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2011年1月31日月曜日

書評 『脳の可塑性と記憶』(塚原仲晃、岩波現代文庫、2010 単行本初版 1985)-短いが簡潔にまとめられた「記憶と学習」にかんする平易な解説


「脳の可塑性」って? 短いが簡潔にまとめられた「記憶と学習」にかんする平易な解説

「脳の可塑性」ってなに? 「可塑性」ってどう読むの? 

こんなことで本書が敬遠されてしまったのでは、あまりにもったいない。

「可塑性」は「かそせい」と読むのだが、簡単に言ってしまえ「変形しやすさ」ということだ。

「記憶と学習」においては、脳神経のシナプスの活動状態などによってシナプスの伝達効率が変化する。いやいや、これじゃまだ難しすぎるな・・(苦笑)  

「脳の可塑性」は、より正確には「脳の神経可塑性」ともいうが、脳科学で「記憶」について考える際にはきわめて重要な概念なのだ。

本書は、短いが簡潔にまとめられた「記憶と学習」にかんするわかりやすい解説書である。

コンピュータの記憶(メモリー)と人間の脳の記憶(メモリー)の違いについて、脳科学の成果をもとに詳述した警告書『ネット・バカ-インターネットがわたしたちの脳にしていること-』(ニコラス・カー、篠儀直子訳、青土社、2010)が話題になっているが、ここでも「脳の神経可塑性」という概念がきわめて重要な意味をもっている。

本書『脳の可塑性と記憶』は、「脳の可塑性」にかんしては、最初から日本語で書かれた一般向けの本なので、翻訳本よりははるかに読みやすい。最先端を走っていた研究者が、学問的水準を落とすことなく本質的なことを、平易なコトバと豊富な図表で語っている。

私自身もそうだが、脳科学の専門家ではない一般人が脳科学に関心があるのは、なんとかして記憶力を増強したいという切実な思いからだろう。

このテーマにかんしては大脳の海馬に焦点をあてた『記憶力を強くする-最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方-』(池谷裕二、講談社ブルーバックス、2001)があるが、専門用語を極力使用しないで一般向けに書かれた本なので、やや物足りないものを感じる読者がいるかもしれない。そういう人はぜひ本書を手にとってもらうのがいいと思う。

著者は、まことにもって不幸なことに、いまから25年前の御巣高山の日航機事故で亡くなっている。そのため本書も一部は未完成のまま残されているのだが、解説によれば、残念ながら「脳の可塑性と記憶」の分野の解明は、その後もあまり進展していないらしいだから、内容的には陳腐化していないようだ。

その意味でも、本書は知的な関心の高い一般人が読める、「記憶と学習」にかんするすぐれた一般書である。敬遠することなくぜひ手にとってほしい一冊である。


<初出情報>

■bk1書評「「脳の可塑性」って? 短いが簡潔にまとめられた「記憶と学習」にかんする平易な解説」投稿掲載(2011年1月19日)





目 次

読者の方へ(伊藤正男)
第1章 脳の可塑性とはなにか
第2章 記憶の座をもとめて
第3章 神経回路はどのようにしてつくられるか
第4章 記憶の分子説とシナプス説
第5章 感覚・運動回路の可塑性
第6章 動物の記憶とヒトの記憶
第7章 三つの記憶システム
付録 脳科学の展開
参考文献
友を偲びつつ(久保田競)
あとがき(村上富士夫・小田洋一)
解説(村上富士夫)



著者プロフィール

塚原仲晃(つかはら・なかあきら)

1933~1985年。1958年東京大学医学部医学科卒業。1963年同大学院修了。医学博士を授与される。同年、東京大学医学部助手。1965年から1968年まで米国に留学。1970年、大阪大学基礎工学部教授に就任。1977年から1985年まで岡崎国立共同研究機構生理学研究所教授を併任。1982年から183年、米国ロックフェラー大学客員教授を務める。1985年8月12日夜、日航ジャンボ機123便に乗り合わせ、御巣鷹山にて逝去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

人間の「3つの記憶システム」、とくに3番目の記憶システムである「文字による記憶」について

「第7章 三つの記憶システム」でいう「3つの記憶システム」とは何か。重要なことなのであえてここに書いておこう。列挙すると以下のとおり。

 ① DNAの記憶
 ② 脳の記憶
 ③ 第3の記憶系としての文字(外部記憶)


①と②が人間以外の生物も共有する記憶システムであるとすれば、③はきわめて重要な発明である。②においてもコトバを獲得した人間とそれ以外の生物との隔たりはきわめて大きなものとなっている。

③の文字は、コトバを獲得し脳が進化発達したヒトがさらに次の段階に進んだものである。文字による「記憶」は「記録」といったほうが適当だろうが、人間における「記憶システム」の一環と考えると見えてくるものが多い。

人間は文字を獲得し、脳内記憶情報を文字という形で羊皮紙や紙に「記録」することによって、一切合切すべてをアタマのなかに記憶する必要はなくなった。この意味で「文字による記録」は、人間の脳にとっては「外部記憶装置」としての位置づけになる。

文字発明以前は、「記録」はすべて「記憶」という形で、口伝えで記憶されてたことは、『イリアス』や『オデュセイア』の作者とされる古代ギリシアの吟遊詩人ホメロスや、アイヌの『ユーカラ』、『古事記』のもととなる神話や伝承を記憶させられていた 稗田阿礼(ひえだのあれ)といった語り部の存在が端的に示している。

文字の発明以前は、「記録」はすなわち「記憶」であった。

現在のコンピュータも、人間の脳からみれば「外部記憶装置」である。その意味では、コンピュータ以前と以後の変化よりも、人間が文字を獲得した以前と以後の進化のほうがはるかにインパクトがあったと考えていいかもしれない。コンピュータは文字の延長線上にある。

文字で記した「記録」が「歴史」と呼ばれることとなり、口承で伝承された「記憶」は「物語」と一般には理解されている。しかし、もともとは「記録」は「記憶」であり、「歴史」も「物語」である。

「記録」は手で書いたにせよ、キーボードで打ち込んだものにせよ、人間の生身の身体が介在して生まれたものだが、いったん人間から離れて存在するものだ。いったん人間から離れた文字は、五感の豊穣さを失った、やせ細った情報として固定される。

一方、「記憶」は人間の脳内に存在するもので、その個体としての人間が死ねば(=脳死すれば)、脳の死とともにその持ち主の「記憶」も死ぬ。人間を人間たらしめているものが長期記憶である「エピソード記憶」である以上、「記憶」が個別性、身体性をつよく帯びた存在であるのはそのためだ。

「記録」は「記憶」に対して客観性が高いと一般には思われがちだが、かならずしもそうとは言いきれない。

「記録」されたものは、事実と感想が混同しているのが普通であり、その内容についてはきわめて主観的と」いわざるをえないだろう。また、脳内記憶をそのままイメージ情報として取り出すことは不可能に近い。そもそも文字と画像では情報量そのものが桁違いに違う。

「記録」は「記憶」であり、「歴史」も「物語」である、といったのはそういう意味だ。この両者の関係は明確なようで、実はきわめてあいまいである。

日本語では歴史と物語を区分して考えるのが普通であるのは、日本語の「歴史」は、中国的な編年体の歴史感覚をそのまま継承しているためだろう。また英語では history と story をコトバとしては区分して、意味も分節化している。

だが、この history という英語自体 story というコトバを内包しているし、英語以外の西洋語では histoire(フランス語)、Geschichite(ドイツ語)に代表されるように、コトバの形としては区分していない。

「3つの記憶システム」という観点から考えると、そうであっても不思議でないことがわかるだろう。

「記録」は「記憶」であり、「歴史」は「物語」である。これが本来の姿なのである。



<関連サイト>

視力を失うと触覚や聴覚が発達する不思議-自身も右目を失明したオリヴァー・サックス医師が語る、人間の脳の驚くべき能力(ダイヤモンドオンライン 2011年12月29日)
・・知覚器官の代替作用における脳の可塑性について


<ブログ内関連記事>

書評 『脳を知りたい!』(野村 進、講談社文庫、2010 単行本初版 2000)
・・脳科学の専門家ではないジャーナリストが脳科学者たちに徹底的にインタニューシテまとめた脳科学の入門。トピックで語る脳科学

書評 『ネット・バカ-インターネットがわたしたちの脳にしていること-』(ニコラス・カー、篠儀直子訳、青土社、2010)
・・コンピュータの記憶(メモリー)と人間の記憶(メモリー)は似て非なるものだ。何がどう違うのか西洋文明史の枠組みのなかで考える

「場所の記憶」-特定の場所や特定の時間と結びついた自分史としての「エピソード記憶」について

書評 『言葉にして伝える技術-ソムリエの表現力-』(田崎真也、祥伝社新書、2010)
・・なぜ生身の人間であるソムリエがなぜ必要なのか、なぜコンピューターではダメなのか?

