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2024年3月7日木曜日

書評『松下幸之助の死生観 ー 成功の根源を探る』(川上恒雄、PHP研究所、2024)ー 「使命感」の根底にあった宗教的な「死生観」 




2024年2月に出版されたばかりの『松下幸之助の死生観 ー 成功の根源を探る』(川上恒雄、PHP研究所、2024を読了。 著者は、PHP理念経営研究センターの首席研究員。

PHPは、松下幸之助が敗戦後の1946年に創設したシンクタンクである。「PHP」とは、「Peace and Happiness through Prosperity」(=繁栄によって平和と幸福を)の頭文字をとったものだ。「物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現していく」という松下幸之助の理念が託されている。

松下幸之助の「経営理念」には、さまざまな宗教の影響があったことはよく知られている。

使命を自覚した「命知元年」(1932年)のきっかけが天理教本部の見学であったことは、比較的知られていることだろう。天理教の「現世肯定」という理念に共感するものもあったようだ。 

だが、使命感の根底には松下幸之助自身の「死生観」があり、だからこそさまざまな宗教が説く教えを耳で聴いて、自分自身の考えを確立していったのであろう、というのが著者の見解だ。 

本書で重点的に取り上げられているのは、「生長の家」と「真言宗」である。前者は「第3章 宗教的背景を探るー「生長の家」のケースを手がかりに」で、後者は「第4章 死生観はどのようにして涵養されたか」で取り上げられている。 

その「死生観」は、長生きはできないであろうと覚悟していたほど病弱であった、そんな幸之助自身の実存に起因するものであったことが、「第2章 不健康またけっこう ー 病と幸之助」を読むと実感される。 

特効薬のなかった時代に肺尖カタル(=結核の初期症状)に苦しみ、26歳までに両親やきょうだいがみな死んでいるだけでなく、本人も最後まで完治することがなかったようだ。

さらに、経営者という精神的な重圧から、生涯にわたって不眠症に悩まされていたことなど、睡眠薬を手放せない人生であった。 

そんな松下幸之助は「物心一如」を理念として打ち出していた。先にもみたように、PHPの理念に結実したものである。松下幸之助の影響を受けていた稲盛和夫の「物心両面の幸福」と似ている。

だが、両者の霊魂感には違いがあるようだ。おなじく米国発の「ニューソート」(New Thohght)系の「生長の家」の影響を受けているものの、稲盛和夫は個別の「魂」を前提にしている。「仕事をつうじて魂を磨け」というフレーズにそれが表現されている。 

ところが、松下幸之助は、人間は生きているあいだは個別の存在だが、死ねば個別性はなくなると考えていた。 

「生命力」は「宇宙の根源の力」から分かれでて個別の人間として生まれ、そしてまた「宇宙の根源」に帰っていく。つまり、一からでて一に帰るのである。霊魂は不滅だが、霊魂の個別性は否定する。 

これは「一にして多」であり、「多であり一」という、日本の伝統的な宗教観念であり、学校教育を受けなかった松下幸之助にとって、納得のいく考えだったのではないだろうかという著者の指摘には納得がいく。 

そしてこれは、真言宗が前提とする『華厳経』の考え方にも近い。だからこそ、2年間にわたって生活を共にし、生涯にわたって影響を受けつづけて真言宗の僧侶・加藤大観の存在に注目するべきなのだろう。高野山との関係もそうであり、そもそも幸之助の出生地である和歌山は真言宗が強い地帯である。 

帯にもあるように、本書を読んだことで、「素直な心」「自然の理法」「生成発展」という松下幸之助の哲学の根本は、その「宗教的な死生観」を知ることで大いに納得のいくものとなった。 

現在にいたるまで、松下幸之助の著作が根強く読み継がれているのは、日本人が一般に抱いている死生観と共通するものがあるからなのだろう。

経営論をはるかに超えた、みずからの経験をベースにした「生き方」を説いたものだからなのだ。 

その意味では、すでに現世の人ではないとはいえ、松下幸之助は稲盛和夫とともに、今後も長く日本人の心のなかに生き続けることになろう。


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目 次
イントロダクション 
第1章 「運命」を生かす ー 人知を超えた「理法」の存在 
第2章 「不健康またけっこう」ー 病と幸之助 
第3章 宗教的背景を探る ー「生長の家」のケースを手がかりに 
第4章 死生観はどのようにして涵養されたか 
第5章 「期待される人間像」議論への参画 
補論 幸之助の「商道」が生み出された時代背景 
あとがき
 
