ベストセラーになっているという『熟達論』(為末大、新潮社、2023)を読んだ。現代の『五輪書』を目指した内容の本なのだという。
宮本武蔵が剣術について書いた本が、剣術という狭い専門を超えて、人生論として読まれてきたのと同様に、本書もまた陸上競技という狭い専門をはるかに超えて、上達論として、さらには人生論として読まれていくことだろう。
まさに読ませる内容である。
タイトルに示されているように、本書のエッセンスは「熟達」である。ただたんに技能の向上を目指したものではない。「熟達」とは、技能を身につけた人間が、さらなる高みを目指すプロセスをつうじてで人間として成熟していくことである。
副題にあるように「人はいつまでも学び、成長できる」という側面に重点が置かれている。「学び」であり「成長」である。その意味では教育論であり、しかも自己教育の心得といったものだろう。師をもたない独学者が陥りがちな盲点への注意喚起でもある。
「走る哲学者」という異名をもつ著者は、自分の体験と考察を、自分のことばで語ることのできる人だ。だからこそ、まさに哲学者なのであり、その思索をことばにしたものは哲学というべきなのである。哲学史に登場する西洋の大哲学者の名を冠したものだけが哲学ではない。
現代の『五輪書』を意図した本書は、武蔵の「地・水・火・風・空」と同様に、5つの成長ステージで「熟達」を捉えている。
すなわち、「遊・型・観・心・空」の5段階である。ただし、武蔵とは違って、「遊・型・観・心・空」のそれぞれがもつ意味合いは異なる。
著者の専門である陸上競技に限らず、上達を欲する人は、この5段階のどこに自分がいるのかを見極めなくてはならない。ステージごとに求められるものが異なるからだ。当然のことながらアドバイスの内容も異なってくる。
なによりも「遊」を最初に置いたのが慧眼だ。この点が本書の最大の特徴である。著者がいかにこのテーマで考え、考え尽くした人であるかがわかる。
というのも、日本人は、とくに現代の日本人は、全体を見ることなく、いきなり細かな技能に目がいってしまいがちだからだ。だが、技能の習得だけを考えていたら、そのステージから上がることは永久にできないのである。
技能の前にまずは「遊」がこなくてはならない。子どものように「遊」で全展開を体験し、そのあとで自己制御(=セルフコントロール)することを覚えていくのである。
まずは大きく拡げて、それから絞り込んでいく。技能の習得に限らず、発想法でもおなじである。
「型」は覚えるしかない。それもひとつの体系のもとで「型」を習得するのである。型を身につけ、型を超えたところで、はじめて自由が生まれることは、体験者なら誰もがわかっていることだ。
そして「型」の内部機構を「観」る。その内部機構の「心」(しん)、すなわち「中心」を体感する。身体論的にいえば、体幹を体感するといってもいいだろう。
そして最終的な境地は「空」である。いわゆる ZONE(ゾーン)である。そこでは時間がストップし、スローモーションで展開する時間が無限につづくかのような境地に達する。
過去でも未来でもなく、「いま、ここ」という「瞬間」、つまり「現在」に意識が集中するステージである。
その瞬間には自分は消滅し、自他の区別もなくなっている「自他未分離状態」である。東洋の伝統的な哲学でいえば、儒学や道教でいう「天人合一」であり、インド哲学ウパニシャッドの「梵我一如」である。
だが、その境地は永遠につづくわけではない。また滅多にやってくるものでもない。だが、一度でも体験すると、その感覚は生きている限り、永久に記憶されることになる。
五段階の「熟達ステージ」だが、「遊・型・観・心・空」の5段階で完結したわけではないのである。著者も寓話のような語りをしているが、ここでふたたび「遊」のステージになる。「遊・型・観・心・空」、そしてまた「遊・型・観・心・空」の無限の繰り返しがつづくのである。
「遊」に始まり「空」に終わる。あたかも、それは禅仏教の「十牛図」のようでもあり、チベット仏教の「砂マンダラ」のようでもある。
だが「空」で終わるわけではない。完成した時点で、すべてはシャッフルされて、また振り出しに戻る。だが、その時点はあらたなスタート地点であるあるが、「空」を体験する前のとは異なっているのである。
一般に日本の芸事では「守破離」が説かれることが「常識」となっている。著者のいう「空」は、「離」ののちに出現する境地のことであろう。
そしてまた「遊」に戻る。そして、ふたたび「遊」から始まり・・・。このプロセスは無限に繰り返されることになる。「初心忘れるべからず」だからだ。「遊ぶ子どもの声聞けば、わが身さへこそ揺るがるれ」。
つまり「段階」でありながら、かつ「円環」なのだ。だから永遠に終わりはない。それでいいのだ。それが大事なのだ。「死ぬまで修行」とは、そういうことを意味している。
本書は、アタマで読む本ではない。カラダとココロで読む本だ。自分自身の体験と重ね合わせて読むべき本だ。
読者ひとりひとりが共通のフレームに従いながら、それぞれ別々の読み方をする。そして共通のフレームがあるからこそ、ひとりひとりの体験と思索が、共通のフィールドで共有できることになる。
著者は本書を「中間報告」と述べている。さらなる思索の深まりを期待したい。
目 次序 熟達の道を歩むとは第1段階 遊 ー 不規則さを身につける第2段階 型 ー 無意識にできるようになる第3段階 観 ー 部分、関係、構造がわかる第4段階 心 ー 中心をつかみ自在になる第5段階 空 ー 我を忘れるあとがき
著者プロフィール為末大(ためすえ・だい)元陸上選手。1978年広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2023年6月現在)。現在は執筆活動、身体に関わるプロジェクトを行う。Deportare Partners 代表。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
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