の大著については、またあらためて紹介したいと思う。「パラダイムシフト」した現在、いまこそ読まれるべき本だからだ(*)。

 私自身、趣味人としての生き方は DNA に組み込まれているので本来は非常に好きなのだが、いまはまだそんなことをいってられないというだけの話である。

 私の場合は「モダン」と「ポストモダン」の2つの世界だけでなく、「仕事」と「趣味」の世界に引き裂かれている(?)ということになる。


(*) このブログ記事執筆から約3年後、「いまこそ読まれるべき 『「敗者」の精神史』(山口昌男、岩波書店、1995)-文化人類学者・山口昌男氏の死を悼む」(2013年3月10日) というブログ記事を執筆した。ぜひご参照いただけると幸いである。 (2014年2月21日 記す)



PS 読みやすくするために改行を増やした。リンクもあたらしいものに更新した。あらたに写真を2枚追加した。本文は誤字脱字を修正した以外は、手を入れていない。  (2014年2月21日 記す)。 

PS2 梅棹忠夫に国立民族学博物館のスタッフを総動員して作成した『日本文明77の鍵』(文春新書、2005)という本がある。この本はもともと外国人向けの日本案内として製作されたものを日本語化したもの。ハンチントンが『文明の衝突』(鈴木主税訳、集英社、2005)で「日本文明」は「中国文明」とは異なる独自の文明であると主張する以前から、梅棹忠夫は「日本文明」というタームを使用している。 (2014年3月10日 記す)。



PS3 そのものズバリのタイトルで 『日本文明』(論創社、2013)というフランスの本が日本で翻訳出版されている。 原題は La civilisation japonaise 文字通り「日本文明」である。著者はロシア生まれの日本学者セルゲイ・エリセーエフの息子たちヴァディムとダニエル。エリセーエフ家にとって「日本学」は「家学」となったのだろうか。 (2014年3月10日 記す)。





<ブログ内関連記事>

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」

書評 『「紙の本」はかく語りき』(古田博司、ちくま文庫、2013)-すでに「近代」が終わった時代に生きるわれわれは「近代」の遺産をどう活用するべきか

書評 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(古田博司、WAC、2014)-フツーの日本人が感じている「実感」を韓国研究40年の著者が明快に裏付ける


モダン(=近代)とは何だったのか?

書評 『近代の呪い』(渡辺京二、平凡社新書、2013)-「近代」をそれがもたらしたコスト(代償)とベネフィット(便益)の両面から考える

日本が「近代化」に邁進した明治時代初期、アメリカで教育を受けた元祖「帰国子女」たちが日本帰国後に体験した苦悩と苦闘-津田梅子と大山捨松について

書評 『ナショナリズム-名著でたどる日本思想入門-』(浅羽通明、ちくま文庫、2013 新書版初版 2004)-バランスのとれた「日本ナショナリズム」入門

『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし!

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ


「日本文明」の特筆

書評 『海洋国家日本の構想』(高坂正堯、中公クラシックス、2008)
・・「日本文明」成立の根拠は、地政学的に見た日本の特性にあること

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!

書評 『「東洋的専制主義」論の今日性-還ってきたウィットフォーゲル-』(湯浅赳男、新評論、2007)-奇しくも同じ1957年に梅棹忠夫とほぼ同じ結論に達したウィットフォーゲルの理論が重要だ

書評 『モンゴル帝国と長いその後(興亡の世界史09)』(杉山正明、講談社、2008)-海洋文明国家・日本の独自性が「間接的に」あきらかに

『伊勢物語』を21世紀に読む意味
・・「草食系男子」が日本においては劣化でも、突然変異でもないことを、私なりに論じている。明治維新以降の「モダン」が終焉しただけでなく、戦国時代以降の「500年単位の歴史」もほぼ同じ時期に終焉したことがきわめて大きな変化を社会全体に及ぼしているのだ

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・日本が「儒教国」ではないことを、文化人類学者の泉靖一の発言を紹介して説明している。また、古田博司の著書について触れている


韓国・朝鮮関連

書評 『中国に立ち向かう日本、つき従う韓国』(鈴置高史、日本経済新聞出版社、2013)-「離米従中」する韓国という認識を日本国民は一日も早くもたねばならない

書評 『悪韓論』(室谷克実、新潮新書、2013)-この本を読んでから韓国について語るべし!
・・その他、多数あるが上記2本の記事からリンク先をたどっていただきたい


日本がモデルとすべきは「小国」か?

書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?

「小国」スイスは「小国」日本のモデルとなりうるか?-スイスについて考えるために
・・強い通貨スイス・フランを死守する「欧州の島国スイス」。イスラエルと同様、孤立を恐れない強い精神力!

書評 『クオリティ国家という戦略-これが日本の生きる道-』(大前研一、小学館、2013)-スイスやシンガポール、北欧諸国といった「質の高い小国」に次の国家モデルを設定せよ!