著者プロフィール
川上恒雄(かわかみ・つねお)
1991年一橋大学経済学部卒業、日本経済新聞社入社。1997年同社退社後、南山大学宗教文化研究所研究員、京都大学経営管理大学院京セラ経営哲学寄附講座非常勤助教などを経て、2008年PHP研究所入社。2019年より同社PHP理念経営研究センター首席研究員。ランカスター大学宗教学博士(Ph.D)。エセックス大学社会学修士(M.A.)。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



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・・イノベーションが生まれるメカニズムを企業人が『華厳経』的に解釈してみる試み。「創出」のキーワードは「直観」と「自他未分離」、仏教的にいえば「無分別」となる。ブッダの悟りを表現した『華厳経』の表現「海印三昧、一時炳現」は、同時にいっさいの事象があきらかになることを意味している。

・・鈴木大拙や西田幾多郎が哲学や思想の分野で行ったことは、「一即多、多即一」の『華厳経』的な大乗仏教の日本的展開がベースにある

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2021年2月27日土曜日

書評『老人の美しい死について』(朝倉喬司、作品社、2009)ー 自分の人生は自分で「始末」するという思想とその実践




帯にあるように、「人生の終末に、あえて自ら死を選んだ三人の老人-市川団蔵8世(歌舞伎役者・享年84歳)、木村セン(農婦・享年64歳)、岡崎次郎(マルクス学者・享年79歳)」の人生の始末の付け方を描いた作品である。同一テーマを軸にした評伝集といっていいのかもしれない。 

帯にはさらにこうある。「自らの仕事を "天職" と心得て、心に秘めた強い意志をもって生き抜かれた果ての自死。明治人の "美しき生と死" を通して、現在のあり方を問う。」。

これ以上、くだくだ書き加える必要はないだろう。 市川団蔵8世は鳴門海峡に身を投じ無名の農婦の木村センは自宅で首をくくり岡崎次郎は夫婦で旅に出てそのまま行方不明のまま現在に至っている。 


自分の人生は自分で「始末」するという思想とその実践。そして、それは美意識の問題でもある。

倫理は「真善美」の三要素で構成されるが、「美しい」ということは、日本人にとっては、もっとも重要な倫理である。「美意識」は生き方の問題でもある。美しくあるためには、キレイでなくてはならない。清浄にもつながる意識である。

取り上げられた3人には、「自死」を選んで実行した明治生まれの日本人という以外に、なんら共通点はない。 生きづらさに命を絶った青少年の「自殺」ではない志破れた果ての「自決」でもない。人生の終末にいたってのそれは「自死」というべきなのである。 

著者はまったく言及していないが、私の愛読書でもある、フランス人思想家モーリス・パンゲの『自死の日本史』という名著を想起する。パンゲ氏は「自死」をフランス語で la mort volontaire としている。「意志による死」という意味だ。  

元新左翼の活動家でノンフィクション作家の著者は、この本を書いた時点で66歳。ネットで調べたら、その翌年に67歳で亡くなっている。自宅で亡くなっているのが発見されたという。多作の人であったようだが、この本が最後の本というわけではないようだ。 

私自身については、いますぐ死ぬということはなさそうだが(・・といっても、これだけは自分でコントロールできるものではない)、どういう形で人生に「始末」をつけるかについては考えておきたいものである。それは「自死」ではなくとも、「意志」の問題であることに変わりはない。 

誰の発言が記憶に定かではないが、「よく死ぬことは、よく生きること」であるのだから。


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2020年4月7日火曜日

JBPressの連載コラム第75回は、「命日に考える、特攻で散った大和が日本に残したもの-「散華の世代」からの問いかけに私たちはどう答えるのか」(2020年4月7日)


JBPressの連載コラム第75回は、命日に考える、特攻で散った大和が日本に残したもの-「散華の世代」からの問いかけに私たちはどう答えるのか(2020年4月7日) 
⇒ https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59998

