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2021年12月31日金曜日

書評『維新史の再発掘 ― 相楽総三と埋もれた草莽たち』(高木俊輔、NHKブックス、1970)― 草莽の志士たちを民衆史から再発掘する

 


先駆的な仕事であるが、いかんせん出版は1943年の初版であり、いまから約80年前の作品である。その後の研究成果を知りたくなるの自然というものだろう。 

いろいろ探索しているうちに、『維新史の再発掘-相楽総三と埋もれた草莽たち』(高木俊輔、NHKブックス、1970)という本があることを知った。

たまたま民衆史の鹿野政直氏の『日本近代史の思想』(講談社学術文庫、1986)をひさびさにパラパラめくってて、本書のの存在を知った。鹿野政直氏は、本書の帯に推薦文を書いている(・・下記に掲載の写真)。

  


古書価も高くなっているが、なんとか安く入手したので、さっそく読んでみた。さすがに民衆史の研究者によるだけあって、よく調べてあり、しかも読ませる内容の本だった。 



■1970年前後は「民衆史」の時代

どうやらこの本がでた1970年の前から相楽総三がちょっとしたブームになっていたらしい。

時代背景は1968年の「明治百年」にあったようだ。ときの日本政府による「上からの明治百年」への反発と、おなじ1968年に始まって世界中に拡散した学生運動もその時代のことである。「革命前夜」のような熱気があったというべきだろうか。

「民衆史」は現在では人気は下火だが、この時代には熱心な取り組みがなされていたのである。 『夜明け前』と同様に、演劇のテーマとしても取り上げられたようだ。

あれこれ調べているうちに、1969年には『赤毛』というタイトルの映画が製作され公開されていることを知った。監督は岡本喜八、主演は三船敏郎。


(英語版のタイトルは "Red Lion"  wikipedia英語版より)


ストーリーは、「幕末・王政復古の世。江戸に進撃する官軍の先駆「赤報隊」。沢渡宿で圧制を敷く駒虎一家を倒し女郎たちを解放する。先頭に立ったのは沢渡宿出身の権三だった。さらには代官屋敷から年貢を取り返し百姓も解放して意気揚々だったが…。赤報隊と官軍の戦いを通じて、維新の裏にある犠牲と矛盾を捉えた問題作。」(wikipediaより引用)

相楽総三を田村高廣。相楽総三とその同志の肖像画なり写真は残されていないので(*)、映画でも演劇でも、主演を喰ってさえしまえわなければ誰が演じても問題はないというわけだろう。

(*)活動家やテロリストなどは当然だが、相楽総三とその同志もまた「地下活動」をしていたので、肖像画や写真が残されていないのは当然だと考えるべき。渋沢栄一の丁髷姿の写真は、幕臣となってフランス渡航前のものであり、近藤勇の写真もまた正式に幕臣になる前だが、浪士隊時代のものではなく、新選組隊長時代のものである。


ただし、赤毛の被り物は時代考証的には間違いのようだ。江戸の無血開城後の戊辰戦争以降に官軍によって使用されたのであって、それ以前にはあり得ない話なのである。劇的効果を狙った演出と受け止めるべきだ。



■『維新史の再発掘-相楽総三と埋もれた草莽たち』

さて、本題に戻るが、この本じたいが、すでに50年前のものだが、それでも先駆者である長谷川伸のものより研究は進んでいる。いくつか興味深く感じたことを記しておこう。 

まず、相楽総三(そう名乗ったのは「薩摩藩邸焼討事件」前の挑発開始から)が企画した攘夷派による「関東挙兵計画」(1863年)について。 

小島四郎(=相楽総三)らの「慷慨組」による「赤城山挙兵計画」と、渋沢栄一らの「天朝組」による「高崎城乗っ取りと横浜洋館焼き討ち計画」は計画倒れに終わったが、楠音次郎らの「真忠組」による九十九里におけるは決行された。ただし、真忠組による九十九里における蹶起は世直し的性格を帯びたものだったが、幕府が差し向けた佐倉藩などの藩兵によって鎮圧された。

