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2023年5月28日日曜日

「下野牧」の「野馬土手」をめぐり歩く ー 船橋市と鎌ケ谷市を中心に2023年5月に2回ノマド実行

 (野馬土手=土手際遺跡 船橋市)

現在の千葉県には、幕府直轄の「牧」があった。「牧」とは、軍用馬の放牧場のことである。下総の小金牧と佐倉牧、上総の嶺岡牧の3つである。

「牧」には馬が食べる飼料となる草が生えており、水場もあった。いずれも人為的な手の入っていない自然そのものである。

「牧」で放牧されている馬は「野馬」(のま)とよばれていた。だが、それは野生馬を意味しているわけではない。現代語なら「放牧馬」とでもいうべきだろう。北海道の広大な牧場に法賊されている馬を想起すべきだろう。

幕府の「牧」に放牧されていた「野馬」は、1年に1回捕獲されていた。これを「野馬捕り」といい、牧における一大イベントであったらしい。

自然環境のなかでのびのびと育った馬であるから、それはもう暴れ馬だったからだ。捕獲された雄馬からセレクトされた軍馬以外は、農耕用に払い下げられていたらしい。

(小金牧 GoogleMapより)

  
江戸時代前期においては、幕府は軍用馬の調達を盛岡藩を中心とした東北馬に依存していた。だが、江戸時代中期になってからは、8代将軍・吉宗の時代に自前で育成する政策をはかることになる。

軍馬の改良を考えていた吉宗は、東北の馬を取り寄せただけでなく、海外からアラビア馬を取り寄せている。去勢しないので暴れ馬であり、軍馬としての性格は優れていた日本馬だが、日本人の体格にフィットした小柄の馬であった。

吉宗は、軍馬を大型化したかったのだ。だが、その試みは定着することなく終わってまった。本格的に再開されたのは、幕府崩壊後の明治時代になってからである。だが、その結果、日本固有種の「日本馬」がほとんど消滅してしまったのは残念なことである。

(渡辺崋山の「四州真景」より釜原。釜原宿(=現在の鎌ヶ谷大仏)に向って「牧」のなかの木下街道を歩く旅人)

個人的な話になるが、小学生5年のときに都内から千葉県八千代市に移住してきたこともあって、陸上自衛隊の習志野駐屯地には、かつて陸軍騎兵隊がいたことも知っていた。その習志野駐屯地は、かつての「牧」をそのまま活かしたものといっいいだろう。

(陸上自衛隊習志野演習場。往事の「牧」をしのばせるものがある 筆者撮影)

千葉県北西部のこの地域は、馬とは切っても切り離せないほど、馬とかかわりの深い土地なのだ。その名残は、現在でも各地に残っている。

しばらく都内や海外で過ごしたあと、ふたたび千葉県北西部に戻ってきたが、たまたま、かつての「小金牧」のちかくに移住したこともあって、個人的に「牧」に対する関心には深いものがある。

新京成電鉄には船橋市内に「高根木戸」という駅があるが、かつてそこには「牧」のなかに入るための「木戸」があったためだという。「牧」には野馬が放牧されていたが、木下(きおろし)街道などの道が通っていたためだ。木下街道は、江戸と利根川を結ぶ重要な街道であった。


「牧」の周囲には「土手」が築かれて、「野馬」が周辺の耕作地に侵入しないようになっていた。それを「野馬土手」(のまどて)という。なんだか遊牧を意味する「ノマド」っぽい響きがいい。

「野馬土手」や「木戸」のことは、いまから12年まえの2011年ににはじめて知った。「下野牧」の跡をたずねて(東葉健康ウォーク)に参加して、はじめて「野馬土手」を見ることができてからである。

現在ふたたび「牧」と「野馬」、そして「野馬土手」に自分のなかで関心が高まったのは、江戸時代への関心が高まっているからだ。

とくに人口の7%に過ぎなかった武士(・・これは家族全体の数字。成人男子に限定したら2%程度!)については、わかっているようで知らないことがじつに多い。「弓馬の道」が本来の武士のあり方であった以上、武士と馬はきわめて密接な関係にあった。武士本来の職分である「武」にかんする側面について、もっと知りたいと思っている。

そこで、まだ訪れたことのない「野馬土手」を訪ね歩くことにした。1回で終わりにするつもりだったが、いろいろ調べていくうちに、漏れがかなりあることに気づいて、5月のあいだに「ノマド探索」を2回実行することになった次第である。

なんといっても、GoogleMap で検索して地図上に表示できるようになったことは大きい。そうでなければ、地図上で特定するのはむずかしい。


■「ノマド探索」 第1段階(5月初旬)

船橋市内でも、かつての「牧」に近いところに住んでいるので、そのまま「野馬土手」づたいに隣の鎌ケ谷市まで歩いてみることにした。具体的にいうと、御瀧不動尊を経由し、鎌ヶ谷大仏を経て、「牧」にかんする資料のある鎌ケ谷郷土資料館までいくコースである。

今回は、はじめて御瀧不動尊は新京成電鉄の滝不動駅からのアクセスのいい東側の仁王門ではなく、南側の正門から境内に入ることに。1973年に改築されたものだそうだ。


御瀧不動尊は、中世の室町時代の15世紀初頭にさかのぼる由緒ある寺院。湧き水があるので御瀧不動尊。修行場でもあったという。

江戸時代は「牧」のなかに入ってしまうので、現在地より西側に移されていたらしい。

御瀧不動尊の東側に「野馬土手跡」がある。「土手際遺跡」ともいう。船橋市内である。


野馬土手の切れ目に案内看板が立っている。「野馬土手」は文字通りの土手で、人の手によって盛り土で造成されたらしい。

現在では木が生えてしまっているが、江戸時代は野馬土手の維持管理は、周辺に住む農民に課せられていたという。


  
北に向かって歩いていくと、鎌ケ谷市に入る。「牧境の野馬土手」(中野牧・下野牧)がある。住宅街の垣根のような形で現在も残っている。



さらに歩いて、新京成電鉄の鎌ヶ谷大仏駅の前で線路をわたって反対側にいくと、「小金下野牧捕込跡」がある。残念ながら公園となっているが、それとわかるのは看板だけで、「捕込跡」をしのばせるようなものはない。



