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2024年7月14日日曜日

「新進気鋭の国際政治学者」による「日仏比較文化論」ともいうべき内容の『日本人とフランス人 ー 「心は左、財布は右」の論理』(舛添要一、カッパブックス、1982)を出版から42年後にはじめて通読した(2024年7月14日)

 
 
マクロン大統領の決断によって不意打ちで総選挙が実施されたり、まもなくパリでオリンピック大会が開催されるとして、なにかと話題になっているきょうこの頃のフランス。  

そして、本日(7月14日)は「革命記念日」だ。かつて「巴里祭」(パリさい)などと呼ばれたこともあるが、「フランス革命記念日」である。パリでは軍事パレードが行われる。


ひさびさといっても、前回は大学時代に当時暮らしていた東京都小平市の「町の本屋」で何度か立ち読みしただけなので、出版から42年後(!)にはじめて通読したことになる。

今年に入ってからこの本の存在を思い出して、半年ほど前に古本で入手した。 

通読してみての感想としては、じつに面白い本だということだ。

本書の出版時の著者は34歳の東大助教授。宣伝コピー的に表現すれば、「新進気鋭の国際政治学者による日仏比較文化論」ということになろうか。 

政治学者の域を超えた知識の幅と深さ、そして豊富な体験が、この本を読める本にしている。さすがいまは亡き「カッパブックス」である。当時はメジャーどころでは岩波新書と中公新書しか新書本はなかった時代、光文社のカッパブックスは異色の存在であった。 

もちろん、いまから42年前のミッテラン時代のフランスでありフランス人であり、鈴木善幸時代の日本であり日本人であるので、現在では大きく変化している点も少なくないだろう。だが、基本は変わらないのではないかな? 

「心は左、財布は右」の論理という副題が面白い。フランスの政治は、日本と同様に知識階層は「左派」が好きだが、フランスの左派には清貧志向はないという指摘である。 極左もまたしかり。

著者の交友関係は知識階層が中心で、中流以上のフランス人たちであろうが、体験を踏まえた「個人主義」が徹底されるフランス人と、英国人やドイツ人との違いにかんする考察も面白い。フランス人の個人主義ぶりはハンパではないのだ。

 裏表紙に掲載されている「著者近影」は、まさに「新進気鋭の東大助教授」を絵に描いたような、若き日の舛添氏。髪の毛は黒々とフサフサしているが、よくいえば鋭い眼差しと顔つきはまったく変わっていない。

けっして、政治家に転身してから人相が悪くなった(?)わけではなさそうだな(笑) 


目 次 
まえがき 
第1章 日仏、男女関係比較考 
第2章 個人主義と団体行動 
第3章 第三の道を歩む中華思想と対米追従 
第4章 知られざる科学立国とメイド・イン・ジャパン 
第5章 文化帝国主義と模倣文化 

著者プロフィール
舛添要一(ますぞえ・よういち)
国際政治学者、前東京都知事。1948年、福岡県生まれ。1971年、東京大学法学部政治学科卒業。パリ、ジュネーブ、ミュンヘンでヨーロッパ外交史を研究。東京大学教養学部政治学助教授を経て政界へ。2001年参議院議員(自民党)に初当選後、厚生労働大臣(安倍内閣、福田内閣、麻生内閣)、東京都知事を歴任。(2024年刊の最新著書のプロフィールから)、



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2014年8月11日月曜日

書評『武士とはなにか ― 中世の王権を読み解く』(本郷和人、角川ソフィア文庫、2013)― 日本史の枠を超えた知的刺激の一冊



この本は面白い。本文がおもしろいだけでなく、「あとがき」と「文庫版あとがき」がまた衝撃的だ。そこまで日本史、いや歴史全般が人気がなくなってしまっているのか、と。

歴史好きな日本人は多い。だが歴史学が好きな日本人はそう多くないようだ。

大学受験のための無機質な年号暗記が歴史嫌いを増やしているのであろうし、なによりも古代からはじまって現代に近づいていくという叙述スタイルが面白くないのは当然だ。たいていの高校では近代にはいったくらいで時間切れとなる。

「いま、ここに」生きている自分にとって、歴史がいったいぜんたいなんの意味があるのか? そう思う人が少なくないのは不思議でもなんでもない。

現代からはじまって過去にさかのぼる姿勢でなければ、たいていの人間にとって歴史は関心のないものでありつづけることだろう。

日本人が好きなのは歴史小説や歴史ドラマであって、歴史そのものではない。わたしの恩師の阿部謹也先生は、「歴史小説は舞台を過去に設定した現代小説」であると言いきっている。だからこそ、歴史書ではなく、歴史小説を興味深く読む人が多いのである、と。