JALの「法的整理」について考えるために
・・JAL123便墜落事故についても言及






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2011年1月29日土曜日

「ミラーの法則」-管理限界についての「マジック・ナンバー7」


いまから25年くらいむかしのことだ。人事管理関係の仕事からキャリアをはじめた私は、その当時の上司から教えてもらった話で、非常に強く記憶に刻まれた話がある。

「1人の人間が管理できる上限は7人」、というものだ。

この話は、マネージャーとして部下の管理にたずさわわったことのある人は一度は聞いたことがあるはずだろう。そのとき「スパン・オブ・コントロール」という表現も耳にしていると思う。英語で書けば span of control となる。

根拠がなにかわからないが、いかにも当てはまりそうな話として聞かされたことのある人は多いのではないかと思う。

数字の 7といえば、1週間は7日だし、ラッキー7 という表現もある。たしかに 7人くらいまでなら、とくに管理しなくても把握できそうな人数だな、と。

実は、この話には根拠がある。この話の根拠は「ミラーの法則」という。

ビジネスの世界では「何々の法則」というのはたくさんあって、たとえば「ピーターの法則」や「パーキンソンの法則」、ビジネス以外の世界でもよく知られた「マーフィーの法則」などがあるが、「ミラーの法則」は、認知心理学の法則だ。


「ミラーの法則」と「マジカルナンバー 7」

「ミラーの法則」は「マジカルナンバー 7」といいかえてもいいだろう。

「ミラーの法則」といっても、鏡のミラーではない。ファミリー・ネームのミラー(Miller)だ。この法則を発見した米国の心理学者ジョージ・ミラー(George Armitage Miller)にちなむものである。

ジョージ・ミラーは wikipedia の記述によれば以下のような略歴である。

ジョージ・ミラー(George Armitage Miller 1920年 - )は、アメリカ合衆国の心理学者。プリンストン大学教授。ロックフェラー大学、マサチューセッツ工科大学、ハーヴァード大学の教授だったこともあり、オックスフォード大学ではフェローとして研究し、アメリカ心理学会の会長だったこともあった。
短期記憶の容量が7±2であることを発見した。この研究は認知心理学の先駆けとなった。ユージン・ギャランター、カール・プリブラムとの共著「プランと行動の構造」は認知心理学の誕生を告げるマニフェストとも言われる。
また、概念辞書の先駆けであるWordNetプロジェクトを主導したことによって、言語学、計算言語学、自然言語処理、オントロジーなどの分野でも著名である。
1991年には、アメリカ国家科学賞を授与している。

さらに「マジカルナンバー7」については次のように説明されている。

「マジカルナンバー7±2」という論文の中で、一度聞いただけで直後に再生するような場合、日常的なことを対象にする限り記憶容量は 7個前後になるということを示した。この7個というのは情報量ではなく意味を持った「かたまり(チャンク)」の数のことで、数字のような情報量的に小さなものも、人の名前のように情報量的に大きな物も同じ程度、7個(個人差により+-2)しか覚えられないということを発表した。

脳科学の立場からは、たとえば、『記憶力を強くする-最新脳科学が語る記憶の仕組みと鍛え方-』(池谷裕二、講談社ブルーバックス、2001)という本では、「短期記憶」には個人差はないことが説明されている。曜日は七つ、ドレミの音階は7つ、であるように、人間のワーキングメモリー限界は7桁、であると。


古代以来、人間が「7」という数字を神聖視してきたのは・・

『数の神秘』(フランツ・カール・エンドレス、アンネマリー・シンメル編、畔上司訳、現代出版、1986)という本では、「数字の 7」は「知恵の数」とされている。

7は古来、人間を魅了し続けてきた。7は創造の三原則(=能動的意識、受動的無意識、その両者があいまって作用する秩序力)と、元素から構成される物質・感性力の4つ(=知性に相当する空気、意思に相当する火、
感情に相当する水、道徳に相当する地の和である。このように7を精神界の3と物質界の4に分解する方法は、ほかにいくつかの解釈があるが、これが中世大学の自由7科を3科と4科に分ける基礎となったことは間違いない・・・(後略)・・(P.108)

7は古代中国でも、古代バビロンでも、古代ユダヤ教でも、古代ギリシアでも、イスラーム世界でも、いずれも古代以来きわめて重要な意味をもつ数字であった。

これも、人間の認知限界が 7 であることと関係があることは間違いないだろう。そうでなければ 1週間が7日である理由も音階が7つである理由もわからない。7を聖数として特別扱いする理由は後付けのものと考えるのが自然である。


50人程度の組織が管理しやすい理由(わけ)

「ミラーの法則」を人的マネジメントに応用すれば限界は平均7人。±2のレンジがあるから、ミニマムが 5人、マックスが 9人となる。したがって、5人から 9人あたりが管理しやすい幅になる。これは管理する側、管理される側の状況によって左右される。

バラバラに散らばっていても、アタマのなかで把握し、とくに管理システムがなくても情報処理できる範囲内だというわけだ。

一人あたりの管理限界が平均 7人であるとすると、その管理下にある一人一人がさらに「7±2」の部下を抱えているとすると、7×7=49、これが平均値となる。7の二乗である。ほぼ 50人となる。±2のレンジがあるから、ミニマムは 5 の二乗の 25人、マックスは 9 の二乗の 81人 となる。

50人をすべて一人で管理するのはたいへんだが、一階層入れるとそれほど苦労することなく管理できることがこれで理解できるだろう。

実際、 50人程度は「目の届く範囲」である。物理的なスペースを共有していれば問題ないが、もちろんその場合に、一階層入るとトップに立つものの管理はラクになる。

あいだに入るのが二階層になると 7 の 3乗で 343、3階層入ると 7 の 4乗で 2,401 になる。理論的にはこのように、7 のn乗で組織を拡大することは可能だ。

伝達スピードはメールで同時一斉通報すれば差はでてこないが、階層が増えれば増えるほど、口頭での情報伝達の正確性が減少していく。文字化されるのは形式知だけなので、言外のニュアンスが伝わりにくい。これは上から下へのコミュニケーション、下から上へのコミュニケーションに共通している。

こう考えると、7 の二乗である 49人、すなわち50人前後が、管理しやすい目安となるといっていいのだろう。

50人前後というのは、実感としても妥当な数字ではないだろうか。



<ブログ内関連情報>

「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん)
・・マジックナンバー3



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2011年1月28日金曜日

sour grapes  負け惜しみ




 sour grapes とは、直訳すれば「酸っぱいブドウ」のことである。
 この表現がなぜ慣用表現で「負け惜しみ」を意味するのか?

 これは英語だけを眺めていてもわからない。

 「イソップの寓話」にある「キツネとブドウ」の寓話を思い出してみよう。

 キツネがよく実ったブドウを見つけるて食べようとするのだが、何度ジャンプしてもブドウには届かない。キツネは悔し紛れに負け惜しみの捨てゼリフを残して立ち去る。「どうせこんなブドウはすっぱくてまずいに決まっている。誰が食べるもんか、へん」。ざっとこんな内容のお話であった。

 「ウサギとカメ」もそうだが、古代ギリシアの「イソップの寓話」は、世界各地に拡がって大きな影響を与えている。英語では The Fox and the Grapes(キツネとブドウ) として有名な話である。

 じっさいに、このブドウが甘いか酸っぱいかは、キツネならずとも誰にもわからない。

 キツネの捨てゼリフは「負け惜しみ」という心理的な合理化機制だが、人生の知恵ではある。届かなかったことは仕方ない、こだわりすぎても時間のムダだ。

 英語表現としては、「サワーグレープス」sour grapes と複数形であることに注意しておきたい。






PS 今回あらたに記事冒頭に写真を一枚挿入した。ラ・フォンテーヌの『寓話』に描かれた Milo Winter によるイラストである。出典は wikipedia英語版。(2016年7月5日 記す)


<ブログ内関連記事>

ウサギとカメの寓話-卯年は跳躍の年だが油断大敵





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2011年1月27日木曜日

鹿児島産の「ぽんかん」を今年もいただいた




 鹿児島産の「ぽんかん」をいただいた。写真の左が「ぽんかん」、右は日本ではもっともポピュラーな「温州(うんしゅう)みかん」である。

 毎年いただいているのだが、今年は九州も雪が多いという報道を聞いていたので心配していたのだが、現時点では杞憂に終わったようだ。数年まえには「雪害のためほぼ全滅に近い被害を受けたために送ることができません」といった事態もあったし、雪が降ってつもった屋久島を歩いたこともある。

 「ぽんかん」は見た目はゴツゴツしているが、「温州みかん」とくらべるとはるかに甘い。ちょっと酸味がなさすぎるなあ、という気がしなくもないが、袋ごと食べられるのはありがたい。

 今週、たまたまJR駅の構内の催事で、同じく鹿児島の銘菓「かるかん饅頭」を見つけたので買ってきた。


 「かるかん」は、和菓子のなかでは一番すきなものの一つなので、見つけたらかならず買うことにしている。米粉に山芋をつかって粘りけのある衣に包まれたあんこ。はじめて食べたとき以来の大好物なのだ。

 「ぽんかん」も「かるかん」も、「かん」で韻を踏んでおり、しかも食べると甘いのは共通している。

 「ぽんかん」の「かん」は柑橘類の柑、「ぽんかん」を漢字で書けば椪柑、これじゃあまず読めない。柑の字が入っているからなんとなく想像はできるが。

 「かるかん」の「かん」は羊羹(ようかん)などの羹、「かるかん」を漢字で書けば軽羹、これもまた読めないな。軽い羊羹という意味だろうか、でも羊羹を読めないと始まらない。

 まあいずれにしろ、「かん」で終わる「ぽんかん」と「かるかん」は美味い。どちらも耳にしたとき、クチに出したときの響きが軽いのがいい。

 南国の甘味はわたしの好物である。






<ブログ内関連記事>

青いみかんは旬の果物-野菜に季節感がなくなったいまも果物には旬がある!

秋の夏みかん

イスラエル産スウィーティーの季節

"あきづき" という梨の新品種について

タイのホテルの朝食はオールシーズン「フルーツ三点セット」-タイのあれこれ(番外編)

万病に効く!-パパイヤ健康法のススメ




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2011年1月26日水曜日

書評 『漢文法基礎-本当にわかる漢文入門-』(二畳庵主人(=加地伸行)、講談社学術文庫、2010)


面白おかしく、しかし本質をズバリ突いた二畳庵先生の名講義が帰ってきた!

 二畳庵主人とは中国思想研究者の加地伸行先生のことだったのか!

