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2025年2月17日月曜日

鈴木大拙はエマソンの愛読者であった ― 日本の仏教者たちは霊性(スピリチュアリティ)の立場に立つエマソンの『自己信頼』にインスパイアされてきた

(若き日に米国で暮らしていた大拙はエマソンの墓の前で座禅している) 


鈴木大拙というと「禅の大家」というイメージが流布している。これが一般人の認識であろう。

さらに、世界に禅仏教を広めた功績を知っている人も少なくないかもしれない。英語圏を中心に D.T. Suzuki 名義で出版された本は、現在なお新刊書として簡単に入手可能だ。

D.T. Suzuki の D が大拙であることは容易に推測できるだろう。では英語風のミドルネームの T はなにか? それは、本名の貞太郎(ていたろう)の略であり、言うまでもなくクリスチャンネームではない。現在でも華人が英語圏で「イングリッシュ・ネーム」をつかいたがるのと同様だ。

そんな大拙は、若き日にエマソンの「論文集」(エッセイズ)を読んで感激したと回想している。かの有名な『自己信頼』は「エッセイズ」に収録されている。

大拙自身の文章を引用しておこう。出典は「明治の精神と自由」(1947年)。『新編 東洋的な見方』(上田閑照編、岩波文庫、1997)に収録されている(読みやすくするために漢字は適宜かなに直し行替えを行った。本文にない注釈は(=●●)として示してある)


語学の勉強からどんな新鮮なものを取り得たかといま考えて見ると、「自由」ということであったらしい。(・・中略・・)
そのようなところから、セルフ・ヘルプの精神が強く、自由へのあこがれが深くなって行ったのは自然であろう。(・・中略・・)
その後、エマスンの論文集を何かの機会で読んだ。これがまた自分をして新たな思想に赴かしめた。そのなかに次のような言葉があったように今うろ覚えに覚えている。
「自分の心に動くことを表現するに躊躇するな。大人物だといわれている人でも、自分の心の中に在るもの以上に、何ものをも持っているのではない。今ここに一条の光明が射し込んで来て、自分の頭の上に落ちたとせよ。いかに微ほのかでも、この光の証人は自分だけのほかに誰もないのだ。これを天下に宣言するに誰を憚ることもいらぬ」と、このようなことがあったように覚えている。
自分はこれを読んだ時、深く感動した。これがセルフ・レライアンス(=自己信頼)だ、これが本当の自由だ、これが本当の独立不羈なるものだ。小さいといって自ら卑しめるに及ばぬ。小さいは小さいながらに、その持っているすべてを表現すればよいのだ、これがシンセリティ(=誠実)だと、こういう風に自分は感激したのだ。(・・中略・・)
エマスンの時代は、米国でも思想転換をやる時代であった。四囲の事情はもとより日本とは違っていた。が、新しいものをあこがれる気風は米国にもあった。ヨーロッパを通って入ってきた東洋思想すなわちインド思想は、ニュー・イングランドの思想家を動かした。そのスポークスマンになった一人はエマスンであった。日本の青年が彼を読んで、なんとなく共鳴せざるをえないのは、そのなかに東洋的なものがあるからではなかろうか。すなわち東洋的なものが、米国のはつらつとして若々しい人々の頭を濾過して来ると、その表現形式がまた清新の気がしてくるのである。(・・後略・・)


若き日に米国で暮らしていた大拙は、1900年頃のものだが、東海岸のコンコードにあるエマソンの墓の前で座禅している(上掲の写真)。この写真は『思い出の小箱からー鈴木大拙のこと』(岡村美穂子/上田閑照、燈影社、1997)に口絵として挿入されている。

大拙は、英文著書でもエマソンやその弟子のソローを引き合いに出して論じている。アメリカと東洋思想の接点がエマソンいあるからだ。

禅仏教の大家である大拙にとって、エマソンの『自己信頼』が根底にあって支えつづけたことが見て取れる。「自力」イメージの強い禅仏教だからだろう、そんな感想をもつかもしれない。

というのも、禅仏教とは異なるが、おなじく大乗仏教で絶対肯定を説く『法華経』の信者にも、エマソンは大きな影響をあたえているからだ。

たとえば、創価学会を大規模組織に育て上げた池田大作は、『新編 若き日の読書』(第三文明社、2023)に収録された「民衆に愛された哲人 『エマソン論文集』」で、戦後になってからであるが、エマソンの『自己信頼』が支えになったことを回想的に記している。池田氏は、「エマソンは、しっかり読みなさい」と恩師の戸田城聖から勧められたと書いている。