つまり面白いということが必要なのである。歴史事実のトリビアルなディテールばかり追っているのでは歴史オタクとしては満足であろう。だが、オタクではないふつうの人にとってはどうでもいいような事実の羅列が面白いわけがない。

歴史は流れがわかればそれで十分ではないか、とわたしは思っている。

そんなわたしにとって、『武士とはなにか  ―  中世の王権を読み解く』(本郷和人、角川ソフィア文庫、2013)は、じつに面白い本であった。

中世史家の本郷和人氏の本を読むのはこれがはじめてなのだが、問題関心のあり方にわたしと共通するものを感じたためでもある。

本書の内容については出版社によるもので言い尽くされているので、それを引用しておけば十分だろう。

新しい日本史世史! 戦士から統治者としての王へ 中世は「武士の時代」だった! 覇権をかけた武士たちの闘い、そして武家政権としての将軍権力の実態とは? 源平争乱から戦国時代を経て、徳川幕府完成まで――。貨幣経済の浸透、海の民の活躍、一神教の衝撃、東西の衝突などの刺激的な視点から、武士が「戦士から統治者としての王」となったプロセスを追う。先入観や従来の教科書的な史観を排し、その時代の「実情」から、権力の変遷を鮮やかに読み解く、新しい日本史世史。(*太字ゴチックは引用者=さとう)

基本的に「武士から王へ」というストーリーを基軸に据えているが、本郷氏のいう「王」とは、実在していない作業仮説のようなものだ。だが、この「王」への方向を想定することで、さまざまなことが見えてくる。

「自立」と「自律」。王としての「君臨」と「統治」。私はいま、この二つの要素を以て王権を定義し、それに基づいて日本の中世史を探訪したいと考えている。(P.39)(*太字ゴチックは引用者=さとう)

支配のあり方をこのように定義すると、日本史の枠組みを超えて、ビジネスとマネジメントに示唆するものも少なくない。



戦国時代末期における「天下統一」 vs 「一神教」  

「貨幣経済の浸透、海の民の活躍、東西の衝突などの刺激的な視点」が展開されているが、こういったテーマはすでに日本中世史の網野善彦氏が開拓してきた分野なので、慣れ親しんでいる人も少なくないだろう。

なかでも、わたしの知的好奇心をもっともそそるのが、最終章の第7章で展開されている戦国時代末期の一向宗(=浄土真宗)についての取り上げ方だ。

第一次グローバリゼーションのなか、日本に伝来したキリスト教にきわめて近似した一向宗は、限りなく「一神教」に近づいていたのである。阿弥陀如来に一点集中した一向宗の「伝播力」は、まさにキリスト教に匹敵するものであった。

こういう発想は「近代主義」だとして斬り捨てる人がいるが、わたしはかならずしもそうは考えない。メッセージの明快さとアピール力において、一神教のほうが多神教よりもコミュニケーション密度とスピードが勝っているのは、当然といえば当然だ。信仰の対象を阿弥陀如来のみに一点集中させた一向宗が、容易に地域を越えて拡大したのはそのためだ。ただし、これは宗教としての優劣を論じているのではない。

著者の本郷氏は、最終章においても「二項対立」の枠組みを使用し、組織構造としての「ツリー構造」と「リゾーム構造」で、「一神教」的な統合原理を必要とした「主従構造」のあり方の変化を鮮やかに対比してみせる。


(ツリー構造とリゾーム構造 本書P.200より)


「ツリー構造」とは、家臣の一人の主君への忠誠がタテに階層的に構築されていく、一人の「王」を頂点としたピラミッド型の階層構造による組織である。官僚制の組織構造はこのタイプである。

「リゾーム構造」とは、複数の主人に服従を誓う、ゆるい構造のネットワーク型の組織を形成する。リゾームとは地下茎のことで、1980年代後半にはよく耳にしたコトバだ。著者が1960年代生まれであることが反映しているのであろう。現在ならネットワーク構造というべきか。

前者の「ツリー型組織」は、鎌倉幕府を成立させた源頼朝と御家人の関係後者の「リゾーム型組織」は、一人の強力なリーダーを生み出さない惣村(そうそん)における「一味同心」の関係である。

