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2013年9月23日月曜日

書評『川崎尚之助と八重 ー 一途に生きた男の生涯-』(あさくら ゆう、知道出版、2012)ー 幕末を生きた知られざる男の「名誉回復」は2011年から始まった!


川崎尚之助(かわさき・しょうのすけ)、この名前を昨年(2012年)の段階で知っていた人はいったいどれだけいたのだろうか? もちろんわたしもまったく知らなかった。

NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公・新島八重の初婚の相手であった川崎尚之助。蘭学者で砲術家。会津藩と運命をともにした男。

この男のことを誰も知らなかったのは仕方ない。大河ドラマで取り上げられるまでは事実関係もほとんど明らかになっていなかったからだ。

しかも、本書の著者あさくら氏によれば、ドラマ化が発表されるまで、この男のことはほとんど知られることもなかっただけでなく、「逃げた男」という汚名を帯びた虚像が捏造されまかりとおっていたのである。

本書は、その知られざる川崎尚之助を徹底的に調べ上げ、名誉回復を実現した在野の歴史研究家の入魂の一冊である。

著者による徹底調査は、大河ドラマのテーマが発表された2011年に開始された。


■川崎尚之助は但馬国の出石藩の出身

会津藩士となって旧会津藩と運命をともにした川崎尚之助(1836~1875)は、但馬国の出石(いずし)の出身である。出石は、現在は兵庫県豊岡市に編入されている内陸の土地である。

出石(いずし)といえば関西では蕎麦(そば)と結びつく。いわゆる「出石の蕎麦」である。18世紀初頭、信州上田から移封された仙石家が持ち込んだものだという。つまり痩せた土地であったということだ。

だが、啓蒙思想家で法学者であった加藤弘之をはじめ、明治新政府に有為の人材を送り込んだことでわかるように、出石藩は学問をきわめて重視した土地柄であった。そんななかからでてきたのが川崎尚之助であったことが本書を読むとよくわかる。

川崎家はお家騒動の余波を受けて苦杯をなめた出石藩士であった。川崎尚之助が蘭学と砲術研究で身を立て、蘭学塾で同窓であった山本覚馬の誘いにおうじて会津に行ったのは、故郷に戻ったところで浮かばれることがない悟っていたためのようだ。

必要とされる場所で、必要としてくれる人のためにナレッジワーカー(=知識労働者)として働く喜び。それは人脈(=人的ネットワーク)によって実現した道でもあった。

ついでだが、但馬の方言は関西アクセントではない。東京アクセントにきわめて近い。だからドラマでの川崎尚之助のしゃべり方はおかしくないのである。

(Googleマップで地理的な位置を知る:Aで示したのが出石)


■川崎尚之助は「手形詐欺事件」に巻き込まれていた!

川崎尚之助が会津藩士に取り立てられ、山本八重と夫婦になったことはドラマにも再現されているが、会津戦争後については、ドラマでは詳しく語っていないことと、事実を脚色している点があることが本書を読むとよくわかる。

ドラマでは詳しく語っていないこととは、まずは会津藩士に取り立てられた理由。

「禁門の変」で京都の治安維持にあたっていた会津藩の大砲隊が大活躍した。その際ぜひ砲術専門家の川崎尚之助を京都に招聘したいという要請がでてきたが、藩士ではないので実現しなかったのである。これが伏線となって会津藩士への途が開かれたのだ、と。

会津戦争における敗戦後、旧会津藩の移封先である下北半島にともに渡った川崎尚之助だが、川崎尚之助が巻き込まれた外国商人との訴訟の中身についてもドラマでは詳しく触れられていない。

川崎尚之助は、先物取引にかかわる「手形詐欺事件」に巻き込まれていたのだ!