「民衆に愛された哲人 『エマソン論文集』」の小見出しを抜き出してみよう。池田氏がエマソンになにを感じていたかがわかることだろう。


「変動する時代」の空気を吸って
「実践とはただの形式ではない」
ハーバード大学での講演の波紋
人間主義を宣した「自己信頼」の哲学


この文章の末尾は、「民衆に生きる人は強い。民衆に愛される人は永遠である。ダイヤモンドのごときエマソンの生涯は、私たちに限りない勇気をあたえてくれる」と結んでいる。

このように見ていくと、戦前の明治時代前半の鈴木大拙や、戦後になってからの池田大作がそうであったように、「自力」の禅仏教や、「絶対肯定」を説く『法華経』信者が、「自己信頼」(セルフ・リライアンス)を説くエマソンと親和性が高いことがわかることだろう。



■鈴木大拙は浄土真宗への目線も有していた

ところが、鈴木大拙は禅仏教に限らず、浄土真宗への目線も有していた世界的仏教学者というのが真相に近い。この事実を押さえておくと、「他力」を説く浄土真宗であっても、エマソンの世界はけっして無縁ではないと言えるのではないだろうか。

大拙は、米国で11年間過ごしたのち、日本に帰国後は学習院で英語を教えていたが、その後に大谷大学に招聘され教鞭をとっていた。

大谷大学は、浄土真宗の東本願寺系統の教育機関である。大拙は、その環境で浄土真宗にも親しく接していたわけだ。戦後になってから、90歳になってからの最晩年の大仕事として、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人による『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)の英語訳を完成している。

もともと、大拙の母親が浄土真宗の「秘事法門」の信者で、大拙自身も少年時代にそれに触れさせられていたことも、無意識レベルで影響をあたえているのかもしれない。




大拙の主著でもっとも知られており、実際に読まれているのは『日本的霊性』であろう。鎌倉時代に生まれた新仏教こそ、日本的霊性(Japanese spirituality)を生み出したのでありう、その重要な要素が禅仏教と浄土真宗である、というのがその骨子である。


(大拙の英文著書から。禅画の仙厓と浄土真宗の光明思想)


大拙は、浄土真宗を教義の側面ではなく、南無阿弥陀仏の名号を唱えることで浄土真宗を生きた妙好人(みょうこうにん)を取り上げて論じている。これは、学習院時代の生徒であった民藝運動の柳宗悦と共通する。柳宗悦には『南無阿弥陀仏』という著書もある。前近代の工芸職人に浄土真宗の信者が多いことに注意を向けている。

「自力」と「他力」と対比されがちな禅と浄土教だが、大乗仏教であることは共通している。自力と他力が融合してこそ、日本的霊性は完成するのであり、大乗仏教も完成すると考えるべきなのであろう。

禅仏教における座禅という自発的に行う瞑想も、大いなる存在の覚醒を求めるものであり、浄土教における念仏という行為もまた、生活習慣化されるまでは自発性をともなうものだ。


■宗教から霊性(スピリチュアリティ)の時代こそエマソンが読まれるべき

キリスト教の牧師から講演家へと転身したのがエマソンである。形式主義に堕した宗教ではなく、霊性(スピリチュアリティ)の観点から、イエスを親しい存在と感じていたエマソンである。

そんなエマソンが、明治時代前半において中村敬宇や内村鑑三といったキリスト者、トルストイと同様洗礼を受けたものの決別した徳富蘇峰・徳冨蘆花の兄弟だけでなく、禅仏教の鈴木大拙、そして戦後には池田大作など、キリスト教以外の仏教者にも影響をあたえていることは、けっして不思議ではないのである。

米国の思想史家ヴァン・ミーター エイムズ(Van Meter Ames)は、『禅とアメリカ思想』(中田祐二訳、欧史社、1995)という著書で、エマソンを「アメリカの菩薩」としていることも紹介しておこう。