じつはこの3つの蹶起は、おなじ日に同時多発で実行される計画だったらしい。オルグの中心にいたのが相楽総三だったのだ。

 失敗に終わった同時多発の「関東挙兵計画」をオルグしたのは相楽総三だが、その資金源は大富豪だった父親からもらった5,000両(!)だったようだ。成功に終わった「薩摩藩邸焼き討ち」の際の軍資金3,000両も、父親から言葉巧みに引き出したらしい。 

武器弾薬を調達し、浪人たちを喰わせるためには、カネが必要だからだ。自前の軍資金があったからこそ、民衆から掠奪することはなかったことは特筆に値する。しかも、「年貢半減」のスローガンを掲げて中山道を進軍した、相楽総三とその同志たちによる赤報隊は、先々で歓迎されたのである。

これは余談だが、「9・11テロ」の背後にいたウサーマ・ビンラディーンもそうだが、大義を掲げたテロ計画は大金持ちか、バックに大金持ちを抱えた者が多い。日本人が巻き込まれたバングラデシュのイスラーム過激派によるテロもそうだった。いずれも大金持ちの子弟で、しかも高学歴者。自前の資金によるテロであった。イスラーム過激派の思想も、ある意味では攘夷思想である。 

関東攘夷派においては、いわゆる豪農層がその中心になっている。相楽総三の父親は、下総相馬郡で物価高騰のなか困窮化していった旗本への貸し付けで巨富を築いたらしい。渋沢栄一の父親もまた豪農層であった。相楽総三も渋沢栄一も、いずれも利根川流域にかかわりがある。支配関係が入り組んでいたことが、豪農を誕生させる地盤となったようだ。

なぜ豪農層が、攘夷というテロに荷担していくことになったのか? 

著者の説明を単純化すれば、貧農層と支配者のあいだにはさまれたミドルマン的立ち位置が、究極の二択を迫ったというもあったのだ。豪農としての「家」のポジションを維持するため、貧農層の側に立つか、支配者層の側に立つか、である。 前者は、攘夷という形の現状変革を選択したわけであり、後者は支配者の手先となって民衆を弾圧する側にまわった。

これまた余談だが、ロシア革命において大きな役割をはたしたユダヤ系のトロツキーが、黒海に面したオデッサの豪農出身であったことを想起する。 それ以外のユダヤ系の革命家は、豪商か金融業者の子弟か、ユダヤ律法学者ラビの子弟などの知識階層が多かった。


■「王政復古」後に「偽官軍」のレッテルを貼られたには「赤報隊」だけではなかった

相楽総三が「偽官軍」のレッテルを貼られて処刑され、その汚名が関係者の奔走によって名誉回復がされるまで60年もかかったわけだが、それでも名誉回復されただけマシなのである。 

著者の整理によれば、「王政復古」前後の「偽官軍事件」は、相楽総三とその同志たちだけではなかったらしい。列挙すると以下のようになる。 


●花山院一党(九州) 
●高野山隊(紀州高野山) 
●山国隊(丹波国山国郷) 
赤報隊(東山道進軍の相楽総三とその同志) 
●髙松隊(赤報隊と前後して東山道進軍) 
●遠州報国隊(東海道で神官を中心に組織) 
●駿州赤心隊(同上) 
●豆州伊吹隊(同上) 
●居之隊(豪農中心の北越草莽隊) 
●北辰隊(同上) 
●金革隊(同上) 
●生気隊(同上) 
●奇兵隊と諸隊(長州藩で正規軍再編の際に解隊) 


日本全国でこれだけ多くの「偽官軍」事件が発生していたわけなのだ。「相楽総三とその同志」についても、幅広いパースペクティブに位置づけて理解する必要があることを感じる。

相楽総三の右腕ともいうべき同志の金原忠蔵(=竹内廉太郎)が、攘夷派時代の渋沢栄一の同志でもあり、しかも下総国葛飾郡小金(現在の鎌ヶ谷市)の豪農の子弟だった。そんなこともあって興味は尽きない。 まだもう少し、調べを進めてみたいと思う今日この頃である。 


