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2022年1月23日日曜日

松陰神社と豪徳寺をお参りしてきた(2022年1月22日)―「安政の大獄」の犠牲者である吉田寅次郎とそれゆえに「桜田門外の変」でテロの犠牲者となった井伊直弼

(松陰神社と豪徳寺は歩いていける距離 Google map で筆者作成)


昨日(2022年1月22日)のことだが、東京西郊に出る用事があったので、ついでに途中にある世田谷区に立ち寄ることにした。目的は、松陰神社と豪徳寺を参拝すること。いずれも今回が初の参拝である。        

いずれも有名な神社であり寺院であり、行こうと思えばいつでも行けるのに、行かないままになっていた。単なる怠慢であるが、一期一会であろうから、この際にまとめて訪れることにした次第。松陰神社と豪徳寺は歩いて行ける範囲の散歩コースにあるからだ。     

松陰神社は長州藩の吉田松陰を祀った神社豪徳寺は彦根藩の大名井伊家の菩提寺。この両者は、まさに「因縁」というしかない関係にある。

松陰は「安政の大獄」で処刑(1859年)安政の大獄を指揮した彦根藩主(で大老に就いていた)井伊直弼とは不倶戴天の敵ということになる。    

その井伊直弼も、「桜田門外の変」(1860年)で水戸の脱藩浪士のテロリストたちによって殺害された。いずれも最期は首を切り落とされた

いずれも直接手を下したわけではないにせよ、殺し、殺され、因果はめぐる。ある意味では、ともに時代の犠牲者であったというべきかもしれない。

*********


  (掲載した写真はすべて筆者撮影によるもの)


三軒茶屋駅で路面電車(トラム)の東急世田谷線(・・これもはじめて乗車した)に乗り換え、3つめの松陰神社前駅で下車、松陰神社は駅から歩いてすぐの場所にある。




立派な鳥居はあるが、全体的にあまり神社らしくない神社という印象を受けるのは、神社のすぐ隣に松陰をはじめとする関係者の墓地があるためだろうか。





おなじく長州藩出身の乃木大将を神として祀った乃木神社ほど新しくないが、それでも吉田松陰は神さびるほど昔の人というわけでもない。表現は適切ではないが、なにか生々しいというか、生臭い印象を受けてしまうのだ。


  

おそらく、松陰神社は、その性格からいって、「長州の長州による長州のための神社」という印象を受けるからかもしれない。

祀り祀られる関係からいったら当然ではあるが、神社そのものも、寄進された石灯籠もみな明治政府の長州藩出身者によるものばかりだ。しかも、松陰神社に隣接して長州藩出身の首相経験者である桂太郎陸軍大将の墓もある。




神社に参拝し、松陰の墓に詣ではしたものの、長州には縁もゆかりもない自分は、あまり心地よいという感じ受けなかった政治色が強すぎる印象が、生臭いという気を生み出しているのだろう。


    


境内に「テロ対策実施中」(世田谷警察署・松陰神社)という看板が立っていたが、実行者ではなかったものの、吉田松陰こそテロの指嗾者(しそうしゃ)だったのではないかと思うと、なんだかおかしな感じがしてくる。

テロという側面にフタをしたまま吉田松陰を礼賛するのはいかがなものかな、とは思う。わたし自身は、松陰は尊敬しているが、そのファナティックな側面は好きではない。 




とはいえ、境内には「松下村塾」の建物が再現されているように、吉田松陰といえば、やはり「受験生の守り神」であり、「学問の神様」としての位置づけがふさわしいのだろう。

菅原道真と同様に、吉田松陰もまた無念の死を遂げた人が神として祀られることになった点は共通している。

吉田松陰は、菅原道真のように祟り神となったわけではないが、天神様と同様に「学問の神様」としての松陰先生にあやかりたいという受験生の気持ちはよくわかる。自分も高校生で近所に住んでいたら、間違いなく合格祈願でお参りにいっただろう(・・自分の場合は、遠い昔の話であるが、亀戸天神で合格祈願したら見事合格した)。




