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2023年12月21日木曜日

書評『古代の鉄と神々』(真弓常忠、ちくま学術文庫、2018 初版1985年)ー 稲作と鉄器がセットになった弥生時代以降の古代史は「文理融合」の観点から「砂鉄以前」と「砂鉄以後」で考えることが必要だ

(文庫版カバーに「褐鉄鉱」)


『古代の鉄と神々』(真弓常忠、ちくま学術文庫、2018 初版1985年)という本は、リアル書店の店頭で「発見」した本だ。

棚差しになっているタイトルが目に飛び込んできて手に取った。おお、こんな本があったのか、と。それまでまったく知らなかったのだ。

購入後しばらく寝かせたままにしていたが、いまこのタイミングで読むことにしたのは、『大地の五億年』という本を読んでいて、その第1章「土の来た道:逆境を乗り越えた植物たち」に、水中で育つイネ科の植物においては、根っこの周りに赤さびが発生するといいうことが書かれていたからだ。

これを「高師小僧」(たかし・こぞう)というらしい。愛知県豊橋市でよく見られるらしい。はじめて知った。


(イネ科の植物の根に形成される赤さび 『大地の五億年』第1章より)


そいえば、『古代の鉄と神々』という本があったな。稲作と鉄はセットで語られることが多いが、農耕と農具という組み合わせ以外にも、稲と鉄にはなにか重要な関係があるのかもしれないな、と。

そう思って文庫本を取り出してきたら、カバーのウラに書かれた書籍紹介の文章には、こう書かれている。


葦や茅の根の周辺では、鉄バクテリアの作用により褐鉄鉱の団塊が作られることがある。俗に「高師小僧」と呼ばれるこの団塊から、鉄を製錬する技術が弥生時代に存在した―。腐食しやすいために考古学的資料として姿を現さないその褐鉄鉱の痕跡を、著者は神話や祭祀のなかに見出していく。(・・後略・・)


そうか、稲作と鉄の関係は、意外と深いものがあるのかもしれない。自然科学の知見が古代史の解明につながっているのかもしれない。そう思って、つづけて読むことにしたのだ。なお、『古代の鉄と神々』は、『大地の五億年』の参考文献にはでていない。



■弥生時代における「稲作と鉄の関係」は二段階にわける必要がある

稲作と鉄器がセットになって、いわゆる弥生人が渡来人として日本にもたらしたといいうのが教科書的な「常識」だ。つまりイネも農具としての鉄器も輸入品なのだ、と。

ところが、鉄器は日本国内でも製造されていた。いわゆる「たたら」による製鉄である。日本で豊富に産出する「砂鉄」を使用したものだ。

しかも、砂鉄がつかわれるようになる以前は、「褐鉄鉱」がつかわれていた。これが本書のキモである。

褐鉄鉱(limonite)とは鉄酸化物のかたまりのことだ。イネ科の植物の水中の根っこの周りに形成されるものである。さきにでてきた「高師小僧」はその代表例である。




(褐鉄鉱 Wikipediaより)


『大地の五億年』の記述によれば、イネだけでなく、アシやヨシ、カヤなどのイネ科の植物が水中に根を張っていても窒息しないのは、地上から根っこに酸素を送るシステムがあるからなのだ、という。通気できる根っこである。


(『大地の五億年』第1章より)

その酸素が土のなかの鉄と反応して、鉄酸化物の被膜ができあがる。鉄バクテリアの作用である。それが「高師小僧」であり、内部が空洞になっているのはそのためだ。イネ科の茎が枯れて腐敗し、バクテリアによって分解され消え去ったあとに酸化化合物が残された。


(高師小僧 Wikipediaより)


つまり、稲作と鉄器がセットになった弥生時代以降の古代史を「砂鉄以前」と「砂鉄以後」で考えることが必要なわけだ。

「砂鉄以前」は、自然に生成する褐鉄鉱をつかった製鉄技術によるものであった。「砂鉄以後」はいうまでもなく、砂鉄をつかった「たたら」による製鉄技術である。時代的にいえば、前者は弥生時代前期、後者は弥生時代後期となる。

