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2013年12月25日水曜日

修道院から始まった「近代化」ー ココ・シャネルの「ファッション革命」の原点はシトー会修道院にあった



「20世紀のファッション革命」の創始者ココ・シャネル。そのシャネルがじつは貧しい家庭に生まれ、しかも修道院付属の孤児院で少女時代を過ごしたことは、本人はいっさい言及しなかったが近年ではすっかり常識となったといっているようだ。

フランス文学者でファッションやブランドにもくわしい山田登世子氏の著書に 『贅沢の条件』(岩波新書、2009)がある。その「4章 禁欲のパラドクス-修道院という場所から 1.ココシャネルの修道院」を読んでみるといい。シャネルが少女時代を過ごしたフランスの田舎オバジーヌ村の孤児院が併設されていた中世以来のシトー派修道院を訪れた記録が書かれている。

現在では孤児院は廃止になっているが、修道院は中世以来のものであり、内部は一切の華美を廃し、窓は「白というよりグレーに近いガラスが鉛ではりあわされ」たものであるという。

その鉛のごつごつした曲線が、わずかに「ステンドグラス」という言葉に照応しているだけだ。わたしたちがステンドグラスというときに想像する色の美しさはどこにもない。そんなわたしの衝撃を見てとったかのように、修道女の案内の声が晴れやかに響いた。「そうなんです、禁欲を尊んだシトー派は、ステンドグラスに色を禁じました。ごらんのとおり、白ガラスと鉛だけです
ああ、シャネルの「白」と「黒」の原点はここなのだ--声にならない衝撃を呑みこんだまま、案内に従う。・・(後略)・・ (P.129 太字ゴチックは引用者=さとう)

新書本に挿入されたモノクロ写真ではわかりにくいが、われわれがふつうに連想するカラフルなステンドグラスではないことは明らかだろう。

(オバジーヌ修道院の「ステンドグラス」 『贅沢の条件』より)


『シャネル・スタイル』(渡辺みどり、文春文庫、2005)にカラーで収録されている修道院の写真はシンプルで美しい。


(左上の写真が上記のステンドグラス 『シャネル・スタイル』より)


シャネルが修道院付属の孤児院で身につけたのは裁縫という手仕事の技術だけでなく、修道女たちによる体罰もふくめた、厳しいしつけと早寝早起きという規則正しい生活習慣であった。この生活習慣は一生つづいたようである。

ファッションデザイナーとして成功し、サロンの女主人として華やかなパーティを主催するようになってもけっして夜更かしはせず、早寝早起きの習慣はつづけていたという。子どもの頃に身につけた生活習慣は変わらないのだろう。ファッションはつくる側と、それを買って楽しむ側とは違うものだということを意味しているのかもしれない。

厳しいしつけが成功した理由の一つが修道院の生活規則であったことは言うまでもない。

カトリックの修道院は「ベネディクト戒律」(後述)という中世に定められた規則で運営されてきた。一日の日課が細かく規定されており、ほとんど深夜といってもいい時間帯から早朝のから一日の日課がはじまる。これが毎日つづくのである。

シャネルが生まれたのは1883年であったから、現在では考えられないほどきつく厳しい生活であっただろうと想像される。電気も洗濯機も普及していなかった頃である。とくに冬の洗濯当番が子どもにはきわめてつらいものであったようだ。

ココ・シャネルは、孤児院時代のことは、隠したかっただけでなく、思い出したくもなかったのだろう。


修道院の日課と早寝早起きの生活習慣

現在では時間にうるさい日本人も、幕末から明治時代にかけて来日した外国人たちにしてみれば、時間にはきわめてルーズな状態であったようだ。

そんな日本人が時間に厳しくパンクチュアルアルな存在になったのは、文明開化のもと機械時計による時間が導入されたことが大きかったといわれる。

とくに徴兵制施行以降は、軍隊においては分刻みの時間管理が徹底され、近代的な時間感覚がカラダに叩き込まれることになった。

その近代の時間感覚は、西欧中世の修道院に起源をもつのである。

ネットを検索したら、たまたま「大分トラピスト修道院の一日」というサイトを発見したので、「修道院の日課」を紹介しておこう。 


午前  3:30 起床
     3:45 夜間の祈り
     5:00 朝の祈り
     5:45 ミサ聖祭
     6:45 朝食
     7:15 聖なる読書
     8:00 三時課(祈り)
     8:30 労働
    11:00 労働終了
    11:20 六時課(祈り)
    11:30 昼食
午後 12:45 九時課(祈り)
     1:00  労働
          4:30  労働終了   
          5:30  暁の祈り
          5:45  夕の瞑想
          6:00  夕食
          6:25  自習・講話
          7:30 寝る前の祈り
          8:00  就寝