そんな感想を抱きながら、豪徳寺に向かって歩いて行くと右手に国士舘大学の建物が目に入ってくる。意図的に松陰神社の近隣に立地しているのだろうが、はたして吉田松陰は「国士」だったのかどうか、政治的立場の違いによって解釈はわかれることであろう。 


********
 
豪徳寺への道はゆるい下り坂である。松陰神社と豪徳寺は歩いていける範囲内にあるが、立地する場所に高低差があるのは、あとからつくった松陰神社は意図して高台に立地したのかどうかまではわからない。

松陰神社の創建は1882年、豪徳寺が井伊家の菩提寺として整備されたのが1633年、その時間差250年は、かなり長いといえる。




さて、その豪徳寺だが、正式名称は大谿山(だいけいざん)豪徳寺、曹洞宗である。禅寺である。

大藩であった彦根藩主の井伊家の菩提寺だけに敷地は広く、主要な伽藍や三重塔など建築物も揃った立派なものだった。大名家の菩提寺で、これほどのものが残っているのは珍しいそうだ。




「豪徳寺といえば招き猫!」
というのが、これまた彦根とは縁もゆかりもないわたしのような一般庶民の常識だが、その肝心な招福殿は現在修復中で、寄進されて並べられている「招福猫児」(まねきねこ)の数もこころなしか少ないようであった。




これまでに招き猫の画像や映像ばかり見ていたので、落ち着いた雰囲気を醸し出している豪徳寺の印象はずいぶん違うものであった。先に松陰神社を参拝していたから、よけいに違いを感じたのかもしれない。  




寺院に併設された「彦根藩主井伊家墓地」で、13代藩主であった井伊直弼の墓にも詣でた。吉田松陰の墓に詣でて、井伊直弼の墓に詣でないわけにはいかないだろう。




幕府の大老として「開国策」を推進した強引なまでの政治姿勢や、無慈悲なまでの「安政の大獄」によって、日本史においてはすっかりヒール(悪役)を割り当てられてイメージが固定化してしまっている井伊直弼だが、藩主になるまでの長年の苦労や、茶人としての教養の深さは想起すべきであろう。茶道用語として有名な「一期一会」は、井伊直弼が強調したものらしい。

井伊直弼の墓は、歴史におけるプレゼンスの大きさに反し、あくまでも歴代藩主の一人としての位置づけがいい。落ち着いた雰囲気のその墓は、穏やかな雰囲気を醸しだしていた。


  

******

豪徳寺を参拝したあとは、小田急電鉄の豪徳寺駅を目指して歩く。この小さな旅は、東急世田谷線の「松陰神社前駅」から、小田急線の「豪徳寺駅」までの散歩となった。




そもそも松陰神社に行こうと思ったのは、寅年生まれの松陰は通称を寅次郎といい、おなじく寅年生まれのわたしより132年先輩にあたるからだ。

「人生100年時代」というフレーズがまかり通るようになっている現在、「132年」は長いように見えながら、それほど昔というわけでもないのだ。幕末維新という激変を挟んでいるから、チョンマゲ時代の人とはいえ、遠い遠い昔の人物ではない吉田松陰と因縁の深い井伊直弼もまた同様だ。     

「勝ち組」と「負け組」というイヤな表現がある。明治維新において使われるようになった表現だが、「討幕と佐幕」の結果論としての表現だ。このような対比表現は、たとえ実態がそうであったにせよ、いやしい心性の現れとしかいいようがない。

幕末維新期においては、テロの嵐が吹き荒れた。幕末維新期の原型が、明治維新以降もなんども日本史では繰り返されてきた。テロによる問題解決が終息したのは、日本では1970年代であり、そんな時代が100年も続いたのである。テロという暴力的な形で問題解決をはかるのはよろしくない

殺し、殺されるという因果の輪のなかにある二人ではあるが、死ねばノーサイドということで接するべきであろう。それが日本人としてはただしい意識のあり方である。末代の子々孫々に至るまで恨みを抱き、墓まで暴くという中国人とは違うのだ!     

