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2021年12月17日金曜日

書評『相楽総三とその同志』(長谷川伸、中公文庫、1981)は、非命に斃れた草莽の志士たちの記録を心血を注いで掘り起こしたノンフィクションの鑑(かがみ)

 

『相楽総三とその同志』(長谷川伸、中公文庫、1981)をようやく読み終えた。 

昭和18年(1943年)に初版が出てからすでに80年近くたつ作品だ。購入してからすでに40年(!)もたっているが、通読したのは今回がはじめて。

ようやく読み終えたというのは、この2週間読んでいたということだけでなく、40年間のさまざまな思いを吐露したものでもある。作者の長谷川伸(1884~1963)も、この世を去ってからすでに60年近くたっている。

相楽総三(さがら・そうぞう)とは幕末の志士勤王派のいわゆる草莽(そうもう)の志士である。本名は小島四郎。大名貸で財をなした下総国相馬出身の富豪で、江戸に居住していた小島家に生まれた御曹司である。渋沢栄一もそうであったが、維新の志士には豪農や豪商出身者が少なくない。

相楽総三とその同志たちが結成したのは「赤報隊」(せきほうたい)その多くが藩の背景をもたない浪士で、剣術と平田国学の教えによって勤王派となった人たちであった。渋沢栄一が剣術を修行し、漢学を教養としていた点と好対照となるだろう。ただし、おなじ勤王とはいえ、平田国学と水戸学を中心とした陽明学の違いは意外と大きいかもしれない。

相楽総三が名をあげたのは「薩摩藩邸焼き討ち事件」である。この事件は、幕府を挑発するために薩摩藩の西郷隆盛が立案し実行させたものだ。西郷の指示を受けたの相楽総三ら関東浪士は、約300人の浪士を厚め、幕府に対して挑発行為を繰り返した結果、幕府側はまんまとそのワナに引っかかったのである。薩摩藩の「別働隊」として大きな役割を果たしたのである。

相楽総三とその同志の一部は、作戦展開上、焼き討ちされた薩摩藩邸から応戦せず、薩摩藩の軍艦で品川から命からがら脱出し、兵庫から上陸して陸路で京都に上洛している。その京都で「赤報隊」が結成された。

そこで相楽総三が強く主張したのは甲府を攻めて、江戸を背後から叩くという作戦だった。だが、官軍の意志に反したこの作戦の断行が、抗命とみなされることになる。

京都から中山道を経て信州の下諏訪に至り、そこを本拠地として活動していた最中に、非情にも西郷隆盛や岩倉具視の率いる官軍から「偽官軍」の汚名を着せられ、捕縛されさ辱めを受けたのち、弁明を述べることも赦されず、相楽以下数人は斬首され、しかもさらし首となった。粛清されたのである。ときに相楽総三30歳の最期であった。 死に際は立派であったという。

どうやら官軍側の認可のうえで、相楽が農民たちに約束した「年貢半減」が粛清の原因となったようだ。財源問題からそれが実行不可能と悟った官軍が、そのなかでも岩倉具視が、都合の悪くなった赤報隊を抹殺することに決したらしい。革命運動にはつきものの粛清とはいえ、悲劇的としかいいようがない。 


■相楽総三と「赤報隊」の名誉回復に60年

冤罪が雪がれ名誉回復がなされたのは、なんと死後60年たった昭和3年(1928年)のことであった。薩長が牛耳る藩閥政治が続いていたあいだ、相楽総三と赤報隊のことはタブーとなっていたのである。 

その名誉回復のストーリーが「木村亀太郎泣血記」として冒頭に置かれている。祖父の非命を知った孫が、長年にわたって奔走した結果、ようやく実現した血涙の記録である。 

この話のなかに、木村亀太郎が男爵となっていた渋沢栄一と対面し、助力を乞うたエピソードが登場する。

渋沢自身は、相楽総三とは直接面識はなかったが、その同志であった竹内練太郎(のちの金原忠蔵)などと一緒に高崎城焼き討ちを計画した同志だった。この未遂に終わったテロ計画と竹内練太郎の話は、渋沢栄一の自伝である『雨夜譚』でも語られている

その後、赤報隊に入った金原忠蔵こと竹内練太郎は、小諸藩との戦闘で戦死している。そんなこともあって、渋沢栄一もまた相楽総三とその同志たちの名誉回復には影ながら大きな支援をしたらしい。 

著者は「自序」でこう記している。なぜ相楽総三とその同志たちを取り上げたかの理由である。 

明治維新の鴻業は公卿と藩主と藩士と、学者、郷士、神道家、仏教家とから成ったの如く伝えられがちだが、そしてまた、関東は徳川幕府の勢力地域で、日本の西は討幕、東は援幕と印象づけられがちだが、その二つとも実相でないことを『相楽総三とその同志』は事実に拠って弁駁表明している・・

解説を執筆している弟子の村上元三氏によれば、またこのようにもつねづね言っていたという。 

明治維新というものは、京都の公家、薩摩や長州などの倒幕派、それに神官などだけで達成したものではない。関東の武士、ほかに賊軍とされて功績を地に埋もれさせられた名もなき人びと、世にごろつきといわれる人間たちの働きも、あずかって大きな力があった