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<関連サイト>

・・「赤報隊」に属して、相楽総三とともに下諏訪で捕縛され処刑された渋谷総司(しぶや・そうじ)は、下総国佐津間村(現在の鎌ケ谷市)の名主の出身であった。「鳥羽伏見の戦いの後、官軍は武力倒幕を目指して江戸へ進軍する。その最中慶応四年三月三日、八名の男たちが「偽官軍」として斬首処刑された男たちの中に佐津間出身の若者がいた。その名である」(サイトに記された文言より)。

郷土の資料 ~赤報隊について~(鎌ケ谷市立図書館)

(2023年5月9日 項目新設)



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■相楽総三とその同志とのつながりのあった尊皇攘夷の志士であった渋沢栄一




■下総と平田国学



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2021年12月17日金曜日

書評『相楽総三とその同志』(長谷川伸、中公文庫、1981)は、非命に斃れた草莽の志士たちの記録を心血を注いで掘り起こしたノンフィクションの鑑(かがみ)

 


昭和18年(1943年)に初版が出てからすでに80年近くたつ作品だ。購入してからすでに40年(!)もたっているが、通読したのは今回がはじめて。

ようやく読み終えたというのは、この2週間読んでいたということだけでなく、40年間のさまざまな思いを吐露したものでもある。作者の長谷川伸(1884~1963)も、この世を去ってからすでに60年近くたっている。

相楽総三(さがら・そうぞう)とは幕末の志士勤王派のいわゆる草莽(そうもう)の志士である。本名は小島四郎。大名貸で財をなした下総国相馬出身の富豪で、江戸に居住していた小島家に生まれた御曹司である。渋沢栄一もそうであったが、維新の志士には豪農や豪商出身者が少なくない。

相楽総三とその同志たちが結成したのは「赤報隊」(せきほうたい)その多くが藩の背景をもたない浪士で、剣術と平田国学の教えによって勤王派となった人たちであった。渋沢栄一が剣術を修行し、漢学を教養としていた点と好対照となるだろう。ただし、おなじ勤王とはいえ、平田国学と水戸学を中心とした陽明学の違いは意外と大きいかもしれない。

相楽総三が名をあげたのは「薩摩藩邸焼き討ち事件」である。この事件は、幕府を挑発するために薩摩藩の西郷隆盛が立案し実行させたものだ。西郷の指示を受けたの相楽総三ら関東浪士は、約300人の浪士を厚め、幕府に対して挑発行為を繰り返した結果、幕府側はまんまとそのワナに引っかかったのである。薩摩藩の「別働隊」として大きな役割を果たしたのである。

相楽総三とその同志の一部は、作戦展開上、焼き討ちされた薩摩藩邸から応戦せず、薩摩藩の軍艦で品川から命からがら脱出し、兵庫から上陸して陸路で京都に上洛している。その京都で「赤報隊」が結成された。

そこで相楽総三が強く主張したのは甲府を攻めて、江戸を背後から叩くという作戦だった。だが、官軍の意志に反したこの作戦の断行が、抗命とみなされることになる。

京都から中山道を経て信州の下諏訪に至り、そこを本拠地として活動していた最中に、非情にも西郷隆盛や岩倉具視の率いる官軍から「偽官軍」の汚名を着せられ、捕縛されさ辱めを受けたのち、弁明を述べることも赦されず、相楽以下数人は斬首され、しかもさらし首となった。粛清されたのである。ときに相楽総三30歳の最期であった。 死に際は立派であったという。

どうやら官軍側の認可のうえで、相楽が農民たちに約束した「年貢半減」が粛清の原因となったようだ。財源問題からそれが実行不可能と悟った官軍が、そのなかでも岩倉具視が、都合の悪くなった赤報隊を抹殺することに決したらしい。革命運動にはつきものの粛清とはいえ、悲劇的としかいいようがない。 


■相楽総三と「赤報隊」の名誉回復に60年

冤罪が雪がれ名誉回復がなされたのは、なんと死後60年たった昭和3年(1928年)のことであった。薩長が牛耳る藩閥政治が続いていたあいだ、相楽総三と赤報隊のことはタブーとなっていたのである。 