そもそも自分は、長州藩にも彦根藩にも縁もゆかりない。したがって、両者に特段の思い入れもない。比較的公平な立場から見ているからこそ言えるのかもしれないが・・・。 

  
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2018年5月5日土曜日

司馬遼太郎の『花神』が面白い-「超」のつく合理主義者で無口で堅物という、およそ感情移入しにくい大村益次郎こと村田蔵六を主人公にした幕末の『プロジェクトX』


司馬遼太郎の『花神』を読み終えた。新潮文庫の上中下の三冊本だが、面白いので一気に読んでしまった。これがまたじつに面白い。 

大村益次郎こと村田蔵六を主人公にした歴史小説。大村益次郎は言うまでもなく「日本陸軍の父」靖国神社の境内に銅像がある(・・官軍側で死んだ将兵を祀った靖国神社の性格を考えれば当然というべきか。とういうよりも、靖国神社の原型となった招魂社をつくったのは彼である。安心して死ねるための装置が必要であったからだ)。 

その昔、NHK大河ドラマで放送されたので見ていたはずなのだが、健忘症なのか細かい中身はすっかり忘れている。記憶は稀薄である。あまりにも昔すぎるからかもしれないし、ドラマで視聴するのと、原作の小説を読むのとでは、ぜんぜん違う印象を受けるからかもしれない。 記憶に残っていたのは村田蔵六の「蔵六」とは亀の意味だというくらいだった(・・手足と頭としっぽで6つ。この6つを甲羅のなかに蔵しているから蔵六)。 

名のみ高くて、具体的にどういう人物だったかわからないのが大村益次郎こと村田蔵六。大村益次郎の名前で活躍した期間は、人生の最後のわずかに数年間

「超」のつく合理主義者で無口で堅物という、およそ感情移入しにくい主人公であるにもかかわらず、この小説は不思議なことになぜか面白い。幕末の動乱期にその才能を見いだされ、求められるがままに、やるべきことをやり尽くした、そう長くはない人生。小説的には面白くもない人物を、よくぞ小説の主人公に仕立て上げたものだ、と感嘆する。

長州の百姓身分の村医者の息子が、大坂に出て緒方洪庵の適塾で蘭医学を学び、超優秀なオランダ語の読解能力が買われて、医学から軍事学への道へと導かれていく。 医者から軍事技術者へ、そして倒幕軍の司令官へと、時代の激流のなかで、自ら意図したわけではないのにキャリアチェンジしながら、とんとん拍子で出世してていく主人公。現代風にいえば、ある種の「引き寄せ力」の持ち主だったようだ。 

小説だから、もちろん脚色は多々あろうが。 幕末から明治維新にかけての歴史を長州藩の立場から描いたこの作品は、薩摩藩の立場から描いた作品とも、会津藩の立場から描いた作品とも違うのは当然だ。それぞれの立場によって見えてくるものは異なるからだ。もちろん、長州藩のもつメリットとデメリット双方が浮き彫りにされているのは、この作家が単なる小説家ではないからだ。 

作者は長州藩の特徴として、つねに政治が軍事に優先した体質について語っている。具体的にいえば、軍事の天才・村田蔵六(=大村益次郎)を見いだして長州藩に引っ張り、最後までメンターとして守る立場にいたのが政治家の桂小五郎(=木戸孝允)だが、村田蔵六はあくまでも軍事技術の専門家として遇され徹底的に活用された。ある意味では、そういう概念がなかったにもかかわらず、シビリアンコントロールが徹底していたといえるのかもしれない。 

たしかに日露戦争においても、戦争指導にあたったのは長州藩の奇兵隊出身の山県有朋だが、戦争終結と講和のタイミングは絶妙であった。政治が軍事をコントロールしていたからこそ、日露戦争はからくも勝利できたのである。軍が暴走するようになったのは、明治維新の元老たちが退場し、陸軍人事における薩長の独占体制が崩れて以降のことである。長州藩の体質については、ポジティブな面をもっと評価すべきかもかもしれない。 ただし、平等主義の負の側面である下克上体質という悪しき体質を陸軍(および出先の関東軍)に持ち込んだのも長州であることは指摘しておかねばならないが・・)。