鉄製の農具は武器にもなる。農業による富の蓄積が戦争の原因となったされることが多いが、それだけが原因ではない。鉄器こそカギだ。だからこそ、支配者は鉄器を確保するために、あらたな技術をもった集団を朝鮮半島から誘致した。神功皇后の新羅遠征の背景である。

「砂鉄以前」と「砂鉄以後」では、技術の担い手が異なるのである。あたらしい技術が、古い技術を陳腐化させ、駆逐していったのである。


(砂鉄 iron sand  Wikipediaより)


「砂鉄」をつかったあたらしい製鉄技術は、あとからやってきた韓鍛冶(からかじ)とよばれる渡来人の集団がもってきたものだ。技術は人について、人とといっしょに移動する。現代でもノウハウは人についている。古代であればなおさらであろう。

技術の担い手は、倭鍛冶(やまとかじ)であれ韓鍛冶(からかじ)であれ、いずれも渡来人であるが、かれらが祀る神々は異なり、あらたな神々が古い神々にとって代わることになった。というよりも、古い神々は新しい神々によって飲み込まれたといってもいいし、あるいは上書きされたといったほうがいいのかもしれない。

とはいっても、古い神々の記憶が、完全に消え去ったわけではない。新旧の神々が習合して一体化したケースでは痕跡が残っているし、棲み分けすることになったケースでは古い神々はそのまま生き続けてきた。

神道学者で古代祭祀の研究を専門としている著者は、自然に生成する褐鉄鉱の存在を知って、長年にわたって疑問に思っていた、「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)国」というフレーズの意味が解けたと述べている。目から鱗が落ちる思いをしたのだという。

「イネ科の植物である葦(アシ)が豊かに生える原が、稲(イネ)も豊かに実る国」であるとは、褐鉄鉱、すなわち「スズ」がなる原で農具となる鉄器の原料を採集することができるので、稲作を行うには適した土地であることを意味している、というわけだ。だから、内部に空洞のある「スズ」を鳴らすのである。

自然に形成される褐鉄鉱は、早くても7~8年、通常は10年以上かかるので、鉄を生き物、つまりモノと捉えていた弥生前期の人びとは、褐鉄鉱が育つのを願う祭祀として「鐸」(サナギ)をつかったのだとする。鐸(サナギ)は、「高師小僧」も模したものだ。いわゆる「類感呪術」である。

銅鐸が大量に出土するのはそのためだ。本来は鉄でつくっていた鐸(サナギ)だが、鉄はすぐに腐食してぼろぼろになってしまうので、考古学のブツとしてはほとんど残っていないにすぎない。代替品としての銅鐸が残っているのである。鉄器は考古学的物証主義の盲点というべきだろう。

著者の推論を図式的にわたしなりに整理すると、以下のようになるだろう。用語は補ってあるので著者のものそのままではない。


弥生時代前期「スズ」(=褐鉄鉱)による製鉄:海人族の水平軸。海の彼方に光る太陽(沖縄だとニライカナイ)。倭鍛冶(やまとかじ)
弥生後期から古墳時代へ。「砂鉄」による製鉄:(大陸シャマン的な天孫降臨の)垂直軸。空の上から照らす太陽。韓鍛冶(からかじ)


どうやら、縄文人と渡来人の混血である弥生人を「前期弥生人」だとすれば、古墳時代につながる「後期弥生人」とは別のカテゴリーで捉えたほうがいいのかもしれない。

神武天皇をささえていたのは「新技術」であり、「神武東遷」の伝説と稲作、鉄器、太陽神信仰の関係が明らかになる。「太陽と鉄」などというと、わたしは三島由紀夫のエッセイのタイトルを想起してしまうが、あながち的外れなものではないのかもしれない。

稲作と鉄器、そして太陽神の信仰。これらは「中央構造線」沿いに分布していることも著者は指摘している。天体観測と測量技術だけでなく、稲作と鉄器製造技術との関連を意識することが重要なようだ。


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■文系の立場から自然科学や技術の知見を取り入れた「文理融合」の成果

