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2011年4月30日土曜日

Where there's a Will, there's a Way. 意思あるところ道あり


 きょうは「3-11」から51日目にあたります。
 
 きょうは前向きな、だが押しつけることのないコトバを取り上げたいと思います。

Where there is a Will, there is a Way.
意思あるところ、道あり。


 There is a Will とThere is a Way、たたみいかけるような口調が、意思の強さをそのまま表現していますね。

 そしてまた Will の W と Way の W が頭韻を踏んでいます。発音次第では、Where も h音が入らないアメリカ英語なら、さらに w音が3つ続くことになります。

 Will は意思(いし)、Way は道(みち)。誰が訳したのか知りませんが、日本語でも意思(i-shi)と道(mi-chi)と、i-i音が韻を踏んでいますね。その意味でも、耳に聞いて心地よく、しかもクチに乗せやすいので覚えやすい。

 この英文は倒置文です。平叙文なら、There is a Way, where there is a Will.
 ここにでてくる where は、場所をあらわす関係代名詞。「道がある、そこには意思がある」というのが素直な意味でしょう。

 とはいえ、あえて倒置文にしているのは、Will(意思)のチカラを重視しているから。Will Power という言い方も可能ですね。

 この英語の格言はまた、高村光太郎の有名な詩の一節を思い出します。

僕の前に道はない。僕の後に道はできる


 何というタイトルの詩か覚えていませんが、この一節は知っている人も多いでしょう。強い意志のチカラを感じさせる名文句ですね。

 また、魯迅の小説『故郷』の最後の一節も思い出しますね。

 もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ


 正確かどうか定かではありませんんが、たしか中学校の国語の授業で習ったような・・・。


「新エネルギー財団」を立ち上げて、「道なき道」に大きく踏み出したソフトバンクの孫さん

 先週、ソフトバンク創業者で会長の孫正義が、またあらたなミッションに乗り出しました。

 4月22日、ソフトバンク本社で行われた「自由報道協会」主催の会見で、孫さんは、原子力にかわる「新エネルギー開発」のために財団つくりのため、私財から 10億円を投じることを発表しました。「生まれてきた使命を果たす」ソフトバンク・孫正義氏"自然エネルギー財団"設立

 先日も、大震災と大津波の被災者のために 100億円の私財と今後の報酬のすべてを提供すると発表して大きな話題をさらった孫さんですが、今回の「新エネルギー財団」構想と私財からの 10億円の資金提供もまた、日本と世界に向けての大きな一歩となることは間違いないでしょう。

 わたしは、趣旨には全面的に賛同します。「ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類の歴史にとっては大きな一歩だ」という、はじめて月面に着陸した、アポロ11号のアームストロング船長のコトバも思い出します。

 現時点では脱原発は非現実であるとしても、将来的には自然エネルギーで代替させようとというビジョン、これくらいの「大風呂敷」を広げて構想をぶちあげなければ、何も変化しないといっても言い過ぎではないでしょう。日本人が大好きな「改善」ではけっして対応できないのです。

 おそらく、いわゆるエネルギー問題の「専門家」の多くは、非現実的だといて切って捨てるか、無視するかのいずれかでしょう。ですが、「意思あるところ道あり」、現時点ではコスト的な面から非現実的とみえる新エネルギーも、本腰入れて取り組めばまったく実現可能性がないと、いったい誰にいえるのでしょうか?

 もちろん、本人は現時点では否定していますが、エネルギー投資がビジネス的にみても意味あるものであることは、ながく IT業界に身を置いている経営者であれば当然というべきですね。

 膨大な数のサーバー稼働させているグーグルが、早い段階から電力問題解決のために本腰をいれて取り組んでいることは、比較的よく知られていることです。この点については、わたしも、書評 『グーグルのグリーン戦略』(新井宏征、インプレスR&D、2010)に書きましたのでご参照いただけると幸いです。

 ビジネスパーソンが、自らのビジネスにまったく縁がなくはない分野で、社会貢献のための投資を行うこと、これはけっして非難すべきことではありません。


 早い段階での新エネルギー開発のロードマップを示すことができれば、世論も大きく変わっていくことでしょう。


Where there is a Will, there is a Way.
意思あるところ、道あり。



<関連サイト>

「生まれてきた使命を果たす」ソフトバンク・孫正義氏"自然エネルギー財団"設立
・・会見動画と、孫さんのプレゼン資料つき。

書評 『グーグルのグリーン戦略』(新井宏征、インプレスR&D、2010)

スリーマイル島「原発事故」から 32年のきょう(2011年3月28日)、『原子炉時限爆弾-大地震におびえる日本列島-』(広瀬隆、ダイヤモンド社、2010) を読む




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2011年4月28日木曜日

Memento mori (メメント・モリ)と Carpe diem (カルペー・ディエム)-「3-11」から 49日目に記す


  
 英国では、ウィリアム王子とケイト・ミドルトン嬢との「ロイヤル・ウェディング」という慶事が明日4月29日と、間近に迫っている。

 現在は、「リーマンショック」と「ユーロ危機」後の不景気のまっただなか、財政再建中の英国だが、景気浮揚効果を考えれば、ぜひとも重視したいイベントであることは間違いない。

 だが、それほど長いというわけでもないが、やや長く生きていると「ロイヤル・ウェディング」というと別の感慨も抱く。それは、いまからちょうど30年前、1981年のことだ。


ダイアナ妃のこと

 いまから 30年前、セントポール大聖堂で、華麗な「ロイヤル・ウェディング」の主人公は、言うまでもなくダイアナ妃であった。ウィリアム王子の母である。

 ロイヤル・ウェディング当日前後のダイアナ・スペンサー嬢は、シャイ・ダイ(Shi Di)と呼ばれていたほど初々しい、白雪姫のような、文字通りのプリンセスだった。ヘアスタイルをはじめ、世界のファッション・リーダ的存在でもあった。

 その後のダイアナ妃の人生は、そのあまりもの運命の暗転に、まさにギリシア悲劇を見ているかのようなのような展開であった。あえてここに書くまでもないだろう。その最後が、パパラッチに追われて、パリの高速道路のトンネル内で自動車事故死というのは、あまりにも薄幸な人生だったとしか言いようがない。

 英国だけでなく、世界中がその死を悼んだダイアナ妃。クリントン元大統領とならんで、アダルト・チルドレンだと言われていたダイアナ妃、晩年は対人地雷廃絶のため世界中で活動していた。「人のために役に立ちたい」という強い思いを抱いていた人生。

 『ダイアナ死して、英国は蘇る』(多賀幹子、毎日新聞社、1998)という本を、ずいぶん前に読んだことがあるが、生前は不倫報道などでマスコミによってもみくちゃにされてダイアナ妃は、若くして悲劇的な死を遂げたことによって、聖女の扱いになった。

 そして現在でも、ダイアナ妃は人々の心のなかに生き続けている。


田中好子(スーちゃん)のこと

 また、つい先日の 4月21日、惜しくも55歳で亡くなった元キャンディースのメンバーで女優の田中好子さん(スーちゃん)が遺した音声メッセージ

 振り絞るように出されたそのコトバは、弱々しくかすれながらも、コトバの一つ一つが訴えるチカラの、なんと大きなものか!

 田中好子は、自分自身の弟を骨肉腫で失っているだけでなく、義理の妹である夏目雅子を白血病で失っている。そして本人は乳がんで。「人のために役に立ちたいという人生」は、身近な人たちとの痛切な別れが原点にあった。

 「フツーの女の子に戻ります!」というのがキャンディーズ解散発表時のメッセージだったが、死を前にしたメッセージもまた、多くの人々の心に刻みつけられるものとなるだろう。風のように立ち去ったスーちゃん。

 キャンディーズの全盛期はわたしの中学時代。当時はスーちゃんではなくランちゃん(=伊藤蘭)のほうが好みだったが、子どもときから 40年来ずっと食べている「揖保の糸」(いぼのいと) CM をやっていたので、田中好子には好感をもっていた。余談であるが。

 まずは、田中好子のテープに録音されたメッセージを文字で再現しておこう。

 こんにちは。田中好子です。きょうは 3月29日、東日本大震災から 2週間経ちました。被災された皆様のことを思うと心が破裂するような、破裂するように痛み、ただただ亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。

 私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でもそのときは、必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。それが私の勤めと思っています。

 キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間お世話になりました。幸せな、幸せな人生でした(涙ぐむ)。特に蘭さん、美樹さん、ありがとう。2人が大好きでした。

 映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった。お礼の言葉をいつまでもいつまでも伝えたいのですが、息苦しくなってきました。

 いつの日か、妹、夏目雅子のように、支えて下さったみなさまに、社会に、少しでも恩返しができるように復活したいと思います。かずさん、よろしくね。その日まで、さようなら。

(出所)スーちゃん肉声メッセージ全文 「幸せな、幸せな人生でした」(MSN産経ニュース 2011年4月25日)
 

 文字で読むよりも、音声で聞くと、何度聴いても泣けてくる。スーちゃん「最後の肉声」「被災者のお役に・・・」(11/04/25)(YouTube)。視覚よりも聴覚に訴えるもののほうが、はるかに根源的だ。

 田中好子の最後のメッセージは、大震災と大津波の犠牲者を悼み、被災者への思いを語ったものだった。「被災された方のお役にたちたい」、と。

 ダイアナ妃と同様、田中好子(スーちゃん)も伝説と化して生き続けることだろう。義妹の夏目雅子と同じく、死後に「復活」するという形で。


本日4月29日は、「3-11」から 四十九日にあたる-Memento mori (メメント・モリ)と Carpe diem (カルペー・ディエム)

 そう、本日4月29日は、「3-11」から 四十九日にあたる日だ。四十九日である。

 人が死んでから 49日間(=7×7日間)は、仏教では「中陰」あるいは「中有」(ちゅうう)といわれる。死者が生と死の中間にとどまっている期間のことだ。だから四十九日の法要は、区切りをつけるために重要なのである。日本では、「死苦」と重なる。

 2011年3月11日の午後2時46分に発生した大地震と、その後間髪をおかずに押し寄せてきた大津波に飲み込まれて、わずかの時間のあいだに三万人近い人たちが一気に死んでしまったのだ。

 過去のどんな戦争でも、どんな自然災害でもなかったような「大量死」ではないだろうか?

 こんなときに思い出すのが、Memento mori(メメント・モリ)というラテン語の警句だ。「死ぬ事を忘れるな」という意味である。

 中世ヨーロパのカトリック社会では、当たり前だった警句。幼児死亡率が高く、そのため平均寿命が短く産出される中世は、つねに生と死は隣り合わせだった。また、黒死病とよばれたペストなどの疫病の大流行がたびたび発生して死者が大量にでている。

 近世以降の欧州でも、日本でも、それ以外の世界でも、あたりまえの真実であった。医療が進歩し、衛生状態が大幅に改善されてからは幼児死亡率が下がったが、それは20世紀に入ってからのことに過ぎない。

 今回の「東北関東大震災」の犠牲者は 3万人という大規模なものになっている。果たしてそのうちどれだけの人が、自分が死ぬことになると意識していただろうか。

 日常性なんてほんとうにあっけない日常を支えている基盤とはかくも脆いものかと思ったのは、私だけではないだろう。

 写真家・藤原新也の著書にも『メメント・モリ』というものがある。ガンジス川(ガンガー)のほとりで、野犬が人間の死体を食っている鮮烈な写真が掲載されていて、話題になった本だ。ちょうどバブルの末期のことだったろか。

 永井荷風のコトバを借りれば、「近年世間一般奢侈(しゃし)驕慢(きょうまん)、貪欲飽くことを知らざりし有様」(『断腸亭日常』)だったバブル期の日本人に突きつけられた「メメント・モリ」(死を忘れるな)。 

 生と死は隣り合わせ。日常のなかから死が、死体が隠されたバーチャルな世界から、一気にリアルの世界に呼び戻された日本人。

 いつ死ぬかわからない、だからこそ今日というかけがえのない一日を生きることが大事なのだとあらためて思ったのが、とくに震災発生後の一週間の日々であった。多くの日本人が、この重要性をカラダ全体で再認識したのではないだろか。

 いま「メメント・モリ」(Memento mori)とともに思い出すのは、同じく 「カルペー・ディエム」(Carpe diem)というラテン語の警句だ。ローマ初期の詩人オウィディウスの詩句からとられたもの。

 「いまを生きる」と日本語に訳されている。英語なら Seize the day、米国の作家サウル・ベローの小説のタイトルとしても使われた。『いまを生きる』という、ハリウッド映画のタイトルにもなっている。

 いつ死ぬかわからない、だからこそ今日というかけがえのない一日を生きることが大事なのだ。

 Memento mori (メメント・モリ)と Carpe diem (カルペー・ディエム)、この2つのラテン語の警句を、あえて対句として取り上げた理由である。






<関連サイト>

スーちゃん「最後の肉声」「被災者のお役に・・・」(11/04/25)(YouTube)