こうやって書き写しながら思うのは、早寝早起きは漁師並みだということだ。基本的に軍隊なみの「分刻み」の規則正しい生活は修道院ならではだが、「祈り、かつ働け」という日々であることがわかる。

こういう生活をつづけるのは、慣れるまでは大変だろうが、慣れてしまえば健康で健全な日々なのだろう。「規律による自律」である。

外的な規律も「内面化」してしまえば自律となるが、自律とはセルコントロールのことである。自分がコントロールの「主体」となること、これは「近代精神」そのものといってよい。

西欧においては、修道院にとっての必要性から中世の14世紀頃に「機械時計」が発明され、物理的時間を正確に刻むことが可能となった。それが「近代化」を促進したことにも注意しておく必要がある。

近代の軍隊制度もその起源は修道院にあるので、修道院が軍隊的規律であるのは、ある意味では当然といえば当然なのである。


シトー会修道院

さきに大分トラピスト修道院の日課を紹介したが、日本でもっとも有名な修道院はクッキーで有名な函館トラピスチヌ修道院であろう。女子修道院である。トラピスト(Trappist)は男子、トラピスチヌ(Trappistine)は女子である。

(函館トラピスチヌ修道院の「トラピスト・クッキー」)

トラピスト修道会は、正確には厳律シトー会(Ordo Cisterciensis Strictioris Observantiae)という。より厳格な戒律による修道生活を送ることを求めた観想修道会である。

厳律シトー会は、シトー会から枝分かれしたものである。その意味では、ヨーロッパの骨格の一つをつくったともいえるシトー会について常識程度のことを知っておくことは重要なことだ。

(12世紀のシトー会修道士による開墾 wikipediaフランス語版より)

『シトー会 』(レオン・プレスイール、杉崎泰一郎=監修、遠藤ゆかり訳、創元社、2012)という本がいい。フランスで出版されている「知の再発見」双書の一冊で日本語版である。カラー写真が豊富に入った手軽な読み物である。

書籍紹介文を編集し直して紹介しておこう。

1098年3月21日、聖ベネディクトゥスの祝日に、モレーム修道院長ロベールは、フランス東部のディジョンに近い荒野に、『聖ベネディクトクスの戒律』を順守するために「新修道院」を設立した。これがのちにシトー修道院と呼ばれるようになるもので、ここからシトー会が誕生した。
修道士たちは孤独と清貧を求めて労働と祈りの生活を営むが、シトー会の発展とともに、厳格であったその規律が緩んでいく。
シトー会の制度、建造物や美術作品などを紹介しながら、シトー会の理想が歴史の中でどのように実現し、また変質し、改革を繰り返しながら現代に受け継がれていったかを綴る。

「ベネディクト戒律」は、「服従」・「清貧」・「童貞」(純潔))が三本柱である。規律による自律である。さらに加えて「定住」を誓願することで、「祈りと労働」中心の修道生活が以後の標準となる。

荒野を開墾して建設された修道院では自給自足が原則である。それによって経済的な自立が可能となる。利益獲得が目的ではなくても、そこには経済活動は存在する。たとえば、トラピスト・クッキーもまた修道会が経済的に自立し、運営を維持するために必要な活動と位置付けられている。

自分たちだけで消費できない余剰分は、贈与に回されるのであれば富は産まないが、物々交換や市場で販売されることになれば、そこに富が生まれることになる。

これに貨幣経済が重なると修道会はどうなるのであろうか?