旧会津藩士たちの多くが下北半島で飢餓に苦しんでいたことは、『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971) にも書き記されていることだが、川崎尚之助は藩士たちとその家族の飢餓を救うため、幕末から開港地として外国貿易が盛んであった津軽海峡の対岸の函館で、食糧であるコメの調達に奔走していたのである。

そのために考案したのが商品先物取引。斗南でその年に収穫予定の大豆「先物」(さきもの)と、輸入された外米である広東(カントン)米の「現物」を交換する取引を函館在住のデンマーク商人と結ぶことに成功する。

だが川崎尚之助は、仲介役として仲間にした日本人商人にだまされ「手形詐欺事件」に巻き込まれることになる。そしてまた当然のことながら寒冷地での慣れない農作業による大豆の収穫は、実現しないで終わる。

不平等条約状態の日本であったが、オランダ語に精通していた蘭学者の彼は手形詐欺事件では勝訴を勝ち取る。だが、先物取引の清算(=クリアリング)にかんしてはデンマーク商人との訴訟は継続され、1875年(明治7年)東京で肺病をこじらせ困窮死することでやっと終結することになった。罪を一身に背負った生涯であったのだ。

礼節を重んじ、アタマの切れるインテリであったが、インチキ日本商人にだまされたことを恥に思っていたのでもあるのだろう。だが、命をかけて最後まで訴訟を戦い抜いた姿勢はすばらしい。

ドラマには登場しないが、川崎尚之助と行動をともにしたのが旧会津藩士の柴太一郎(しば・たいちろう)である。

柴太一郎はかの柴五郎の長兄で、先に言及した 『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971) にも登場する。柴五郎の『遺書』には、長兄・太一郎が外国人との訴訟にかかわっていたことは記されていても、川崎尚之助にかんしてはいっさい言及がない。当時10歳であった柴五郎の記憶に残る人ではなかったのかもしれない。この点については著者のあさくら氏はまったく触れていない。

事実を脚色している点とは、ドラマでは八重は東京で川崎尚之助に会ったという設定になっているが、その事実はなかったと著者は断言していることだ(P.222)。どうやらこれが小説家の創作内容をドラマにふさわしいという理由で採用したと推測される。

基本的に史実に忠実なドラマであるだけに、こういう事実を曲げた個所があるのはじつに残念なことだ。


■「一途に生きた男」

「資料発掘の鬼」と自称する著者が、ドラマ『八重の桜』に際して関心をもつに至った川崎尚之助。一年半の徹底的な調査でようやくあきらかになってきた成果が本書である。

著者は川崎尚之助のことを、「一途の男」と評している。本書を最後まで読むと、この評価がまさに適切であることが納得される。

この「一途さ」ゆえ、山本覚馬の知遇をえて会津まで行ったわけであり、会津藩士に取り立てられたのであり、会津藩への恩を深く感じていたからこそ会津戦争を戦ったのちも下北半島まで同行したわけであり、旧藩士たちの窮乏を救うために先物取引にかかわったわけであり、妻である八重に迷惑をかけまいと訴訟のことは知らせず、罪を一身に背負って言い訳をせず最後は困窮のうちに死ぬこととなった。

そういう「一途に生きた男」の生涯を発掘し、名誉回復に貢献できたことは著者冥利につきるものだし、また読者としてもじつによろこばしい。歴史に大きな足跡を記した人物ではないが、幕末を駆け抜けたこういう男もいたのだと知ることに意味があるのだ。

ただ残念なことに、どのような容貌であったのか肖像画も写真も残っていないようなので本書にも収録されていない。もし残っていれば、ドラマであらたにつくられた虚像との落差が明らかになるかもしれない。

川崎尚之助にかんする調査は本書の出版後もつづいているようである。新島八重のことを、「NHKはジャンヌダルクと捏造した」(はじめに)と言い切る「資料発掘の鬼」には、さらなる事実解明に期待したい。