相楽総三もまた、その一人であった。著者は「自序」の冒頭にこう記している。

相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のもとに死刑に処された関東勤王浪士と、その同志でありまたは同志であったことのある人びとのために、十有三年間、乏しき力を不断に注いで、ここまで漕ぎつけたこの一冊を「紙の記念碑」といい、は「筆の香華(こうげ)」と私はいっている。 

地味な内容で、あまり読まれないであろうことがわかっていながらも、著者はあえて取り組んだという。13年間の月日をかけて資料を集め、執筆し、自費出版で出したものだ。

たしかに、地味な内容である。だが、著者にとっては縁もゆかりもない人びとの、権力に都合によって抹殺された記録を掘り起こし、記録としてまとめたこの仕事は、大いに顕彰されるべきものであろう。 

相楽総三たちが処刑された下諏訪は、甲府とともにわたし自身も社会人になってからの数年間、出張で何度も通った地だ。かつて中山道の宿場町として栄えた地である。

だが、1980年代後半のその当時、下諏訪で相良総三のこと耳にしたことはまったくなかった。だから、この本を購入していながら読むこともなかったのだろう。問題意識がなかったのだからだろう。おなじく中公文庫から復刊された長谷川伸の『日本俘虜史 上下』のほうは大学時代に読んで大いに感心していたのだが・・。


■折口信夫が長谷川伸に直接伝えた「よいものを書いて頂いてありがとうございました」

購入してから40年目にして、ようやく読む決意を固めたのは、先日のことだが、村上一郎の『草莽論ーその精神史的自己検証』(ちくま学術文庫、2018 初版1972)の末尾に近くにある文章を目にしたからである。この文章じたいがすばらしいので引用しておこう。(*太字ゴチックは引用者=さとう)

岩田正の『釋迢空』(紀伊國屋新書)によって知ったのだが、折口信夫は或る時、車中で長谷川伸と乗り合わせ、一面識もないこの作家につかつかと歩み寄り、名詞を出して、「よいものを書いて頂いてありがとうございました」とていねいにお辞儀をしたそうである。よいものとは、『相楽総三とその同志』のことであった。折口の久坂玄瑞の歌に対する渇仰は知られているが、東国草莽への想いも、ひとかたならぬものがあったことを知り、わたしは折口信夫を少しく好きになったのである。(P.285) 

おそらく折口信夫にとっては、平田国学に準じた草莽の志士たちのことが他人事ではなかったのではないだろうか。柳田國男も折口信夫もまたそうだが、日本民俗学は平田国学の圧倒的影響のもとに生まれたものであるからだ。

(伊那の平田国学の徒は下諏訪で処刑された相楽総三とその同志たちの死を悼んで「魁碑」を建立した 『明治維新と平田国学』(国立歴史民俗博物館、2004)より)


わたしもまた維新の負け組の末裔とはいえ、官軍であった「相楽総三とその同志」たちとは縁もゆかりもない者である。

だが、折口信夫ならずとも「よいものを書いて頂いてありがとうございました」と、この場を借りていまは亡き著者には伝えたい。 





PS 『相楽総三とその同志』の中公文庫版は現在入手不能だが(・・文庫版もあまり売れなかったようだ)、現在は講談社学術文庫から再刊されている。 


PS2 相楽総三と赤報隊

その後、相楽総三と赤報隊については、さまざまな研究蓄積がなされている。相楽総三については、『日本近代化の思想』(講談社学術文庫、1986)でも民衆史の鹿野政直氏が言及しているように、民衆史の観点から、とくに左派からは大きな関心を寄せられてきたようだ。とはいえ、先鞭をつけた本書の価値は、いささかなりとも減ずるものはないと言って過言ではないだろう。


PS3 「赤報隊」の前に「偽官軍」として処刑された事件があった

福岡在住の作家で郷土史家の浦辺登氏の教示で、赤報隊の前に「偽官軍」として処刑された事件があったことを知った。天草(熊本県)と宇佐(大分県)でおきた「花山院隊事件」である。この「偽官軍事件」の犠牲者である草莽の志士たちもまた、維新史に取り上げられことなく闇に消されていたらしい。非命に斃れた草莽の志士たちの鎮魂は、いまだ終わっていないのである。


PS4 相楽総三とその同志たちの肖像画なり写真は残されていないのはなぜか?

活動家やテロリストなどは当然だが、相楽総三とその同志もまた「地下活動」をしていたので、変名を使用しており、肖像画や写真が残されていないのは当然だと考えるべき。渋沢栄一の丁髷姿の写真は、幕臣となってフランス渡航前のものであり、近藤勇の写真もまた正式に幕臣になる前だが、浪士隊時代のものではなく、新選組隊長時代のものである。

(2021年12月30日 情報追加)


<ブログ内関連記事>




■相楽総三とその同志とのつながりのあった尊皇攘夷の志士であった渋沢栄一




■下総と平田国学



■相楽総三とその同志を切り捨て、死に追いやった岩倉具視と西郷隆盛


 



■下諏訪という土地の重層性

・・諏訪神社のある諏訪の重層的な土地柄についての話がある

(2021年12月20日、12月30日 情報追加)


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