<ブログ内関連記事>

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む

大震災のあと余震がつづくいま 『方丈記』 を読むことの意味

書評 『マイ・ビジネス・ノート』(今北純一、文春文庫、2009)
・・文庫本表紙に印刷されている Carpe Diem(カルペー・ディエム)というラテン語の金言




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2011年4月26日火曜日

「チェルノブイリ原発事故」から 25年のきょう(2011年4月26日)、アンドレイ・タルコスフキー監督最後の作品 『サクリファイス』(1986)を回想する


 チェルノブイリ原発事故とアンドレイ・タルコスフキー監督の『サクリファイス』。

 ソ連(現在のウクライナ)のチェルノブイリで原発事故が発生したのは、いまからちょうど 25年前の 1986年4月26日のことであった。

 アンドレイ・タルコスフキー監督の最後の作品『サクリファイス』の撮影が開始されたのは 1985年、完成して公開されたのは 1986年5月9日である(日本公開は翌年)。

 したがって直接の関係はない。ただあまりもの偶然の符合に、何か暗示するものを感じた人は多かったようなのだ。とくにヨーロッパでは。この映画は、核戦争の恐怖のなかにいきていた時代の人間にとっては、映画が理解できなくても、暗黙のメッセージを感じ取ることができたからなのだ。

 大学時代、西洋中世史を専攻したわたしは、その当時はまだヨーロッパを実際に歩いたことはなかったが、チェルノブイリ原発事故の報道を知ったとき、そうでなくても衰退過程にあるヨーロッパは、これで滅亡するのではないかとさえ思ったくらいである。

 今回の福島第一原発にヨーロッパ人、とくにドイツ人が過剰なまでに反応するのは理由がないわけではないのだ。


タルコスフスキー監督の『サクリファイス』は難解な作品

 タルコスフスキー監督の『サクリファイス』は、非常に難解でわかりにくい映画だった。いまでも、正直なところよくわからないと告白しておこう。

 映画評論家でもないわたしが、わかったようなことをここに書き付けたとしても意味はない。正直いって好みの映画ではない。1986年に一度だけ見たきりで、その後ビデオでもDVDでも見てはいない。

 芸術映画をみるのが趣味(?)だった私は、もちろんタルコフスキ監督のこの作品もリアルタイムのロードショーで見ている。といってもリアルタイムでみたタルコスフスキー作品は、『ノスタルジア』と『サクリファイス』の2本だけだが。寡作の監督だったからだ。

 アンドレイ・タルコススキー(1932年~1986年)はソ連生まれの映画監督、のちに亡命して、イタリアで『ノスタルジア』スウェーデンで『サクリファイス』を完成後に亡命先のパリで亡くなった。

 『ノスタルジア』(1983年)、『ストーカー』(1979年)、『鏡』(1975年)、『惑星ソラリス』(1972年)、『アンドレイ・ルブリョフ』(1967年)、『僕の村は戦場だった』(1962年)、『ローラーとバイオリン』(1960年)。監督した映画作品はきわめて少ない。

 三田線の千石駅の近くにあった、いまはなき「三百人劇場」で、「ロシア・ソビエト映画の全貌」だったと思うが、大半の作品をみた。

 『惑星ソラリス』は好きで何でも繰り返し見ているし、ポーランドのSF作家スニスワフ・レムの原作も読んでいるので、まったくわからない映画ではない。『惑星ソラリス』以降は、いずれも難解な作品だが、映像詩として、アタマで考えて見るのではなく、素直に感じるのがいちばんいいのかもしれない。

 抑圧体制下のソ連で撮影した映画も、一貫して「絶対者」つまり「神」について語ったものだが、共産主義統治下ではストレートな映画表現ができなかったために、かなりわかりにくいのも仕方がない。

 ついにソ連崩壊を見ることなく、異国の地で没したのは無念なことであったろう。まさに自ら監督した作品『ノスタルジア』をなぞるかのような生涯となった。だが、ソ連崩壊後の宗教事情をみたら、いったいどう思うのだろうか?

 1980年代には、パンフレットを買う習慣のあった私は、『サクリファイス』のパンフレットも購入して、捨てずにもっている。今回、ここから何枚かスキャンして掲載しておこう。1990年から米国留学して以降、米国の映画館ではパンフレットを売る習慣がないことを知ってからは、パンフレッットは滅多に買わなくなってしまった。パンフレット発行は、日本の映画文化の貴重な財産といえよう。

 『サクリファイス』の簡単なあらすじについては、wikipedia の記述を参考にしてもらうといいと思う。もっとも、あらすじがわかったからといって、この作品はアタマで考える映画ではない。コトバを介さない映像でもって、感じなければならない映画なのだ。

 「サクリファイス」(sacrifice)は、「犠牲」という意味とともに、神への「捧げ物」という意味がある。キリスト教の文脈で考えるべきなのである。キリスト教の信仰をもたない人間には、感覚的にわからないのもムリはないのではないかと思う。



奇しくもチェルノブイリ原発事故の直後に公開されることになった『サクリファイス』

 1986年という年は、さきにも書いたようにソ連(現在のウクライナ)のチェルノブイリ原発事故が起こった年である。

 時代はまだ「米ソ連戦時代」のまっただなか、いつ核戦争がおこってもおかしくない、そういう時代の空気のなかで生きていた。いまとなってはすでに過去の話だが、核戦争の恐怖は現在よりもはるかにアクチュアルなものがあったのだ。

 表紙には一本の弱々しい木が一本(・・下の写真を参照)。映画では、核戦争が勃発したまさにその日に、「日本の木」を植えたことになっている。未来に向けて花が咲くことになっている枯れ木。これは人類の未来への投企なのである。

 三陸の大津波の被災地でも、松の木が一本だけ残ったという、そういう映像をTVで見た。奇しくも、同じ光景だ。デジャヴュー(既視感)を感じたのは、この『サクリファイス』という映画のことを思い出したからでもある。



 『サクリファイス』そのものは難解で好みの作品ではないとはいえ、なによりも記憶に残っているのは、インタビューでタルコススキーが語っているコトバである。 

 原発事故の起こった土地の名前であるチェルノブイリとは、ウクライナ語では「にがよもぎ」という意味だそうだ。しかも、その「ニガヨモギ」は『黙示録』に出てくるのだと。

 パンフレットに収録されている、「Interview タルコスフキー自作を語る」から、該当箇所を引用しておこう。このインタビューは 1986になされたものである。

-(インタビュアー) あなたは黙示録に熱中しているようですが、その到来が速まることを望んでいるからですか?

タルコフスキー 黙示録というのは、やがて起こるであろうことではありません。それはとうの昔に始まっことなのです。問題にできるのはその終わりだけなのです。私はただわれわれがどこまできたか見ているだけです・・・黙示録というのは、「終わりの書物」ですから、悲しみにみちた思想はそこからおのずとやってくるのです。チェルノブイリ(これはウクライナ語でにがよもぎのことです)のタイプは、「にがよもぎの星」 (訳注--『黙示録』のなかで、終末に空から降ってくるとされる破壊の星のこと。(ドストエフスキーの)『白痴』で言及されている)と関係があるのです。(鴻 英良訳)


 チェルノブイリは、ウクライナ語で『ヨハネ黙示録』にでてくる「にがよもぎの星」を連想させるという驚愕の事実! 偶然にしては、あまりにも奇妙なまでの符合である。 

 チェルノブイリ原発事故は、たんに「レベル7」の大事故であっただけでなく、「死の灰」という「黙示録の四騎士」が解き放たれたのである。そういう「黙示録」のイメージもまたまき散らされたのであった。まさに終末意識そのものに、キリスト教世界が覆われていたのである。


『ヨハネ黙示録』はキリスト教の「終末論」を代表する、新約聖書の最後に置かれた特異な一書

 『ヨハネ黙示録』(The Revelation of St. John the Divine)の該当箇所を、日本聖書協会の「文語訳聖書」と英国の「欽定訳聖書」(King James Version)から引用しておこう。ギリシア語の原文は省略する。

第八章 10  第三の御使ラッパを吹きしに、燈火(ともしび)のごとく燃ゆる大(おほい)なる星天より隕ちきたり、川の三分の一と水の源泉(みなもと)の上におちたり。 11 この星の名は苦艾(にがよもぎ)といふ、水の三分の一は苦艾となり、水の苦くなりしに因りて多くの人死にたり。

8:10 And the third angel sounded, and there fell a great star from heaven, burning as it were a lamp, and it fell upon the third part of the rivers, and upon the fountains of waters;
8:11 And the name of the star is called Wormwood: and the third part of the waters became wormwood; and many men died of the waters, because they were made bitter.

*太字ゴチックは引用者(=私)による 

 「にがよもぎの星」が墜ちてきて、水が苦くなった、そして多くの人が死んだ・・・。あまりにも直接的なイメージを喚起するではないか!

 『黙示録』(Revelation)は、新約聖書のいちばん最後の最後におかれたもの。その他の文書とは、かなり性格の異なるものである。Revelation とは、隠れているものを明らかにするという動詞 reveal の名詞形だ。

 日本でも「アポカリプス」の名で知られているのは、フランシス・コッポラ監督のベトナム戦争もの『地獄の黙示録』(Apocalyps Now)のおかげだろう。ギリシア語の元タイトルは Aπōκάλυψις Ιωάννης、ラテン語: Apocalypsis Johannis、直訳すれば「ヨハネのアポカリプス」である。

 「黙示録」の作者のヨハネは、「洗礼者ヨハネ」(John the Baptist)とは区別され、「使徒ヨハネ」(John the Apostle)と呼ばれている。エーゲ海の小島パトモス島に籠もって、黙示録を書き上げたといわれる。

 『黙示録』の全篇には、虐げられたもののルサンチマン、呪詛と復讐にみちみちた文章。異様なまでのレトリックが充ち満ちている。キリスト教をベースにした西洋文明の根底に存在する「終末論」を代表する文書である。

 何もいまここで、福島第一原発の事故が「黙示録」を想起すると言いたいわけではない。キリスト教の伝統のない日本では、『エヴァンゲリオン』をはじめとする、サブカルチャーの世界では「黙示録」が繰り返し再生産されて語られているにしても、欧米のキリスト教世界とは違って、ほんとうの意味でのリアリティはない。

 以前このブログにも書いたが、リーマンショック後の強欲資本家たちの狼狽ぶりに見られた「終末論」とは様相を異にする。

 だが、原発が立地している土地に住んでいたがゆえに、放射能汚染によって住み慣れた故郷を強制的に追われ、ディアスポーラ(離散)を強いられている福島県人の怒りが解き放たれたことも確かである。

 ある意味では「封印が解かれた」という「黙示録」の比喩的表現で語ることも不当とは言えまい。この事件が、すくなくとも離散を強いられた福島県人のあいだで半永久的に語り伝えられであろうことは間違いない。

 福島県人は文字通り、原発事故という人災の「サクリファイス」(犠牲)となってしまったのか・・・?

 だが、日本史を振り返れば「末法思想」も何度も現れているが、今回の原発事故が「末法の世」や「終末」にあたるとはわたしは思わない。

 なぜかというと、むしろ、1995年のほうがその感が強かったのではないかと思うからだ。言うまでもなく、阪神大震災とオウムのサリン事件が続いた年である。

 永井荷風のコトバを借りれば、「近年世間一般奢侈(しゃし)驕慢(きょうまん)、貪欲飽くことを知らざりし有様」(『断腸亭日常』)だったバブルが崩壊してから 5年、すべてが加速度をつけて崩壊しつつあるという感は 1995年当時のほうが強かった。バブル期とのコントラストがあまりにも強かったこともある。 

 わたしは、今回の大震災と大津波、そして原発事故は、日本人の「新生」にむけての「覚醒」を促すキッカケとなったと、後世からは位置づけられることになると考えている。

 これまで何度も大きな危機をくぐり抜けてきた、復元力のある日本人のことである。日本人の危機からの復元力は、すでに文字通り DNA に確実に刻まれた「民族の集合記憶」というべきだろう。

 これがわたしの時代認識だ。


「使徒ヨハネ」が隠棲していたパトモス島にいってみたことがある

 「使徒ヨハネ」が隠棲して「黙示録」を執筆していたという、エーゲ海のパトモス島にいってみたことがある。チェルノブイリ原発事故から 6年たった 1992年のことだ。

 パトモス島は、とくに何の変哲もないが、農業と牧畜が主要産業の、急坂の続く、静かな小島である。

 ギリシアからトルコにかけて、エーゲ海の島巡りをしていたわたしは、日本人にはあまりなじみはないが、「使徒ヨハネ」と「黙示録」の連想をともなうパトモス島に興味がひかれたのだった。

 たしか、ロドス騎士団で日本人にもおなじみのロドス島からフェリーに乗って渡ったのだろうか。ちょっと記憶が確かではないのだが。

 パトモス島には一泊した。宿泊先では、隣の部屋に長期滞在していたドイツ人女性と、テラスでいろいろ会話したことを思い出した。

 その際の会話では、「ヨハネの黙示録」の話は、なぜかいっさい出なかった。

 ドイツ人にとってのギリシアの島々は、日本人にとっての東南アジアの島々のようなものだ。つまりアイランド・リゾートということである。

 そのことがよくわかったのが、パトモス島を含めたエーゲ海の島々での滞在の収穫であった。





<関連サイト>

チェルノブイリ事故25年を前に集会


<ブログ内関連記事>

『ソビエト帝国の崩壊』の登場から30年、1991年のソ連崩壊から20年目の本日、この場を借りて今年逝去された小室直樹氏の死をあらためて悼む

スリーマイル島「原発事故」から 32年のきょう(2011年3月28日)、『原子炉時限爆弾-大地震におびえる日本列島-』(広瀬隆、ダイヤモンド社、2010) を読む
・・1979年の米国でスリーマイル島で原発事故があった年はまた、ソ連によるアフガン侵攻が起こった年だ。そして、1986年のチェルノブイリ原発事故が、ソ連崩壊につながっていく