新京成電鉄を左手にみながら初富駅まで歩いていくと、途中に「野馬土手」がある。「鎌ケ谷ふれあいの森」の一部として「野馬土手」が保存されている。


さて、最終目的に「鎌ケ谷市郷土資料館」に到着。ここで「牧」関連の展示を見て、必要な資料を購入。船橋市民であっても、この鎌ケ谷市郷土資料館にいく価値はある。

縄文時代からいきなり江戸時代になってしまうのは、鎌ケ谷市も船橋市もおなじである。中世もわずかながら存在しているが、発展するのは江戸時代になってからである。

つまり、水田耕作を中心とする弥生文化との親和性がないのが、この地域なのだ。だから、「牧」として利用されていたのであろう。水田耕作には向いていないが、草地としては存在できる土地。しかも、湧き水もある。



■「ノマド探索」 第2段階(5月下旬)

その2週間後にもういちど追加で実施。「小金下野牧捕込跡」は見たものの、そのときは北初富駅の近くに「国史跡下総小金中野牧跡」があることを知らなかったのだ。これを水して「牧」について語ることはできないだろう。

船橋市内の高根に「高根木戸道標」というものがある。「牧」のなかで分かれる三叉路の道標だ。文化5年(1808年)に立てられたものである。馬だけがいる広大な「牧」で迷わないようにという心遣いである。

(高根木戸道標)

馬ではなく牛であるが、「佐久間牧場」まで歩いて行く。新京成電鉄の滝不動駅の東側にいくのは初めてだ。船橋市内にまだ牧場があったとは! 

子ども時代に八千代市の興真乳業の近くに住んでいたが、もはや牧場もないし、牛もいない。「田舎の香水」は、もはや懐かしい思い出と化してしまった。

牧場直結の「佐久間アイスクリーム工房」で食べたアイスクリームはうまかった!



さて、滝不動駅から電車に乗って北初富駅まで。この駅のすぐ近くに「国史跡下総小金中野牧跡」がある。「捕込」(とっこめ)といって、1年に1回おこなわれる野馬捕りの場の遺跡である。








野馬土手が集中しているような風情だが、このような形であれ残ったことはありがたいことだ。わざわざ見に来る人はいないようだが、もっと知られてしかるべきだろう。

そのあと、貝柄山公園」まで足を伸ばす。「野馬の像」を見に行くためだ。かつて「牧」があったことを想起させるため、設置されているのである。





さて、これでだいぶ「牧」と「野馬土手」に詳しくなった。文献とあわせて実地調査すると、イメージは立体的にふくらんでくる。

この関連の本では、なんといっても『「馬」が動かした日本史』(蒲池明弘、文春新書、2020)は出色のものであった。なぜ千葉県北西部に「牧」があったのか、土壌の点からそれがわかるのだ。

縄文遺跡がたくさんあるのに弥生遺跡がほとんどない船橋市と鎌ケ谷市水田耕作には適していないから「牧」となったのだな、と。「牧」は江戸時代以前からあったのである。




PS 「馬の博物館」に行ってきた(2023年6月6日)

横浜の根岸にある「馬の博物館」に行ってきた。JR根岸線の山手駅で下車して、購買差のある丘を登ること15分ほどのところにある。

JRA(日本競馬協会)のミュージアムで、根岸競馬場の跡地につくられたものなので、基本的に近代以降の競走馬が中心であるが、「馬の博物館」らしくウマ全般にかんしての総合ミュージアムとなっている。


「写真撮影禁止」なので内部の紹介はできないが、いま開催中の企画展「浮世絵美人と馬」の展示場には、鐙(あぶみ)の実物が展示されていた。江戸時代までの鐙の実物を見ることができたのは幸いだった。

というのも、日本の伝統的な鐙(あぶみ)は、西洋のものとは違うからだ。日本の鐙はツッカケみたいな形で、鐙の上に足を起きながらも、足の自由が効きやすい。西洋式の足をひかっけるのではなく、足裏を乗せるタイプである。

(左がいわゆる「舌長鐙」 Weblio辞書より


あくまでも戦闘用の軍馬として、「弓馬の道」である武士のための鐙であったからだ。乗馬しながら立ち上がったり、向きを変えたり、弓を射たりがしやすいのである。

このほか、外国大使が信任状捧呈式の際、皇居まで乗ることになる馬車が展示されていた。これは近代になってからのものだが、近距離で観察することができるのはすばらしい。

過去の企画展の図録のバックナンバー数点を購入した。現金のみなので注意が必要。

(2023年6月7日 記す)


PS2 『国道16号線ー日本を創った道』(柳瀬博一、新潮文庫、2023)は、東半分があまり取り上げられていない

『国道16号線ー日本を創った道』(柳瀬博一、新潮文庫、2023)という本を読んだ。話題の本で、文庫化されたのを機会に一読。

面白い内容だが、残念な本であった。というのは、書かれている内容は、ほとんどが国道16号線の西半分の話であって、東半分の千葉の話は付けたし程度でしかないからだ。

『国道16号線ー日本を創った道』というタイトルに惹かれて読んだものの、不完全燃焼感といだいて残念に思う千葉県住民は、『「馬」が動かした日本史』(蒲池明弘、文春新書、2020)をあわせて読むべきだろう。

