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2014年2月9日日曜日

「是々非々」(ぜぜひひ)という態度は是(ぜ)か非(ひ)か?-「それとこれとは別問題だ」という冷静な態度をもつ「勇気」が必要だ



是々非々という四文字熟語がある。「ぜぜひひ」と読む。「ひひ」という音を耳で聞くと、なんとなく「まんとひひ」の「ひひ」を想起してしまうが、なんともいえず不思議なコトバである。

是々非々は、是は是、非は非という意味だ。いいかえればイエスはイエス、ノーはノーということになる。「ぜぜひひ」の真ん中をとると「是非」となるが、これは Yes and/or No という意味であるし、また副詞の「ぜひ」でもある。

わたしはこの「是々非々」という態度は絶対に必要だと考えている。

「是々非々というのは正しい大人の態度ではない。選挙であれば政策単位で投票するのではなく、一人の候補者に投票するのだから「是々非々」なんてありえないのだ」、と主張する人もいる。

「一人の候補者に投票する」というのはただしい。だが、「政策単位で投票」行動を考えるべきである。属人的な意思決定ではなく、あくまでも「期待される成果」を選択基準とするべきではないか?

もちろん、程度問題といってしまえばそのとおりなのだが。


「シングルイシュー」 vs 「全人格的帰依」

見解の対立は、「シングルイシュー」 vs「 全人格的帰依」と言い換えることも可能だろう。

前者の「シングルイシュー」とは、さしずめ今回の都知事選(・・投票日2014年2月9日)でいえば「脱原発」というイシューがそれに該当するだろう。単一の問題のことである。

後者の「全人格的帰依」とは、この人が言っているからすべて正しいという思考停止状態のことをいう。「全人格的帰依」というのは宗教への没入を示唆する表現なので強すぎるかもしれないが。

「シングルイシュー」は、日本では郵政解散がそのさきがけとなったが、今回の都知事選には、その同じ小泉純一郎氏が応援している。

その郵政解散の際の投票行動が、郵政解散という「シングルイシュー」に共鳴してのものであったか、それとも小泉純一郎というカリスマ的な政治家への、限りなく「全人格的帰依」に近い没入的一体感だったのかは、そう簡単には区分できない。

だが、郵政解散が「シングルイシュー」であったことは確かなことだ。そしてその「シングルイシュー」をめぐる信認投票であったことは確かである。

アメリカではすでにかなり以前から、ベトナム反戦や中絶反対などの「シングルイシュー」(single most important issue)をテーマに投票行動を行うことが常態化している。二大政党制の根幹がゆるぎ、政党ではなく、単一の政策を支持するかどうかで投票行動を行うことがあたりまえになっている。極端な話、政策の内容ごとに支持者を変えるとい投票行動と態度のことだ

日本もまた利害対立が複雑になってきており、どうしてもシングルイシューが争点になりやすい。誰か特定の政党や人間ににまかせたらそれで安心などということはありえないのだ。

だからこそ、既存政党に軸足を置く人間は、シングルイシューで投票行動を行う有権者の存在に対して、不快感とともに底知れぬ恐怖感を抱いているのだろう。


世の中が複雑化すると思考停止状態になりやすい

世の中が複雑化すればするほど、思考停止状態がおきやすい。あまりにも多岐にわたる事項について考えなければならないからだ。

自分なりの見解をもって発言しようと思えば、そうとうの時間と労力をついやして自分で情報を収集し、情報の真贋を見極め、自分でイシューごとに是非を判断しなければならない。考えただけでもウンザリすことだ。そう思う人は少なくないはずだ。

そこで利用されるのが「キュレーション」というものだ。一言でいえば、ある特定の分野にかんしては、その分野の専門家とされる人を自分の趣味や考え方で選んで、その人の言うことを判断の際に参照することをさした表現のことである。

「キュレーション」は「キュレーター」が行う仕事のことだが、キュレーターとはもともと美術館や博物館の学芸員のことを指している。キュレーターの見せ方次第で同じ美術品でも異なる印象を与えることがあるように、情報にかんしても特定のキュレーターの見せ方によって印象がかわってくる。

日常生活でも、「この件についてはあの人が言うことだから信用できる」という形で多用しているだろうし、「あの有名人がつかっている商品だから肌につけても安心できる」というような形で消費行動も行っているだろう。

ある意味では、「シングルイシュー」にかんして参照すべき人を区分けしているといっていいかもしれない。属人的な判断を行っているように見えるが、そのキュレーターの判断に誤りがあったことがわかれば、さっさと支持することをやめてしまうこともある。その意味では成果を評価もしているわけだ。だからこれは健全な判断にもとづく選択行動だといっていい。

