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2023年1月31日火曜日

書評『犢を逐いて青山に入る ― 会津藩士・広沢安任』(松本健一、ベネッセ、1997)― 目を未来に向けて明治を生きた会津人もいた


 

これまた購入してから積ん読すること四半世紀。これで松本健一氏の旧会津藩士ものは、山本覚馬、秋月悌次郎を含めて、ほぼすべて読んだことになる。 

幕末の激動期を生きた旧会津藩士たちだが、そのなかでも広沢安任(ひろさわ・やすとう 1830~1891)の後半生は、ずいぶんと違うものであった。 

秋月悌次郎が「明治を耐えて生きた」人だとすれば、同時期に幕末の京都で会津藩の公用役(・・藩外の交渉役)をつとめた広沢安任は、いわば「目を未来に向けて明治を生きた」人だといっていいだろう。 

その点においては、幕末維新の動乱後の京都の復興に後半生を過ごし、同志社の創立にもかかわった山本覚馬に近い。 

(広沢安任 Wikipediaより)

タイトルの「犢(こうし)を逐(お)いて青山に入る」は、広沢安任の漢詩の一節だが、かれは明治になってから「刀を売って子牛を買った」人である。 

会津藩が移封された斗南、つまり本州最北の下北の地で旧会津藩の藩士たちを救うために牧畜業を開始し、成功させたのである。人間到る処青山あり。下北の地を青山(せいざん)、すなわち骨を埋める地と定めてのこことである。 

幕末の京都で広沢安任は、秋月悌次郎とともに「会薩同盟」の実現に大きな役割を果たしただけでない。公武合体派の佐久間象山による、最終的に天皇を江戸に移す「遷都計画」において、山本覚馬とともに働いたことにある。この計画は象山が暗殺されたことで失敗に終わったが、幕末史のきわめて重要な事項にかかわっていたのである。 

会津藩が「朝敵」とされ、慶喜や藩主とともに江戸に戻ってきた際には、働きが評価されて側用人となっていた広沢安任も行動をともにしていた。

会津藩の汚名をそそぐため、勝海舟の発案によって西郷隆盛との談判に赴くが、すでに江戸を離れていた西郷に会うことはかなわかった。 帯に書いてあるように、「もしこの男が西郷隆盛に会えていれば、会津藩の悲劇は避けられたかもしれない」とは、そのことを指している。江戸城の無血開城の工作にあたった山岡鉄舟の再現とはならなかったのである。 

西郷に会うことかなわず、江戸で捕縛され獄中に2年強を過ごすことになる。その結果、広沢安任は戊辰戦争に参加することはなかった。もし獄中になければ、秋月悌次郎とおなじく、間違いなく主戦派として籠城することになっていたであろう。 


(後列で真ん中に立っているのが広沢安任 『秋月悌次郎ー老日本の面影』より)


釈放後に会津藩の小参事に就任した広沢安任は、移封にあたって、猪苗代ではなく斗南の地を選ぶよう主張したらしい。このことは初めて知った。 

未開拓の地で新規まき直しを図るべきだというのがその趣旨だが、柴五郎の手記に記された旧会津藩士たちがの過酷な状況を知っていると、長期的視点に立った意思決定とはいえ、現実としてはかなり酷なことだったのではないかと思う。  

農業には適していない下北の地で、経世済民の観点から牧畜を始めることを企画したのも広沢安任であった。スコットランド人の農業技師と5年契約を結び、共同で牧場経営にあたっている。乳牛と肉牛、そして馬と豚の飼育と販売事業。もちろん、当時は西洋文明そのものであった牧畜業である。

昌平黌で朱子学を学んだが、大器晩成型であったかれは、「格物究理」の側面では実学志向の人だったようだ。その意味では、山本覚馬のように直接の門下でなかったものの、志向するとことは師と仰いだ佐久間象山に近かったようだ。 

殖産興業を推進する新政府の方針とも合致していたこともあって、資金調達にかんしては政府資金を必要なだけ借り入れることができた。初年度や翌年度は苦しかったものの、4年目に黒字転換を実現している。どのような事業計画があったのか、見てみたいと思う。

