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■ほんとうの「地頭の良さ」とは? プラクティショナー(practitioner:実践家)としてのアタマの良さのこと
具体的な実例でいえば、ビジネス界では、なんといってもパナソニック(=旧 松下電器)松下幸之助やホンダの本田宗一郎の名前があがることだろう。松下幸之助の学歴は小学校卒業で終わり。本田宗一郎は工業専門学校中退。
小学校が最終学歴の松下幸之助は、いとこか知り合いか忘れたが、「なんや、中学でとんか?」とバカにしたというエピソードがある。
政治家でいえば田中角栄か。「コンピュータ付きブルドーザー」とよばれた今太閤も学歴は小学校卒。
このほか、芸能界や実力がモノをいう世界では、学歴や資格などほとんど関係ないことがわかる。
いずれもモーレツなまでなハードワーカー、しかも効率がいいので、フツーの人の2倍、3倍の仕事をする。
松下幸之助の場合は自分はカラダが弱いことを自覚していたので、その分、モーレツにアタマを使った人だ。
もちろん、こういった超有名人だけが「地頭の良い」人ではない。
私が「地頭がいい」という表現を知って真っ先に思い浮かべたのは、事例としていいかわるいかは別にして、水商売の女性たちのことだ。
高校卒業あるいは高校中退でも、アタマの回転が速くて、よく気がつく人間でないと、水商売では生きてゆけない。だが、要領の良さというのともまた違うようだ。場の空気を読むチカラだけでもない。
こういった女性たちと、一流大学はでているが、役所や企業の窓際でしがなく過ごすオッサンたちと比べて、どっちが「地頭」がいいかといったら、それはいうまでもなく一目瞭然だろう。
「地頭の良い」人たちのイメージとは、おそらく以上のようなものではないだろうか。
もちろん、大学に進学するのが意味がないと言うつもりはまったくない。ただ、大学に進学して生半可な勉強をしたために、ほんらいもっていたアタマの切れが曇ってしまったのでは意味がない。
大学に限らず、高校でも中学校でも、ほんとうに意味があるのは学校の勉強よりも、課外活動のほうが意味がある場合が多い。高校生のアルバイトも、その意味では無駄な体験とはいえない。
私は、ノラネコなどの(半)野生動物を観察していると、「地頭の良い」動物のみが生存競争に生き残っているのだと強く感じるのである。
ノラネコにとっての「生きるチカラ」とは端的にいって「生き残るチカラ」のこと以外の何者でもない。
これができるノラネコは、まさに「地頭のいい」ノラネコだ。そうでないノラネコは、子ネコ時代にまず「自然淘汰」されることになる。
生き残った子ネコは、ひたすら母ネコの行動を観察し、真似る。真似こそが、ノラネコにとっての「学習」である。まさに「真似ぶとは学ぶなり」なのだ。
ノラネコの猫生は、まさに意志決定の連続である。一日の2/3くらい寝ているネコは、安全な寝場所がどこか、腹が減ったらどこで食べるか、こういった情報や知識が死活問題である。
ノラネコはコトバをもたないので思考は浅いが、意志決定に際しては瞬時に判断することが求められる。向かうか、逃げるか、先客に譲るか立ち去るか、などなど。生きるか死ぬかがかかっていることも少なくないからだ。
これは遺伝に基づく本能だけによるものではない。後天的な学習の成果でもある。
これは強い者だけが生き残るという「適者生存」という意味ではなく、生まれ落ちた環境で最適な生き方を見つけということであり、ある意味では競争を回避しながらも、生き残る生活空間と生き残る術(すべ)を身につけていることがカギなのだと悟らされるのである。
これが「地頭」のなせる技である。ノラネコだけでなく、人間にもあてはまる。
■ほんとうの「地頭の良さ」は机上の勉強では身につかない
だからこそ、こういった「地頭」は、机上の勉強で習得するのは難しい。
人間の場合は、仕事という実践の場で鍛えられ、五感をフルに全開にした観察力で盗みとった技、そして自分が生き残るためにもっとも適した空間(=場)の発見と維持確保が最低条件になる。
とくに二進(にっち)も三進(さっち)もいなないような窮地に追い込まれたときに、どれだけアタマをフル回転させて局面破壊をできるかで鍛えられることが多いのではないか?