エマソンと仏教、このテーマはさらに深掘りして考えるべきである。



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・・ジャーナリストの杉村楚人冠の旧宅である記念館の書庫にあった旧蔵書に鈴木大拙の著作が英文のものも含めて多数架蔵されている。我孫子と柳宗悦、学習院で生徒だった柳宗悦と英語教師の鈴木大拙との師弟関係。鈴木大拙は学習院で英語教師として柳宗悦の先生であったことを想起すべきだろう。白樺派の面々はみな学習院出身者であった。さまざまな縁で、つながれた人たちが集まっていたわけだ。 


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2023年12月17日日曜日

書評『ブッダという男 ー 初期仏典を読み解く』(清水俊史、ちくま新書、2023)ー 「歴史的ブッダ」は2500年前の古代インドに出現した「精神の革命家」であった




12月にでたばかりのちくま新書の最新刊だが、SNS の X(旧 twitter)で話題になっていたので読むことにしたのだ。

話題になっているのは、「あとがき」に書かれている内容についてだ。

若手の仏教研究者である著者に対する執拗なアカハラ(=アカデミック・ハラスメント)と、専門書の出版に際して著者と出版社に対して行われた「出版妨害事件」の実態が、実名入りで書かれていることにかんしてである。

本書は、この精神的に苦難の状態から立ち直り、研究を再開したのちに書かれたものだという。

「仏教者」としてのあり方、「仏教研究者」としてのあり方を身を以て示した著者による、一般向けの初期仏教入門書である。



■歴史的存在としてのブッダは、2500年前のインドにおいて「精神の革命家」であった

本書の目的は、初期仏教経典を徹底的に読み込むことによって、2500年前の古代インドに実在した、歴史的存在としてのブッダを虚心坦懐に描き出すことにある。

仏教学者の願望や想像が反映したに過ぎない「神話的なブッダ像」ではなく、「ブッダという男」が、なにを考え、なにを説いていたかについて、その先駆者性、革新性について探求したものだ。

「見たいものを見たい、聞きたいことを聞きたい」というのは、人間に備わった性質だ。学者や研究者もまた、その例外ではない。もちろん、著者自身もよく自覚しているはずだ。

認知バイアスから逃れることは容易なことではないのである。口当たりのいいこと、耳さわりのいいことを述べれば、読者は喜ぶ。読者サービスが過ぎれば、実像から大きく離れていく。

著者のアプローチは、「人間ブッダ」を描くことにはない。描き出されたのは、あくまでも「思想家としてのブッダ」、「思想の実践者としてのブッダ」である。

生まれではなく、現世における行為(カルマ)の重要性を説いたブッダだが、そのブッダの思想こそ当時のインド世界でインパクトをもったのであり、感激して受け入れた人びとが存在したのだ。

経典から神話的要素を除けば歴史が見えてくるというものでもない。著者は、こういう近代以降の研究姿勢にも批判的である。宗教学研究の参照系として、キリスト教の原典研究への目配りもいい。その貪欲な姿勢は賞賛すべきである。

もちろん言うまでもなく、著者の立場は原理主義の真逆である。初期仏典に書かれていることじたい、それぞれ矛盾に満ちている。

著者の態度は、あくまでも研究者として、現代人のもつ認知バイアスをできるだけミニマムにすべく、2500年前の古代インドをリアルタイムで理解しようという知的なアプローチである。

現代人にとってのブッダではなく、その当時に生きていた人にとって、ブッダがどう写っていたかが重要なのだ。間違ってはいけないのだ。



■ジャイナ教との共通性と相違性から仏教の特性を明らかにする

インドの支配者の宗教で祭祀を重視していたバラモン教だが、そのバラモン教のあらたな展開である「ウパニシャッド」が誘発した、多彩な「自由思想」の流れのひとつとして仏教を見る視点も有益だ。

なかでも、おなじ「沙門」宗教としての仏教とジャイナ教の共通性と相違性が興味深い。

現在はインド独立後にアンベードガル博士の尽力によって復活しているが、インドではいったん消滅した仏教。これに対して、ほそぼそながらも現在までインドに生き残りつづけたジャイナ教。

仏教とはジャイナ教は、インドの宗教世界では当たり前の「輪廻転生」(サンサーラ)を前提にしている点が共通している。

ただし違いもある。輪廻転生からの脱出にかんする方法論の違いである。苦行を重視するジャイナ教に対して、煩悩の滅却を重視する仏教という違いも浮かび上がってくる。ブッダその人は苦行を否定している。

