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2013年6月13日木曜日

書評『見える日本 見えない日本 ー 養老孟司対談集』(養老孟司、清流出版、2003)― 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである



『見える日本 見えない日本』という魅力的なタイトルのこの対談集は、出版されてから10年たつがいっこうに文庫化される気配がない。だから単行本の段階で読む。そして2013年現在でも読んで面白い。

本書に収録された対談が行われたのは、1996年から2002年までの6年間。月刊『薬の知識』(ライフサイエンス社)という、おそらくその世界に関係ある人しか知らないであろう雑誌に連載されたものである。

読むとじつにおもしろいので、ついつい最後まで読んでしまう。

2003年のベストセラー 『バカの壁』(新潮新書)で一躍ときの人となった養老氏だが、この対談集でもその独特なものの見方が存分に発揮されている。

また、本人もある対談のなかで語っているのだが、1937年(昭和12年)生まれという「世代論」で説明できるようだ。

つまり、日本が敗戦をむかえた1945年(昭和20年)の時点ではまだ中学生であり、価値観の大転換を目の当たりにした世代なので、なにも信じなくなったのだということだ。

もちろん、医学のなかでも解剖学を専門としていたことも理由であるようだ。解剖学は医学の基礎部門であるが、ある特定の病気の治療を目的とした学問ではない。外科における実用の学でもありながら、それじたいは実用の学ではないという不思議な存在である。

この対談集は対談相手の発言も面白い。対談相手が著名人であっても、その人の対談集に収録されていないものもあるので、この対談集で読む意味がある。

テーマ別に三部に編集されている。この編集はじつに巧みだ。全体的に「脳と身体の関係」をベースにした養老節なのだが、わたしなりにタイトルをつけるとするとこんな感じだろうか。

第一部 いわゆる理系的教養で「見えない世界」をみる
第二部 「見えないもの」への感受性がカギ
第三部 「見えない日本」としての世間を理解し、それをどう越えるか

対談が行われた1996年時点で阿部謹也(1935~2006)の「世間論」にもっとも深い理解を示し、その後 「世間論」を徹底的に使いこなして独自のものの見方にまで発展させているのは養老氏がピカイチであろう。

それは、養老氏が定年を前にして東大教授を辞めるという形で、ご自身も「世間」から外に飛び出た人だからだろう。この点は、ドイツ文学者の池内紀氏も同様だ。「世間」のなかにいては、「世間」そのもの対象化して捉えることは至難のわざである。

不文律としての「世間」、暗黙のルールとしての「世間」、書かれざる憲法である「世間」。意識化すると問題がしょうじるのが「世間」の不文律。

問題提起を行ったのは歴史家の阿部謹也先生だが、養老氏の理科系的な発想も踏まえて、「世間」はより立体的に捉えることが可能になった。

妊娠中絶が倫理的問題にならないのに脳死が問題になっている日本(・・2013年時点でも臓器提供する人はまだまだ少ない)、こんな事例をつうじて日本における法律の意味もわかってくる。

いまだ生まれていない者はメンバーではなく、死ぬことによってはじめて脱出できるのが、利害関係でつながった人間関係である「世間」なのである。

日本ではなぜ「個」として生きるのが難しいのか、その理由は「公」(おおやけ)としての「世間」の存在にあるのだが、「世間」について考えたかったら、養老孟司も読むべきだと思う。


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目 次

第一部
荒俣宏(作家)-混ざる文化・混ざらぬ文化
奥本大三郎(フランス文学者)-虫を愛でる日本人の自然観
田崎真也(ソムリエ)-香りの認識のメカニズム
酒井忠康(美術評論家)-日本の景観とパブリック・アート
藤原正彦(数学者・作家)-数学と日本的美意識
第二部
水木しげる(マンガ家・妖怪研究家)-無意識に身を任せる
横尾忠則(画家)-魂の復権
岸田秀(評論家)-現実とは脳が作り出した産物
中村桂子(生物学者)-“個”を救済する新たなシステムを
上田紀行(文化人類学者)-疑似“癒し”からの脱却
第三部
大石芳野(写真家)-ベトナムの森に思う
池内紀(ドイツ文学者。エッセイイスト)-言葉の壁を超えて
ピーター・バラカン(ブロードキャスター)-メンバーズ・クラブの国、日本
阿部謹也(歴史学者)- “世間” から飛び出して生きる
黒川清(医学者)-“本気”のスピリット