国道16号線の西半分は、横浜と八王子の「シルクロード」の話がメインなので、むしろここだけ切り離したほうがすっきりするだろう。八王子から見たら、東京都心に行くのも、横浜に行くのもほぼ等距離である。新たな風が吹き込んできたのは、横浜からなのであった。

(2023年6月7日 記す)




PS3 佐藤一斎もまた下野牧を通って「牧」を体験していた

渡辺崋山の「四州真景」の「釜原」は、釜原宿(=現在の鎌ヶ谷大仏)に向って「牧」のなかの木下街道を歩く旅人二人と馬の群れを描いたスケッチ的な作品である。

崋山は33歳、1825年に利根川下流域の香取、鹿島、銚子方面に旅に出立している。公用ではなく、まったくの遊山の旅である。その往路で鎌ケ谷宿で夕飯を食べて酒を飲み、そのまま歩き続けて白井宿で一泊している。

この旅に出立するに当たって、崋山は、その肖像も描いている、儒学の師である佐藤一斎を訪ねて「日光紀行」を借りていったという。芳賀徹の『渡辺崋山 優しい旅びと』(朝日選書、1986)にそう記されている(P.53)。

ただし、「日光紀行」は、ただしくは「日光山行記」(文政元年=1818年)である。崋山の日記にはそう記されていたのだろうか?

その「日光山行記」の末尾は、日光街道による往路の日光行きの帰途は別コースをたどって銚子方面に遊び、利根川を船で移動して、木下では舟ののなかで一泊したのち、鎌ケ谷の「下野牧」を通ったことが記されている。

崋山は、往路にこのコースを佐藤一斎とは逆にたどっているが、おそらくその念頭には一斎から借りてきて読んだ文章の末尾が思い浮かんでいたに違いない。だが、芳賀氏は、その件について言及していないので、「日光山行記」は見ていないのであろう。

一斎の「日光山行記」から引用しておこう。原文は漢文であるが、『佐藤一斎全集第2巻 詩文類(上)』(明徳出版社、1991)の訓読文にしたがうことにする。この文章が全体の締めくくりとなっている。

行くこと里餘。平原を得たり。手鞍原(てくらはら)と曰ふ。放牧地たり。馬多くは洋種なり。 
又た数里にして一大広原を得たり。釜原と曰ふ。亦た牧地なり。東南十五里、南北二里。之を総呼して、小金原と曰ふ。牧は上・中・下に分つ此は其の下牧なり。馬群最も多く、人を見るも避けず牝牡の驪黄(りこう:黄色と黒色のブチのこと)、優遊自適して、羈的(きてき:おもがいと手綱)、槽櫪(そうれき:馬小屋)の屈を受けず。太(はなは)だ吾輩の閒逸(かんいつ)なる者と相類たるも、亦楽しむ可きなり。
八幡を歴て行徳に抵(いた)るに、未だ哺(ほ)ならず(=午後4時になっていない)。舟を買ひて川を下り、薄暮に都に達す。

さすが野馬好きの一斎ならではである。人馬共存の風景が目に浮かぶようだ。ところで、手鞍原は印西牧のことか? 釜原は鎌ケ谷のことである。下野牧についてかかれている。

『言志後録』では、若い頃は「野産」の馬を乗りこなしていたと述懐している一斎だが、別の文章では十代の頃に「野馬捕り」を実見しているようで、「「小金原捉馬図鑑」に題す」という文章を書いている。この文章も「佐藤一斎全集第2巻」に収録されている。

この文章は崋山のスケッチを彷彿とさせるものがある。いや、順番としては逆だな。

一斎は夜明け前に木卸(きおろし=木下)を立ってから、途中で一泊することもなく、そのまま江戸の自宅に戻ったようだ。健脚である。

(2023年6月9日 記す)




<ブログ内関連記事>


・・演習場は、かつての「牧」をそのままとどめている。こういうイベントの機会を利用すれば、一般人でもなかに入って当時の「牧」をしのぶことができる


・・この基地もかつての小金牧のなかにある。中野牧である。
とはいえ、基地が占めるスペースは、かつての「牧」のごく一部に過ぎないのである。

(2023年6月13日 情報追加)


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end

2014年7月10日木曜日

書評『未来の国ブラジル』(シュテファン・ツヴァイク、宮岡成次訳、河出書房新社、1993)ー ハプスブルク神話という「過去」に生きた作家のブラジルという「未来」へのオマージュ



『未来の国ブラジル』の原題は、Brasilien: Ein Land der Zukunft(ブラジル:未来の国)である。 1941年の出版。いまからすでに73年前に出版されたものだ。

日本語訳がでたのは1993年。原著出版から52年後のことである。いまからすでに21年前になる。わたしはこの本を出版直後に購入している。なぜなら、著者のツヴァイクのものだったからだ。

ツヴァイクといっても、あまりピンとこないかもしれないが、『マリー・アントワネット』の著者だといえばわかるかもしれない。『マリー・アントワネット』は、ロングセラーとして読み継がれてきた伝記作品だ。日本では複数の出版社から文庫版として現在も版を重ねている。

おなじくフランス革命関連であれば、フランス革命の動乱期を最初から最後まで巧みに生き抜いた政治的人間の傑作評伝 『ジョゼフ・フーシェ』などもある。こちらもぜひ読むことを勧めたい。ものすごく面白い作品だ。

