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2023年4月16日日曜日

「平田篤胤の机」を見るため、篤胤の息吹(いぶき)を感じるため、著作の執筆に命をかけた人生を感じるために 国立歴史民俗博物館に行く



2004年の企画展「明治維新と平田国学」展でその全貌が展示され、当時は東京に住んでいたわたしも佐倉まで見に行っている。その遺品の一部が常設展示されているのだ。

この机もまたそうだ。複製ではなく本物である。 

平田篤胤が執筆のために、特別にあしらえた机には、左手の肘の部分に穴が開いている膨大な量の著作を執筆しまくった篤胤にとって、まさに「人机一体」(じんきいったい)となっていたのだろう。 

水木しげる『神秘家列伝 其の参』(角川ソフィア文庫、2000)より。怪人アリャマタ(=荒俣宏氏)とともに平田篤胤の世界を探訪する)

復古神道の提唱者で、国粋思想を吹きまくったとして、敗戦後の日本では不当にも抹殺に近い扱いを受けていた篤胤だが、荒俣宏氏などの精力的な紹介によって、とくに2000年代以降になってから再評価が始まっている。 

とくに近年は、死後の世界である異世界ワールドにいって、帰ってきた人たちへの聞き取り調査の記録である『仙境異聞』などで、篤胤のことを知った人も少なくないのではないかな。 

柳田國男や折口信夫の民俗学は、平田国学の直系であることを知っておく必要がある。 

医学からロシア語、仏典から天文学まで、ありとあらゆる学問をおさめたのち、最終的には「日本人の魂のゆくえ」の明らかにして、大きな影響力をもつに至る。この人こそ「知の巨人」と呼ぶのがふさわしい。 

幕末維新の原動力となったのが、水戸学とならんで平田国学であったことは、島崎藤村の『夜明け前』で知られていることだろう。そして明治維新後の敗退と平田派の排斥まで。

藤村の父は、発狂の末に座敷牢に閉じ込められ、憤死してしまった。 

篤胤の書斎兼私塾は「息吹舎」(いぶきのや)と命名されていた。 その息吹舎におかれていた平田篤胤の机を見るために、ときどき国立歴史民俗博物館にいく。

篤胤の息吹(いぶき)を感じるため、著作の執筆に命をかけた人生を感じるために。

直近に訪れたは、ことし2023年の2月のことである。 




PS 平田篤胤と「天の石笛」(あまのいわぶえ)

 江戸時代の旅の実体を知るために注文しておいた、『江戸の旅を読む』(板坂耀子、ぺりかん社、2002)が届いたので、パラパラとページをめくっていたら、「『天石笛之記』が描く平田篤胤 ー ある国学者の資料収集」という論文が入っていた。

 おお、なんたる偶然よ。またまた引き寄せてしまったな。まったく知らずに注文した本のなかに、こんな重要論文を見いだすとは。

(平田篤胤が「天の石笛」を発見するシーン 同上)

 「天の石笛」とは、穴があいていて、吹くと霊妙な音がでる天然石のことだ。山伏のホラ貝みたいなものである。

 平田篤胤について書いた著者が、ほとんど無視してきた、あるいはちょっと触れる程度に済ませてきた「天の石笛」。銚子訪問に際に入手した、その経緯について、同行して現場に立ち会わせた門人によって記録された紀行文。その解説をした論文だ。論文に引用された門人にいるこの文章を読むと、人間・篤胤の息吹が伝わってくるようだ。


 それにしても「引き寄せ」というのは、おもしろい現象だ。



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2021年12月29日水曜日

江戸時代後期から幕末期の利根川下流域の「東総」では「平田国学」と「大原幽学の性学」は競合関係にあった



千葉県は東京都の隣にあるが、居住者や出身者のほかには意外にもあまりその内情を知られていないような気がする。 

わたし自身も京都府生まれで千葉県の出身ではないが、長年にわたって千葉県と東京都に生きてきたので、居住者としての土地勘や愛着といったものがある。 

とはいっても、関心の中心はどうしても房総半島まではあまり及んでいない。関心はもっぱら下総国(しもうさのくに)にある。律令制によって定められた下総国の国府は、現在も市川市の国府台(こうのだい)という地名で存在し、江戸川の東岸の高台に立地している。 


(下総国における葛飾郡の位置 「葛飾区史」より)