(参考) 柴 太一郎について

柴太一郎(しば-たいちろう 1839-1923) 幕末-明治時代の武士,官吏。 天保(てんぽう)10年生まれ。柴四朗,柴五郎の兄。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士。藩主松平容保(かたもり)の京都守護職就任にしたがって京都におもむく。軍事奉行添役として鳥羽・伏見の戦いに出陣し,のち長岡,会津に転戦。戦後,斗南(となみ)(青森県)に移住し,同藩の創立につくすが,糧米の代金事件に連座し入獄。のち会津にかえり,大沼・南会津郡長。大正12年4月28日死去。85歳。名は盛道。通称ははじめ秀次。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)





目 次

はじめに
序章 「逃げた男」から「一途の男」へ
第1章 出石藩
第2章 出石藩川崎家
第3章 蘭学修業
第4章 会津藩
第5章 会津藩山本家と結婚
第6章 京都守護職
第7章 戊辰戦争
第8章 会津戦争へ
第9章 会津城下の激戦
第10章 会津藩解体
第11章 戦後の会津
第12章 斗南
第13章 函館
第14章 八重、米沢から京都へ
第15章 終焉
あとがき
本書によせて(川崎修)
解説 北垣宗治
参考文献


著者プロフィール

あさくら ゆう
歴史研究家。東京都台東区出身。新選組研究同人、三十一人会副会長、茨城地方史研究会、咸臨丸子孫の会会員。主に幕末維新期の人物史を執筆 今回の「川崎尚之助と八重」(知道出版)で新島研究論文賞を受賞 豊岡市より感謝状を授与される(各種データより作成)。



<関連記事>

新島八重と同志社 第16回 新島八重と川崎尚之助 ~会津に尽くした生涯~(あさくらゆう)
・・本書の内容が簡潔に要約されている


<ブログ内関連記事>

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③

『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971)は「敗者」の側からの血涙の記録-この本を読まずして明治維新を語るなかれ!



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2013年9月8日日曜日

『ある明治人の記録 ― 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971)は「敗者」の側からの血涙の記録。この本を読まずして明治維新を語るなかれ!

(『北京籠城』時代の柴五郎陸軍中佐)


柴五郎(1860~1945)は、会津藩出身だが陸軍大将までのぼりつめた人である。だが、けっして驕り高ぶることのない謙虚な人柄で、つねに理知的で冷静沈着な言動に徹した人であった。

柴五郎が世界中に名をはせたのは中佐時代の42歳、1900年の「義和団事件」の際であった。

義和団事件は北清事変ともいうが、清朝末期に北京で勃発した大規模な事件で義和団という排外的な民衆運動を利用して清朝が「西洋列強」に対して宣戦布告したことではじまった。

柴五郎は、公使館付武官として北京の日本公使館に駐在していたが、英国・米国・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアと日本の8カ国のなかでは最先任士官であったこともあり、実質的な連合軍総指揮官として2カ月に及んだ「北京籠城戦」を戦いぬいたのである。

陸軍士官学校3期生という日本陸軍の草創期の士官であった柴五郎はフランス語に堪能で、このほか英語や中国語にも精通していたために列強各国との意思疎通に大きな貢献を果たしたことも大きかったようだ。このため、北京籠城戦の終了後に世界中から絶賛されたのである。『北京の55日』というハリウッド映画があるが、これは北京籠城戦をテーマにしたものだ。

そんな柴五郎がひそかに書き遺した「手記」が、本書『ある明治人の記録 ー 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971)の第一部である「柴五郎の遺書」である。

公表を目的としたものではない。会津戦争で非業の死を遂げ、生き残っても塗炭の苦しみを味わうことになった親族、そして会津藩士たちを弔うため、80歳を過ぎてから執筆し、死を前に菩提寺に納め門外不出としたものである。だから「遺書」と編者は名付けたのである。

その編者とは、日本国民の必読書である 『石光真清の手記 四部作』(中公文庫)を編集して出版した石光真人氏である。

石光真清の子息である石光真人氏は、柴五郎と石光真清が親友であったことから、その「遺書」の存在を知り、筆写させてもらい、内容について補足説明を生前の柴五郎から聞き取ったうえで文章を整理、柴五郎の死後36年目にして中公新書として出版したのであった。

