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2014年8月31日日曜日

スティーブ・ジョブズはすでに「偉人伝」の人になっていた!-日本の「学習まんが」の世界はじつに奥が深い


そもそもが医者キライなので病院にいくことなどめったにないのですが、こないだ耳鼻科の専門病院にいくことを余儀なくされました。

綿棒で耳の中を突いてしまい、それから激しい痛みを感じるようになっていたからです。目や耳は「商売道具」なので、さすがに医者キライのわたしであっても行かざるを得ないと観念。専門医による診断結果は、傷口にカビが入り込んで、外耳が化膿しているということでありました。

とりあえずは状態と病因が判明したのに安心、耳に点耳薬(てんじやく・・聞き慣れないコトバだな)をさしてもらったあと、耳鼻科の待合室で精算を待っておりましたが、スマホをいじるのにも飽きたので本や雑誌のコーナーをみると、こんな本があることに気がつきました。

『小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ-コンピュータと iPhone で世界を変えた天才起業家』(・・冒頭の写真)。小学生向けの学習まんがです。

おお、ジョブズはすでに「偉人伝」の人になっていたのか!

出版日は2013年10月とあるので、出版されてからそれほど日がたっているわけではありませんが、待合室に置かれたこの本は、すでに多くの人に読まれたようで、かなり手垢で汚れていました。ジョブズが56歳で亡くなったのは2011年、それからまだ3年しかたってません。

パラパラとページをめくって読んでみたら、ジョブズ死去のシーンからはじまり、わんぱくな少年時代から、ガレージでのマックの開発、自分が創業した会社からの追放、そして見事な復活など、じつに読ませる内容のマンガになってます。

小学生向けなので漢字にはすべて読み仮名が振ってあり、大人にはちょっとうっとおしい(笑) しかも、ページは左開きなので一般的な日本のマンガとは違って洋書マンガのスタイル。とはいえ、このスタイルにはとくに違和感を感じなかったのは不思議です。そういえば、日本でも絵本は左開きでしたね。

内容はひじょうに濃く、なんと Stay hungry, stay foolish などのジョブズの名言も英語原文つきで収録。なんとまあ、至れり尽くせりの内容です。

そういえば自分も子どもの頃は、野口英世やキュリー夫人の子ども向け伝記を読んで科学者を志したものだと思い出しながら、スティーブ・ジョブスは、いまの子どもたちには説得力のある「偉人」かもしれないと思った次第。いわば現代の発明王エジソンでしょうか。

と書いてきて思い出したのは、親から誕生プレゼントでもらった『古代への情熱』というシュリーマン自伝。トロイの遺跡を発掘したシュリーマンも、自分の夢を実現するために商人として成功し、自分の財産で遺跡を発掘した人でした。

じっさいのところ、商人として大成功したシュリーマンはミッドライフクライシス(=中年の危機)に陥って人生の目的を喪失した結果、第二の人生として遺跡発掘にのめり込んだらしい。これは伝記作家ロバート・ペインの解釈です。

そう考えれば、ジョブズのような「変人」も「偉人」なのだなあ、と(笑) 日本語には「奇人変人」というフレーズがありますが、「奇人」(きじん)と「偉人」(いじん)は韻を踏んでいるので、この両者を取り替えれば「偉人変人」となる(笑)

ジョブズもまた平穏な人生を送ったとは言い難い人。山あり谷ありの人生を送ったのは「変人」だったからであり、「変人」だったからこそイノベーションで世界を変え、死後は「偉人」となったわけですから。

以上、自業自得とはいえ、余儀なくされて訪れた耳鼻科の病院待合室でのエピソードでした。どんな場所でも、なにかしらかならず発見があるもの。

昔話の「わらしべ長者」ではありませんが、「転んでもタダでは起きない!」という教訓の話でもあり、「引き寄せ」の話でもあります。この本の「発見」は、ある種の偶然の結果であり、科学的発見の世界でよくつかうセレンディピティでありますね。

スティーブ・ジョブズの「偉人伝まんが」。子どもの誕生プレゼントにはピッタリかもしれません。きっとそのなかから「偉人」(=「変人」)が出てくることでしょう。「変人」こそ日本を救うのだ!

一人でも多くの小学生に読んでほしい「偉人伝」です。大人のみなさんは、ぜひそういう機会を子どもたちにつくってあげてほしいものです。ジョブズの伝記マンガをチョイスするとは、わたしが訪れた耳鼻科の先生のセンスはすばらしい。

それにしても、日本の「学習まんが」の世界はじつに奥が深いなあ。





<関連サイト>

小学館版 学習まんが人物館 スティーブ・ジョブズ (出版社サイト)
・・「小学生に大好評の【学習まんが 人物館】シリーズ、45冊目の最新刊は、世界的なアップルコンピュータを創業したスティーブ・ジョブズの伝記まんがです。 コンピュータとiPhoneで世界を大きく変えた天才起業家の物語です。 アップルを世界的な会社に育て、最終的には大成功した彼の人生は山あり谷ありでした。カリフォルニア州のシリコンバレーで育ったジョブズは、自宅のガレージ(車庫)で会社を創業し、パーソナルコンピュータで大成功しました。しかしその後、自分で作った会社を追い出されてしまいます。しかし、信念の人ジョブズは、一度は追い出されたアップルに返り咲き、経営難の同社を救います。『iMac』『iPod』『iPhone』『iPad』など、誰も想像すらできなかったような革新的な製品を世に送り出し、世界の多くの人のライフスタイル(生活様式)を大きく変えました。素晴らしい想像力で、美しく、優れた製品を発明し続けたスティーブ・ジョブズの情熱と夢を信じる心。天才起業家ジョブズの人生が成功に満ちたものではなく、信念を持ち、努力し続けた人であったことを本書は描いています。」(出版社による説明文)

スティーブ・ジョブズ (wikipedia日本語版)
・・1955年2月24日~2011年10月5日)とは、アメリカ合衆国の実業家。アップル社の共同設立者の一人。アメリカ国家技術賞を受賞している。


PS ダイアナ妃もすでに「偉人伝」の人になっていた

おなじく「小学館版 学習まんが人物館」として、『ダイアナ-恵まれない人びとに手をさしのべたプリンセス-』(石井美樹子=監修、いちかわ のり、小学館、1998)が出版されていた。

内容紹介には、「エイズ患者への支援や対人地雷禁止を訴え続けた悲劇のプリンセスの波乱に富んだ人生」、とある。

ダイアナ妃は「偉人」というよりも、「聖女」というべきか。

(2014年9月4日 記す)





<関連サイト>

日本人よ、全力で失敗して、自分を慰めろ! 漫画家 ヤマザキマリさん 第5回 (清野由美、日経ビジネスオンライン、2014年9月2日)
・・ヤマザキマリもスティーブ・ジョブズをマンガにしている。「変人」の存在が許される社会でなくなってしまっている日本が息苦しいのは当然だ。




<ブログ内関連記事>

グラフィック・ノベル 『スティーブ・ジョブズの座禅』 (The Zen of Steve Jobs) が電子書籍として発売予定

巨星墜つ-アップル社のスティーブ・ジョブズ会長が死去 享年56歳 (1955 - 2011)

スティーブ・ジョブズの「読書リスト」-ジョブズの「引き出し」の中身をのぞいてみよう!

三宅一生に特注したスティーブ・ジョブズのタートルネックはイタリアでは 「甘い生活」(dolce vita)?!

カリスマが去ったあとの後継者はイノベーティブな組織風土を維持できるか?-アップル社のスティーブ・ジョブズが経営の第一線から引退

書評 『アップル帝国の正体』(五島直義・森川潤、文藝春秋社、2013)-アップルがつくりあげた最強のビジネスモデルの光と影を「末端」である日本から解明

映画 『最後のマイ・ウェイ』(2011年、フランス)をみてきた-いまここによみがえるフランスの国民歌手クロード・フランソワ
・・フランスを代表するこのスーパースターもまた「山あり谷あり」の人生

書評 『ユダヤ人が語った親バカ教育のレシピ』(アンドリュー&ユキコ・サター、インデックス・コミュニケーションズ、2006 改題して 講談社+α文庫 2010) ・・「レシピ1: 本をあげよう! 本でいっぱいの本棚を見せよう」

「人間の本質は学びにある」-モンテッソーリ教育について考えてみる

「飛騨の円空-千光寺とその周辺の足跡」展(東京国立博物館)にいってきた
・・『近世畸人伝』にも登場する円空。江戸時代には「奇人変人」には寛容な風土が日本にはあったのだが・・・





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2014年8月30日土曜日

アダム・スミスの 「見えざる手」 は 「神の手」 ではない!-それは 「意図せざる結果」の説明として導入されたものだ


日本のビジネス関係者が日頃なにげなく使用する表現に、「神の見えざる手」というものがある。経済学の父アダム・スミスが使ったとされている表現だ。

需要と供給の関係をつうじて市場(=マーケット)にはたらく自動調整メカニズム(=ビルト・イン・スタビライザー)のことである。政策当局者という「見える手」による介入ではなく、自由放任(=レッセフェール)純粋状態ではたらくとされている。

マーケット参加者の個々の意志をこえて、あたかも「見えない」力によって動かされているという印象を受けるから使われるのである。マーケットの健全性はこの「見えざる手」によって可能となる。

マーケットについて語る人でこのフレーズを知らない人はいないだろう。経済学を勉強したことのない一般人のあいだでも比較的しられているかもしれない。もしかすると高校の「政治経済」(?)の授業で習ったような気もする。

動機がたとえ利己主義によるものであっても、その振る舞いがたとえ利己的なものであっても、マーケットにおいては、不正な手段を用いない限り、自分の思うような形での操縦は不可能である。あたかも「神の意志」がはたらいているかのように

だが、アダム・スミスは「神の見えざる手」とは一言もいっていないのだ!

アダム・スミスは、「見えざる手」という表現を使用してはいても、それが「神の手」などとは言っていないのである。

この表現がでてくるのはアダムスミスの主著の一つ『国富論』(1776年)である。オリジナルのタイトルは The Wealth of Nations であり、 『諸国民の富』とするのが適当だろう。

原文をみてみよう。アダム・スミスの 『諸国民の富』の初版本(?)がなぜか東京駒込の東洋文庫に所蔵されているようで、この写真は展示されていた際にわたしが撮影したものである。


(アダム・スミスの「見えざる手」(an invisible hand)  東洋文庫にて筆者撮影)


By preferring the support of domestic to that of foreign industry, he intends only his own security; and by directing that industry in such a manner as its produce may be of the greatest value, he intends only his own gain, and he is in this, as in many other cases, led by an invisible hand to promote an end which was no part of his intention. Nor is it always the worse for the society that it was not part of it. By pursuing his own interest he frequently promotes that of the society more effectually than when he really intends to promote it. I have never known much good done by those who affected to trade for the public good. It is an affectation, indeed, not very common among merchants, and very few words need be employed in dissuading them from it.