戦艦大和は、いまから75年前の1945年4月6日に「沖縄特攻作戦」に出撃、その翌日の4月7日14時23分、沖縄に到着することなく米軍の総攻撃によって鹿児島の坊ノ岬沖で轟沈、その5年に満たない短い一生を終えたのである。

戦艦大和については、それこそ撃沈から現在に至る75年間に膨大な量の書籍や論文や記事が書かれ、ありとあらゆる角度から論じ尽くされてきた。それは現在もなお続いている。それだけ日本人の関心が高いのである。

私が読んだのは、そのごく一部にしか過ぎないが、そのなかからあえて1冊だけ選べということになったら、間違いなく『戦艦大和ノ最期』を選ぶだろう。

今回は、戦艦大和が「特攻」によって花と散っていったことを、後世に生きるわれわれがどう受け取めるべきなのか、『戦艦大和ノ最期』の著者で「散華の世代」の代表でもある吉田満氏の文章をつうじて、さまざまな面から考えてみたいと思う。

つづきは本文にて ⇒ https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59998





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戦艦大和が「沖縄特攻作戦」に出撃してから70年(2015年4月6日)-桜の季節に散っていった戦艦大和への鎮魂

鎮魂!戦艦大和- 65年前のきょう4月7日。前野孝則の 『戦艦大和の遺産』 と 『戦艦大和誕生』 を読む

「特攻」について書いているうちに、話はフランスの otaku へと流れゆく・・・

書評 『極限の特攻機 桜花』(内藤初穂、中公文庫、1999)-人間爆弾の開発にかかわった海軍技術者たちと散っていった搭乗者たち、そして送り出した人たち

「散る桜 残る桜も 散る桜」 (良寛)

「男の修行」(山本五十六)

「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」 には続きがあった!-山本五十六 その2

祝! 海上自衛隊創設60周年-2012年10月14日の第27回海上自衛隊観艦式ポスターに書かれている「五省」(ごせい)とは?

マンガ 『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ、講談社漫画文庫、1998) 全16巻 を一気読み



 
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2014年8月11日月曜日

書評『武士とはなにか ー 中世の王権を読み解く』(本郷和人、角川ソフィア文庫、2013)ー 日本史の枠を超えた知的刺激の一冊


この本は面白い。本文がおもしろいだけでなく、「あとがき」と「文庫版あとがき」がまた衝撃的だ。そこまで日本史、いや歴史全般が人気がなくなってしまっているのか、と。

歴史好きな日本人は多い。だが歴史学が好きな日本人はそう多くないようだ。

大学受験のための無機質な年号暗記が歴史嫌いを増やしているのであろうし、なによりも古代からはじまって現代に近づいていくという叙述スタイルが面白くないのは当然だ。たいていの高校では近代にはいったくらいで時間切れとなる。

「いま、ここに」生きている自分にとって、歴史がいったいぜんたいなんの意味があるのか? そう思う人が少なくないのは不思議でもなんでもない。

現代からはじまって過去にさかのぼる姿勢でなければ、たいていの人間にとって歴史は関心のないものでありつづけることだろう。

日本人が好きなのは歴史小説や歴史ドラマであって、歴史そのものではない。わたしの恩師の阿部謹也先生は、「歴史小説は舞台を過去に設定した現代小説」であると言いきっている。だからこそ、歴史書ではなく、歴史小説を興味深く読む人が多いのである、と。

つまり面白いということが必要なのである。歴史事実のトリビアルなディテールばかり追っているのでは歴史オタクとしては満足であろう。だが、オタクではないふつうの人にとってはどうでもいいような事実の羅列が面白いわけがない。