著者プロフィール  

養老孟司(ようろう・たけし)
1937年神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、インターンを経て解剖学教室に入り、東京大学大学院医学系研究科基礎医学専攻博士課程修了。標本作りなど、研究のかたわら、文学的領域でも活動の場を広げてきた。1995年に東京大学医学部教授を退官、1996年より北里大学教授。東京大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<関連サイト>

養老孟司×隈研吾×廣瀬通孝 鼎談:日本人とキリスト教死生観(2) (日経ビジネスオンライン 2014年3月25日)
・・「相対評価」ではなく「絶対評価」が個人主義を育む」  近代精神の主導者であるイエズス会系の栄光学園という男子校出身者の三人が語りあう記事。養老孟司氏が阿部謹也の「世間論」をいちはやく理解した背景がわかる。一部引用しておこう。

- 以前、養老先生は、日本人とキリスト教は折り合いが悪いとおっしゃっていました。
養老: そうね、だから世間にふたつの基準ははいらない、という。
- 若い時にキリスト教的な価値観を浴びたことで、ご苦労されたことはありますか。
養老: 苦労というか、考え方ですよね。これは自分じゃなかなか分からないんですけど、考え方は相当、影響を受けているんじゃないですか。キリスト教的な考え方に合う、合わない、というもとの性質はあるとは思いますけど。だって僕は日本の世間とは、もともとあまり合わないじゃないですか。・・(後略)・・


なお、上記の対談は『日本人はどう死ぬべきか?』というタイトルで日経BP社から単行本化されている(2014年11月28日 記す)



<ブログ内関連記事

■養老孟司氏関連

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点

書評 『唯脳論』(養老孟司、青土社、1989)-「構造」と「機能」という対比関係にある二つの側面から脳と人間について考える「心身一元論」

書評 『身体巡礼-[ドイツ・オーストリア・チェコ編]-』(養老孟司、新潮社、2014)-西欧人の無意識が反映した「文化」をさぐる解剖学者の知的な旅の記録


■阿部謹也と「世間論」

クレド(Credo)とは
・・後半の「クレド(credo)とは-その原義をさかのぼる」で、『世間を読み、人を読む-私の読書術-』(阿部謹也、日経ビジネス人文庫、2001)から長い引用を行って「信徒信経」としてのクレドについてくわしく解説した

書評 『新・学問のすすめ-人と人間の学びかた-』(阿部謹也・日高敏隆、青土社、2014)-自分自身の問題関心から出発した「学び」は「文理融合」になる
・・「世間」について触れてある

「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」 に参加してきた(2011年5月14日)
・・「特別対談:『無智の壁』 養老孟司氏&スマナサーラ長老 司会:釈徹宗氏」

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?


■その他の対談者の著作

書評 『ことばの哲学 関口存男のこと』(池内紀、青土社、2010)

書評 『富の王国 ロスチャイルド』(池内 紀、東洋経済新報社、2008)

(2014年3月25日、7月27日、9月1日 情報追加)


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2010年6月6日日曜日

書評 『普通の家族がいちばん怖い ― 崩壊するお正月、暴走するクリスマス』(岩村暢子、新潮文庫、2010 単行本初版 2007) ― これが国際競争力を失い大きく劣化しつつある日本人がつくられている舞台裏だ




国際競争力を失い、大きく劣化しつつある日本人がつくられている舞台裏を見よ!

 「嫌なものを読まされたなあ」、という感じが最初から最後までつきまとった。

 自分の自由意思で読みながらなんだ、という感がなくもないが、同時に読んでいるうちに、「いや、こういうものかもしれないなあ」という気持ちに変化していく自分を見いだした。単行本は読んでいないので、この文庫版ではじめて読んでみての感想だ。

 いかに否認しようが、怒りを感じようが、これがいまの日本の家庭の現実なのだ。生活習慣が大きく変貌した現在の日本では、お正月が衰退するのも仕方がないし、クリスマスのほうが盛り上げやすいのは否定できない。

 この調査からあぶり出されてきたのは、30歳台から40歳台にかけての主婦たちのホンネである。

 自由意思と個人主義をはき違えた「甘えの構造」快楽原則に基づき、ひたすら不快で苦痛なこと、つまり嫌なことを回避する行動特性。現実を見ないよう、考えないようにして家族を偽装する日々。