 高校時代、予備校にはいかずにZ会(=増進会)の添削で大学受験勉強していた私にとって、ほんとうに読んで面白い漢文参考書がこのペンネーム二畳庵主人による『漢文法基礎』だったのだ。いまからすでに30年(?)近く昔のことである。

 まさに、「二畳庵主人リターンズ」! しかも、覆面を脱いだその人は、加地伸行。儒教研究者という学者の顔だけでなく、歯に衣着せず舌鋒鋭く論じる論客でもある加地氏が書いた文章であるといわれれば、そのとおりだなあと納得する。

 私が読んでいたのは本書の底本である『漢文法基礎』(新版)の前のエディションで、シンプルな装丁で、こんなに分厚くなかった。


 いま講談社学術版を手にして、思わず読み進めている自分を発見してしまう。

 なんせ面白いのだ。当時の語り口調がそのまま再現されているので、懐かしいという気持ちもあるが、それよりも講義を受けているというライブ感が素晴らしい。ちょっと引用してみようか・・・

 「この私、二畳庵先生は、大学で中国のことを専攻して以来、二十年あまり漢文で明け暮れてきた。・・(中略)・・こう言っては自慢めくが、高校漢文教育の経験豊富である。だから諸君の弱点もよーく知っておるぞ。・・(後略)・・」(初版1977年の「はじめに」より)。

 全篇こんな調子で面白おかしく、しかし本質をズバリ突いた内容の講義が続くわけだ。もちろん、漢文が読めたからといって、現在使われている中国語ができるわけにならないので、実用という観点からいったら得になるかどうかわからないが、この本は読んで絶対に損はないとはいっておこう。

 ホンモノの学者が書いた受験参考書は、こんなにも面白くてタメになるという良き見本である。
 小西甚一先生執筆の大学受験参考書のロングセラー『古文研究法』とともに、イチオシの漢文参考書としてすべての読者に勧めたい好著だ。

 受験勉強は、ほんとうは役に立つのである。


<初出情報>

■bk1書評「面白おかしく、しかし本質をズバリ突いた二畳庵先生の名講義が帰ってきた!」投稿掲載(2010年10月16日)
■amazon書評「面白おかしく、しかし本質をズバリ突いた二畳庵先生の名講義が帰ってきた!」投稿掲載(2010年10月16日)

*再録にあたって一部加筆修正した。



目 次

はじめに
第1部 基礎編
第2部 助字編
第3部 構文編
後記
索引

著者プロフィール

加地伸行(かじ・のぶゆき)

1936年大阪生まれ。京都大学文学部卒業。専攻は中国哲学史。大阪大学名誉教授。現在、立命館大学教授。白川静記念東洋文字文化研究所長。文学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<関連サイト>

Z会(ぜっとかい)
・・受験会の老舗 添削指導の通信教育機関



P.S. 「ポルノ漢文問題」について(2011年4月15日 追記)

 今回の「東北関東大震災」では、本棚の本の半分が飛び出して、被災地のようになってしまったが、崩れた本のなかから『漢文法基礎』(二畳庵主人、増進会出版社)の原本が出てきたのは、思いがけない掘り出し物であった!

 出てきたのは、昭和54年(1979年)5月15日の初版第4刷である(初版第1刷は昭和52年8月6日)。つまり初版ということである。

 第三部 問題篇の最後(七)がポルノ漢文問題となっている。P.267から282まで。第30問から第34問まで4問。出典は、『通鑑紀事本末』、『本朝文粋』、『肉蒲団』の 3つ。

 復刊された今回の文庫版には、なぜか収録されていない。理由は不明である。加地先生も本名を出したから、それともあの当時よりも時代環境が悪くなった?

 参考のために、原本の表紙(上掲)と第30問のページ(下掲)をスキャンしておいたので掲載しておこう。歴史的ドキュメントとしての意味はあろう。

 まあ、このような問題が大学入試に出題されることは、当時も現在もありえないので、著者一流のお遊びということか。いまよりも、まだまだ四年制大学を受験する女子が少なかった頃ではあった。




<ブログ内関連記事>

書評 『テレビ霊能者を斬る-メディアとスピリチュアルの蜜月-』(小池 靖、 ソフトバンク新書、2007)
・・「先祖供養」とはいったい何か?と題した文章のなかで、加地伸行の『儒教とは何か』(中公新書、1990)を取り上げている

「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷 展」(INAXギャラリー)に立ち寄ってきた・・「起きて半畳 寝て一畳」

味噌を肴に酒を飲む・・代表的古文の『徒然草』より

『伊勢物語』を21世紀に読む意味・・代表的古文





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2011年1月25日火曜日

書評 『巨象インドの憂鬱-赤の回廊と宗教テロル-』(武藤友治、出帆新社、2010)-複雑きわまりないインドを、インドが抱える内政・外交上の諸問題から考察



複雑きわまりないインドを、インドが抱える内政・外交上の諸問題から考察する好著

 今年80歳になるインド通の元外交官が書いた、インドが抱える最新の諸問題の解説をつうじて描く多様な顔をもつインド像

 「群盲象をなでる」という表現があるように、巨象インドの全体像を理解するのが容易なことではないのは、多宗教、多言語、多民族、さらにカーストがからまる、複雑きわまりない世界であるからだ。

 「目次」にあげられた項目をみるだけで、インドが抱える内政・外交上の諸問題が何であるかわかる。きわめて多岐にわたる問題群を項目ごとに切り出してみた、インド世界の断面図の数々である。

第1章 燎原の火-インド・イスラム原理主義
第2章 ヒンドゥー社会の終わりの始め
第3章 ブーメランのインド世俗主義
第4章 台頭するヒンドゥー原理主義 『サング・パリワール』
第5章 赤いタリバン-インド共産党毛沢東派(ナクサライト)
第6章 タミール・イーラム解放のトラ-インド系外国人(PIO)の難題
第7章 西部戦線異状あり-インド VS パキスタン
第8章 AK47の銃眼 カシミール
第9章 チャンドラ・ボースは生きている
第10章 ダブルスタンダードの印米原子力協力協定
第11章 南アジアの覇権主義者インド
第12章 経済至上主義の日印関係

 ここ数年マスコミでよく話題になる中流階級を中心とした、経済発展著しいインドという明るい側面だけでは見えてこない、インド社会の暗く、どす黒い現実が見えてくる。本書を全部とおして読んでみると、インドのかかえる多様性がもたらす複雑さのからみ具合が、著者が描く複眼的な視点をつうじて、おぼろげながらも見えてくる。

 何よりも根本問題は、カーストの最下層で苦しむ一般民衆の現実に焦点をあてることによって見えてくるのだが、これは経済学の観点からだけではとても解決不可能なものであることが本書を読むとよく理解できるのである。

 やや著者の個人的見解が強すぎるきらいがなくもないが、著者がいみじくもいうように、多様性に富み複雑きわまりないインド世界では、「自己主張することがインドで生きる最善の策」(P.206)なのである。

 また、国益重視の自己主張の姿勢を崩さないインドは、ある意味、中国と並んできわめてしたたかな存在であることは肝に銘じておくべきだろう。外交交渉におけるインドに粘り腰としたたかさ、これはビジネスに従事する者にとっても大いに傾聴すべきものがある。

 日本人一般の常識や通念とは異なる見解も多く披露されており、複雑きわまりないインド理解のための、またとない参考書になるであろう。
 明るい側面と暗い側面の双方をあわせみて、はじめてインドについて、おぼろげながらも理解の第一歩に近づいたといえるのである。


<初出情報>

■bk1書評「複雑きわまりないインドを、インドが抱える内政・外交上の諸問題から考察する好著」投稿掲載(2010年10月17日)
■amazon書評「複雑きわまりないインドを、インドが抱える内政・外交上の諸問題から考察する好著」投稿掲載(2010年10月17日)





著者プロフィール

武藤友治(むとう・ともじ)

現在、インド・ビジネス・センター・シニア・アドヴァイザー、日印協会理事。1930年生まれ。大阪外国語大学(インド語学科)を卒業後、外務省に入省、40年余の外交官生活を送り、在ボンベイ総領事を最後に退官。その後、マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員を経て現職。インド在勤中からインド政治のフォローアップに努め、退官後も精力的に現代インドの研究に取り組む。


総 目 次

第1章 燎原の火インド・イスラム原理主義
 点から面へインド・イスラム原理主義の増殖
 1億3,000万人のインド・イスラム教徒
 貧困と差別に喘ぐイスラムコミュニティー-サチャル委員会レポート
 テロに賛同するイスラム教徒知識層
 ムンバイ殲滅テロの総括
 ムンバイ殲滅テロの教訓
 死刑判決のイスラム教徒への心理的影響
第2章 ヒンドゥー社会の終わりの始め
 迷宮のカースト曼陀羅
 「ダリット」は消えない留保政策
 宗派の結界を超えて-『デラ・サチャ・サウダ』
 所属カーストを放擲する|グッジャール・カースト
 ヒンドゥー社会の終りの始め
第3章 ブーメランのインド世俗主義
 シーク教徒の警護官に狙撃される
 シーク教徒 3,000人虐殺
 世俗主義とは何か
 インド国家の一体性を保証する世俗主義
 宗教、宗派を寛容するインドの世俗主義
第4章 台頭するヒンドゥー原理主義『サング・パリワール』
 ヒンドゥー原理主義の政治結社
 台頭するヒンドゥー原理主義勢力
 BJP(インド人民党)の支柱RSS
 「インドは輝いていない」|BJP政権の敗北
 鳴りを潜めるヒンドゥー原理主義勢力
 マハトマ・ガンディー暗殺者ゴッゼの心境
 今は昔ティース・ジャンワーリー・マルグ
第5章 赤いタリバン-インド共産党毛沢東派(ナクサライト)
 中ソ対立を巡るインド共産党の分裂
 インドの延安・コルカタ(カルカッタ)
 西ベンガル・ナクサルバリの農民蜂起
 アンドラ・ブラデシュ州での部族民蜂起
 インド共産党毛沢東派の誕生
 拡大する赤の回廊
 解決されないインドの貧困
 『グリーン・ハント作戦』の惨敗
第6章 タミール・イーラム解放のトラ-インド系外国人(PIO)の難題
 在外インド人の三パターン
 スリランカのインド系タミール人|武力蜂起の背景
 LTTE に同情的な南インドの地域主義
 ハルキラート・シン将軍の嘆き
 スリランカ平和維持軍の失態
 国際社会の介入を嫌うインド
 地域主義のトゲ|LTTE問題
第7章 西部戦線異状ありインドVSパキスタン
 マハトマ・ガンディーを裏切る印パ分離・独立案
 分離・独立に賛同した国民会議派
 バングラデシュの独立-第三次印パ戦争の結末
 2004年の和解
 印パ憎悪の連鎖
 コラム・対立を煽る印パ間の格差増大
第8章 AK-47の銃眼カシミール
 核実験で浮上したカシミールの国際紛争化
 印パの分離、独立とカシミール藩王国の去就
 第一次印パ戦争の勃発と国連の調停
 第二次印パ戦争の勃発とソ連の調停
 第三次印パ戦争の勃発とインドの優位確立
 カシミールを手放せないインドの事情
 カシミール問題をめぐる印パ両国の本音
 カシミール問題解決のための提言
第9章 チャンドラ・ボースは生きている
 チャンドラ・ボースと大東亜共栄圏
 チャンドラ・ボース事故死の真相
 兄スレッシュ・ボース委員との再会
 インド政府の不可解な態度
第10章 ダブルスタンダードの印米原子力協力協定
 印米原子力協力のための三条件
 協定成立までの印米両国の動き
 印米原子力協力に「日本は反対しない」
 国益至上主義のインド
 コラム 元の取れる外交をすることの必要性
第11章 南アジアの覇権主義者インド
 インドの覇権主義-その歴史的要因
 覇権主義-インドの対内的、対外的姿勢に及ぼす影響
 南アジアの政治的変革とインドの覇権擁立
 インドの国防政策にみる覇権主義
 米国の対パ軍事援助とインドの反発
 先進国入りを願うインドの焦り
第12章 経済至上主義の日印関係
 日本の対印イメージ、インドの対日イメージ
 インド産鉄鉱石と日本の経済復興
 西を向きがちなインド
 第二次大戦とインドの独立
 シーソー・ゲームに似た日印関係
 経済優先の日印関係
 インド産鉄鉱石に見る経済関係の変遷
 インドの財政危機と日本の協力
 幅広い共通の基盤-日印関係に今こそ求められるもの
あとがき-『終着駅のない列車』に身を任せ走る思い