書評 『聖書の日本語-翻訳の歴史-』(鈴木範久、岩波書店、2006)
・・日本では明治時代以降は主流のプロテスタント聖書を中心に

『新世紀 エヴァンゲリオン Neon Genesis Evangelion』を14年目にして、はじめて26話すべて通しで視聴した
・・「核戦争後」の世界における、さらなる「終末論」的闘争の世界。サブカルチャーの世界に充満する疑似キリスト教的「終末論」

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む
・・一神教世界における「終末論」について。キリスト教、ユダヤ教、イスラームのそれぞれについて解説。

書評 『ギリシャ危機の真実-ルポ「破綻」国家を行く-』(藤原章生、毎日新聞社、2010)
・・「ユーロ危機」の震源地ギリシアは、欧州というよりもアジア・アフリカの発展途上国に近い




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2011年4月24日日曜日

大震災のあと余震がつづくいま 『方丈記』 を読むことの意味


 行く川のながれは絶えずして、しかも本(もと)の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし・・・

 鴨長明の『方丈記』、さすがにこの冒頭の数行をまったく聞いたこともないという人は少ないだろう。

 いまでも、高校の古文の授業では、『徒然草』や『伊勢物語』、『源氏物語』、『奥の細道』などとならんで、かならず暗誦をもとめられるはずだ。

 仏教的無常観と自然科学的観察が合致した、簡潔で味わい深い文章。日本人の精神を深いところで規定している、諦念(あきらめ)の精神やうつろいの美意識を端的に表現したものだろう。

 今回の「東北関東大震災」と「大津波」に際して、けっして騒ぎ立てることのない日本人の姿をみて、当初は外国人ジャーナリストたちは賞賛を惜しまなかった。「日本人はまるでストア派のようである」、と。

 ストア派とは、エピクテートスに代表されるギリシア後期ヘレニズム期の倫理哲学者たちのことだ。ストイック(stoic)というコトバの語源がそこにある。『自省録』をギリシア語で書いたローマ皇帝マルクス・アウレリウスもそこに含まれる。

 たしかに、喜怒哀楽を全面的に爆発させる韓国人や中国人とは、あきらかに異なるのが日本人の態度である。アイゴーやアイヤーと絶叫し泣き叫ぶ姿は、フツーの日本人からみるときわめて異様であり、エキゾチックですらある。この点は、日本人は果たしてアジア人か(?)という、大いに議論すべき重要なポイントだ

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が書いた文章のなかにも、日本人のそうした心の持ち方や態度を描いた作品がいくつかある。「顔で笑って心で泣いて」は、いまの時代でも変わらず日本人を日本人たらしめているのかもしれない。けっして感情の温度が低いわけではない。それをさして「草食系」と呼びたければ呼べばいいだけの話だ。

 日本人のように、運命を運命そのものとし受け入れること(amor fati)、事実を事実として虚心坦懐に受け止めること、これはきわめて雄々しい態度ではないか。まさにストア派的である。

 とはいえ、極端なリゴリズム(=厳格主義)というガマンの精神も、いい面ばかりでないことは言うまでもない。明治初期の浄土真宗の僧侶で仏教学者であった清沢満之(まんし)は、将来を嘱望されていた学者であったが、エピクテートスを熟読し、厳格なストイックな生活を自らに強いた結果、肺結核を発病し、惜しいかな寿命を縮めている。明治時代の日本人にはストア派哲学を受け入れやすい土壌もあった。

 言挙げすべきことは言挙げする。さきほど、米TIME誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出された南相馬市長の桜井さんのように。日本人がこのように言い出したときは、ほんとうにガマンが決壊したときである。忍の一字でガマンにガマンを重ね、しかしもうそれ以上ガマンの限界を超えたときの日本人の怒りはすさまじい。

 怒るときには怒らねばならない。ダライラマも言われるように「慈悲の心をもって怒れ!」。それは私利私欲にもとづいた濁った怒りではなく、公憤という透明な怒りであるから。静かな怒りであるから。


虚心坦懐に『方丈記』の書き出しを味わってみる

 筆が大幅にそれてしまった。本題である『方丈記』に戻ろう。まずは、冒頭の一節を含む最初の文章をじっくりと味わってみましょう。私もこうやってじっくり読むのは高校時代以来のことです。

 行く川のながれは絶えずして、しかも本(もと)の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
 世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。
 所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに 生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。
 又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

(出典)Japanese Text Initiative 所収の「方丈記」(Hojoki)。Japanese Text Initiative は、バージニア大学図書館エレクトロニック・テキスト・センターとピッツバーグ大学東アジア図書館が行っている共同事業。


 「知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る」、この文句は、ゴーギャンがタヒチで描いた有名な絵画作品を思い出す。「我々は何者か、我々はどこへいくのか」

 「あるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず」。その根底ににある「無常観」。常なるものは世の中にはない、瞬間瞬間に変化しているのであるという認識。

 「朝顔の露」という美しいメタファー(隠喩)は、仏教的認識の表現であるとともに、きわめて科学的な観察に基づく認識であるといってよい。

 そもそも仏教的認識は科学的認観察に基づくものだ。いわゆる鎌倉新仏教発生以前の、ありのままを見るという、ほんらいの仏教の精神態度がよくあらわれていると言っていいかもしれない。外部世界の観察をつうじて、同時に自分の心のなかを観察している。


いま『方丈記』を読む意味があるのは「おほなゐ」(大地震)と余震にかんする具体的な記述があるからだ

 さて、いまこそ『方丈記』を読む意味とは、大地震(おほなゐ)の記述があるからだ。全文を読んでもたいした分量ではないのだが、いまこの時点では、この箇所だけでも読んでおきたい。

 元暦2年(1185年)の大地震にかんする貴重な記述である。源平の騒乱の時代、このときの天皇は後鳥羽天皇であった。 3月24日(太陽暦4月25日)壇ノ浦の戦いに平氏一門が滅亡、幼子であった安徳天皇が母親に抱かれて入水している。

 また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれたる間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。

 おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。その中に、あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついぢのおほひの下に小家をつくり、はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。

 子のかなしみにはたけきものも恥を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかども、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。むかし齊衡のころかとよ、おほなゐふりて、東大寺の佛のみぐし落ちなどして、いみじきことゞも侍りけれど、猶このたびにはしかずとぞ。すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。

*出典は同上。太字ゴチックは引用者(=私)


 すさまじいばかりのディテール描写ではないか。現代語に直しながら、その描写を点検してみよう。

  ●「山が崩れて川を埋めた」・・崩落現象と山津波
  ●「海が傾いて陸を浸した」・・津波である。
  ●「土が避けて水がわき上がった」・・液状化現象だ。
  ●「大きな岩石が割れて谷に転げ落ち、渚を漕ぐ舟は波に漂い、道行く馬は足の踏み場に惑っている」・・すさまじい崩落現象と山津波が目に浮かぶ。
  ●「いわんや、都のほとりでは、至るところで、お寺のお堂や塔も一つとして破壊を免れたものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れているが、塵や灰が立ち上がって煙のようだ」・・建物が崩壊して舞い上がる塵や灰
  ●「大地が揺れ動き、家屋が倒れる音は雷鳴そのものだ」・・すさまじいまでの轟音
  ●「家の中にいるとあっという間に押しつぶされかねない。外に走り出せば、地面がわれ裂ける」・・はげしい地割れ

 6歳か7歳の武士の子ども、遊んでいたら倒壊した建物に生き埋めになって両目だけがでている姿を声をあげてなき叫んでいる、あわれをもよおす描写もある。

 余震の程度がひどく、多い日には一日に20~30回、だんだん少なくなっていったが、余震が3ヶ月にわたったことが記されている。

 「3-11」に大震災が発生し、いまだ余震がつづく現在、『方丈記』のこの記述を読むと、リアリティがあることにあらためて、これはそのとおりだと感じさせらるのである。


『方丈記』と現代

 『方丈記』は、おほなゐ(大地震)の記述だけでなく、源平騒乱時代のほとんど末法の世ともいうべきで会った当時のみやこの記憶をつづったものだ。

 いまこの 2011年を「末法の世」とは思わないが、天変地異が大きな歴史的転換をもたらすのは、この国にかぎらず、世界中どこでもそうである。

 しかし、源平騒乱はこの大地震の年に終わっている。壇ノ浦で安徳天皇もろとも平家は入水し、源頼朝による鎌倉幕府へとつながってゆく。

 『方丈記』の舞台は、時代の大きな転換期にあった。「末法の世」もいつまでも続くわけでなく、あらたな秩序が形成され、新しい時代へとつながってゆく。このこともまたアタマのなかにいれておきたい。

 堀田善衛の『方丈記私記』(1971年)も高校時代に読んだ一冊だ。戦乱に明け暮れた末法の世の中を描いた方丈記を、戦争を中国大陸で体験した著者が現代の視点で読み解いた作品。『方丈記』以上に印象深い作品である。

 高校時代に読んだのは新潮文庫版であったが、現在ではちくま文庫から出版されて入手可能である。

 あわせて、ぜひ読んで頂ければと思う。








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・・「起きて半畳 寝て一畳」。北海道の命名者で探険家の松浦武四郎は、晩年「一畳敷」を作って楽しんでいた。方丈は、一丈四方のこと。一丈は約3m、タタミ一畳は、182cm×91cmが標準サイズなので、大きさは感覚的につかめると思う。




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2011年4月23日土曜日

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む


 ここ数年、永井荷風(1879年~1959年)の人気が、じわじわ上がってきているという。

 独身できままに、かつ毅然とした独立自尊の人生をまっとうした荷風が、生き方のロールモデルとして男女を問わず脚光を浴びているらしいのだ。リタイア後の男性だけでなく、若い世代の男女にも。

 高校時代、千葉県船橋市の学校に通っていた私にとって、終の住処(ついのすみか)を千葉県市川市に定めて、京成電鉄をつかって浅草通いをしていたという永井荷風には、大いに親しみを感じていたものだ。

 岩波文庫や新潮文庫に収録されていた作品はあらかた読んでいる。永井荷風とも親交の深かった谷崎潤一郎ともに私の好みの作家だが、高校生にしては変わった読書傾向であったかもしれないとは、当時でも感じてはいた。だからこそ、若い人のあいだで荷風の生き方に関心が強まっているというのはうれしいのだ。作品そのものではなく、生き方そのものであるにしても。

 このブログでも何回か書いている、岡本太郎、折口信夫、白洲次郎、岡倉天心などと並んで、近代日本の個人主義者の系譜のなかでも特筆すべき人物であるといってよい。永井荷風もまた「プリンシプル」を貫いた人生を送った人である。

 都内の麻布町(・・現在の港区六本木一丁目)にたてた洋館を、偏屈で奇人が住む館(やかた)という意味で「偏奇館」と名付けるネーミング感覚は、白洲次郎が疎開先の日本屋敷を「武相荘」(=無愛想)と名付けたセンスに共通するものがある。

 親の財産も相続し、著者印税の収入もあった永井荷風が、株式投資によって財産をつくっていたことは比較的知られている。たしか、いま話題の東京電力株も、長期安定投資として保有していたようだ。

 その「偏奇館」が焼失して、疎開先を転々とした記録のことは、高校時代の現国の授業で受けたことを、ガリ版刷りの教材とともにに記憶している。
 
 その教材は、永井荷風が 38歳から死ぬ直前の 79歳まで42年間にわたって書き続けた『断腸亭日乗』(だんちょうてい・にちじょう)からとられたものであることは、大学時代にあらためて再確認した。膨大な『荷風全集』(岩波書店)の存在を知ったのは、大学図書館に入り浸っていた頃である。なお、下に掲げた肖像写真は、永井荷風49歳(1927年)の頃のもの。


 大学時代でも、周辺に永井荷風を読んでいるような人間は、ごく少数を除いて、ほとんどいなかったように思う。『あめりか物語』『ふらんす物語』は大学時代に読んだ。『すみだ川』『墨東奇譚』、訳詩集の『珊瑚集-仏蘭西近代抒情詩選-』などは高校時代に読んでいる。

 西洋文明を実地に住んで極めてこその日本美再発見、これはハイスクール時代の 3年間を米国で過ごした白州正子にもつうじるものがある。なお、荷風は横浜正金銀行(・・のちの東京銀行、いまは吸収されて現在の三菱UFJ銀行)の行員として米国に 4年間、フランスには 1年弱滞在している。

 さて、『断腸亭日乗』だが、関東大震災の際の記述を読んでいると、なかなか興味深い。手元には、もちろん『荷風全風』などないので、岩波文庫の磯田光一による「摘録」から、さらに震災と余震関連、破壊された東京とその後の復興にかんする記事をピクアップしておこう。