個人的な安全(his own security)や個人的な利得(his own gain)を最大化しようと追求しようと意図しているのにもかかわらず、「見えざる手」(an invisible hand) に導かれて、社会全体において自分が意図すらしていなかった結果を促進してしまう(to promote an end which was no part of his intention)、ということをアダム・スミスはいっているのである。

個人的な利己主義が社会全体の利益を増大させるマジックを、「見えざる手」で表現しているわけだ。これは言い換えれば、「意図せざる結果」(unexpected results)について語ったものだが、社会科学においてはかならず心しておかねばならないきわめて重要な考えである。

見えざる手」(an invisible hand) が『諸国民の富』に登場するのは、たったのこの一回だけなのだ。索引(インデックス)で調べてみればすぐにわかることだ。

英語の原文は、不定冠詞 an のついた単数形 an invisible hand なので、右手なのか左手なのかもわからない。どちらか一方の手である。ましてや両手ではない。大文字の Hand ではないので、「神の手」ではない。

アダム・スミス本人の意図にかかわりなく、受けいれる側が自分たちに都合のいいような解釈をした結果、意味が変容して定着したのだということがわかる。これもまた「意図せざる結果」(?)かもしれない。

『諸国民の富』が出版された1776年は、フランス革命の13年前である。18世紀後半には、もはや、あえて神の名を出す必要がなかったと考えるべきかもしれない。

あくまでも個人的な利己主義が社会全体の利益増大に転ずるメカニズムについて語っているのだが、「見えざる手」という日常表現が誤解を生みだしたのかもしれない。アダムスミスの心中はわからないが。

日本ではよく「ゴッドハンド」なる表現がつかわれるので、その連想もあるのかもしれないが、「神の見えざる手」とはクチにしないよう、大いに気をつけるべきなのだ。


(見開きページの右側に「見えざる手」が登場する)


アダム・スミスの『諸国民の富』は厚さは『聖書』(バイブル)なみ

「見えざる手」(an invisible hand) が登場するのは、『諸国民の富』の中ほどである。最初のページから読み始めて、ここに到達するまでにいったいどれだけの時間がかかるのだろうか。

しかもたった一回しか登場しないので、読み飛ばしてしまう恐れが大きい。索引(=インデックス)がなければ、とても探すことはできないだろう。

アダム・スミスの『諸国民の富』は、あまりにも長いので、たとえ経済学部出身者でも全部読んだ人はいないだろう。写真にある原書は、2,000円という破格の安値で大学時代に購入したものだが(・・その当時すでに当然のことながら著作権は切れていた)、経済学部出身ではないわたしは、もちろ読んでいない。自慢にはならないが・・・。

アダム・スミスの文章は、読み始めても、抑揚のない話が続くので、読み進めるのが困難だからということもある。この性質は、すでにかなり昔の学者も指摘していることだ。

大学時代、一般教養課程の歴史関係の授業で、ビザンツ史の世界的権威であった渡辺金一教から図書館から借りて読むようにと言われたのが、「アダム・スミスの体系なき体系」(三浦新七)という論文である。

三浦新七は、一橋大学(=東京商科大学)草創期の歴史学者で山形銀行頭取だった人だ。「アダム・スミスの体系なき体系」は、『商学研究』(1923年)に発表された論文で、『東西文明史論考-国民性の研究-』(岩波書店、1950)に収録されている。この本は小平分館(当時)に何冊も収蔵されていた。

興味のある人は、この論文はネットでも公開されているので、読んでみたらいいと思う。旧字体で旧かなという、きわめて古めかしい文体だが、内容的にはアングロサクソン的思考の本質に肉薄するものだといっていい。

ちなみに、三浦新七はドイツに長く遊学していて、歴史学者ランプレヒトの助手をつとめていたドイツ畑の人であった。ドイツ的な思考方法に慣れていたからこそ、アダム・スミスについて「体系なき体系」という表現でその特色を明確に洗い出しているのである。

アダム・スミスは、「分業」(division of labor)など労働経済学や労働社会学にかんする重要な概念を生み出したことでも有名だ。だから、社会学史の授業ではマルクスに先行する「社会学者」としても登場する。

さらにいえば、『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments)という著作の著者でもあることも付記しておかなくてはならない。1759年に出版されたこの本は、『諸国民の富』(1776年)の17年前に出版されたものであることに注意しておきたい。「見えざる手」(an invisible hand)という表現は、すでに『道徳感情論』にも登場しているらしい。

経済学と倫理学は、そもそも同じルーツから出てきたものであり、両者はオモテとウラの関係にある。この姿勢をもっとも明確に意識しているのは、インドのベンガル出身のアマルティヤ・セン博士であろう。厚生経済学の立場から、アダムスミスの「ホモエコノミクス」(homo economicus)仮説について、的確なコメントをされている。

アダム・スミスはスコットランド人であった。




<関連サイト>

「アダム・スミスの体系なき体系」(三浦新七) (一橋大学機関リポジトリ)

An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations
・・『諸国民の富』の全文がここで読める


<ブログ内関連記事>

『「経済人」の終わり』(ドラッカー、原著 1939)は、「近代」の行き詰まりが生み出した「全体主義の起源」を「社会生態学」の立場から分析した社会科学の古典

書評 『新・国富論-グローバル経済の教科書-』(浜 矩子、文春新書、2012)-「第二次グローバリゼーション時代」の論客アダム・スミスで「第三次グローバル時代」の経済を解読

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む
・・「見えざる手」が「神の見えざる手」と誤解されていることに著者が言及している

「意図せざる結果」という認識をつねに考慮に入れておくことが必要だ

書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)-日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著
・・「<書評への付記-"実学としての歴史学"->」と題した文章で、歴史家・三浦新七と「アダムスミスの体系なき体系」にも触れてある


「見えないもの」を「見える化」する

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」
・・「向こう側」は「あの世」ではない!「見えない世界」への感受性を高めることが重要だ

『はじめての宗教論 右巻・左巻』(佐藤優、NHK出版、2009・2011)を読む-「見えない世界」をキチンと認識することが絶対に必要
・・プロテスタント神学の立場から。内容にはかならずしも同調する必要はないが、思考のフレームワークを知るのはよい

『奇跡を起こす 見えないものを見る力』(木村秋則、扶桑社SPA!文庫、2013)から見えてくる、「見えないもの」を重視することの重要性

書評 『ものつくり敗戦-「匠の呪縛」が日本を衰退させる-』(木村英紀、日経プレミアシリーズ、2009)-これからの日本のものつくりには 「理論・システム・ソフトウェアの三点セット」 が必要だ!
・・日本人にいちばん欠けているのが「見えないもの」を「見える化」する能力





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2014年8月28日木曜日

書評 『希望のしくみ』(アルボムッレ・スマナサーラ/養老孟司、宝島社新書、2006)-近代科学のアプローチで考えた内容が、ブッダが2500年前に説いていた「真理」とほぼ同じ地点に到達


2006年に新書化されたこの本は、もともと2004年に単行本として出版されたものだ。新書版の出版後さっそく読んだのは、それ以前から養老孟司氏の本を文庫や新書で読んでいたからである。

正確には覚えていないが、スマナサーラ長老の本を読んだのはこれは最初かもしれない。この本は、2014年7月には文庫化もされているロングセラーである。

新書版の帯には、「仏教と科学。賢者は「真理」で一致する」、とある。このキャッチコピーに惹かれて購入したのである。

そして読んでみて、解剖学者の養老孟司氏が自分のアタマで考えつくして到達した地点と、ブッダの教えを現代日本人に伝えるスマナサーラ長老が説いているところが、ほぼ一致していることに驚いたのである。8年ぶりに読み返してみて、あらためてその感を強くした。

「はじめに」(養老孟司)から引用してみよう。

私は近代科学を学んで、いまに至ります。
ですから、中村元(なかむら・はじめ)先生がお書きになった原始仏教経典の解説を読んだときには、びっくりしました。
「なんだ、俺の考えていたことは、お経じゃないか」
そう思ったのです。近代科学の方法を使って自分の頭で考えたら、2500年前にお釈迦さんが同じようなことを言っていた。私が驚くのも当然でしょう。

「おわりに この上もないお力添えをいただいて」(スマナサーラ)から。

来日以来、この国のことをできるだけ理解しよう、ブッダの言葉を伝えようと、自分なりに頑張ってきましたが、耳を貸す人は多くはありません。真理のコトバは核心を突き、世界を変える。それがいかに素晴らしき変化であっても、変わらない自分にしがみつく人には、やはり受け入れがたいことなのでしょう、私の希望は、あまりにも大胆なのかもしれません。
そんなとき、養老先生のご本を読みました。それはまさにオドロキでした。純粋に現代科学的なアプローチで、ブッダが語り続けていた真理のいくつかに達しておられた。仏教の困難を「バカの壁」ゆえと喝破しておられた。真の知性を現代に得て、皆さまは幸せというべきでしょう。

近代科学のアプローチで考えた内容が、ブッダが2500年前に説いていた「真理」とほぼ同じ地点に到達している。それは、はじめて読んだときは誰もが驚くことかもしれない。わたしもこの本には大いに啓発されたものだ。仏教と科学はイコールではないが、仏教が科学「的」であるということと同時に、科学もつきつめると仏教「的」になる、ということだ。

お互いエールの交換をしあっているような内容だが、「出会うべくして出会う」とはこういうことをいうのだろう。この対談そのものが、最初の出会いのようだが、昔からの知り合いのように両者は共鳴し合っている。立ち位置がまったくことなるのにかかわらず、結論が同じである。

したがって、読者は違和感なく読み進めてしまう。あまりにも簡単に読み飛ばせてしまう内容と本の薄さにかかわらず、内容は深く、そしてじつに濃い。いや結論はきわめてシンプルであるが、世間の常識とは「あべこべ」なので、簡単に読めても中身を理解するのは意外と難しいのかもしれない。

『希望のしくみ』というタイトルだが、「希望」についての内容ではない。むしろ、希望や期待など捨てて、「事実」そのものを見つめよという内容である。希望や期待は、仏教では「渇愛」(かつあい)といいって否定的に捉えているとスマナサーラ長老はいう。「希望的観測」を捨てよというビジネスの教えと同じである。重要なのは事実そのものだ。
 
世の中も、自分も、つねに変化し続けているのである。それが「事実」であり、仏教ではそれを「無常」という。生まれ出たものは、必ず死ぬ。それはつねに動いている変化するからだ。一瞬として同じものはない。ありのままを観て、ありのままを受け入れるべきなのである。しかも淡々と。

この対談では、「世間」、「知識より智慧」が大事、「捨てる」ことの重要性、「慈悲」、「ヴィパッサナー瞑想法」と要素分解(=分析)、「発見の仕組みとブッダの悟りの共通性」など多彩なテーマが、すべて日常語で語られている。こんな一節を読めば、大いに納得することであろう。