政治的選択行動もまた、消費行動と考えることができる。投票によって政策を購入しているわけだ。等価交換かどうかはわからないが、「義務」として課されている「納税」と引き換えに権利を行使するわけである。

たとえば、わたし自身についていえば、国防問題にかんしては憲法改正派である。だが、自由民権派であり民権を国権の上に置く立場から、憲法96条改正でなし崩し的に憲法改正を実行しようという姿勢には反対だ。バランスにもとづいた「正常化」は必要だと考えるが、行き過ぎた「右巻き」には懸念を抱く。

つまりは「是々非々」ということだ。


「全人格的帰依」という危険

悩ましいのは、人間は「一人単位」でしか存在できないという点だ。

作家の平野敬一郎氏が主張するように「人格」はたとえ分割可能で、かかわる人ごとに人格を分割して対応することが可能だとしても、異なる政策をあわせもつの生身の一人の人間を選ばなければならないという不条理

結局は、総合的に判断して誰か一人を選択するしかない。それが選挙というものである。

だが、ある特定の一人の人間に、すべての件について判断を仰ぐようになったらどうなることだろう? それが「全人格的帰依」とわたしが表現したものだ。

「全人格的帰依」は回避せよ! なぜこういうことを言うかというと、1995年のオウム事件のことを想起するからだ。

長年にわたって逃走をつづけていたオウム信者が逮捕され、いままさに裁判が行われている最中だが、かれらは騙されたのではない。あくまでも自らの意思で(!)教団に入り、麻原彰晃というグル(指導者)に「全人格的な帰依」を行ったのである。自発的に服従したのである。そしてその結果がサリン事件というテロ行為でハルマゲドンをもたらすことになる。

これは「全人格的帰依」がもたらした最悪のケースかもしれないが、似たようなケースはそこらへんにごろごろしていると言うべきだろう。それは会社組織でもそれ以外の社会集団でも同じことだ。

ドイツのヒトラー総統への忠誠もまた「全人格的帰依」といっていいだろう。このケースは当時のドイツ人が民主主義という制度のもと、投票行為をつうじて選択した結果である。「空気」に促されたとはいえ、けっして意志に反して余儀なくされたもlのではない。

だが、時間の経過とともに、その時の判断と選択が間違いだったと気がつくこともある。すべての政策に賛成するわけではないが、特定の政策には賛成しかねるということもある。あるいはその逆に、ある特定の政策以外はすべて反対に変わることもある。

それは、「全人格的帰依」の状態とは真逆の状態である。「是々非々」の状態である。

いったん自分が下した意思決定をくつがえすのは容易ではない。精神的葛藤を感じながらも、自分を否定することにもつながりかねないので見解を変えることは回避しようとする。心理学では「認知的不協和」「合理的機制」というが、物理学用語をつかえば「慣性の法則」がはたらくのである。

だが、間違った選択をしてしまった気づいたときには見解を変える勇気が必要だ。「是々非々」という態度をとる勇気が必要である。自分がフォローしてきたリーダーが、グル(=尊師)やフューラー(=総統)のたぐいだとわかったとき、そこから脱する勇気をもたなくてはならない。逃げることもときには必要だ。

わたしは、いまこの国がきわめておかしな方向に暴走し始めていることに危惧の念を抱いている。

大事なことはバランスだ。行き過ぎた「右巻き」は、「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。それは「正常化」の域をすでに逸脱しており、どう割り引いても不偏不党とはほど遠い。

複雑化して不安定化している世の中であるが、「全人格的帰依」ではなく、「是々非々」という態度をとる勇気が必要なのだ。

「是々非々」(ぜぜひひ)という態度は是(ぜ)か非(ひ)か?