 テキストは『摘録 断腸亭日乗 上』(永井荷風、磯田光一編、岩波文庫、1987)

 幸いなことに、昭和20年(1945年)に焼失することとなる「偏奇館」は、関東大震災(1923年)の際には、焼失を免れたのであった。


大正12年(1923年)荷風年四十五

 九月朔。曶爽(こつそう)雨歇(や)みしが風なほ烈し。空折々掻(かき)曇りて細雨烟(けぶり)の来るが如し。日まさに午(ひる)ならむとする時天地忽(たちまち)鳴動す。 予書架の下に坐し『嚶鳴館遺草』を読みゐたりしが、架上の書帙(しょちつ)頭上に落来るに驚き、立つて窗(まど)を開く。門外塵烟(じんえん)濛々殆(ほとんど)咫尺(しせき)を弁ぜず。児女雞犬の声頻(しきり)なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるがためなり。
 予もまた徐(おもむろ)に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまゝ表の戸を排(おしひら)いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に椅りておそるおそるわが家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の扉も落ちず。やや安堵の思をなす。

 昼餉(ふるげ)をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二、三の外客椅子に坐したり。
 食後家に帰りしが震動歇(や)まざるを以て内に入ること能はず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。
 ホテルにて夕餉(ゆうげ)をなし、愛宕山(あたごやま)に登り市中 の火を観望す。十時過江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南阪を上り、大村伯爵家の鄰地にて熄(や)む。わが廬を去ること僅に一町ほどなり。

 九月二日。昨夜は長十郎と庭上に月を眺め暁の来るを待ちたり。長十郎は老母を扶け赤阪一木(ひとつぎ)なる権十郎の家に行きぬ。予は一睡の後氷川を過ぎ権十郎を訪ひ、夕餉の馳走になり、九時頃家に帰り樹下に露宿す。地震ふこと幾回なるを知らず。

 九月三日。微雨。白昼処々に放火するものありとて人心恟々(きようきよう)たり。各戸人を出し交代して警備をなす。梨尾君来りて安否を問はる。

 九月四日。曶爽家を出で青山権田原を過ぎ西大久保に母上を訪ふ。近巷平安無事常日の如し・・(後略)・・

 九月十八日。災後心何となくおちつかず、庭を歩むこともなかりしが、今朝始めて箒を取りて雨後の落ち葉を掃ふ。郁子(むべ)からみたる窗(まど)の下を見るに、毛虫の糞おびたゞしく落ちたり。郁子(むべ)には毛虫のつくこと稀なるに今年はいかなる故にや怪しむべき事なり。正午再び今村令嬢と谷町の銭湯に徃く。

 九月十九日。旦暮新寒脉々(みゃくみゃく)たり。萩の花咲きこぼれ、紅蜀葵(こうしょくき)の花漸く尽きむとす。虫声喞々(しよくしよょく)。閑庭既に災後凄惨の気味なし。『湖山楼詩鈔』を読む。

 十月三日。快晴始めて百舌(もず)の鳴くを聞く。午後丸の内三菱銀行に赴かむて日比谷公園を過ぐ。  
 林間に仮小屋建ち連り、糞尿の臭気堪ふべからず。公園を出るに爆裂弾にて警視庁及近傍焼残の建物を取壊中徃来留(とめ)となれり。数寄屋橋に出で濠に沿ふて鍛冶橋を渡る。到る処糞尿の臭気甚しく支那街の如し。
 帰途銀座に出で烏森を過ぎ、愛宕下より江戸見阪を登る。阪上に立つて来路を顧れば一望唯渺々たる焦土にして、房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりと謂ふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑(こくど)亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさゞる国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ。

 十月四日。快晴。平沢生と丸の内東洋軒にて昼餉(ひるげ)を食す。初更強震あり。

 十月八日。雨纔(わずか)に歇(や)む。午後下六番町楠氏方に養はるゝ大沼嘉年刀自を訪ひ、災前借来りし大沼家過去帳写を返璧す。刀自は枕山先生の女、芳樹と号し詩を善くす。年六十 三になられし由。この度の震災にも別条なく平生の如く立働きて居られたり。旧時の教育を受けたる婦人の性行は到底当今新婦人の及ぶべき所にあらず。日暮 雨。夜に入つて風声淅々(せきせき)たり。

 十月十六日。災後市中の光景を見むとて日比谷より乗合自働車に乗り、銀座日本橋の大通を過ぎ、上野広小路に至る。浅草観音堂の屋根広小路より見ゆ。銀座京橋辺より鉄砲 洲泊舩の帆柱もよく見えたり。・・(後略)・・

 十一月朔。・・(略)・・深夜強震あり。

 十一月五日。払暁強震。午後丹波谷の中村を訪ふ。震災後私娼大繁昌の由。 (以下省略)


*( )内のルビ、太字ゴチックは引用者(=私)によるもの。読みやすくするために、適宜開業も行った


 この岩波文庫版はそうとう省略しているので、実際はまだまだ余震にかんする記述が、日記のつれづれにある。『摘々録 断腸亭日乗』を参照されたい。

 それにしても震災当日のすさまじさは、ディテールの記述が具体的であざやかである。ロジカルで、かつリズミカルで読みやすい文章だ。漢詩を好んでいた荷風らしく、じつに漢字の多い文章ではあることを除けば。

 荷風の発言は、あくまでも日記のなかであるので、リアルアイムで対外的になされたものではないが、随所にみられる、文明批評的発言には、やはり注目すべきものがあるというべきだろう。

 ときに大震災から約一ヶ月後の 10月3日には、かなり強い語調での発言がなされている。この発言にははり驚かざるをえないものがある。

 阪上に立つて来路を顧れば一望唯渺々たる焦土にして、房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりと謂ふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑(こくど)亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさゞる国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ。

 現代語訳しておこう。

 坂の上に立って、いま来た道を顧みれば、一望すると遠く一面にわたって焦土と化しており、房総の山影はさえぎるものもないので、手に取るように近くに見える。帝都(・・かつては首都のことを帝都といっていた)東京の光景は哀れというのも愚かなことだ。だが、つらつら明治時代以降いま大正時代の帝都東京を見ると、いわゆる山師の玄関に異ならない。愚民(・・愚かな民衆)をあざむくいかさまモノに過ぎないのであって、灰となってしまったと言っても、たいして惜しいと思うには及ばない。ここ近年、世間一般では、ぜいたくにおごり高ぶり、欲望のおもむくままに飽くことを知らない状況であったことから考えると、このたびの災難はじつに天罰だと言うべきだ。深く悲しむべきであろうか、いやそんなことはない。民衆はすでに住む家を失い、国家の財産もまたカラになってしまった。外観のみ飾って「国家百年の計」をなさなかった国家の末路は、すなわちこのようなものなのだろう。自業自得で天罰はてきめんというべきのみだ。


 文学者の発言で、しかもエリート的な「上から目線」を非常につよく感じる発言である。対外的になされた公的な発言ではないとはいえ、穏当を欠くものではあることは否定できない

 とはいえ、永井荷風と同じコトバを感じる人は、もしかすると少なくないのではないだろうか? さきに大震災と大津波を指して、「天罰」発言でバッシングを受けた東京都知事の発言も、あながち的外れとはいえないのではないだろうか?

 だが、「近年世間一般奢侈(しゃし)驕慢(きょうまん)、貪欲飽くことを知らざりし有様」だったか、と言われれば、それはすでに1990年段階で崩壊しており、2011年にはあてはまらないし、都知事の発言も文学者のものとしてはさておき、公人としては穏当を欠くものだと批判されても仕方ない。都知事が天罰のあとに付け加えた「死んだ人たちはかわいそうだけどね」というのも、あからさまな「上から目線」である。

 とはいえ、都市計画のないまま迎えた大震災の被害状況に対する批判としては、そのままあたっているのではないだろうか? 帝都東京の復興にあたって、復興院総裁の後藤新平が、「大風呂敷」とまで批判されながらも、壮大な都市計画でもって再建にあたろうとしたことは、文学者と実務家の違いはあれ、問題意識を共有していたことがうかがうことができる。

 永井荷風の日記に記した感想は、寺田寅彦の科学的視点からみた文章「天災と国防」と比較して読んでみるのもよいだろう。

 さあ、雨もあがって晴れたことだし、散歩にでかけるとするか。『日和下駄』(ひよりげた)にならって。さすがに荷風ではないから、蝙蝠傘を手にぶらさげてスーツに下駄履き(!)ということはありえないが(笑)






<関連サイト>

『摘々録 断腸亭日乗』
・・大震災後の余震関連の記事は、こちらを参照するとよくわかる。なお、岩波文庫版とは表記が異なる。

著作権は切れているが、「青空文庫」がまだアップしていないのが残念


<ブログ内関連記事>

関東大震災の関連

「天災は忘れた頃にやってくる」で有名な寺田寅彦が書いた随筆 「天災と国防」(1934年)を読んでみる

石川啄木 『時代閉塞の現状』(1910)から100年たったいま、再び「閉塞状況」に陥ったままの日本に生きることとは・・・ 


永井荷風と同じ精神の持ち主たちのこと

「プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか」-白洲次郎の「プリンシプル」について

岡倉天心の世界的影響力-人を動かすコトバのチカラについて-
・・Asia is One (アジアは一つなり)というコトバについて

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
書評 『ピカソ [ピカソ講義]』(岡本太郎/宗 左近、ちくま学芸文庫、2009 原著 1980)
・・岡本太郎について

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
・・永井荷風について触れている。留学経験がなく、西洋的個人主義者ではなかった折口信夫もまた、「世間の外」に居続けた個人主義者であった

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)
・・歴史学者・阿部謹也による「世間論」について



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2011年4月21日木曜日

「プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか」-白洲次郎の「プリンシプル」について


 白洲次郎(1902年~1985年)の人気は依然として高どまりしている。下降する兆しも見えない。これはここ数年の現象だ。

 もともとは、白洲正子(1910年~1998年)の人気から始まったものだ。

 日本美の世界を精力的に紹介し続けた白洲正子。凛とした姿と言動には、とくに女性を中心にしたファンが多い。

 1990年代に入って再燃した白洲正子ブーム、わたしも何冊か白洲正子の書いたものを読んでいて俄然気になってきたのは、配偶者であった白洲次郎とは何者か(?)という、強い好奇心にもとづいた疑問であった。

 『白洲正子自伝』では「一目惚れして結婚した相手」だとあるが、何をしていた人かについては断片的な記述しかないので、正直なところよくわからないままだった。白洲正子の本で、白洲次郎がクチにしていた country gentleman(カントリー・ジェントルマン) や grumble(ブツブツいう) というイギリス英語とその意味を知ったことぐらいか。

 これは私だけの疑問ではなかったようだ。多くの人たちが白洲次郎という「謎の男」に関心をもつようになったことから、白洲次郎の再発見になっていったのだろう。


「風の男 白洲次郎」


 そんななかで出たのが 『風の男 白洲次郎』(青柳恵介、新潮社、1997)。この本を読んで、白洲正子よりもはるかに面白い日本人がいたのだということをはじめて知って、驚きに満ちた喜びを感じたものだ。現在は文庫化されて新潮文庫から版を重ねている。
 
 白洲次郎については、だんだんと全貌が明らかになり、その後ついには白洲正子人気を上回るほどの存在となったことは、あえて書くまでもないだろう。

 なんといっても、占領下の日本で政治家・吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた男である。

 日本国憲法の草案作成にかかわった男である。

 米軍の高官に向かって「あなたの英語は下手だ」と言ってのけた男である。 夫婦のあいだの会話を英語でやっていた男である。白洲正子は米国仕込み、白洲次郎は英国仕込み。

 ケンブリッジ大学で西洋中世史を専攻し、のちに実業界で活躍することになりながら、トロツキイも熟読していた男である。

 この戦争に勝ち目はないとして、さっさと引退して関東郊外に土地を購入し、「武相荘」(=無愛想)なる和風の屋敷をつくって引きこもり、農作業に専念した男である。

 イネの品種「農林●●号」の発明者のことを誉めて、何かをインベント(invent:発明)することがえらいのだと断言していた男である。

 「葬式無用 戒名無用」と遺言を遺して、風のように去っていった男である。

 書いていればキリがない。あまりにもカッコ良すぎるのだ。長身で脚が長い、日本人離れしたその容姿と言動の数々。

 しかし、ほとんんど公的な発言を残さないまま、それこそ「風の男」として、さまざまな機密は墓のなかに持っていってしまった。


「プリンシプル」のある日本人・白洲次郎


 『プリンシプルのない日本-プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか。-』(白洲 次郎、ワイアンドエフ、2001) は、そんな白洲次郎が自ら執筆した数少ない文章を編集して、一冊にまとめたものだ。ほぼ唯一の自著だといってよい。現在は新潮文庫に収められている。

 プリンシプル(principle)とは何か?