  『イノベーターたちの日本史ー近代日本の創造的対応』(米倉誠一郎、東洋経済新報社、2017)では、旧長州藩士の笠井順八による小野田セメント創業が紹介されている。 新政府が推進する軍事や鉄鋼・造船、機械や製糸などの産業政策に沿ったものであった。

旧幕関係者は、そういったメインストリームからはずれた場に置かれていたこともあるが、維新の負け組であった会津藩にも、牧畜業を成功させた広沢安任のような人がいたのである。教育やジャーナリズムの世界ではなく、実業の世界での成功者がいたのである。この事実を知ってうれしく思う。 

旧会津藩士の後半生として、秋月悌次郎の生き方には深い感動を覚えるが、広沢安任のような生き方には、晴れ晴れとすがすがしいものを感じる。過去を生きるのではなく、当の本人が前向きに未来を生きようとした人生だからだ。 

著者は「あとがき」の末尾でこう書いている。 

広沢安任は、思想家としては師の佐久間象山に及ばず、政治家としては勝海舟に及ばず、実業家としては渋沢栄一に及ばず、漢詩人としては雲井龍雄や秋月悌次郎には及ばない。しかし、一人の人間として、わたしは本書を書き始めたときよりもずっと、かれのことを好きになった・・・


わたしもまた同感である。


 (画像をクリック!)
 

目 次
第1章 瞬く間の人生
第2章 詩人ならざる詩人
第3章 政治的人間
第4章 政治から解き放たれて
第5章 斗南の地で
第6章 日々、日暮れて帰る
第7章 人間到るところ青山あり
あとがき

著者プロフィール
松本健一(まつもと・けんいち)
日本の評論家、思想家、作家、歴史家、思想史家。麗澤大学経済学部教授。 中国日本語研修センター教授、麗澤大学経済学部教授、麗澤大学比較文明文化研究センター所長、一般財団法人アジア総合研究機構評議員議長、東日本国際大学客員教授、内閣官房参与(東アジア外交問題担当)などを歴任した。主な著書に『近代アジア精神史の試み』(岩波現代文庫、アジア・太平洋賞受賞)、『日本の近代1 開国・維新』(中公文庫、吉田茂賞)、『評伝北一輝 全五巻』(中公文庫、毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞)など多数。2014年没。(本データは『「孟子」の革命思想と日本』2014年が刊行された当時に掲載されていたものに wikipedia 情報で加筆)

 
PS 「足利三代木像梟首事件」(1863年)の捜査と捕縛

本書には、広沢安任らが「足利三代木像梟首事件」(1863年)の犯人として平田国学派の攘夷主義者達を捕縛した際に、押収したとされる『英将秘訣』なる怪文書の件については触れられていない。『英将秘訣』にかんしては、『自己超越の思想 近代日本のニヒリズム』(竹内整一、ぺりかん社、2001 初版1988)を参照。



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・・「目明かし伝」で山本覚馬が取り上げられている





・・大山捨松は会津藩の山川家の出身。恩讐を超えて薩摩藩出身の大山巌と結婚することになる


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書評『秋月悌次郎 ― 老日本の面影(決定版)』(松本健一、中公文庫、2013)―「 明治を耐えて生きた」会津人の後半生に静かな、そして深い感動を覚える

 


NHKの大河ドラマ「八重の桜」が放送された際に文庫化され購入したのであったが、あっという間に10年たってしまった。 

原本の出版は1987年とのことだが、不思議なことに読んでいて古さをまったく感じさせない。扱っている素材そのものが、そもそも昔の話であり、しかも時代を越えた存在である。だから、そう思わせるのであろう。 


(ラフカディオ・ハーンの『東の国から』)


熊本の旧制五校で同僚だった英語教師のラフカディオ・ハーン(=小泉八雲)が『東の国から』(Out of the East, 1895)で「神のような人」と讃えた人。豊かなあごひげが白かったからだけではない。その前半生は、会津藩士として激動の幕末を生き抜いた人であった。その古武士のような存在に、ハーンは感嘆していたのである。 


(秋月悌次郎 Wikipediaより)


戊辰戦争においては、主戦派として会津藩の軍事奉行添役(副奉行)として奥羽列藩同盟の外交交渉に奔走、敗戦に際しては白旗を掲げて降伏の申し役を努めることになった人。それが秋月悌次郎(1824~1900)である。明治維新を境にした後半生は、32年に及んだ。 