その名誉回復のストーリーが「木村亀太郎泣血記」として冒頭に置かれている。祖父の非命を知った孫が、長年にわたって奔走した結果、ようやく実現した血涙の記録である。 

この話のなかに、木村亀太郎が男爵となっていた渋沢栄一と対面し、助力を乞うたエピソードが登場する。

渋沢自身は、相楽総三とは直接面識はなかったが、その同志であった竹内練太郎(のちの金原忠蔵)などと一緒に高崎城焼き討ちを計画した同志だった。この未遂に終わったテロ計画と竹内練太郎の話は、渋沢栄一の自伝である『雨夜譚』でも語られている

その後、赤報隊に入った金原忠蔵こと竹内練太郎は、小諸藩との戦闘で戦死している。そんなこともあって、渋沢栄一もまた相楽総三とその同志たちの名誉回復には影ながら大きな支援をしたらしい。 

著者は「自序」でこう記している。なぜ相楽総三とその同志たちを取り上げたかの理由である。 

明治維新の鴻業は公卿と藩主と藩士と、学者、郷士、神道家、仏教家とから成ったの如く伝えられがちだが、そしてまた、関東は徳川幕府の勢力地域で、日本の西は討幕、東は援幕と印象づけられがちだが、その二つとも実相でないことを『相楽総三とその同志』は事実に拠って弁駁表明している・・

解説を執筆している弟子の村上元三氏によれば、またこのようにもつねづね言っていたという。 

明治維新というものは、京都の公家、薩摩や長州などの倒幕派、それに神官などだけで達成したものではない。関東の武士、ほかに賊軍とされて功績を地に埋もれさせられた名もなき人びと、世にごろつきといわれる人間たちの働きも、あずかって大きな力があった

相楽総三もまた、その一人であった。著者は「自序」の冒頭にこう記している。

相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のもとに死刑に処された関東勤王浪士と、その同志でありまたは同志であったことのある人びとのために、十有三年間、乏しき力を不断に注いで、ここまで漕ぎつけたこの一冊を「紙の記念碑」といい、は「筆の香華(こうげ)」と私はいっている。 

地味な内容で、あまり読まれないであろうことがわかっていながらも、著者はあえて取り組んだという。13年間の月日をかけて資料を集め、執筆し、自費出版で出したものだ。

たしかに、地味な内容である。だが、著者にとっては縁もゆかりもない人びとの、権力に都合によって抹殺された記録を掘り起こし、記録としてまとめたこの仕事は、大いに顕彰されるべきものであろう。 

相楽総三たちが処刑された下諏訪は、甲府とともにわたし自身も社会人になってからの数年間、出張で何度も通った地だ。かつて中山道の宿場町として栄えた地である。

だが、1980年代後半のその当時、下諏訪で相良総三のこと耳にしたことはまったくなかった。だから、この本を購入していながら読むこともなかったのだろう。問題意識がなかったのだからだろう。おなじく中公文庫から復刊された長谷川伸の『日本俘虜史 上下』のほうは大学時代に読んで大いに感心していたのだが・・。


■折口信夫が長谷川伸に直接伝えた「よいものを書いて頂いてありがとうございました」

購入してから40年目にして、ようやく読む決意を固めたのは、先日のことだが、村上一郎の『草莽論 ー その精神史的自己検証』(ちくま学術文庫、2018 初版1972)の末尾に近くにある文章を目にしたからである。この文章じたいがすばらしいので引用しておこう。(*太字ゴチックは引用者=さとう)


岩田正の『釋迢空』(紀伊國屋新書)によって知ったのだが、折口信夫は或る時、車中で長谷川伸と乗り合わせ、一面識もないこの作家につかつかと歩み寄り、名刺を出して、「よいものを書いて頂いてありがとうございました」とていねいにお辞儀をしたそうである。よいものとは、『相楽総三とその同志』のことであった。折口の久坂玄瑞の歌に対する渇仰は知られているが、東国草莽への想いも、ひとかたならぬものがあったことを知り、わたしは折口信夫を少しく好きになったのである。(P.285) 


おそらく折口信夫にとっては、平田国学に準じた草莽の志士たちのことが他人事ではなかったのではないだろうか。柳田國男も折口信夫もまたそうだが、日本民俗学は平田国学の圧倒的影響のもとに生まれたものであるからだ。