 しかしこうした女性たちを責めたところで問題が解決されるわけでもない。専業主婦とは、その多くが人生に意味を見いだせない、寂しい女性たちのように思われるからだ。

 大きく変化したように見える日本の家庭だが、30歳台から40歳台にかけての主婦たちの行動を規制しているのが、あいもかわらず日本的な「世間」であることにも、一方では驚かされる。まわりがやっているからやる、まわりにあわせないのが怖い。ここにあるのは、「個」の存在しない「世間」そのものである。

 この本を読んで強く思ったのは、日本人は個人主義を完全にはき違えている、という事実だ。

 この本に登場する主婦たちは、多くの者が自由意思などとクチにしているが、日本人の家庭にあるのは、「個人主義」ではなく、「孤人主義」である。責任をともなわない「個」は「孤」でしかない。すでに集団主義でもなく、個人主義でもない日本人。内向きの孤人主義者の集団

 また子どもに対して、コトバで説明し、説得することを回避している多くの主婦たち。これでは子どもたちが一体どうやって、グローバル化のなかで生きてゆけるというのだろうか? 日本を一歩出れば、コトバでの戦いが当たり前の光景だというのに・・・。

 コトバによる論理的思考とはほど遠い日本人。多くの日本人から、国際的な競争力が急速に減退しているのは当然の帰結というべきだろう。

 日本企業もまたマーケティング活動をつうじて、こうした動きを促進しているわけだから、ほぼすべての日本人の大人が同罪であるといわねばならない。一部の地方での風習でしかなかった「恵方巻き」が普及したメカニズムについては、いろいろと考えさせられるものがあった。企業サイドと受容サイドがシンクロした結果なのである。

 いくら正論を吐いたところで、多くの日本人が大きく劣化しているのは否定できない事実だ。この現実を見据えたうえで、処方箋を書いて行動に移していかなくてはならないのだが、日本人の劣化を食い止めるためには、かなりハードな方法しかないだろうという気もする。それこそ見たくない、考えたくないような方法によって。
 
 それは、読者一人一人が考えなければならない課題である。その前に、まず本書を投げ出さずに最後まで読み切ってほしいと思う。


<初出情報>

■bk1書評「国際競争力を失い、大きく劣化しつつある日本人がつくられている舞台裏を見よ!」投稿掲載2010年4月22日




<書評への付記>

 書評としては長くなりすぎたので、投稿する際には大幅にカットして短くした。

 以下、カットした部分を再録しておこう。


 「見たくない現実」を見せられたとき、「否認 ⇒ 怒り ⇒ 取引 ⇒ 抑うつ ⇒受容」 という一連のプロセスがある。キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』で示した「死ぬということを受容するプロセス」からきているが、この本にかかれた「現実」については、否認から受容までのプロセスを、私自身体験することになった。

 いかに否認しようが、怒りを感じようが、まさにこれがいまの日本の家庭の現実なのだ。

 生活習慣が大きく変貌した現在の日本では、お正月が衰退するのも仕方がないし、クリスマスのほうが盛り上げやすいのは否定できない。

 調査対象者の属性、世帯収入が600万以上から800万円以下(26.9%)と800万円以上と1,000万円以下(22.9%)が中心になっており、標準よりやや高所得者層の専業主婦にあるようだ。つまり調査対象者は、居場所が職場にはない女性たちである。 

 調査手法もありきたりの定量調査手法であるアンケート調査ではなく、家族の食卓の写真を提出してもらい、質問票に記入してもらったうえで、ディープ・インタビューを行うとい定性的な手法であることが大きい。写真記録に現れた事実は、クチから出る発言との矛楯をさらけ出すからだ。犯罪捜査にも似た、執拗な調査方法である、といえようか。

 「家庭でのしつけ」というものがほぼ完全に死滅し、一切合切を外部化し、他人のせいに押しつける現在の状況、モンスターペアレンツ現象の背景が何であるのかについても、本書をよめば間接的に知ることができる。

 こういう家庭に育った子どもたちが、いままさに社会人として労働市場に参入してきたわけなのだが、「就活」というハードリアリティで苦戦し、そしてまた会社に入ってから大きなリアリティショックを感じることだろう。会社に入ってから意識変容があるのか、いかに価値観に変化が現れるのか、大いに関心がある。「シュガー社員」現象の背景も、本書をよめば間接的に知ることができる

 また、子どもたち自身が、こうした親をどう見ているのか、ホンネを探ってみたいものだ。著者もエピローグでは「子どもの目線」について少し言及しているが、案外と醒めたものの見方をしているのではないか。