藩命によって学んだ幕府の昌平黌では、11年間にわたって学び、寮長として学生たちを教えた人。学識深い漢学者で漢詩人であった。資質と性行の異なる長岡藩の河井継之助との交流も興味ぶかい。はじめての出会いは山田方谷を訪ねた備中松山藩でのことであり、その後に西遊中の二人は長崎で深い交わりを結ぶ。

京都守護職となった藩主のもと、薩摩藩との同盟に大きな功労があった。 尊王的傾向ゆえ公武合体派に近く、会津藩内ではうとまれて左遷され蝦夷地に赴任。ふたたび京都に戻されたもののの、状況は激変していた。薩摩藩による裏切りは、会津藩をして徹底抗戦の途を余儀ないものとしたのであった。 


(戊辰戦争後の集合写真 長州藩士で戊辰戦争では敵味方の関係になったが、漢詩をつうじて心友であった奥平謙輔も一緒に)


戊辰戦争の敗戦後は、敗軍の将として終身刑の判決を受けるが、3年あまりで恩赦がでて、新政府の役人として出仕することになる。

3年あまりで官を辞したのは、生活のためとはいえ、敗者としてそんな生き方には恥ずかしさを覚え、心中では耐えがたいものがあったのであろう。すでに50歳となっていた。 

しかしながら、旧会津藩士の多くがそうであったような薩摩への復讐感情はもたず、極端な途を選ぶことなく保守主義者として人生をまっとうする。朱子学を深く学び、『中庸』の精神そのままを生きた人なのであった。 


(右から二番目の白鬚の老人が秋月悌次郎。真横を向いているのがハーン。真ん中は五校校長の嘉納治五郎)


漢学と倫理の教師として熊本の旧制五校の教壇に立っていたのは、明治23年(1890年)から28年までの5年間。65歳から70歳までの晩年のことである。 

各界で日本を率いていくべきリーダー育成にはたした役割は、「伝説の教師」として、ハーンや漱石と並んで、長きにわたって五校生のあいだで語り継がれていたらしい。 

存在そのものが、人間の生き方の見本となるようだった人。消えゆく旧世界そのものだったような人。そうであるにもかかわらず、学生たちにあたえた感化が大きかったのである。背中で教えたのである。人格そのものが感化したのである。 

著者の松本健一氏は秋月悌次郎のことを「懐かしい人」としているが、まさにその通りの感懐を読者に抱かせる。

70歳で五校生を引率した鹿児島修学旅行の帰途、「加久藤越え」の際のエピソードなど、目に浮かぶようだ。 
  
20歳前後の学生たちの先頭に立って、「エイ、エイ」とかけ声をかけながら気合いをいれて下山する老人。それはぬかるみ道ですべらないよう、枯れ草をまきながらのことであった。学生たちは、まさに背中で学んだのである。

ああ、そんな人がいたのだ。そんな世界がかつてあったのだ。静かな、そして深い感動を覚えるのである。  


(画像をクリック!)




目 次
Ⅰ 秋月悌次郎 老日本の面影 
 第1章 神のような人
 第2章 法と道 
 第3章 詩と志
 第4章 永遠に守るべきもの
Ⅱ 非命の詩人 奥平謙輔
 第1章 「戦争」の会津
 第2章 「政治」の佐渡
 第3章 「革命」の萩 
Ⅲ 「老日本の面影」前後 
 秋月悌次郎 ― 維新の激動を越えて 
 加久藤ごえ紀行 
 司馬遼太郎と私 
増補・新版 あとがき
文庫版 あとがき


著者プロフィール
松本健一(まつもと・けんいち)
日本の評論家、思想家、作家、歴史家、思想史家。麗澤大学経済学部教授。 中国日本語研修センター教授、麗澤大学経済学部教授、麗澤大学比較文明文化研究センター所長、一般財団法人アジア総合研究機構評議員議長、東日本国際大学客員教授、内閣官房参与(東アジア外交問題担当)などを歴任した。主な著書に『近代アジア精神史の試み』(岩波現代文庫、アジア・太平洋賞受賞)、『日本の近代1 開国・維新』(中公文庫、吉田茂賞)、『評伝北一輝 全五巻』(中公文庫、毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞)など多数。2014年没。(本データは『「孟子」の革命思想と日本』2014年が刊行された当時に掲載されていたものに wikipedia 情報で加筆)