古代祭祀の研究を専門とする神道学者が、文献学や考古学の成果をフルに活かして挑んだ「稲作文明の鉄的要素」の解明。『古代の鉄と神々』はそんな本である。

伊勢の神宮皇學館名誉教授で、大坂の住吉大社名誉宮司、東京の神社本庁教学顧問などという肩書きを目にすると、なんだ神職の著者が書いた本か、古くさいのではないかなんて印象をもってしまう。

ところが、本書を読みすすめていると、著者の旺盛な探求精神と実証精神、周辺分野の知見も貪欲に取り入れる姿勢、しかも実地踏査を行い実感も大事にする姿勢などを知ると、感嘆の念を禁じ得ないものを感じるようになる。

日本古代史の研究は、歴史学と考古学の範囲内だけでなく、自然科学的知見も活かすことが必要なことは言うまでもなく、著者の専門である「祭祀学」という観点も不可欠であると実感する。なぜなら「祭祀」とは、始原の姿を繰り返し再現することで、原初の姿を現在に伝えているものだからだ。

著者が本書で展開した学説が、現在ではどこまで定説となっているのか、専門外のわたしには判断しかねるが、この本はほんとうに面白い学問というものがいかに面白いか、実地に示して説得力がある。

ある意味では、文系の学問が自然科学や技術の知見も取り入れた本書もまた、「文理融合」の成果というべきであろう。文系からのアプローチ、理系からのアプローチと違いはあっても「文理融合」こそ、本来あるべき姿である。

その意味でも、『古代の鉄と神々』は隠れた名著であるというべきではないだろうか。





目 次
増補改訂によせて(1997年)
はしがき(1985年)
はじめに ー 稲つくりと鉄
1 鉄穴(かなな)の神
2 鈴(すず)と鐸(さなぎ)
3 鉄輪(かなわ)と藤枝(ふじえだ)
4 銅鐸・銅剣・銅矛と産鉄地
5 倭鍛冶(やまとかじ)と韓鍛冶(からかじ)の神々
6 五十鈴川の鉄
7 紀ノ川と鉄
8 太陽の道と鉄
9 修験道と鉄
10 犬と狩
11 蛇と百足(むかで)ー 鉄と銅
むすび ー 豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)
文庫版あとがき(2018年)
解説(上垣内憲一)


著者プロフィール
真弓常忠(まゆみ・つねただ)
1923年(大正12年)、大阪市生まれ。旧制官立神宮皇學館大学に学び、住吉大社禰宜、皇學館大学教授を経て、八坂神社宮司、住吉大社宮司、現在、皇學館大学名誉教授、住吉大社名誉宮司、神社本庁教学顧問。著書に『日本古代祭祀の研究』『日本古代祭祀と鉄』『大嘗祭の世界』(以上学生社)、『神道の世界』『神道祭祀』(以上朱鷺書房)、『古代祭祀の構造と発達』『祭祀と歴史と文化』『真弓常忠著作選集(全4巻)』(以上臨川書店)などがある。2019年(平成31年)96歳で没。(出版社の書籍サイトより)



<補論>

褐鉄鉱(Limonite)
団塊状で内部に空洞のあるものを鳴石、壷石といい、豆状のものを豆鉄鉱という。板状のものは鬼板といわれ、直角に交わる頁岩の節理に褐鉄鉱が沈殿したものは香合石とよばれている。また、長野県武石村で産出される黄鉄鉱仮晶のものを武石または升石という。愛知県豊橋市の高師原で多く産出される天然記念物の高師小僧も植物の根に吸着した褐鉄鉱の集合体である。


<関連サイト>




<ブログ内関連記事>

・・神奈川県川崎市の「金山神社」の祭神は「鍛冶の神」で「性の神」

・・出雲大社。出雲で大量に出土した銅鐸。これらはなにを意味しているのか?

・・イネ科の植物の水中の根っこの周りにできる酸化鉄




・・真弓常忠氏によれば、サルタヒコはもともと海神であり、海の精霊ともいうべき性格をもっていたとする。海人族の神である。そう考えると、船橋には海神という地名があり、船橋に猿田彦神社がある意味を再考する必要がありそうだ


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