「からくり人形」というと、まず想起するのは江戸時代の「茶運び人形」などだが、同時代のヨーロッパにも「からくり人形」が存在した。「西洋からくり人形」である。
日本の「からくり人形」は、17世紀から19世紀半ばにかけてつくられたものだ。もっぱら見て楽しませるための娯楽用として製作されたものだが、「第一次グローバリゼーション」の16世紀に
西洋から伝来した機械時計に使用されていた「歯車」(ギア)を応用したものだ。歯車はきわめて重要な機構部品である。
「西洋からくり人形」もまた17世紀から19世紀半ばまでが全盛期であったが、本書の表現を借りれば、
「奇跡と遊びとパッションが一体をなしていたバロック時代」の産物である。おなじく工学的発想にもとづく「からくり人形」であるが、
日本の「からくり人形」とは背景となる思想が異なっていた。
「西洋からくり人形」は、正確には
オートマタ(automata)という。
単数形はオートマトン(automaton)、
直訳すれば自動機械である。機構そのものにプログラムを内蔵させた
オートマトンは、機械言語によって動くコンピュータとロボットの前身である。
本書は、「西洋からくり人形」の背景を見ていくことによって、
「近代科学」成立以前のバロック時代の科学観と人間観を明らかににしながら、
「近代科学」成立によって切り捨てられていった初期近代の精神世界についてエッセー風に考察したものである。
日本ではいまだに「科学技術」と4文字熟語で一緒くたにされているが、「科学」と「技術」(=工学)はイコールではない。
近代科学を生み出した西欧と生み出せなかった日本。その違いについて考えるためにも、「西洋からくり人形」というオートマトンについて振り返ってみる意味がある。
以下、わたし自身の関心にしたがって、わたしのコトバで解釈しながら読んでみる。著者はオートマタととしているが、19世紀以降の「近代科学」のもとにおける発展を視野に入れた場合、オートマトンと表記したほうが適切であろう。、
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オートマトンは機械式時計の技術と連動
「西洋からくり人形」のオートマトンは、本書によれば、
精密機器である機械時計技術と連動して発展したらしい。からくり時計もその一つであるが、時計職人のブランドイメージのため製作されたもので、いわば
技術のショーケースといった性格をもっていたようだ。
機械式時計の製作は、フランス・アルプスの北側グルノーブルからスイスのフランス語圏へと波及していった。だからオートマトンはフランスを中心に発達したようだ。レオナルド・ダヴィンチを生んだイタリアで発達せず、フランスで発達した理由も興味深い。
本書カバーの写真は、
自らオルガンを弾く貴婦人の「西洋からくり人形」だが、
もともと「自動楽器」のほうがオートマトンに先行していたようだ。
自動楽器は、音楽の保存方法として、楽譜による記譜法と並列して重要な役割をもっていたらしい。記録媒体としてのレコードと蓄音機が19世紀にエジソンによって発明される以前は、自動楽器が貴重な音源となっていた。18世紀から19世紀にかけて活躍したベートヴェンもまた、自動楽器向けの曲を作曲しているらしい。
自動楽器は、現代でもオルゴールとして生き残っているが、ピックという楔(くさび)のついたシリンダーを回転させ、楔を鍵盤をひっかけて音を再生する仕組みである。
機構そのものにプログラムを組み込んだ記憶装置であり、再生装置であるといっていいだろう。
音楽の再生にあたって動力源は人力だが、オペレーターが手動で駆動しながら同時に制御するか、ゼンマイに蓄えたエネルギーを利用して自動再生するかの二種類があったが、機構そのものはおなじである。
この自動楽器の技術がオートマトンに活かされることになる。
機構そのものにプログラムを組み込んだ記憶装置であり、再生装置である点は同じである。人間がプログラムを作成し、人間が動力源であり、オペレーターでもある。
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オートマトンと「人間機械論」
オートマトンの製作は、
初期近代のバロック時代の科学観が背景にある。いわゆる
「近代科学」成立以前の科学観である。