PS 秋月悌次郎の生涯は歴史小説家の中村彰彦氏が小説化している

松本健一氏によれば、司馬遼太郎は「小説に書けるような存在ではない」と記していたそうだ。おそらく、松本氏の著書が呼び水となって「敗軍の将」で降伏の申し役となった秋月悌次郎の名誉回復がなされ、中村彰彦氏による歴史小説『落花は枝に還らずとも』(中央公論新社、2004年)につながったのであろう。




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2021年12月5日日曜日

書評『雲奔る 小説・雲井龍雄』(藤沢周平、中公文庫、2012)-「維新の敗者」への鎮魂歌として文学作品はふさわしい。

 

雲井龍雄は、幕末に生きた米沢藩士。幕末の志士によくあるように、雲井龍雄は変名で、本名は小島龍三郎。このほか遠山翠(とおやま・みどり)なる変名も使用している。

苦しい生活を強いられた下級武士だが、秀才だったこの人物は、幕末の動乱期に大きな志を抱いて江戸で安井息軒の塾に学ぶことができ、ようやく願いが叶って探索方(・・現代風にいえばインテリジェンス・オフィサーとなろう)として動乱の京都を舞台に活躍した。 

会津藩を裏切った薩摩藩に対する激しい怒りから「討薩の激」という名文の檄文を執筆、薩摩と長州を離間させる工作に奔走するが最終的に失敗、戊辰戦争においては奥羽列藩同盟を主導した米沢藩だが同盟から離脱、足並みが乱れるなかの会津落城など、めまぐるしく動く複雑な政治状況に翻弄される。 

薩長を中心とする新政府成立後は、反政府陰謀を企てているという嫌疑を一方的にかけられ、新政府によって非命にも斬首、梟首(=さらし首)となった。享年27歳。明治3年(1871年)のことである。 いまから150年間のことになる。


雲井龍雄のことは、村上一郎の『幕末 非命の維新者』(中公文庫)ではじめて知った。村上氏は「幕末・維新第一等の漢詩人は、雲井龍雄であろうかと思われる」としている。その漢詩は、明治時代前半には、北村透谷や自由民権運動の関係者によく読まれたという。 

雲井龍雄について大いに関心をかきたてられたものの、これといった本がないので、この藤沢周平の歴史小説を読んでみることにした次第。 明治になってからの雲井龍雄が、下総船橋海岸の鷺沼で旧同志に会ったという記述に関心をそそられた。自分が知っている土地であり、雲井龍雄との縁がほのかながらも存在するからだ。現在の習志野市鷺沼は、埋め立てで海岸線から遠くなっている。

山形出身の作家が、郷里に生きた実在の人物を主人公にしたもので、なかなか面白かった。たまには歴史小説もいいものだ、と思う。挫折した敗者への鎮魂歌として、文学作品はふさわしい。




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2013年9月23日月曜日

書評『川崎尚之助と八重 ー 一途に生きた男の生涯-』(あさくら ゆう、知道出版、2012)ー 幕末を生きた知られざる男の「名誉回復」は2011年から始まった!


川崎尚之助(かわさき・しょうのすけ)、この名前を昨年(2012年)の段階で知っていた人はいったいどれだけいたのだろうか? もちろんわたしもまったく知らなかった。

NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公・新島八重の初婚の相手であった川崎尚之助。蘭学者で砲術家。会津藩と運命をともにした男。

この男のことを誰も知らなかったのは仕方ない。大河ドラマで取り上げられるまでは事実関係もほとんど明らかになっていなかったからだ。

しかも、本書の著者あさくら氏によれば、ドラマ化が発表されるまで、この男のことはほとんど知られることもなかっただけでなく、「逃げた男」という汚名を帯びた虚像が捏造されまかりとおっていたのである。

本書は、その知られざる川崎尚之助を徹底的に調べ上げ、名誉回復を実現した在野の歴史研究家の入魂の一冊である。

著者による徹底調査は、大河ドラマのテーマが発表された2011年に開始された。


■川崎尚之助は但馬国の出石藩の出身

会津藩士となって旧会津藩と運命をともにした川崎尚之助(1836~1875)は、但馬国の出石(いずし)の出身である。出石は、現在は兵庫県豊岡市に編入されている内陸の土地である。