最期は暗殺された村田蔵六(=大村益次郎)だが、明治維新という「革命」に対して、かならず西から「反革命」が起こると先読みして、そのための準備に抜かりがなかったというのが、じつに興味深い。この点は、西南戦争を前史も含めて描いた『翔ぶが如く』でも何度も繰り返し言及されている。

みずからの戦争指導もあずかって、戊辰戦争があまりにもあっさりと決着がついたために、不完全燃焼に終わってしまい、攘夷と倒幕のエネルギーがくずぶったまま残るだろうという理解からだ。実際、これは明治10年に勃発した西南戦争として現実のものとなる。

先見の明の背景には、蘭学者(洋学者)として、究理学(=物理学)につうじていたことが背景にあったようだ。エネルギー保存の法則と作用反作用の法則である。自然科学と技術の知識が、血肉のものとなっていたことがうかがわれる。その意味でも、徹底的な合理主義者の大村益次郎は、人徳あり情に厚く存在そのものが思想であるような西郷隆盛とは、まったく対極にある人物であったようだ。 

「徴兵制」の実行によって身分制度が打破されたことは、奇兵隊を生み出した長州藩ならではの功績だし、そもそも百姓身分出身の大村益次郎自身の思想でもあった。その意味では、まさに「日本陸軍の父」というべき存在だ。 (・・これに対して警察は、不平士族対策もあって当初は士族中心であったが、この点も『翔ぶが如く』に書かれている)

大村益次郎がもし暗殺されずに生き延びていたら、日本陸軍はどうなっただろうかと、ずいぶん以前から考えてみることがある。 

だが、この小説を読んだあとに思うのは、陸軍の西洋式軍服を着た大村益次郎はまったく想像しにくいということだ。西洋の軍事技術で明治維新革命に貢献したが、あくまでも攘夷派でありナショナリストであり、最後の最後まで、戦場においても和服を貫き通したという頑固な姿勢。おそらく、やるべきことを終えたと思った時点で、地位にしがみつくことなく、あっさりと去って行ったのではないだろうか。 

大村益次郎について正面切って取り上げた本があまりないだけに、司馬遼太郎のこの小説は読む価値があると感じた。NHKでかつて放送されていた『プロジェクトX』のような、知られざるヒーローを描いた作品というべきかもしれない。





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司馬遼太郎の歴史小説 『翔ぶが如く』 は傑作だ!

司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を「半分読了」(中間報告)

司馬遼太郎の『翔ぶが如く』(文春文庫)全10巻をついに読了!

NHK連続ドラマ「坂の上の雲」・・・坂を上った先にあったのは「下り坂」だったんじゃないのかね?

『歴史のなかの鉄炮伝来-種子島から戊辰戦争まで-』(国立歴史民俗学博物館、2006)は、鉄砲伝来以降の歴史を知るうえでじつに貴重なレファレンス資料集である

「韮山反射炉」を見に行ってきた(2018年4月21日)-日本人なら一度は見学しておきたい反射炉は、まさに「百聞は一見にしかず!」の産業遺産
・・アヘン戦争(1840年)以降、蘭学の中心は医学から兵学へと移行していく

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③
・・佐倉藩もまた、蘭学ことに西洋医学の中心地であった

福澤諭吉の『文明論之概略』は、現代語訳でもいいから読むべき日本初の「文明論」だ
・・福沢諭吉は、緒方洪庵の適塾では村田蔵六の後輩に当たるが、おなじく蘭学の秀才であった開国派の福澤諭吉と攘夷派の村田蔵六とは真逆の方向を志向することになる

福澤諭吉の『学問のすゝめ』は、いまから140年前に出版された「自己啓発書」の大ベストセラーだ!


(2018年5月20日 情報追加)



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