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2013年12月30日月曜日

『日本の近代社会とキリスト教(日本人の行動と思想 8)』(森岡清美、評論社、1970)は、 ぜひ復刊を望みたい基本書


『日本の近代社会とキリスト教(日本人の行動と思想 8)』(森岡清美、評論社、1970)は、ずいぶんむかしのことだが、1980年代の終わりあたりに当時は日本最大の大型書店であった八重洲ブックセンター(本店)で見つけて購入した本だ。

こういう内容のある本が、重版がかからないまま入手不能になっているのはじつに惜しい。

著者は35年後に『明治キリスト教会形成の社会史』(森岡清美、東京大学出版会、2005)という形で類似するテーマの単行本を出している。専門研究書であり、わたしは未見であるが、「目次」をチェックすると重なっている部分もあるようだ。だが、別個の著作と考えたほうがよさそうだ。

『日本の近代社会とキリスト教』は講談社学術文庫かちくま学芸文庫、あるいは岩波現代文庫あたりがぜひ文庫本として復刊していただきたいと思う。あらたに参入した文春学藝ライブラリー(文庫)でもいいかもしれない。


プロテスタントとの出会いと受容のプロセス

明治時代日本の近代社会とキリスト教の関係については、『日本の近代社会とキリスト教』の目次をみれば、おおよそのところを知ることができるだろう。

明治以降のキリスト教は、アメリカ発のプロテスタントが中心となって推進された。

受け入れたのは「維新の負け組」となった幕臣や東北諸藩の旧武士層が中心である。儒教でトレーニングされてきた知的エリートたちが、マイナスからの人生構築のために受け入れ、かれらが中心になって日本人に伝道を行っていった歴史である。

新島襄や内村鑑三などキリスト教世界の著名人については教科書的な知識はすぐに得られるが、じっさいに、いかにしてキリスト教がひろまり、あるいは広まらなかったかは、社会学的なものものの見方が必要だ。

この本はプロテスタントのキリスト教を受け入れた側、反発した側の双方を押さえて立体的に歴史を再構成していることに意義がある。

以下、小項目をふくめて目次をすべて掲載しておこう。参考にしていただきたい。


目 次

Ⅰ. キリスト教の出現

 1. 宣教師の活動
  艦上での聖日礼拝/ハリスの日本滞在記
  日米修好通商条約第8条/宣教師の渡来
  キリスト教の日本語化/教育
  医療奉仕/宣教師を取り巻く危険
 2. キリスト教への接近
  宣教師をめぐる人々/最初の受洗者
  新しい進行を求めた層/初週祈禱会の初め
  基督公会設立さる/諜者の潜入
 3. 入信の契機とキリスト教理解
  キリストの品性と生活/宣教師の人柄
  熱誠あふれる祈禱/神との倫理的関係
  平民の入信/キリスト教の理解
  生命がけの信仰/公会規則外の三カ条
 4. 信徒に対する迫害
  迫害を避けず/衆人環視のなかの浸礼
  政府による弾圧/藩の重立ちによる糺問(きゅうもん)
  信仰ゆえの離縁/熊本バンドが受けた迫害
  死をもって棄教を迫る/座敷牢に禁固さる
  離婚か棄教か/迫害の論理

Ⅱ. キリスト教会の形成と展開

 1. 日本基督公会
  公会成立の必然性/「長老の官」
  公会の内規定/公会主義
  超教派の立場/公会の信仰
  公会の施設と財政/公会会員の出金
  東京公会の分立/各地公会の成立
  長老派と組合派の分離/公会主義の挫折

 2. 安中組合教会 (・・組合派、群馬県)
  安中教会への関心/新島襄の伝道
  安中教会の成立/安中の伝道圏
  リバイバル/信徒の分布
  四季と教会活動/キリスト教と「家」
  信徒の社会層/伝道圏の変化
  神棚と仏壇/氏神の祭祀
  僧侶の対応/キリスト教側の応戦
  倫理性の強調/高い教育を
  その後の安中教会
 3. 島村美以教会 (・・米国メソジスト監督教会系、群馬県東南端の利根川沿い)
  島村教会への関心/島村の産業
  島村養蚕業の発達/発達を支えたもの
  蚕種輸出の盛衰/蚕種業の収益性
  島村の文化的クライメート/キリスト教のおとずれ
  島村教会の成立/キリスト教の理解
  寺院と神社からの反撃/ヤソ退治
  共同体規制/教会の成長
  信徒の社会層/矯風運動
  神棚と仏壇/先祖祭祀  
  年中行事/その後の島村教会