だから、『会津人柴五郎の遺書』は、『石光真清の手記 四部作』とともに読むべき本なのである。この二つの手記を誰もが読める形として整理し、出版していただいたことを、後世に生きる日本人は石光真人氏に感謝しなくてはならない。

さて、『会津人柴五郎の遺書』だが、編者による整理のおかげで読みやすくなっているとはいえ、全文が文語体であり、現代人にはややなじみにくいかもしれない。だが、流れるようなリズミカルな文章である。冒頭の文章からすこし引用しておこう。

いくたびか筆とれども、胸塞がりて涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十路(やそじ)を越えたり。・・(中略)・・
 
過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かるるよと教えられしに、いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裏に刻まれて消えず。・・(中略)・・
  
落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥(しとね)なく、耕すに鍬(くわ)なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。

悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。


まさに血涙の記録である。80歳を過ぎてから70年前を回想した文章であるが、この遺書を涙なくして読める者がいたとしたら、それは日本人ではない。

この「遺書」は、会津戦争当時10歳であった少年が突然の運命の変転にもてあそばれ、その後15歳で陸軍幼年学校に合格して苦難を脱するまでの日々をつづった手記である。

その内容は、さきに引用した冒頭の一文にあるとおりだが、「悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して・・」と書いているのは、武家の一家のなかで男子であった柴五郎少年を言葉巧みに脱出させたあと、祖母・母・姉と妹の5人が自害し果てたことを指しているのである。

柴五郎の家もまた、家老の西郷頼母一家もそうであったように、武家の女性は「生きて虜囚の辱めを受けず」として自死を選んだのである。だからこそ余計に「血を吐く思い」以外のなにものも感じることができないのであろう。

この本が中公新書として出版された1971年は、「明治維新百年」が祝われた1968年(昭和43年)に3年後にあたる。明治維新政府の公的な歴史から抹殺されつづけてきた、会津藩というオルタナティブ・ヒストリー(=もう一つの異なる歴史)に一条の光をあてる内容として世に出たのだということを知っておきたい。

1971年に出版されてからすでに42年以上も読まれてきた本書だが、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代、2010年代ではおのずから読者の受け止め方も異なってきたことであろう。

ことし2013年には、NHK大河ドラマ『八重の桜』によって、ようやく会津の歴史が全面的に取り上げられ、旧会津藩士たちのその後の苦闘にも光があてられることになった。

ドラマのなかには柴五郎はでてこないが、ぜひこの機会に『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』に目を通していただきたい。山川大蔵や佐川官兵衛といった会津藩士たちも実名で登場する。

原文のリズミカルで流れるような文体をそのまま味わいたいものだが、現代語訳してひろく若い人たちにも読んでもらうといいのではないかと思う。どんな劣悪な状況にあっても誇りを失わず、生き抜いていく少年の物語だからだ。文庫化される際にはぜひそうお願いしたい。

読めばその苦しみを著者とともに追体験することになるが、逆説的にだが、読めばかならずや元気と勇気をもらえる「遺書」である。


(画像をクリック!)


目 次

本書の由来

第一部 柴五郎の遺書

血涙の辞
故郷の山河
悲劇の発端
憤激の城下
散華の布陣
狂炎の海
絶望の雨夜
幕政最後の日
殉難の一族郎党
不慮収容所へ
学僕・下男・馬丁
地獄への道
餓死との戦い
荒野の曙光
海外か東京か
新旧混在の東京
わが生涯最良の日
国軍草創の時代
会津雪辱の日
維新の動揺終る

第二部 柴五郎翁とその時代(石光真人)

遺書との出会い
流涕の回顧
翁の中国観
会津人の気質
痛恨の永眠
柴五郎氏略歴

編者プロフィール

石光真人(いしみつ・まひと)
明治37年(1904年)東京で生まれる。昭和5年(1930年)早稲田大学文学部哲学科卒業。同7年、東京日日新聞(毎日新聞)編集局勤務。昭和17年以降、日本新聞会、同連盟、同協会本部を経て、1963年より日本ABC協会専務理事。1975年8月逝去。編著書 『石光真清の手記』(中央公論社)奥付記載情報による)。