仏教では、つねに変化していく「無常」こそこの世の実体である以上、確固とした自己など存在しない。「無我」である。それゆえに、人間は、過去世から現世を経て来世へと、さまざまな形態をとりながら「輪廻転生」を繰り返していく。過去の業が現世に、現世で積んだ徳が来世で働く。

仏教の最終目的は、解脱(げだつ)、すなわち「輪廻からの脱出」にある。そのためにどうしたらいいか、そこにこそ、仏教の創始者であるブッダが考えたことの革新性があるというわけだ。

もちろん、出家者と在家者の違いはある。基本的にブッダの教えは出家者に対するものであり、求められものも出家者と在家者とでは大きく違う。とはいえ、戒律を守る出家者とて、解脱などほぼムリな話であろう。現代人から見れば、そう思わざるをえない。

いずれにせよ、仏教が目指すべき最終目的地は「輪廻からの脱出」にある。この点こそ仏教の「初期設定」であり、当時の古代インド社会では革命的な意味とインパクトがあったのである。



■「仏教研究者」としての立ち位置とその成果

「仏教者として」淡々と語る、著者の姿勢には大いに共感を感じるものがある。

特定の宗派の立場に立った護教論ではなく、学問上の師弟関係を絶対化するものでもなく、あくまでも独立した「仏教研究者」としての姿勢である*。

*ただし、著者は浄土宗僧侶であることを X(旧twitter)上では表明している。(2024年3月2日に追記)


学界のビッグネームもふくめて、先行研究に対しては是々非々の態度で臨み、先行研究を乗り越えることに研究者としての使命をおく。批判なくして発展なし。まさに王道である。

その結果あきらかにされたブッダの姿は、著者もいうように、現代人からみたら、正直なところ、なにがすごいのかピントこないものもある。だからいったいなんなのだ、と。

とはいえ、2500年前の古代インドにおいては革命的な意味をもっていたのである。そのことじたいに意味があるのだ。現代人にとっての意味とは別ものとして、脇に置いておかなくてはならない。

こういった「初期仏教」についての理解は、ある程度まで「上座仏教」(=テーラヴァーダ)について知っていれば、とくに奇異な感じは受けない

タイやミャンマーなど東南アジアやスリランカを中心に実践されている上座仏教は、初期仏教そのものではないが、大乗仏教しか知らない人には見えていないものがそこにある。

初期仏教は仏教のデフォルト、つまり「初期設定」である。その後の仏教の展開は二次創作的なバリエーションだから、この初期設定についてただしく理解しておくことが大前提になるのだ。18世紀前半の大坂が生み出した天才学者、富永仲基が打ち出した「加上説」を想起すべきであろう。

さらにいえば、大乗仏教である「日本仏教」においては、明治時代に入るまで仏陀釈尊、すなわちブッダその人は、かならずしも重視されてこなかった。親鸞なり日蓮なり、あくまでもその宗派の「祖師」が意味をもつ。その意味では、ブッダの真の姿が明らかになったとて、さほど影響はないのではないか。

そんな感想をもつわたしだが、現代人の願望の現れに過ぎない「平和主義者としてのブッダ」・「業(ごう)と輪廻を否定したブッダ」・「階級差別を否定したブッダ」・「男女平等を主張したブッダ」をたたみかけるように、バッサバッサとなで切りにしていく姿勢が小気味よい。しかも、きわめて説得力に富むやり方だから、後味はけっして悪くない。

おそらくこの本は、大いに読まれることになるだろう。アカハラ問題や出版妨害事件から関心をもった読者も、研究者としての正統的なアプローチによる本書を読んで、その内容には大いに納得することであろう。本文の背景説明も兼ねた、22ページにもおよぶ充実した「参考文献」も読みでがある。

まさに「天網恢々」(てんもうかいかい)である。「天網恢々疎にして漏らさず」である。いくら出版妨害をしようとも、アカハラを加えようとも、見ている者はちゃんと見ている。天はけっして見放さない。