スマナサーラ 解けない問題を解こうとして、自分の持っている能力をすべて駆使して解こうとする。しかし、答えは出てこない。能力も出し尽くしている。それでそのまま、問題とまったく関係ない別なことに入れ替えて、それに精いっぱいがんばってみる。そのとき最初の問題は、頭から完全に消えているような状態になる。そうやって、ある意味、完全に忘れてリラックスした瞬間に、答えが勝手に現れてくるんです。
だいたい発見の仕組みはこんなもんです。ですから、いろんなことをいっぱいやって、能力をギリギリまで使い切らなくちゃならないんです。
養老 だから人は、役にもたたないような武道の訓練とか、瞑想とか、いろんなことをやるんですよ。それが、「ああすれば、こうなる」という社会になると、みんな消えちゃう。・・(後略)・・
スマナサーラ ブッダが説く悟りの発見も、同じ法則です。


潜在意識という表現はつかっていないが、発見のメカニズムはまさにこれである。悟りも同じなのであろう。

わたしがアルボムッレ・スマナサーラ長老の本を読んだのはこの本が初めてだと思うのだが、その頃からタイでの事業に本格的に取り組み始めていたことも、読むキッカケの一つとなったのではないかと思う。それはタイ人の思考方法、いいかえばアタマの働き方を知るためだ。

タイは上座仏教圏であり、上座仏教(=テーラヴァーダ)は原始仏教(=初期仏教)そのものではないが、限りなく近い存在だ。生きている上座仏教を理解するためには、おなじ上座仏教圏のスリランカ出身のスマナサーラ長老の本は日本語で読めるので、おおいに役に立つのである。

大乗仏教の呪術性を取り払って、ブッダその人のコトバをつうじて、ブッダその人が発見したものをダイレクトに知るためには、さきにもでてきた中村元先生がパーリ語の原典から現代日本語に翻訳したものを読めばいい。

だが、さすが「対機説法」で鍛えられた、現役の僧侶の法話と説法に勝るものはない。スマナサーラ長老も、本質をズバズバ突いてくる子どもたちとの問答がもっとも鍛えられる(!)と本書のなかで語っている。なんせ子どもは容赦がない(笑)

この対談が出版後10年を経てもロングセラーであり続けるのは、そうした語り口の明快さと、徹底的にアナロジー(=類比)をつかった説明方法にあるのだと思われる。それがもっとも納得のいく説明であることは、養老氏も認めていることだ。





(*対談前にスマナサーラ長老が読んだのがこの本)


<ブログ内関連記事>

養老孟司関連

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点

書評 『唯脳論』(養老孟司、青土社、1989)-「構造」と「機能」という対比関係にある二つの側面から脳と人間について考える「心身一元論」

書評 『身体巡礼-[ドイツ・オーストリア・チェコ編]-』(養老孟司、新潮社、2014)-西欧人の無意識が反映した「文化」をさぐる解剖学者の知的な旅の記録

書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである


アルボムッレ・スマナサーラと上座仏教関連

書評 『日本の未来-アイデアがあればグローバル化だって怖くない-』(アルボムッレ・スマナサーラ、サンガ新書、2014)-初期仏教の立場から「いま」を生きることの重要性を平易に説いた法話

「ウェーサーカ祭 2013」(2013年5月12日)に参加してスマナサーラ長老の法話を聴いてきた+タイ・フェスティバル2013(代々木公園)

「釈尊祝祭日 ウェーサーカ祭 2012」 に一部参加してスマナサーラ長老の法話を聴いてきた

今年も参加した「ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日 2010」-アジアの上座仏教圏で仕事をする人は・・

ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日 2009

『ブッダのことば(スッタニパータ)』は「蛇の章」から始まる-蛇は仏教にとっての守り神なのだ

書評 『仏教要語の基礎知識 新版』(水野弘元、春秋社、2006)-仏教を根本から捉えてみたい人には必携の「読む事典」


養老孟司氏×スマナサーラ長老

「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」 に参加してきた(2011年5月14日)
・・養老孟司氏とスマナサーラ長老という、ビッグな対談者の存在と発言。 「養老孟司氏の深くて低いトーンの語り口を心地よく聞いていた。脳死問題にかんして、日本で脳死議論が諸外国に比べて10年以上も遅れた理由を「世間」から解き明かしたのは実に明快であった。日本では死ねば「世間」から外に出される。一方、妊娠中絶がまったくといっていいほど問題にならないのは、「世間」に入っていない状態だから」


PS 特別対談:『無智の壁』 養老孟司氏&スマナサーラ長老 司会:釈徹宗氏がサンガ新書として出版

「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」 (2011年5月14日)で行われた特別対談:『無智の壁』」が、3年たってようやくサンガから書籍化。

タイトルは、『無知の壁』(養老孟司/アルボムッレ・スマナサーラ、釈徹宗=聞き手、サンガ新書、2014)。2014年9月20日に出版。

『希望のしくみ』とあわせて読むとよいでしょう。


目次は以下のとおり。

第1章 「自分」という壁
 解剖学者の「バカ」と仏教の「無知」
 意識は行為の後からやってくる
 五戒1 不殺生:殺すなかれ
 五戒2 不偸盗:盗むなかれ
 五戒3 不邪淫:邪な行為をするなかれ
 五戒4 不妄語:嘘をつくなかれ
 五戒5 不飲酒:酒、麻薬などの智慧を壊すものを使用するなかれ
 気持ちがなければ行為にならない
 人類初の科学的アプローチ
 バカの壁=自分の枠組み
 知識のリミット、三段階
 「受け入れる」ということ
 自分を守る苦悩
 自分の世界で固まっていたら後退する
 「本当の自分」なんてない
 困難も「自分」をはずすと楽になる
第2章 「死の壁」と「世間の壁」
 「私」と「死」と「葬儀」
 「死」は「生」のためのもの
 「死なない」が脳の前提
 文化で異なる死体への思い
 脳死問題に息づく日本の村社会
 脳死は死ではないという結論
 中絶が議論されないのも世間の壁
第3章 「自分」の解剖学
 自分のつくり方
 「私」とは蜃気楼
 「自分」を決める場所が脳にある
 自分のことはえこ贔屓している
 頭の地図で自分の範囲を決めている
 幽体離脱は自我の原型
 ふだんも二つの「私」を一元化している 「世界と一体」は覚りじゃない
 天才は脳機能をコントロールする
 生物学的な「自分」と社会的な「自分」
 修行とは、機能のコントロール
第4章 「転換」は克服のコツ
 知れば「嫌」は克服できるか
 「嫌」が治る場合、治らない場合
 嫌な対象を移すことは可能
 視点の転換は大事
 自分に移すのがいちばん簡単
 虫になると苦がなくなる
 役柄を入れ替えてお互いを理解する
 相手の立場から考える
第五章 信仰より智慧で自分を育てる
 人は何かを信じてる
 信仰は人生の手すり
 仏教は理性の教え
 ましなものを信じなさい
 今後の日本人の生き方は?
 どこまで楽をすれば気が済むのか
(2014年9月11日 記す)








「希望」は百害あって一利なし! 「事実」をありのままに観よ!

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)
・・「自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかることはたやすいが、それをやり遂げるには勇気がいる。 闘いに勝ち、大陸を耕し、国を建設するには、勇気が必要だ。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になるのである」(ホッファー)

「希望的観測」-「希望」 より 「勇気」 が重要な理由

心頭滅却すれば 火もまた涼し(快川紹喜)-ありのままを、ありのままとして受け取る

「ログブック」をつける-「事実」と「感想」を区分する努力が日本人には必要だ




(2012年7月3日発売の拙著です)










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2014年8月27日水曜日

米倉斉加年画伯の死を悼む-角川文庫から1980年代に出版された夢野久作作品群の装画コレクションより


個性派俳優の米倉斉加年(よねくら・まさかね)さんが亡くなったというニュースを知った。2014年8月26日に急逝されたという。享年80歳。

米倉斉加年というと、わたしにとっては俳優としてもさておき、特異な画風の絵師としてのイメージがひじょうに強い。だから米倉画伯と呼ばせていただきたい。

冒頭に掲載した写真は、机上に並べた米倉画伯の装画による角川文庫の夢野久作の作品群。いずれも1980年代に集中して角川文庫で文庫化されたものだ。大学時代、夢野久作の作品に入れ込んでいて、角川文庫で片っ端から読み込んでいたのだ。

その画風は、作品世界とマッチし、相乗効果を生み出している。耽美的というよりも、幻想的でかつ猟奇的といっていいかもしれない。夢野久作は福岡出身の作家、米倉氏も福岡出身であった。

この集合写真のなかに夢野久作の代表作『ドグラ・マグラ』がないのは、角川文庫ではなく、いまは亡き現代教養文庫で読んでいたから。マイ・コレクションの欠落である。

米倉斉加年画伯のご冥福をお祈りします。合掌。


(米倉画伯の装画になる角川文庫版『ドグラマグラ』(上)は、現在でも入手可能)

(米倉画伯の装画になる角川文庫版『ドグラマグラ』(下)は、現在でも入手可能)





<関連サイト>

米倉斉加年 - Wikipedia
・・米倉斉加年(よねくら・ まさかね、1934年7月10日~ 2014年8月26日)は、日本の俳優・演出家・絵本作家・絵師。

夢野久作 - Wikipedia
・・夢野久作(ゆめの・ きゅうさく、1889年(明治22年)1月4日~ 1936年(昭和11年)3月11日)は、日本の禅僧、陸軍少尉、郵便局長、小説家、詩人、SF作家、探偵小説家、幻想文学作家。

(米倉斉加年×夢野久作 コラボレーション)


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夢野久作の傑作伝記集『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは
・・夢野久作の傑作『ドグラ・マグラ』について触れてある

「魂」について考えることが必要なのではないか?-「同級生殺害事件」に思うこと
・・夢野久作の『猟奇歌』について触れてある

『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし!
・・「夢野久作といえば『ドグラマグラ』という小説で知られているが、その父は杉山茂丸という右翼の巨頭であった。茂丸の交友関係のなかに登場する最重要人物が頭山満であり、その姿は『百魔』(講談社学術文庫、)に活写されているだけでなく、息子の夢野久作(・・本名・杉山泰道)の『近世怪人伝』(昭和10年)に愛情をこめて描かれていることは知る人ぞ知ることだ。わたしの愛読書の一冊でもある。現在は、ちくま文庫に収録されているので、興味のある方はぜひお読みいただきたい」(・・ちくま文庫版は現在は入手困難。本文中に書いたように青空文庫で)

「旧江戸川乱歩邸」にいってみた(2013年6月12日)-「幻影城」という名の「土蔵=書庫」という小宇宙

書評 『猟奇博物館へようこそ-西洋近代の暗部をめぐる旅-』(加賀野井秀一、白水社、2012)-猟奇なオブジェの数々は「近代科学」が切り落としていった痕跡

「幻想耽美-現在進行形のジャパニーズエロチシズム-」(Bunkamura ギャラリー)に行ってきた(2015年6月18日)-現代日本の耽美派アーティストたちの作品を楽しむ

(2015年6月29日 情報追加)



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2014年8月26日火曜日

「実るほど こうべを垂れる ヒマワリかな」-ヒマワリの原産地は北米だった!