■「北京籠城」の55日(付記)

『北京籠城』(平凡社東洋文庫、1965)には、「北京の55日」のドキュメントが柴五郎自身による講演録として収録されている。

激しい銃撃戦がつづいた籠城戦の様子が、臨場感あふれる当事者ならでは語りでディテールにいたるまで語られている。とくに鉄砲や大砲につういての記述がじつに細かい。

機会があればぜひこの文章も読んでいただきたいと思う。口語体なので読みやすい。




■陸軍と砲術とフランス語(付記)

柴五郎(1860~1945)は陸軍士官学校3期生だが、同期には日本騎兵隊の父・秋山好古(1859~1930)がいる。

ともにフランス語畑であったのは、陸軍草創期においてはドイツ式ではなくフランス式の教育がフランス語で行われていたためである。

柴五郎は陸軍では砲兵科を選択した。同時代のフランスでおこった「ドレフュス事件」(1894年)は、ユダヤ系の砲兵大尉アルフレッド・ドレフュス(1859~1835)が反逆罪で逮捕された冤罪事件である。

ドレフュスと柴五郎とは直接の関係はないが、一歳違いでフランス式の砲兵教育を受けた存在である点に、まったくの偶然の一致であるが、不思議な縁を感じる。砲兵科は数理系な術科であり、理知的な性格がそれによって培われるといっていいのだろうか。

ちなみに秋山好古が旧藩主のお供としてフランスで騎兵術を学んでいたのは1887年から1891年にかけてなので、ドレフュス事件の発生前のことになる。

明治維新後は京都府顧問として京都復興に尽力した会津藩出身の山本覚馬(1828~1892)は砲術師範の家に生まれた人だが、近代式の砲術をオランダ語をつうじて学んだ蘭学者でもある。

日本近代化と砲術の関係について考えてみるのも面白い。

『歴史のなかの鉄炮伝来-種子島から戊辰戦争まで-』(国立歴史民俗学博物館、2006)は、鉄砲伝来以降の歴史を知るうえでじつに貴重なレファレンス資料集である


PS 柴五郎について書こうと思ってからだいぶたつ。これでやっと肩の荷が少しおりたという気持ちでいっぱいだ。



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「敗者」としての会津と日本-『流星雨』(津村節子、文春文庫、1993)を読んで会津の歴史を追体験する

いまこそ読まれるべき 『「敗者」の精神史』(山口昌男、岩波書店、1995)-文化人類学者・山口昌男氏の死を悼む

書評 『山本覚馬伝』(青山霞村、住谷悦治=校閲、田村敬男=編集、宮帯出版社、2013)-この人がいなければ維新後の「京都復興」はなかったであろう
・・砲術師範の家に生まれた山本覚馬は理数系の能力のきわめて高い人物であったが、陸軍砲兵科の将校となった柴五郎もまた同じであったというべきだろう

NHK大河ドラマ 『八重の桜』がいよいよ前半のクライマックスに!-日本人の近現代史にかんする認識が改められることを期待したい

「石光真清の手記 四部作」 こそ日本人が読むべき必読書だ-「坂の上の雲」についての所感 (4)

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・・陸軍将校でフランス語といえば陸軍士官学校3期生の同期である秋山好古(1859~1930)もまたそうであった

書評 『霊園から見た近代日本』(浦辺登、弦書房、2011)-「近代日本」の裏面史がそこにある

書評 『明治維新 1858 - 1881』(坂野潤治/大野健一、講談社現代新書、2010)-近代日本史だけでなく、発展途上国問題に関心のある人もぜひ何度も読み返したい本

書評 『岩倉具視-言葉の皮を剝きながら-』(永井路子、文藝春秋、2008)-政治というものの本質、政治的人間の本質を描き尽くした「一級の書」

『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし!

