「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問 ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2009~2026 禁無断転載!



ラベル スペイン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル スペイン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年8月3日木曜日

美術展「スペインのイメージ  版画を通じて写し伝わるすがた」(国立西洋美術館)に行ってきた(2023年8月3日)― ステレオタイプな「スペインのイメージ」とスペイン人自身によるイメージの違いを知る

 


この美術展は、英語のタイトル IMAGED AND IMAGINED  SPAIN SEEN THROUGH PRINTS FROM JAPANESE COLLECTIONS の下線部にあるように、「日本の美術館の所蔵品である版画作品」から、「スペインのイメージ」の歴史的変遷をあぶりだそうとした試みだ。

したがって、海外からの出品はなく、すべてが日本の美術館に散在している版画作品の再構成展示といえる。もちろん、そのなかにはこの美術展を主催した国立西洋美術館の所蔵品も含まれる。

展示の構成は、以下のようになっている。

0. 導入 INTRODUCTION
1. 黄金世紀への照射:ドン・キホーテとベラスケス  REFLECTING ON TRADITION
2. スペインの「発見」 THE “DISCOVERY” OF SPAIN
3. 闘牛、生と死の祭典  BULLFIGHT, FESTIVAL OF LIFE AND DEATH
4. 19 世紀カタルーニャにおける革新  CATALONIA AND THE MODERNITY IN THE NINETEENTH CENTURY
5. ゴヤを超えて:スペイン20世紀美術の水脈を探る  BEYOND GOYA: FINDING THE UNDERCURRENTS OF 20TH-CENTURY SPANISH ART
6. 日本とスペイン:20 世紀スペイン版画の受容  JAPAN'S RECEPTION OF SPANISH MODERN PRINT


■スペインの「ステレオタイプなイメージ」

「スペインのイメージ」は、スペイン人自身がイメージしたものもあるが、その多くはフランスを中心とした西欧人がイメージした「ステレオタイプなイメージ」である。この対比が面白い。

フラメンコや闘牛といった「情熱の国スペイン」というのは、スペイン国外でつくられたものだ。フラメンコといえばカルメンだが、そのカルメンを主人公にした小説は、19世紀フランスの作家メリメによるもの。おなじくフランスの作曲家ビゼーがこれをもとに『カルメン組曲』をつくっている。

フランスを中心としたエキゾチックなステレオタイプなイメージは、誇張があるとはいえ、歴史的な要因もある。

「ピレネーの西はアフリカ」というのは有名なフレーズだが、歴史的経緯を考えればその通りで会った。ピレネー山脈があったからこそ、イスラーム勢力はイベリア半島から東には進出できなかったのであり、ピレネーを境にイスラーム勢力とキリスト教西欧が並立している状況は、中世をつうじて長きにわたってつづいたのである。

だからこそ、現在にいたるまでイスラーム建築の代表的存在である「アルハンブラ宮殿」がスペインを代表する観光スポットとなっているわけだし、コルドバのようにイスラーム的雰囲気を濃厚に残している都市もある。

このイスラーム建築とそのデザインにインスパイアされたのは19世紀の英国であった。英語圏では19世紀前半の米国人外交官で作家のワシントン・アーヴィングによる『アルハンブラ物語』が流通していた。

エキゾチックなイメージといえば、フランスのタバコの銘柄「ジタン」(gitanes)であろう。今回の美術展には「ジタン」の広告ポスター版画も展示されているが、フランス語の「ジタン」とはジプシーのことである。カルメン、フラメンコ、ジプシーという連想は、スペインでつくられたものではないのだ。

スペインが広く西欧世界に知られるようになったのは、19世紀初頭のナポレオン戦争によるスペイン占領以降のことだ。スペインの画家ゴヤの時代である。ゴヤが描いた戦争の悲惨さの作品は、20世紀のピカソにつながるものがある。

15世紀末には、スペインのカトリック化(=キリスト教化)が完成したが、「レコンキスタ」として知られるこの勢いはピレネー山脈を越える形ではなく、もっぱら大西洋を越えてアメリカ大陸に向かうことになった。フランス王国という強力な勢力があったため、ヨーロッパ域内ではオランダやイタリア南部を支配するにとどまったのであった。

その意味では、むしろ戦国時代末期の日本のほうが、ダイレクトにスペインとのかかわりをもったといえるかもしれない。太平洋地域ではフィリピンに拠点を置いたスペインは、ヌエバ・エスパーニャ(=メキシコ)を中継点にして中国貿易を行っていたのである。キリスト教に対する禁教政策が実行されるまで、日本はスペインとの関係を維持していた。


■ありのままのスペインのイメージを知るには

さて、美術展の話題に戻れば、ステレオタイプなイメージがいかに形成されてきたかを見ることによって、ありのままのスペインのイメージとのギャップを考えるいい機会になると思う。ベラスケス、ゴヤ、ピカソ、ダリといった画家たちの作品の、一筋縄ではいかない魅力はどこからくるものであるのか。