<ブログ内関連記事>

書評 『インド 宗教の坩堝(るつぼ)』(武藤友治、勉誠出版、2005)-戦後インドについての「生き字引的」存在が宗教を軸に描く「分断と統一のインド」


書評 『必生(ひっせい) 闘う仏教』(佐々井秀嶺、集英社新書、2010)
・・インド社会の底流にあるどす黒い現実に目を向ける

アッシジのフランチェスコ (4) マザーテレサとインド

「ナマステ・インディア2010」(代々木公園)にいってきた & 東京ジャーミイ(="代々木上原のモスク")見学記

書評 『飛雄馬、インドの星になれ!-インド版アニメ 『巨人の星』 誕生秘話-』(古賀義章、講談社、2013)-リメイクによって名作アニメを現代インドで再生!

「バンコク騒乱」について-アジアビジネスにおける「クライシス・マネジメント」(危機管理)の重要性

書評 『グローバル・ジハード』(松本光弘、講談社、2008)

ボリウッド映画 『ロボット』(2010年、インド)の 3時間完全版を見てきた-ハリウッド映画がバカバカしく見えてくる桁外れの快作だ!
・・2012年日本公開のタミル語映画。ボリウッドというインド社会の底流にあるどす黒い現実

自動小銃AK47の発明者カラシニコフ死す-「ソ連史」そのもののような開発者の人生と「製品」、そしてその「拡散」がもたらした負の側面

(2014年3月4日 情報追加と編集)
(2015年11月6日 情報追加)








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2011年1月24日月曜日

書評 『必生(ひっせい) 闘う仏教』(佐々井秀嶺、集英社新書、2010)-インド仏教復興の日本人指導者の生き様を見よ!




「煩悩は生きる力」と断言する、インド仏教復興の日本人指導者の生き様を見よ!

 インド仏教の指導者・佐々井秀嶺師が自ら赤裸々までに語り尽くした、己の生き様とインドの現実、そして生涯を賭している「闘う仏教」についての、熱いエネルギーの充満した一冊である。

 激しい情の人、行動の人。直情径行の人と言っても言い過ぎではない佐々井師は、若い頃は深い悩みにのたうちまわり、自殺未遂を繰り返しながらも、出家して求道の道を遍歴し、タイを経てついにはインド中部のナグプールにたどりつく。

 そこは、インド仏教復興の指導者アンベードカル博士にかかわる故地であった。

 本人は、瞑想や夢のなかでのお告げに導かれた結果だといっているが、これはまさに自らの内心の声に従い、きわめて強い内発的動機付けによったものであろう。
 
 自らの大いなる欲望は、すなわちインド仏教復興の使命として受取り、日々エネルギッシュに邁進する人生。これはまさに菩薩行(ぼさつぎょう)そのものというべきであろう。

 非暴力主義を貫き、インドに根強く残る不義不正と「闘う仏教」。これこそ、佐々井師の生き様そのものである。「慈悲に基づく大きな怒り」、これまた奇しくもダライラマ14世も同じことを言っている。社会正義を忘れた日本の仏教への大きなアンチテーゼといわねばなるまい。

 佐々井師の「闘う仏教」をとおして見えてくるのは、ここ数年マスコミでよく話題になる中流階級を中心とした、経済発展著しいインドという明るい側面ではなく、カーストの最下層で苦しむ一般民衆の現実である。
 仏教復興運動を快く思わないヒンドゥー至上主義者による、度重なる佐々井師の暗殺未遂など、インド社会の暗く、どす黒い現実が見えてくる。読者もまた、こうしたインドの現実から眼をそらすべきではないだろう。

 現在74歳の佐々井師はすでにインド国籍を取得しているが、昨年2009年には、日本を出てから44年ぶりにはじめて一時帰国した。その際の、率直な感想が第4章に語られているので、これもまたたいへん興味深い内容だ。

 「煩悩は生きる力」と断言する真の宗教者のコトバを、ココロとカラダで感得したい。「苦悩を離れて人生無し、悩み無き人生は、無」であると。ホンモノの宗教家とはどういう存在か、あくまでも文字をつうじた接触でしかないが、その気迫、その覚悟を、切れば血がほとばしるようなコトバをつうじて感じることができるのは幸せなことである。
 ぜひ一読を薦めたい。


<初出情報>

■bk1書評「「煩悩は生きる力」と断言する、インド仏教復興の日本人指導者の生き様を見よ!」投稿掲載(2010年10月16日)
■amazon書評「「煩悩は生きる力」と断言する、インド仏教復興の日本人指導者の生き様を見よ!」投稿掲載(2010年10月16日)





目 次

第1章 仏教との出会い
第2章 大楽金剛
 ナグプール
 アンベードカル
 不可触民の現実
 断食断水15日
 夜行列車の窓に
 大欲得清浄
 脱皮
 煩悩は生きる力
第3章 闘う仏教
 闘う仏教とは
 インド国籍を取る
 大菩提寺管理権奪還闘争
 アヨーディヤ事件
 マイノリティ・コミッション
 命を狙われる
 元が整えば末も整う
 南天鉄塔
 支援のあり方
第4章 必生(ひっせい)
 四十四年ぶりの帰国
 高尾の緑
 宗派根性
 僧侶を避ける小学生
 自殺大国日本
 十界を巡れ
 悩み無き人生は、無
 必生
 仏陀を背負いて社会の中へ
 立ち上がる仏教

おわりに(佐々井秀嶺)
佐々井秀嶺師略年譜
用語解説(志賀浄邦)
参考文献 


著者プロフィール

佐々井秀嶺(ささき・しゅうれい)

1935年、岡山県生まれ。インド仏教指導者。1988年インド国籍取得。ラジウ・ガンディー(当時の首相)からインド名、アーリア・ナーガールジュナを授与される。1960年、高尾山薬王院(真言宗智山派)にて得度。タイ留学を経て 1967年渡印。1968年、カースト差別に苦しむ人々を救う人権運動でもある、インド仏教復興運動に身を投じる。2003年にはインド政府少数者委員会仏教徒代表にも任命された(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<関連サイト>

インド仏教を率いる日本人僧侶の破天荒人生 1億人の仏教徒は、なぜ彼を慕うのか (東洋経済オンライン、2015年7月21日)
・・佐々井師は、2015年6月にも一時帰国。その際に行われたインタビュー

(2015年7月22日 項目新設)



<ブログ内関連記事>

書評 『男一代菩薩道-インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺-』(小林三旅、アスペクト、2008)
・・日本人の若手テレビ・ディレクターが密着取材した佐々井師の肉声

書評 『目覚めよ仏教!-ダライ・ラマとの対話-』 (上田紀行、NHKブックス、2007. 文庫版 2010)

「ダライラマ法王来日」(His Holiness the Dalai Lama's Public Teaching & Talk :パシフィコ横浜)にいってきた

アッシジのフランチェスコ (4) マザーテレサとインド

書評 『チェンジメーカー-社会起業家が世の中を変える-』(渡邊奈々、日本経済新聞社、2005)

『モチベーション3.0』(ダニエル・ピンク、大前研一訳、講談社、2010) は、「やる気=ドライブ」に着目した、「内発的動機付け」に基づく、21世紀の先進国型モチベーションのあり方を探求する本

成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 (総目次)
               






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2011年1月23日日曜日

書評 『仏教要語の基礎知識 新版』(水野弘元、春秋社、2006)-仏教を根本から捉えてみたい人には必携の「読む事典」




仏教を根本から捉えてみたい人には必携の「読む事典」


 「仏教"用"語」じゃないですよ、「仏教"要"語」です。

  ダジャレみたいなタイトルですが、中身はすごくまじめな、しかもすごく実用的な本です。

 著者は、原始仏教で使用されたパーリ語の世界的な権威で、本書では原始仏教から大乗仏教にいたるまでの仏教の全体を、「仏教要語」の解説という形をとって系統的に、わかりやすく解説してくれています。




 目次を紹介しておきましょう。

第1章 仏教
第2章 三宝
第3章 三科(五蘊・十二処・十八界)
第4章 三法印、四法印
第5章 縁起説
第6章 四諦説
第7章 修道論
第8章 煩悩論

 仏教って、実は精密に構築されたシステムなんだな、ということが読むとよくわかります。仏教は意外と現代的で、ロジカルだということも。

 本書は、現代人が仏教を"知的に"理解するために解説してくれるスグレ本といえるでしょう。

 全部最初から読んでもいいし、索引が完備されているので事典がわりに興味のあるとこだけ拾い読みするのもいいかもしれません。

 仏教を根本から捉えてみたい人には必携の「読む事典」といっていいでしょう。

 ぜひ一冊、手元に置いておきたい本です。


<初出情報>

■bk1書評「仏教を根本から捉えてみたい人には必携の「読む事典」」投稿掲載(2009年8月12日)