書評 『チャイナ・ギャップ-噛み合わない日中の歯車-』(遠藤誉、朝日新聞社出版、2013)-中国近現代史のなかに日中関係、米中関係を位置づけると見えてくるものとは?

「東洋文庫ミュージアム」(東京・本駒込)にいってきた-本好きにはたまらない!

Tommorrow is another day (あしたはあしたの風が吹く)
・・「南北戦争」の「敗者」であるアメリカ南部

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)

(2016年6月19日 情報追加)


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2013年7月22日月曜日

「敗者」としての会津と日本 ―『流星雨』(津村節子、文春文庫、1993)を読んで会津の歴史を追体験する



NHK大河ドラマ『八重の桜』は、7月21日放送の第29回でついに「鶴ヶ城開城」で無条件降伏を喫することとなった。次回放送の第30回は「再起への道」。物語は「八重と会津のその後」となる。会津の苦難の歴史も描かれるようなので安心しているところだ。

だが、とはいってもTVドラマには限界がある。大河ドラマはゴールデンタイムに全国津々浦々に放送されるため、残酷なシーンや酸鼻極まる流血シーンなどぼかされてしまうのは仕方がない。

『流星雨』(津村節子、文春文庫、1993 単行本初版 岩波書店 1990)を読むと、一か月にわたって籠城をつづけた会津では、生きている人間の兵糧も尽きかけていただけでなく、戦死者の遺体の処理もままならない状態であったらしい。

仏教僧によってねんごろに葬るなどできる状態ではなく、戦死者の遺体は次から次へと井戸のなかに放り込み、それでも処理できない遺体が城中に遺棄されたまま腐敗もすすんでいたという。

まさに酸鼻極まる状態で、そのシーンは映像としてTV放送されないのは当然だが、『流星雨』に描かれているように、放置されたまま腐敗してゆく遺体が放つ臭い、イヌに食いちぎられるままになっている遺体までイメージしておかないと、会津戦争のほんとうの意味は理解できないかもしれない。

この『流星雨』という歴史小説は、架空の一人の会津藩士の娘を主人公に設定し、実在の人物の史料をもとに描いた歴史悲劇である。いわば生き残った女の視点から描いた「女たちの会津戦争」である。

戦いの中心となっていた男たちではなく女たちの視点。もちろん武士階級とそれ以外の農民や町人とはまったく異なるが、武人の妻や娘という視点から見えてくるものがある。男は討ち死にしても、生命の象徴である女は生きてくことを本能として選択するからだ。

NHK大河ドラマ『八重の桜』では、山本八重という一人の武士の娘の目を通して戊辰戦争を描いているが、戦争物は女性作家が女性の視点で書いたもの面白い。男の世界はタテマエが多すぎるが、それにくらべると女の世界はより自然な感情を吐露することが多いからだろうか。

反乱軍将校の妻たちの視点で二・二六事件を描いた『妻たちの二・二六事件』(澤地久枝、中公文庫、1975)とならぶ名作といっいいだろう。

『流星雨』はぜんぶで4章あるが会津戦争そのものは第1章だけである。戦乱を逃れ身を隠して逃げ惑った日々、本州最北端の下北半島に移封され斗南藩となった地への徒歩での移動、下北半島の過酷な自然環境での苦難の日々が描かれる。

まことにもって、なぜここまで過酷な日々を生きなければならないのか、旧会津藩士の魂の叫びが聞こえてくるような作品なのだ。

著者の津村節子氏は、「あとがき」のなかでこう書いている。

戊辰戦争を調べてゆくうちに、太平洋戦争と類似点が非常に多いことを感じた。私はまだ自分の戦争体験を書いていない。調べが進むにつれ、戊辰戦争を書くには何年、何十年も要するだろう、底なしの沼に足を踏み入れたような恐れを抱いたが、一人の会津の娘を通し、女のいくさとして書けぬこともあるまいと、思い直した。(*太字ゴチックは引用者=わたし)