このほか『昨日の世界』というタイトルの、第一次世界大戦によって崩壊したことによって完成した「ハプスブルク神話」という、「失われた世界」を描いた自叙伝的な作品もある。この作品についてはまたあとで触れることにする。

かつては『ツヴァイク全集』がみすず書房から小型サイズのハードカバーとして出版されていたのだが、作家として顧みられることは現在の日本ではほとんどないようだ。そもそもドイツ文学じたい、一部の熱心な愛好者を除けば、一般にはあまり読まれなくなっている。

ヒューマニズムや寛容の精神を説いた作品は、戦後日本のある時期まではさておき、いまの時代にはあまりそぐわないということもあるだろう。ツヴァイクの盟友であったロマン・ロランがいまではあまり読まれないのは、戦後日本を代表する西欧リベラル派的知識人であった加藤周一が、一部の熱心な人たちを除いては顧みられないのと同じことだろう。リベラル神話は過去のものとなって久しい。

もちろん、この『未来の国ブラジル』も、そういったツヴァイクの姿勢を反映したものである。失われたハプスブルク帝国神話を「未来の国ブラジル」に投影したものだという評言もある。だが、そういった評言は別にしても、ブラジルという主人公を描いた伝記作品として読むとじつに面白い。

1941年に時点で「未来の国」に込められた思いを知るには、ツヴァイクの生涯を追ってみる必要があるだろう。

(ドイツ語版はさまざまなエディションで入手可能)


「未来の国ブラジル」というフレーズにこめられた意味

1881年生まれのツヴァイクは、第一次世界大戦が勃発した1914年には33歳、第二次世界大戦が勃発した1939年には58歳であった。作家として脂ののっていた壮年期に二つの世界大戦を経験せざるをえなかった世代の人である。

そしてこの二つの世界大戦によって、「古き良き世界」であったハプスブルク帝国が崩壊するのを目の当たりにした世代の人である。その当時は「ヨーロッパ=世界」であった。無意識のレベルでヨーロッパ中心主義者であることが当たり前であった世代の人である。

ツヴァイク(Zweik)というのはドイツ語で「小枝」という意味だ。ユダヤ人のファミリーネームにはこういったものが多い。そう、ツヴァイクはハプスブルク帝国の首都ウィーンに生まれたユダヤ人なのであった。裕福な実業家の家庭に生まれ育った中流階級の「同化ユダヤ人」である。

ユダヤ系のツヴァイクは、ナチスの迫害を逃れてブラジルに移住することになるが、まさにリオのカーニバルを前にして、みずから命を絶った。1941年12月の日本の対英米宣戦布告にショックを受け、さらに翌年2月の日本軍による大英帝国の植民地シンガポール陥落の報道に絶望したためだという。

この事実は、日本人にとってはなんともいえない後味の悪い話である。なぜブラジルで、しかもよりによって日本の「戦勝」の報道で自殺しなければならないのか、と。もはやこれ以上の逃亡は不可能とあきらめた、ドイツ系ユダヤ人の評論家ヴァルター・ベンヤミン(1892~1940)がピレネー山中で自殺したのとはなんだか違う印象を受ける。

作家ツヴァイクの絶望がいかに深いものであったかは、想像の範囲を超えているとしかいいようがない。終の棲家(ついのすみか)として選んだ「未来の国ブラジル」においてすら、作家は絶望から逃れることができなかったということだろう。たとえ安全が確保された状況にあったとしても。

おそらく日本そのものが自死の原因ではないようだが、ツヴァイクはあくまでもヨーロッパ人という自意識の持ち主だったのだろう。いまは昔の、ヨーロッパが世界の中心であった時代の

『未来の国ブラジル』は、ブラジルで自死を選んだ作家にとって、生前に出版された最後の作品である。


『未来の国ブラジル』(1941年)は外国人によるブラジル賛歌

『未来の国ブラジル』は二部構成になっている。

前半は、ブラジルの歴史、産業と経済、ブラジル文化概観と一般向け解説書のような構成だ。もちろん熟練の作家の手になるものであり、つまらない解説書とは違ってじつに面白い。まさにプロの作家の手になる読み物である。

後半は、リオ・デ・ジャネイロを中心に、サンパウロとバイア、レシフェといった都市を取り上げ、このほか、没落した黄金の町やアマゾンへの飛行について記した紀行文となっている。文学趣味の持ち主には、この後半のほうが面白く感じられることだろう。

『未来の国ブラジル』はタイトルどおり、著者の思いがそのままストレートに反映したポジティブなトーンに終始した作品である。外国人の視点からみた「ブラジル賛歌」といっていいだろう。ブラジルに寄せる熱い思いが文章のすみずみから伝わってくる。

帯のウラに再録されたツヴァイクの文章を呼んでみるといいだろう。


「人種、階級、肌の色、宗教、主義主張の違いにもかかわらず、人々が平和に共存できるか?」--どの時代にも存在し、単純極まりないが避けることのできないこの質問に、我々はどう答えるのか。リオに上陸した時、生涯を通じて最も大きな衝撃を受けた。私は、ブラジルに魅せられると同時に感激した。なぜなら、ここでは海と山、都会と自然の素晴らしい組み合わせという、地球上で最高の風景美に出会ったのみならず、文明の全く新しい様式をみ出したからだ。 シュテファン・ツヴァイク


ブラジルが現実にはさまざまな問題を抱えた存在であるにもかかわらず、「可能性」というキーワードで描いた作品だ。

21世紀に入ってからは「新興国」として扱われ、頭文字をあわせた BRICs(ブリックス)の筆頭にブラジルが置かれているように大きな注目を集めてきた。ブラジルのほか、ロシア、インド、中国(チャイナ)が並列されている。