鎌倉幕府の成立以降、日本の武家社会においては「ツリー構造」を基本としてきたが、戦国時代の混乱のなかで天下統一を狙う武将たちは、現世の絶対者である「王」が頂点に位置し、それ以外の人間はその王の支配のもとにおかれると同時に、慈悲深き王の庇護のもとに入る体制を志向するようになる。

一方、一向宗やキリスト教などの「一神教」世界においては、現世ではない別世界の絶対者のもとでの平等が前提となる。つまり現世においては現世の絶対者である「王」に帰属する必要は必ずしもなくなる。

だからこそ、天下統一構想の前に立ちはだかる「一神教」的な宗教勢力に対して恐怖を感じた織田信長は、だからこそ日本の仏教勢力の牙城であった比叡山を焼き討ちし皆殺しにしたのであり、豊臣秀吉は石山本願寺にたてこもる一向宗を武力でたたきつぶしたのであり、徳川将軍はキリスト教を禁圧し徹底的に取り締まったのである。

これらはみな、現世における「王」の支配を盤石にするためであった。まさにマキャヴェリズムそのものである。

こういう組織論とリーダーのあり方をからめた解説は、ビジネスパーソンにとっても興味深いはずだ。



ビジネスパーソンにとっても意味あるファクトベースの思考方法

とくに日本史という分野は、戦前の皇国史観だけでなく、戦後もまた唯物史観によって毒されてきた分野である。これは「封建制」というターム一つとっても言えることだ。

あまりにも理念先行で、自分たちが設定した枠組みの解釈にあわせた事象だけ拾い上げるという態度は、ファクトベースの現実主義とはまったくあい異なるものだ。

「~であるべき」というゾレン(Sollen)ではなく、「~である」というザイン(Sein)の歴史を標榜する著者、史観からではなく事実から出発するという姿勢。あくまでもファクトベースでの発想は、日本史好きの枠を超えて、ビジネスパーソンにとって意味ある思考方法であるといえる。

その意味でも、本郷和人氏の日本史は面白い。賛否両輪があるだろうが、食わず嫌いはもったいない。


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目 次
はじめに
第1章 中世の王権
 1. 権門体制論
 2. 東国国家論と二つの王権論
 3. 王権は「自立」する
 4. 戦国大名というモデル
 5. 王権は「自律」する
第2章 実情(ザイン)と当為(ゾルレン)
 1. 当知行ということ
 2. 実力主義 
 3. 「上から」と「内から」
 4. 武家王権の成立
第3章 武門の覇者から為政者へ
 1. 下文と下知状
 2. 統治への覚醒 
 3. 直訴と奉書
 4. 王権、第三の定義
第4章 土地と貨幣
 1. 血か家か
 2. 貨幣の流入と商品経済の成立
 3. 「もの」への執着
 4. 徳政令と鎌倉幕府の自壊
第5章 東と西
 1. 海の武士道
 2. 切断と接合
 3. 一つの王権へ
 4. 1392年、東の切断
 5. 1600年、東西の激突
第6章 顕密仏教と新しい仏教
 1. 鎮護国家
 2. 圏密体制と統治
 3. やさしい仏教と統治
 4. 武家の仏教
第7章 一向宗、一神教、あるいは唯一の王
 1. 在地領地と農民
 2. タテかヨコか
 3. 一向宗と一神教 4. 王権の収斂-中世の終焉
おわりに
あとがき
文庫版 あとがき-これからの私の方向性をめぐって

著者プロフィール
本郷和人(ほんごう・かずと)1960年、東京都生まれ。東京大学文学部・同大学院で日本中世史を学ぶ。専攻は中世政治史と古文書学。東京大学史料編纂所教授。『大日本史料』第五編の編纂にあたる。主著に『天皇はなぜ万世一系なのか』(文春新書)、『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書)など多数。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<ブログ内関連記事>

武家社会と「封建制」

書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!