 思いつくままに、該当すると思われる日本語をあげていってみよう。

 原理原則、しっかりと伸びた背骨、バックボーン、ブレない軸、ゆるぎない座標軸、一本通ったスジ(筋)、コア・バリュー(価値観)。いいかえればインテグリティのことでもある。

 インテグリティ(integrity)とは日本語に訳しにくいが、一般に訳されている「誠実」という意味よりも、発言にブレのない、首尾一貫した姿勢をさしていると理解したい。つまり、白洲次郎の生き様そのものだ。

 先にあげた『プリンシプルのない日本』には収録されなかった文章や対談が、その後多数再発見されて収録されたのが、『総特集 白洲次郎(文藝別冊)』(河出書房新社、2002)である。白洲次郎が書いた文章、対談や鼎談などしゃべった内容は、この二冊でほぼカバーされている。

 基本的に評論家ではなく、実業の世界に長くいた人だから、コトバよりも実践という姿勢が強かったのは当然だろう。

 だが、白洲次郎が残したコトバの断片は、あまりにも鮮やかで、魅力的だ。行動をともなっていたコトバだから、評論家の空疎な響きのコトバとはまったく違うのだ。

 反原発論者の広瀬隆は、東北電力会長としての白洲次郎は原発導入にかかわった人物だとして、『原子炉時限爆弾』(ダイヤモンド社、2009)で非難糾弾(?)しているが、この件については、わたしにはよくわからない。

 日本国憲法草案の作成に大きく関与し、その後は通産省(通商産業省、現在の経済産業省)にも大きくかかわっていた白洲次郎である、エネルギー政策にも当然関与しているはずだろう。その結果の東北電力会長就任だろう。

 実業家としての白洲次郎については、東北電力会長時代、みずからジープ(?)を運転して、いきなりダム建設現場を訪れたりすることを好んでやっていたというエピソードがいい。当時を知る人が、分け隔てなく接する人だったと回想しているのを読むと、かくあるべしという気持ちになるのは私だけではないだろう。

 敗戦後の日本で、国の行く末に深く関与した経験をもつひとであったから、全体を見据える「上から目線」の持ち主であったのは当然だ。だがその一方で、「下から目線」の意味も熟知し実践もできる人であった。

 私はそのように理解している。そこにまた魅力を感じるのでもある。


リスペクトすべき日本人。日本人は日本人として生きればよい

 白洲次郎は、私が尊敬する日本人の一人である。

 もし 10代の頃にその存在を知っていたなら、間違いなくその生き様をロールモデルとして、真似て真似尽くしたはずだ。

 だが、30歳台も半ばをい過ぎてからその存在を知ったのにかかわらずリスペクトしているのは、外見はせておき、気質的には近いからだろう。

 国際人とかそういった存在というよりも、まず人間であり、そして日本人であったという人間存在のありかたが実にいい。

 職業は何かと問われて、「人間だ」と答えた岡本太郎にも通じるものがある。

 あるいは、明治時代の岡倉天心などの国際人にもつうじるものといってもいい。国際人は、真に愛国者でもある。その一つの典型が、白洲次郎である。

 だが、白洲次郎のような生き方を貫けば、孤独とは縁が深くなる。これは岡倉天心も、永井荷風も、岡本太郎も同じだったことだろう。日本的な世間というものから距離を置いた生き方だからだ。脇目をふらず、我が道を行く生き方。

 「とかくメダカは群れたがる」という辛辣な表現をした作家がいる。当時のいわゆる「文壇」をさして言ったものだが、いわゆる「文士」に代表される文筆を業とする知識階層の日本人も、一皮むけば日本人以外の何者でもないことを、見事なまでに表現しきったものだ。

 その意味では、西洋の個人主義にどっぷりと浸かった体験をもつ白洲次郎はまさにその対極の存在であったといえよう。

 何からかの特定の「場」に属していなければ「安心」できないのが大半の日本人だが、「安心」と「信頼」が根本的に異なるものであるということに気がつかねばならない。

 そして「安心」がすぐに「慢心」に変わりやすいのも、わたしも含めて、日本人の悪しき特性である。根本にあるのは「甘え」であろう。独立自尊の精神とは対極にある「甘え」。

 実業の世界にいたが、白洲次郎は財界とは距離を置いていた。どこか特定の「場」に帰属していないと安心できないというような精神の持ち主ではなかったようだ。「群れたがるメダカ」ではなかったということだ。

 それは、自らのなかに確固とした「プリンシプル」があったからに他ならない。

 しかし思うにつけ、政治の世界はいうに及ばず、ビジネスの世界においても「プリンシプル」(原理原則)どころか、「ディシプリン」(規律)も持ち合わせない人たちが多すぎる。

 「経済二流、政治漂流」の日本が続く限り、白洲次郎の価値は衰えることはないだろう。

 しかし、いまは大東亜戦争の敗戦以来の「国難」のさなかにある。いまこそ、白洲次郎のような「プリンシプル」あるリーダーが求められているのではないか。

 いまは、日本が大転換する絶好のチャンスである。ピンチはチャンスである。

 だが、待望するだけでは未来は切り開けない。若い世代から「白洲次郎」たちが多く出てくることを切に願う。











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<ブログ内関連記事>

白洲次郎についての言及があるもの

書評 『マネーの公理-スイスの銀行家に学ぶ儲けのルール-』(マックス・ギュンター、マックス・ギュンター、林 康史=監訳、石川由美子訳、日経BP社、2005)
・・スイスの銀行である UBS(当時は SBC)傘下に入っていたSBC ウォーバーグ(Warburg)にからめて、ウォーバーグの顧問を務めていた白洲次郎について触れている。実業家としての白洲次郎というのは、そもそもビジネスについては外に漏れる性格の話ではないので、よくわからないことも多い

書評 『失われた場を探して-ロストジェネレーションの社会学-』(メアリー・ブリントン、池村千秋訳、NTT出版、2008)
・・「特定の「場」に帰属しない関係、すなわち複数の「場」に横断的にかかわる存在も、日本では必然的に「孤独」を友とえざるをえない。たとえば、白洲次郎などの突出した、非日本的日本人がそれにあてはまるだろう。日本の大学を卒業せず、日本の会社には経営者としてしか働いたことはなく、財界とも政治家とも距離を置いていた人生だ。
 フツーの日本人にとっては、どこかの「場」に帰属していないことは、社会的に存在しないも同然とみなされるのである。この「孤独」に耐えられる者は少数派である」。


白洲次郎と同じ精神の持ち主たちのこと

岡倉天心の世界的影響力-人を動かすコトバのチカラについて-
・・Asia is One (アジアは一つなり)というコトバについて

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
書評 『ピカソ [ピカソ講義]』(岡本太郎/宗 左近、ちくま学芸文庫、2009 原著 1980)
・・岡本太郎について

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
・・永井荷風について触れている。留学経験がなく、西洋的個人主義者ではなかった折口信夫もまた、「世間の外」に居続けた個人主義者であった

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)
・・歴史学者・阿部謹也による「世間論」について




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2011年4月19日火曜日

太田道灌と山吹の花-トップ・リーダーに不可欠な「下から目線」をイマジネーションするチカラとは?


   
 今朝(2011年4月19日)は、関東地方はひさびさの雨でした。

 春の雨といえば春雨(はるさめ)。いつもなら「春雨に濡れて行こうか・・」なんて風流なセリフもクチにしたくなりますが、福島第一の「原発事故」以来、ちょっとそんな気分にはなりません。

 わたしが小学生の頃、「雨の日は帽子をかぶらないとハゲになる」といわれてましたが、1960年代に何度も行われた中国の核実験によって、実際に放射能が日本に降り注いでいたと「週刊新潮」の記事に書かれていました。

 放射能レベルは、なんと現在の一万倍のレベルであった(!)と。ガキどものあいだで交わされた会話内容は、実は根拠のある話だったのです。


山吹の和歌の故事と武将・太田道灌の「気づき」

 ところで、いまの季節、関東地方ではすでに桜の季節は終わりましたが、山吹(やまぶき)の可憐な花が咲いています。

 雨の日に山吹の花といえば太田道灌(おおた・どうかん)。有名な山吹の歌の故事ですね。

七重八重(ななえやえ)
花は咲けども
山吹の 
実の一つだに
なきぞ悲しき

 小学生の頃、東京に住んでいたわたしは、「東京都の歴史」(?)という授業で習った記憶があります。たしか小学校4年生だったと思います。教科書は『わたしたちの東京都』というタイトルだったような記憶が。ただし、この歌をならったかどうかは定かではありません。

 「山吹伝説」については、わたしが下手な説明をするよりも、ここは wikipedia の記述をそのまま引用させていただきましょう。

山吹伝説
道灌が父を尋ねて越生の地に来た。突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は、蓑(みの)を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。後でこの話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間(やまあい)の茅葺きの家であり貧しく蓑(注:みの=「実の」の掛詞)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励んだという。

*太字ゴチックは引用者(=私)による。( )の注記も同様 


 太田道灌は、15世紀の人。関東地方を治めていた室町時代の武将で、江戸城を開城した功労者として、ことに東京都では称揚されてきました。

 私が大学を卒業してはじめて勤務したのは東京の大手町ですが、新宿に移転するまえの都庁舎が大手町にあった頃は、そこに太田道灌の銅像がたっているのを何度も見ました。現在は、銅像は日比谷の国際フォーラムに移転されたようです。

 この山吹の故事は、太田道灌があるべきリーダーのモデルであることを示した事例でもあります。

 太田道灌は、この山吹の一件をキッカケに和歌の道に精進しただけでなく、たとえ偶然ではあっても、統治対象の一般民衆の貧しい暮らしを実地に知ったことによって、その後の善政のキッカケとなったわけです。

 オン・ザ・スポットではなく、タイムラグがあったとはいえ、かえって逆に深いレベルで確実に「気づき」を得たわけですね。経営学の組織論でいえば、太田道灌は「リフレクティブ・マネージャ-」であったわけです。内省するトップ・リーダー。

 民草の過酷な人生と悲哀を直接みずから知ることによって得た「気づき」は、歌道への精進と合わせて、一武将を確実に知将へと成長させる原動力となったことがうかがわれます。


トップリーダーの「目線」のありかについて

 これまた伝説の故事ですが、世界最大の前方後円墳で有名な仁徳天皇(にんとく・てんのう)もまた、善政を布いた君主として名高い存在です。

 『古事記』と『日本書紀』に記されたところによれば、あるとき仁徳天皇は高い岡のうえに登って、民衆のようすを眺めてこういう歌を詠まれたといわれています。

たかきやに のぼりて見れば 
煙(けぶり)たつ 民のかまどは 
にぎはひにけり
                
 3年前に同じ場所から見下ろしたときには、かまどから煙が立つのも見えない、つまり燃料もなく苦しい生活を強いられて疲弊していた民草の暮らしを案じて、租税を免除して民生の安定につとめた仁徳天皇。この 3年間は、おんみずからも倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったとあります。

 その諡(おくりな)のごとく、仁(=愛)という徳を備えた君主として、やや儒教的に理想化された存在ですが、一般民衆の目からみた「上に立つ人」のあるべき姿が仮託されたものと捉えるべきものでありましょう。

 仁徳天皇のようなトップリーダーの目線は、commanding heights(戦略的要衝)からの鳥瞰(ちょうかん)、すなわちバードアイ(bird's eyes)。いわゆる「上から目線」です。全体を見渡すことのできる地点からの把握といえます。

 太田道灌のように、偶然の結果とはいえ、現場にわけいって民衆の悲哀を知るトップリーダーの目線は、いわゆる「下から目線」です。すべてを見渡すことはできなくても、ある一点に集中的に現れた全体を知ることができる。

 民衆のなかに自ら分け入ることによってはじめて知る実情は、日本の製造業でいわれる「三現主義」にもつうじるものがありましょう。すなわち、現場・現実・現物の「三現」。

 実在の人物がモデルだとはいえ、架空のヒーローである水戸黄門様もまた一般庶民の切なる願望が生み出したあるべきリーダー像だったのでありましょう。

 もちろん、太田道灌も一国一城の主(あるじ)であった以上、城郭から下を見下ろす「上から目線」の持ち主であったことは言うまでもありません。トップリーダーとしては当然の振る舞いであるからです。


トップリーダーに必要な「上から目線」と「下から目線」

 先日も、「原発事故」の現場に乗り込んで、視察を強行したこの国の首相が顰蹙(ひんしゅく)を買ったばかりですが、鳴り物入りで現地視察をすることが現場で働く人たちにとって何を意味するのか、トップリーダーたるもの大いに意識してもらいたいものです。

 現場の人間は、トップリーダには現場に来て実際に自分たちが働く姿を見てほしいと願っていますが、そのために準備万端整えるとか、整列して迎えるとかいうのではなく、ふだんの姿を、ありのままの姿を見てほしいと思っているのです。

 これは、有史以来、日本人がつねに思ってきたことなのです。

 国のトップであっても、組織のトップであっても、下に置かれる人間からの視線がどこを見ているのか、腹の底から知ることが必要でしょう。

 上に立つ人は、下に置かれる人たちの心情をくみ取るイマジネーションのチカラが必要であること。太田道灌の故事はそのことを、よく教えてくれるものなのです。



<ブログ内関連記事>

「非常時」には「現場」に権限委譲を!-「日本復興」のカギは「現場」にある

書評 『国をつくるという仕事』(西水美恵子、英治出版、2009)

「雷龍の国ブータンに学ぶ」に「学ぶ」こと-第3回 日経GSRシンポジウム「GSR と Social Business 企業が動けば、世界が変わる」に参加して

アッシジのフランチェスコ (4) マザーテレサとインド

書評 『必生(ひっせい) 闘う仏教』(佐々井秀嶺、集英社新書、2010)




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2011年4月17日日曜日

書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)


原題は「資本主義の力学」-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方

 本書は、日本語訳ではハードカバーで全6巻に及ぶ大著『物質文明・経済・資本主義』(みすず書房)への著者自身による入門である。

 経済を軸に据え、歴史学の立場から行った、壮大な規模と構想をもった15世紀から18世紀までの「世界=経済」(エコノミ・モンド)の解釈を、アナール派を代表する「知の巨人」であった歴史学者ブローデルが、自ら要約して 1976年に米国のジョンズ・ホプキンス大学で講演したものだ。

 「歴史入門」というタイトルで本書を手にとった読者は、少しとまどいを感じたのではないだろうか。本書の日本語版は「歴史入門」と題されているが、原題は La Dynamique du capitalisme(1976)、直訳すれば「資本主義の力学」とでもなろうか。単行本出版の際に出版社がつけたタイトルであろうが、きわめてミスリーディングなタイトルである。文庫版刊行にあたって、「ブローデル 歴史学入門」くらいに変更しておくべきだったのではないか。


 では、「全体史」を目指した歴史学者フェルナン・ブローデルのものの見方とはいったいどういうものか簡単に見ておこう。

 人間の生物学的な生存条件を出発点とし、政治ではなく「経済」を主人公とした歴史解釈であり歴史記述であるが、それは『物質文明・経済・資本主義』というタイトルそのものに表現されているといってよい。

 しかしながら、歴史学者ブローデルの主張は、マルクス、ウェーバー、シュンペーターといった社会科学者たちの通説とは大きく異なるものだ。日本の大学で社会科学を勉強して、これらを常識として受け取ってきた者にとっては、やや違和感というか、よくいえば新鮮な印象を受けるのではないだろうか?