 母親を「反面教師」にしている可能性も・・。あるいまた・・・



<ブログ内関連記事>

「恵方巻き」なんて、関西出身なのにウチではやったことがない!-「創られた伝統」についての考察-


日本では「習俗化」したキリスト教

書評 『日本人とキリスト教』(井上章一、角川ソフィア文庫、2013 初版 2001)-「トンデモ」系の「偽史」をとおしてみる日本人のキリスト教観

書評 『「結婚式教会」の誕生』(五十嵐太郎、春秋社、2007)-日本的宗教観念と商業主義が生み出した建築物に映し出された戦後大衆社会のファンタジー
・・キリスト教的なるものという西洋への憧れは依然として日本女性のなかにポジティブなイメージとして健在

書評 『ミッション・スクール-あこがれの園-』(佐藤八寿子、中公新書、2006)-キリスト教的なるものに憧れる日本人の心性とミッションスクールのイメージ

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・抜書きしておいた「日本におけるキリスト教の不振」にはぜひ目を通していただきたい。文化人類学者・泉靖一氏の見解に説得力がある

バレンタイン・デーに本の贈り物 『大正十五年のバレンタイン-日本でチョコレートをつくった V.F.モロゾフ物語-』(川又一英、PHP、1984)

ケルト起源のハロウィーン-いずれはクリスマスのように完全に 「日本化」 していくのだろうか?


「言語技術」が日本人を真に国際化させる

書評 『外国語を身につけるための日本語レッスン』(三森ゆりか、白水社、2003)

書評 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(田嶋幸三、光文社新書、2007)

コトバのチカラ-『オシムの言葉-フィールドの向こうに人生が見える-』(木村元彦、集英社インターナショナル、2005)より


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2010年2月7日日曜日

朝青龍問題を、「世間」、「異文化」、「価値観」による経営、そして「言語力」の観点からから考えてみる

     
                    
 2010年2月4日、ついに朝青龍が引退表明して角界を去ることとなった。ファンとしては残念だが、この状況下ではベストとはいわないまでも現実的な選択であったといえよう。さすがに今回はもう無理かな、と思ったファンも多いことだろう。

 週刊誌によれば、黒い交友がつねにウワサされていたようだが、芸能界含めて興業の世界にはつきものの話であり、一概にそれだけで断罪することはできないだろう。そういうウラ社会の話はいい悪いは別にして、日本人なら、それとなく知っている話ではある。歴代の横綱もまた例外ではない。


日本の「世間」における「常識」と「非常識」

 今回の引退劇は、日本相撲協会の理事会から「解雇か引退か」と迫られた上で、退路を断たれた朝青龍が泣く泣く引退を決断した、というのが真相らしい。自発的とはいいながら、いわば「強いられた引退」といったところだろう。英語でいえば、forced to retire といったところか。もちろん、退職金などさまざまな特典や名誉のことを考えれば、引退しか結論はない。

 私も朝青龍のファンだが、今回の件は残念だが仕方がないと考えている。しばらく休養して、心の整理をしてから第二の人生に向けて出発して欲しい。間違っても、サッカーのヒデ(こと中田英寿)のように"自分探し"などしないように。しかし、それにつけても不思議なのは、巡業サボってモンゴルに帰っていたときにサッカーに興じたのは、親友のヒデの誘いによるものではなかったのか? なぜマスコミはこのことに言及しないのだ??

 この話題を取り上げた理由はいくつかある。私には非常に印象的だったのは、朝青龍が引退の記者会見で、「世間を騒がせて・・」という決まり文句をまったくクチにしなかったことだ。迷惑をかけたとして言及したのは、具体的な対象(相撲協会やファン、マスコミ関係者)についてのみであった。本人もさまざまな迷惑をかけてという自覚はあることがうかがわれるが、「世間」を騒がせたという謝罪の決まり文句がまったくでていない。

 朝青龍は高校生のときから日本にきており、すでに十数年の滞在で日本語はある意味、日本人より流暢である。モンゴル語と日本語は語順が同じなので、単語さえ覚えれば習得はそれほど難しくないのかもしれない。ただし朝青龍の、漢字読み書き能力については私は知らない。

 私が何をいいたいかというと、これほど日本語を流暢に使いこなすな朝青龍が、「世間」を騒がしたという表現をしないということは、「世間」という、つかみどころのない、あいまいな概念を認識していない、という重要な事実なのである。