ことしも8月が終わりに近づいてきた。ことしの8月は全国各地で季節はずれの台風や豪雨の被害があいついでいるが、その一方で、「年々歳々、花相(あい)似たり。歳々年々、人同じからず」でもある。

この時期になると、ヒマワリの花も盛りを過ぎて、タネがぎっしり詰まったヒマワリは、ガクンと頭(こうべ)を垂れている。

実るほど 頭(こうべ)を垂れる ヒマワリかな

おそらく多くの人が、花の盛りを過ぎたヒマワリをみて、ふとクチにしてみたくなるのではないだろうか。ヒマワリは夏の季語なので、俳句の要件は満たしている。字余りだが(笑)

だが、オリジナルはこれだ。

実ほど 頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな

この17文字は誰の作かは知らないが、まさにその通りとしかいいようがない。

文字通りの意味は、収穫の秋が近づいた稲穂は米粒がギッシリと詰まって重そうである。まるで人間が頭を垂れているように、ということになる。転じて、偉い人ほど謙虚であるということを意味した表現として引用されることも多い。

英語にも、The more noble, the more humble.(偉い人ほど偉ぶらない)という対句表現で韻を踏んだ慣用句がある。洋の東西を問わず、ホンモノはみなそうだ、ということだろう。


話題にしたいのは、稲穂ではない。ヒマワリである。

ヒマワリは、お日様に向かって花が回るという意味から「日回り」と名付けられたようだ。漢字で向日葵と書くのはそのためだ。英語ではサンフラワー(sunflower)という。発想は同じである。

ヒマワリというと、まずはイタリア映画の『ひまわり』を想起してしまう。1970年公開の映画だから、もう44年も前の作品だ。マストロヤンニとソフィア・ローレンが主演。第二次世界大戦末期、枢軸国のイタリアはソ連戦線への出兵を余儀なくされ、主人公は新婚の妻を残して出征。そしてその後の長い月日ののち・・・という、戦争の悲劇を描いた映画だが、スクリーン一面に拡がるヒマワリ畑のシーンが印象的な映画だ。


映画 『ひまわり』のロケは、欧州の穀倉地帯ウクライナで撮影されたらしい(・・上記のチラシを参照)。映画を見たのはもうずいぶん昔のことだが、『ひまわり』はソ連というイメージが往年の映画ファンにはできあがっているのではないだろうか。

ヒマワリというと、狂気の天才画家ゴッホの『ひまわり』を想起する。ゴッホはオランダ人である。日本の浮世絵にベタ惚れしていたことは有名だが、ゴッホの『ひまわり』7点のうち1点が、当時50億円超という高額で日本の安田生命保険が落札したときは大きなニュースになった。現在は損保ジャパンとなっているが、東京・新宿の損保ジャパン東郷青児美術館の目玉となっている特別展示品である。

(損保ジャパン東郷青児美術館所蔵の「ひまわり」 wikipediaより)

日本とのからみでいうと、美輪明宏が絶賛しているデザイナーの中原淳一は、『それいゆ』や『ひまわり』といった少女向けのスタイルブックを出していた人として有名だ。中原淳一については、「生誕100周年記念 中原淳一展」(横浜そごう)にいってきた(2013年6月15日)-「装う、暮らす、生きる。すべてに "美" を求めた芸術家」に書いているのでご参照いただきたい。中原淳一作品を販売するショップは、「ひまわり屋」という。


ファッションといえば、奇抜なファッションで人の目を驚かせていた世紀末英国の耽美主義の作家オスカー・ワイルドは、スーツの襟にヒマワリの花を挿して社交界に出入りしていたという。ワイルドもまた日本美術だけでなく日本に惚れこんでいた人だが、残念ながら一度も来日することなく世を去った

(英国の雑誌『パンチ』に掲載されたワイルドの風刺画 wikipediaより)

ファッションからいきなり話題を転じるが、ヒマワリはそもそも鑑賞用として栽培されているわけではない。タネを取るために栽培されているのである。ある意味では穀物のたぐいである。

ヒマワリのタネは、日本ではもっぱらオウムの餌とされているが、中国人のスナックでもある。彼らは、ナマのままヒマワリのタネをかじっている。ヒマワリのタネには油分が多く、ナッツでもあるわけだ。ヒマワリ油(Sunflower Oil)はコレステロール増加防止としててんぷら油として使用されているので、日本人にもなじみ深い。

(ヒマワリのタネ wikipedia ロシア語版より)


以上、旧ソ連のウクライナ、オランダ、日本、中国と、ヒマワリ関連の話題を見てきたが、原産地はぞのいずれでもないのである。

原産地はなんと北米である。高さは3メートルにもなるらしい。花をみればわかるようにキク科の植物である。wikipedia日本語版には以下の記述がある。

ヒマワリの原産地は北アメリカ大陸西部であると考えられている。既に紀元前からインディアンの食用作物として重要な位置を占めていた1510年、スペイン人がヒマワリの種を持ち帰り、マドリード植物園で栽培を開始した。マドリード植物園はダリアやコスモスが最初に栽培されたことでも有名である。ヒマワリがスペイン国外に持ち出されるまで100年近くを要し、ようやく17世紀に至りフランス、次にロシアに伝わった。ロシアに到達してはじめて、その種子に大きな価値が認められた。正教会は大斎の40日間は食物品目の制限による斎(ものいみ)を行う。19世紀の初期にはほとんど全ての油脂食品が禁止食品のリストに載っていた。しかしヒマワリは教会の法学者に知られていなかったのか、そのリストにはなかったのである。こうした事情から、正教徒の多いロシア人たちは教会法と矛盾なく食用可能なヒマワリ種子を常食としたのであった。そして、19世紀半ばには民衆に普及し、ロシアが食用ヒマワリ生産の世界の先進国となったのであった。日本には17世紀に伝来している。

なるほど、北米 ⇒ スペイン ⇒ フランス ⇒ ロシアというルートで広まったのであったか! なるほど、これでロシアないしはウクライナがヒマワリの一大栽培地帯になっている理由がよく理解できるわけだ。

日本にもそんな早い時期に伝来されていたとは知らなかったが、まさに「大航海時代」という第一次グローバリゼーションのなせるわざであったことがわかる。

ナスやトマトが南米アンデス原産であることは、比較的よく知られていると思うが、ヒマワリは北米原産だったのだ。いずれもヨーロッパ経由の右回りで極東の日本までやってきたことになる。

そんなことを考えながらヒマワリを見ると、なんだか不思議な感じもするのは、わたしだけではないだろう。

そしてまた冒頭の一句をクチにしてみる。

実るほど 頭(こうべ)を垂れる ヒマワリかな

字余りでしタネ。







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・・「人間は逆立ちした植物だ」(プラトン)と「植物は逆立ちした人間だ」(アリストテレス)という命題、とくにあてはまるのがヒマワリであるような気もする





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2014年8月23日土曜日

「シャーリプトラよ!」という呼びかけ-『般若心経』(Heart Sutra)は英語で読むと新鮮だ


いわゆる「写経」を体験された方も少なくないとおもいます。写経では、一般的に『般若心経』を漢字で一言一句そのまま写すことが求められます。

わたしも成田山での断食参籠修行中に一度だけ試みたことがありますが、あまりにも字が下手くそなのに嫌気がさして、それ以来まったく試みておりません。字が下手なだけでなく、根本的に精神がこもってないのかもしれませんが・・・。

『般若心経』は、大乗仏教の「空の思想」、智慧の最高境地である「般若」について説いた教典として、古くから日本人に親しまれてきました。漢字だとたった257文字に集約されているので、「写経」の材料としては最適ということなのでしょう。(注:262文字とするケースもある)。

わたしが『般若心経』にはじめて接したのは大学時代のことです。『般若心経』がすばらしいということを何度も耳にしてましたが、それまでまったくお経の内容も知らなかったのです。浄土系の家に生まれたわたしにとっては、まったく縁のない存在だったわけです。

大学時代に何度も読んだのが、『般若心経講義』(高神覚昇、角川文庫、1952 初版1947年)です。もともと戦前にラヂオ放送された講義録ですので、読みやすく、面白くてためになる本です。わたしはこれ一冊あればほかにはいらないとさえ思います。

高神師は、真言宗の学僧で、「唯仏史観」を説いておられます。「唯物史観」のもじりですが、こういう点は時代を感じさせるモノがありますね。「経営の神様」と言われていた松下幸之助は、このラヂオ放送をリアルタイムで聴いていて、みずからの経営哲学の基礎を作り上げたといわれています。

そういう経緯もあって、真言宗や禅宗では『般若心経』が重視されてきたことを知りました。そう考えると、「南無阿弥陀仏」の浄土系宗派が、大乗仏教としてはいかに異色の存在であるか、つくづく思うわけです。浄土系は、はたして仏教なのか? 阿弥陀教とでもいうべきではないか、と。

『般若心経』は、日本ではもっぱら三蔵法師玄奘(さんぞうほうし・げんしょう)による漢訳が用いられてきました。しかし、お経というと漢字で書かれていて、耳で聞いてもまったくわからないというのが、いつわらざる感想ではないでしょうか。いや、わからないからこそ、ありがたいのだ、と(笑)
    
もちろん『般若心経』の末尾の「羯諦羯諦・・(ガテー、ガテー・・)」はマントラ(=呪句)ですから、漢訳でも、文字に写しただけで意味は訳されていません。しかしそれ以外の箇所は、読んで考え抜けば、おぼろげながらでも意味をとることはできるわけです。


『般若心経』は英語で読むといい

日本人は「仏教イコール漢字」、という固定観念というか、思い込みがあるようですが、英語で仏教やっても、おかしくもなんともありません。じっさいにアメリカ人のブディスト(=仏教徒、直訳すればブッダ主義者!)、英語で書かれたお経(スートラ)を読むわけですし、フランス人ならフランス語で「お経」を読むわけです。日本人のキリスト教徒が日本語訳聖書を読むのと同じですね。

そもそも、大乗仏教の経典は古代インドのサンスクリット語(=梵語)で書かれているわけですし、初期仏教や上座部の教典はおなじく古代インドのパーリ語で書かれているわけですから、お経は最初から漢字で書かれていたわけではない(!)のです。「お経=漢字」という思い込みは、「仏教=漢字」と同様、捨て去ったほうがいい