ブラジル経済の先行きの見通しは、いまふたたび悪化し、BRICs(ブリックス)という表現も耳にすることは少なくなった。鉱業や農業といった一次産品に大きく依存した経済構造は経済変動に影響を受けやすい。この体質は、けっしていま始まったものではない。この点についてもツヴァイクは物語風に語っている。

そのけっして長くない歴史のなかで、ブラジルはなんども同じような危機を体験し、そしてまた次の波がきては持ち直すということを繰り返している。希望と絶望、そしてまた希望と絶望を繰り返してきた大国である。しかしいずれもラッキーなことに不死鳥のごとく切り抜けてきた。ブラジルとは、じつに不思議な存在なのである。

『未来世紀ブラジル』というタイトルの1985年に製作された映画を想起するが、「未来」と「ブラジル」は結びつきやすいのだろうか。その意味でも、ブラジル人がいうように「永遠に未来の国」なのであろうか。

(1912年当時のツヴァイク wikipedia より)


「失われた世界」としてのハプスブルク帝国=ヨーロッパ

著者の思いがつよく感じられるのは、ブラジルを切り開いた人びとを描いた前半であろう。やはり伝記作家としての力量が大いに反映しているというべきだ。自身もドイツ系ユダヤ人であったツヴァイクが、なぜブラジルを「終の棲家」としようとしていたかが、問わず語りに伝わってくる。

まずは「新キリスト教徒」。つまり、ユダヤ教からの改宗者たちのことだ。マラーノと呼ばれた人たちである。旧世界から脱出し、新世界に人生を賭けた商人としてブラジル史の最初に登場する。ノマドとしてのユダヤ人。著者もまたその生涯に移動を繰り返したノマド的な人であった。

そして、ブラジルの建設にもっとも重要な貢献をしたのがイエズス会士たち。対抗宗教改革のなか誕生したイエズス会は、まさに新大陸を使命実現のための新天地としてブラジルの基礎をつくったのである。ツヴァイク自身は言及していないが、新大陸に渡ったイエズス会士たちのなかには「新キリスト教徒」が少なくなかったことも記憶にいれておきたい。

もっとも重要なのは、みずからの金銭欲という欲望を満たすために奥地へ、奥地へと入っていった無名人たちの存在。かれらが「意図せざる結果」としてブラジル内部の開発を促し、国土拡大をもたらしたのであった。ユダヤ系フランス人の文化人類学者レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の描写もそうだが、廃墟となった内陸都市を描いた文章は味わい深い。レヴィ=ストロースはツヴァイクよりも少し前にブラジルに滞在していた。

(ツヴァイクにとっての「昨日」と「未来」)

ツヴァイク生前最後の著作が1941年に出版された『未来の国ブラジル』(Ein Land der Zukunft)であり、ヨーロッパの「旧世界」を描いた半自叙伝の『昨日の世界』(Die Welt von Gestern)は著者の死後1944年に出版されている。この二作の執筆は同時期に重なっている。

「未来」(Zukunft)と「昨日」(Gestern)は対(つい)となるコトバである。すでに崩壊し、さらに徹底的に破壊されようとしているヨーロッパが「昨日」であれば、建設途上にある熱帯の国ブラジルは「未来」の国である。「過去」に生きる人は、「未来」に「過去」を投影しているのである。

レヴィ=ストロースの弟子で『悲しき熱帯』の日本語訳者である文化人類学者の川田順造氏は、はじめてのブラジル滞在について、「二ヶ月足らずだったが、この国を旅してみて、情緒不安定と、感情の両極性の露出にいたるところで出会い、私自身も情緒不安定に陥った」、と書いている。

ツヴァイクも『未来の国ブラジル』のなかで、カーニヴァル期間中の熱狂と祭りの後の穏やかな静けさの躁鬱的ともいえる対比について書いているが、ブラジルという熱帯の国に亡命してから躁鬱病がひどくなったのであろう。『未来の国ブラジル』は躁状態の熱気が伝わってくるが、大英帝国の植民地シンガポール陥落のニュースを聞いたときは鬱状態であったと推測される。

ことし2014年は、ヨーロッパの旧世界の崩壊のきっかけとなった第一次大戦が勃発してから100年になる。百年後の世界は、すでにヨーロッパが世界の中心でなくなってから久しい。ツヴァイクという作家は、幻想としての「ハプスブルク神話」に殉じたといえるのかもしれない。おなじくウィーンに生まれ育ったドラッカーの世代とはまったく異なるのである。

ブラジルが抱える現実的な問題には目をふさいでいるツヴァイクは、ブラジルに多民族共存と融合という「見果てぬ夢」を見ていたのかもしれない。実際のハプスブルク帝国は、多民族国家であったが民族融合の夢は破れ、民族自決によって成立したオーストリアにおいては、とくにユダヤ人にとっては理想郷ではなくなっていたハプスブルク帝国時代のウィーンで悲惨な青春時代を送ったのが後の独裁者ヒトラーである。

なぜかこの本にはサッカーの「サ」の字も出てこない。戦前の1941年時点ではいまだサッカーが熱狂的な話題ではなかったのか、それとも著者であるツヴァイクの世界には入ってこない存在だったのか? 