 「世間」というコトバを耳にすることがあっても、実体として「世間」という概念を把握していないから、自分のコトバとしては出てこないのだろう。


「異文化」のモンゴル人には日本の「世間」は存在しない

 ここで想起されるのは、モンゴル人の特性である。書評『朝青龍はなぜ強いのか?-日本人のためのモンゴル学-』(宮脇淳子、WAC、2008)でも書いたが、著者のモンゴル学者で歴史家の宮脇淳子が、モンゴル人の特性をいくつかピックアップしたなかに、次のような項目がある。

 ・「まわりに合わせる」という考えのないモンゴル文化
 ・モンゴルには「長幼の序」はない

 似たような顔をした同じアジア人とはいっても、モンゴル人は、日本文化とは根本的に異なる「遊牧文化」に属しているのだ。これによって、ある程度まで朝青龍の特性を説明することができる。

 朝青龍自身、「まわりに合わせる」つもりはない、勝負にこだわっていたと述べている。その意味において、朝青龍は日本語はペラペラだが、骨の髄まで100%モンゴル人なわけなのだ。


また、2005年当時の駐日モンゴル大使がこんなタイトルの本を出していたことはご存じだろうか。『日本人のように無作法なモンゴル人』(ザンバ・バトジャルガル、大束 亮訳、万葉舎、2005)

 なんだか失礼な印象も受けなくはないタイトルだが、モンゴル人からみれば、日本人のほうが不作法、と映るらしい。まさに「異文化」ギャップである。「日本人のように不作法な」というフレーズがモンゴル語にあるらしいが、それこそ日本とモンゴルは真逆の世界であるわけなのだ。

 つねに優等生として比較される横綱・白鵬は、日本人と結婚し、日本に帰化することも視野にあるからだろう、かなりの程度まで日本(という他人)に合わせているように思われる。なんといっても配偶者である日本人の影響は少なくないだろう。白鵬は強いし「品格」もあるように見えるが、ややつまらない印象を受けるのは私だけだろうか。

 昨日(2月6日)のNHKの追跡AtoZ 「朝青龍 引退の舞台裏-"強さ"と"品格"のはざまで-」で紹介されていたことだが、朝青龍は日本のお父さんとして慕っていた、髪結いの床山さんに「横綱の品格」とは何だろうか、としつこく聞いていたという。朝青龍なりにそうとう悩んでいたのだろう。

 しかし、「品格」なんていわれても、日本人だってよくわからない。目に見えない「品格」なんていう行動基準を課せられても、答えなんか出しようがないではないか。「品格」もまた「暗黙」の了解事項であるかぎり、「世間」の外部からきた者には、痛い思いをして自ら気づきを得ない限り、まず理解不能といっていいだろう。

 日本人であっても、若い頃は"ヤンキー"(・・アメリカ人のことではないですよ! いわゆるツッパリのこと)やったり、そうとう"ヤンチャ"したが、結婚して家庭をもったら落ち着いた、なんて話はごろごろしている。つまり彼らは、「世間」の暗黙のルールを、肌身をつうじて体得した、ということだ。こういうことを指して、日本人は「オトナになった」と表現する。

 「覇者の奢り」ともいうべきか、朝青龍に聞く耳がなくなっていたことも問題ではある。しかし、同じことをモンゴル人に求めても無理というものだろう。

 モンゴルでは、朝青龍に日本人の記録を破らせないために引退させたのだ、という陰謀論めいた見解もなくはないらしいが、日本的「世間」のもつ、意図せざる、見えざる「排除の論理」が働いていないとは、いいがたいものがあるので、陰謀論もあながち否定はできない。


どんな組織でも「行動基準となる価値観」が重要だ


 しかしながら、どの世界にも行動基準となる「価値観」が存在する。

 米国の文化人類学者エドワード・ホールの表現を使えば、日本のようなコンテクスト(=文脈)依存的な文化(= high context cultureにおいては、価値観も暗黙的なことが多い。「世間」の要求する価値観などまさにそうしたものであろう。

 これは日本的「世間」にどっぷりとつかっている組織は、お役所でも企業組織でもかわらない。ホールの議論については、Edward T. Hall, Beyond Culture, Anchor, 1977 を参照。かつて「日米摩擦」が激化した時代によく読まれた本。日本語訳『文化を超えて』はとうの昔に絶版。