ほんとのことをいうと、「仏教」という漢字語じたい、問題が多すぎるのです。仏教はドグマを強要する宗教ではなく、覚者(=悟った人)であるブッダが考えに考えた末に到達した教え(Teaching of Buddha)のことなのです。仏教のカバー範囲があまりにも広すぎるので、とんちんかんな問答になってしまうことが多々あります。

仏教は、すくなくとも初期仏教の段階においては、宗教というよりも、世の中の現象をどう見るかについての考え方というか、哲学といったほうが近い。ある意味では、近代科学の現時点の到達点よりも、はるかに先をいっているわけです。だから、理工系の人間は「初期仏教」に引き寄せられやすいわけですね。

だからこそ、『般若心経』を英語で読むというのは、アメリカ人や英語人なら当然のことなわけです。

日本でも明治時代以降はサンスクリット語の原文で仏教を研究する地盤が整ったので、現在では三蔵法師玄奘による漢訳もさることながら、原文からの現代日本語訳でも読めるようになっています。


『英文般若心経』は『ハート・スートラ』(Heart Sutra)

『般若心経』の正式名称は、『般若波羅蜜多心経』、サンスクリット語で『プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ』(Prajñā-pāramitā-hṛdaya)となります。

「般若」とは、原語 prajnã(プラジュニャー) の俗語形(pannã:パンニャ)の音をそのまま漢字に写したもので、人間が真実の生命に目覚めたときにあらわれる根源的な叡智のこと。

「波羅蜜多」(はらみった)というのは、「パーラミター」の音を写したもの。悟りの世界である「彼岸」(・・これも本来の仏教要語としての意味)に至るプロセスことです。6つのプロセスがあるので六波羅蜜といいます。奈良の六波羅蜜寺の六波羅蜜ですね。

「フリダヤ」とは心臓の意味。したがって、「心経」とは「心臓-教」であり、もっとも肝心な、教えの「心髄」があるという意味になります。だから、『英文般若心経』が、『ハート・スートラ』(Heart Sutra)となるわけです。

(世界最古のサンスクリット語写本は法隆寺にある wikipediaより)


「スートラ」というのはお経のことです。「スートラ」といえば、『カーマ・スートラ』という性愛の教典がありますが、これは仏教ではなく、5世紀のヒンドゥーの思想家ヴァーツヤーナによるものです。

では、『英文般若心経』をさっそく読んでみましょう。「ホームページ」(・・なつかしい響きだ!)が話題になり始めた頃の2000年に、わたしが自分の「ホームページ」のコンテンツとして掲載したものをここに再録することにします。

日本語訳、英訳、漢訳とならべて掲載してあります。

三蔵法師玄奘による漢訳と、サンスクリット原文からの現代日本語訳については、『般若心経・金剛般若経』(中村元・紀野一義訳注、岩波文庫、1960年)および『バウッダ(佛教)』(中村元・三枝充悳、小学館、1987年)を使用させていただきました。

英文については、アメリカの禅寺のサイトから引いてきたのですが、もともとの出典がどこにあるのか不明になってしまいました。ネットで検索すると、禅仏教ではいまでもこの英訳が使用されているので、とくに問題はないと思います。


(全知者である覚った人に礼したてまつる)

Avalokiteshvara Bodhisattva, when practicing deeply the prajna paramita, perceived that all five skandhas in their own being are empty, and was saved from all suffering.

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄

求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があることを見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。



"O Shariputra, form does not differ from emptiness, emptiness does not differ from form; that which is form is emptiness, that which is emptiness form. The same is true of feelings, perceptions, formations, consciousness.

舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是

シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得る)のである。実体がないといっても、それは物質を離れていない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。


O Shariputra, all dharmas are marked with emptiness: they do not appear nor disappear, are not tainted nor pure, do not increase nor decrease.

舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減

シャーリプトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。


Therefore in emptiness, no form, no feelings, no perceptions, no formations, no consciousness; no eyes, no ears, no nose, no tongue, no body, no mind, no color, no realm of eyes, until no realm of mind-consciousness; no ignorance, and also no extinction of it, until no old-age and death, and also no extinction of it; no suffering, no origination, no stopping, no path, no cognition, also no attainment. 

是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無限界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得

それゆえにシャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼(げん)の領域から、意識の領域にいたるまでことごとくないのである。(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなかうなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いも死もなくなることはないということにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得ることもない。


With nothing to attain, a Bodhisattva depends on prajna paramita and the mind is no hindrance. Without any hindrance, no fears exist. Far apart from every perverted view one dwells in nirvana. In the three worlds all Buddhas depend on prajna paramita and attain unsurpassed complete perfect enlightenment.

以無所得故菩提薩依般若波羅蜜多故心無礙無礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提

それゆえに、得るということがないから、諸々の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っていけるのである。過去・現在・未来の三世にいます目覚めたひとびとは、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目覚めを覚り得られた。


Therefore, know the prajna paramita is the great transcendent mantra, is the great bright mantra, is the utmost mantra, is the supreme mantra, which is able to relieve all suffering and is true not false. 

故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚

それゆえに、人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。


So, proclaim the prajna paramita mantra, proclaim the mantra that says,

故説般若波羅蜜多呪即説呪曰呪即説呪曰

その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。



Gate, gate, paragate, parasamgate! Bodhi! Svaha!"

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

ガテー ガテー パーラガーテー パーラサンガテー 
ボーディ スヴァーハー (意訳: 往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ)


さて、いかがでしょうか? 漢訳と現代日本語訳は違う印象があるのは当然でしょう。ですが、現代日本語訳と英訳はかなり似てますよね。

翻訳者によってサンスクリット原文のテキストや解釈が一致しないので、完全に一致してませんが、意味の理解は漢訳よりも容易でしょう。

もちろん一度読んだくらいでは、まったく真意はつかめません。たとえ翻訳だとはいえ、使用されている個々の概念が難しいので、読んですぐに理解できるはずがありません。

『般若心経』については、すでに紹介した以外にも、日本語だけでも数え切れないほど多数の翻訳と注釈があります。

もっとも新しいものには、理工系出身の仏教学者・佐々木閑氏によるものがあります。『般若心経-「見えない力」を味方にする-(NHK「100分de名著」ブックス)』(佐々木閑、NHK出版、2014)は、NHK・ETV で放送された「100分de名著」という番組のテキストをもとにしたものです。2014年9月に再放送されます。


「おお、シャーリプトラ」(O Shariputra)

漢訳と現代日本語、英訳との違いは、なんといっても、「舎利子」(しゃりし)が「シャーリプトラよ!」という呼びかけに替わっていることでしょう。

シャーリプトラよ! という呼びかけです。どうですか? なんか、違いを感じませんか?

「舎利子」という漢字語は、仏舎利(ぶっしゃり)を連想するのであまり好きじゃありません。舎利とはお骨のことです。よく炊けたうまいコメの飯のことを俗に銀シャリといいますが、これは米粒のような舎利からの連想です。

シャーリプトラという呼びかけだとわかると、これはお経というよりも、哲学詩のような印象を受けませんか? お釈迦様がシャーリプトラに説き聞かせているのです。

といっても、もちろん初期仏教のブッダその人の教えそのものではありません。『般若心経』は、あくまでも、初期仏教以降の、いわゆる「小乗仏教」を否定した「大乗仏教」の立場からつくらてたものです。この点は押さえておかなくてはなりません。

では、シャーリプトラとは誰なのでしょうか。シャーリプトラは、智慧第一と称される仏弟子の一人です。シャーリプトラ(Śāriputra)は大乗仏教の経典に使用されているサンスクリット語、上座仏教で使用されているパーリ語ではサーリプッタ(Sāriputta)となります。上座部では阿羅漢(あらかん)として智慧第一としてきわめて重要な存在です。

(シャーリプトラ 19世紀ビルマの木彫り wiipediaより)


『般若心経』というお経は、そんな智慧第一のシャーリプトラに、釈迦が「真理」を説いて聞かせるという形をとっているわけです。ある意味、「大乗仏教」の「小乗仏教」への優位を主張している教典と捉えることも可能です。

だから、上座仏教の立場にあるスマナサーラ長老などは、『般若心経は間違い?』(宝島SUGOI文庫、2009)という本で、『般若心経』批判を行っています。あわせて読んでおくといいでしょう。

『般若心経』の読み方はさておき、仏教から漢字をはずして、最初から英語でやってみたらずいぶん違う光景が見えてくるでしょう。たとえば、ダライラマ法王が英語でする法話は、日本のお坊さんの話とは受ける印象がだいぶ違いますよね。


『般若心経』の最後を締めくくる「ガテー ガテー・・・」はマントラ(=呪句)です。『般若心経の新世界-インド仏教実践論の基調-』(宮坂宥洪、人文書院、1994)は、般若心経をマントラ(=真言)として捉えています。さきに紹介した 『般若心経講義』(高神覚昇、角川文庫、1952)と同じく、真言宗の立場から書かれたものです。

このマントラこそが、本来の「お経」なのです。だから漢訳でも音をそのまま漢字に転写しただけで、この漢字には意味はありません。英訳でもそのままですね。いかなる言語による翻訳においても、サンスクリットの原文そのままで朗誦されてきたのです。まさに「お経」たるゆえんです。

正直いって、『般若心経』に限らず、お経の漢字は難しすぎます。これが現代人を仏教から遠ざけている大きな理由の一つだと思います。

そもそも「仏教」というコトバでいったいなにを指しているのか、人によってまちまちなので、コミュニケーション不全状態となっているのが現状でありますが・・・。

だからこそ、固定観念をいったんは捨てて、英語でブディズム(Buddhism)に取り組んでみるのもいいのではないかと思うのです。


「般若」とは「無分別智」

「般若」とは、原語 prajnã(プラジュニャー) の俗語形(pannã:パンニャ)の音をそのまま漢字に写したもので、人間が真実の生命に目覚めたときにあらわれる根源的な叡智のことです。

「波羅蜜多」(はらみった)というのは、「パーラミター」の音を写したもの。悟りの世界である「彼岸」(・・これも本来の仏教要語としての意味)に至るプロセスことです。

6つのプロセスがあるので六波羅蜜といいます。奈良の六波羅蜜寺の六波羅蜜ですね。布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の6つです。

一般的に、日本語で「知」・「知識」・「知性」といえば、判断能力としての「分別知」(vijnãna:ヴィジュニャーナ)のことをさしています。いわゆる「分析的知性」のことです。しかし、それをいくら磨いても、秀才以上の存在にはなり得ません

「般若」とは「無分別智」のことです。「無分別」と書いて「むふんべつ」と読みます。もともとは仏教要語です。世の中では、「分別」(ぶんべつ)のある人がよいとされていますが、仏教では「無分別」のほうがよい、とされているのです。「自他未分離」、すなわち自分と他者が一体になる境地のことをさしています。

分別知だけでは、ほんとうに深い、根源的なものを知ることはできないのです。研究開発や製品開発においても、画期的なブレークスルーは、分別知をいくら磨いても実現することはありません考えに考えたすえ、突然やってくるのが「直観」です。その直観は「無分別智」である「般若」のなせるわざなのです。