*私がもっているのは旧版の方である。新版との異同については詳らかにしない。





著者プロフィール

水野弘元(みずの・こうげん)

1901年佐賀県に生まれる。駒沢大学教授、東京大学教授、駒沢大学総長などを歴任。駒沢大学名誉教授。文学博士(東京大学)、インド・ナーランダ大学名誉文学博士。2006年逝去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものを増補)。



<書評への付記>

 この本の初版をはじめて手にしたのは、いまからもう15年以上前のことだと思う。

 最初は、『現代用語の基礎知識』をもじって、『仏教用語の基礎知識』というタイトルにしたのかと思い込んでいた。学者にしてはなかなかシャレのわかる人だ、と。

 しかし、あらためてよくタイトルを見ると、『仏教要語の基礎知識』とある。「用語」ではない、「要語」であった。

 いやあ、まったく当方の無知蒙昧ぶりが暴露されるような話であった。

 得度したわけでも、大学の仏教学科を卒業したわけでもないので、無知蒙昧ぶりも仕方あるまい、と・・・。



<追 記>

『仏教要語の基礎知識』の旧版をベースにした英語版が佼成出版会から出版されている。

Essentials of Buddhism: Basic Terminology and Concepts of Buddhist Philosophy and Practice( Kogen Mizuno, translated by Gaynor Sekimori, with a forward by J. W. De Jong, Kosei Publishing Co, 1997)

英語でブディズムを考えてみたい人には最適の「読む仏教事典英語版」として推奨したい。(2013年10月31日 追記)



書評 『こころを学ぶ-ダライ・ラマ法王 仏教者と科学者の対話-』(ダライ・ラマ法王他、講談社、2013)-日本の科学者たちとの対話で学ぶ仏教と科学

"粘菌" 生活-南方熊楠について読む-
・・真言密教的世界観における「因果」と、偶然による「縁起」

「無計画の計画」?
・・量子力学的世界観と仏教

(2014年8月20日 項目新設)





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2011年1月22日土曜日

書評 『経営管理』(野中郁次郎、日経文庫、1985)-日本の経営学を世界レベルにした経営学者・野中郁次郎の知られざるロングセラーの名著




いまやマネジメント入門の古典的位置づけ。「知識経営学」で日本発の理論を世界に向けて切り拓いた経営学者・野中郁次郎の知られざるロングセラーの名著

 経営学を知らない人から、まず最初に1冊だけ読むなら何がいいか、といわれれば、私はいつもこの本を推薦しています。

 なぜなら、すべての人にとって経営は「経営学」である必要はなく、重要なのは経営というものを知的に理解して、日々実践していくことに意味があるからです。

 著者のその後の活躍(現在では、”ナレッジ・マネジメント”の大家として世界的に著名)を考えると地味な本ではありますが、本当に重要なことをコンパクトにまとめた本で、何度も繰り返して読むに耐えます。

 「計画し」「リードし」「統合する」ことが経営管理の要(かなめ)であると。

 著者が単なる学者でなく、サラリーマン生活9年のキャリアが随所ににじみ出ていると筆者には感じられることも、本書を推薦する理由です。


<初出情報>

■bk1書評「サラリーマン生活9年のキャリアが随所ににじみ出ている経営入門書−フレッシュマン諸君はまずこの本を読みなさい」投稿掲載(2001年3月28日)





目 次

まえがき
序章 経営管理へのアプローチ
 1. 経営管理と組織論のマリッジ
 2. 状況適応の経営管理
 3. 経営管理の理論志向
第1章 組織構造の理解
 1. クール・アプローチ-構造アプローチ
 2. 組織構造の合理性
 3. 官僚制の順機能と逆機能
 4. 官僚制と状況要因
 5. 組織設計の実際-事業部制、PM、マトリックス
第2章 個人と集団の理解
 1. ウォーム・アプローチ一動機づけアプローチ
 2. ホーソン工場実験
 3. 個人の動機づけ理論
 4. 集団主義の人間関係論
第3章 計画する
 1. 戦略策定プロセス
 2. 戦略的インテリジェンス・システム
 3. エクスペリエンス・カーブ理論
 4. 至上戦略としてのマーケット・シェアの拡大
 5. 低マーケット・シェア企業の戦略
 6. プロダクト・ポートフェリオ・マネジメント
 7. GEアプローチ
 8. 戦略策定と環境要因
第4章 リードする
 1. リーダーシップ一「タスク」と「人間」
 2. リーダーシップと状況要因
 3. 制度的リーダーシップ
第5章 統合する
 1. 組織の「分化」と「統合」
 2. コンフリクト・マネジメント
第6章 経営管理の複合バランス
 1. 状況適応理論のアプローチ
 2. マネジリアル・アプローチ
 3. 複合バランスと日本的経営
終章 経営管理を学ぶ人々へ
 1. 経営管理の体系的な理解
 2. 経営管理に大切な視点
参考文献
索引


著者プロフィール

野中郁次郎(のなか・いくじろう)

一橋大学名誉教授、クレアモント大学ドラッカースクール名誉スカラー、カリフォルニア大学ゼロックス知識学特別名誉教授。1935年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。富士電機製造勤務の後、カリフォルニア大学経営大学院(バークレー校)にて Ph.D 取得。南山大学、防衛大学校、北陸先端科学大学院大学、一橋大学大学院国際企業戦略研究科を経て現職。2008年の「世界で最も影響力のあるビジネス思想家20」(ウォール・ストリート・ジャーナル紙)に選ばれる(最新著書の略歴から転載)。



<書評への付記>

 私はこの本を出版された年の1985年に読んだ。いまから25年以上前、四半世紀も前のことだ。

 大学時代、社会学部にいて西洋中世史などやっていた人間が、いきなり金融系のコンサルティングファームに入社することになって、同じ大学の商学部経営学科にいた親友に、何かいい入門書はないか?と尋ねて推薦してもらったものだ。

 そのときに推薦してもらった二冊のうちの一冊だが、たしかにまったくマネジメントのなんたるかを知らない人間が読んでもよくわかる内容だった。・・・・

 「経営管理」とは、M.B.A. の B.A. に該当するものだ。B.A. とは、Business Administration の略である。野中郁次郎氏自身は、カリフォルニア大学バークレー校(U.C.Berkley)でM.B.A.を取得している。その後、博士号も取得している。

 この書評はいまから10年前(!)に、創業間もないネット書店bk1に投稿したものだ。bk1も昨年創業10年を迎えて目出度い限りである。どんな会社であれ、10年間生き続けたということは賞賛に値する。まsない「継続はチカラなり」だ。

 ネット書店は10年前には雨後の筍のように立ち上げられたが、いまでも生き残っているものはどれだけあるのだろうか。
 現在は amazon 一人勝ちのように言われかねない状況だが、必ずしもそうではない。書評機能を充実させている点においては、bk1 は amazon に勝るとも劣らないものがある。

 先に記した親友 S君はいまやもうこの世にいない。M.B.A.留学ということを、そんなことを考えたことすらない私に吹き込んでくれたのも S君だった。思い出となってしまった。

 著者の野中郁次郎氏も、いまや一橋大学名誉教授。思えば、1980年代後半から90年代にかけてが、日本発の経営理論の黄金時代であった。サル学とならんで日本発の学問であったナレッジマネジメント。いまではすかりシステム屋さんの商売道具と化してしまっているが・・・。

 野中教授の話も哲学的な話が多すぎて、現在では浮世離れしてしまっているようにも聞こえなくもない。

 なんだか感慨にふけってしまうものがある。

 これから随時、読むべき経営書を紹介していたいと思う。本というものは、新しければいいというものではない。ドラッカーも含めて「温故知新」と受け止めるべきか。


<ブログ内関連記事>

書評 『経営の教科書-社長が押さえておくべき30の基礎科目-』(新 将命、ダイヤモンド社、2009)
・・経営学者が書いた「経営学の教科書」ではない、経営者が書いた「経営の教科書」。ものの考えを整理し、深く考えるために、経営学者が書いた経営書が不要とまでは、私は言うつもりはない。
 
書評 『馬の世界史』(本村凌二、中公文庫、2013、講談社現代新書 2001)-ユーラシア大陸を馬で東西に駆け巡る壮大な人類史
・・「英国ではイタリアの馬術書の影響が深まるにつれて management(マネジメント)というコトバが生まれたという事実だ。英語の management はイタリア語の maneggiare から派生したそうだが、もともとはラテン語の manus(手)に由来するという。management とは馬を手で扱うことを意味したのだそうだ。経営は馬の世話から始まったのだ!」

(2014年5月11日 情報追加)




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2011年1月21日金曜日

どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるものだ



 先日のことだが、東京都内で行われた「シンプルプレゼンのテクニックセミナー」の公開収録に参加した。これから出版予定の本の付録となるの DVD の収録を兼ねたものである。

 セミナーは、ガー・レイノルズ氏による、アップル社のスティーブ・ジョブズ流のプレゼンテーションのテクニックと禅のシンプルさを癒合したということがウリである。レイノルズ氏は日本で日本企業に勤務した経験ももち、日本語も堪能であるが、この日はほぼすべて英語で行われた。

 プレゼンというよりも、ほとんどワンマンショーといってもいいような、構成がしっかりとした、よく練れたセミナーで、よく準備もされていた2時間のセミナーであった。セミナーもエンターテインメントの一種だなと感じさせるものであった。

 早口でよどみのない英語で終始していたが、プレゼン資料とのフィットも問題ない。途中何回か隣に座っているひととワークショップらしきものもセッションとして行う。2時間の長丁場とはいえ、最初から最後まで眠っているヒマはない。

 セミナーのなかでレイノズルズ氏が触れていたが、プレゼンにおいて次の 6つの法則が重要だという。

1.  単純明快である (Simple)
2.  意外性がある (Unexpected)
3. 具体的である (Concrete)
4. 信頼性がある (Credible)
5. 感情に訴える (Emotional)
6. 物語性 (Story)

 頭文字をつなげて 「SUCCESs(サクセス)の法則」というのだが、まあ、うまくできているといえばそのとおりだ。まったく異議はない。

 『アイデアのちから』(チップ・ハース/ ダン・ハース、飯岡美紀訳、日経BP社、2008)に紹介されているものだ。

 私はこの「法則」の存在そのものは知らなかったが、この「法則」を踏まえてプレゼンを行ってきた。今後はより意識してプレゼンを行いたいと思う。

 アップル社の創業者スティーブ・ジョブズ流のプレゼンは、まさにこの法則にあてはまるものだ。真の意味でカリスマ的なジョブズのプレゼンは、ほとんど神業(かみわざ)に近い。


スゴすぎるプレゼンも問題があるのではないか?