そもそも機械式時計は、神が造った被造物の一つである天体の動きを、歯車のかみあわせでムーブメントとしてメカニカルに再現したものである。大宇宙であるマクロコスモスと小宇宙であるミクロコスモスがコレスポンデンス(=照応)しているという近代以前の神学的科学観が背景にある。
人工美を表現した幾何学的なフランス庭園もそうであるが、
アタマのなかで考えたイメージを素材をつかって表現したいという西欧人の欲望がストレートに表現されたものといえるだろう。「目に見えるもの」をいじっているうちに「目に見えないもの」を感じ始める日本人とは、真逆の発想なのかもしれない。
オートマトンにおいては、
神が造った被造物である人間を一個の機械として理解した「人間機械論」が思想的背景にある。「人間機械論」は、「心身二元論」で有名な哲学者デカルトが打ち出したものだが、当事の西欧世界に与えたインパクトはきわめて大きかったようだ。フランスがオートマトン製作の中心であった理由の一つがデカルト哲学の影響である。
初期近代は、数学と解剖学の時代であり、解剖学の知見がメカニズムの解明と再現へ、そして数学で世界を表現する思考が浸透していった。
だが著者によれば、
「人間機械論」は、現代人のわれわれが理解している「心身二元論」とはニュアンスが異なるようだ。デカルトはあくまでも人間は神の被造物であるという前提に立っていたのである。
身体のメカニズムの究明をつうじて、精神の秘密を探ろうとしていた。
「目に見える身体」のメカニズムをつうじて「目に見えない精神」を、探ろうという方法論である。
オートマトンもまた、目に見える機構というメカニズムをつうじて魂の問題を探求するという姿勢があったことを著者は強調している。
人形に魂が宿るという発想は、日本人的な発想と似ていなくもないが、「人間機械論」においては、探求心が向かう方向と方法論が日本人とは異なるようだ。
「近代科学」を生み出した西欧人の発想をオートマトンに見ることができるのである。
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ロボットの原型としてのオートマトン
人形には魂が宿る。こういう感覚は日本人なら子ども時代に誰もが観じたことがあるのではないだろうか。
ロボット工学者の森政弘博士による「不気味の谷」仮説がその一つの説明であろう。人間型ロボットは人間に近づくと親近感を増すが、ある閾値を超えると「不気味の谷」に入り込むという仮説である。
日本人に限らず、西欧人も人形には魂が宿るという感覚があったようだ。西欧人の深層意識に痕跡を残している古代的な感性といえようか。
自動人形のオートマトンであれ、マリオネットなどの操り人形であれ、人形自体には魂は存在しない。したがって誰かが動かしてやらなくてはならない。操り人形の場合は、人形師に憑依するという形で神の意志が反映されるというのは、ある意味では古代的な感性といえるだろう。
オートマトンは、アタマのなかで考えたイメージを素材をつかって表現したいという西欧人の欲望の表現であるが、
オートマトンの延長線上にロボットがあると考えると、ロボットの原型となるイメージについて振り返ってみる意味もある。
著者は、オートマトンには以下の3つの類型があるとしている。わたしなりに補足して整理すると以下のようになる。
●アダム型: 神自身が造った神の似姿(←旧約聖書 『創世記』)
●ゴーレム型: ドッペルゲンガー型の分身。人格統合されるべき人間の「影」(←中欧ユダヤ伝承)
●イヴ型: 自分の理想や夢の投影。ギリシア神話のピュグマリオン。ピノッキオ
アダム=ゴーレム型の代表としてドイツ文学の『ゴーレム』(グスタフ・マイリンク)、
イブ型の代表としてフランス文学の『未来のイヴ』(ヴィリエ・ド・リラダン)をとりあげて、内容を紹介しながらにくわしく解説している。
著者が使用していない精神分析的な解釈を加えれば、
西欧人の深層意識を知るうえで有効な分析材料となるだろう。
ロボットの原型としてのオートマトンについて考えることは、つまるところ人間の欲望について考えることなのである。
ロボットがますます身近な存在となりつつある現在、
初期近代のバロック時代、「近代科学」以前の西欧を視野にいれることの重要性をあらためて感じるのである。
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