クォンタム・リープ(Quantum Leap)という表現がアメリカではよく使わています。日本語でいえば、量子力学的飛躍となります。「分別知」だけでは、大きな飛躍は可能となりません。「分別知」という分析的知性を前提とするビジネスの世界においても、つねに「無分別智」について意識することが大事なのです。

西欧人自身がそれに気がついているからこそ、意識レベルの高い人であればあるほど、量子力学や仏教について考えたり、思索を深めたりしているわけです。「分別知」の限界を感じているからなのです。

経営学修士号(=MBA)は「分別知」の最たるものですが、わたしの母校のレンセラー工科大学で受講した「戦略実行」(Strategy Implementation)の授業の最後で、実業界出身の教授が、哲学書の『禅とオートバイ修理技術』(Zen and the Art of Motorcycle Maintenance)を読めと示唆されたことが、強く印象に残ってます。1992年のことです。

なぜアップル創業者のスティーブ・ジョブズは禅仏教に傾倒していたのか。そのヒントが、禅仏教でも経典として使用されている『般若心経』(Heart Sutra)にあるといっていいでしょう。ムダなものをそぎ落としてシンプルにするという発想を禅仏教から得たのは確かですが、それ以上の学びがあったのではないかと、わたしは思います。

『般若心経』は、ぜひ英語で読んでみることをおすすめします。





PS この記事は、文中にも記したように、2000年にわたしが「ホームページ」のコンテンツとして作成した 英文般若心経(Heart Sutra) を大幅に加筆修正のうえ、再編集した「改訂版」です。 (2014年8月23日 記す)






<関連サイト>

The Heart Sutra and Key Concepts of Buddhism
・・ Zen for Beginners の項目。原文の英訳とその解説(英文) ブログ記事で使用した訳文とはやや異同がある

高神覚昇 般若心経講義 (青空文庫)
・・著作権が切れているのでネットで読める。まずは語り口をこれで確認するといいだろう

Tricycle: The Buddhist Review 
・・アメリカでもっとも有名な仏教雑誌のサイト『トライシクル(三輪車)』。Facebookページもある。禅仏教とチベット仏教関連が中心だが、上座仏教その他アジア系仏教もカバーしている。ちょうどわたしが滞米中の1991年に創刊、滞米中に購読していた。紙媒体のバックナンバーは、いまでも所有している。すでに1991年頃には、政府高官にもチベット仏教信者がいたことがインタビュー記事からわかる。


<ブログ内関連記事>

英語で仏教

グラフィック・ノベル 『スティーブ・ジョブズの座禅』 (The Zen of Steve Jobs) が電子書籍として発売予定
・・英語で仏教! Zen で精神修行を行っていた若くして逝ったジョブズ

書評 『目覚める宗教-アメリカが出合った仏教 現代化する仏教の今』(ケネス・タナカ、サンガ新書、2012)-「個人のスピリチュアリティ志向」のなかで仏教が普及するアメリカに読みとるべきもの

「ダライ・ラマ法王来日」(His Holiness the Dalai Lama's Public Teaching & Talk :パシフィコ横浜)にいってきた ・・「ダライラマ・スーパーLIVE横浜」(2010年6月26日)とでもいうべき一期一会

空蝉(うつせみ)とはセミの抜け殻のこと-『源氏物語』の「空蝉」をめぐってつれづれに
・・仏教的世界観が濃厚に反映した『源氏物語』の「空蝉の巻」から、瀬戸内寂聴の現代語訳とアーサー・ウェイリーの英訳を対比してみた


仏教の基礎

書評 『仏教要語の基礎知識 新版』(水野弘元、春秋社、2006)-仏教を根本から捉えてみたい人には必携の「読む事典」
   

仏教と科学的思考

書評 『こころを学ぶ-ダライ・ラマ法王 仏教者と科学者の対話-』(ダライ・ラマ法王他、講談社、2013)-日本の科学者たちとの対話で学ぶ仏教と科学

書評 『「無分別」のすすめ-創出をみちびく知恵-』(久米是志、岩波アクティブ新書、2002)-「自他未分離」状態の意識から仏教の「悟り」も技術開発の「創出」も生み出される

不動明王の「七誓願」(成田山新勝寺)-「自助努力と助け合いの精神」 がそこにある!
・・真言といえば真言宗


「見えないもの」を「見える化」する

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」
・・「向こう側」は「あの世」ではない!「見えない世界」への感受性を高めることが重要だ

書評 『ものつくり敗戦-「匠の呪縛」が日本を衰退させる-』(木村英紀、日経プレミアシリーズ、2009)-これからの日本のものつくりには 「理論・システム・ソフトウェアの三点セット」 が必要だ!
・・日本人にいちばん欠けているのが「見えないもの」を「見える化」する能力

『奇跡を起こす 見えないものを見る力』(木村秋則、扶桑社SPA!文庫、2013)から見えてくる、「見えないもの」を重視することの重要性

「ホリスティック」に考える-「医学」のアナロジーで「全体」を観る視点を身につける 

(2014年9月1日 情報追加)





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2014年8月21日木曜日

書評 『「無分別」のすすめ-創出をみちびく知恵-』(久米是志、岩波アクティブ新書、2002)-「自他未分離」状態の意識から仏教の「悟り」も技術開発の「創出」も生み出される


「無分別」と書いて「むふんべつ」と読むもともとは仏教要語である。いまの世の中では、「分別」(ぶんべつ)のある人がよいとされているが、仏教では「無分別」のほうがよい、とされているのである。

『「無分別」のすすめ』というタイトルのこの本は、自動車メーカーのホンダ技研の三代目社長の初の著書である。技術開発を中心とした企業組織における「創出」のメカニズムを、リタイア後にのめり込むようにして学んだ「無分別」に代表される仏教の智慧をつかって考えてみた思索の書である。

「創出」は、「創造」と似ているが、ニュアンスが異なる。久米氏によれば、「創出」とは「情報」をつくり出すこと。「身近なことであるが、それまで世の中になかった役に立つ新しい「もの」や「こと」をつくり出すための「こうして、こうしたらできる」という「情報」をつくり出すこと」(はじめに)と書いている。

その意味では「創発」に近いのかもしれない「創発」は英語の emergence の日本語訳として使われているが、部分の総和ではない全体としての性質が現れ出ずる(emerge)という意味である。2002年時点では「創発」という日本語は定着していなかったので、もし久米氏がいまこの本を書いていれば「創発」としていたかもしれない。

科学的発見のような大きな話ではなく、製品開発やサービス開発など、企業組織がかかわることが念頭にあるようだ。企業組織に属するメンバーが共同で開発することを「共創」という表現で語っている。


一人称でしか語れない「創出」体験をどう解明するか

エンジニア出身の久米是志氏は、自動車メーカーのホンダ創業者・本田宗一郎の直弟子である。技術の天才のもとで働くことの大変さはいうまでもないが、本田宗一郎の実践第一をモットーにした哲学的な問いかけという環境から、薫習(くんじゅう)として無意識のうちに身についているものが多いようである。
 
本書にも技術開発の体験談の数々が紹介されているが、久米氏は英国のマン島における国際二輪レース欧州のモータースポーツであるフォーミュラⅡでのエンジン開発、発売当時は一世を風靡した「シビック」など独創的な技術開発をみずから中心になって、あるいは統括する立場としてかかわってきた。

本書にはそういったみずからの体験だけでなく、ホンダで開発にあたあってきたエンジニアたちの体験談を織り交ぜながら、新しいアイデアを生み出す苦しみと、アイデアが生み出される瞬間について生き生きと語っている。

こういった体験談は、ジャーナリストやノンフィクション作家による第三者的な記述とは違うということが重要だ。「創出」のメカニズムは、「創出」が起こった当事者である本人のアタマとココロの内部で働くものであり、第三者には追体験も観察も基本的に不可能であるからだ。あくまでも第一人称の当人の語りであり、それ以外には研究材料はない。

久米氏の体験は、ホンダについて書かれたさまざまな本にも紹介されているが、開発エンジニアたちに書かせた体験談の記述がじつにビビッドである。あるエンジニアの体験談を一つだけ紹介しておこう。

居眠りしているような状態で、ほとんど無意識のうちに動かしていた自分の手が描いた二本の線を見るともなくみたら・・・・ファーと出てきたんです。・・(中略)・・ ちょうど、頭の後ろから壁に投影機が絵を映してくれてるように見えてきたんです。・・(中略)・・ 自分の力だけで思いついたのではなく、いろんな人の努力や考えがひとつになってきたところに出てきたように思えるのです。(P.114)

この体験談から明らかなように、「創出」のキーワードは「直観」と「自他未分離」である。雑念が消えたときに「自他未分離」状態になるのである。仏教ではこの状態を「無分別」という。自分と他者が一体化してしまう感覚。久米氏は「直観」と「自他未分離」について、本書のなかで何度も繰り返し述べている。

「直観」とは「直感」とは違う。「直感」は「勘」のようなもので日常的によく体験するものだが、「直観」というのは、ある特定の事項について徹底的に考えた末に、論理的推論とは別次元で、突然パッと一切すべてが瞬間にわかる認識のことを意味している。現象としては「ひらめき」に近い。宗教でいえば「啓示」、仏教でいえば「悟り」に近い。

「直観」による知とは、大乗仏教でいえば「無分別」の智のことである。知ではなく智である! 分別」知が、分析を中心とした論理的な知の働かせ方であるなら、「無分別」の智とはそういった分析的知性とは異なる、言語を介さないイメージの働きなのだ。

大乗仏教を深く学んだ久米氏自身のコトバで説明すると、以下のようになる。

創出の「ひらめき」は「悟り」に似て「一時炳現」(いちじへいげん)的に生起し、しかも言語をともなう意識の働きが挫折してしまったとき、無意識の底から現れ出ることを物語っているように思います。つまり、通常われわれが意識することのない無分別智がつかまえたものを、表層の言語をともなった意識-分別知が感知して「わかった!」という言語意識となって出てくるのではないかということなのです。
そして、そのような無分別智が働き出すためには、六波羅蜜(ろくはらみつ)のプロセスを踏みながら分別知-言語をともなう意識があらかじめ奮闘しなければならない、つまり一言でいえば、創出は分別知と無分別智という異なる二領域の知の循環の中で、無分別智が生み出しているということではないでしょうか。(P.119~120 *太字ゴチックは引用者=さとう)

「一時炳現」(いちじへいげん)とは、ブッダの悟りを表現した『華厳経』の表現「海印三昧、一時炳現」からきているもので、同時にいっさいの事象があきらかになることを意味している。

「六波羅蜜」(ろくはらみつ)とは、悟りの世界である「彼岸」(・・これも本来の仏教要語としての意味)に至る6つのプロセスである。布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の6つである。くわしくは華厳宗の六波羅蜜寺のサイトをご覧いただきたい。