伊那の平田国学の徒は、下諏訪で処刑された相楽総三とその同志たちの死を悼んで「魁碑」(さきがけひ)を建立している。企画展の図録明治維新と平田国学』(国立歴史民俗博物館、2004)には、その図像が収録されている。


 (『明治維新と平田国学』(国立歴史民俗博物館、2004)より)


わたしもまた「維新の負け組の末裔」とはいえ、官軍であった「相楽総三とその同志」たちとは縁もゆかりもない者である。

だがそれにもかかわらず、折口信夫ならずとも「よいものを書いて頂いてありがとうございました」と、この場を借りていまは亡き著者には伝えたい。 


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PS 『相楽総三とその同志』の中公文庫版は現在入手不能だが(・・文庫版もあまり売れなかったようだ)、現在は講談社学術文庫から再刊されている。 


PS2 相楽総三と赤報隊

その後、相楽総三と赤報隊については、さまざまな研究蓄積がなされている。相楽総三については、『日本近代化の思想』(講談社学術文庫、1986)でも民衆史の鹿野政直氏が言及しているように、民衆史の観点から、とくに左派からは大きな関心を寄せられてきたようだ。とはいえ、先鞭をつけた本書の価値は、いささかなりとも減ずるものはないと言って過言ではないだろう。


PS3 「赤報隊」の前に「偽官軍」として処刑された事件があった

福岡在住の作家で郷土史家の浦辺登氏の教示で、赤報隊の前に「偽官軍」として処刑された事件があったことを知った。天草(熊本県)と宇佐(大分県)でおきた「花山院隊事件」である。この「偽官軍事件」の犠牲者である草莽の志士たちもまた、維新史に取り上げられことなく闇に消されていたらしい。非命に斃れた草莽の志士たちの鎮魂は、いまだ終わっていないのである。


PS4 相楽総三とその同志たちの肖像画なり写真は残されていないのはなぜか?

活動家やテロリストなどは当然だが、相楽総三とその同志もまた「地下活動」をしていたので、変名を使用しており、肖像画や写真が残されていないのは当然だと考えるべき。渋沢栄一の丁髷姿の写真は、幕臣となってフランス渡航前のものであり、近藤勇の写真もまた正式に幕臣になる前だが、浪士隊時代のものではなく、新選組隊長時代のものである。


PS4 「赤報隊」と名乗るテロリストについて

「赤報隊事件」とは、1987年に朝日新聞阪神支局で記者が散弾銃によって殺傷されたテロ事件だ。言論機関を狙った卑劣な犯罪である。当時から右翼関係者による犯行だとされていたが、迷宮入りしたまま時効が過ぎ、現在に至るまで真相が明らかになっていない。 朝日新聞記者の30年にわたる執念の取材の成果である『記者襲撃-赤報隊事件30年目の真実』(樋田毅、岩波書店、2018)は、「統一教会」関与疑惑に迫っている。テロリストの「赤報隊」と相楽総三の「赤報隊」には、なんら関係はない。

(2021年12月30日、2025年7月17日 情報追加)


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■相楽総三とその同志とのつながりのあった尊皇攘夷の志士であった渋沢栄一




■下総と平田国学



■相楽総三とその同志を切り捨て、死に追いやった岩倉具視と西郷隆盛


 



■下諏訪という土地の重層性

・・諏訪神社のある諏訪の重層的な土地柄についての話がある

(2021年12月20日、12月30日 情報追加)


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2021年12月4日土曜日

村上一郎氏の幕末関連書を読む ―『幕末 非命の維新者』(中公文庫、2017)と『草莽論 その精神史的自己検証』(ちくま学芸文庫、2018)


 
先日のことだが、購入してままとなっていた村上一郎の幕末維新の精神史2部作をようやく読んだ。『幕末-非命の維新者』(中公文庫、2017) と 『草莽論-その精神史的自己検証』(ちくま学芸文庫、2018)の2冊である。