 だがちょっと待てよ、ふと冷静になって考えてみる。

 誰もがこんなすばらしいプレゼンができるわけないし、その場では興奮の渦に巻き込まれてしまうが、時間がたつとそのときの興奮は冷めてくるものだ。そのとき、立ち止まって考えてみることが必要だろう。

 何ごとも「過ぎたるは及ばざるがごとし」という孔子のコトバが想起されてくる。
 「過ぎたるプレゼンは及ばざるがごとし」???

 テレビショッピングではなぜ「ジャパネットたかた」が売れるのかも同時に考えてみたい。

 高田(たかた)氏のしゃべりは、正直いって流暢とはほど遠い、むしろ訥弁に近い長崎弁まじりのしゃべりは、一見したところなぜこの人のしゃべりで人はものを買うのか、と思ってしまう。

 だが、見るからに誠実そうな印象を与えていることもまた確かである。

 テレビショピングがたかた氏とは反対に、情熱的に、饒舌にしゃべりすぎるものが多くて、ウサン臭いと本能的に感じてしまう視聴者が少なくないことを示しているのではないか?

 雄弁必ずしも金(キン)ならず、である。

 たかた氏の事例が示しているものは、セオリーに従うよりも、「自分」の個性をそのまま出したほうが訴求力があるということではなかろうか。

 よく言うじゃないですか、ほんとうにクルマを売っているセールスマンは、自分は饒舌(じょうぜつ)にしゃべることなく、ひたすらお客さんの言うことに耳を傾け、頷いている時間のほうが長い、と。

 全ての人がスティーブ・ジョブズになれるわけではない。また、なる必要もない。あなたは、あなたのままでいいのだ。ただし、最低限のルールを守る必要があるのことは言うまでもない。


どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるものだ

 「自分」を全面的に出す。
 「自分」の体験をからめて話をする。

 これはけっして自慢話ではない。
 あくまでも「自分」というフィルターをつうじた話のほうが、相手につたわりやすいからだ。わたしといいう「自分」のフィルターを通過した話が、あなたという「自分」のフィルターを通過する。

 そこに「共感」があれば、話は伝わるし、「共感」がなければ、その話はスルー(=素通り)してしまうだけだ。

 「自分」を出す際には、自分のプロフィールもできるだけ公開したほうがいい。人前で話すときには当然おことながら「匿名」ということはないだろうが、ツイッターやブログでも「実名」を出して、簡単なプロフィールを明らかにしたほうが、文章を読む側の信用度は高い。

 また、「自分」が何者であるかを示すことによって、自分の話の「限界」も示すことができる。どんな話であれ、「自分」の話は主観的なものであり、同じ現象を見て叙述しても、ものの見方や表現力の違いによって、話す内容や書いた内容には当然のことながらバイアスが存在するからだ。

 すべてのケースにあてはまるかどうかは、話し手ではなく聞き手の側が、自分に照らし会わせて判断すべきことだからだ。聞き手の側に受け入れる素地があれば共感するし、そうでなかったら居眠りしてしまうかもしれない・・(ほんとうに眠いときもある)。

 ここに書いたことは、ブランド力のある有名人の発言にもあてはまる。すべては受け取り側の、話し手に対する「共感の度合い」で決まってくる。全面的に信用する人、発言ごとに共感する人、やや懐疑的に受け取る人、全面否定する人、無関心な人。受取側で反応はさまざまだ。

 またいわゆる「ポジショントーク」についても言えることだ。ポジショントークとは、ある特定の銘柄を推奨する投資評論家によく観察されるもので、自分の有利な方向に導こうとする姿勢があまりにもチラつく話のことである。

 だが、この場合も、誰の発言であるかは「実名」でわかるので、投資の判断はあくまでも、受け手がその発言をどう使うことにかかっている。よほど酷い内容でない限り、受け手の自己責任の要素は大きい。

 「自分」を出し過ぎると、聞く側が引いてしまったり、ウンザリしてしまうことは多々ある。ついついしゃべりすぎてしまいがちな人にありがちなミステークだ。 だが、どんな発言であれバイアスから逃れることはできないとはいえ、これまた「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。

 要は、なにごともバランスであろう。


「実名」 か 「匿名」か、それが問題だ!

 「実名」 か 「匿名」か、それが問題だ。これはネット世界ではきわめて重要な問題である。米国とくらべて匿名での書き込みの多い日本の状況について、よく言及されることである。
  
 しかし、答えはすでに出ている。

 「匿名」よりも「実名」のほうがいいのは、ここまで説明してきたことで明らかだろう。どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるからだ。

 ペンネームで活動している人は、ペンネーム自体がアイデンティティになっているので、ベストではないがセカンドベストとは言えるだろう。ここでいうペンネネームとは、ネット上のハンドルネームのことではない。

 もちろん「匿名」のメリットは大きいことは否定しない。この頃、日本全国で流行るタイガーマスクの贈り物ではないが、どうしても覆面(マスク)でなければでいない行為もある。
 売名行為と受け取られないためには「匿名」は必要だ。また、最近世の中をゆるがせているウィキリークスなども、情報提供者の安全が守られなければならないので、「匿名」は不可欠であろう。

 ただ、この国では、ネット世界での「匿名」による、やや責任を欠いた放言が多いような気がしなくもない。

 この点、最近日本でも参加者が増え始めた世界最大の SNS「フェイスブック」においては、「実名」が原則であり、プロフィールと顔写真の公開も強く推奨されている。

 日本語に直訳すれば「顔本」となるフェイスブックは、あくまでも「実名」によるコミュニケーションを推奨するものだ。「実名」で「自分」を出しているからこそ、社交(ソーシャル)においては、信頼度が増すわけだ。

 フェイスブックの発展は、「実名」公表をためらうマインドブロックをいかに破るかにある。期待しているのは就活の大学生、それに独立予備軍だ。日本が個人中心の社会になるためには「実名」化が大きなカギになる。

 日本も早く「実名」社会になることを望みたいものだ。自立して、自律した個人を基礎とする社会の実現には、「実名」化が不可欠だと思うからだ。ただし、プライバシー情報のセキュリティには十分工夫することが必要である。

 フェイスブックの創始者マーク・ザッカーバーグは I'm trying to make the world a more open place. と言っている。日本が「より開かれた世界」になるためには「実名」化が不可欠だ。

 どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるものだ。話が面白いかつまらないかは相手が決めるものだし、その相手との関係性で決まってくることでもある。自分が面白いと思ってもウケないこともあるし、その逆もまたある。

 だからこそ、できるだけ「実名」も「顔写真」も「プロフィール」も公開して、「自分」を全面に出したほうが、人と人との「つながり」も信頼性をもとにした実り多きものとなるだろう。さらに多くの人が発言に耳を傾けるようになるだろう。

 すべての人が、スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグのような超有名人ではないし、目指す必要もない。等身大の、身の丈にあった「自分」に「自信」をもって生きていけばよいのである。
 
 「自分」は「自信」と裏腹の関係にある。「自信」とは「自分」が「自分」を「信じる」ということだ。「自分」が「自分」を「信頼する」ということだ。英語でいうとセルフ・コンフィデンス。

 少しの「勇気」をもって「自分」を出すことで、同時に「自信」も深めていってほしいと思う。

 最初の一歩を踏み出すかどうかは、あなたという「自分」の「意識」次第である。



<関連サイト>

【セミナー維新 志縁塾】(1)研修はエンターテインメントだ・・志縁塾の大谷由里子氏の特集。吉本興業の大卒女子入社一期生。「研修には笑いが重要、講師は個性を消すなが持論」というのには「共感」する。


<ブログ内関連記事>

■「地頭の良さ」は「自分」を知って深掘りすることから始まる(シリーズ)

「地頭」(ぢあたま)について考える (1) 「地頭が良い」とはどういうことか?