 一方、米国社会や欧州社会のような、コンテクスト依存度の低い文化(= low context society)においては、価値観は明示されて表現されることが多い。たとえば、いまはもう引退したが、かつて米国を代表する世界企業 GE(General Electric:ゼネラル・エレクトリック)の CEO として率いていたジャック・ウェルチは、「価値観に基づく経営」を主張し実行していた。

 ウェルチがいうには、いくら業績がよくても、GE の価値観にあわない人間には辞めてもらう、と。これは「価値観による経営」といってよいだろう。CSR(= Corporate Social Responsibility)を考慮にいれないと、価値観に従わない従業員によってもたらされた不祥事によってブランド価値が毀損(きそん)されることもあるし、何よりも企業価値を重視した経営を行う以上、当然といえば当然なのだ。短期の業績があがっても、中長期の競争力につながっていかなければ意味はない。

 ただし重要なのは、価値観がコトバとして明示され、従業員に徹底して教育を行っていた、といういことだ。GE 以外でも、国際的なホテル・チェーンであるリッツ・カールトンの「クレド」(Credo:信条)など、価値観を明示して行動基準としている企業組織は多い。


 朝青龍の「引退」は、相撲協会の「価値観」にしたがったものであり、そのこと自体には異論はない。所属する組織のトップ経営層の「価値観」に基づく決定である。今回の場合、あらたに外部からの人材が、意志決定に加わったことも大きく左右したようだ。

 ただ問題なのは、相撲協会の価値観の表明が「暗黙的」なものであって、誰にでもわかるような「形式」で明示されたものではないことだ。果たして、企業組織であれば「就業規則」の懲罰規定のような明示された基準が、相撲協会内部に存在するのかどうかも不明である。

 これが、ひとり朝青龍だけでなく、一般ギャラリーにも理解しにくいものであったことは、何かしら釈然としない、後味の悪い思いだけが残ったことにつながっている。


相撲協会はコトバで明確にMVV(=ミッション・ビジョン・バリュー)を示せ

 結論としては、相撲協会は「ミッション」を明確にし、「価値観」も美辞麗句ではなく、誰もが腹の底から納得のいくようなコトバで、明示すべきである、ということである。「価値観」を行動のガイドラインとして設定し、これを相撲協会内部で徹底していけば、あたらしい時代に組織として生き残っていくことを可能とするだろう。

 相撲界は能楽と同様、パトロンであった徳川幕府が明治維新により崩壊したあとは、生き残るのに大きな苦労をしたことは歴史的な事実である。現在の相撲界を取り巻く状況は、それに劣らぬ苦境かもしれない。

 新しい時代に適応するためには、「価値観」を明示的に表現し、徹底していくことが求められるが、この際に必要になってくるのが「言語力」である。「言語力」とは、読み、書き、考え、伝えるチカラのことである。これが現在の日本人には、子供だけでなく大人にも著しく欠けている。日本人は「暗黙知」にどっぷり依存しすぎてきたのである。ロジカル・シンキング(論理的思考能力)以前の状態である。言語力がなければ、数学の試験問題の意味も理解できない。

 したがって、「言語力」を鍛えることは相撲界だけでなく、日本全体の課題であることは、NHKの追跡AtoZ 「問われる日本人の"言語力"」でも具体的に紹介されているとおりである。日本のサッカーを強化するためには、前日本代表監督であったオシムが指摘するように、選手の「言語力」をアップすることが課題となっているようだ。「暗黙知」に頼ったコミュニケーションには明かな限界に突き当たっており「形式知」としての「言語力」をより高める必要性に迫られているのだ。

 相撲取りといえば、かつては「ごっつぁんです」、「そうっすか」、「うっす」ぐらいしか発言しないのが当たり前だったが、朝青龍だけでなく琴欧州や把瑠都などの外国人の若い力士は、日本語で流暢に感想を述べたり、自分の考えを筋道たててしゃべったりもしている。相撲協会は理事も含めて、「言語力」強化が喫緊(きっきん)の課題ではないか?