それぞれ初版は1968年と1972年。すでに半世紀以上の月日が経っているが、1970年前後がどういう時代であったのか、あえてくだくだしく説明することもなかろう。


『幕末-非命の維新者』について

『幕末-非命の維新者』は、もともとのタイトルは『非命の維新者』であったらしい。「非命」と「維新者」この2つのことばがキーワードである。

非命にも志半ばにして斃れていった有名・無名の志士たち。そのなかから、大塩平八郎、橋本左内、藤田三代(幽谷・東湖・小四郎)、真木和泉守、三人の詩人(佐久良東雄・伴林光平・雲井竜雄)が取り上げられる。

大塩平八郎から始まるのは、西暦でいえば19世紀初頭から前半にかけての「化政時代」(=文化文政時代)から覚醒が始まった日本の民衆の変革意識をリードした人物として重視するからだという。たしかにその「檄文」を読めば大いに納得するものがある。

著者の村上氏が大いに共感を寄せているのは、藤田三代であり、三人の詩人である。この詩人たちについては、わたしはよく知らなかったが、歌人でもある著者によって紹介していただいたことに大いに感謝したい。

精神史を語るには、志を述べた詩文の存在は欠かせないからだ。「知」だけでは人は動かない。「情」こそ人を動かしうる行動のともなわない思想に生命はない。行動に火を着ける情熱こそ、術志の和歌や漢詩に体現されるものだ。

文庫本解説を書いているのは渡辺京二氏。編集者時代の1回限りの接触について語りながら、戊辰戦争以来の九州嫌いであった村上氏の東国人の真情を思いやる。渡辺氏は熊本在住の作家である。

渡辺氏自身、長きにわたって敬遠しつづけてきたにもかかわらず、この文庫版の解説を書くにあたって初めて通読し、好きになってしまったと語る。本文に劣らず、この解説もまたすばらしい文章だ。何度も繰り返し読んでいる。

「文は人なり」は、村上一郎氏だけでなく、渡辺京二氏についても言えることだ。



■『草莽論-その精神史的自己検証』について

『草莽論-その精神史的自己検証』だが、『非命の維新者』の4年後に書かれたこの本では、「草莽」(そうもう)について、著者自らの生き様を重ねあわせながら熱く語られる

とりあげられているのは、「預言者」としての蒲生君平と高山彦九郎「在野の文人」としての頼山陽や「文化の三蔵」(平山行蔵・近藤重蔵・間宮林蔵)「水戸学」の藤田一門と会沢正志斎。そして全体の半分近くを占めているのが吉田松陰である。

諸国遊歴のなか、真っ先に水戸を訪れて会沢正志斎と何度も面談し、「東国」に触れることで思想が深化した吉田松陰は、著者が書きたくて書いた文章であることは、読んでいてよく感じられる。わたしも読んでいて、吉田松陰のことが好きになってきた。ファナティックな傾向をもつ松陰のことは、それほど好きではなかったのだが。

正直な感想としては、『非命の維新者』と『草莽論』の2冊のなかでは、前者のほうがはるかに完成度が高く、密度も濃いように思う。

もちろん後者が劣るというのではない。ただ、この本を読んでしまうと、もう「草莽」ということばを軽々しくも口にすることが出来なくなってしまうような気がするからだ。それほど著者自身の熱い情念を感じさせる本なのである。

幕末維新の革命がいかなる土壌から発生し、覚醒をはじめた日本の民衆による一大運動となりながらも、最終的に薩長の武力によって革命の成果が奪い取られたか、その無念さと怒りが「東国人」としての著者(・・栃木県の宇都宮育ち)の根底にある。

その情念を知り、どの程度までかは別にして感じ取り共感することが、これらの本を読むことの意味なのである。

そう思うのは、さらに古本で『日本軍隊論序説』(新人物往来社、1973)取り寄せ、収録されている「戊辰戦争」と河井継之助にかんする文章を読んで、さらにその思いを強くしたからだ。

この本のキーワードは、「草莽」のほか、「恋闕」(れんけつ)と「自任」にあるといっていいだろう。天皇への熱烈な思いが「恋闕」。そして「自任」とは、自らが任ずるという意味。自分が向かうべき方向を自覚した精神態度のことである。勤王派の志士たちの根底にあったものだ。