書評 『「東洋的専制主義」論の今日性-還ってきたウィットフォーゲル-』(湯浅赳男、新評論、2007)-奇しくも同じ1957年に梅棹忠夫とほぼ同じ結論に達したウィットフォーゲルの理論が重要だ

書評 『西郷隆盛と明治維新』(坂野潤治、講談社現代新書、2013)-「革命家」西郷隆盛の「実像」を求めて描いたオマージュ
・・クーデターによって、鎌倉幕府開設以来つづいてきた日本封建制700年の歴史に完全に終止符を打った(!)「革命家」とそての西郷隆盛

書評 『新渡戸稲造ものがたり-真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける-(ジュニア・ノンフィクション)』(柴崎由紀、銀の鈴社、2013)-人のため世の中のために尽くした生涯
・・あくまでも理念としての『武士道』(Bushido)は、実際の「武士」とは異なる


一神教を考えるために

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
・・第一次グローバリゼーショんと一神教時代の「戦国時代」末期

映画 『王妃マルゴ』(フランス・イタリア・ドイツ、1994)-「サン・バルテルミの虐殺」(1572年)前後の「宗教戦争」時代のフランスを描いた歴史ドラマ
・・同じ一神教の神を奉じるキリスト教徒どうしの血で血を洗う宗教戦争。「サン・バルテルミの虐殺」(1572年)は、織田信長の比叡山焼き討ちの翌年の出来事である

「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる

書評 『折口信夫-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)-折口信夫が一生かけて探求した問題の解明
・・「折口信夫が明らかにした古代日本の神とは、人間からみた道徳を説く神ではなく、善悪の両面を兼ね備えた、人間の意志とは関係なく、その深い情念のままに振る舞う神である。人々を祝福するだけでなく、愛欲・狡智・残虐といった正と負の両義的なエネルギーに充ち、「一挙にすべてを破壊する事のできる」ような「怒り」や「憎しみ」をもった神であった。 それは、ある意味で、同じく民族宗教であるユダヤ教の一神教の神に限りなく近い印象すら与える「超越神」である。折口信夫のいう「既存者」という表現は、「ありてあるもの」という旧約聖書の表現さえ想起させる。」

書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)・・日本と西欧の類似性

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・「泉 寺領に煩され続けた戦国大名たちは、信長をはじめとして、寺院に焼き討ちをかけ、イデオロギー上の対抗者としてキリスト教を使い、やがてキリスト教を追放して、勢力の弱まった仏教をキリスト教にあい対立するものとして明治維新まで使います」


浄土系の思想-法然と親鸞

「NHKラジオ 法然の『問答集』をよむ」(2013年4月~2014年3月)を聴く-法然は仏教を一般庶民のものとした革命的イノベーター

書評 『仏教入門 法然の「ゆるし」 (とんぼの本)』(梅原猛 / 町田宗鳳、新潮社、2011)

「法然と親鸞 ゆかりの名宝-法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌 特別展」 にいってきた

(2014年8月19日 情報追加)


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2013年11月12日火曜日

書評『私とは何か ― 「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎、講談社現代新書、2012)―「全人格」ではなく「分割可能な人格」(=分人)で考えればラクになる



おおいに共感する内容の本です。人間関係に悩んでいる人現実に違和感を抱いている人自分に自信がもてない人など、ぜひ本書『私とは何か ー「個人」から「分人」へ』を読むことをすすめたいと思います。

「本当の自分」など幻想だ! 著者はこう言い切っています。ですから「本当の自分」を求めて「自分探し」することなど、じつは意味がないのです。

なぜなら、人格は分割可能だから。人によって違う自分を見せているのは、心理学でいうようなペルソナ(=仮面)を掛け替えているからではなく、自分と他者との関係において、それぞれ異なる自分が存在するからなのだ、と。

つまりすべての人に対して同一の自分があるのではなく、他者との関係ごとに異なる自分が複数あると考えたほうが自然ではないか、というのが著者の結論です。

著者はこれを「分人」(ぶんじん)と名付けました。「個人」に対して「分人」複数の「分人」があわさって一人の「個人」になる。「個人」は複数の「分人」のネットワークであると捉えることもできる。

「個人」は英語の in-dividual(分割不可能)が語源です。それ以上わけることのできない存在が「個人」なのであると。「分人」とは in のない dividual、つまり「分割可能」という意味です。

本書では触れられてませんが、歴史学者の阿部謹也によれば、西欧で「個人」が生まれたのは11世紀のことです。キリスト教の世界観のなかではじめて「個人」が誕生したわけですが、かならずしもスムーズに浸透したわけではなかったようです。「個人」が定着するまで、西欧でも人は「世間」のなかで生きていたわけです。

「個人」という概念が「近代化=西洋化」とともに明治時代に導入されましたが、これがずっと日本人を苦しめてきた根源にあることは、おそらく多くの人にとって納得のいくことでしょう。そもそも日本にはなかった概念だからです。全人格で捉えられる「個人」が息苦しいのです。