わたし自身は、過去2回スペインに行っているが、いずれも暑い、いや熱い時期だった。スペインはマドリードだけではない。個性豊かな地方都市こそ面白い。そこにはステレオタイプなスペインではない、多様性に富んだほんとうのスペインがある。




<ブログ内関連記事>






(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end

2021年1月10日日曜日

「闘牛といえばスペイン」は、すでに過ぎ去った過去の話なのかもしれない・・

 
闘牛といえばスペインという連想がある。スペインといえば闘牛とフラメンコ。日本人に限らず、世界中でそうなのではないだろうか。 

サービス業のバイブルともいうべき『真実の瞬間』(1990年)英語原書のタイトルは The Moment of Truth だが、これはもともとスペイン語の Momento de la Verdad(モメント・デ・ラ・ベルダー)からきている。意味するところは、闘牛士が牡牛にとどめを刺す「決定的瞬間」のことだ。 

 日本人である自分には、闘牛といえばスペイン、そんな「常識」があったので、ずいぶん以前の1990年代のこと、1度だけだが本場スペインのマドリードにいった際、ナマの闘牛を見に行ったことがある。

闘牛場はコロセウムのような形なので、かぶりつきでないとウシも闘牛士も小さく見える。 だが、このとき一回限りでイヤになってしまった。というのは、闘牛士が牡牛を倒したあと、流された血の匂いが観覧席まで漂ってきたからだ。生臭い血の匂いに、リアルな闘牛を知ることになったというわけだ。 

どうやら、こういう感覚をもったのは日本人の自分だけではなかったようだ。本家本元のスペインでさえ、1990年代後半以降、動物愛護の観点から闘牛反対の世論が大きくなっていったらしい。殺すことはなかろう、と。しかも、スペインではサッカー人気が、「国技」である闘牛人気を上回っているのだ、とか。 

そんな風潮がでてくる臨界点ともいうべきときに出版されたのが、作家・佐伯泰英氏の『闘牛はなぜ殺されるのか』(新潮選書、1998)という本だ。佐伯氏の「スペイン闘牛もの3部作」の最後となった作品である。  

出版順にいうと、『闘牛』(平凡社カラー新書、1976)『闘牛士エル・コルドベス 1969年の叛乱』(徳間文庫、1987 単行本 1981年)の集大成ともいうべき位置づけになる。 

もともと写真家としてスペイン、しかも闘牛をテーマに絞って取材活動を続けていた佐伯氏の写真と文章には、スペインと闘牛への愛が強く感じられる。古き良きスペインといったものがある。 

だが、スペインの闘牛人気が下がり始めたのと軌を一にしたように、作家人生にも一大転機が訪れたようだ。スペインものが売れず、ちょうど『闘牛』がでた1998年に作家廃業寸前まで追い込まれたらしい。なんと57歳のときだ。 

その後、時代小説に転じて「文庫書き下ろし時代小説」という新たなジャンルを確立して転進に成功している。現在も月に1冊出すというハイペースの量産体制で、ファン層をがっちりつかんだ佐伯氏だが、その原点にスペインものがあったことは、知る人ぞ知る事実である。 時代小説のほうのファンではない私にとって、作家・佐伯泰英氏の原点であるスペインもののほうが好みに合う。 

それにしても、佐伯氏の闘牛三部作は、ある意味で消えゆく伝統芸への「挽歌」となったのかもしれない。 

<ブログ内関連記事>





 

(2021年10月22日発売の拙著です)

 
 (2020年12月18日発売の拙著です)


(2020年5月28日発売の拙著です)


 
(2019年4月27日発売の拙著です)



(2017年5月18日発売の拙著です)

(2012年7月3日発売の拙著です)


 





Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end

2020年9月23日水曜日

弱肉強食の「第1次グローバリゼーション」を終わらせた家康のすごさを『戦国日本と大航海時代 ― 秀吉・家康・政宗の外交戦略』(平川新、中公新書、2018)を読んで考えてみる



2020年7月にNHKスペシャルで2回にわたって放送された「戦国~激動の世界と日本~(1)「秘められた征服計画」「(2)ジャパン・シルバーを獲得せよ」が面白かった。 最新の研究蓄積を存分に活かして、それをビジュアルとして再現した好番組だった。

この番組を視聴した機会に、購入したまま2年間積ん読のままだった『戦国日本と大航海時代-秀吉・家康・政宗の外交戦略』(平川新、中公新書、2018)を読んでみたら、これがまためっぽう面白かった。これほど面白い歴史書もなかなかない。  

今回は、この歴史書をベースにして、「第1次グローバリゼーション」という「危機の時代」について考えてみよう。

17世紀は世界的な「小氷河期」という「寒冷期」であり、気象異常にともなう飢饉と飢餓、感染症の蔓延(とくに西欧は14世紀以来のペストが再燃)にみまわれた「危機の時代」(Age of Crisis)であった。
   