書評 『大英帝国衰亡史』(中西輝政、PHP文庫、2004 初版単行本 1997)
・・欧州共通通貨ユーロには断固として加盟しない英国の島国的孤立力は捨てたものじゃない。

(2014年2月21日 情報追加と整理情報 2014年8月23日 情報追加)



 
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2009年11月30日月曜日

書評 『怪奇映画天国アジア』(四方田犬彦、白水社、2009)-タイのあれこれ 番外編-



■怪奇映画をつうじてみた東南アジア文化論-とくにタイとインドネシアを中心に■

 アジアは怪奇映画の天国である。

 東アジアの日本と韓国を中心に製作されたホラー映画は、もともとその土壌のある東南アジア、とくにインドネシアとタイでは、従来から中心的存在であった怪奇映画にも大きく影響し、アジアをしてハリウッドに対抗可能な一大怪奇映画世界の中心としているのである。

 「なぜ幽霊は女性であり、弱者であり、犠牲者なのか」という問いが本書を一貫している。これは、ハリウッドの怪奇映画と対比したときに明確になる、アジア怪奇映画のきわだった特徴である。

  「他者」とは何か、他者はつねに外部から侵入してくる存在であるのが米国であるのに対し、アジア世界では他者は内側に存在する。この意味において、米国とアジアは根本的に異なる世界なのだ。

 また、中国という共産主義社会、インドネシアとマレーシアを除いたイスラーム世界では怪奇映画は製作されない、という指摘も重要だ。一元的な世界秩序に支配される世界では、怪異現象は秩序転覆的な存在となるから断固排除されなければならないからだ。

 こう捉えることにより、インドネシアやマレーシアといった、イスラーム世界でありながら多神教的なバックグラウンドをもつ世界の意味も浮き彫りになる。

 本書は、きわめてすぐれた「東南アジア文化論」になっている。 個別には、インドネシア現代文化論であり、タイ現代文化論である。とりわけタイにかんしては、怪奇映画を切り口にしたタイ現代社会論として、きわめて秀逸なものであるといってよい。

 なぜなら、映画とは大衆の無意識の欲望を、商業ベースにおいて映像化したものだからだ。映画は社会の変化を写す鏡になっている。

 タイは、「気候は思いきり暑く、料理は思いきり辛く」、ここまでは常識だ。「そして映画は思いきり怖く」(p.81)と続くと、読者のタイ理解にあらたな地平が開かれるのを覚えるはずだ。

 私も タイの怪奇映画 『ナンナーク』 はDVDで見たが、著者の分析は大いに目を開かされた。1997年の「アジア金融危機」以後の政治経済社会状況の変化とパラレルに、タイでは映画界のニューウェイブが登場したという指摘には、大いに納得させられた。

 怪奇映画をつうじて、タイ文化そのもの、タイ人の心性、タイ人の思考パターンを知ることができるだけでなく、1997年以降の社会の変化についても、文化の側面から跡づけることができるからだ。 

 すでに中進国となったタイは、すでにノスタルジーが映画にも現れているという。タイ社会は文化的には、すでにポストモダン状況にあるわけだ。

 何よりも本書は、日本では紹介されたことのないようなローカルな怪奇映画の要約が大半を占めるので、たんねんに読むとかなり骨が折れる。あくまでも個々の映画作品の内容を踏まえた上での論考を目指したものだからだ。もちろん、興味深い映画の要約を読むと、何とか入手して見てみたい、という欲望もかき立てられる。

 しかし、よくもまあ、ここまで東南アジアの怪奇映画を収集し、実際に見て、内容まで突っ込んで論じているものだと感心する次第である。

 東南アジアのホラー映画ガイドとしても、映画史のエリア・スタディとしても、東南アジア大衆社会論としても、いろんな読み方の可能な、内容充実した一冊になっている。

 索引も、映画タイトルを原語つきで完備されているので、レファレンスとして一冊もっていてもいいかもしれない。
  




■bk1書評「怪奇映画をつうじてみた東南アジア文化論-とくにタイとインドネシアを中心に-」(2009年11月23日投稿掲載)

■amazon書評「怪奇映画をつうじてみた東南アジア文化論-とくにタイとインドネシアを中心に-」(2009年11月23日投稿掲載)



<書評への追記: タイのあれこれ番外編>

 「気候は思いきり暑く、料理は思いきり辛く、そして映画は思いきり怖く」(p.81)というフレーズがいいですね。さすが韓国通の四方田犬彦、このフレーズから「気候は思いきり暑く」を除けば、そっくりそのまま韓国にあてはまります。いただきます(笑)。

 英語だと気候が暑いのも、料理が辛いのもともにホット(hot)、映画が怖いのは cool とはいわないと思いますが、日本だと花火と怪談は夏の定番ですね。一年中暑いタイやインドネシアでは、怖い映画は一年中、納涼効果があるのでしょうか?