下総国を区分すると北総(ほくそう)と東総(とうそう)になる。南総(なんそう)は房総半島の上総国と安房国。わたしが現在住んでいる船橋市は「葛飾」であり、さらに限定していえば「東葛」となる。現在の東京都葛飾区だけが葛飾ではない。かつて 松戸や柏から船橋あたりは葛飾であった。真間の手児奈伝説のある市川市の真間も葛飾である。

(拡大図 同上)

■「東総」はかつて平田国学の一大中心地であった

「東総」の江戸時代後期から幕末維新に至る歴史は興味深いものがある。先にもみた利根川下流域の一帯である。ここには、「東国三社」とされる鹿島神宮・香取神宮・息栖神社鎮座まします地域。霞ヶ浦の水域でもある。 

東総が面白いのは、佐原からは日本全図を完成した伊能忠敬がでているように(・・かれは隠居後に天文学を学ぶため江戸に出た)、江戸時代においては河川物流によって栄えた地域であることだ。太平洋から銚子から利根川に入り、江戸までつながった水路は、かつてはロジスティクスのメインルートであった。 

そんな土地柄ゆえか、この地域は「平田国学」を支える重要な地域でもあったのだ。「平田国学」とは平田篤胤による国学で、幕末にかけては水戸学とならんで変革の原動力となったものだ。 


この事情については、かつて2004年に国立歴史民俗博物館で開催された「明治維新と平田国学」という企画展示で知られることになった。平田宗家から寄贈された史料を整理して展示したこの企画は、じつに素晴らしいものがあった。特別展でも取り上げられた平田国学と平田篤胤の遺品は、現在でも「常設展示」にその一部を見ることができる。 

平田国学というと、島崎藤村の『夜明け前』で知られているように、木曽路の馬籠宿がその中心であったが、東総もまた平田国学を支えた地域であったのだ。 その担い手は豪農層であった。名主や庄屋は、村を代表する存在で教育程度も高かった。しかも、この地域は消費社会化が進展していた。

一方ではこの地域には、農業改革家で教育家の大原幽学が活動した地域でもある。農業改革家としては小田原出身の二宮尊徳ほど知られていないが、「先祖株組合」という世界初(?)の農業協同組合によって地域農業立て直しを行った人物として知られている。教育家としても知られている。 

平田国学と大原幽学の性学の関係はどうだったのか、よくわからなかった。ほぼ同時期の現象でありながら、この両者が同時に論じられることがないからだ。 



興味深いことに、大原幽学と宮負定雄は、同年に生まれ同年に死んでいる。生年は1797年に生まれ、没年は1858年である。いずれも黒船来航で混乱する幕末期に生き、生涯を終えているのだ。ちなみに二宮尊徳(1787~1856)は、かれらより10年年上で、2年早く死んでいる。 

大原幽学は尾張あたりに生まれた武士だが、故あって浪人となり4000人強(!)の友人に支えられて生きてきた人だ。最終的に定住したのが東総、その土地に生まれ名主として地域のリーダーであったのが宮負定雄。大原幽学も宮負定雄も、その当時の主要産業であった農業立て直しに尽力した点は共通している。

『大原幽学と幕末村落社会-改心楼始末記』(高橋敏、岩波書店、2005)によれば、 18歳で勘当されたが、父からは「死ぬまで武士として生きよ」と言われ、そのことばを終生守りきったらしい。

大原幽学は、その教団ともいうべき集団の求心力として建設された「改心楼」が、幕府の疑惑を呼び起こして破壊された「改心楼事件」が、足かけ6年にもおよぶ江戸裁判が決着したあと自決している。

ただ一人で、見事なまでに作法に則り、介錯ないしで割腹自殺したのである!

腹を切ったあとは服装をただし、さらに短刀で喉を突き、流れ込む血を吐き捨てたあと、静かに瞑目して息を引き取ったとのことだ。介錯なしの割腹!であったことには驚きを禁じ得ない。三島由紀夫が霞んでしまう。

(大原幽学 「大原幽学記念館」のウェブサイト画像を加工)

東総の平田国学は、平田篤胤自身が二度にわたって来訪していることもあって、早い段階から門人が誕生しているが(・・船橋大神宮の大宮司も門人であったようだ)、大原幽学の盛名があがりはじめた時期に、平田国学の門人の新規加入者の動きがぱたっと止んだらしい。なるほど、両者は競合関係にあったわけである。 