とはいえ、ツヴァイクという作家に関心はなくても、この『未来の国ブラジル』は面白い。今回のワールドカップでは実現しなかったが、ブラジルでオリンピックが開催される2016年には、ぜひ復刊、あるいは文庫化してほしいものだ。


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PS 南米大陸では初の開催となる「リオ・オロンピック大会」が現地時間の2016年8月5日に始まったが、今回もまた「復刊」なり「文庫化」はなかったようなのが残念。「電子書籍化」すらない。出版社に見る目がないのだろうか。それとも版権の関係か? (2016年8月6日 記す)


目 次

はじめに
ブラジルの歴史
産業と経済
ブラジル文化概観
リオ・デ・ジャネイロ
 入港
 古いリオ
 リオの小路
 対照の妙技
 消え去るのは惜しい風物
 庭園と山と島
 リオの夏
サンパウロ寸描
コーヒーを訪ねて
没落した黄金の町を訪ねて
ブラジル北部への旅
 バイア-伝統への忠誠
 バイア-教会と祭礼
 砂糖、タバコ、カカオを訪ねて
 レシフェ
 アマゾンへの飛行
ブラジル史主要年表
シュテファン・ツヴァイク年譜
参考文献
解説
訳者あとがき



著者プロフィール

シュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)
1881年~1942年。ハプスブルク帝国の首都ウィーンに裕福なユダヤ人実業家に家に生まれる。ウィーン大学卒業。在学中から文学活動をはじめ、詩・小説・伝記・戯曲・評論・翻訳と文学の全ジャンルに業績をあらわす。ナチスの手を逃れ亡命、フランス・アメリカ等を転々。ブラジルで自ら命を断つ。


訳者プロフィール

宮岡成次(みやおか・せいじ)
1936年、東京に生まれる。東京大学法学部卒業。三井金属鉱業に入社後、三井アルミニウム、日本アマゾンアルミニウムを経て、1982年、日伯合弁企業アルブラスに出向、リオデジャネイロ、ベレンに在勤。現在、三井金属の子会社ユーロセル社社長、フランス在住。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<参考文献>

『シュテファン・ツヴァイク-ヨーロッパ統一幻想を生きた伝記作家-』(河原忠彦、中公新書、1998)。この本を読むと、なぜいまでは読まれなくなった作家なのかがよくわかる。著者の意図はそこにはないのだが、すでにある時代は終わっているのだということを強く感じさせられるのだ。いわゆる「戦後民主主義」といわれる時代である。


PS  この投稿でブログ記事1,400本目となった。あと100本で1,500本となる。今年中の達成は可能であろう。なお、姉妹編ブログの投稿は345本となっている。あわせると本日現在1,735本となる。(2014年7月10日 記す)。


PS2 いまだ「未来の国」であるブラジル

草原にまばらにのみ低木の茂る植生の大地セラードにおける農業開発は、いまだに無限に近い開発余地があるという。ブラジルは21世紀の現在でもいまだに「未来の国」なのである。以下、wikipediaの「カンポ・セラード」の項目から引用しておこう。

ブラジル中部のセラード地域においては、1979年から日本とブラジルの間でセラード農業開発協力事業(PRODECER、プへロデセール)という共同の農業開発プロジェクトが実施された。その背景には第一次石油ショックや米国による大豆の禁輸などをきっかけに資源の安定確保が日本の重大な外交課題となっていたことがあり、訪伯した田中角栄首相のエルネスト・ガイゼルブラジル大統領への提案が事業推進のはじまりとなった。
2001年の終了まで3期21年間にわたり、約600億円の資金(日本のODAは279億円を活用)が投じられた。対象地域は7州の34万ヘクタールにおよび、酸性土壌の中和による改良、灌漑の整備、国際協力事業団(現JICA)を通じて115人の農業専門家の派遣が実施された。
当該地域での大豆生産量は1975年に43万トンであったものが、1999年には1666万トンへと急増。さらに2012年/2013年シーズンの生産予測値は7800万トン・世界生産量の28%となり、輸出量は米国の38%に匹敵する36%となる見込み[5]。今ではブラジルはトウモロコシやコーヒー豆と並んで大豆の一大生産・輸出大国となっているが、2012年のブラジル産大豆の6割がセラードで生産されたもの[2]であるなど、農業開発の成果が大きい。なお、開発初年から35年間で耕作地域は1200万ヘクタールに達したが、耕作可能地は全体で1.27億ヘクタールにおよぶことから、未だ「無限に近い」開発余地があるという。

(2014年7月12日 記す)


PS3 FIFAワールドカップ2014ブラジル大会でブラジル代表が惨敗

準決勝でドイツに7-1で惨敗、しかも3位決定戦ではオランダに3-0で完敗。サッカー王国ブラジルは開催国であるのにかかわらず4位で終わってしまった。サッカーにおいても再び「未来の国」、未来に向けて奮闘すべき国になってしまったのか? 次回以降のワールドカップでの奮起を期待したい。 (2014年7月13日 記す)


<ブログ内関連記事>


ブラジルと南米関連



・・パラグアイに焦点を置きながら隣国ブラジルをみる視点

「JICA横浜 海外移住資料館」は、いまだ書かれざる「日本民族史」の一端を知るために絶対に行くべきミュージアムだ!
・・ブラジルと日本の縁は深い。ツヴァイクの『未来の国ブラジル』にも日本人移民の話がでてくる

書評 『サッカー狂の社会学-ブラジルの社会とスポーツ-』(ジャネット・リーヴァー、亀山佳明・西山けい子訳、世界思想社、1996)-サッカーという世界スポーツがブラジル社会においてもつ意味とは?
・・ツヴァイクの『未来の国ブラジル』にはまったく触れられていないのがサッカー