 マルクスの発展段階説を否定し、奴隷制、農奴制、資本主義は順番に出現したのではなく、同時性と共時性があると強調する(P.117)。マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムが資本主義の推進力との考えを否定し、「世界=経済」が地中海から北ヨーロッパに移行した結果にすぎないとする(P.88)。シュンペーターのように起業家(アントルプルナー)を資本主義の推進力とはしない(P.85)。

 このように、ブローデルの歴史学においては、経済において歴史学と社会科学が結びつく。しかも、首尾一貫して「資本主義」と「市場経済」を区分して考えている。これは著者の主張のキモなのだが、一般の通念とは大きく異なっているので、著者の主張をすんなり理解するには、ためらいを感じるかもしれない。

 また、著者自らがいうように、「世界システム論」を説くウォーラースティンとは共通認識をもつが、ヨーロッパ以外でも世界は共存する複数の「世界=経済」に分割されていたと考える点においては異なるともいっている(P.106)。

 封建社会からゆっくりと崩壊して資本主義社会が出現した点において、西欧社会と共通しているのは日本だけであるという指摘(P.93)は、先行研究を踏まえたものだが、日本人としてはあらためてその意味を深く考えてみる必要があるだろう。

 訳注と解説を除けば、文庫本でたった145ページという小冊子であるが、ブローデルの到達点を語って、語り残すところのない凝縮された一冊である。

 簡潔すぎるのが強みでも弱みでもある「ブローデル歴史学入門」であるが、ブローデルについて語るなら、まず最低この本だけでも、腰を据えてじっくり読んでおきたいものだ。

 とくに、「資本主義」のまっただなかに生きるビジネスパーソンには、通説と異なる感想をもつとしても、ぜひ読んで欲しい一冊である。もちろん、ビジネスパーソンに限らず、経済という人間の営みを中心に、歴史学の観点からものをみるための、きわめて良質な「入門書」として推奨したい。

 いま生きているこの時代が、いったいどういう歴史の流れのなかにあるかを正確に認識するためにも。


<初出情報>

■bk1書評「原題は「資本主義の力学」-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方」投稿掲載(2010年8月19日)
■amazon書評「原題は「資本主義の力学」-「知の巨人」ブローデルが示した世界の読み方」投稿掲載(2010年8月19日)

* 再録にあたって一部加筆した。





目 次

著者まえがき
第1章 物質生活と経済生活の再考
 1. 歴史の深層
 2. 物質生活
 3. 経済生活-市と大市と取引所
 4. 市、大市、取引所の歴史―ヨーロッパ世界と非ヨーロッパ世界
第2章 市場経済と資本主義
 1. 市場経済
 2. 資本主義という用語
 3. 資本主義の発展
 4. 資本主義の発展の社会的条件-国家、宗教、階層
第3章 世界時間
 1. 世界=経済(エコノミ・モンド)
 2. 世界=経済の歴史-都市国家
 3. 世界=経済の歴史-国民市場
 4. 産業革命
訳注
解説 金塚貞夫

(*単行本初版:太田出版 1985)


著者プロフィール

フェルナン・ブローデル(Fernand Braudel)

1902年、フランス北東部に生まれる。アンジェリア、パリでリセの教授(歴史学)として勤め、サンパウロ大学で講義と研究を続けた後、パリに戻り高等研究院に勤務。戦争中五年間ドイツの収容所で捕虜生活を送り、その間博士論文を執筆。1946年「アナール」誌編集委員となり、のち編集長を務める。1949年、コレージュ・ド・フランス教授に選ばれる。リュシアン・フェーヴルらとともに高等研究院に第六セクションを創設し、1956年から1972年まで同セクション委員長。1985年没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに増補)。

金塚貞文(かねづか・さだふみ)

1947年、東京都に生まれる。早稲田大学第一文学部中退。専攻は、フランス現代哲学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

 20世紀の歴史家のなかでは、フェルナン・ブローデル(1902年~1985年)ほど、自らの専門分野で複数の大著を完成させた人はいないのではないかと思われる。

 ここにあげた『ブローデル歴史入門』の原本である浩瀚(こうかん)な『物質文明・経済・資本主義』(みすず書房)だけでなく、日本でもタイトルはよく知られている『地中海』(藤原書店)(・・原題は『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』)など、その仕事ぶりはほとんど超人的といてもよい。これらは一般書ではなく、専門書なのだ。しかも一般読者も興味深く読むことができるものだ。といっても、私はまだとても全部読んでいない。

 しかも、ブローデルは第二次世界大戦というヨーロッパ激動の時代に前半生を翻弄された人である。フランス軍の将校として出征し、ドイツ軍の捕虜になっている。釈放されたのはフランスが解放された 1945年、そのときすでに 43歳になっていた。

 ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌが『マホメットとシャルルマーニュ』(日本語訳タイトル 『ヨーロッパ世界の誕生』)を構想したのが、第一次大戦でドイツ軍の捕虜になった際の捕虜収容所であったように、ブローデルもまた長い捕虜収容所抑留時代に主著である『地中海』の構想を作り上げたという。

 この点にかんしては、wikipedia 日本語版に、たいへん興味深い詳細な記述があるので、そのまま引用させていただくこととしたい。ブローデルの歴史観について、非常に重要な指摘もなされている。

「生涯」より一部抜粋
「捕虜生活」

 1939年、リュシアン・フェーヴルの別荘で、のちに『フェリペ2世時代の地中海と地中海時代』(邦題『地中海』)として結実することとなる博士論文を書き始めたが、その年すぐに第二次世界大戦が勃発し、ブローデルは砲兵隊中尉としてライン戦線(マジノ線)に動員された。
 1940年6月29日にはドイツ軍の捕虜となり、以後戦争の終わる1945年まで収容所で過ごすこととなった。その間、書き続けられた学習用ノートはフェーヴルのもとへ送られている。
 1940年6月から1942年春まではマインツの将校捕虜収容所に収容されたが、資料のない状態にもかかわらず記憶だけをたどって博士論文の執筆を継続した。1941年に初稿を受けとったとき、フェーヴルは「とてもいい。じつに秀逸で、独創的で、力強く、生き生きとしている」、「書き直すことなんかありません。早く書き終えなさい」と応えている。
 ブローデルは、1941年から収容所内の同輩に対し定期的に講義をおこない、研究指導もしていたために、「捕虜収容所大学学長」に任命されるなど特別待遇を受けることとなった。マインツ大学図書館の古文書館から文献資料を自由に借りることができたため、多くのドイツ語史料を渉猟することができたのである。
 ブローデルは初稿を完成させるとすぐに第二草稿に取りかかった。ブローデルの書き直し方は、一部を手直しするというのではなく、章の最初からまるごと書き直すというものであった。
 ブローデルはこののち1942年に、リューベックの収容所に移されるが、ここは懲罰目的の収容所であったため、マインツでのような自由や特権はなかった。しかし、手元に資料がない状態でも、自他ともに認める「象の記憶力」によって原稿を書き進めることができた。
 ブローデルは、捕虜としてすごしたあいだ、戦争そのもの、あるいは外交や政治の動向は、歴史を考える際、むしろそれほど重要ではないという認識をいだいたものと考えられる

「解放そして復職」
 1945年5月初め、リューベックがイギリス軍の手に陥ち、ブローデルは解放された。この年の下旬にはオランダ経由でフランスに帰国している。・・(後略)・・(*太字ゴチックは引用者(=私)によるもの)

 その後の履歴については、wikipediaの該当ページを直接ご覧いただきたい。

 ブローデルの議論で興味深いのは、この書評でも取り上げた・・・だけでなく、経済史の分野で議論されてきたコンドラチェフの波に近い議論を行っていることだ。

 コンドラチェフの波とは、長期波動、中期波動、短期反動・・・

 ブローデルは、本書でも「長期持続」という表現を使っている。「長期持続」の流れのなかでゆっくり変化する鈍重な構造的な歴史」(P.13)である。「長い時間の枠組みのなかでの均衡と不均衡」(P.14)である。いわば非人間的な深層の長期波動を主に取り扱っている。

 重視しているのが「日常性」。「人間は腰の上まで日常性のなかに浸かっている」(P.16)。

 これらについては、『歴史について』という論文集に収められた論文で扱っている。歴史学と社会科学の接点にいる人なのである。

 また、『地中海』では、ある特定の時代に限定しながら、「地中海」世界全体を描くという「全体史」と、ある意味では「構造史」の試みを行っていることだ。地政学的なものの見方にもつながるものがある。人間世界を規定するの、何よりも自然環境である。

 ざっとこのように見るだけでも、フェルナン・ブローデルが20世紀を代表する歴史家だといっても言い過ぎではないことがわかるものと思う。「アナール派」という狭い枠組みのなかだけで見ないほうがいい。

 まずは、この『ブローデル 歴史入門』をじっくりと読むことから初めてみたいものだ。



<ブログ内関連記事>

「想定外」などクチにするな!-こういうときだからこそ、通常より長いスパンでものを考えることが重要だ

書評 『1492 西欧文明の世界支配 』(ジャック・アタリ、斎藤広信訳、ちくま学芸文庫、2009 原著1991)

書評 『100年予測-世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-』(ジョージ・フリードマン、櫻井祐子訳、早川書房、2009)

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む

書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)

書評 『失われた歴史-イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった-』(マイケル・ハミルトン・モーガン、北沢方邦訳、平凡社、2010)

書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)
・・ブローデルの日本の封建制にかんする発言は、自然科学から出発した梅棹忠夫が提唱した「文明の生態史観」と一致している。ブローデルの発想も自然地理学からのものであることは大きな意味をもっていると考えてよいのではないか




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2011年4月16日土曜日

「歴史の断層」をみてしまったという経験-「3-11」後に歴史が大転換する予兆


 
 「東北関東大震災」発生から 5週間が過ぎた。きょうで 36日目になる。

 いまから振り返ってみると、とくに最初の1週間で、世の中は根本的に変わってしまった。そのときもそう感じていたが、ますますその感を強くしている。

 現時点で世の中で実現している企画は、ほぼすべてが「3-11」以前に企画が完了し、実行に移されるプロセスにあったものだ。だから、実現しても、なにやら正確に表現はできないのだが、違和感が残るのは否めない。たとえ、「犠牲者のみなさんの・・・・」のという、あたかも「免罪符」のような前振りを加えたとしても。

 被災地ではない場所では、関東でも日常性は戻ってきている。しかし、「3-11」以前とはあきらかに異なる日常だ。これは意識のなせるわざかもしれない。

 つまりそういうことだ。意識の問題なのだ。

 「3-11」以前の企画を、企画立案した際の意識を変えることなく、そのまま「3-11」後の世界に登場させても、コトバにならない違和感を生じさせるのもムリはない。「3-11」を境に、まったくことなる世界になっていることに気がつかない企画は、たとえ受け入れる人がいても、少なからぬ数の人間は違和感を感じ続けるだろう。

 「自粛」という名の「空気」を賞賛する気持ちなど私にはまったくない。私からすれば、「自粛」のフリをすることもまた「免罪符」の一種である。「3-11」後の世界で、「日本復興」に向けて動かなければならないという意識の目覚めがあれば、ぜったいに「自粛」の片棒担ぎなどできないはずだからだ。

 「自粛」とは、しょせん処世術の一つに過ぎないのだ。台風や嵐が過ぎ去るのを待って首をすくめているだけ。あたかもダチョウのように。「アタマ隠して・・・」そのものである。