平田国学が「復古神道」であったのに対し、大原幽学の性学は「儒教をもとにした通俗道徳」であった。前者は知識階層にはアピールしても、一般庶民には通俗道徳のほうがしっくりきたのかもしれない。 

(宮負定雄 『平田国学と明治維新』より)

平田国学から大原幽学に鞍替えした有力者もいたなかで、宮負定雄は平田篤胤の熱心な門人であることはやめず生涯を貫いている。名主という豪農層の出身であったが、農政家のみならず、国学者として数々の著作をものしている。柳田國男も参照している『奇談雑史』は、平田篤胤の異界研究の系譜にあるフィールドワークの成果で、ちくま学芸文庫として文庫化されており、現在でも入手可能だ。


それやこれやで書いていると長くなるので、ここらへんでやめるが、東総における平田国学と大原幽学は面白いテーマであるので、ひきつづき細々とフォローしていきたいと思っている。 

ただ残念なのは、千葉県の地方出版であった崙書房が廃業してしまったため、過去の出版物も入手困難となっていることだ。地方史をささえてきた地方出版の意味はもっとよく意識したほうがいい。 できれば、あらたに立ち上げる人が現れてきてほしいものだ。




<関連サイト>

・・宮地正人氏の基調講演「平田国学の幕末維新」ほか発表資料が Pdfファイルで読める。

「飢饉のとき餓死者を出さないように努めるのが村長の役目だと言い続けてきた下総国香取郡松沢村の名主宮負定雄が気が狂ったと一八三四年三月に手紙で気吹舎(いぶきのや)に急報した同村熊野神社の神職宇井出羽は、大原幽学の性理学に基づいた農村復興運動に参加することになりました。・・」との記述がある。

(2022年2月15日 情報追加)


<ブログ内関連記事>


・・利根川中流域の布川で、柳田國男は少年時代を過ごしている

・・平田篤胤関係の遺品の一部が常設展示されている

・・二宮尊徳は、成田山で21日間の断食修行を行っている


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2021年12月17日金曜日

書評『相楽総三とその同志』(長谷川伸、中公文庫、1981)は、非命に斃れた草莽の志士たちの記録を心血を注いで掘り起こしたノンフィクションの鑑(かがみ)

 


昭和18年(1943年)に初版が出てからすでに80年近くたつ作品だ。購入してからすでに40年(!)もたっているが、通読したのは今回がはじめて。

ようやく読み終えたというのは、この2週間読んでいたということだけでなく、40年間のさまざまな思いを吐露したものでもある。作者の長谷川伸(1884~1963)も、この世を去ってからすでに60年近くたっている。

相楽総三(さがら・そうぞう)とは幕末の志士勤王派のいわゆる草莽(そうもう)の志士である。本名は小島四郎。大名貸で財をなした下総国相馬出身の富豪で、江戸に居住していた小島家に生まれた御曹司である。渋沢栄一もそうであったが、維新の志士には豪農や豪商出身者が少なくない。

相楽総三とその同志たちが結成したのは「赤報隊」(せきほうたい)その多くが藩の背景をもたない浪士で、剣術と平田国学の教えによって勤王派となった人たちであった。渋沢栄一が剣術を修行し、漢学を教養としていた点と好対照となるだろう。ただし、おなじ勤王とはいえ、平田国学と水戸学を中心とした陽明学の違いは意外と大きいかもしれない。

相楽総三が名をあげたのは「薩摩藩邸焼き討ち事件」である。この事件は、幕府を挑発するために薩摩藩の西郷隆盛が立案し実行させたものだ。西郷の指示を受けたの相楽総三ら関東浪士は、約300人の浪士を厚め、幕府に対して挑発行為を繰り返した結果、幕府側はまんまとそのワナに引っかかったのである。薩摩藩の「別働隊」として大きな役割を果たしたのである。

相楽総三とその同志の一部は、作戦展開上、焼き討ちされた薩摩藩邸から応戦せず、薩摩藩の軍艦で品川から命からがら脱出し、兵庫から上陸して陸路で京都に上洛している。その京都で「赤報隊」が結成された。