 4. 日下部メソジスト教会 (・・カナダ・メソジスト教会系、勝沼方面)
  日下部教会への関心/教線勝沼方面に伸びる
  指導的信徒像/日下部教会の成立
  教勢伸張の背景/東方区の分割
  小野と自給独立/自給問題の背景
  自給への歩み/信徒の苦心
  自給の達成/自給達成への契機
  勝沼教会との比較/教勢の発展
  組合を足場として/禁酒運動との結合
  禁酒運動と地域社会/西保村の禁酒運動
  各地の禁酒運動

(明治期プロテスタント教会の教勢 P.176~177)

 5. 教会発展の諸条件
  教会の増加/信徒の増加
  受洗者数の推移/教会発展の諸条件
  大リバイバル/大リバイバルの源
  リバイバルの非日常性/リバイバルの功罪
  自由キリスト教の伝来/新神学の影響
  二十世紀大挙伝道/福音主義論争
  信徒層の変化/新しい信徒層

Ⅲ. キリスト教への迫害と批判

 1. 寺院とキリスト教
  北陸での迫害/敵意をもつ真宗
  『耶蘇教之無道理』/村はちぶ
  葬儀と埋葬の妨害/葬儀の自由を求めて
  墓地問題/二重帰属
  寺院側の対応/仏事禁酒

 2. 神社とキリスト教
  『浸透排斥』/偶像を拝すべからず
  神官僧侶の妨害/祭礼時の嫌がらせ
  「耶蘇退治馬鹿のしんにゅう」/背後にある国家権力
  迫害の担い手/氏子区域と氏子の義務
  児童の神社参拝/神社本来の性質/明治神宮創建是非

 3. 学校とキリスト教
  信徒の小学校教員/教師の子ども
  内村の「不敬事件」/事件あいつぐ
  教育と宗教の衝突/信徒の抵抗
  「訓令第12号」/苦境を脱す
  学校教育とキリスト教

 4. 国家とキリスト教
  宗教政策の変遷/官憲による規制
  本音の底にあるもの/『耶蘇教国害論』
  『耶蘇教亡国論』/天皇制との矛盾
  信徒の反論/『我国体と基督教』
  
Ⅳ. 近代日本におけるキリスト教

 1. 生活暦への影響
  キリスト教の影響/改暦
  安息日を守る/外人との関係
  日曜休日制の実施/その意義
  クリスマス 

 2. 婦人の地位への影響
  女子教育/西洋の技芸
  教会での婦人の地位/婦人会吏の出現
  家庭での婦人の地位/一夫一婦の倫理
  炭谷小梅/愛情にもとづく結婚
  社会での婦人の地位/廃娼運動

 3. キリスト教の土着化
  土着化の準備/土着化の試み
  さまざまな形態/現役か土着化か
  孤立か土着化か/土着化を阻むもの

略年譜
さくいん
図表・写真目次






著者プロフィール

森岡清美(もりおか・きよみ)
1923(大正12)年、三重県生まれ。東京文理科大学哲学科倫理学専攻卒業。東京文理科大学助手に就任以降、同専任講師、東京教育大学助教授、同教授、同文学部長、成城大学文芸学部教授、同文芸学部長、民俗学研究所長、淑徳大学社会学部教授、同大学院特任教授などを歴任し、学会では、日本社会学会会長、日本家族社会学会会長、日本学術会議会員(二期)などを歴任。現在は、東京教育大学名誉教授、成城大学名誉教授、大乗淑徳学園学術顧問、中央学術研究所講師。文学博士。専門分野は、歴史社会学、家族社会学、宗教社会学。著書に、、『明治キリスト教会形成の社会史』(東京大学出版会、2005)、『真宗教団と家の構造』(御茶の水書房、2006)『家族社会学』(有斐閣、編著)、『新社会学辞典』(有斐閣、編著)など多数(2012年刊行の最新著書の著者紹介から引用)。