「量質転換の法則」-今回の「東北関東大震災」と「福島第一原発事故」はクリティカルマスを越えた存在だ

 だが、今回の「東北関東大震災」と「福島第一原発事故」は、これまでの災難とはまったく規模が違うだけでなく、性格も大きく異なることに気がつかねばならない。

 「量質転換の法則」というものがあるが、ある一定の閾値(クリティカルマス)を越えると、質も変化するという法則である。今回の巨大な自然災害とそれが引き金となった巨大な人災は、明らかに従来のものとは、量的だけでなく質的にも大きなもので、生き残った人間にも、気がつかない深層領域で大きな変化がもたらされているはずなのだ。

 いまは、まさに The Day After の世界である。

 大津波で流され行く家屋をみたとき、むかし東京都と神奈川県の境を流れる多摩川が大洪水で家が流されていく映像を思い出した人も多いのではないだろうか。『岸辺のアルバム』というTVドラマになったあの事件のことだ。


歴史は連続しているが、ときに断絶をかいま見せることがある

 私は、1995年をつぎの500年の始まりのシンボリックな年であると捉えているが、それから 「9-11」でも「リーマンショック」でも感じなかったような激震を、それこそカラダをつうじて体験した。

 歴史は、一般的には連続性として理解されているが、ときにきわめて大きな断絶が発生することがある。その大きな断絶の一つが「3-11」であったといっても言い過ぎではないだろう。

 断層が見せたのは、プレートの活動という地球の真の姿だけではない。

 断層が見せたのは、きわめて多い。もちろん、すべてをコトバとして表現することは私の能力を越えているし、またムリにコトバにするつもりもないが、人間の本性の一端を見せてしまったとだけは、ここでは書いておきたい。

 この国のエリートたちのほんとうの姿が見えてしまった。もともと知ってはいたが、国民すべてに見えてしまったということが大きい。「この国のかたち」が見えてしまった。それも司馬遼太郎のようなポジティブなものではなく、醜い姿の「国の形」が。

 見えてしまったのはエリート層の姿だけではない。それ以外の多くの人たちの本性も、だ。「3-11」からしばらく「自粛」の名のもとに有効なコトバを発しなかった人たち。コトバを持ち合わせないから発することができなかったのか? しょせんはそのような底の浅い存在なのだろう。

 「3-11」からの1週間でみてしまったことは、生きている限り、一生わすれないだろう。その意味では、「3-11」からの 1週間は、まさに「決定的瞬間」(The moment of truth)であったといえよう。


いわゆる時代区分としての「戦後」は終わったと考えるべきだ

 いまや、もうすでに「3-11」前の世界ではない。いまは「3-11」後の世界である。時代の区切りとしての、いわゆる「戦後」はもう完全に終わったのだ。

 「3-11」で歴史が大転換し始めたことの予兆を感じるべきなのだ。ただし、私が言いたいのはオカルト的な意味ではない。そう受けとりたい人もいるだろうが、それは必ずしも私の意図するところではない。いまこそ、ほんとうの意味で「歴史」に学ぶ必要がある、私が言いたいのはそのことだ。

 「歴史の本質」が見えてしまうと言う経験、これは滅多にあるものでない。

 長いスパンで歴史を研究してこそ、はじめて長期的な先を見るイマジネーションのチカラも養われる。歴史がそのまま繰り返すことがないが、しかしながらある種の似たようなパターンを繰り返していることもまた否定はできない。だからこそ、過去の歴史を比較的長いスパンで顧みる必要がある。

 「復興」は「復旧」ではない。あらたな歴史の担い手として、「新生」こそが必要なのだ。それが、われわれ生き残った者たちの責務ではないだろうか。意思のチカラと勇気をもって。




P.S. ちょうどこの投稿で、今年(2011年)は 100本目 になった。通算 676本目。まだまだつづく(・・はず)。


<関連サイト>

ダチョウ症候群 (きょうのコトバ)
・・姉妹編の「佐藤けんいち@ケン・マネジメント代表  公式ブログ」に掲載


<ブログ内関連記事>

書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む

書評 『100年予測-世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-』(ジョージ・フリードマン、櫻井祐子訳、早川書房、2009)

【緊急提言】 「自粛」という名の「空気」を読むのは止めよう。消費にカネを回して「日本復興」への貢献を!

「想定外」などクチにするな!-こういうときだからこそ、通常より長いスパンでものを考えることが重要だ





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2011年4月15日金曜日

書評 『フェイスブック 若き天才の野望-5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた-』(デビッド・カークパトリック、滑川海彦 / 高橋信夫訳、日経BP社、2011)


フェイスブックの創始者に密着取材した本書で、その短いが濃い歴史と基本思想を知る

 今年(2011年)のはじめに映画『ソーシャル・ネットワーク』が公開されたこと、中東・北アフリカのいわゆる「民主化革命」でフェイスブックが大きな役割を果たしたという報道によって、日本でもようやくフェイスブックの普及に火がついてきたようだ。

 だが、日本では先行するミクシィなど、匿名可能な SNS が圧倒的に強い状況であり、日本以外の諸外国とは状況が大きく異っている。この状況はまだまだ続いている。

 本書は、フェイスブックの創始者マーク・ザッカーバークから全面的な信頼を得ることになった、はるか年長の米国人ベテラン・ジャーナリストが、この本の執筆に賭け、背水の陣を布いて、すべてを打ち込んで完成したものである。

 本書の前半は映画にも描かれた草創期から発展期までの短いが凝縮された歴史後半は、フェイスブックの発展を時系列で追いながら、フェイスブックがもつ大きな意味についての考察も行われる。原題が Facebook Effect(フェースブック効果) ということの意味が、後半を読むことで理解できることになる。

 映画『ソーシャル・ネットワーク』はあくまでもエンターテインメント作品と割り切るべきであろう。映画の原作はザッカーバーグ自身の意に反した、本書に描かれたものとは反対側の立場によるものである。映画を先に見てから、本書に描かれた内容と比較しながら読んでみると、その違いがわかって面白い。

 重要なことは、フェイスブックとグーグルとの根本思想の違いだろう。

 画像や動画まですべての情報を一元的に集約し、検索によって情報流通することを意図しているグーグルの思想に対して、人と人との「つながり」(人間関係)のなかで情報が流通することを意図しているのがフェイスブックの思想である。検索が万能の時代は終わり、友人関係をつうじた「つながり」のなかの情報流通が優位性を占めるようになってきたのは、フェイスブックをはじめとする SNS の急速な発展によるものである。

 これは実際にフェイスブックをやってみながら読むと、その意味が体感できる。あくまでも無機質な検索がグーグルであれば、実名主義であるがゆえに人の息づかいまで感じることのできるのがフェイスブックである。

 本書は、フェイスブックの短いが凝縮された歴史をたどりながら、フェイスブックがもつきわめて大きなチカラについて考えるための必読書であるといっていいだろう。

 やや長めの本だが、最後まで読み切る価値がある。フェイスブック関連本では、実用書以外では、本書を読むことを強く薦めたい。



<初出情報>

■bk1書評「フェイスブックの創始者に密着取材した本書で、その短いが濃い歴史と基本思想を知る」投稿掲載(2011年3月9日)
■amazon書評「フェイスブックの創始者に密着取材した本書で、その短いが濃い歴史と基本思想を知る」投稿掲載(2011年3月9日)





目 次

プロローグ
第1章 すべての始まり
第2章 パロアルト
第3章 フェイスブック以前
第4章 2004年、秋
第5章 投資家
第6章 本物の企業へ
第7章 2005年、秋
第8章 CEOの試練
第9章 2006年
第10章 プライバシー
第11章 プラットフォーム
第12章 150億ドル
第13章 金を稼ぐ
第14章 フェイスブックと世界
第15章 世界の仕組みを変える
第16章 フェイスブックの進化
第17章 未来へ
あとがき
謝辞
本書の取材について
訳者あとがき 滑川海彦
解説 小林弘人
参考書籍
参考文献


著者プロフィール

デビッド・カークパトリック(David Kirkpatrick)

フォーチュン誌で長年にわたりインターネットおよびテクノロジー担当編集主任を務める。同誌では、アップル、IBM、インテル、マイクロソフト、サンをはじめとする数多くのテクノロジー企業に関する特集記事を執筆した。2001年に「フォーチュン・ブレーンストーム会議」を創設し、また最近では、人間のあらゆる活動のための技術革新をテーマに「テコノミー会議」を立ち上げた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。

滑川海彦(なめかわ・うみひこ)

千葉県生まれ。東京大学法学部卒。東京都庁勤務を経てフリー。IT分野の評論と翻訳を手がける。ITニュースブログ「TechCrunch Japan」翻訳チーム(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。

高橋信夫(たかはし・のぶお)

東京都生まれ。学習院大学理学部卒。コンピューター会社勤務を経て、2006年から翻訳、執筆業。「TechCrunch Japan」翻訳チーム。東京農業大学非常勤講師。仮説実験授業研究会会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

 マーク・ザッカーバーグは、ビジネスマンというよりも「革命家」である。カール・マルクスをはじめとする多くのユダヤ人がそうであったように。私は本書を読んでいて、その感を深くした。

 本書で興味深いのが、「贈与経済」という概念だ。

 ネットの世界では give & take ではなく、give & give & give...の「フリー経済」でいくべきだというアドバイスがよく聞かれるが、これはいいかえれば「贈与経済」(gift economy)そのものでもある。

 本書でもザッカーバーグの基本思想に「贈与経済」があることが示唆されている。「ポトラッチ」というコトバが使われているが、これはイヌイット(・・むかしはエスキモーといっていた)が行う「贈り物合戦」のことで、どれだけ蕩尽できたかが勝利を決定するバロメーターになる。give できる量が多くて気前がいいほうが最終的に勝利するのだ。

 「ポトラッチ」に関心のある人は、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を参照してほしい。ちなみにホモ・ルーデンス(homo ludens)とは、「遊ぶ人」という意味のラテン語だ。

 フェイスブックは、実際にやっているとだんだんわかってくるが、自分自身についても、ソーシャルな側面とプロフェッショナルな側面を完全に分離することなど不可能だということだ。
 
 このブログ「アタマの引き出し」は生きるチカラだ!」そのものである(笑)。

 実名を使用してフェイスブックで活動していれば、人格を完全に二分化することできないし、そうしないほうがインテグリティを保つことも容易である。そして、これは当たり前のことだ。普通の人間は二重人格ではないからだ。

 あくまでも実名を前提とした参加は、リアル世界とネット世界の垣根を著しく低いものに変えつつある。これは私がフェイスブックに参加してからの率直な感想である。

 この書評じたいは、過去ログとの整合性をとるために、最初に書評サイトに投稿さいた際はハンドルネームで書いているが、フェイスブックもブログでも、私は「実名公表」して書いている。

 実名には、なんら問題は感じなくなってきている。フェイスブックの根本思想である実名主義とつながりは、日本社会を変えることになるだろう。

 「見てから読むか、読んでから見るか」という広告コピーがむかし角川書店にあったが、私は映画見てからのほうがいいと思う。両者の違いを楽しむといいでしょう。映画はそもそもエンターテインメントだから。



<関連サイト>

「500億ドルの男」の素顔 「フェイスブック 若き天才の野望」の著者に聞く(日経ビジネスオンライン)


<ブログ内関連記事>

映画 『ソーシャル・ネットワーク』 を日本公開初日(2011年1月15日)の初回に見てきた

書評 『Facebook(フェイスブック)をビジネスに使う本-お金をかけずに集客する最強のツール-』(熊坂仁美、ダイヤモンド社、2010)

TGIF 「ああ、やっと金曜日!?」 いいえ、Twitter, Google, iPhone and Facebook の頭文字が TGIF

書評 『グーグル秘録-完全なる破壊-』(ケン・オーレッタ、土方奈美訳、文藝春秋、2010)

書評 『ネット・バカ-インターネットがわたしたちの脳にしていること-』(ニコラス・カー、篠儀直子訳、青土社、2010)


書評 『ビジネス・ツイッター-世界の企業を変えた140文字の会話メディア-』(シェル・イスラエル、林信行=解説、滑川海彦/前田博明訳、日経BP社、2010)

『つぶやき進化論- 「140字」が Google を超える! -』( エリック・クォルマン、竹村詠美 / 原田卓訳、イースト・プレス、2009)をレビューする

スマートフォン、ツイッター、そしてクラウド・コンピューティングという三題噺

書評 『キュレーションの時代-「つながり」の情報革命が始まる-』(佐々木俊尚、ちくま新書、2011)

『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック、南満州鉄道株式会社調査部特別調査班、大連、1943)-25年前に卒論を書いた際に発見した本から・・・
・・profit economy の対極にある gift economy は中世では当たり前だったことに、ちょっとだけ触れている




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2011年4月14日木曜日

大飢饉はなぜ発生するのか?-「人間の安全保障」論を展開するアマルティヤ・セン博士はその理由を・・・


 「水・食料・燃料の買いだめはやめましょう。最優先で被災地に回してください!」。

 「3-11」からしばらくは、日本政府の官房長官みずからが、こういう呼びかけを日本国民に対して行わねばならなかったこと。国民として、実に情けない話ですね。これは長く記憶に残るものがあるでしょう。

 1973年の「石油ショック時のトイレットペーパー買い占め」では、何も「学習」してなかったのですか?