このようにさまざまな意味で、「無分別」(むふんべつ)、すなわち「自他未分離」となった状態で作動する智(・・知ではなく智!)が無分別智なのであり、この状態の意識から仏教の「悟り」も技術開発の「創出」も生み出されることが示されている。

「無分別智」とは、『般若心経』の「般若」のことでもある。サンスクリット語では、無分別智(般若)のことをパンニャ、分別知のことをヴィジュニャーナといって厳密に区分している。

このほか、「中観派」の「空の哲学」、「唯識派」の「心の哲学」などにも言及しながら、大乗仏教を哲学という側面でとらえれば、「創出」プロセスの解明におおいに寄与するところが大きい。

エンジニア出身の久米氏自身のコトバで語られているだけに説得力がある。


仏教哲学は脳科学とは完全にイコールではない

久米氏には、本書『「無分別」のすすめ-創出をみちびく知恵-』(久米是志、岩波アクティブ新書、2002)と、その4年後に出版された『「ひらめき」の設計図-創造への扉は、いつ、どこから、どうやって現れるのか-』(久米是志、小学館、2006)の二つの著作がある。

後者の 2006年の本では、「直観」はすべて「ひらめき」に、「創出」は「創造」に言い換えられてしまっている。『創造の世界』を出している小学館だからかもしれないが、じつに残念なことだ。脳科学などにかんする余計な知識の蓄積が、かえって論点をぼやかしてしまったという印象を免れない。

もちろん、脳科学で解明されてきたことは、大乗仏教がすでに千五百年以上も前に明らかにしてきたことに限りなく近いのだが、脳科学で説明可能なことはまだまだ限られているし、脳科学でのみ語ることは、悪しき科学信仰にもつながりかねない危険がある。脳機能に着目した局所偏在的な発想は、「全体のなかの部分」で考える仏教の「縁起」(=相互依存性: Interconnectivity)の発想を欠いていては問題が多い。

思うに、2002年の新書本のほうが、脳科学などの余計な知識で汚染されてないだけに、原石の輝きがあるのだ。リタイア後の大乗仏教の学びと、実体験の振り返りがあいまって、じつに「いい味」を出しているといっていい。仏教の悟りと技術開発における創出が相似象(そうじしょう)であることがわかった(!)という、著者の新鮮な驚きも伝わってくる

技術の天才・本田宗一郎と、偉大なるナンバー2で異能の経営者であった藤沢武夫の薫陶を直接受けたエンジニア経営者・久米是志氏の考察は、つねに新しいモノやコトを開発する必要に迫られているベンチャーだけでなく、企業組織における「創出」について考えるうえで、じつに貴重な証言となっている。

創業者以来、ホンダは「哲学のある会社」である。哲学的思考を促す組織風土をもった会社である。企業人にとっての哲学を考えるうえで、ホンダという会社の存在はじつに貴重なものだ。

仏教関連の話がふんだんにでてくるので、うっとうしく感じる人もいるだろうが、このような実体験をもとに自分で考えて、自分のコトバで一般読者向けに書き綴った思索書が、「重版未定」のまま埋もれてしまっているのはじつに惜しい。

こういう本こそ、ビジネスパーソンが読むべき本だと思うのだが・・・。





目 次

はじめに
Ⅰ 科学文明への問いかけ
 1 物と心
 2 内観と内省
 3 発見の手法と「相似象」
Ⅱ 私の創出体験から
 1 TTレースに向けて
 2 F-Ⅱレース
 3 市場を見ること
 4 空冷・水冷エンジン
 5 シビックの「共創」
Ⅲ 仏教という教え
 1 六波羅蜜との類似
 2 創出の四戒
Ⅳ  「悟り」と「ひらめき」
 1 開発現場のひらめき
 2 ポアンカレの場合
 3 創出の場と「たぬき」
 4 エアバッグ開発と「たぬき」
Ⅴ 創出の問題点
 1 成功・失敗の表裏
 2 成功は失敗の母
Ⅵ 仏教と創造性
 1 科学と縁起
 2 唯識からのヒント
あとがき


著者プロフィール
久米是志(くめ・ただし)
1932年神戸生まれ。静岡大学工学部卒業後、本田技研工業株式会社入社。専門はエンジンの設計で、マン島TTレースの競技車両用エンジンや、ホンダF1初の空冷エンジンカー、RA302のエンジン開発に携わる。若手の頃は、空冷エンジン採用を主張する本田宗一郎に対して、水冷エンジン採用を主張して譲らず、ホンダ1300やRA302の開発時には辞表を出して数度にわたり出社を拒否したという逸話を持つ。その後、社運を賭けて取り組んだ初代シビックの開発責任者として、クルマのコンセプトづくりに参画。1973年に自身が開発責任者として指揮して生まれたCVCCエンジンは、当時、世界で最も厳しいと言われたアメリカ合衆国の排出ガス規制法であるマスキー法を初めてクリアしたことで知られる。 1983年に河島喜好の後を受けて、第3代の本田技研工業代表取締役社長に就任。第2期ホンダF1活動を支える。ASIMOにつながる二足歩行ロボットの開発、HondaJetにつながるビジネスジェット事業は、久米が社長を務めた時期に開始が指示されたものである。1990年に社長を川本信彦に譲り、取締役相談役に退いた。(wikipediaの記述による)。






<ブログ内関連記事>

最高の「ナンバー2」とは?-もう一人のホンダ創業者・藤沢武夫に学ぶ
・・創業者以来、ホンダは「哲学のある会社」、哲学的思考を促す組織風土をもった会社である

"粘菌" 生活-南方熊楠について読む-
・・「そもそも南方熊楠は西洋的な因果関係論に飽き足らぬものを感じ、幼いころからどっぷりと浸かっていた真言密教の方法で独自の科学論を構想していたのだが、鶴見和子はこれを南方曼陀羅と命名した」

(南方曼荼羅 因果と縁起)



書評 『こころを学ぶ-ダライ・ラマ法王 仏教者と科学者の対話-』(ダライ・ラマ法王他、講談社、2013)-日本の科学者たちとの対話で学ぶ仏教と科学

"粘菌" 生活-南方熊楠について読む-
・・真言密教的世界観における「因果」と、偶然による「縁起」

「無計画の計画」?
・・量子力学的世界観と仏教

「シャーリプトラよ!」という呼びかけ-『般若心経』(Heart Sutra)は英語で読むと新鮮だ

経営計画の策定と実行は、「自力」と「他力」という仏教の考えをあてはめるとスムーズにいく

「無憂」という事-バンコクの「アソーク」という駅名からインドと仏教を「引き出し」てみる
・・「無分別」も「無常」も「無憂」も、「無」という接頭語ではじまる概念がインド哲学には多い

書評 『仏教要語の基礎知識 新版』(水野弘元、春秋社、2006)-仏教を根本から捉えてみたい人には必携の「読む事典」

「ホリスティック」に考える-「医学」のアナロジーで「全体」を観る視点を身につける 
・・仏教の「縁起」や「縁」もまた、全体と部分にかんするネットワークである


「見えないもの」を「見える化」する

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」
・・「向こう側」は「あの世」ではない!「見えない世界」への感受性を高めることが重要だ

書評 『ものつくり敗戦-「匠の呪縛」が日本を衰退させる-』(木村英紀、日経プレミアシリーズ、2009)-これからの日本のものつくりには 「理論・システム・ソフトウェアの三点セット」 が必要だ!
・・日本人にいちばん欠けているのが「見えないもの」を「見える化」する能力
   
『奇跡を起こす 見えないものを見る力』(木村秋則、扶桑社SPA!文庫、2013)から見えてくる、「見えないもの」を重視することの重要性


イノベーションとブレークスルー

書評 『人材は「不良社員」からさがせ-奇跡を生む「燃える集団」の秘密-』(天外伺朗、講談社+α文庫、2011、初版 1988)
・・ソニーの上席常務を務めた工学博士の土井利忠氏による「画期的プロジェクト成功の奥義」。天外伺朗(てんげ・しろう)はペンネーム。『般若心経』関連の著書もある

書評 『アップル、グーグル、マイクロソフトはなぜ、イスラエル企業を欲しがるのか?』(ダン・セノール & シャウル・シンゲル、宮本喜一訳、ダイヤモンド社、2012)-イノベーションが生み出される風土とは?
・・ホンダの「ワイガヤ」以上に激しい議論があたりまえのイスラエル

映画 『加藤隼戦闘隊』(1944年)にみる現場リーダーとチームワーク、そして糸川英夫博士
・・糸川英夫博士と厳しい風土と制約条件の多いイスラエルについても触れている

(2014年8月27日、2016年12月1日 情報追加)





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2014年8月20日水曜日

『奇跡を起こす 見えないものを見る力』(木村秋則、扶桑社SPA!文庫、2013)から見えてくる、「見えないもの」を重視することの重要性


無農薬の「自然栽培」で生み出される「奇跡のリンゴ」の生産農家である木村秋則氏は、もともと理系でマシン(機械)好きで数字にも強い。その一方で、「見えないもの」を知覚する能力に恵まれている。

『奇跡を起こす見えないものを見る力』(木村秋則、扶桑社SPA!文庫、2013 単行本初版 2011)は、そんな不思議な木村氏の本の一冊だ。タイトルに惹かれて、『すべては宇宙の采配』(木村秋則、東邦出版、2013 単行本初版 2011とともに購入し、先日あわせて読んでみた。

いまから7年前の2006年、「NHKプロフェッショナル 仕事の流儀」で「えいんご農家 木村秋則」として取り上げられて以来、『奇跡のリンゴ』がマスコミの話題となり、もっぱら信じてあきらめない努力と最終的な「成功」というハッピーエンド(?)の物語として消費されてきた印象があるが、木村氏自身は想像以上のキャラクターでもあるようだ。

自然相手の農業、しかも無農薬の「自然栽培」。すでに6年前に読んでいた 『奇跡のリンゴ-「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録-(石川拓治、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」制作班=監修、2008)にも書かれているが、まさに農業における逆転の発想であり、イノベーションといってよい。「常識」に対する挑戦である。

重要なことは、キッカケじたいは「自然農法」にあったことはたしかだが、「自然栽培」であるということだ。有機農法でもあるシュュタイナー農法ではなく、人間が全体を見ながら部分的には手を入れるのが「自然栽培」データをとって行う科学的栽培の技術である。

個人的な名人芸という特殊例ではなく、再現性のある技術であることは、多くの人たちが取り組むなかで実証されている。大きな壁を何度も乗り越えなければならない、きわめて困難な手法ではあるが。

これは「里山の思想」にもつうじる、「手入れの思想」(養老孟司)だといっていいだろう。基本的にリンゴを自然状態の「あるがまま」にまかせるが、能動的な働きかけも行うことによって、リンゴ本来の姿を「引き出す」という「対話」の手法である。