■「大航海時代」の進展のなか「第1次グローバリゼーション」が始まった

いわゆる「大航海時代」は、15世紀にポルトガルから始まり、それにつづいてスペイン、さらにオランダとイングランド、フランスなどが続いていった「第1次グローバリゼーション」の時期に重なる。先行した人口小国のポルトガルが息切れし、ポルトガルに代わって世界帝国を築き上げたのが、おなじくカトリック国のハプスブルク家のスペインだ。

神聖ローマ皇帝カール5世は同時にスペイン国王カルロス1世であったが、その息子のフェリペ2世はハプスブルグ家の本家から分家して、スペイン・ハプスブルグ家の初代となった。カルロス1世がドイツ生まれなのに対して、フェリペ2世はスペイン生まれであり、文字通りスペインの国王として君臨することになる。

西洋史の文脈においてはカール5世はきわめて大きな存在だが、世界史という観点からみたら、フェリペ2世のほうがはるかに重要な人物である。なぜなら、フェリペ2世のときに、地球上のすべての大陸がスペインのもとに一体化することになったからだ。1571年にスペインが領有化したフィリピンにマニラを建設したとき、 「第1次グローバリゼーション」が始まったのである。フィリピンは、フェリペ2世にちなんだ命名である。

すこし時計の針を戻して、ポルトガルとスペインが覇権争いをしていた時代に触れておこう。この覇権争いとその解決策が、日本とその周辺の東アジア(東南アジア含む)にきわめて多大な影響を与えることになったからである。


■ポルトガルとスペインが勝手に地球を二分割

仲裁に入ったのはローマ教皇である。ともにカトリック国であったポルトガルとスペインは、上位の権威であったローマ教皇の裁定に従うことになった。それが「トルデシリャス条約」(1494年)だ。この条約によって、両者のテリトリーが確定したのである。覇権争いは戦争に訴えることなく決着したのである。

ヨーロッパからみてポルトガルは地球の東半分スペインは西半分が、それぞれの勢力圏として確定したのである。さしあたって問題になっていたのが「新大陸」(・・先住民の権利を無視したこの表現はつかうべきではないので、以下の記述は中南米とする)の線引きであった。境界線が引かれたのは子午線の西経46度37分で、ブラジルがポルトガルの領土となり、それ以外はスペインの領土と確定した。現在でも中南米ではブラジルだけがポルトガル語で、それ以外はすべてスペイン語地域であるのはそのためだ(*カリブ海地域には英仏蘭あり)。

ただし、1494年の時点では地球の反対側の境界線は定まっていなかった。ところが、マゼランによる世界一周航海(・・マゼラン自身はフィリピンのセブ島で殺された)の生き残りが1522年にスペインに帰還したことによって問題が浮上した。問題の焦点は、香料諸島(=スパイス諸島)という異名で呼ばれたモルッカ諸島の帰属にあった。

その問題は「サラゴサ条約」(1529年)によって解決された。モルッカ諸島から東へ17度進んだところに境界線を定め、モルッカ諸島のポルトガル領有が確定したことで決着した。条約によればフィリピンはポルトガル領となるはずだが、香料の生産地ではなかったこともあり、スペインのフィリピン領有にかんしてポルトガルからの反対はなかった

『米中戦争前夜』の著者で米国人政治学者のグレアム・アリソン教授は、ポルトガルとスペインの覇権争いは、戦争によることなく平和裏に解決したことを高く評価している。この500年の覇権争いの大多数が戦争で決着がついているからだ。現在でも、いわゆるグローバル企業が、営業権やブランド使用権の範囲を勝手に確定しているが、その走りであるといってもいいだろう。

問題は、上記2つの条約で定められた境界線が、なんと日本列島の真上を通っていた(!)ことにある。日本列島の大半はポルトガルガル領となっていたわけだが、居住者の知らぬ間にその意向をまったく無視した状態での境界線であり、まことにもってけしからん話だと言わざるを得ない。

問題をさらに・・していたのは、カトリック国のポルトガルとスペインはともに、進出先で推進していたビジネスをカトリック布教と一体のものとしていたことにある。

フレーズ的にいえば「宗経一致」ということになるが、戦国時代の日本に進出したポルトガルは、同時に布教活動も行う根拠を得たことになる。ポルトガル王国をバックにつけていたのは16世紀前半に誕生した新興のイエズス会であった。

組織のトップから布教を始めるイエズス会の方法は、九州各地の大名を味方につけ、さらには信長の知遇を得たことで京都でも成功していた。

資金源は、ポルトガルによるマカオ=長崎ルートの生糸貿易である。中国産の高級生糸と日本銀の交換を担っていたのがポルトガル商人だったからである。日本は倭寇であるとして明朝との直接貿易が許されず、ポルトガルは海賊退治の功績で明朝からマカオを手に入れていたので可能となったビジネスモデルであった。