もちろん個体レベルでは人体は分割不可能です。全体があってはじめて一つのシステムとなるからです。肉体を分割したらバラバラになってしまい、全体としての生命を維持することはできません。

しかし意識はそうではない。意識は人格や魂と言い換えてもいいかもしれませんが、意識は分割可能だと考えても不思議ではないでしょう。そもそも意識は肉体とは違って目に見えない存在ですから。肉体が物質であるならば、意識は「情報」といいかえてもいいでしょう。

「分人」は、あくまでも他者との関係において、その相互作用の蓄積がつくりだすものだと著者は言ってます。親子のあいだ、高校時代の友人、恋人やパートナー、職場の関係などなど、それぞれ他者との関係が異なるのは当然ですし、関係の濃い薄いにも違いがありますし、また自分も他者も変化しつづけるのでその関係も変化していくのは当然といえば当然でしょう。

だからこそ、複数の場で異なる関係をつくっておけば、どれか一つの「分人」に依存しなくても済むので、その結果、精神的に煮詰まらずに済むわけです。心を病んだり、思いつめて死を選ぶ必要などなくなります。

わたし自身は、「分人」という概念をもちださなくても、「一にして多・多にして一」という人間の多面性が意識されていれば十分だと考えていますが、多くの人にとっては「分人」という考えの方が理解しやすく受け入れやすいかと思います。一つのものの見方として。

わたしとしては、この本は人間関係に悩んでいる人だけでなく、とくに会社など組織でしかるべきポジションにある人にも読んでもらいたいと思います。

そうでなくても日本人がつくる組織においては、見えない「世間」が組織内に入り込み、息苦しさを生んでいるわけですが、その理由が構成メンバーを全人格的に支配したくなる気持ちが、無意識レベルかもしれませんが、あきらかに存在するからです。そのほうが管理する側からみればラクだから。一元的管理への誘惑はきわめてつよいものがあることは否定できません。

ワークライフバランスという概念もありますが、組織にいて仕事をしているときの「分人」と、仕事を離れた私生活の「分人」が違ってもまったく問題はないはずです。いや、むしろそれは組織として積極的に促進すべきでありましょう。

たとえ「分人」という表現はつかわなくても、全人格を一元的に管理しようなどと考えなければ、従業員の息苦しさは解消されるでしょうし、うつ病が発生することもないでしょう。そして、そうであればあるほど自由にものを考え、あらたなアイデアもでてくるようになるはず。

職場にる自分もまた自分、職場を離れた自分もまた自分。これらがつねに同一でなければならない必然性などまったくありません。

「自分」は異なる「分人」の集まりである。そう考えれば、おおいに気が楽になることでありましょう。「個」も「組織」も。




目 次

まえがき
第1章 「本当の自分」はどこにあるか
第2章 分人とは何か
第3章 自分と他者を見つめ直す
第4章 愛すること・死ぬこと
第5章 分断を超えて
あとがき
補記 「個人」の歴史

著者プロフィール

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)
1975年、愛知県生まれ。小説家。京都大学法学部卒。1999年、在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第一二〇回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<ブログ内関連記事>

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?
・・「世間」とは持続性のある相互監視の視線であり、「空気」とは持続性はないが濃度の濃い相互監視の視線の集まりと考えてよいのではないだろうか。いずれにせよ日本人の人間関係を息詰まるものにしている正体について

映画 『偽りなき者』(2012、デンマーク)を 渋谷の Bunkamura ル・シネマ)で見てきた-映画にみるデンマークの「空気」と「世間」
・・「世間」も「空気」も特殊日本的現象ではない

朝青龍問題を、「世間」、「異文化」、「価値観」による経営、そして「言語力」の観点からから考えてみる
・・「品格」なる「全人格」評価で断罪された朝青龍について「世間論」で考える

書評 『普通の家族がいちばん怖い-崩壊するお正月、暴走するクリスマス-』(岩村暢子、新潮文庫、2010 単行本初版 2007)-国際競争力を失い、大きく劣化しつつある日本人がつくられている舞台裏

書評 『会社で心を病むということ』(松崎一葉、新潮文庫、2010 単行本初版 2007)-社員のメンタルヘルス状態が改善すれば生産性も向上する。急がば回れ!
・・組織内に発生する「空気」、いつの間にか支配的になっている「世間」に注意すること!

「是々非々」(ぜぜひひ)という態度は是(ぜ)か非(ひ)か?-「それとこれとは別問題だ」という冷静な態度をもつ「勇気」が必要だ
・・まさに「分人」の実践!