「祈り、かつ働」くと富が蓄積される

社会学者の大村英昭氏は、『日本人の心の習慣-鎮めの文化論-』(大村英昭、NHKライブラリー、1997)において、修道院内の献身的禁欲が資本蓄積につながるという逆説について語っている。

修道院内での禁欲主義のせいか、とくにヨーロッパ辺境の開墾とか、さまざまな文化的技術の蓄積のおかげで巨大な富がもたらされ、それが、かえって修道会の躓(つまづ)きのもとになる、そんな歴史をくり返しているのです。ヴェーバーの言う「世俗外」禁欲ですら、こと献身的アクティヴィズムを導きだすという点では、「世俗内」の禁欲-通常の職業労働-とも、さして違わないということになります。(P.36) (* 太字ゴチックは引用者=さとう)

先に引用した『贅沢の条件』(岩波新書、2009)では、山田登世子氏は「世俗内」勤労に対して「僧院内」勤労と言っている。「僧院内」勤労とは、大村氏のいう「世俗外」禁欲と同じことを指している。

清貧な生活のもとでの勤勉は、結果として富を生み、富は人間を堕落させるのである! 「献身的アクティヴィズム」とはじつに的確な表現だ。日本語の「禁欲」からうけるニュアンスとは異なるドイツ語の「アスケーゼ」(Askese)のことである。

社会学者マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、プロテスタンティズムの倫理が逆説的に(!)資本主義を推進したことを示したものだが、プロテスタンティズム成立以前にすでに、シトー派の修道院では勤勉の結果として(!)富が蓄積されていたことが指摘されている。

多くの日本人は大塚久雄訳に慣れ親しんできたが、哲学者の中山元氏の新訳は、きわめてわかりやすい透明な日本語になっているので意味が伝わりやすい。中山氏の新訳から引用させていただくこととしよう。

世俗内的な禁欲の先駆者である中世の修道院の禁欲 [の精神] もまた、これと同じ運命をたどったのだった。修道院においても、厳格に規制された修道士の生活のうちで、消費が抑制されながら合理的な経済運営がそのすべての力を発揮し始めると、修道院の内部に富が蓄積されるようになる。この富のために修道院はそのまま貴族的な地位を獲得するようになるか(教会分裂の頃には、こうした傾向がみられた)、あるいは修道院の規律が崩壊する危険に直面して、何度も修道院の「改革」が行われるようになった。修道会の会則の歴史は、獲得した富によって修道院が世俗化する問題との絶え間ない格闘の歴史とも言えるだろう。 
(出典:『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(中山元訳、日経BP社、2010) P.474 太字ゴチックは引用者=わたし)

ウェーバーによるこの数行の記述はあまり注目されていないが、きわめて重要だとわたしは考えている。くり返すが、プロテスタンティズム成立以前にすでに、修道院では勤勉の結果として富が蓄積されていったのである。

そしてその蓄積された富が堕落を招き、改革を必要とする。この改革 ⇒ 刷新 ⇒ 勤勉 ⇒ 富の蓄積 ⇒ 堕落 ⇒ 改革 ⇒」 というサイクルがくり返される。

「祈り、かつ働け」が生み出した遺産にはさきにあげたトラピスト・クッキーのほか、ベルギーのトラピスト・ビールやフランスのブルゴーニュ・ワインがある。

トラピスト・ビールは文字通りベルギーのトラピスト修道院で醸造されるビールのことで、現在では修道院内部での消費よりも、外部に市販する商品としての位置づけになっている。 


(ベルギーの「トラピスト・ビール」の銘柄 シメイ修道院)

現在ヨーロッパでは修道院の断食が復活しているようだが、ある意味では、「断食」は現代人にとっては最高の「贅沢」といえるだろう。冒頭で引用した『贅沢の条件』(岩波新書、2009)の「第4章 禁欲のパラドクス-修道院という場所から」にもあるように、修道院は逆説的な意味で贅沢そのものとなったのである。

現代の贅沢品であるファッション・ブランド、その創始者であるシャネルの原点が修道院にあったというのは、逆説的でじつに興味深いではないか!









<参考> 『中世ヨーロッパにおける清貧と営利経済』

『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック、南満州鉄道株式会社調査部特別調査班、大連、1943)-25年前に卒論を書いた際に発見した本から・・・
・・このブログ記事に「修道院と経済」関連の研究書について記述しておいたので参考のために再録しっておこう。

「卒論指導に際して、何冊か先生の蔵書を貸していただいたが、コピーをとって夏休みに辞書を片手に読んでみた。そのうちの一冊が L.K. Little, Religious Poverty and the Profit Economy in Medieval Europe, Cornell University というタイトルのハードカバーであった。 ところどころに先生自身がした、鉛筆による線引きと書き込みが多数なされており、「あー、学者というのはこういう風に本を読むのかー」という感想をもった。ある意味では、大学院生でもないのに実地教育を受けたような気もする。 その本は、タイトルを日本語にすると、『中世ヨーロッパにおける清貧と営利経済』とでもなるのだろうか。卒論執筆には、Chapter 3. The Jews in Christian Europe(キリスト教ヨーロッパにおけるユダヤ人) と Chapter 10. Scholastic social thought(スコラ派の社会思想)が役にたった。同書のペーパーバック版は現在でも入手可能のロングセラーである。」