ところが、フェリペ2世の時代の1580年には、同君連合としてスペイン王がポルトガル王を兼ねることとなり、実質的にポルトガルはスペインに併合され世界最大の帝国が誕生することになった。三大陸に及ぶ領土は「日の沈まぬ帝国」と呼ばれたのである。スペインは、日本へのビジネス進出と布教活動を同時に進めることが可能となり、フィリピンがその前線基地となった。

スペイン王国をバックにつけていたのは、フランシスコ会やドメニコ会、聖アウグスチノ会などの托鉢修道会であり、イエズス会が開拓していた日本市場への新規参入者が混乱をもたらすことになったのである。 この状況で発生したのが秀吉の時代の「二十六聖人殉教」であった。殉教者のうち宣教師はいずれもフランシスコ会の修道士であった。

先に見たように、ポルトガルとスペインの覇権争いは条約によって平和裏に解決し、しかもポルトガルがスペインに併合されることで、スペインが覇権国となったが、西欧では局地戦が継続して進行していた。スペインの金庫番ともいうべきネーデルラント北部7州(=オランダ)が1581年に独立戦争を開始、足許では大いにゆらぎが生じていたものの、世界規模の戦争は発生していなかった。

ところが東アジアでは状況はまったく違っていた。秀吉が、1592年に中国征服を目的として「朝鮮出兵」を断行したのである。16万人弱という大軍勢を送り込んだ大戦争であった。

もともと、中国征服はスペインの出先フィリピンで計画されていたものだった。宣教師たちは、人口大国の中国を支配すれば、大規模に布教が可能だと考えたからだ。1600年当時の中国の人口は1.5億人で、スペインはポルトガルとあわせて1,050万人、日本は2,200万人であったと推計されている(・・ちなみに、李氏朝鮮は500万人、オランダ150万人、ブリテン諸島全体で625万人)。おそらく、南米大陸のように簡単に征服は可能と想定していたのだろう。

だが、スペインによる中国征服計画はフェリペ2世が却下したことで立ち消えになった。1588年の「アルマダの海戦」で艦船を大幅に失った影響もあったろうし、ビジネスベースで考えれば中国を征服するメリットがないと判断したためかもしれない。

中国征服計画は、スペインではなく、天下統一を果たしたばかりの秀吉が実行することになったのである。秀吉は同時にフィリピン侵攻も計画しており、中国征服の暁には天皇を北京に移し、自らは寧波(ニンポー)に移ってインドまで征服する野望(夢想?)を抱いていたのである。

ところが、朝鮮半島では快進撃を続けていたものの、援軍に入った宗主国の明軍は想定以上に強く、日本軍の火縄銃に対して明軍は大砲を装備しており苦戦を強いられることになる。朝鮮が戦場となったが、実質的に日本と明朝との激突であったのだ。

日本側と明朝のあいだで(・・朝鮮の頭越しに!)講和条約交渉が行われたが交渉は決裂、秀吉はふたたび出兵を命じて朝鮮半島南部を占領したが、秀吉が1598年に没したことで(・・なんとその5日前には因縁のスペインのフェリペ2世が没している!)、無謀な大戦争は当事者に大きな被害をもたらしたことで終わった。とくに明朝の財政悪化が進行し、滅亡を早めた可能性がある。

日本では、秀吉亡き後の覇権をめぐる関ヶ原の戦い(1600年)で家康が天下取ることになったのだが、この直前に日本に登場したのがオランダとイングランドという新興勢力であった。ともにプロテスタント勢力であり、カトリック勢力のスペインと対立していた。


■家康は最終的にオランダを選択、天下泰平への道をつけた

NHKスペシャルの第2回放送「(2)ジャパン・シルバーを獲得せよ」では、家康がオランダ東インド会社(・・以下、オランダとする。東インド会社には外交権ろ戦争権も付与されていた)を使ってスペイン帝国を牽制し、大坂夏の陣の勝利によって豊臣側についたキリシタン大名とスペイン勢力を敗退させることに成功するところまでカバーしていた。 

家康とオランダとの出会いは、オランダの貿易会社が派遣した貿易船隊に属していたリーフデ号が豊後国(現在の大分県)に漂着したことから始まる。それは関ヶ原の戦いの半年前のことであった。

家康は、航海士のイングランド人ウィリアム・アダムズ(=三浦按針)とオランダ人のヤン・ヨーステン(・・東京駅八重洲口の「八重洲」の語源)を外交顧問に採用したことは、よく知られていることだろう。その後のオランダとイングランドとの関係の始まりの原点である。南蛮人に対する紅毛人である。