出石(いずし)といえば関西では蕎麦(そば)と結びつく。いわゆる「出石の蕎麦」である。18世紀初頭、信州上田から移封された仙石家が持ち込んだものだという。つまり痩せた土地であったということだ。

だが、啓蒙思想家で法学者であった加藤弘之をはじめ、明治新政府に有為の人材を送り込んだことでわかるように、出石藩は学問をきわめて重視した土地柄であった。そんななかからでてきたのが川崎尚之助であったことが本書を読むとよくわかる。

川崎家はお家騒動の余波を受けて苦杯をなめた出石藩士であった。川崎尚之助が蘭学と砲術研究で身を立て、蘭学塾で同窓であった山本覚馬の誘いにおうじて会津に行ったのは、故郷に戻ったところで浮かばれることがない悟っていたためのようだ。

必要とされる場所で、必要としてくれる人のためにナレッジワーカー(=知識労働者)として働く喜び。それは人脈(=人的ネットワーク)によって実現した道でもあった。

ついでだが、但馬の方言は関西アクセントではない。東京アクセントにきわめて近い。だからドラマでの川崎尚之助のしゃべり方はおかしくないのである。

(Googleマップで地理的な位置を知る:Aで示したのが出石)


■川崎尚之助は「手形詐欺事件」に巻き込まれていた!

川崎尚之助が会津藩士に取り立てられ、山本八重と夫婦になったことはドラマにも再現されているが、会津戦争後については、ドラマでは詳しく語っていないことと、事実を脚色している点があることが本書を読むとよくわかる。

ドラマでは詳しく語っていないこととは、まずは会津藩士に取り立てられた理由。

「禁門の変」で京都の治安維持にあたっていた会津藩の大砲隊が大活躍した。その際ぜひ砲術専門家の川崎尚之助を京都に招聘したいという要請がでてきたが、藩士ではないので実現しなかったのである。これが伏線となって会津藩士への途が開かれたのだ、と。

会津戦争における敗戦後、旧会津藩の移封先である下北半島にともに渡った川崎尚之助だが、川崎尚之助が巻き込まれた外国商人との訴訟の中身についてもドラマでは詳しく触れられていない。

川崎尚之助は、先物取引にかかわる「手形詐欺事件」に巻き込まれていたのだ!

旧会津藩士たちの多くが下北半島で飢餓に苦しんでいたことは、『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971) にも書き記されていることだが、川崎尚之助は藩士たちとその家族の飢餓を救うため、幕末から開港地として外国貿易が盛んであった津軽海峡の対岸の函館で、食糧であるコメの調達に奔走していたのである。

そのために考案したのが商品先物取引。斗南でその年に収穫予定の大豆「先物」(さきもの)と、輸入された外米である広東(カントン)米の「現物」を交換する取引を函館在住のデンマーク商人と結ぶことに成功する。

だが川崎尚之助は、仲介役として仲間にした日本人商人にだまされ「手形詐欺事件」に巻き込まれることになる。そしてまた当然のことながら寒冷地での慣れない農作業による大豆の収穫は、実現しないで終わる。

不平等条約状態の日本であったが、オランダ語に精通していた蘭学者の彼は手形詐欺事件では勝訴を勝ち取る。だが、先物取引の清算(=クリアリング)にかんしてはデンマーク商人との訴訟は継続され、1875年(明治7年)東京で肺病をこじらせ困窮死することでやっと終結することになった。罪を一身に背負った生涯であったのだ。

礼節を重んじ、アタマの切れるインテリであったが、インチキ日本商人にだまされたことを恥に思っていたのでもあるのだろう。だが、命をかけて最後まで訴訟を戦い抜いた姿勢はすばらしい。

ドラマには登場しないが、川崎尚之助と行動をともにしたのが旧会津藩士の柴太一郎(しば・たいちろう)である。

柴太一郎はかの柴五郎の長兄で、先に言及した 『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971) にも登場する。柴五郎の『遺書』には、長兄・太一郎が外国人との訴訟にかかわっていたことは記されていても、川崎尚之助にかんしてはいっさい言及がない。当時10歳であった柴五郎の記憶に残る人ではなかったのかもしれない。この点については著者のあさくら氏はまったく触れていない。