現世で恵まれることがあろうがなかろうが、著者には今後も大いに研究を推進して徳を積んでいただきたい。研究者としての使命をまっとうしていただきたい。そう願っている。


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目 次 
はじめに
第1部 ブッダを知る方法
 第1章 ブッダとは何者だったのか
 第2章 初期仏典をどう読むか
第2部 ブッダを疑う
 第3章 ブッダは平和主義者だったのか
 第4章 ブッダは業と輪廻を否定したのか
 第5章 ブッダは階級差別を否定したのか 
 第6章 ブッダは男女平等を主張したのか
 第7章 ブッダという男をどう見るか
第3部 ブッダの先駆性
 第8章 仏教誕生の思想背景
 第9章 六師外道とブッダ
 第10章 ブッダの宇宙
 第11章 無我の発見
 第12章 縁起の発見
 終章 ブッダという男
参考文献 ─ より深く学ぶために
あとがき


著者プロフィール
清水俊史(しみず・としふみ)
2013年、佛教大学大学院博士課程修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員PD、佛教大学総合研究所特別研究員などをつとめる。浄土宗僧侶。著書に『阿毘達磨仏教における業論の研究 ― 説一切有部と上座部を中心に』『上座部仏教における聖典論の研究』(ともに大蔵出版)がある。(出版社サイトより)


<関連サイト>

・・「(・・・前略・・・)2017年から始まる馬場先生の「研究不正の言いがかり」によって、私は筆舌に尽くしがたい屈辱を味わい、研究者として大成する未来を破壊されました。
私が『上座部仏教における聖典論の研究』の刊行に際し馬場先生に送ったメールへの返信で、馬場先生が「確かに三年前は日本学術振興会に訴えるつもりでしたが、その後、清水さんが公募に落ちて無職になったと耳にして、そんな気持ちは消え失せました」と自ら告白してしまった通り、そもそも「研究不正の正当な告発」を目的としていなかったことは明白です。
馬場先生におかれましては、仏教者らしく自らの過ちを懺悔滅罪され、当方の研究に文句があるのならば正々堂々と論文にて反論されますことを要請します。
本案件が多くの方に共有され、よりよい仏教学の発展につながることを祈念いたします。清水俊史」

(2024年3月1日 項目新設)


<ブログ内関連記事>








・・不可食賎民のあいだで仏教を再興したアンベードガル博士の衣鉢を継いだ日本人僧侶の生き様

・・18世紀前半の大坂が生み出した天才学者・富永仲基もその一人

・・輪廻転生には3種類ある。「1. 伝統社会で生まれた一族内での生まれ変わり/2. インドで生まれた輪廻転生(サンサーラ)の思想/3. 近代西欧で生まれたリーインカーネーションの思想」

(2024年1月15日 情報追加)


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2011年1月24日月曜日

書評『必生(ひっせい) 闘う仏教』(佐々井秀嶺、集英社新書、2010)ー インド仏教復興の日本人指導者の生き様を見よ!




「煩悩は生きる力」と断言する、インド仏教復興の日本人指導者の生き様を見よ!

 インド仏教の指導者・佐々井秀嶺師が自ら赤裸々までに語り尽くした、己の生き様とインドの現実、そして生涯を賭している「闘う仏教」についての、熱いエネルギーの充満した一冊である。

 激しい情の人、行動の人。直情径行の人と言っても言い過ぎではない佐々井師は、若い頃は深い悩みにのたうちまわり、自殺未遂を繰り返しながらも、出家して求道の道を遍歴し、タイを経てついにはインド中部のナグプールにたどりつく。

 そこは、インド仏教復興の指導者アンベードカル博士にかかわる故地であった。

 本人は、瞑想や夢のなかでのお告げに導かれた結果だといっているが、これはまさに自らの内心の声に従い、きわめて強い内発的動機付けによったものであろう。
 
 自らの大いなる欲望は、すなわちインド仏教復興の使命として受取り、日々エネルギッシュに邁進する人生。これはまさに菩薩行(ぼさつぎょう)そのものというべきであろう。

 非暴力主義を貫き、インドに根強く残る不義不正と「闘う仏教」。これこそ、佐々井師の生き様そのものである。「慈悲に基づく大きな怒り」、これまた奇しくもダライラマ14世も同じことを言っている。社会正義を忘れた日本の仏教への大きなアンチテーゼといわねばなるまい。