ここで「対話」というコトバを使ったが、これは文字通りの「対話」である。栽培者がリンゴに話しかける。つまり単なる技術ではなく、気持ちがこもっていなければならないという姿勢でもある。リンゴとはじっさいにコトバで会話できるわけではないが、語りかけ耳をすませるという姿勢は、その根底に愛があるというべきなのだ。


そもそも、農薬を大量に使用し、機械化も推進するという木村氏であったが、奥さんが農薬に弱いという絶対的な「制約条件」のもとで取り組んだのが無農薬と、化学肥料をいっさい使わない自然農法であった。取り組みはじめてからなんと8年かかったのだが、その間の苦労は想像を絶している。

道なき道を切り開くパイオニアである。最後までやり抜くという強い信念と、絶対的な確信をもって取り組むパイオニア。ギリギリまで自分とその家族を追い詰めながらも、やはり万策尽きて挫折してしまいそうになったことも何度もあったという。神仏に祈るのもやめてしまったのだという。

首をくくるためにロープをもって山に登って遭遇した野生のドングリの木。そこで気がついた土の秘密。まさに雑念がなくなったとき、自分を無にしたとき、「直観」はいきなりやってくるという好例だろう。とことん取り組んでいたからこそ、はじめて「向こう側」から「直観」がいきなりやってきて、答えが「こちら側」にもともとあったことがわかったのである。これは科学的発見と同じである。

「見えないもの」を見る力は、少年時代からあったらしい。少年時代に龍を見たのだという。あの想像上の動物の龍である。

時間がスローモーションで動いているのを目撃した体験だが、時間が一様に流れているのではないということを示したと解釈できる。木村秋則氏が書くものによれば、歌舞伎役者の市川海老蔵や、俳優の杉良太郎といった人たちも、龍をみたことがあるのだという。同じような資質や傾向をもった人たちなのだろう。

このほかUFOや宇宙人(!)を見たり、臨死体験と幽体離脱体験などもでてくるが、いずれも本人自身が体験したものであり、その体験は本人にとってはリアル以外のなにものでもない主観的な認識あるが、体験そのものを否定することはできないだろう。もちろん、当の本人もみずから望んでというよりは、いきなり遭遇したようだが、本人にもある意味では「引き寄せる力」があるのだろう。

重要なことはそいった個々の現象よりも、「見えないもの」の重要性を語っている点だ。「こちら側」の「見える世界」はごくごく一部であり、「向こう側」の「見えない世界」のほうが圧倒的に大きいと考えるべきなのだ。

しかも、リンゴ栽培のような植物においては、地上に伸びた幹や枝葉よりも、地下に拡がる根っこのほうがはるかに大きい。自然農法で育てているリンゴの木は、地下の根っこは地上の幹の2倍以上あるという。根っこが拡がっているからこそ安定しており、台風の被害も最小限にとどめることができたのだという。地下に拡がる世界もまた、「見えない世界」である。

さきに「手入れの思想」と書いたが、これは木村氏自身の表現ではない。だが、全体をみて細部に注意を払うという自然栽培は、全体と部分についての考察も促すものだ。



「生かされて活かす」という発想もすばらしい。「生かされている」という認識が大事なことはいうまでもないが、自然に「あるがまま」だけではだめなのだ。こちら側からの能動的な働きかけも重要なのである。

任せることは大事だが、任せたら任せっぱなしの自由放任ではだめ。心配りをして、声かけもするというケアの姿勢が大事なのである。そして感謝の気持ちもまた大切だ。

ここで想起するのは、山本五十六である。「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」 には続きがあった!-山本五十六 その2 で紹介した道歌(どうか)を紹介しておこう。


話し合い 耳を傾け 承認し
 任せてやらねば 人は育たず


やっている 姿を感謝で見守って
 信頼せねば 人は実らず


どのようにしたら、「人は育つ」のか? 「人は実る」のか? いずれも、「育てる」、「実らす」といった他動詞ではなく、あくまでも自分がかかわる相手の主体的な自発性に重点をおいた発想である。「引き出す」のである。

「人」を「リンゴの木」に置き換えてみれば、木村秋則氏の言っていることそのものではないか! 「育つ」や「実る」といった発想は、日本人にはストンと腹に落ちる栽培植物のアナロジーである。感謝の姿勢は、松下幸之助の経営哲学の根底にもあった。

木村秋則氏の「奇跡のリンゴ」の物語は、苦労したけど最終的にはうまくいきました、というハッピーエンドの成功物語として消費するのではなく、企業経営における人づくりにも、家庭の子育てや学校での人づくりにもつうじる、普遍的な哲学を示しているというべきだろう。

木村氏が基本的に理系的な発想をする人であり、「自然栽培」は再現性のある、移転可能な技術であることにも注意を払いたい。そして技術の根底に哲学があるということも。





『奇跡を起こす見えないものを見る力』(木村秋則、扶桑社SPA!文庫、2013 単行本初版 2011)

目 次

はじめに
第1章 龍との出会い、不思議とのつきあい
第2章 なぜ「奇跡のリンゴ」が実ったのか
第3章 リンゴと土から学んだこと
第4章 これからも、「奇跡」を起こし続けるために
おわりに
文庫版あとがき



『すべては宇宙の采配』(木村秋則、東邦出版、2013 単行本初版 2011

目 次

本書をより理解するために 特別寄稿 茂木健一郎(脳科学者)
まえがき
第1章 不思議の始まり
第2章 泥沼にて
第3章 許された日々
第4章 まだ足りない
参考写真





著者プロフィール
木村秋則(きむら・あきのり)
1949 年、青森県弘前市生まれ。木村興農社代表。 弘前実業高校を卒業後、 川崎市内のメーカーに就職するが、1 年半で退職。 1971 年に故郷に戻り結婚、リンゴ栽培を中心とした農業に従事。 農薬で妻が体をこわしたことをきっかけに、 1978 年頃から無農薬・無肥料のリンゴ栽培にチャレンジを始める。 10 年近くにわたって無収穫が続き、苦難の日々が続いたが、 ついに完全無農薬・無肥料のリンゴ栽培を成功させた。現在、リンゴ栽培のかたわら、 国内はもとより海外でも自然栽培法の農業指導を続けている。 また、自身の苦難の日々と成功への軌跡が描かれた映画『奇跡のリンゴ』が 2013年6月より全国東宝系映画館にて公開される。 オフィシャルサイト http://www.akinorikimura.net/






<関連サイト>

映画「奇跡のリンゴ」 菅野美穂 阿部サダヲ主演の原作-木村秋則 魂のリンゴ作り農家 前編(YouTube)
映画「奇跡のリンゴ」 菅野美穂 阿部サダヲ主演の原作-木村秋則 不可能を可能にした壮絶な8年間 後編 (YouTube)

映画「奇跡のリンゴ」 菅野美穂 阿部サダヲ主演の原作-木村秋則 不可能を可能にした壮絶な8年間 (YouTube)




『奇跡のリンゴ』は、2013年に映画化されている。主演:阿部サダヲ、菅野美穂。





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An apple a day keeps the doctor away. (リンゴ一個で医者いらず)


土と植物

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる
・・「自然農法」や「有機農法」を説いたシュタイナー。木村秋則氏のいう「自然栽培」とは異なる

書評 『土の科学-いのちを育むパワーの秘密-』(久馬一剛、PHPサイエンス・ワールド新書、2010)-「土からものを考える視点」に貫かれた本

地層は土地の歴史を「見える化」する-現在はつねに直近の過去の上にある

「コンパニオン・プランツ」のすすめ-『Soil Mates』 という家庭園芸書の絵本を紹介
・・「コンパニオン・プランツ(companion plants)という考えにあります。直訳すると、「友だち植物」とでもなるのでしょうか、ともに近くで育つことで相性のいい植物の組み合わせということです。 あえて雑草を抜かずにそのままにしているのもまた、この考えに基づいています。 数年前に大きな話題となった、『奇跡のリンゴ-「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則の記録-』(石川拓治、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」制作班=監修、幻冬舎、2008)で取り上げられている青森県のリンゴ農家である木村秋則さんもその一人ですね」

書評 『複合汚染』(有吉佐和子、新潮文庫、1979、初版1975年)-有吉佐和子ってこんなに面白かったのか! という新鮮なオドロキを感じる知的刺激に充ち満ちた一冊
・・「有吉佐和子の『複合汚染』(1975年)を文庫版で読んだときのことだ。いわゆる「有機農業」の実践を取材した記録であるが、20ページ以上にわたって詳細に取り上げられています」

世の中には「雑学」なんて存在しない!-「雑学」の重要性について逆説的に考えてみる
・・「自然界には雑草なんて存在しない、人間が勝手に分類しているだけだ」。かつて昭和天皇がこのような趣旨のことをクチにされていたと、どこかで読んだことがある

書評 『思想としての動物と植物』(山下正男、八坂書房、1994 原著 1974・1976)-具体的な動植物イメージに即して「西欧文明」と「西欧文化」の違いに注目する「教養」読み物

"粘菌" 生活-南方熊楠について読む-


「見えないもの」を「見える化」する

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」
・・「向こう側」は「あの世」ではない!「見えない世界」への感受性を高めることが重要だ

『はじめての宗教論 右巻・左巻』(佐藤優、NHK出版、2009・2011)を読む-「見えない世界」をキチンと認識することが絶対に必要
・・プロテスタント神学の立場から。内容にはかならずしも同調する必要はないが、思考のフレームワークを知るのはよい

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点

書評 『ものつくり敗戦-「匠の呪縛」が日本を衰退させる-』(木村英紀、日経プレミアシリーズ、2009)-これからの日本のものつくりには 「理論・システム・ソフトウェアの三点セット」 が必要だ!
・・日本人にいちばん欠けているのが「見えないもの」を「見える化」する能力

書評 『梅棹忠夫の「人類の未来」-暗黒の彼方の光明-』(梅棹忠夫、小長谷有紀=編、勉誠出版、2012)-ETV特集を見た方も見逃した方もぜひ
・・「こちら側」だけを見ていたのでは「科学の限界」に気がつくことはない

マイク・タイソンが語る「離脱体験」-最強で最凶の元ヘビー級世界チャンピオンは「地頭」のいい男である!
・・マイク・タイソンのボクシング試合中の「幽体離脱」体験
   
「ホリスティック」に考える-「医学」のアナロジーで「全体」を観る視点を身につける 

「魂」について考えることが必要なのではないか?-「同級生殺害事件」に思うこと


企業経営へのインプリケーション

書評 『道なき道を行け』(藤田浩之、小学館、2013)-アメリカで「仁義と理念」で研究開発型製造業を経営する骨太の経営者からの熱いメッセージ

「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」 には続きがあった!-山本五十六 その2

経営計画の策定と実行は、「自力」と「他力」という仏教の考えをあてはめるとスムーズにいく





(2012年7月3日発売の拙著です)





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