事実を脚色している点とは、ドラマでは八重は東京で川崎尚之助に会ったという設定になっているが、その事実はなかったと著者は断言していることだ(P.222)。どうやらこれが小説家の創作内容をドラマにふさわしいという理由で採用したと推測される。

基本的に史実に忠実なドラマであるだけに、こういう事実を曲げた個所があるのはじつに残念なことだ。


■「一途に生きた男」

「資料発掘の鬼」と自称する著者が、ドラマ『八重の桜』に際して関心をもつに至った川崎尚之助。一年半の徹底的な調査でようやくあきらかになってきた成果が本書である。

著者は川崎尚之助のことを、「一途の男」と評している。本書を最後まで読むと、この評価がまさに適切であることが納得される。

この「一途さ」ゆえ、山本覚馬の知遇をえて会津まで行ったわけであり、会津藩士に取り立てられたのであり、会津藩への恩を深く感じていたからこそ会津戦争を戦ったのちも下北半島まで同行したわけであり、旧藩士たちの窮乏を救うために先物取引にかかわったわけであり、妻である八重に迷惑をかけまいと訴訟のことは知らせず、罪を一身に背負って言い訳をせず最後は困窮のうちに死ぬこととなった。

そういう「一途に生きた男」の生涯を発掘し、名誉回復に貢献できたことは著者冥利につきるものだし、また読者としてもじつによろこばしい。歴史に大きな足跡を記した人物ではないが、幕末を駆け抜けたこういう男もいたのだと知ることに意味があるのだ。

ただ残念なことに、どのような容貌であったのか肖像画も写真も残っていないようなので本書にも収録されていない。もし残っていれば、ドラマであらたにつくられた虚像との落差が明らかになるかもしれない。

川崎尚之助にかんする調査は本書の出版後もつづいているようである。新島八重のことを、「NHKはジャンヌダルクと捏造した」(はじめに)と言い切る「資料発掘の鬼」には、さらなる事実解明に期待したい。



(参考) 柴 太一郎について

柴太一郎(しば-たいちろう 1839-1923) 幕末-明治時代の武士,官吏。 天保(てんぽう)10年生まれ。柴四朗,柴五郎の兄。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士。藩主松平容保(かたもり)の京都守護職就任にしたがって京都におもむく。軍事奉行添役として鳥羽・伏見の戦いに出陣し,のち長岡,会津に転戦。戦後,斗南(となみ)(青森県)に移住し,同藩の創立につくすが,糧米の代金事件に連座し入獄。のち会津にかえり,大沼・南会津郡長。大正12年4月28日死去。85歳。名は盛道。通称ははじめ秀次。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)





目 次

はじめに
序章 「逃げた男」から「一途の男」へ
第1章 出石藩
第2章 出石藩川崎家
第3章 蘭学修業
第4章 会津藩
第5章 会津藩山本家と結婚
第6章 京都守護職
第7章 戊辰戦争
第8章 会津戦争へ
第9章 会津城下の激戦
第10章 会津藩解体
第11章 戦後の会津
第12章 斗南
第13章 函館
第14章 八重、米沢から京都へ
第15章 終焉
あとがき
本書によせて(川崎修)
解説 北垣宗治
参考文献


著者プロフィール

あさくら ゆう
歴史研究家。東京都台東区出身。新選組研究同人、三十一人会副会長、茨城地方史研究会、咸臨丸子孫の会会員。主に幕末維新期の人物史を執筆 今回の「川崎尚之助と八重」(知道出版)で新島研究論文賞を受賞 豊岡市より感謝状を授与される(各種データより作成)。



<関連記事>

新島八重と同志社 第16回 新島八重と川崎尚之助 ~会津に尽くした生涯~(あさくらゆう)
・・本書の内容が簡潔に要約されている


<ブログ内関連記事>

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③

『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971)は「敗者」の側からの血涙の記録-この本を読まずして明治維新を語るなかれ!



(2012年7月3日発売の拙著です)





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2013年9月8日日曜日

『ある明治人の記録 ― 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971)は「敗者」の側からの血涙の記録。この本を読まずして明治維新を語るなかれ!