PS 「近代化」の意味を明確にするために一部加筆を行った。 (2014年2月20日 記す)。




<関連サイト>

養老孟司×隈研吾×廣瀬通孝 鼎談:日本人とキリスト教死生観(2) (日経ビジネスオンライン 2014年3月25日)
養老孟司×隈研吾×廣瀬通孝 鼎談:日本人とキリスト教死生観(3) (日経ビジネスオンライン 2014年3月25日)
・・「「肉体」を規律で縛って「精神」の自由を担保する」  近代精神の主導者であるイエズス会系の栄光学園という男子校出身者の三人が語りあう記事。(3)では、世界的建築家の隈研吾が、カトリック修道院の「黙想の家」で「黙想」という宗教行事に同級生10人と参加し、2泊3日の間まったく口をきいてはいけいない状態で神父から「メメント・モリ」を叩きこまれた体験について語っている


なお、上記の対談は『日本人はどう死ぬべきか?』というタイトルで日経BP社から単行本化されている(2014年11月28日 記す)






<ブログ内関連記事>

「祈り、かつ働け」(ora et labora)

映画 『大いなる沈黙へ-グランド・シャトルーズ修道院へ』(フランス・スイス・ドイツ、2005年)を見てきた(2014年10月9日)-修道院そのものを主人公にした3時間という長丁場のドキュメンタリー映画
・・フランスのアルプス山中に建てられたグランド・シャルトルーズ修道院(Grande Chartreuse)のドキュメンタリー映画

映画 『神々と男たち』(フランス、2010年)をDVDでみた-修道士たちの生き方に特定の宗教の枠を越えて人間としての生き方に打たれる
・・アルジェリアのフランス系トラピスト修道会

書評 『修道院の断食-あなたの人生を豊かにする神秘の7日間-』(ベルンハルト・ミュラー著、ペーター・ゼーヴァルト編、島田道子訳、創元社、2011)
・・修道院の一日を知ることができる

・・トラピスト・ビール


人生の選択肢を考えるために、マックス・ウェーバーの『職業としての学問』と『職業としての政治』は、できれば社会人になる前に読んでおきたい名著

書評 『ココ・シャネルの「ネットワーク戦略」』(西口敏宏、祥伝社黄金文庫、2011)-人脈の戦略的活用法をシャネルの生涯に学ぶ

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは

カラダで覚えるということ-「型」の習得は創造プロセスの第一フェーズである
・・中世のトマス・ア・ケンピスの『キリストのまねび』、近世(=初期近代)のイエズス会創始者イグナティウス・デ・ロヨラの『霊操』(スピリチュアル・エクササイズ)について触れてある

書評 『ドラッカー流最強の勉強法』(中野 明、祥伝社新書、2010)-ドラッカー流「学習法」のエッセンス
・・ドラッカーは、「目標管理」制度(MBO:Management by Objective and Self-Control)の原型は、近世(=初期近代)にルター派とイエズス会が同時並行的に採用したメソッドにあると指摘している。キモはセルフコントロールにある

クレド(Credo)とは
・・クレド(信条)を日々唱え、徹底的に内面化すること。自分の行動規範となるまで浸透し、内面化することが必要

書評 『傭兵の二千年史』(菊池良生、講談社現代新書、2002)-近代世界の終焉と「傭兵」の復活について考える ③

書評 『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)-イスラーム経済思想の宗教的バックグラウンドに見いだした『緑の資本論』
・・ユダヤ教・キリスト教・イスラームの経済思想についてまとめてある。「中沢新一の議論が面白いのは、資本主義をプロテスタンティズムと結びつけてきたこれまでの "陳腐な発想" から一歩踏み出して、キリスト教の構造そのものに深く迫っていることにある。それも信仰の観点ではなく、経済思想の観点から」

資本主義のオルタナティブ (1)-集団生活を前提にしたアーミッシュの「シンプルライフ」について
・・カトリックの修道院にもつうじるものがあるプロテスタント系のアーミッシュ的な生き方。外の世界を知った若者は自分の意思で共同体に戻っていく

(2014年2月20日、10月26日 情報追加と加筆)


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