「地頭」(ぢあたま)について考える (2) 「地頭の良さ」は勉強では鍛えられない

書評 『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』(ヒクソン・グレイシー、ダイヤモンド社、2010)-「地頭」(ぢあたま)の良さは「自分」を強く意識することから生まれてくる

「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)-「自分」を軸に据えて思考し行動するということ

「地頭」(ぢあたま)を鍛えるには、まず「自分」を発見すること。そのためには「履歴書」の更新が役に立つ

思考と行動の主体はあくまでも「自分」である。そして「自分」はつねに変化の相のもとにある

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは

『サリンとおはぎ-扉は開くまで叩き続けろ-』(さかはら あつし、講談社、2010)-「自分史」で自分を発見するということ

I am part of all that I have met (Lord Tennyson) と 「われ以外みな師なり」(吉川英治)

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)





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end

2011年1月20日木曜日

カラダで覚えるということ-「型」の習得は創造プロセスの第一フェーズである


模倣なくして独創なし。「型」の習得は創造プロセスの第一フェーズである

 「それは型にはまった考えだ」。
 「型を打ち破れ!」

 若者に対してこのように叱咤したり、檄(げき)をとばす人はむかしから多い。とくに「日本に元気を取り戻したい」という熱い思いで語る人には多いような気がする。

 私自身も「型」にはまった考えや行動は好きではない。

 だが、「型」を身につけなければ、「型」を打ち破ったり、「型」を超えることがはできない。これは大学時代に合気道に出会って、合気道に打ち込んだ日々を送りながら、文字通りカラダをつうじて学んだことだ。合気道の稽古をつうじて、幼いながらに自分のアタマで考えていたことだ。

 子ども時代はさておき、大人になってから「型」を身につけるのは、意外とむずかしい。素直に言われたことをやるという年齢ではないからだ。なぜ「型」を身につける必要があるのか、その理由の説明が欲しいのである。だが、合理的な説明がなされることはない。

 合気道も含めて日本の武道、いや日本の芸事(げいごと)全般に共通するのは、まず最初に「型」の徹底的な習得ありき、ということである。山伏修行や座禅修行なども同様である。まず形から入る。「型」を身につけることからすべてが始まる。

 とにかく初心者は徹底的に師匠や師範の真似をする、内弟子の場合は一挙手一投足まで真似をする、模倣する。なぜそうしなければならないかの説明はない。ただひたすら「型」を覚えよと繰り返すのみだ。

 「型」は「スタイル」といいかえることも可能だろう。

 「スタイル」も誰かお手本を徹底的に真似ることから始めなければ、自分の「スタイル」を創って確立するにはいたらない。

 「自分のスタイルはまったく自分でゼロから創ったもので、人の真似ではない」と言う人もいる。しかし、それは誰かのスタイルの剽窃(ひょうせつ)ではない、という意味ならそのまま受け取ることはできるだろう。

 だが、まったくのゼロから創り上げたということはありえない。言っている本人が忘れてしまっているだけで、いちばん最初は無意識のうちにだれかのスタイルを真似ているハズである。かならず誰かの真似から入っているはずだが、それはけっして不名誉なことでもなんでもない。真似をした対象を、師匠と言いうるかだけの違いだろう。

 「型」であれ「スタイル」であれ、最初のプロトタイプはかならず誰かの真似をして形成している。真似という表現に難があれば模倣でもいい。最初は憧れの対象を模倣して、自分のなかにプロトタイプをつくりあげる段階だ。
 
 徹底的に真似ることによって自分のなかにできあがったプロトタイプをどう自分流に発展させていくか、あるいは崩していくか、ここからがのスタイル創造プロセスの代にフェーズとなる。

 試行錯誤のプロセスを経て、ようやく自分のスタイルができあがり固定していく。

 だから、「型」を身につけるのは、実は創造的なプロセスの第一フェーズなのである。模倣なくして発展なし

 西欧社会でも、カトリック教徒のあいだで読まれてきた本に、トマス・ア・ケンピスという15世紀ドイツの修道士が書いた『キリストのまねび』というものがある。原題は Imitatio Chrisiti、明治時代の翻訳では内村鑑三は『イミタチオ・クリスティ』とそのままカナに移している。
 現在は『キリストにならいて』(トマス・ア ケンピス、大沢 章/呉 茂一訳、岩波文庫、1960) というタイトルで日本では流通している。

 「まねび」とは「真似ぶ」という動詞の名詞形だ。よくいわれるように「学び」とは「真似び」でもある。キリスト教徒の理想とは、徹底的にイエス・キリストを真似て、そのものに成りきって生きることを究極の理想としているわけだ。
 
 西欧社会の底流に、こうした「没個性」とも見えるものがあることは知っておいて損はない。

 西欧社会では、近代に入って「個人」が確立したが、その近代社会に成立したイエズス会では、創始者のイグナチウス・デ・ロヨラが確立した『霊操』という観想修行のメソッドをマニュアル化したものがある。『霊操』とは英語でいえば spiritual exercise のこと、カラダのエクササイズの「体操」に対する「霊操」である。


 『霊操』は、キリストのイメージを観想するという、いわばイメージトレーニングの一種であるが、身体性をともなった「型」といってもいいだろう。

 イメージを想起する訓練は、徹底的にイメージを消していく禅仏教の対極にあるものだが、「型」を重視する点においては共通性をもつ。イメージを想起する点においては真言密教の阿字観に似ているのかもしれない。

 『霊操』(イグナチオ・デ・ロヨラ、門脇佳吉訳、岩波文庫、1995)として出版されているので入手は容易である。

 観想する、瞑想する環境を設定することから始まる。まず形からである。外形から入るのである。

 旧約聖書の『伝道の書』には「陽の下に新しきものなし」という箴言がある。

 「新しきもの」はすべて過去の模倣か、過去の要素の新たな組み替えである。しかし、そこにこそ独創性が発揮される余地がある。

 まずは「型」を徹底的に身につけること、しかもアタマではなく、カラダにしっかりと覚え込ませること、この意味と重要性、そしてそれが必ずしも容易ではないことについては、私自身の合気道習得の経験を題材に書いてみよう。


合気道における「型」の習得

 高校時代に体育の必修授業で柔道と剣道はすでにやっていたが、合気道は大学に入ってからはじめて取り組んだ。

 武道に限らず日本の芸事(げいごと)においては、「型から入って型を超える」というのが、伝統となっている。独創性を発揮する前に、まず「型」から入るのである。いや、「型」から入らなければならないのだ。
  
 合気道において「型」とは、「技」(ワザ)といいかえてもいい。基本技とその応用をあわせれば数千種類にも及ぶとされている。

 達人の域に達しなければそこまで習得はできないが、基本技さえ完全に身につけば、応用技はその延長線上と組み合わせにあるので、基本技の習得ほど時間はかからない。だが、そこまで打ち込んで稽古する時間がとれないだけである。

 だが、基本技はきわめて難しい。なぜなら、武道の作法は、一般的な現代人の生活とはかけ離れたものとなってしまっているからだ。

 私も含めて現代人はイスの生活をし、タタミよりもフローリングの床を好む。正座はおろか胡座(あぐら)さえ日常生活ではほとんどない。ましてや膝行(しっこう)など現代人の生活に登場することは皆無である。膝行とは江戸時代の殿中の歩き方。左右のひざを使って前後左右に動く基本動作だ。

 だからこういった「基本動作」から、あらためて身につけなければならない。

 なによりも重要なのは「受け身」である。武道は基本的に一対一を基本としているので、スキューバ・ダイビングのバディシステムではないが、取りと受けの二人組みがすべての基本となる。
 
 合気道では「受け身三年」といわれている。それぐらい稽古を積めば、どんな投げ方をされても受け身がとれるようになるということだ。
 受け身がとれなければ命にかかわる。アタマを打って死ぬ自己は毎年発生している。
 それだけでない、相手が受け身が取れるのであれば、技をかける側からも安心して技をかけることができる。

 そしてこの受け身が、日本人男子が高校時代に必修の柔道とは根本的に違っているのだ。受け身だけではない、足の運び方、投げ技も含めてすべて基本動作が柔道とは異なる。
 合気道の足捌(さば)きは基本的に剣道のものである。これは合気道の発生について知れば自ずからわかることだ。


一度カラダに身についた動きを捨て去るのは難しい-大人の男性にくらべて大人の女性のほうが合気道習得がスムーズにいく理由(わけ)

 初心者にとって何よりも難しいのが、柔道の基本動作を捨て去り、合気道の基本動作を身につけることである。

 高校時代に柔道が必修ではない女子のほうが、合気道習得が早いのはそのためだ。男子の場合は、どうしても柔道技が抜けきれずに苦労することになる。私は柔道では黒帯はとらなかったが、「柔よく剛を制す」というのが楽しいので、剣道とくらべて柔道は好きだった。

 従来から身についている基本動作を捨て去り、新たな基本動作を身につける。

 これは「ラーニング」(learning:学び)に対して、「アンラーニング」(unlearning:学んだことから脱する)といわれる。「学習棄却」などとい難しい訳語もあるが、「学び捨て」といっていいかもしれない。一度ついた悪いクセ(・・あくまでも合気道の立場からみて)を捨てて正しいクセを身につけるのは思ったよりも難しい。

 日本人でも柔道の動きと合気道の動きはまったく違うので、18歳で合気道を始めたときいちばん困ったのは、柔道のクセがなかなか抜けずに、合気道らしいなめらかな動きが身につきにくかったことだ。

 これは日本舞踊やダンス、このほかスポーツ全般についてあてはまることだろう。たとえば、ゴルフやテニスでも悪いクセがいったんついてしまうと、なかなか正しい打ち方に変更するのが難しくなってしまう。

 まっさらな状態であれば、素直にすいすいと染みこんでくる。

 カラダで覚えたことは、カラダに覚え込ましたことは、なかなか忘れないのだが、逆に忘れようと思ってもカラダが思うように言うことが聞かないのだ。

 
カラダで覚えることを脳科学の観点から見る

 カラダで覚えるということを、ちょっと別の角度から見てみよう、脳科学の観点である。
 
 カラダで覚える情報のことを「手続き的記憶」という。立ったり座ったり、歩いたり走ったりすることは、アタマで考えて記憶したのではない。コトバを介在することなく、カラダで身につけた「記憶」である。

 身体がかかわるが、コトバを介在させない記憶。キーボードをたたくなど、さまざまな技能(スキル)もこの「手続き的記憶」の一つである。アタアではなカラダに覚え込ませなければ、パソコンの操作さえ大変なものになってしまう。

 カラダの動きをイメージとして捉えて、動きを模倣し、カラダに覚えさせた記憶を再現し、その反復をつじて定着させる。

 これはイヌやネコを観察していれば理解できることだ。コトバをもたないが、一定以上の知性をもつイヌやネコは、子ども時代に母親の行動をひたすら真似ることによって学習している。

 反復訓練する。インターバルをおいて反復することが記憶の定着につながる。筋肉や臓器のもつ「廃用性萎縮の原則」もかかわる領域。使えば機能は発達するし、使わなければ機能は退化する。

 痛い想いをする。これは「エピソード記憶」としてさらに記憶を強化することにるながる。

 箸をキチンと持てない子ども、卵の殻を割れない子ども、魚の骨をとれない子ども・・・。これらはすでに 30年くらい前から目立ってきた現象だ。

 まだ「可塑性」(かそせい:変形しやすい性質のこと)の高かった子ども時代にキチンとしつけをうけなかったためである。叱られて直されるというしつけを子ども時代に受けていないためである。子ども時代に痛い想いをして身につけたしつけは、大人になっても変わらない。