主要目次

第1部 明治前期の士族とキリスト教 
 序章 課題と理論モデル 
 第1章 青年士族のキリスト教入信 
 第2章 キリスト教界指導者たちの家族形成 
第2部  明治期地域社会のキリスト教 
 序章 課題・概念・方法 
 第1章 安中キリスト教会の形成と展開 
 第2章 島村キリスト教会の形成と展開 
 第3章 日下部キリスト教会の形成と展開 
 終章 地域社会におけるキリスト教の受容と定着 
第3部 明治期キリスト教の教派形成 
 序章 課題・概念・視角 
 第1章 日本基督一致教会-長老制教派の形成 
 第2章 日本組合教会-会衆制教派の形成 
 第3章 日本美以教会-監督制教派の形成 
 終章 キリスト教の制度的定着


<内容紹介>
維新の敗戦による喪失感に苦悩しながらも,新たな理想を希求してキリスト教に入信した青年士族たちがいた。試練や迫害に耐えて伝道に励み、明治半ばにはプロテスタント三大教派の礎を築き上げた。――明治近代化の壮大なドラマを個別信徒・教会・教派の三層構造にわたって描き切る。




補論 「日本の近代社会とキリスト教という問題設定」は

明治時代前期は、近代化が西洋化(=欧化)として始まった時代だ。

だが、明治時代のキリスト教を考える際は、日本全体の宗教状況がどうなっていたかを押さえておく必要がある。時代が激変するとき、宗教状況もおおきく変動するのである。

思想史の安丸良夫氏に『神々の明治維新』(岩波新書、1979)という名著があるが、幕末から明治維新にかけての時期は政治の世界だけでなく、宗教の世界でも「維新」が炸裂したのであった。

幕末から明治維新にかけては、「尊王攘夷」運動から「攘夷」が消え、「尊王」がメインストリームになった時代だ。「尊王」の「王」とは天皇のことである。

「尊王家」の先駆者は、いまではまったく顧みられることのない江戸時代中期の高山彦九郎などだが、儒教研究の古学(=古代研究)の触発を受けてはじまった国学が平田篤胤の平田国学に至って、豪農層を中心にした草の根の民衆運動のうねりを生み出す。一方、水戸藩で発展した儒教から生まれた水戸学の「尊王」思想が志士たちを支えるエネルギーとなる。

「浄化」という側面が前面に打ち出された、いわゆる「下からの近代化」である。

きわめて奇妙なかたちで融合した「尊王」思想は、明治維新体制を「祭政一致」という「神権政治」(=テオクラシー)実現の方向へと向かわせる狂的な熱情となる。島崎藤村の『夜明け前』の世界である。

このような状況のなか、「神仏分離令」(1868年)が発令され、「廃仏毀釈」の嵐が吹き荒れる。日本を日本たらしめていた「神仏習合」が暴力的に否定し断罪され、仏教寺院が徹底的に破壊された地域もある。全国レベルで仏教寺院から神社が切り離される。「神権政治」の主張者たちが、外来宗教であるとして仏教に否定的だったからである。

それは仏教を事実上の「国教」として民衆統治の核に据えていた江戸幕藩体制の全面否定という意味もあった。あくまでも比喩的な意味だが、1979年のイラン・イスラーム革命をほうふつとさせるものがあったのだ。あるいは、現代中国の「文化大革命」のような時代であったといえよう。

仏教が外来宗教であるとして排斥されただけでなく、明治維新によってキリシタンは「解禁」されたわけではなく、かえって激しく弾圧された。

キリスト教信仰が公式に認可されたのは、条約改正のために奔走していた政府が、欧米諸国による非難からしぶしぶ認めたものである。その後も、キリスト教が黙許されながらも取り締まりの対象とされていたのである。

西欧化という形で近代化を推進した明治政府の指導者たちは、西洋文明の核にキリスト教があることを重々承知していながら、キリスト教を導入するわけにいかなかった。そのため、苦肉の策としてつくりあげたのが「国家神道」であった。国家神道は宗教ではないというフィクションによって。

「国家神道」は、ある意味ではキリスト教の代替物であったことは押さえておく必要がある。従来の神概念とは合致しない近代の産物だったのである。だからこそ、それに違和感を感じる一般民衆のあいだから、天理教や大本教など、「反近代」としての教派神道がつぐつぎと発生してきたわけなのだ。

キリスト教がもつ政治的な役割は国家神道によって代替し、キリスト教はあくまでも個人の信仰という側面で意味をもつことになる。そのため、キリスト教と国家との緊張関係がその後もながく続くことになった。ただし体制内エリートと体制外ではキリスト教の意味合いは異なる。