 暑い気候には怖い映画、これはもしかしたら仮説の域を超えた公式となりうるかも・・・てなことはないか。

 この本は、とくにインドネシアとタイの怪奇映画を扱っていますが、私はさほどインドネシアに精通しているわけではないので、タイについてのみ背景知識について触れておきましょう。

 怪奇映画の背景にあるのは、何といってもタイ人のピー(phii)信仰です。

 ピーは、精霊、霊、ゴースト、妖怪、死霊、悪霊・・とさまざまな形態をもつが、いずれにせよ、いたるところに遍在していると、ほぼすべてのタイ人は思っている。この世とあの世は連続してつながっているので、日本人が使う"草葉の陰から"見ているという表現より、まさに英語でいう anytime, anywhere なんですね。

 ピーについて知らないと、タイ人の心性(メンタリティ)を知るのは不可能といってよいでしょう。

 タイ人は、大多数が上座仏教徒ですが、タイ人にとっては仏教以前の存在であるピー(霊)の世界は、より基層的なレベルの信仰といってよいでしょう。これをさして、アニミズム(animism)という人もいますが、これはキリスト教の立場からみた差別的表現なので、私は使用しません。

 華人世界でも、悪霊退治は重要なテーマで、シンガポールには職業的なゴースト・バスターがいますが、タイでは、伝統的にお坊さんがこの役目を果たしてきました。

 ただし、バンコクのような近代的大都市では、どうなのでしょうか。タイではいたるところにあるピーの祠も、バンコクでは少ないような気がします。バンコクでは土着のピーの祠よりも、外来の神である四面体のブラフマーの祠のほうが多いようです。しかも最近は中国系の大乗仏教の観音が人気のようで、あちこちで目にするようになっています。

 以下、代表的なタイの怪奇映画(ホラー映画)について、YouTube で trailer 視聴可能なもののみリストアップしておきましょう。

 この予告編を見るだけでも怖くなってきますねー。タイ人は、スプラッター映画のような血がドバドバでるのが好きだから。日本人とは遺体に対する感覚が大幅に違います。いまでも、タイ字紙の一面には、血だらけの遺体写真がデカデカとでることがあります。ひとことでいってしまえば、見慣れているのですね。

 いずれも、1997年のアジア金融危機以後にでてきた、タイのニューウェイブ映画監督の作品です。同じくIMF管理下におかれた韓国と同じ状況だというのが興味深いですね。それだけ、1997年は政治経済だけではなく、文化面でも一線を画したメルクマールとなっているのです。


■タイの主要な「怪奇映画」の紹介

『ナン・ナーク』(Nang Nak)1999年製作公開 製作・監督:ノンスィー・ニミブット 

 19世紀の実話に基づいた、タイの定番の怪奇映画。この作品は、欧米社会でも受け入れられるように製作されている、と四方田犬彦は解説している。一夫一妻という設定に、ノスタルジックな美しい映像。怪奇現象ぬきでも、色彩感覚にすぐれた美しい映画になっています。

◆『フェート(双生児)』(英語タイトル:Alone) 2007年製作 監督:パンジョン・ピサヤタナクーン&パークプム・ウォンプム 主演:マーシャー・ワッタニパット 

 四方田犬彦は、本書のなかでマルシャと表記しているが、マーシャーの誤り。固有名詞の発音はたしかに難しい。ここらへんは片目をつぶりましょう。マーシャーについては、「タイのあれこれ(11)歌でつづるタイ」を参照。

 さすが、シャム双生児はシャム(タイ)なわけですね。夫の転勤先が日本ではなく韓国という設定もおもしろい。この映画は未見なので、ぜひDVD化してほしいもの。調べてみたところ、タイを除いたらまだスペイン語圏でしか発売されていないようです。


◆『心霊写真』(英語タイトル:Shutter) 2004年製作 監督:パンジョン・ピサヤタナクーン&パークプム・ウォンプム 

 日本でムエタイ映画の『マッハ』(オリジナル・タイトル:オンバク)が公開されたとき、劇場でこの『心霊写真』の予告編をやってましたが、えらく怖そうで見に行きませんでしたが・・・

 四方田犬彦はネットでも、ほら吹きだとかいろいろ叩かれていますが、たしかにこの本でも少なくともタイにかんする記述には間違いも散見されます。

 とはいえ、日本語では類書がまったくないし(・・英語には研究書やガイドブックがあります)、先駆者としての役割は十分に果たしたといえるでしょう。

 出版社も、あまり売れそうにもない本の出版をよく決断したなあ、とおも思います。間違いは第2刷で訂正すればよいといっても、果たして増刷はだいぶ先の話ではないでしょうか。


PS 読みやすくするために改行を増やし、小見出しを加えた。写真も大判に変更した。 (2014年1月31日 記す) 




<ブログ内関連記事>

タイのあれこれ (23) DVDで視聴可能なタイの映画-① ムエタイもの、② バイオレンス・アクションもの

タイのあれこれ (24) DVDで視聴可能なタイの映画-③ 歴史もの

タイのあれこれ (25) DVDで視聴可能なタイの映画 ④人生もの=恋愛もの

タイのあれこれ (19) カトゥーイ(=トランスジェンダー)の存在感
・・カトゥーイものの映画2本を紹介


書評 『HELL <地獄の歩き方> タイランド編』 (都築響一、洋泉社、2010)-極彩色によるタイの「地獄庭園」めぐり写真集
・・タイ人のスプラッター^好きについて

「タイのあれこれ」 全26回+番外編 (随時増補中)

(2014年1月31日 情報追加)



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