 佐々井師の「闘う仏教」をとおして見えてくるのは、ここ数年マスコミでよく話題になる中流階級を中心とした、経済発展著しいインドという明るい側面ではなく、カーストの最下層で苦しむ一般民衆の現実である。
 仏教復興運動を快く思わないヒンドゥー至上主義者による、度重なる佐々井師の暗殺未遂など、インド社会の暗く、どす黒い現実が見えてくる。読者もまた、こうしたインドの現実から眼をそらすべきではないだろう。

 現在74歳の佐々井師はすでにインド国籍を取得しているが、昨年2009年には、日本を出てから44年ぶりにはじめて一時帰国した。その際の、率直な感想が第4章に語られているので、これもまたたいへん興味深い内容だ。

 「煩悩は生きる力」と断言する真の宗教者のコトバを、ココロとカラダで感得したい。「苦悩を離れて人生無し、悩み無き人生は、無」であると。ホンモノの宗教家とはどういう存在か、あくまでも文字をつうじた接触でしかないが、その気迫、その覚悟を、切れば血がほとばしるようなコトバをつうじて感じることができるのは幸せなことである。
 ぜひ一読を薦めたい。


<初出情報>

■bk1書評「「煩悩は生きる力」と断言する、インド仏教復興の日本人指導者の生き様を見よ!」投稿掲載(2010年10月16日)
■amazon書評「「煩悩は生きる力」と断言する、インド仏教復興の日本人指導者の生き様を見よ!」投稿掲載(2010年10月16日)




目 次

第1章 仏教との出会い
第2章 大楽金剛
 ナグプール
 アンベードカル
 不可触民の現実
 断食断水15日
 夜行列車の窓に
 大欲得清浄
 脱皮
 煩悩は生きる力
第3章 闘う仏教
 闘う仏教とは
 インド国籍を取る
 大菩提寺管理権奪還闘争
 アヨーディヤ事件
 マイノリティ・コミッション
 命を狙われる
 元が整えば末も整う
 南天鉄塔
 支援のあり方
第4章 必生(ひっせい)
 四十四年ぶりの帰国
 高尾の緑
 宗派根性
 僧侶を避ける小学生
 自殺大国日本
 十界を巡れ
 悩み無き人生は、無
 必生
 仏陀を背負いて社会の中へ
 立ち上がる仏教

おわりに(佐々井秀嶺)
佐々井秀嶺師略年譜
用語解説(志賀浄邦)
参考文献 


著者プロフィール

佐々井秀嶺(ささき・しゅうれい)

1935年、岡山県生まれ。インド仏教指導者。1988年インド国籍取得。ラジウ・ガンディー(当時の首相)からインド名、アーリア・ナーガールジュナを授与される。1960年、高尾山薬王院(真言宗智山派)にて得度。タイ留学を経て 1967年渡印。1968年、カースト差別に苦しむ人々を救う人権運動でもある、インド仏教復興運動に身を投じる。2003年にはインド政府少数者委員会仏教徒代表にも任命された(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<関連サイト>

インド仏教を率いる日本人僧侶の破天荒人生 1億人の仏教徒は、なぜ彼を慕うのか (東洋経済オンライン、2015年7月21日)
・・佐々井師は、2015年6月にも一時帰国。その際に行われたインタビュー

インドで1億5千万人を導く日本人僧侶の人生色情因縁「私には黒い血が流れている」(東洋経済オンライン、2017年9月9日)
・・佐々井師は81歳のいまもなお意気軒昂

(2015年7月22日 項目新設)
(2017年9月10日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

書評 『男一代菩薩道-インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺-』(小林三旅、アスペクト、2008)
・・日本人の若手テレビ・ディレクターが密着取材した佐々井師の肉声

書評 『目覚めよ仏教!-ダライ・ラマとの対話-』 (上田紀行、NHKブックス、2007. 文庫版 2010)

「ダライラマ法王来日」(His Holiness the Dalai Lama's Public Teaching & Talk :パシフィコ横浜)にいってきた

アッシジのフランチェスコ (4) マザーテレサとインド

書評 『チェンジメーカー-社会起業家が世の中を変える-』(渡邊奈々、日本経済新聞社、2005)

『モチベーション3.0』(ダニエル・ピンク、大前研一訳、講談社、2010) は、「やる気=ドライブ」に着目した、「内発的動機付け」に基づく、21世紀の先進国型モチベーションのあり方を探求する本

成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 (総目次)


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