昨日(2022年1月22日)のことだが、東京西郊に出る用事があったので、ついでに途中にある世田谷区に立ち寄ることにした。目的は、松陰神社と豪徳寺を参拝すること。いずれも今回が初の参拝である。
いずれも有名な神社であり寺院であり、行こうと思えばいつでも行けるのに、行かないままになっていた。単なる怠慢であるが、一期一会であろうから、この際にまとめて訪れることにした次第。松陰神社と豪徳寺は歩いて行ける範囲の散歩コースにあるからだ。
松陰神社は長州藩の吉田松陰を祀った神社、豪徳寺は彦根藩の大名井伊家の菩提寺。この両者は、まさに「因縁」というしかない関係にある。
松陰は「安政の大獄」で処刑(1859年)、安政の大獄を指揮した彦根藩主(で大老に就いていた)井伊直弼とは不倶戴天の敵ということになる。
その井伊直弼も、「桜田門外の変」(1860年)で水戸の脱藩浪士のテロリストたちによって殺害された。いずれも最期は首を切り落とされた。
いずれも直接手を下したわけではないにせよ、殺し、殺され、因果はめぐる。ある意味では、ともに時代の犠牲者であったというべきかもしれない。
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立派な鳥居はあるが、全体的にあまり神社らしくない神社という印象を受けるのは、神社のすぐ隣に松陰をはじめとする関係者の墓地があるためだろうか。
おなじく長州藩出身の乃木大将を神として祀った乃木神社ほど新しくないが、それでも吉田松陰は神さびるほど昔の人というわけでもない。表現は適切ではないが、なにか生々しいというか、生臭い印象を受けてしまうのだ。
おそらく、松陰神社は、その性格からいって、「長州の長州による長州のための神社」という印象を受けるからかもしれない。祀り祀られる関係からいったら当然ではあるが、神社そのものも、寄進された石灯籠もみな明治政府の長州藩出身者によるものばかりだ。しかも、松陰神社に隣接して長州藩出身の首相経験者である桂太郎陸軍大将の墓もある。
神社に参拝し、松陰の墓に詣ではしたものの、長州には縁もゆかりもない自分は、あまり心地よいという感じ受けなかった。政治色が強すぎる印象が、生臭いという気を生み出しているのだろう。
とはいえ、境内には「松下村塾」の建物が再現されているように、吉田松陰といえば、やはり「受験生の守り神」であり、「学問の神様」としての位置づけがふさわしいのだろう。
菅原道真と同様に、吉田松陰もまた無念の死を遂げた人が神として祀られることになった点は共通している。
吉田松陰は、菅原道真のように祟り神となったわけではないが、天神様と同様に「学問の神様」としての松陰先生にあやかりたいという受験生の気持ちはよくわかる。自分も高校生で近所に住んでいたら、間違いなく合格祈願でお参りにいっただろう(・・自分の場合は、遠い昔の話であるが、亀戸天神で合格祈願したら見事合格した)。
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豪徳寺への道はゆるい下り坂である。松陰神社と豪徳寺は歩いていける範囲内にあるが、立地する場所に高低差があるのは、あとからつくった松陰神社は意図して高台に立地したのかどうかまではわからない。
松陰神社の創建は1882年、豪徳寺が井伊家の菩提寺として整備されたのが1633年、その時間差250年は、かなり長いといえる。
大藩であった彦根藩主の井伊家の菩提寺だけに敷地は広く、主要な伽藍や三重塔など建築物も揃った立派なものだった。大名家の菩提寺で、これほどのものが残っているのは珍しいそうだ。
幕府の大老として「開国策」を推進した強引なまでの政治姿勢や、無慈悲なまでの「安政の大獄」によって、日本史においてはすっかりヒール(悪役)を割り当てられてイメージが固定化してしまっている井伊直弼だが、藩主になるまでの長年の苦労や、茶人としての教養の深さは想起すべきであろう。茶道用語として有名な「一期一会」は、井伊直弼が強調したものらしい。
井伊直弼の墓は、歴史におけるプレゼンスの大きさに反し、あくまでも歴代藩主の一人としての位置づけがいい。落ち着いた雰囲気のその墓は、穏やかな雰囲気を醸しだしていた。
「人生100年時代」というフレーズがまかり通るようになっている現在、「132年」は長いように見えながら、それほど昔というわけでもないのだ。幕末維新という激変を挟んでいるから、チョンマゲ時代の人とはいえ、遠い遠い昔の人物ではない。吉田松陰と因縁の深い井伊直弼もまた同様だ。
「勝ち組」と「負け組」というイヤな表現がある。明治維新において使われるようになった表現だが、「討幕と佐幕」の結果論としての表現だ。このような対比表現は、たとえ実態がそうであったにせよ、いやしい心性の現れとしかいいようがない。
幕末維新期においては、テロの嵐が吹き荒れた。幕末維新期の原型が、明治維新以降もなんども日本史では繰り返されてきた。テロによる問題解決が終息したのは、日本では1970年代であり、そんな時代が100年も続いたのである。テロという暴力的な形で問題解決をはかるのはよろしくない。
殺し、殺されるという因果の輪のなかにある二人ではあるが、死ねばノーサイドということで接するべきであろう。それが日本人としてはただしい意識のあり方である。末代の子々孫々に至るまで恨みを抱き、墓まで暴くという中国人とは違うのだ!
そもそも自分は、長州藩にも彦根藩にも縁もゆかりない。したがって、両者に特段の思い入れもない。比較的公平な立場から見ているからこそ言えるのかもしれないが・・・。
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