歴史は流れがわかればそれで十分ではないか、とわたしは思っている。

そんなわたしにとって、『武士とはなにか-中世の王権を読み解く-』は、じつに面白い本であった。

中世史家の本郷和人氏の本を読むのはこれがはじめてなのだが、問題関心のあり方にわたしと共通するものを感じたためでもある。

本書の内容については出版社によるもので言い尽くされているので、それを引用しておけば十分だろう。

新しい日本史世史! 戦士から統治者としての王へ 中世は「武士の時代」だった! 覇権をかけた武士たちの闘い、そして武家政権としての将軍権力の実態とは? 源平争乱から戦国時代を経て、徳川幕府完成まで――。貨幣経済の浸透、海の民の活躍、一神教の衝撃、東西の衝突などの刺激的な視点から、武士が「戦士から統治者としての王」となったプロセスを追う。先入観や従来の教科書的な史観を排し、その時代の「実情」から、権力の変遷を鮮やかに読み解く、新しい日本史世史。(*太字ゴチックは引用者=さとう)

基本的に「武士から王へ」というストーリーを基軸に据えているが、本郷氏のいう「王」とは、実在していない作業仮説のようなものだ。だが、この「王」への方向を想定することで、さまざまなことが見えてくる。

「自立」と「自律」。王としての「君臨」と「統治」。私はいま、この二つの要素を以て王権を定義し、それに基づいて日本の中世史を探訪したいと考えている。(P.39)(*太字ゴチックは引用者=さとう)

支配のあり方をこのように定義すると、日本史の枠組みを超えて、ビジネスとマネジメントに示唆するものも少なくない。


戦国時代末期における「天下統一」 vs 「一神教」  

「貨幣経済の浸透、海の民の活躍、東西の衝突などの刺激的な視点」が展開されているが、こういったテーマはすでに日本中世史の網野善彦氏が開拓してきた分野なので、慣れ親しんでいる人も少なくないだろう。

なかでも、わたしの知的好奇心をもっともそそるのが、最終章の第7章で展開されている戦国時代末期の一向宗(=浄土真宗)についての取り上げ方だ。

第一次グローバリゼーションのなか、日本に伝来したキリスト教にきわめて近似した一向宗は、限りなく「一神教」に近づいていたのである。阿弥陀如来に一点集中した一向宗の「伝播力」は、まさにキリスト教に匹敵するものであった。

こういう発想は「近代主義」だとして斬り捨てる人がいるが、わたしはかならずしもそうは考えない。メッセージの明快さとアピール力において、一神教のほうが多神教よりもコミュニケーション密度とスピードが勝っているのは、当然といえば当然だ。信仰の対象を阿弥陀如来のみに一点集中させた一向宗が、容易に地域を越えて拡大したのはそのためだ。ただし、これは宗教としての優劣を論じているのではない。

著者の本郷氏は、最終章においても「二項対立」の枠組みを使用し、組織構造としての「ツリー構造」と「リゾーム構造」で、「一神教」的な統合原理を必要とした「主従構造」のあり方の変化を鮮やかに対比してみせる。

(ツリー構造とリゾーム構造 本書P.200より)

「ツリー構造」とは、家臣の一人の主君への忠誠がタテに階層的に構築されていく、一人の「王」を頂点としたピラミッド型の階層構造による組織である。官僚制の組織構造はこのタイプである。

「リゾーム構造」とは、複数の主人に服従を誓う、ゆるい構造のネットワーク型の組織を形成する。リゾームとは地下茎のことで、1980年代後半にはよく耳にしたコトバだ。著者が1960年代生まれであることが反映しているのであろう。現在ならネットワーク構造というべきか。

前者の「ツリー型組織」は、鎌倉幕府を成立させた源頼朝と御家人の関係、後者の「リゾーム型組織」は、一人の強力なリーダーを生み出さない惣村(そうそん)における「一味同心」の関係である。

鎌倉幕府の成立以降、日本の武家社会においては「ツリー構造」を基本としてきたが、戦国時代の混乱のなかで天下統一を狙う武将たちは、現世の絶対者である「王」が頂点に位置し、それ以外の人間はその王の支配のもとにおかれると同時に、慈悲深き王の庇護のもとに入る体制を志向するようになる。

一方、一向宗やキリスト教などの「一神教」世界においては、現世ではない別世界の絶対者のもとでの平等が前提となる。つまり現世においては現世の絶対者である「王」に帰属する必要は必ずしもなくなる。

だからこそ、天下統一構想の前に立ちはだかる「一神教」的な宗教勢力に対して恐怖を感じた織田信長は、だからこそ日本の仏教勢力の牙城であった比叡山を焼き討ちし皆殺しにしたのであり、豊臣秀吉は石山本願寺にたてこもる一向宗を武力でたたきつぶしたのであり、徳川将軍はキリスト教を禁圧し徹底的に取り締まったのである。