(2014年6月5日 情報追加)


PS 「縁」という「相互依存性」の概念で捉えると、「個人」ではなく「関係」としての人間存在が理解可能となる

仏教でいう「縁」という概念は、人と人との「関係」、すなわち「相互依存性」と言い換えれることができます。そう捉えると、普遍的な概念として理解可能なものとなるでしょう。

「人格」や「個人」という西欧社会で確立した概念が、日本人の肌合いにはかならずしもフィットしていない。人と人との「関係」によって意識の志向性が変わり、それによって相互依存的な「個人」は、著者のいう「分人」としての様相も見せると理解しておけばよいでしょう。人間は、あくまでも関係性のなかに存在するとうのは、仏教に限らずユダヤ教でも同じようです。書評 『対話の哲学-ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜-』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)-生きることの意味を明らかにする、常識に基づく「対話の哲学」 を参照してください。

記事にも書きましたが、わたしは、かならずしも「分人」にこだわる必要はないと思います。「分人」と捉えたほうが理解しやすいし、説明もしやすいので著者の試みに賛同するわけです。いわば「方便」として。

(2013年11月13日 付記)



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2011年4月21日木曜日

「プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか」― 白洲次郎の「プリンシプル」について



白洲次郎(1902年~1985年)の人気は依然として高どまりしている。下降する兆しも見えない。これはここ数年の現象だ。

 もともとは、白洲正子(1910年~1998年)の人気から始まったものだ。

 日本美の世界を精力的に紹介し続けた白洲正子。凛とした姿と言動には、とくに女性を中心にしたファンが多い。

 1990年代に入って再燃した白洲正子ブーム、わたしも何冊か白洲正子の書いたものを読んでいて俄然気になってきたのは、配偶者であった白洲次郎とは何者か(?)という、強い好奇心にもとづいた疑問であった。

 『白洲正子自伝』では「一目惚れして結婚した相手」だとあるが、何をしていた人かについては断片的な記述しかないので、正直なところよくわからないままだった。白洲正子の本で、白洲次郎がクチにしていた country gentleman(カントリー・ジェントルマン) や grumble(ブツブツいう) というイギリス英語とその意味を知ったことぐらいか。

 これは私だけの疑問ではなかったようだ。多くの人たちが白洲次郎という「謎の男」に関心をもつようになったことから、白洲次郎の再発見になっていったのだろう。



「風の男 白洲次郎」


 そんななかで出たのが 『風の男 白洲次郎』(青柳恵介、新潮社、1997)。この本を読んで、白洲正子よりもはるかに面白い日本人がいたのだということをはじめて知って、驚きに満ちた喜びを感じたものだ。現在は文庫化されて新潮文庫から版を重ねている。
 
 白洲次郎については、だんだんと全貌が明らかになり、その後ついには白洲正子人気を上回るほどの存在となったことは、あえて書くまでもないだろう。

 なんといっても、占領下の日本で政治家・吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた男である。

 日本国憲法の草案作成にかかわった男である。

 米軍の高官に向かって「あなたの英語は下手だ」と言ってのけた男である。 夫婦のあいだの会話を英語でやっていた男である。白洲正子は米国仕込み、白洲次郎は英国仕込み。

 ケンブリッジ大学で西洋中世史を専攻し、のちに実業界で活躍することになりながら、トロツキイも熟読していた男である。

 この戦争に勝ち目はないとして、さっさと引退して東京郊外に土地を購入し、「武相荘」(=無愛想)なる和風の屋敷をつくって引きこもり、農作業に専念した男である。

 イネの品種「農林●●号」の発明者のことを誉めて、何かをインベント(invent:発明)することがえらいのだと断言していた男である。

 「葬式無用 戒名無用」と遺言を遺して、風のように去っていった男である。

 書いていればキリがない。あまりにもカッコ良すぎるのだ。長身で脚が長い、日本人離れしたその容姿と言動の数々。

 しかし、ほとんんど公的な発言を残さないまま、それこそ「風の男」として、さまざまな機密は墓のなかに持っていってしまった。



「プリンシプル」のある日本人・白洲次郎


 『プリンシプルのない日本-プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか。-』(白洲 次郎、ワイアンドエフ、2001) は、そんな白洲次郎が自ら執筆した数少ない文章を編集して、一冊にまとめたものだ。ほぼ唯一の自著だといってよい。現在は新潮文庫に収められている。

 プリンシプル(principle)とは何か?