 1993年の「平成のコメ騒動」では、何も「学習」してなかったのですか?

 たしかに、1973年といえば、いまから 38年前、1993年もいまから 18年前ですから、そうでなくても「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という、いい意味でも悪い意味でも特性をもっている日本人のことですから、アタマの片隅にも浮かばなかったのかもしれません。

 実際に、当事者として物資や食糧の調達に走り回った経験をもたない人には、それを求めてもムリなのかもしれません。


いわゆる「食糧問題」の本質は飢饉や凶作にあるのではない

 しかし、これから書くことを理解して、記憶の片隅にでも置いておいていただければと思います。

 今年のはじめ、チュニジアとエジプトで発生した「民主化革命」も、フェイスブックなどの SNS は拡散する役割を演じましたが、直接のキッカケは若年層の失業問題と、物価高と食糧不足が広く一般庶民のあいだでは大問題になっていたからです。

 エジプトで起こった食糧デモは、主食の小麦やコメが手に入らなくなったから引き起こされたものでありました。日本では発生しなかったコメ騒動は、遠くエジプトでは発生していたのです。

 ここで、時代はだいぶ過去に遡りますが、「ベンガル大飢饉」(1943年)の話に触れておきたいと思います。 

 ノーベル経済学賞を受賞したアマルティヤ・セン博士の「人間の安全保障」(Human Security)に関心があれば、「ベンガル大飢饉」で大量の飢餓者が発生した理由をご存じだと思います。

 当時は大英帝国の植民地であったインドのベンガル生まれのセン博士は、9歳の時に、200万人を超える餓死者を出した1943年のベンガル大飢饉を体験しています。その強烈な体験が、厚生経済学を専門分野として研究するキッカケの一つとなったのでいた。

 厚生経済学(welfare economics)とは、英語にあるとおり、人々の福祉(welfare)について、分配と公正の観点から分析する経済学の一部門で、経済学の祖であるアダム・スミスがそうであったように、きわめて倫理学との接点の大きな学問です。

 セン博士によれば、深刻な飢饉が生じるのは、以下の理由によると明らかにしています。

・凶作の後には「社会不安」が高まる
・正しい「情報不足」が理由で、「買い占め」が引き起こされる
・その結果、市場において「価格高騰」を招き、「分配メカニズム」が混乱して貧困層に食糧が行き渡らなくなるする
 
 つまり一言でいって、「人災」の側面が強いのです。

 ウワサやデマとしての「風評」が、群衆心理のなかで拡散、増幅した結果、多くの人が買い占めや買いだめに走り、その結果、個々の市場に供給される量が減少して品薄になり価格がつりあがって、一般庶民やとくに貧困層には生きるために必要な主食まで手に入らなくなってしまう。

 もちろん、「自然災害」である凶作になると、総供給量が減少することになるわけですが、正しい情報が伝わらないことと、物流網が機能しなくなることによる「人災」のウェイトもまた大きなものがあるのです。

 ベンガル大飢饉の際も、インド全体から食料がなくなったのではりません。物流と流通がうまく機能しないために、末端まで食料が行き渡らなかったのです。


1943年のインドの話だけだと思う事なかれ!

 これは 1943年で、しかもインドの話だ、そう切り捨ててしまってはいけません。

 つい 3年前の 2009年にも、穀物の国際価格が高騰した際に、フィリピンでは大変な混乱が生じました。日本ではパンの値段が少しあがってコメの消費が増えたくらいの影響しかなかったですが、冒頭でも述べたようにエジプトでもコメ騒動が発生しています。

 この国際コメ騒動が発生したとき、タイに住んでいた私は、いざとなったら、コメにかんしては世界の穀倉であるタイから、コメを担いで帰国したら喜ばれるだろうなどと考えてみたりもしたものです。

 タイは国際的なコメ市場の価格リーダーとなっています。もちろん、タイの主流はインディカ米なので、日本人はあまり好みませんが。
 食糧が豊富なそのタイですら、マレーシアからのパーム油の供給が減少して、食用油不足が問題になったこともありました。それだけ食糧問題は、グローバルなサプライチェーンのなかに組み込まれているので難しいものがあります。

 同じ頃、サウジアラビアなどの中東産油国が、コメの確保のため、タイの水田を買っているという話も聞きました。いわゆる「ランドラッシュ・・・・」(land rush)ですね。農地争奪。「ランドラッシュ 世界農地争奪戦」(NHKスペシャル)という番組をご覧になった方も多いでしょう。

 ただ重要なのは、いくら農地を確保しても、それだけでは食糧の安全保障にはならないということなのです。

 今回もそうです。日本で生じる食料危機とは、財布にお金があっても、物流が途絶して食料が手に入らないという事態なのです。いくら農地を確保しても、物流網が寸断されたのでは、食料は必要とする人に行き渡りません

 大地震と大津波の被災地では、道路が寸断されて、水・食料・燃料が届いていません。現時点ではようやく道路も復旧してきましたが、まだまだ海上から物資を運び込むという物流手段の役目も終わっていません。陸続きでありながら、まるで離島のような状況になってしまっています。

 広い意味のディストリビューション(流通・物流)の重要性をあらためて知らされた出来事でありました。

 
緊急時に冷静になるために必要なものとは

 緊急時に冷静になるためには、自分のなかに「アタマの引き出し」がなければなりません。

 正しい情報の収集、情報を取捨選択できる情報リテラシー、そして冷静な対応。これらが緊急時に不可欠なことが、今回の激甚災害でも、また過去の事例からもご理解いただけたものと思います。

 その際に、マインドセットとしたいのは、"try to know something about everything, something about something" と "coold head but warm heart" という、奇しくも19世紀英国の学者のコトバ。前者は J.S.ミル、後者はアルフレッド・マーシャル。思想家と経済学者。アマチュアリズムの支えのある専門性。

 「自分の専門については深く知っていて当然だが、それ以外のことも浅くてもいいから幅広く知っておくこと」。これは「アタマの引き出し」そのものです。

 「アタマはクールだが、ココロは暖かい」。これは、他者への配慮と冷静な判断力を示しています。

 そして重要なのが「勇気」。一歩前へ踏み出す勇気。不確かですぐに裏切られやすい「希望」よりも「勇気」

 希望には裏切られがちですが、勇気は意思のチカラそのものです。希望は他律的で、勇気は自律的

 「希望」より「勇気」が重要だといっているのは、米国の哲学者エリック・ホッファーです。「沖仲仕の哲学者」といわれていたホッファーについては、筆者による「アタマの引き出し」は生きるチカラだ!でも、自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)に書きました。あわせて参照していただけると幸いです。

 つまり、「アタマの引き出し」と「一歩前に出る勇気」。この2つがあれば、どんな災難に遭遇しても、生き抜くことができるハズだと、「3-11」を体験してあらてめて強く感じている次第です。



<ブログ内関連記事>
 
アマルティア・セン教授の講演と緒方貞子さんとの対談 「新たな100年に向けて、人間と世界経済、そして日本の使命を考える。」(日立創業100周年記念講演)にいってきた

書評 『中東激変-石油とマネーが創る新世界地図-』(脇 祐三、日本経済新聞出版社、2008)
・・構造的問題が人口問題にあること

タイのあれこれ (21) バンコク以外からタイに入国する方法-危機対応時のロジスティクスについての体験と考察-

"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと

Cool Head but Warm Heart 「アタマはクールだが、ココロは暖かい」

世の中には「雑学」なんて存在しない!-「雑学」の重要性について逆説的に考えてみる

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)
・・「希望」より「勇気」が重要だといっているのは、米国の哲学者エリック・ホッファーです。「沖仲仕の哲学者」といわれていたホッファーについて




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2011年4月12日火曜日

「散る桜 残る桜も 散る桜」 (良寛)


 春だから、春らしい話題も書いておきたいもの。

 春といえば花、花といえば桜。「花は桜木、男は武士」なんていうと、『スラムダンク』か?と突っ込みを入れられそうだが(笑)。

 花といえば桜となったのは平安時代中期以降らしいと高校時代の古文の時代に知った。

 たしかに、平安時代初期、学問の神様である菅原道真は、配所先の太宰府で「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花・・・」と詠んでいるように、梅が花の代名詞だったようだ。梅は外来植物である。メーと発音できない日本人は、ウメと発音したのは馬(ウ・マー)と同じである。

 桜は花の代名詞。これはすでに日本人の心性の奥深くに沈み込んでいる。しかも、桜は外来植物ではなく、日本に自生してきた。

 言語哲学者の井筒俊彦は、「言語なるもののカルマ的本性」という表現を使って、「花=桜」について、興味深い説明を行っている。

 最初期には、梅をはじめ、さまざまな花として具体的に形象化されていた「花」は、次第に桜花との特定的同定性において一種独特の色合いを帯びてくる。そして、果ては本居宣長のあの烈しい桜花への執心ともなる。(勿論、そうなってからも、ハナは、無限定的に、桜花以外の「花」の名でもあり得るが、ここでは特に桜と同定された場合だけに話を限定する)。
 ほとんど妄執というに近いこの宣長の「花」(=「桜」)に対する情熱も、決して彼の個人的感情だけの問題ではない。これには長い歴史があるのだ。
・・(中略)・・
 このようなものは、全て遠い昔の話であって、現代生活を忙しく生きる今の我々の日本語にはもはやなんの関わりもない、と、もし言う人があれば、それは一般に言語なるもののカルマ的本性を知らない、あるいは敢えて無視する、ことから来る誤解であろと思う。
 言語のカルマ性、すなわち、すなわち意味のカルマとは何か。意味のカルマとは、かつて言語的意識の表層において現勢的だった--つまり顕在的に機能していた--意味作用が、時の経過とともに隠在化し、意識の深層に沈み込んで、そこでひそかに働いている力のこと。意識の深底に隠れて、表面にはほとんど姿を見せないが、しかしその反面、隠在的であれはあるだけ、見方によっては、かつて現勢的であった時よりも、はるかに強力で、執拗に現在の我々のコトバの「意味」を色付け、方向付ける重要な要因となっているのだ。このように、心の不可視の奥底に累積されて、下意識的に生き続けている古い意味慣用、それを意味のカルマというのである。

(出典:「意味論叙説-『民話の思想』の解説をかねて」in 『民話の思想』(佐竹昭広、中公文庫、1990)P.260~262)太字ゴチックは引用者(=私)による

 それだけ、日本語を使う日本人の深層領域に存在するのが「花」としての「桜」なのだ。日本人を無意識のうちに規定しているといってよいことが意味論として説明されている。

 意味はすぐにわからなくても問題ない。なんとなく井筒氏が言わんとすることが感じられればいい。井筒氏は、これをさして「言語アーラヤ識」ともいっている。「アーラヤ識」とは、大乗仏教の華厳経でいう「意識の深層領域」のことである。これを言語意味論に援用したものだ。なお、井筒氏は、「隠れた神は怖ろしい」ということも、各所で語っている。
 

 井筒俊彦が言っている本居宣長の桜の歌とは、言うまでもなく下記のものを指しているのだろう。ただし、花と葉が一緒にでる山桜であって、現在主流の染井吉野ではない。


敷島の 大和ごころを 人問はば
 朝日に匂ふ 山櫻花


 「花=桜」にかんしては、上げるべき歌は無数に詠まれてきたが、日本人の心性においては、どうしても「咲く」は同時に「散る」という連想がでてくるのは、花の命が短いから。


花の色は うつりにけりな いたつらに 
 わか身よにふる なかめせしまに


 絶世の美女といわれた小野小町(おののこまち)の歌。百人一首にも収録。眺めと長雨、世に振ると降る長雨の掛詞。「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」というと、林芙美子の『放浪記』であるが。


願はくば 花の下にて 春死なむ 
 その望月の 如月の頃
 


 西行である。西行法師。俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)。23歳で出家した武士。吉野の桜を詠んだもの。


散る桜 残る桜も 散る桜


 これは良寛の辞世の句。そのままを味わってほしいもの。「何ごとであれ常ならず」という仏教的な無常観を詠み込んだ、禅僧らしい辞世の句になっている。大東亜戦争末期、散っていった特攻隊員たちが、自分たちの身の上をたくして愛唱したとも聞いている。

 良寛は、「子どもらと 手まりつきつつ・・」で有名な歌人であり、漢詩人でもあった。

 ところで、良寛は、新潟は柏崎の人。柏崎といえば、いまでは東京電力の原子力発電所を思い浮かべる人のほうが多いのではないだろうか? 前回の新潟大地震では、日本海に面した柏崎原発では何が起こったのか、東電管内の人間もよく知らねばなるまい。
 
 散る桜 ⇒ 良寛 ⇒ 柏崎 ⇒ 原発事故・・・

 あまりいい連想ではないのだが・・・


<ブログ内関連記事>

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む
・・一神教にかんする井筒俊彦博士のコトバを引用している
本日(2011年2月11日)は「イラン・イスラム革命」(1979年)から32年。そしてまた中東・北アフリカでは再び大激動が始まった
・・イラン革命当時の井筒俊彦博士のコトバを引用している




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