その2年後の1602年には、オランダ本国で連合オランダ東インド会社(略称VOC)が設立された。ハイリスクの遠洋航海を実行し、無用な競合を避けて利益を確保するために統合された。イングランドの東インド会社は設立はオランダより2年早かったが、資本金と貿易金額の規模においては、オランダがはるかに勝っていた。

オランダ東インド会社が、幕府から平戸に商館を開設することを許されたのは1609年のことである。その後、幕府の命令によって出島に移転させられるまでの33年間が平戸時代である。イングランドの東インド会社の平戸商館開設は、4年後の1613年のことであった(*)。

(*)イングランドは、アンボイナ事件によってオランダとの勢力争いに敗れたことと、日本での商売不振のため、10年後の1623年に商館を閉鎖し日本市場から撤退。半世紀後の1673年に家康が発行した朱印状をもって貿易再開を求めてリターン号で来日したが、幕府はイングランド国王がポルトガルの王女であることを理由に拒否。


オランダ東インド会社(以下、オランダとする)が欲しがっていたのは日本銀であった。16世紀から17世紀にかけては、銀がほぼ実質的な世界通貨の役割を果たしていたからである。西洋人も日本人も、絹織物や生糸、陶磁器などの中国製品が欲しかったほしかったのである。

当時の日本は世界中の銀の1/3を産出(!)しており(・・のこり2/3はスペイン植民地のペルーを中心にメキシコも)、オランダはスペイン銀だけでなく、日本銀が必要だったのだ。というのも、オランダはスペインからの独立戦争を戦っていたため、スペインに代わる銀獲得のオルタナティブ・ソースとして日本銀に目をつけており、いかなる手段を使ってでも日本に食い込みたかったのである。 

そして、日本から入手した「銅」もまた、オランダ製の大砲の材料として使用されたのである。17世紀前半のオランダにとって、日本の存在は想像以上に大きかったというべきだろう。

関ヶ原の戦いで天下は家康のものとなったが、まだ豊臣氏の勢力が一掃されたわけではなかった。その間は、生糸貿易の中心は依然としてポルトガル商人の独占であり、オランダとイングランドもしのぎを削っていたが、その牙城を崩せる状況にはなかった。

熟柿が落ちるのを待っていた家康は、ついに大坂の陣を開始する。1615年のことだ。だが、大坂冬の陣では決着がつかず、翌年1616年の大坂夏の陣で勝利し、徳川幕府の基礎を固めることに成功する。その決め手の一つとなったのが、オランダ製とイングランド製の大砲であった。

キリシタン浪人が豊臣側に集まっていたこともあり、キリシタン勢力と宣教師は豊臣側についており、プロテスタント勢力 vs カトリック勢力の戦いともなっていた。幕末の戊辰戦争が、裏面では英仏の対決であったことと似ている。

大坂の陣の終了後、満足のうちに家康は没する。長生きはするものである。

少し先回りしてしまったが、このプロセスと同時に進行していたのが、スペインとの関係構築の動きだ。スペインとの関係といえば、伊達政宗がスペインに派遣した支倉常長のことが想起されるが、その件が『戦国日本と大航海時代-秀吉・家康・政宗の外交戦略』で扱われており、これが本書の最大の特色といっていいだろう。家康と政宗の神経戦ともいうべき確執が手に汗握るような展開を見せるからだ。 

家康は、キリスト教は嫌いだが貿易はしたかった。そのため、様々なプレイヤーを互いに競わせて操っていたが、フィリピンを植民地にしていたスペインとの貿易も考えていたのである。

そんな状態で登場したのが伊達政宗だ。彼は、帰国船の確保に困っていたスペインの交渉担当者に助けを出す。そこで企画されたのが支倉常長の慶長遣欧使節である。スペイン貿易を行うため、家康からガレオン船建造と使節派遣を許可されたのである。 

支倉常長は、1613年に太平洋を横断してスペイン・ルートでメキシコのアカプルコ経由で欧州に行き、スペイン国王とローマ教皇に謁見することまでは成功した。だが、肝心要の貿易交渉は失敗に終わり、支倉は失意のうちに帰国することになる。 1620年のことだ。

その時点ですでに豊臣氏は滅亡しており、家康も没していた。政宗は健在だったが、すでに情勢は大きく転換していたのだった。

支倉の帰国から数日後、「禁教令」が出たのである。政宗の構想も夢と消えた。1624年にはスペイン船の来港も完全に禁止された。そこですべては終わったのである。 だが、江戸時代をつうじて日本列島の南のフィリピンにスペインが居座り続けたことは、アタマのなかに入れておく必要がある。

このあとは本書の範囲を越えるが、ポルトガルとの断交はまだしばらく先のことである。中国産の高級生糸確保のため、ポルトガル商人のマカオ=長崎ルートの貿易が必要とされていたからだ。