これらはみな、現世における「王」の支配を盤石にするためであった。まさにマキャヴェリズムそのものである。

こういう組織論とリーダーのあり方をからめた解説は、ビジネスパーソンにとっても興味深いはずだ。


ビジネスパーソンにとっても意味あるファクトベースの思考方法

とくに日本史という分野は、戦前の皇国史観だけでなく、戦後もまた唯物史観によって毒されてきた分野である。これは「封建制」というターム一つとっても言えることだ。

あまりにも理念先行で、自分たちが設定した枠組みの解釈にあわせた事象だけ拾い上げるという態度は、ファクトベースの現実主義とはまったくあい異なるものだ。

「~であるべき」というゾレン(Sollen)ではなく、「~である」というザイン(Sein)の歴史を標榜する著者、史観からではなく事実から出発するという姿勢。あくまでもファクトベースでの発想は、日本史好きの枠を超えて、ビジネスパーソンにとって意味ある思考方法であるといえる。

その意味でも、本郷和人氏の日本史は面白い。賛否両輪があるだろうが、食わず嫌いはもったいない。






目 次
はじめに
第1章 中世の王権
 1. 権門体制論
 2. 東国国家論と二つの王権論
 3. 王権は「自立」する
 4. 戦国大名というモデル
 5. 王権は「自律」する
第2章 実情(ザイン)と当為(ゾルレン)
 1. 当知行ということ
 2. 実力主義 
 3. 「上から」と「内から」
 4. 武家王権の成立
第3章 武門の覇者から為政者へ
 1. 下文と下知状
 2. 統治への覚醒 
 3. 直訴と奉書
 4. 王権、第三の定義
第4章 土地と貨幣
 1. 血か家か
 2. 貨幣の流入と商品経済の成立
 3. 「もの」への執着
 4. 徳政令と鎌倉幕府の自壊
第5章 東と西
 1. 海の武士道
 2. 切断と接合
 3. 一つの王権へ
 4. 1392年、東の切断
 5. 1600年、東西の激突
第6章 顕密仏教と新しい仏教
 1. 鎮護国家
 2. 圏密体制と統治
 3. やさしい仏教と統治
 4. 武家の仏教
第7章 一向宗、一神教、あるいは唯一の王
 1. 在地領地と農民
 2. タテかヨコか
 3. 一向宗と一神教 4. 王権の収斂-中世の終焉
おわりに
あとがき
文庫版 あとがき-これからの私の方向性をめぐって

著者プロフィール
本郷和人(ほんごう・かずと)1960年、東京都生まれ。東京大学文学部・同大学院で日本中世史を学ぶ。専攻は中世政治史と古文書学。東京大学史料編纂所教授。『大日本史料』第五編の編纂にあたる。主著に『天皇はなぜ万世一系なのか』(文春新書)、『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書)など多数。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<ブログ内関連記事>

武家社会と「封建制」

書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!

書評 『「東洋的専制主義」論の今日性-還ってきたウィットフォーゲル-』(湯浅赳男、新評論、2007)-奇しくも同じ1957年に梅棹忠夫とほぼ同じ結論に達したウィットフォーゲルの理論が重要だ

書評 『西郷隆盛と明治維新』(坂野潤治、講談社現代新書、2013)-「革命家」西郷隆盛の「実像」を求めて描いたオマージュ
・・クーデターによって、鎌倉幕府開設以来つづいてきた日本封建制700年の歴史に完全に終止符を打った(!)「革命家」とそての西郷隆盛

書評 『新渡戸稲造ものがたり-真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける-(ジュニア・ノンフィクション)』(柴崎由紀、銀の鈴社、2013)-人のため世の中のために尽くした生涯
・・あくまでも理念としての『武士道』(Bushido)は、実際の「武士」とは異なる


一神教を考えるために

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
・・第一次グローバリゼーショんと一神教時代の「戦国時代」末期