旧大陸から新大陸へ脱出したユダヤ人

『「経済人」の終わり』(ドラッカー、原著 1939)は、「近代」の行き詰まりが生み出した「全体主義の起源」を「社会生態学」の立場から分析した社会科学の古典
・・ドラッカー(1909~2005)は、ツヴァイクと同様、ハプスブルク帝国の首都ウィーンに生まれ育ったが、少年時代に第一次大戦を体験した1881年生まれのツヴァイクとは28歳違う「一世代若い世代」である。全体主義との闘いを鮮明に打ち出したのがドラッカーの思想的原点

書評 『知の巨人ドラッカー自伝』(ピーター・F.ドラッカー、牧野 洋訳・解説、日経ビジネス人文庫、2009 単行本初版 2005)-ドラッカー自身による「メイキング・オブ・知の巨人ドラッカー」
・・ドラッカーは、ヨーロッパの旧世界は積極に捨て去り、新多陸のアメリカに新天地を見いだす。このことからもツヴァイクの「ハプスブルク神話」が過去に生きる旧世代のものであることは歴然だ

映画 『ハンナ・アーレント』(ドイツ他、2012年)を見て考えたこと-ひさびさに岩波ホールで映画を見た
・・アーレント(1906~1975)は、ドイツのハノーファー出身のユダヤ系哲学者。ニューヨークに亡命して政治哲学者として大きな業績を残した


移住と移民

『移住・移民の世界地図』(ラッセル・キング、竹沢尚一郎・稲葉奈々子・高畑幸共訳、丸善出版,2011)で、グローバルな「人口移動」を空間的に把握する

「JICA横浜 海外移住資料館」は、いまだ書かれざる「日本民族史」の一端を知るために絶対に行くべきミュージアムだ!

(2014年7月25日 情報追加)


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2011年12月31日土曜日

「アタマの引き出しは生きるチカラ」だ!-多事多難な2011年を振り返り「引き出し」の意味について考える



今年2011年は、ほんとうに文字通り多事多難な激動の一年でした。
干支のうさぎが跳ねすぎたのでしょうか。

「3-11」に発生した大地震と大津波、そして原発事故に感じたこと考えたことから、「アタマの引き出し」の重要性について、あらためてまとめてみました。 


有事にこそ「アタマの引き出し」が生きるチカラであることが実感される

コンピュータでもインターネットのなかでもない、生身のカラダをもった人間のアタマのなかに存在する「アタマの引き出し」

情報であり、知識であり、そして知恵でもある「アタマの引き出し」。

情報や知識は本に書いてあるじゃないかといっても、大地震で本棚が倒壊して本を取り出すことができなければ、その知識が死蔵されているのも同然です。

インターネットで調べればいいいという方もいるでしょう。「記憶はもはや必要ない」と豪語する Evernote にストーレージしているから大丈夫だという方もいるでしょう。

でもどうでしたか? 電気がつながらない状態では、スマートフォンもコンピュータも起動できませんよね。

たとえバッテリーがあっても、切れてしまえばおしまいですです。たとえ、自家発電があっても、発電機を回す燃料がなければ何にもなりません。

結局のところ、有事にモノをいうのは「アタマの引き出し」なのです。生身の人間のアタマのなかに存在する「引き出し」がモノを言うのです。

たとえ何がおころうと、モノを失ってしまおうと、電気がつながらなくて PCが起動できなくても、自分の「アタマの引き出し」に中身が詰まっていれば人間は生き抜くことができる

そして重要なのは自分のアタマのなかにある「引き出し」だけでなく、自分以外の人のアタマのなかにある「引き出し」なのです。生身の人間どうしの「つながり」がまた大事なのです。

自分の「アタマの引き出し」と自分以外の「アタマの引き出し」が一緒になってシェアしあい、それがシナジーを発揮して「集合知」となる。これはネット上でなくてもリアル世界で可能です。

「3-11」後にこそ、「アタマの引き出し」が重要なことが理解できたのではないでしょうか?


「アタマの引き出しは生きるチカラだ」-ユダヤ人は突然発生する大規模の迫害の歴史を生きぬいてきた

「アタマの引き出し」の重要性。これはユダヤ人がその苦難の歴史のなかで体感し、世代を超えて伝えてきたことでもあるのです。

度重なる迫害のなか、ユダヤ人は生命も財産も失ってきました。

20世紀のナチスドイツによるホロコーストだけではありません、19世紀のロシアのポグロム、そして15世紀末のスペインからの追放、紀元後のエルサレムの神殿の破壊・・・。まさに有史以来、迫害につぐ迫害のなかを生きぬいてきた民族です。

現在はようやく父祖の地であるイスラエルに戻ることができましたが、二千年の長きにわたってディアスポーラ(=離散)の生活を送ってきた民族です。

しかし、「経典の民」であるユダヤ人は、迫害されても大文字ではじまる "The Book" (=聖書) だけは持ち運びだしました。これが生きるためにもっとも大事な財産だからなのです。

しかし、それさえできなかったときのために、彼らはどうしていたのか?