1928年(昭和3年)生まれで戦争を体験した著者もいうように、戊辰戦争は太平洋戦争(=大東亜戦争)と似ているような気もする。

旧会津藩は朝敵の汚名をきせられたうえ、死に物狂いの激戦のすえ完膚なきまでにたたきつぶされ「無条件降伏」したが、その戊辰戦争から77年後の1945年(昭和20年)、日本全体がアメリカを中心とした連合軍に死に物狂いの激戦のすえ完膚なきまでにたたきつぶされ「無条件降伏」することになる。

「勝てば官軍負ければ賊」のフレーズにもあるとおり、旧会津藩は「賊軍」とされ、名誉回復にはじつに長い年月を要した。そしてまた敗れ去った日本もまた「敗戦国」という名の「賊国」のまま、いまだに実質的に半占領状態がつづいているだけでなく、国連をはじめとする国際社会で完全に名誉回復したとは言い難い。

その意味でも、たとえ会津出身ではなくとも、またいわゆる「負け組」出身ではなくとも、日本人全体の問題として会津の苦難と名誉回復の歴史を追体験する必要があるとわたしは考えている。

戊辰戦争後の会津の歴史は、大東亜戦争後の日本の歴史そのものである。「敗者の歴史」として、けっして他人事ではないのである。そしてまた敗者として汚名をきせられた二・二六事件の関係者たちの名誉回復もまた。

「苦難をつうじて星まで」(Per aspera ad astra)というラテン語の格言をかみしめ、名誉回復にむけて一歩でも前進しなくてはならないのは会津も、日本も同じである。


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<関連サイト>

会津藩士「埋葬の史料」発見 戊辰戦争、開城後の記録詳しく(福島民報、2017年10月3日)
・・「(新資料発見者で郷土史家の)野口さんは「全ての遺体を埋葬したわけでなく、翌年になっても散在する遺体の捜索が続いていた」とした。新政府軍が遺体の埋葬を許さなかったとの言い伝えを完全否定し、「昭和40年代以降に言われるようになった話。新政府軍への遺恨の一つを考え直す契機でもある」とした。」

(2017年10月4日 項目新設)


<ブログ内関連記事>

NHK大河ドラマ 『八重の桜』がいよいよ前半のクライマックスに!-日本人の近現代史にかんする認識が改められることを期待したい

いまこそ読まれるべき 『「敗者」の精神史』(山口昌男、岩波書店、1995)-文化人類学者・山口昌男氏の死を悼む
・・山本覚馬と八重のきょうだいについても詳しく触れられている

書評 『山本覚馬伝』(青山霞村、住谷悦治=校閲、田村敬男=編集、宮帯出版社、2013)-この人がいなければ維新後の「京都復興」はなかったであろう

「日本のいちばん長い日」(1945年8月15日)に思ったこと
・・靖國神社と千鳥が淵で慰霊

書評 『新大東亜戦争肯定論』(富岡幸一郎、飛鳥新社、2006)-「太平洋戦争」ではない!「大東亜戦争」である! すべては、名を正すことから出発しなくてはならない

書評 『アメリカに問う大東亜戦争の責任』(長谷川 煕、朝日新書、2007)-「勝者」すら「歴史の裁き」から逃れることはできない

書評 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子、朝日出版社、2009)-「対話型授業」を日本近現代史でやってのけた本書は、「ハーバード白熱授業」よりもはるかに面白い!

Tommorrow is another day (あしたはあしたの風が吹く)
・・「南北戦争」の「敗者」であるアメリカ南部

二・二六事件から 75年 (2011年2月26日)

書評 『三陸海岸大津波』 (吉村  昭、文春文庫、2004、   単行本初版 1970年)-「3-11」の大地震にともなう大津波の映像をみた現在、記述内容のリアルさに驚く
・・作家の故吉村昭氏は津村節子氏の配偶者でもあった

(2016年6月19日 情報追加)


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