追いつめられたときにどうやって脱出口を見つけるか、突破口を開くか、こういう実践的なアタマの使い方によって鍛えられるのが本来の「地頭」だろう。
問題解決には何よりも正しい問題設定が前提になる。正しい問題設定は、問題発見から導き出されるものだ。
仕事と人生と趣味の全領域で得てきた成功体験と失敗体験を、自分のフィルターをとおして徹底的に分析し、次のアクションに活かしていく。こういう学習行動を生活習慣にしてゆくことで、自ずから身についていくのだろう。
ビジネスの世界で使う PDCA(=Plan - Do - Check - Action)などという表現はあえて使うことがなくても、アクション(=行動)とリフレクション(=省察)の往復運動を無意識のうちに実行しているわけだ。
一言でいってしまえば、アタマの回転の速さと思考の深さであって、こういうものは机に向かって勉強したら身につくものではない。
むしろ、スポーツや遊びの世界で身につくものだろう。
こういう人には結果として、豊富な「引き出し」ができあがる。体験からその意味を抽出しているからこそ、無意識世界のなかでパターン認識ができるようになっているし、具体的な経験がコトバとして蓄積されているからだ。
机上の勉強ではないのだ
何よりも「体験」、「体験」、「体験」なのである。
昔の職人や商売人の家では、「職人には学問はいらない」、「商売人には学問はいらない」といって、向学心のある子どもが勉強させてもらえなかったのは、その意味においては正しいのであった。職人技も商売のコツも、見よう見まねで観察して盗み、自ら実践してみることで初めて身につくものであるからだ。
だが、現代はもちろんまったくの無学では生きていくのは困難だ。あまりにも世の中が複雑になりすぎている。
だからこそ、ただしい本の読み方が必要なのである。
「体験」の意味を「読書」によって深め、「観察」した結果をまた「読書」によって確かめる。この成果を実践の場で試して、再現してみることで、さらに知識は肉体化していく。
「体験」と「読書」の往復運動がいかに重要であるか。たんなる「体験」やたんなる「読書」だけでは十分ではないのである。この両者の相互作用が重要なのである。
このような本の読み方ができれば、勉強によって「地頭の良さ」がダメになってしまうことはないはずだ。
<ブログ内関連記事>
「学(まな)ぶとは真似(まね)ぶなり」-ノラネコ母子に学ぶ「学び」の本質について
自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)
・「底辺ともいうべき実社会の環境の中でさまざまな職業を体験し、さまざまな人たちと関わり、読書と労働をつうじた観察の往復運動のなか、独自の思索を続けたのがホッファー」(ブログに書いた私の文章)。
書評 『独学の精神』(前田英樹、ちくま新書、2009)
・・自分の身ひとつを通じて、自らの意思によって、自分の身ひとつに身につけたものこそ、本当に生きるために必要なもの
「地頭」(ぢあたま)について考える (1) 「地頭が良い」とはどういうことか?
書評 『語学力ゼロで8カ国語翻訳できるナゾ-どんなビジネスもこの考え方ならうまくいく-』(水野麻子、講談社+α新書、2010)
・・「学歴」も「資格」もとくに突出しているわけではない「地頭の良い」主婦が書いた本。「地頭の良い」人の実例
書評 『修羅場が人を磨く』(桜井章一、宝島社新書、2011)-修羅場を切り抜けるには、五感を研ぎ澄ませ!
書評 『人材は「不良社員」からさがせ-奇跡を生む「燃える集団」の秘密-』(天外伺朗、講談社+α文庫、2011、初版 1988)
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