(『北京籠城』時代の柴五郎陸軍中佐)


柴五郎(1860~1945)は、会津藩出身だが陸軍大将までのぼりつめた人である。だが、けっして驕り高ぶることのない謙虚な人柄で、つねに理知的で冷静沈着な言動に徹した人であった。

柴五郎が世界中に名をはせたのは中佐時代の42歳、1900年の「義和団事件」の際であった。

義和団事件は北清事変ともいうが、清朝末期に北京で勃発した大規模な事件で義和団という排外的な民衆運動を利用して清朝が「西洋列強」に対して宣戦布告したことではじまった。

柴五郎は、公使館付武官として北京の日本公使館に駐在していたが、英国・米国・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアと日本の8カ国のなかでは最先任士官であったこともあり、実質的な連合軍総指揮官として2カ月に及んだ「北京籠城戦」を戦いぬいたのである。

陸軍士官学校3期生という日本陸軍の草創期の士官であった柴五郎はフランス語に堪能で、このほか英語や中国語にも精通していたために列強各国との意思疎通に大きな貢献を果たしたことも大きかったようだ。このため、北京籠城戦の終了後に世界中から絶賛されたのである。『北京の55日』というハリウッド映画があるが、これは北京籠城戦をテーマにしたものだ。

そんな柴五郎がひそかに書き遺した「手記」が、本書『ある明治人の記録 ー 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971)の第一部である「柴五郎の遺書」である。

公表を目的としたものではない。会津戦争で非業の死を遂げ、生き残っても塗炭の苦しみを味わうことになった親族、そして会津藩士たちを弔うため、80歳を過ぎてから執筆し、死を前に菩提寺に納め門外不出としたものである。だから「遺書」と編者は名付けたのである。

その編者とは、日本国民の必読書である 『石光真清の手記 四部作』(中公文庫)を編集して出版した石光真人氏である。

石光真清の子息である石光真人氏は、柴五郎と石光真清が親友であったことから、その「遺書」の存在を知り、筆写させてもらい、内容について補足説明を生前の柴五郎から聞き取ったうえで文章を整理、柴五郎の死後36年目にして中公新書として出版したのであった。

だから、『会津人柴五郎の遺書』は、『石光真清の手記 四部作』とともに読むべき本なのである。この二つの手記を誰もが読める形として整理し、出版していただいたことを、後世に生きる日本人は石光真人氏に感謝しなくてはならない。

さて、『会津人柴五郎の遺書』だが、編者による整理のおかげで読みやすくなっているとはいえ、全文が文語体であり、現代人にはややなじみにくいかもしれない。だが、流れるようなリズミカルな文章である。冒頭の文章からすこし引用しておこう。

いくたびか筆とれども、胸塞がりて涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十路(やそじ)を越えたり。・・(中略)・・
 
過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かるるよと教えられしに、いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裏に刻まれて消えず。・・(中略)・・
  
落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥(しとね)なく、耕すに鍬(くわ)なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。

悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。


まさに血涙の記録である。80歳を過ぎてから70年前を回想した文章であるが、この遺書を涙なくして読める者がいたとしたら、それは日本人ではない。

この「遺書」は、会津戦争当時10歳であった少年が突然の運命の変転にもてあそばれ、その後15歳で陸軍幼年学校に合格して苦難を脱するまでの日々をつづった手記である。

その内容は、さきに引用した冒頭の一文にあるとおりだが、「悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して・・」と書いているのは、武家の一家のなかで男子であった柴五郎少年を言葉巧みに脱出させたあと、祖母・母・姉と妹の5人が自害し果てたことを指しているのである。

柴五郎の家もまた、家老の西郷頼母一家もそうであったように、武家の女性は「生きて虜囚の辱めを受けず」として自死を選んだのである。だからこそ余計に「血を吐く思い」以外のなにものも感じることができないのであろう。

この本が中公新書として出版された1971年は、「明治維新百年」が祝われた1968年(昭和43年)に3年後にあたる。明治維新政府の公的な歴史から抹殺されつづけてきた、会津藩というオルタナティブ・ヒストリー(=もう一つの異なる歴史)に一条の光をあてる内容として世に出たのだということを知っておきたい。

1971年に出版されてからすでに42年以上も読まれてきた本書だが、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代、2010年代ではおのずから読者の受け止め方も異なってきたことであろう。