映画 『王妃マルゴ』(フランス・イタリア・ドイツ、1994)-「サン・バルテルミの虐殺」(1572年)前後の「宗教戦争」時代のフランスを描いた歴史ドラマ
・・同じ一神教の神を奉じるキリスト教徒どうしの血で血を洗う宗教戦争。「サン・バルテルミの虐殺」(1572年)は、織田信長の比叡山焼き討ちの翌年の出来事である

「神やぶれたまふ」-日米戦争の本質は「宗教戦争」でもあったとする敗戦後の折口信夫の深い反省を考えてみる

書評 『折口信夫-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)-折口信夫が一生かけて探求した問題の解明
・・「折口信夫が明らかにした古代日本の神とは、人間からみた道徳を説く神ではなく、善悪の両面を兼ね備えた、人間の意志とは関係なく、その深い情念のままに振る舞う神である。人々を祝福するだけでなく、愛欲・狡智・残虐といった正と負の両義的なエネルギーに充ち、「一挙にすべてを破壊する事のできる」ような「怒り」や「憎しみ」をもった神であった。 それは、ある意味で、同じく民族宗教であるユダヤ教の一神教の神に限りなく近い印象すら与える「超越神」である。折口信夫のいう「既存者」という表現は、「ありてあるもの」という旧約聖書の表現さえ想起させる。」

書評 『歴史入門』 (フェルナン・ブローデル、金塚貞文訳、中公文庫、2009)・・日本と西欧の類似性

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・「泉 寺領に煩され続けた戦国大名たちは、信長をはじめとして、寺院に焼き討ちをかけ、イデオロギー上の対抗者としてキリスト教を使い、やがてキリスト教を追放して、勢力の弱まった仏教をキリスト教にあい対立するものとして明治維新まで使います」


浄土系の思想-法然と親鸞

「NHKラジオ 法然の『問答集』をよむ」(2013年4月~2014年3月)を聴く-法然は仏教を一般庶民のものとした革命的イノベーター

書評 『仏教入門 法然の「ゆるし」 (とんぼの本)』(梅原猛 / 町田宗鳳、新潮社、2011)

「法然と親鸞 ゆかりの名宝-法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌 特別展」 にいってきた

(2014年8月19日 情報追加)


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2014年8月1日金曜日

「魂」について考えることが必要なのではないか?-「同級生殺害事件」に思うこと


少年少女による不可解な猟奇的殺人事件がまた発生した。長崎県で発生した「同級生殺害事件」の話である。

今度もまた被害者の名前が実名でさらされながら、加害者についての情報は伏されているという非対称的な取り扱い。「人権」とはいったいなんなのかという疑問をもつ。

「被害者は二度殺される」とよくいわれるが、突然の悲劇に見舞われた被害者の家族のみなさんの思いは想像を超えたものだろう。

だが、ここでいいたいのは「人権」についてではない。「被害者」や「遺族感情」についてでもない。愛でも憎しみでもなく、あたかも機械をバラスような感覚で同級生を殺害し、解剖しようとした16歳の女子高生という「加害者」は、いったい何者なのかという疑問についてである。

テレビの解説番組では脳科学者を名乗る人物や犯罪捜査にかかわる人物、そしてコメンテーターという肩書きの人々が、事件についていじくりまわしているが、さっぱり核心をついたコメントがなされていない。いわゆる「腑に落ちない」というやつである。

わたしが思うに、これは加害者についてのイマジネーションがあまりにもなさ過ぎるということだ。人間についての理解があまりにも浅いという印象を免れ得ないのだ。

これまでにも神戸連続児童殺傷事件の加害者である「少年A」の事件や、豊川市の高校生が老婆を殺害した事件など、少年少女による類似の事件は何度も発生しているというのに・・・。

「殺してみたいから殺した」という加害者の供述、わたしはこれはウソをついているのではないと思う。同じような供述は、過去にも何人もの少年少女がクチにしている。

少年少女はそもそも大人以上に残酷な存在であり、暴力性が自分に向かって自傷や自殺するか、他者に向かって暴力となることはよくあることだ。「14歳」前後の時期を生き抜くのは思った以上に困難なものがある。前近代社会においては、日本の元服など、大人になるためにの「通過儀礼」によって、子ども時代を象徴的に殺し大人として「再生」させていたことからもそれはわかる。次の状況への移行期というものは、つねに不安定な時期なのである。