■村上一郎氏との最初の「出会い」から40年

著者の村上一郎氏(1920~1975)は、東京生まれの宇都宮育ちの作家・歌人・編集者。紀伊國屋書店の編集を手伝い、紀伊國屋新書の傑作をつぎつぎと世に出している。

東京商大(現在の一橋大学)で社会思想史の高島善哉ゼミで水田洋氏の後輩。英国市民社会成立にかんする論文を書いて卒業

学徒出陣ではなく、短期現役士官制度で志願して海軍に入隊、海軍主計大尉として敗戦を迎える。艦隊勤務ではなく、東京の勤務であったため戦死は免れたが、東京大空襲の悲惨さを体験している。

戦後は、編集者などやりながら作家として活動した人。また術志を歌う歌人でもあった。

最期は、愛蔵の日本刀で右頸動脈を斬って自刃。1975年のことだ。右翼的心情の持ち主だが、左翼に惹かれ、それを戦中戦後も貫きながらも、左翼や右翼を越えた「情念の人」であった、というのがわたしの理解だ。 

「知」と「情」のせめぎ合いのなかで葛藤したが、やはり後者の「情」がまさっていたのであろう。




村上一郎氏についてはじめて知ったのは、たしか大学1年か2年のことだったと思う。一橋大学図書館小平分館2階の開架式書庫で手にとった本が村上氏の本だった。陽光のあたる明るい図書館の奥は、ほとんど誰もやってこない空間だった。図書館に住みたいと思った頃である。

書名はまったく覚えていないのだが、日本刀で自刃したことと、在りし日の写真が掲載されていた。海軍出身で、しかも東京商大卒であることを知った。大学の先輩に、そんな人がいたのだ、と。

自分が大学に入ったのは1981年のことだから、いまから考えれば1975年の自刃からまだ6年くらいしか経っていなかったわけだ。1970年の三島由紀夫の自決ほど有名ではないが、それなりのインパクトをもった事件だったらしい。 村上一郎氏のことは、その名前とともに強い印象をともなって記憶されることになった。

だが、村上氏の本は借り出して読んだわけではない。ほとんど誰も来ない書庫のなかで立ち読みしただけだ。後期課程に進学してからは小平分館には行く機会がなかったので、その後は村上氏のことは記憶の底に沈んでいたようだ。

それ以来、村上一郎氏は右翼だと思い込んでそのままになってしまっていたのは、そのためでもある。三島由紀夫と一対(つい)で記憶されることになった。

だが、村上一郎氏に対する関心はそれ以上は深入りすることなく、記憶の底に沈んだまま約40年近くもたってしまった。

ふたたび目にしたのは『幕末-非命の維新者』が文庫として出版された2017年のことだ。そんな本を出していたのかと、本のテーマと村上氏の名前で購入した。大学1年の最初の「出会い」から、すでに36年もたっていたことになる。

あらためて村上一郎について読むキッカケとなったのが、先日のことだが『ある精神の軌跡』(水田洋、現代教養文庫、1985 初版1978年)を読んだことにある。水田氏の回想のなかに、その後輩であった村上一郎氏のことが何度もでてくるからだ。注記される形で言及されていたのが村上一郎氏の自伝『振りさけ見れば』である。




水田氏は、東京商科大学で高島善哉ゼミの先輩。ホッブズの『リヴァイアサン』をはじめて日本語訳した社会思想史の大家である。その水田洋氏の後輩が村上一郎氏であり、しかも高島善哉ゼミ出身であることを知って驚いた。最期は日本刀で自刃した、右翼とも見まごうべき人が、なんと「左翼」と見なされていた高島善哉の弟子だったとは!

いまあらためて村上一郎氏の著作をいろいろ取り寄せて読み、村上氏の東京商大時代の1年先輩にあたる思想史の水田洋氏(・・100歳を越えてなお現役の研究者!*)、そして二人の共通の師である高島善哉教授について、関心を新たにしている。 

*大先輩にあたる水田洋氏だが、2023年2月2日に103歳(!)でお亡くなりになった。あらためて先駆的業績に対して敬意を表し、この場を借りてご冥福を祈りたい。(2024年5月1日 記す)