ことし2013年には、NHK大河ドラマ『八重の桜』によって、ようやく会津の歴史が全面的に取り上げられ、旧会津藩士たちのその後の苦闘にも光があてられることになった。

ドラマのなかには柴五郎はでてこないが、ぜひこの機会に『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』に目を通していただきたい。山川大蔵や佐川官兵衛といった会津藩士たちも実名で登場する。

原文のリズミカルで流れるような文体をそのまま味わいたいものだが、現代語訳してひろく若い人たちにも読んでもらうといいのではないかと思う。どんな劣悪な状況にあっても誇りを失わず、生き抜いていく少年の物語だからだ。文庫化される際にはぜひそうお願いしたい。

読めばその苦しみを著者とともに追体験することになるが、逆説的にだが、読めばかならずや元気と勇気をもらえる「遺書」である。


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目 次

本書の由来

第一部 柴五郎の遺書

血涙の辞
故郷の山河
悲劇の発端
憤激の城下
散華の布陣
狂炎の海
絶望の雨夜
幕政最後の日
殉難の一族郎党
不慮収容所へ
学僕・下男・馬丁
地獄への道
餓死との戦い
荒野の曙光
海外か東京か
新旧混在の東京
わが生涯最良の日
国軍草創の時代
会津雪辱の日
維新の動揺終る

第二部 柴五郎翁とその時代(石光真人)

遺書との出会い
流涕の回顧
翁の中国観
会津人の気質
痛恨の永眠
柴五郎氏略歴

編者プロフィール

石光真人(いしみつ・まひと)
明治37年(1904年)東京で生まれる。昭和5年(1930年)早稲田大学文学部哲学科卒業。同7年、東京日日新聞(毎日新聞)編集局勤務。昭和17年以降、日本新聞会、同連盟、同協会本部を経て、1963年より日本ABC協会専務理事。1975年8月逝去。編著書 『石光真清の手記』(中央公論社)奥付記載情報による)。


■「北京籠城」の55日(付記)

『北京籠城』(平凡社東洋文庫、1965)には、「北京の55日」のドキュメントが柴五郎自身による講演録として収録されている。

激しい銃撃戦がつづいた籠城戦の様子が、臨場感あふれる当事者ならでは語りでディテールにいたるまで語られている。とくに鉄砲や大砲につういての記述がじつに細かい。

機会があればぜひこの文章も読んでいただきたいと思う。口語体なので読みやすい。




■陸軍と砲術とフランス語(付記)

柴五郎(1860~1945)は陸軍士官学校3期生だが、同期には日本騎兵隊の父・秋山好古(1859~1930)がいる。

ともにフランス語畑であったのは、陸軍草創期においてはドイツ式ではなくフランス式の教育がフランス語で行われていたためである。

柴五郎は陸軍では砲兵科を選択した。同時代のフランスでおこった「ドレフュス事件」(1894年)は、ユダヤ系の砲兵大尉アルフレッド・ドレフュス(1859~1835)が反逆罪で逮捕された冤罪事件である。

ドレフュスと柴五郎とは直接の関係はないが、一歳違いでフランス式の砲兵教育を受けた存在である点に、まったくの偶然の一致であるが、不思議な縁を感じる。砲兵科は数理系な術科であり、理知的な性格がそれによって培われるといっていいのだろうか。

ちなみに秋山好古が旧藩主のお供としてフランスで騎兵術を学んでいたのは1887年から1891年にかけてなので、ドレフュス事件の発生前のことになる。

明治維新後は京都府顧問として京都復興に尽力した会津藩出身の山本覚馬(1828~1892)は砲術師範の家に生まれた人だが、近代式の砲術をオランダ語をつうじて学んだ蘭学者でもある。

日本近代化と砲術の関係について考えてみるのも面白い。

『歴史のなかの鉄炮伝来-種子島から戊辰戦争まで-』(国立歴史民俗学博物館、2006)は、鉄砲伝来以降の歴史を知るうえでじつに貴重なレファレンス資料集である


PS 柴五郎について書こうと思ってからだいぶたつ。これでやっと肩の荷が少しおりたという気持ちでいっぱいだ。



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(2016年6月19日 情報追加)


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