 以上、朝青龍問題を題材に、日本的「世間」と「異文化」について考え、「価値観」による経営実現のために不可欠な「言語力」の重要性について考えてみた。

 問題は相撲界だけではない。企業組織含めた、日本全体にかかわることである。問題の根は深いが、対策開始は早ければ早いほうがよい。


<参考サイト>

「言語力検定」(読み、書き、考え、伝えるチカラ) 公式サイト

NHKの追跡AtoZ 「問われる日本人の"言語力"」


P.S.  この投稿記事でブログ開設以来250本目となった。次に目指すは通算300本也。

P.S. 2  読みやすくするために改行を増やし、「見出し」を入れた。また<ブログ内関連記事>を追加して、この記事のブログ全体との関連を明確にした。 (2013年11月13日 追記)



<ブログ内関連記事>

モンゴル

書評『朝青龍はなぜ強いのか?-日本人のためのモンゴル学-』(宮脇淳子、WAC、2008)


世間

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?
・・「世間」とは持続性のある相互監視の視線であり、「空気」とは持続性はないが濃度の濃い相互監視の視線の集まりと考えてよいのではないだろうか

ネット空間における世論形成と「世間」について少し考えてみた
ネット空間における「世間」について(再び)

書評 『醜い日本の私』(中島義道、新潮文庫、2009)-哲学者による「反・日本文化論」とは、「世間論」のことなのだ

映画 『偽りなき者』(2012、デンマーク)を 渋谷の Bunkamura ル・シネマ)で見てきた-映画にみるデンマークの「空気」と「世間」
・・「世間」も「空気」も特殊日本的現象ではない

「ゆでガエル症候群」-組織内部にどっぷりと浸かっていると外が見えなくなるだけでなく、そのこと自体にすら気が付かなくなる(!)というホラーストーリー

書評 『私とは何か-「個人」から「分人」へ-』(平野啓一郎、講談社現代新書、2012)-「全人格」ではなく「分割可能な人格」(=分人)で考えればラクになる


価値観

クレド(Credo)とは

書評  『女子社員マネジメントの教科書-スタッフ・部下のやる気と自立を促す45の処方箋-』(田島弓子、ダイヤモンド社、2012)-価値観の異なる人材をいかに戦力化するか

「個人と組織」の関係-「西欧型個人主義」 ではない 「アジア型個人主義」 をまずは理解することが重要!
・・中国人、インド人、タイ人の「個人主義」と西洋人の「個人主義」の違い


言語技術

書評 『ことばを鍛えるイギリスの学校-国語教育で何ができるか-』(山本麻子、岩波書店、2003)-アウトプット重視の英国の教育観とは?

「人生に成功したければ、言葉を勉強したまえ」 (片岡義男)
・・アメリカのエリート教育

書評 『言葉でたたかう技術-日本的美質と雄弁力-』(加藤恭子、文藝春秋社、2010)
・・アメリカのエリート教育

書評 『小泉進次郎の話す力』(佐藤綾子、幻冬舎、2010)
・・スピーチ

書評 『思いが伝わる、心が動くスピーチの教科書-感動をつくる7つのプロセス-』(佐々木繁範、ダイヤモンド社、2012)-よいスピーチは事前の準備がカギ!

書評 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(田嶋幸三、光文社新書、2007)

書評 『外国語を身につけるための日本語レッスン』(三森ゆりか、白水社、2003)

書評 『言葉にして伝える技術-ソムリエの表現力-』(田崎真也、祥伝社新書、2010)



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2010年2月4日木曜日

書評 『醜い日本の私』(中島義道、新潮文庫、2009)-哲学者による「反・日本文化論」とは、「世間論」のことなのだ




哲学者による「反・日本文化論」とは、「世間論」のことなのだ

 『うるさい日本の私』、『私の嫌いな10の人びと』、『私の嫌いな10の言葉』・・なんて本を出してきた哲学者だといえば、この本もまた例の"偏屈じじい"によるクレーム本だろうと思っていた。

 暇つぶしのために買ったこの文庫本、読んでいたら意外と内容がまともで読むに耐えるというより、平易に書かれているが非常に内容の濃い本だとわかった。

 タイトルは、川端康成の『美しい日本の私』大江健三郎の『あいまいな日本の私』という、いずれもノーベル文学賞受賞講演のタイトルをもじったものだが、本人いわく「人一倍、不快なもの、醜いものに感受性の強い」(!)著者の分析は非常に鋭い。中島先生、単なる偏屈者ではないんですね。

 著者の分析そのものは、おおかた当たっていると思う。

 日本人は美意識がきわめて高いが、醜いものがすぐ隣にあっても居心地がよければまったく違和感を感じない心のもちよう一つで見えても見えないこととする、聞こえてもきかないことにする、という訓練を子供の頃から受けてきた・・・こんな分析が全体に散りばめられていて、読んでいてな~るほどと納得させられる。