『社会科学入門』(岩波新書)の著者である高島善哉氏は、一度だけその話を聴講したことがある。

大学学部時代の前期で学園祭かなにかの企画で呼ばれた際、アダム・スミスの話かなにかの話をされたと思うのだが、話の中身は記憶にない。あまり自分の趣味ではなかったからだ。盲目の研究者であったため、周囲に支えながら登壇し退場した、その風貌しか記憶にない。

ただし、教科書であった『現代の社会科学』(高島善哉編著、春秋社、1974)は、それこそすり切れるほど、何度も繰り返し読んでいる。 弟子の水田洋氏も執筆している。高島善哉の門下が総力をあげて執筆したソフトカバーの教科書である。

高島善哉氏や水田洋氏との関係の深い人だったことを知り、村上一郎氏についての関心が自分のなかでさらに大いに高まっている。右翼として片付けられるような単純な人物ではなかったのだ、と。




これもまた先日入手して、はじめて存在を知ったのだが、なるほど『世界の思想家たち-人と名言』(現代教養文庫、1966)なんていう本を、単独執筆するような人だったのだ。このベースの上に、『非命の維新者』(1968年)や『草莽』(1972年)が書かれていることに注目したい。

この本は、アジアから始まり、インド・中国を経て日本の思想家を取り上げ、そのあとで西洋の思想家を取り上げる。この構成は上原専禄編著の『日本国民の世界史』に似ているような気がするのだが、はたして意識していたのかどうか。

高島善哉と上原専禄が、戦後の一橋大学社会学部の創設メンバーとして並び立つ存在であったことを考えれば、不自然な話ではないと思う。いずれにせよ、この本が埋もれてしまったのは惜しいことだ。 

没後に出版された未完の自伝『振りさけ見れば』(村上一郎、而立書房、1975)や、死別した元配偶者の語りをまとめたノンフィクション『無名鬼の妻』(山口弘子、作品社、2017)を読んで、村上一郎という人について考える今日この頃である。 「無名鬼」とは、村上一郎氏が単独編集していた文芸誌のタイトルのことである。




未亡人によれば、『人生とはなにか』(村上一郎、現代教養文庫、1963)がいちばん好きな亡夫の著作であるという。戦後は病苦に悩み、躁鬱病を患っていた村上一郎氏。自刃の直接のきっかけは、どうやら鬱状態から躁状態への回復期に向かいはじめた時期にあったようだ。



(追記) さらに『磁場 臨時増刊 村上一郎追悼集』(国文社、1975)を古書として入手。大学時代に手にした書籍とは違うが、村上一郎への追悼文を読んで、さらに深入りしている。(2021年12月18日 記す)





<関連サイト>

「ナショナルなもの」の見方、あるいは「常識」――高島善哉を通じて 紀伊國屋書店員さんおすすめの本(大籔宏一、朝日新聞「じんぶん堂」、2021年4月12日)
・・紀伊國屋書店とは縁の深い村上一郎の『草莽論』と、その師であった高島善哉の『民族と階級』を取り上げ、師弟に共通する「ナショナルなもの」への視点を指摘した読ませるエッセイ。
高島善哉とその特異な弟子であった村上一郎との関係は、表面的なものでは捉えきれないものがあるだけではない。左翼とみなされてきた高島善哉という社会科学者をただしく理解するために重要な指摘がなされている。

(2021年12月23日 項目新設)



<ブログ内関連記事>







・・この戦没商大生・板尾興市(いたお・こういち)氏もまた高島善哉の弟子であった

・・上原専禄は一橋大学社会学部の創設者。高島善哉とならんで初期の社会学部を代表する存在であった。水田洋の『わが精神の軌跡』には、戦前の上原専禄が登場する。自宅にうかがった際に、長男が一高の制服姿で、上原専禄と並んで(法華経を)読経させられていた息子をかわいそうにと思ったことがある、と。

・・ことし2021年は「渡部昇一」と「村上一郎」にはまった1年となった。いずれも故人。前者は庄内・鶴岡の人、後者は栃木の宇都宮の人。それぞれ東北人と東国人だが、前者の庄内は西郷隆盛の風土、後者は薩摩嫌いという違いはある。東国人を十把一絡げに捉えてはいけない

(2024年5月1日 情報追加)


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