「廃仏毀釈」で壊滅的な打撃をこうむった仏教、長年の禁圧がようやく解けて「解禁」されたキリスト教、この二つの「外来宗教」はその後お互いを意識しながら競合関係に入っていく。近代仏教が、じつはキリスト教の影響を受けていることも押さえておきたいところだ。

キリスト教人口は1%を越えることなく推移しているが、キリスト教の影響は日本のすみずみにまでゆきわたり、「キリスト教的なるもの」にどっぷりつかっているのがいまの日本人である。しかし、最初からそうだったわけではないのである。



<ブログ内関連記事>

「神々の明治維新」

庄内平野と出羽三山への旅 (7) 「神仏分離と廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が、出羽三山の修験道に与えた取り返しのつかないダメージ
・・明治維新以前の神仏習合について安丸良夫の『神々の明治維新』を踏まえて書いた。以下、該当箇所を再録しておく。

 民衆思想史の安丸良夫はが著書のタイトルに『神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈-』(岩波新書、1979)と使っているように、明治維新は政治経済上の革命であったとともに、宗教革命としての様相を色濃く帯びていた。
 幕末にイデオロギーとして急成長した国学と水戸学、この本来なら相容れるはずのない両者が融合し、「神権国家」構想を現実すべく、新政府への働きかけに成功するや、近代国家のイデオロギーを求めていた新政府との野合が生じたのである。それは短い期間であったが、この間に行われた「文化破壊」が取り返しのつかないものであったことは繰り返し、繰り返し指摘しておきたい。
 「神仏分離」は一言で言ってしまえば、近代には発生しがちな、純化(purification)と合理化(rationalization)の実にストレートな表現である。すなわち、神仏習合状態から、仏を分離して廃棄せよ、という主張に他ならない。
 新政府の方針は、中国や朝鮮とは違う、民族国家として日本を確立するという命題、近代化=合理化であったが、その際に手を組んだ平田派国学が、いきすぎた「祭政一致」の方向に一気に突っ走ろうとした。彼らの脳裏には、ある意味ではイラン・イスラーム革命のような、「神権政治」(テオクラシー)確立を目指していたといってもいいのかもしれない。

書評 『仏教徒 坂本龍馬』(長松清潤、講談社、2012)-その死によって実現することなく消え去った坂本龍馬の国家構想を仏教を切り口に考える
・・明治時代における「仏教復興」

書評 『近世の仏教-華ひらく思想と文化-(歴史文化ライブラリー)』(末木文美士、吉川弘文館、2010)
・・江戸時代に民衆統治の手段として幕藩体制下において公認されていた仏教。以下、該当箇所を再録しておく。
しかし真相は、江戸時代には「仏教はほぼ国教」の位置づけがされていたのである。明治新政府は革命政権としてのイデオロギー明確化の必要からも、徹底的に江戸時代を否定し、近代国家化と神道国教化という奇妙なアマルガムとしての政策を突き進み、大東亜戦争で大きく破綻することになる。
 こういう理解を欠いていると、なぜ明治維新において「神仏分離と廃仏毀釈」という、実質的には激しい仏教弾圧が発生したのか理解できないのである。これについては、修験道について体験記を書いた際に、庄内平野と出羽三山への旅 (7) 「神仏分離と廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が、出羽三山の修験道に与えた取り返しのつかないダメージ と題して、全面的に取り上げているので参照していただけると幸いである。
 近世初期に仏教が葬祭儀礼(葬式)をがっちりと握って以来、いまに至るまで、儒教も神道も葬式で主導権を握ることはできないままである。江戸時代においても徳川幕府が葬式は仏教式以外は認めなかったので、本居宣長などの国学者も菩提寺に葬られている。したがって、神道式の葬儀も明治以前は公式には存在しなかったわけだ。
 また、儒者たちも墓は儒教式の置き石にしているが(・・実見はしていないが、東京に大塚先儒墓所がある)、葬儀そのものを朝鮮のような儒教式に行えなかった。この事実から、儒教はあくまでも統治のための学問的基礎を与えただけであって、民衆レベルまで浸透していなかったことが明白である。浸透したのは、世俗倫理という形だけであって、儒教にとって肝心要の魂の問題には踏み込めなかったわけだ。
 「葬式仏教」と揶揄(やゆ)され、ときに非難されているが、知識人の世界とは違って、民衆宗教のレベルでは、依然として冥界についてどう捉えるかという課題は避けて通ることはできないのである。だから「葬式仏教」は根強く生き残っていく。仏教のワクがはずれれば、スピリチュアルに流れるだけの話だ。
 儒教の本質と、日本における儒教の意味については、書評 『テレビ霊能者を斬る-メディアとスピリチュアルの蜜月-』(小池 靖、 ソフトバンク新書、2007) に、<書評への付記>として「先祖供養」とはいったい何か?として書いておいた。
 また、書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000) にも、日本が儒教国ではないことを朝鮮との対比で書いておいた。
 もうそろそろ、明治維新史観神話の呪縛という洗脳から、われわれは解放される必要があるのではないか? こういったやや巨視的な歴史理解をもとに、これからの日本再生も考えていかねばならないだろう。」