 とはいえ、私自身はさすがに、著者と一緒になって、あらゆることにクレームつけたりする気にはならないなー。著者の分析は正しくても、無意識のうちに「世間」にどっぷりつかっている日本人の大半は、もちろん私も含めて、著者の価値観とは違うものをもっているためだ。

 著者は、「感受性についてのマイノリティ」あり、であるからこそフツーの日本人が見過ごしていることに非常に敏感なのだろう。その意味では貴重な本である。

 世の中には、そういう過敏なまでに感受性が強い人も存在するのだ、ということは意識のなかにいれておきたい。 

 哲学者による「反・日本文化論」、けっして読んで損はない。「反・日本文化論」は裏返せば、実はすぐれた「日本文化論」となっているのである。

 それは、つまるところもう一つの「世間論」なんですね。


<初出情報>

■bk1書評「哲学者による「反・日本文化論」とは、「世間論」のことなのだ」投稿掲載(2010年2月2日)
 *再録にあたって、字句の修正を行った。




<書評への付記>

 著者の中島義道(1946~)は哲学者で電通大教授、この人のことは、好きな人は好きだろうが、キライな人は徹底的にキライだろう。

 書いているものを読む限り、面白いと思う点も多々あるが、正直いってこの人には直接かかわりたくないねーという気にさせられるのは、否定するつもりはないな。

 その昔、ウィーン愛憎-ヨーロッパ精神との格闘-』(中島義道、中公新書、1990)という--一般書としては著者のデビュー作といっていいだろうか--を読んだとき、次から次へと学士入学やら大学院をハシゴしているこの人は、社会人になりたくないのかな、と思ったものだ。モラトリアム人間のような印象ももった。

 内容はというと、欧州の古都ウィーンに留学した著者の、文字通り西洋文明と闘う日々を描いた読み物でたいへん面白かったが、その後私も米国に留学して、米国も欧州同様だと強く思ったものである。この手の読み物としては、同じく中公新書からでたロングセラーである、会田雄次の『アーロン収容所』(中公新書、1962 中公文庫、1973)と並んで、体当たりで脱西欧を宣言した本といってもいいだろう。

 その後、中島義道のことなど忘れていたが、ある頃から日本と日本人に、やたらとイチャモンつけるオッサンとして登場してきたことを知った。欧州を斬ったあと、返す刀で日本も斬りまくっているのだが、いまから考えれば日本的「世間」に一人で徹底抗戦するドンキホーテのような存在になったということなのだ。その頃はまだ、阿部謹也の「世間論」も登場しておらず、孤軍奮闘ということだったのかもしれない。中島義道が阿部謹也についてどう思っているのかは、私は知らないが。

 続・ウィーン愛憎-ヨーロッパ、家族、そして私-』(中島義道、中公新書、2004)が出たので読んでみたが、この本は『ウィーン愛憎』リターンズ、とでもいった内容の本で、14年たっても著者は日本的な意味での"オトナ"とはほど遠い、わがままの固まりであることをさらけだしている。インパクトは『ウィーン愛憎』ほどはない。あーそうですか、くらいの印象しかもたなかった。

 本書『醜い日本の私』については書評に書いたとおりなので、興味のある人は読んだらいいと思う。「人一倍、不快なもの、醜いものに感受性の強い」、つまるところキタナイものが目についてしょうがない、ウルサイものが耳についてしょうがない、ということで、まあ一種のビョーキなんだろうが、そういう立場から見えてくる、日本と日本人がつくりだすに人間関係は、なかなか見事な分析になっていて面白い。

 すくなくとも、西洋人向けにオリエンタリズム丸出しで書かれた、川端康成の『美しい日本の私』よりは、はるかにマシだろう。

 哲学者による「世間論」といった内容の本だ。



PS <関連サイト>と<ブログ内関連記事>をあらたに加えた。 (2014年1月29日 記す)


<関連サイト>

バカな人々と戦って「人間とは何か」を学べ!-『うるさい日本の私』の中島流騒音対策法 (東洋経済オンライン 2014年1月29日)
・・「人生相談」のテーマは、まさに中島氏が戦ってきた「うるさい日本」


<ブログ内関連記事>

書評 『ヒトラーのウィーン』(中島義道、新潮社、2012)-独裁者ヒトラーにとっての「ウィーン愛憎」                                
書評 『見える日本 見えない日本-養老孟司対談集-』(養老孟司、清流出版、2003)- 「世間」 という日本人を縛っている人間関係もまた「見えない日本」の一つである

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?

(2014年1月29日 情報作成)




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