そこで相楽総三が強く主張したのは甲府を攻めて、江戸を背後から叩くという作戦だった。だが、官軍の意志に反したこの作戦の断行が、抗命とみなされることになる。

京都から中山道を経て信州の下諏訪に至り、そこを本拠地として活動していた最中に、非情にも西郷隆盛や岩倉具視の率いる官軍から「偽官軍」の汚名を着せられ、捕縛されさ辱めを受けたのち、弁明を述べることも赦されず、相楽以下数人は斬首され、しかもさらし首となった。粛清されたのである。ときに相楽総三30歳の最期であった。 死に際は立派であったという。

どうやら官軍側の認可のうえで、相楽が農民たちに約束した「年貢半減」が粛清の原因となったようだ。財源問題からそれが実行不可能と悟った官軍が、そのなかでも岩倉具視が、都合の悪くなった赤報隊を抹殺することに決したらしい。革命運動にはつきものの粛清とはいえ、悲劇的としかいいようがない。 


■相楽総三と「赤報隊」の名誉回復に60年

冤罪が雪がれ名誉回復がなされたのは、なんと死後60年たった昭和3年(1928年)のことであった。薩長が牛耳る藩閥政治が続いていたあいだ、相楽総三と赤報隊のことはタブーとなっていたのである。 

その名誉回復のストーリーが「木村亀太郎泣血記」として冒頭に置かれている。祖父の非命を知った孫が、長年にわたって奔走した結果、ようやく実現した血涙の記録である。 

この話のなかに、木村亀太郎が男爵となっていた渋沢栄一と対面し、助力を乞うたエピソードが登場する。

渋沢自身は、相楽総三とは直接面識はなかったが、その同志であった竹内練太郎(のちの金原忠蔵)などと一緒に高崎城焼き討ちを計画した同志だった。この未遂に終わったテロ計画と竹内練太郎の話は、渋沢栄一の自伝である『雨夜譚』でも語られている

その後、赤報隊に入った金原忠蔵こと竹内練太郎は、小諸藩との戦闘で戦死している。そんなこともあって、渋沢栄一もまた相楽総三とその同志たちの名誉回復には影ながら大きな支援をしたらしい。 

著者は「自序」でこう記している。なぜ相楽総三とその同志たちを取り上げたかの理由である。 

明治維新の鴻業は公卿と藩主と藩士と、学者、郷士、神道家、仏教家とから成ったの如く伝えられがちだが、そしてまた、関東は徳川幕府の勢力地域で、日本の西は討幕、東は援幕と印象づけられがちだが、その二つとも実相でないことを『相楽総三とその同志』は事実に拠って弁駁表明している・・

解説を執筆している弟子の村上元三氏によれば、またこのようにもつねづね言っていたという。 

明治維新というものは、京都の公家、薩摩や長州などの倒幕派、それに神官などだけで達成したものではない。関東の武士、ほかに賊軍とされて功績を地に埋もれさせられた名もなき人びと、世にごろつきといわれる人間たちの働きも、あずかって大きな力があった

相楽総三もまた、その一人であった。著者は「自序」の冒頭にこう記している。

相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のもとに死刑に処された関東勤王浪士と、その同志でありまたは同志であったことのある人びとのために、十有三年間、乏しき力を不断に注いで、ここまで漕ぎつけたこの一冊を「紙の記念碑」といい、は「筆の香華(こうげ)」と私はいっている。 

地味な内容で、あまり読まれないであろうことがわかっていながらも、著者はあえて取り組んだという。13年間の月日をかけて資料を集め、執筆し、自費出版で出したものだ。

たしかに、地味な内容である。だが、著者にとっては縁もゆかりもない人びとの、権力に都合によって抹殺された記録を掘り起こし、記録としてまとめたこの仕事は、大いに顕彰されるべきものであろう。 

相楽総三たちが処刑された下諏訪は、甲府とともにわたし自身も社会人になってからの数年間、出張で何度も通った地だ。かつて中山道の宿場町として栄えた地である。

だが、1980年代後半のその当時、下諏訪で相良総三のこと耳にしたことはまったくなかった。だから、この本を購入していながら読むこともなかったのだろう。問題意識がなかったのだからだろう。おなじく中公文庫から復刊された長谷川伸の『日本俘虜史 上下』のほうは大学時代に読んで大いに感心していたのだが・・。


■折口信夫が長谷川伸に直接伝えた「よいものを書いて頂いてありがとうございました」

購入してから40年目にして、ようやく読む決意を固めたのは、先日のことだが、村上一郎の『草莽論 ー その精神史的自己検証』(ちくま学術文庫、2018 初版1972)の末尾に近くにある文章を目にしたからである。この文章じたいがすばらしいので引用しておこう。(*太字ゴチックは引用者=さとう)