「日本の近代社会とキリスト教」

書評 『新島襄-良心之全身ニ充満シタル丈夫-(ミネルヴァ日本評伝選)』(太田雄三、ミネルヴァ書房、2005) -「教育事業家」としての新島襄
・・「英語・アメリカ・キリスト教」という共通点だけでなく、「女子留学生」とはアメリカで直接の知り合いであった新島襄

日本が「近代化」に邁進した明治時代初期、アメリカで教育を受けた元祖「帰国子女」たちが日本帰国後に体験した苦悩と苦闘-津田梅子と大山捨松について
・・「英語・アメリカ・キリスト教」の三位一体

書評 『武士道とキリスト教』(笹森建美、新潮新書、2013)-じつはこの両者には深く共通するものがある
・・「「賊軍」から青山学院長へ-本多庸一」とも関係のある旧津軽藩士とキリスト教

書評 『山本覚馬伝』(青山霞村、住谷悦治=校閲、田村敬男=編集、宮帯出版社、2013)-この人がいなければ維新後の「京都復興」はなかったであろう ・・新島襄の盟友であった山本覚馬は旧会津藩士。かれも洗礼をうけてキリスト教徒となった

書評 『新渡戸稲造ものがたり-真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける-(ジュニア・ノンフィクション)』(柴崎由紀、銀の鈴社、2013)-人のため世の中のために尽くした生涯
・・「英語・アメリカ・キリスト教」という共通点でつらなる人脈のひとつの中心は新渡戸稲造は盛岡藩士の息子

書評 『聖書の日本語-翻訳の歴史-』(鈴木範久、岩波書店、2006)
・・「江戸時代後期の国学者・平田篤胤(ひらた・あつたね)は、禁書であった漢訳聖書と漢訳キリスト教文献をひそかに入手し、影響を受けているらしい」

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・抜書きしておいた「日本におけるキリスト教の不振」にはぜひ目を通していただきたい。文化人類学者・泉靖一氏の見解に説得力がある

讃美歌から生まれた日本の唱歌-日本の近代化は西洋音楽導入によって不可逆な流れとして達成された

書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに


書評 『近代の呪い』(渡辺京二、平凡社新書、2013)-「近代」をそれがもたらしたコスト(代償)とベネフィット(便益)の両面から考える
・・「欧化主義」を推進した知的エリートたちと一般庶民にとっての「近代」は意味合いがおおきく異なっている


日本では「習俗化」したキリスト教

書評 『日本人とキリスト教』(井上章一、角川ソフィア文庫、2013 初版 2001)-「トンデモ」系の「偽史」をとおしてみる日本人のキリスト教観

書評 『「結婚式教会」の誕生』(五十嵐太郎、春秋社、2007)-日本的宗教観念と商業主義が生み出した建築物に映し出された戦後大衆社会のファンタジー
・・キリスト教的なるものという西洋への憧れは依然として日本女性のなかにポジティブなイメージとして健在

書評 『ミッション・スクール-あこがれの園-』(佐藤八寿子、中公新書、2006)-キリスト教的なるものに憧れる日本人の心性とミッションスクールのイメージ

書評 『普通の家族がいちばん怖い-崩壊するお正月、暴走するクリスマス-』(岩村暢子、新潮文庫、2010 単行本初版 2007)-これが国際競争力を失い大きく劣化しつつある日本人がつくられている舞台裏だ
(2014年7月18日、8月22日 情報追加)


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