そうです、すべてをアタマのなかに記憶して持ち運んだのです。まさに究極のポータブル・ナレッジ、まさに文字通りのノマド(=遊牧)ライフですね。

すべてを失ったかにみえた災難であっても、アタマをさしながら 「ここにすべてがある!」 とクチにすることができるのです。

このブログに以前に書きましたが、世界的な哲学者でイスラーム学者の井筒俊彦が回想するタタールの大知識人の話もまったく同じです。書籍管理の"3R" をご参照ください。

「記録」だけではなく、「記憶」することの重要性をあらためて考える機会となるでしょう。


「アタマの引き出しは生きるチカラだ」-日本人もまた、大地震や大津波などの突然発生する自然災害を生きぬいてきた。

そして、日本人もまた有史以来、突然発生する無数の自然災害を生きぬいてきた民族です。

「3-11」でも、大津波だけではなく原発事故のため、福島からは「難民」が発生しています。ある意味では、フクシマ・ディアスポーラとすら言えるかもしれません。

でも、それ以外も地震、台風、火事、火山爆発などの自然災害や空襲や原爆などの人為的被害で、多くの人たちが家を失い、家族を失い、移住を余儀なくされてきたことも忘れてはいけないでしょう。

「3-11」では、わたし自身は被災することはなかったのですが、それでも計画停電(=輪番停電)によって電気のありがたさをあらためて感じるとともに、「本やインターネットにすべてがある」などという考えは捨てる必要があるのではないかと痛感しました。

そんな非常時にこそ、自分の「アタマの引き出し」と、自分以外の誰かの「アタマの引き出し」を、フェース・トゥー・フェイスの「つながり」のなかでシェアしあう。

これが生きるために必要なのだ、と。駆動するのに電気を必要としない生身の人間のアタマのなかにある「引き出し」

まさに「アタマの引き出しは生きるチカラ」なのだ、と。

そもそもイヌやネコはコトバも文字も知らないのに、学習成果を活かしているではないですか! イヌやネコは画像情報として「引き出し」をもっているのです。「アタマの引き出しは生きるチカラ」なのです。

限られた時間内に、限られた情報をもとに意志決定を行わなければならないとい、そのときにモノを言うのは「アタマの引き出し」そのものでしょう。そしてそのキャパシティの大きさによって、個人や集団だけでなく、民族全体の命運が決することさえあるのです。

「アタマの引き出し」は生きるチカラだ、というブログのタイトルは、今回の「3-11」の前につけたものですが、有事にこそ「アタマの引き出し」は生きるチカラだということが身にしみてわかるのです。

これは日本人の歴史をもても、ユダヤ人の歴史をみても納得のいく話だと思います。

そして非常時の記憶こそ、深くココロとアタマのなかに刻みつけられるものなのです。エピソード記憶こそが、「アタマの引き出し」そのものなのですから。

エピソード記憶については、「場所の記憶」-特定の場所や特定の時間と結びついた自分史としての「エピソード記憶」について というブログ記事をご参照ください。


非常時にこそ致命的な意味をもつ「アタマの引き出し」

「3-11」後の危機対応をみていてつよく思ったのは、国のトップの「アタマの引き出し」が足りないばかりに、適切な策がとられなかったという怒りと悔しさです。

日本中からかき集めれば、どんな対策だって集められるのに、たとえ進言があっても自分のアタマのなかに「引き出し」がないから、ピンとこない、意味がわからない、結局はただしい判断や意志決定がくだされないまま、多くの人命が失われ、財産が思い出が失われてしまいました。

まさに致命的としかいいようがありません。未然に防げた二次災害は、いったいどの規模になるのか・・・

自分のアタマのなかに「引き出し」がなければ、他者の「アタマの引き出し」を活用することもできないのです。本やインターネットに情報や知識があふれていても、肝心なときにアタマが回らないのでは、意味がないのです。

非常時には、書斎で安楽椅子に腰掛けてじっくり調べ物なんかしているヒマはないのです。パソコンを立ち上げているヒマもない、電話回線だってつながらないことだって多いのです。

そんなとき頼りになるのは、まさに「アタマのなかの引き出し」です。

知識のなかには、「ノウハウ」だけでなく、その知識を誰がもっともよく熟知しているかという「ノウフー」も含まれます。国のトップだけではなく、国民一般についてもそのとおりですね。

1973年の石油ショックの際のトイレットペーパー買い占めでパニックになったときの話、アマルティヤ・セン博士のベンガル飢饉の話などを知っていれば、浮き足立つこともないのです。この件については、大飢饉はなぜ発生するのか?-「人間の安全保障」論を展開するアマルティヤ・セン博士はその理由を・・・をご参照ください。

「想定外」というのは、結局のところ、スパンを短くとっているから過去事例がないだけの話なのです。10年スパンと100年スパン、1,000年となると、過去事例がでてくるから「想定外」などとは言えなくなるのです。

歴史は同じまま繰り返すことはありませんが、過去の事実が本やインターネットのなかだけでなく、自分の「アタマの引き出し」のなかにあれば、危機に際してもあわてふためくこともなく、確実に生き残ることにつながるのです。

そのためには平時に、「アタマの引き出し」を少しでも増やす努力を続けること。

J.S.ミルのコトバだと言われている "try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと が大事です。狭くて深い「専門」と 浅くても広い「雑学」

自分の専門分野についてはつねに努力して勉強しつづけることは当たり前ですが、「雑学」もこれにおとらず重要ですね。

これは、かつて「銀座のユダヤ人」といわれていたカリスマ経営者・藤田田(ふじた・でん)の著書を紹介しながら、世の中には「雑学」なんて存在しない!-「雑学」の重要性について逆説的に考えてみる で書いたとおりです。

「すべては失っても、ここにすべてがある!」 と、アタマをさしながら クチにしたいものではありませんか!



<ブログ内関連記事>

世の中には「雑学」なんて存在しない!-「雑学」の重要性について逆説的に考えてみる

"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと

書籍管理の"3R" 

本の紹介 『ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか-』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987)

「場所の記憶」-特定の場所や特定の時間と結びついた自分史としての「エピソード記憶」について

大飢饉はなぜ発生するのか?-「人間の安全保障」論を展開するアマルティヤ・セン博士はその理由を・・・





(2012年7月3日発売の拙著です)





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