 思いつくままに、該当すると思われる日本語をあげていってみよう。

 原理原則、しっかりと伸びた背骨、バックボーン、ブレない軸、ゆるぎない座標軸、一本通ったスジ(筋)、コア・バリュー(価値観)。いいかえればインテグリティのことでもある。

 インテグリティ(integrity)とは日本語に訳しにくいが、一般に訳されている「誠実」という意味よりも、発言にブレのない、首尾一貫した姿勢をさしていると理解したい。つまり、白洲次郎の生き様そのものだ。

 先にあげた『プリンシプルのない日本』には収録されなかった文章や対談が、その後多数再発見されて収録されたのが、『総特集 白洲次郎-日本で一番カッコイイ男 (KAWADE夢ムック)』(河出書房新社、2002)である。白洲次郎が書いた文章、対談や鼎談などしゃべった内容は、この二冊でほぼカバーされている。

 基本的に評論家ではなく、実業の世界に長くいた人だから、コトバよりも実践という姿勢が強かったのは当然だろう。

 だが、白洲次郎が残したコトバの断片は、あまりにも鮮やかで、魅力的だ。行動をともなっていたコトバだから、評論家の空疎な響きのコトバとはまったく違うのだ。

 反原発論者の広瀬隆は、東北電力会長としての白洲次郎は原発導入にかかわった人物だとして、『原子炉時限爆弾』(ダイヤモンド社、2009)で非難糾弾(?)しているが、この件については、わたしにはよくわからない。

 日本国憲法草案の作成に大きく関与し、その後は通産省(通商産業省、現在の経済産業省)にも大きくかかわっていた白洲次郎である、エネルギー政策にも当然関与しているはずだろう。その結果の東北電力会長就任だろう。

 実業家としての白洲次郎については、東北電力会長時代、みずからジープ(?)を運転して、いきなりダム建設現場を訪れたりすることを好んでやっていたというエピソードがいい。当時を知る人が、分け隔てなく接する人だったと回想しているのを読むと、かくあるべしという気持ちになるのは私だけではないだろう。

 敗戦後の日本で、国の行く末に深く関与した経験をもつひとであったから、全体を見据える「上から目線」の持ち主であったのは当然だ。だがその一方で、「下から目線」の意味も熟知し実践もできる人であった。

 私はそのように理解している。そこにまた魅力を感じるのでもある。



リスペクトすべき日本人。日本人は日本人として生きればよい

 白洲次郎は、私が尊敬する日本人の一人である。

 もし 10代の頃にその存在を知っていたなら、間違いなくその生き様をロールモデルとして、真似て真似尽くしたはずだ。

 だが、30歳台も半ばをい過ぎてからその存在を知ったのにかかわらずリスペクトしているのは、外見はせておき、気質的には近いからだろう。

 国際人とかそういった存在というよりも、まず人間であり、そして日本人であったという人間存在のありかたが実にいい。

 職業は何かと問われて、「人間だ」と答えた岡本太郎にも通じるものがある。

 あるいは、明治時代の岡倉天心などの国際人にもつうじるものといってもいい。国際人は、真に愛国者でもある。その一つの典型が、白洲次郎である。

 だが、白洲次郎のような生き方を貫けば、孤独とは縁が深くなる。これは岡倉天心も、永井荷風も、岡本太郎も同じだったことだろう。日本的な世間というものから距離を置いた生き方だからだ。脇目をふらず、我が道を行く生き方。

 「とかくメダカは群れたがる」という辛辣な表現をした作家がいる。当時のいわゆる「文壇」をさして言ったものだが、いわゆる「文士」に代表される文筆を業とする知識階層の日本人も、一皮むけば日本人以外の何者でもないことを、見事なまでに表現しきったものだ。

 その意味では、西洋の個人主義にどっぷりと浸かった体験をもつ白洲次郎はまさにその対極の存在であったといえよう。

 何からかの特定の「場」に属していなければ「安心」できないのが大半の日本人だが、「安心」と「信頼」が根本的に異なるものであるということに気がつかねばならない。

 そして「安心」がすぐに「慢心」に変わりやすいのも、わたしも含めて、日本人の悪しき特性である。根本にあるのは「甘え」であろう。独立自尊の精神とは対極にある「甘え」。

 実業の世界にいたが、白洲次郎は財界とは距離を置いていた。どこか特定の「場」に帰属していないと安心できないというような精神の持ち主ではなかったようだ。「群れたがるメダカ」ではなかったということだ。