だが、「島原の乱」の鎮圧にあたって、ポルトガル勢力が背後にいるとにらんでいた幕府は、オランダに命令して軍艦から発砲させた。島原の乱鎮圧後、生糸入手に問題がないことをオランダから確認した幕府は1639年にポルトガルと断交し、以後カトリック勢力の排除が徹底して実行される。キリシタン弾圧とは、カトリック勢力排除のことであった。

日本は、幕末までオランダと、そして「開国」後は英米アングロサクソンというプロテスタント勢力との緊密な関係が現在にいたるまで継続している。日本とプロテスタントは相性がいいのだろうか。この関係は、すでに400年以上に及んでいるのである。


■強いからこそ江戸幕府は「鎖国」を実行した

『戦国日本と大航海時代-秀吉・家康・政宗の外交戦略』が扱っているのは、それだけではない。なぜ秀吉は明を征服するとして「朝鮮出兵」を行ったのか、さらに家康がヨーロッパ勢力から家康が「皇帝」と呼ばれていたことの意味を踏まえ、当時の日本は世界有数の「軍事大国」であったことを描き出す。 

そう、だからこそ、家康の意志決定によって最終的にオランダが選択され、スペインが切り捨てられたのである。弱いから、怖いから、引きこもって「鎖国」したわけではないのである。強いからこそ「鎖国」できたのである。これが著者の結論であり、わたしもまったく同感だ。 

日本と手を組んだオランダは空前の繁栄を享受し、世界初の「覇権国家」となって「黄金時代」を享受した一方、戦争にあけくれて財政破綻したスペインは衰退の道へ転落していく。世界情勢のカギを握ったのは軍事大国・日本であり、その中心にいたのが家康だったのだ。 

さらに付け加えれば、弱肉強食の「グローバリゼーション」を終わらせた家康が、いかにすばらしかったかを深く感じるのである。

家康が強大な軍事力を背景に、いち早く「第1次グローバリゼーション」から抜け出し、「パックス・トクガワーナ」(=徳川の平和)と称される「天下泰平」の基礎を作り上げた功績は、強調しても強調しすぎることはない。 

現在もまた、行きすぎた自由化がもたらした弱肉強食の「グローバリゼーション」の弊害が目に余るようになっている。新型コロナウイルスのパンデミックを機会に、「第3次グローバリゼーション」に、一時的にせよ強制終了が入ったことは、人類全体にとってたいへん善いことだ。 

その意味でも、17世紀に「グローバリゼーション」を終わらせた日本がいかにすばらしかったか、日本人は認識をあらたにすべきであろう。 

1571年に始まった「第1次グローバリゼーション」は、まさに信長・秀吉・家康という3人の「天下人」の時代の出来事なのである。


画像をクリック!



目 次 

序章 戦国日本から「帝国」日本へ 
第1章 大航海時代と世界の植民地化 
第2章 信長とイエズス会 
第3章 秀吉のアジア征服構想はなぜ生まれたか 
第4章 家康外交の変遷 
第5章 伊達政宗と慶長遣欧使節 
第6章 政宗謀反の噂と家康の情報戦 
第7章 戦国大名型外交から徳川幕府の一元外交へ 
終章 なぜ日本は植民地にならなかったのか

著者プロフィール




<ブログ内関連記事>


書評 『米中戦争前夜-新旧両大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ-』(グレアム・アリソン、藤原朝子訳、ダイヤモンド社、2017)-「応用歴史学」で覇権交代の過去500年の事例に探った「トゥキディデスの罠」

イエズス会士ヴァリニャーノの布教戦略-異文化への「創造的適応」

フィリピンのバロック教会建築は「世界遺産」-フィリピンはスペイン植民地ネットワークにおけるアジア拠点であった
・・キリシタン大名の高山右近は追放先のマニラで病死

スコセッシ監督が28年間をかけて完成した映画 『沈黙-サイレンス-』(2016年、米国)を見てきた(2016年1月25日)-拷問による「精神的苦痛」に屈し「棄教者」となった宣教師たちの運命

書評 『グローバリゼーションの中の江戸』(田中優子、岩波ジュニア新書、2012)-「ヒト」の移動に制限はあったが「モノ・カネ・情報」が自由に行き交いしていた江戸時代

書評 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(松原久子、田中敏訳、文春文庫、2008 単行本初版 2005)-ドイツ人読者にむけて書かれた日本近代史は日本人にとっても有益な内容

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・抜書きしておいた「日本におけるキリスト教の不振」にはぜひ目を通していただきたい。文化人類学者・泉靖一氏の見解に説得力がある


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end

2020年4月6日月曜日

深刻なコロナ被害の南欧諸国を食で支援(2020年4月5日)-パスタはイタリア産、オリーブとニンニクはスペイン産


イタリア産のパスタとスペイン産のニンニクとオリーブで、スパゲッティを作って食べました。

食をつうじた経済支援と考えたいものです。都市封鎖のロックダウンでイタリアもスペインも経済がボロボロ状態だから、せめて農村地帯の経済を支えることが必要ではないでしょうか?