知能指数の高い子どもには、感情面が欠如したままのケースもある。加害者は、そもそもきわめて知的好奇心のつよいタイプなのだろう。解剖にひじょうに興味があり、ネコを解剖してみたら、がぜん人間も解剖してみたくなったと供述しているらしい。知能が感情より勝っているのか、あるいは感情に欠落部分があるのか。

純粋に自分の知的好奇心を満たすためだけにネコを殺して解剖するのは、いわんや人を殺して解剖したいというのは常軌を逸しているという印象さえ受ける。ところが、17世紀のフランスのとある修道院では、生きたまま動物の生体解剖も行われていたという。デカルトの「動物機械論」の影響である。心身二元論である。

かつてはナチスドイツでも日本でもアメリカでも、その他の国でも広範囲に人体実験が行われていたという事実も想起する必要がある。これは、たかだか70年くらい前の話だ。

「親しい友人だから殺した」という供述も、それほど不思議ではない。殺しやすいということをアタマで考えたのかもしれないが、それだけではないかもしれない。加害者本人にも、どこまで自分のことがわかっていたか不明である。心の闇と片付けていいものかどうか。

1936年(昭和11年)に発生した阿部定(あべさだ)事件というものがある。

男を愛するあまり、他人の手に渡すならいっそのこと永遠に自分のものとしたいという思いから殺害し、カラダの一部を切り取って逃亡したという事件だ。この事件を題材にして大島渚監督は『愛のコリーダ』を製作している。いっけん猟奇的な事件で、一般常識を越えているのだが。

もちろん、阿部定と今回の「同級生殺人事件」とは性格は異なる。歪んだ愛にもとづくストーカー殺人事件とはまったく異なる。現時点ではわからないことだらけだ。

おなじく1936年に亡くなった作家の夢野久作は「猟奇歌」で次のような歌を詠んでいる。大作『ドグラマグラ』を完成させてから亡くなった夢野久作だが、「猟奇歌」とは、猟奇的なテーマを短歌形式で文字化した作家のイマジネーションの産物である。

誰か一人
殺してみたいと思ふ時
君一人かい…………
………と友達が来る

ブラックユーモアめいた内容である。だが、「殺してみたい」という衝動が一瞬たりとも浮かんだことがまったくないと言い切れる人も少ないのではないか。この戦慄すべき感情は、かならずしも一般人にとっても理解不能ではないだろう。

とはいえ、アタマのなかで思うことと、じっさいに人を殺すのはまったく別個のことだ。

「なぜ人を殺してはいけないか?」 こういう問いについて一度でも疑問を抱いたことのない人はいないだろう。根源的な問いである。哲学的な問いでもある。

そんなとき、いまは亡き哲学者・池田晶子氏の本でも読ませて、考えさせたらいいだろう。『14歳からの哲学-考えるための教科書-』という本がある。

14歳でもこの本を読むことは不可能ではない。ただし、誰もが理解できる日本語で書かれていても、答えが書かれている本ではない。問いと思索を文字化したものだ。考えさせるための本である。


池田晶子氏には『魂とは何か-さて死んだのは誰なのか-』という本もある。人間を人間たらしめているもの。肉体と精神、そして魂ボディ&マインド、そしてソウル。ここでいう精神(マインド)とはココロにもかかわるが基本的にはアタマのことである。魂は精神とは違う。魂は肉体でもない。心身とは違う「存在」だ。

魂こそ、人を人たらしめているものに違いない。人格と言い換えていいかもしれない。魂であれ、人格であれ、いずれにせよそれは「見えないもの」である。

神戸連続児童殺傷事件の加害者である「少年A」についても独特のコメントをしているのでぜひ目を通していただきたい。わたしにはじつに「腑に落ちる」内容だ。池田氏のような立ち位置の「哲学者」(・・ここでいう哲学者とは、大学にポジションをもつ哲学(史)研究者のことではない!)でしか書けない内容だろう。