 それは、自らのなかに確固とした「プリンシプル」があったからに他ならない。

 しかし思うにつけ、政治の世界はいうに及ばず、ビジネスの世界においても「プリンシプル」(原理原則)どころか、「ディシプリン」(規律)も持ち合わせない人たちが多すぎる。

 「経済二流、政治漂流」の日本が続く限り、白洲次郎の価値は衰えることはないだろう。

 しかし、いまは大東亜戦争の敗戦以来の「国難」のさなかにある。いまこそ、白洲次郎のような「プリンシプル」あるリーダーが求められているのではないか。

 いまは、日本が大転換する絶好のチャンスである。ピンチはチャンスである。

 だが、待望するだけでは未来は切り開けない。若い世代から「白洲次郎」たちが多く出てくることを切に願う。


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<ブログ内関連記事>

「武相荘」(ぶあいそう)にはじめていってきた(2014年9月6日)-東京にいまでも残る茅葺き屋根の古民家
・・白洲次郎の「終の棲家」(ついのすみか)


欧米社会におけるルールとプリンシプルの違い

書評 『増補改訂版 なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか-ルールメーキング論入門-』(青木高夫、ディスカヴァー携書、2013)-ルールは「つくる側」に回るべし!
・・「ルールは外的で他律的、プリンシプルは内的で自律的、となる(P.34)。わたし的にいえば、プリンシプルが個人の内面を律する原理原則であるとすれば、ルールはしょせん決め事に過ぎない」


英国と英国仕込みの白洲次郎

書評 『ジェームズ・ボンド 仕事の流儀』(田窪寿保、講談社+α新書、2011)-英国流の "渋い" 中年ビジネスマンを目指してみる

書評 『大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)』(越智道雄、日本経済新聞出版社、2009)-文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムのカギは何か?


白洲次郎についての言及があるもの

書評 『歴史に消えた参謀-吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一-』(湯浅 博、産経新聞出版、2011)-吉田茂にとってロンドン人脈の一人であった「影の参謀」=辰巳栄一陸軍中将の生涯
・・辰巳栄一もまた吉田茂の右腕だった

書評 『異端力のススメ-破天荒でセクシーな凄いこいつら-』(島地勝彦、光文社文庫、2012)-「常識に染まらず、己の道を行く」怪物たちの生き様
・・週刊プレイボーイの伝説の編集長による人物評伝

書評 『マネーの公理-スイスの銀行家に学ぶ儲けのルール-』(マックス・ギュンター、マックス・ギュンター、林 康史=監訳、石川由美子訳、日経BP社、2005)
・・スイスの銀行である UBS(当時は SBC)傘下に入っていたSBC ウォーバーグ(Warburg)にからめて、ウォーバーグの顧問を務めていた白洲次郎について触れている。実業家としての白洲次郎というのは、そもそもビジネスについては外に漏れる性格の話ではないので、よくわからないことも多い

書評 『失われた場を探して-ロストジェネレーションの社会学-』(メアリー・ブリントン、池村千秋訳、NTT出版、2008)
・・「特定の「場」に帰属しない関係、すなわち複数の「場」に横断的にかかわる存在も、日本では必然的に「孤独」を友とえざるをえない。たとえば、白洲次郎などの突出した、非日本的日本人がそれにあてはまるだろう。日本の大学を卒業せず、日本の会社には経営者としてしか働いたことはなく、財界とも政治家とも距離を置いていた人生だ。フツーの日本人にとっては、どこかの「場」に帰属していないことは、社会的に存在しないも同然とみなされるのである。この「孤独」に耐えられる者は少数派である」。


白洲次郎と同じ精神の持ち主たちのこと

岡倉天心の世界的影響力-人を動かすコトバのチカラについて-
・・米国のボストンに長く滞在していた岡倉天心もまた「プリンシプルの人」であった

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・若き日にフランスに長期留学して西欧に触れた岡本太郎もまた「プリンシプルの人」であった

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む
・・アメリカとフランスで西欧に触れた個人主義者の永井荷風もまた「プリンシプルの人」であった

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
・・留学経験がなく、かならずしも西欧的個人主義者ではなかった折口信夫もまた「世間の外」に居続けた個人主義者であった

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?)
・・「世間」を対象化した歴史学者・阿部謹也による「世間論」、「空気」の存在を
対象化した山本七平は、ともにキリスト教に深く関わった人たちであった

(2014年7月23日、8月11日、9月11日 情報追加)
(2015年12月30日 情報追加)


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