すでに輸出された食料品は、けっして輸出国の食糧を奪うことにはつながりません。輸出は、外貨獲得のために必要です。

ただし、ニンニクはできるだけ中国産ではなくスペイン産を選びましょう。ちなみにスペイン語でニンニクは「アホ」(ajo)です(笑)

こんな状況だからこそ、自国中心の独りよがりの狭い心ではなく、他者への思いやりを忘れないでいたいものですね。







<ブログ内関連記事>

西欧中世の聖女ヒルデガルド・フォン・ビンゲンはニンニクを礼賛していた

「スペイン料理」 の料理本を 3冊紹介

船橋名産のホンビノス貝を食べる-白ワインの酒蒸しの場合、フタがあくまで「忍」の一字で!


 
(2019年4月27日発売の拙著です)



(2017年5月18日発売の拙著です)


   
(2012年7月3日発売の拙著です)


 




Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!









end

2015年6月8日月曜日

フィリピンのバロック教会建築は「世界遺産」― フィリピンはスペイン植民地ネットワークにおけるアジア拠点であった

(マニラの聖アグスティン教会正面 筆者撮影)


バロックというと初期近代の西欧キリスト教世界、とくに対抗宗教改革でパワー全開したカトリック諸国で花開いた芸術様式のことを指しているが、とくにスペインによる植民地支配の拡大にともなって西欧以外にも拡がったことが知られている。

とくに多いのが現在でもスペイン語圏である中南米であり、18世紀メキシコでは土着の文化と融合した独特のバロックが栄えたことも知られている。

だが、バロック様式が残っているのは西欧や中南米だけではない。アジアにもある。それはフィリピンである。16世紀以来、約300年にわたってスペイン、その後アメリカの植民地となっていたフィリピンは、人口の9割がキリスト教徒、人口の7割がカトリックである。

いわゆる「大航海時代」に世界一周航海をなしとげたの探検家のマゼランは、フィリピンのセブで殺されたことを想起しておきたい。その後スペインはフィリピンを領有し、当時の国王フェリペ二世にちなんで、その地をフィリピンと命名したのであった。


(マゼランの世界一周 右がフィリピン wikipediaより)


中南米と同様、植民地となったフィリピンもまたスペインによってキリスト教化された。スペインは、カトリックの対抗宗教改革の一大中心であった。フィリピンの植民地化が開始された16世紀は、バロック芸術が栄えた時代である。したがって、フィリピンにも、スペイン本国と同様にバロック様式のキリスト教会が建築されたわけである。

16世紀に建てられた4つの教会が「世界遺産」として1993年に登録されているが、とくに首都マニラにある聖アグスティン教会は、1571年に建築され、フィリピン最古の教会といわれている。現在でも現役の教会堂として使用されている(・・下の写真を参照)。


(聖アグスティン教会はいまでも現役 筆者撮影)


聖アグスティン(=サン・アグスティン San Agusutin)とは、『神の国』で有名な初期キリスト教を代表する教父アウグスティヌスのことである。

4世紀エジプトに生まれたアウグスティヌスは、自叙伝ともいうべき『告白』のなかで、"異教" であるマニ教からキリスト教に改宗したことを書いており、キリスト教への改宗を促進する拠点となった教会の名前としてふさわしいとされたのであろう。

ちなみに日本の戦国時代のキリシタン大名の小西行長(1558~1600)の洗礼名はアゴスティノ(=アウグスティヌス)であった。同じくキリシタン大名であった高山右近(1552~1615)の洗礼名はジュスト、徳川家康によるキリシタン国外追放令によって、追放先のマニラで病死している。葬儀は、スペインのフィリピン総督の指示によって聖アンナ教会(1578年建造)で執り行われた。ドン・ジュスト高山は、2015年には福者として列せられる予定である。


(スペイン植民地のバロック建築と文化の流れ 左下がフィリピン)


『ウルトラバロック』(小野一郎、小学館、1995)という本はメキシコのバロックをテーマにした写真集だが、同書に掲載されている「本書のスペイン植民地のバロック建築と文化の流れ」という地図をみると、メキシコが圧倒的にスペインのハプスブルク家をはじめとするヨーロッパの影響下にあっただけでなく一方では太平洋をはさんでフィリピンのマニラを中心としたスペイン植民地との接点もあったことがわかる。

フィリピンにおいても、ローカル文化とカトリックが融合して「フォーク・カトリシズム」(=民衆カトリック)ともいうべき形態が定着しているとされているが、聖アグスティン教会にもその端緒ともみるべきものが見られる。

たとえば、教会建築の側面にはキリスト教の聖者の石造が飾られているが、その下にはなんと獅子が鎮座している。ライオンというよりも、はるかに中国風の獅子である(・・下の写真を参照)。


(聖アグスティン教会の側面にある獅子のレリーフ 筆者撮影)