知能レベルの高い子どもは、「目に見えないものは存在しない」と考えがちだ。アタマですべてを処理しようとするから、「感じる」という人間の自然な感情をできるだけ抑制し、排除しようとする傾向になる。感情面の発達が遅れて知性ととバランスがとれていないケース、あるいは最初から欠落しているケースもある。

臨床心理学者の河合隼雄氏が存命なら、きっと「魂が傷ついている」とか、そういうコメントをしたはずだ。河合氏は援助交際について、「たましいに悪い」という表現でコメントしている。これをはじめて読んだときは、わたし自身も違和感を感じなかったわけではない。臨床心理学者としても、じつに大胆な発言に踏み込んだものだ、と。

思うに、いくら心の教育専門家が「命の教育」をしようが、魂の存在について知らんぷりしているのではダメなのだ。魂について語り、考えさせなければダメなのだ。

だが、現代という時代、専門家として生きていくうえでは、「魂」という存在にについて語ることは命取りになりかねない。合理性の範囲内で「見えること」についてしか語らないというのは、暗黙のルールだからだ。これを逸脱すると専門家とはみなされなくなる。目に見えない魂については語らないという前提で、専門性が構築されているからだ。

魂不在の教育。魂不在の専門家たち。戦後の唯物主義教育の悪しき影響がもろにでているといわざるをえない。科学思考の限界についての認識も、まだまだ一般化していないのかもしれない。その科学信仰のうえに乗っかっているのが専門家という存在である。

魂について語ることができるのは、一般的には宗教家や哲学者であろう。かれらは「見えないもの」についての感受性を研ぎ澄まし、それについて考え、語ることができる存在である。だが、宗教家はそのフォロワーたちに自分で考えることを促すのではない。ドグマを伝えるだけである。それも特定の教義に基づいた、固定した教えに従うことを要求するだけだ。

だからこそ哲学が必要とされるのである。哲学的に自由に、かつ根源的に考えることが重要なのである。「見えないもの」について自分のアタマで考え、そして他者と語り合うこと。考えるだけでなく、哲学的対話、哲学問答が必要なのである。「見えないもの」について、いっさい斬り捨ててしまうのが「哲学研究者」という名の専門家である。それは「哲学者」ではない。

わたしは、ここから日本の教育を変えていかないと、根本的にはなにも変わらないと考えている。教養の核に哲学を据えなければならないのである。

他人より多くのことを知っているだけでは、知識が豊富というだけであり、けっして知恵のある人とはいわないのである。教養イコール知識という固定観念からみずからを解放し、自分のアタマで考え、感じ、他者と対話することつうじて学ぶことの意味をしらなくてはならない。

それじたいが専門用語である哲学用語ではなく、自分自身のコトバで語ること。自分のコトバで語ることができるまで考え尽くすこと。これが必要なのである。哲学の専門家というのはありえない。根源的なレベルまで考える人は、誰でもすでに哲学者になっているのだ。





PS 阿部定事件について(補足)

『阿部定手記』(前坂俊之編、中公文庫、1998)という本には、事件の本人自身が書いた『阿部定手記-愛の半生』(1948年)を中心に判決文や識者のコメントを収録した資料集だが、『阿部定手記-愛の半生』には以下のような一節がある。

昭和11年5月18日、愛する吉蔵を愛するがために手にかけたあの日、死ぬまで共にと吉蔵の魂を抱いたまま思いのままを居着く心安さで、その世は浜町公園のベンチに夜を明かした私でした。
吉蔵の魂を抱いたまま、吉蔵と一緒にいる気持ちの安らかさで、穢(きたな)いベンチも夜の帳(とば)りの恐ろしさも何も一つ怖いモノは無く、延び延びとした嬉しさで生まれて初めて野天で夜を明かしたのでした。(P.243 太字ゴチックは引用者=さとう)

こういう殺人もあるのだということをアタマのなかに入れておきたい。親しくなると愛していると、殺してしまいたくなるという感情である。そして「魂」というコトバをつかっていることにも。魂は不滅であるという確信がこの文章からはうかがい知ることができる。


PS2 ここに書いたことは、あくまでも2014年8月1日現在の公開情報に基づいたものなので、その後に知り得た事件関連情報は反映していおりません。(2014年8月4日 記す)。



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(2014年8月5日、19日、2015年7月1日 情報追加)

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