岩田正の『釋迢空』(紀伊國屋新書)によって知ったのだが、折口信夫は或る時、車中で長谷川伸と乗り合わせ、一面識もないこの作家につかつかと歩み寄り、名刺を出して、「よいものを書いて頂いてありがとうございました」とていねいにお辞儀をしたそうである。よいものとは、『相楽総三とその同志』のことであった。折口の久坂玄瑞の歌に対する渇仰は知られているが、東国草莽への想いも、ひとかたならぬものがあったことを知り、わたしは折口信夫を少しく好きになったのである。(P.285) 


おそらく折口信夫にとっては、平田国学に準じた草莽の志士たちのことが他人事ではなかったのではないだろうか。柳田國男も折口信夫もまたそうだが、日本民俗学は平田国学の圧倒的影響のもとに生まれたものであるからだ。

伊那の平田国学の徒は、下諏訪で処刑された相楽総三とその同志たちの死を悼んで「魁碑」(さきがけひ)を建立している。企画展の図録明治維新と平田国学』(国立歴史民俗博物館、2004)には、その図像が収録されている。


 (『明治維新と平田国学』(国立歴史民俗博物館、2004)より)


わたしもまた「維新の負け組の末裔」とはいえ、官軍であった「相楽総三とその同志」たちとは縁もゆかりもない者である。

だがそれにもかかわらず、折口信夫ならずとも「よいものを書いて頂いてありがとうございました」と、この場を借りていまは亡き著者には伝えたい。 


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PS 『相楽総三とその同志』の中公文庫版は現在入手不能だが(・・文庫版もあまり売れなかったようだ)、現在は講談社学術文庫から再刊されている。 


PS2 相楽総三と赤報隊

その後、相楽総三と赤報隊については、さまざまな研究蓄積がなされている。相楽総三については、『日本近代化の思想』(講談社学術文庫、1986)でも民衆史の鹿野政直氏が言及しているように、民衆史の観点から、とくに左派からは大きな関心を寄せられてきたようだ。とはいえ、先鞭をつけた本書の価値は、いささかなりとも減ずるものはないと言って過言ではないだろう。


PS3 「赤報隊」の前に「偽官軍」として処刑された事件があった

福岡在住の作家で郷土史家の浦辺登氏の教示で、赤報隊の前に「偽官軍」として処刑された事件があったことを知った。天草(熊本県)と宇佐(大分県)でおきた「花山院隊事件」である。この「偽官軍事件」の犠牲者である草莽の志士たちもまた、維新史に取り上げられことなく闇に消されていたらしい。非命に斃れた草莽の志士たちの鎮魂は、いまだ終わっていないのである。


PS4 相楽総三とその同志たちの肖像画なり写真は残されていないのはなぜか?

活動家やテロリストなどは当然だが、相楽総三とその同志もまた「地下活動」をしていたので、変名を使用しており、肖像画や写真が残されていないのは当然だと考えるべき。渋沢栄一の丁髷姿の写真は、幕臣となってフランス渡航前のものであり、近藤勇の写真もまた正式に幕臣になる前だが、浪士隊時代のものではなく、新選組隊長時代のものである。


PS4 「赤報隊」と名乗るテロリストについて

「赤報隊事件」とは、1987年に朝日新聞阪神支局で記者が散弾銃によって殺傷されたテロ事件だ。言論機関を狙った卑劣な犯罪である。当時から右翼関係者による犯行だとされていたが、迷宮入りしたまま時効が過ぎ、現在に至るまで真相が明らかになっていない。 朝日新聞記者の30年にわたる執念の取材の成果である『記者襲撃-赤報隊事件30年目の真実』(樋田毅、岩波書店、2018)は、「統一教会」関与疑惑に迫っている。テロリストの「赤報隊」と相楽総三の「赤報隊」には、なんら関係はない。

(2021年12月30日、2025年7月17日 情報追加)


<ブログ内関連記事>




■相楽総三とその同志とのつながりのあった尊皇攘夷の志士であった渋沢栄一




■下総と平田国学



■相楽総三とその同志を切り捨て、死に追いやった岩倉具視と西郷隆盛


 



■下諏訪という土地の重層性

・・諏訪神社のある諏訪の重層的な土地柄についての話がある

(2021年12月20日、12月30日 情報追加)


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