日本の戦国時代と同時代であった「大航海時代」というと、どうしても南蛮人はポルトガルでアジア拠点はマカオという連想が働きがちだろうが、アジア地域においては、マカオを拠点としたポルトガルに対し、フィリピンを拠点としたスペインという図式があった。

米西戦争の結果、フィリピンの領有権がキューバとともに、スペインから米国に譲渡されたのは1898年である。それ以降、日本人の認識から「アジアにおけるスペイン」が消えているが、聖アグスティン教会など世界遺産に登録された教会建築や、ビールの銘柄でもあるサン・ミゲール(=聖ミカエル)、そしてフィリピン人の姓名に、スペイン支配時代の痕跡を見ることができる。

江戸時代に入ってからだが、仙台藩から慶長遣欧使節団を率いて渡欧した支倉常長(はせくら・つねなが 1571~1622)は、地球を右回りで太平洋を横断し、スペイン領となっていたメキシコのアカプルコを経て欧州に渡航し、帰途にはスペイン領となっていたマニラを経由して帰国している。スペイン王国の援助があったためである。地球の半分が、ローマ教皇によって勝手にスペインとポルトガルに分割されていた(!)のだ。


(支倉常長の慶長遣欧使節団ルート wikipediaより)


日本でキリシタンが禁止されるに至った理由の一つに、ポルトガル王国の支持を受けていた先発組のイエズス会と、スペイン王国の支持を受けていた後発組のフランシスコ会の日本布教をめぐる対立があった。キリスト教内部の内輪もめのために両者共倒れになったのは皮肉なことだ。

日本にも、明治時代以降に建築されたバロック様式の建築物もあるが、初期近代のバロック時代のまっただなかに建築されたものがフィリピンに残されてることは、ぜひアタマのなかにいれておきたいことである。

いわゆる「鎖国体制」(・・じっさいは「鎖国」ともいうよりも管理貿易体制)をとるにいたった日本人の認識からは消えてしまったが、20世紀がはじまる時期まで、日本のすぐ近くにスペインの存在があったのである。

フィリピンというとアメリカという連想が強いが、アメリカ植民地時代以前のスペイン植民地時代の方が長かったのである。そしてそのフィリピンは、スペイン植民地ネットワークにおけるアジア拠点なのであった。



<関連サイト>

<ブログ内関連記事>

「大航海時代」と「戦国時代」

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
・・日本の戦国時代は、西欧の大航海時代と同時代である

書評 『1492 西欧文明の世界支配 』(ジャック・アタリ、斎藤広信訳、ちくま学芸文庫、2009 原著1991)-「西欧主導のグローバリゼーション」の「最初の500年」を振り返り、未来を考察するために
・・中南米を植民地としたスペインとポルトガル、中米と北米を植民地とした英国とフランス

書評 『幻の帝国-南米イエズス会士の夢と挫折-』(伊藤滋子、同成社、2001)-日本人の認識の空白地帯となっている17世紀と18世紀のイエズス会の動きを知る
・・スペイン領の南米におけるイエズス会の栄光と挫折

オペラ 『ドン・カルロ』(ミラノ・スカラ座日本公演)に行ってきた(2009年9月12日)
・・フィリピンの名ももととなったスペイン・ハプスブルク家絶頂期のフェリペ二世の治世が時代背景

■非西欧世界のカトリック布教

『ウルトラバロック』(小野一郎、小学館、1995)で、18世紀メキシコで花開いた西欧のバロックと土着文化の融合を体感する
・・スペインの植民地メキシコで花開いたバロック

「聖週間 2013」(3月24日~30日)-キリスト教世界は「復活祭」までの一週間を盛大に祝う
・・カトリック国メキシコの「聖週間」について。フィリピンにおいても聖週間は盛大に祝われる

ベトナムのカトリック教会
・・アジアのカトリック国はフィリピンだけではない。韓国とベトナムもまたそうである

書評 『韓国とキリスト教-いかにして "国家的宗教" になりえたか-』(浅見雅一・安廷苑、中公新書、2012)- なぜ韓国はキリスト教国となったのか? なぜいま韓国でカトリックが増加中なのか?


フィリピンを多面的に見る

フィリピン(Philippines)とポーランド(Poland)、この「2つのP」には2つ以上の共通点がある! (2010年)
・・カトリック人口が7割を超えるフィリピンだが、「カトリックは経済成長の阻害要因」というマックス・ウェーバー以来の一般常識は疑ってかかるべきだろう

書評 『ギリシャ危機の真実-ルポ「破綻」国家を行く-』(藤原章生、毎日新聞社、2010)
・・多島国ギリシアとフィリピンの共通性について言及。現在はさらに相違点についても指摘すべきであろう

映画 『イメルダ』 をみる
・・フィリピン戦後史そのもののイメルダ・マルコス

(2015年6月14日 情報追加)


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどう
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end