 カラダに覚え込ませる礼儀作法やしつけは、子ども時代にきびしくやっておかないと、大人になってから恥をかくことになる。

 日本だけでなく、たとえばタイでも礼儀作法のコードは厳密に規定されており、子どもの頃からワイ(合掌)を中心とした礼儀作法が厳しくしつけられる。これは聞いた話だが、子どもときにタイ人社会を離れて外国に移住したタイ人のなかには、タイの礼儀作法が身についておらず、大人になってから恥をかくだけでなく、タイ人社会からまともな扱いを受けなくなってしまうという。

 外国人がワイ(合掌)のまねごとをしても微笑んでもらえるが、礼儀作法を知らないタイ人にはそのような対応はない。これは日本人社会でも同じことだろう。

 楽器の演奏やスポーツも、子ども時代の早い時期にはじめたほうがいいことは常識である。ピアノでもヴァイオリンでも何歳から始めたかということで、ほぼすべてが決まってしまうのは厳然たる事実である。

 歌舞伎などの古典芸能も、子どものうちから所作を覚えないと、大人になってから身につけるのは難しい。

 しかし、大人になってから、あらたに「型」を身につけることは不可能ではない

 大人が「型」を身につけるのが難しいのは、先にも述べたように、大人になってからカラダで覚える「手続き記憶」は意識的な反復訓練が不可欠なためである。また、身についた悪いクセをいったん「アンラーニング」(学び捨てる)することが、これまたなかなか強い意思を必要とすることである。

 子どもと比べると難易度が高いが、強い意志さえあれば不可能ではない。このように言うこともできるだろう。


 以上、さまざまな角度から「型」の習得について見てきたが、要は模倣すべき対象を選び、その動きを模倣し、反復訓練によってカラダに覚え込ませることが、「型」を破り、「型」を超えるための前提となるのであある。

 独創性を発揮する前に、まず「型」から入るのである。「型」から入ってもいいじゃないか、というのではなく、そもそも「型」は身につけなくてはいけないのだ。

 「型」の重要性については、グローバル時代であるからこそ、アイデンティティ確立の意味も含めて、日本人としては意識したいものである。





P.S. この投稿で通算 600本目となった。あと400本で 1,000本になる。
 ブログを書き始めて3年目、今年中に1,000本は難しかもしれないが、地道に愚直に続けていきたい。
 鍛錬とは、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とする」(宮本武蔵)、である。







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「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん)
・・何ごとも「継続はチカラなり」。3日、100日(≒3ヶ月)、1,000日(≒3年)。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とする」(宮本武蔵)

「学(まな)ぶとは真似(まね)ぶなり」-ノラネコ母子に学ぶ「学び」の本質について

書評 『独学の精神』(前田英樹、ちくま新書、2009)-「日本人」として生まれた者が「人」として生きるとはどういうことか
・・独学は先人の跡を真似ぶことからしか始まらない

書評 『狂言サイボーグ』(野村萬斎、文春文庫、2013 単行本初版 2001)-「型」が人をつくる。「型」こそ日本人にとっての「教養」だ!

書評 『模倣の経営学-偉大なる会社はマネから生まれる-』(井上達彦、日経BP社、2012)-「学ぶとは真似ぶなり」とは、個人でも会社でも同じこと

What if ~ ? から始まる論理的思考の「型」を身につけ、そして自分なりの「型」をつくること-『慧眼-問題を解決する思考-』(大前研一、ビジネスブレークスルー出版、2010)
・・思考もまた「型」から入るのが王道である。考える自信がつく。


書評 『正座と日本人』(丁 宗鐵、講談社、2009)

合気道・道歌-『合気神髄』より抜粋

クレド(Credo)とは
・・使徒信条(しとしんじょう)を、ロザリオを手繰りながら繰り返し朗誦させることで、教義をたたき込むカトリック教会のテクニックについてふれている。

(2016年1月3日 情報追加)
     




(2012年7月3日発売の拙著です)








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2011年1月19日水曜日

書評 『絶対の自信をつくる 3分間トレーニング』(松尾昭仁、あさ出版、2011)




形から入って自信をつける-これは武道の「型」にもつうじるきわめて実践的な訓練方法だ

 この本に紹介されている「3分間トレーニング法」は、現在40歳台後半の私自身も、20歳台前半以来すべて実地に試して身につけたものばかりだ。

 だから著者の言うことには全面的に賛成だ。

 武道に限らず日本の芸事(げいごと)においては、「型から入って型を超える」というのが、伝統となっている。
 独創性を発揮する前に、まず「型」から入るのである。「型」から入ってもいいじゃないか、というのではなく、そもそも「型」は身につけなくてはいけないのだ。

 だからこの本は、自信をつけるための「型」の習得法といってもよい。

 かつての日本企業では、会社の上司や先輩が、職場内や飲みの席で、マンツーマンでいやおうなく、この本に書かれている内容を教え込んでくれたものだ。
 だが、2011年現在の職場環境では、これはなかなか期待しにくいだろう。いい意味でも悪い意味でも、濃厚な空気は現在の職場にはない。

 だから、自信がないのは、あなただけの責任ではない。世の中は変わってしまったのだ。あなたの「意識」と「行動」を変えるしかないのだ。

 自信がつけば精神的なゆとりができる。精神的なゆとりがあればチャンスも確実につかむことができるようになる。なぜなら、自信のある人にはチャンスが集まりやすいのである。

 この本を読めば金持ちになるとか、アタマがよくなるとか、そういうあやしげな話はいっさいない。そこは、この本と著者が信用できる点だ。

 まずは著者の表現をそのまま使えば、著者の言うことをTTP(=徹底的にパクる)してみることだろう。いいとこ取りすればいい。毎日一つづでいいい。継続して実行することだ。自信というものは一朝一夕に身につくものではない。日々の小さな努力があってこそのものなのだ。気がついたら「絶対的な自信」がついている。そういうものだ。

 私自身、最初に書いたように、この本に書かれた内容はほぼすべて20歳前半から実行してきた結果、知らぬ間に「自信過剰」とさえ言われる人になってしまっていた(苦笑)。社会人になる前は、引っ込み思案で人前で話すものイヤだったのだが。
 
 「型から入る自信の付け方」は、だからこそ、自信のない人には薦めたい一冊である。



<初出情報>

■bk1書評「形から入って自信をつける-これは武道の「型」にもつうじるきわめて実践的な訓練方法だ」投稿掲載(2011年1月19日)





目 次

第1章 ストレッチ編-自信のないあなたの考えを変える
  学歴も肩書きもただの“記号”
  それは自意識過剰なだけ
  負ける戦をしてはいけない
  "あこがれていること" を "やったことがある" へ
  「3」は夢を叶える魔法の数字
  コラム① 自信に根拠はなくていい
第2章 トレーニング編-3分であなたの印象をアップさせる!
  01 なぜ「靴をキレイに磨く」ことが、自信の第一歩なのか?
  02 低予算で見た目をグッとよくするには
  03 時計を「3分」進めておくだけで ・・・ほか
  コラム② スキルアップ! 仕事始めは「やることリスト」の作成から
 「あなたの仕事態度を変える」3分間トレーニング
  12 デキる人、デキない人は「背中」でわかる
  13 声を大きく、低音でゆっくり
  14 話は常に "言い切り" で  ・・・ほか
 「あなたの人生を変える」3分間トレーニング
  23 机がかたづけば人生は好転する
  24 「あとで使うかも」は一生ないと思おう
  25 話を「聞く」だけで自信がつく ・・・ほか
  コラム③ スキルアップ! 自分のテーマソングを持とう
第3章 総仕上げ編-「絶対の自信」を手に入れよう
  32 あこがれの人を「TTP」してみる
  33 有言実行で自分を追い込め!
  34 自信のある人は自己紹介がうまい ・・・ほか
 コラム④ スキルアップ! 自信をつかんで飛躍した人たち
エピローグ
続けていれば自信は確信に変わる


著者プロフィール

松尾昭仁(まつお・あきひと)

セミナープロデューサー(=自主開催セミナーの専門家)、起業コンサルタント(=個人プランディングの専門家)、ネクストサービス株式会社代表取締役 CEO。1967年、埼玉県生まれ。駒澤大学卒業後、世界最大級の総合人材サービス企業に入社。同社を退社し、父親の経営する建設会社に転職、無気力な毎日を送る。親から金銭的な援助を受け、2003年ネクストサービス株式会社を設立、代表取締役 CEO に就任。試行錯誤の末、多くの優秀なビジネスパーソンとのネットワークづくりを成功させる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。

         

<書評への付記>

 著者の松尾昭仁氏は個人的に知っているが、はじめて会ったときから、ある意味「自信過剰」とも見える人あった。

 そういう人が、「かつては自信がなかった」というのは、にわかには信じがたいことだ。だが、本書に目を通してみて、「自信獲得」のプロセスがよくわかった。

 中身は非常に具体的なので、「自分に自信がない」と思っている人は、だまされれたと思って一読し、書かれている内容を実際にやってみるといいと思う。読みやすいのですぐに読める本だが、そのまま読み捨てにしてしまってはもったいない。

 自信をつけるための小技が満載の本である。
 その効果については、私が書評に書いたとおりである。

 ただ、恥ずかしながら、私は現在にいたるまで机の上がキレイではない。子どもの頃から、社会人になってからも言われ続けているのだが・・・(苦笑)



<ブログ内関連記事>

「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん)
・・何ごとも「継続はチカラなり」。3日、100日(≒3ヶ月)、1,000日(≒3年)。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とする」(宮本武蔵)

「学(まな)ぶとは真似(まね)ぶなり」-ノラネコ母子に学ぶ「学び」の本質について

What if ~ ? から始まる論理的思考の「型」を身につけ、そして自分なりの「型」をつくること-『慧眼-問題を解決する思考-』(大前研一、ビジネスブレークスルー出版、2010)
・・思考もまた「型」から入るのが王道である。考える自信がつく。
 







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