答えは言うまでもない。




<ブログ内関連記事>

書評 『私とは何か-「個人」から「分人」へ-』(平野啓一郎、講談社現代新書、2012)-「全人格」ではなく「分割可能な人格」(=分人)で考えればラクになる

キュレーション (きょうのコトバ)

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)
・・「ビリーバー」(信じ込む人のこと)の政治的本質について考察を行ったアメリカ人哲学者ホファーは、希望よりも勇気が大事だと説く

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ
・・なぜオウム的な「全人格的帰依」が発生するのか

映画 『ハンナ・アーレント』(ドイツ他、2012年)を見て考えたこと-ひさびさに岩波ホールで映画を見た
・・「権威への自発的服従」にかんするアイヒマン実験についても書いておいた」

書評 『自民党憲法改正草案にダメ出し食らわす!』(小林節+伊藤真、合同出版、2013)-「主権在民」という理念を無視した自民党憲法草案に断固NOを!
・・国防方針には賛成でも、憲法96条改正反対、これもまた全人格的な帰依ではなく是々非々


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2011年11月8日火曜日

書評『法然・愚に還る喜び ー 死を超えて生きる』(町田宗鳳、NHKブックス、2010)ー 現代に生きる日本人が法然の意味を感じ取るための新たな視点を提供してくれる本


現代に生きる日本人が法然の意味を感じ取るための新たな視点を提供してくれる本

 『法然・愚に還る喜び ー 死を超えて生きる』(町田宗鳳、NHKブックス、2010)は、法然を、現代に生きるわれわれのものにするための試みである。「思想の革命家」であった法然を全角度から捉えた本である。

 「宗祖」として祭り上げられ、教団のなかに閉じ込められてき法然。

 戦後日本において多くの作家や知識人がとりあげてきた親鸞や道元、そして大衆的な日蓮と違って、鎌倉新仏教を代表する人物でありながら、取り上げられることの少ない法然。

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての「末法の世」に法然が出現しなければ、その後に続いた親鸞も、念仏には真っ向から反対する立場を貫いた日蓮の意味もわからないことに、そろそろ気がつくべきではないだろうか。

 法然を日本仏教史における「思想の革命家」とみなす著者は、異色の経歴の比較宗教学者である。キリスト教に憧れながらも、13歳で禅寺に飛び込んでから20年間どっぷりと禅仏教の修行にあけくれ、寺に見切りをつけて飛び出した後に舞い込んだ奇縁から、ハーバード大学神学院の修士課程でキリスト教神学を専攻することとなり、博士論文のテーマでは英語世界ではあまり論じられてこなかった法然を「選択」したという人だ。

 法然を「選択」した著者はまさに慧眼の持ち主であった。いや著者が法然を「選択」したのではなく、何かに導かれるようにして法然によて著者が「選択」されたというべきであろうか。いまや、町田宗鳳氏によって、法然はその本来の意味をふたたび見いだされつつあるといってよい。

 なによりも著者が、法然を「宗祖」とする浄土宗内部の人ではないということの意味が大きい。何事であれ、あたらしい動きや革新は内部からではなく、つねに周縁や辺境から起こってくるものだが、法然がまさにそうであったのだ。京都ではなく岡山の美作(みまさか)で武士の子として生まれた法然。当時はまた、支配層が貴族から武家へとシフトする時代の一大転換期であった。

 本書には大胆な推論も多く、過激と受け取られかねない内容も多く含んでいるが、徹底的に法然を読み尽くした土台を基礎に、自らの体験もあわせて論じる著者の姿勢に魅力を感じるのは、けっしてわたしだけではないだろう。仏教学のみならず、比較宗教学やユング心理学にかんする深い知見もまた、現代に生きる日本人にとって、法然の意味を感じ取ることを可能にしている。

 本書はもともと2009年に放送された「NHKこころの時代」の放送用テキストとして執筆されたものを土台にしているという。視聴者に向かって語りかける語り口をそのまま活かした、抹香臭さの一切ない、読みやすいが中身のひじょうに濃い一冊である。

 法然をありのままで見つめ、法然の生き様から学び、実践しようという姿勢が一貫している本書を、「3-11」後という「末法の世」に生きる日本人として、ぜひ一読することを薦めたい。

 本書は、日本語を読めるすべての人に開かれた一冊である。


<初出情報>

■bk1書評「現代に生きる日本人が法然の意味を感じ取るための新たな視点を提供してくれる本」投稿掲載(2011年11月7日)
■amazon書評「現代に生きる日本人が法然の意味を感じ取るための新たな視点を提供してくれる本」投稿掲載(2011年11月7日)





目 次

はじめに
 凡例・参考文献
序章 仏教思想の改革家・法然
 「思想の革命家」だった法然
 恐るべきイメージ力
 「否定的記憶」を消すということ
 鎌倉仏教という時代思潮
第一章 怨霊と地獄と末法の時代
 氾濫する死
 都をさまよう怨霊たち
 密教僧の活躍
 脚色されていく死の現実
 希望のもてない末法の世
 跋扈する僧兵たちの横暴
 中世ヨーロッパと酷似する宗教事情
第二章 法然の原風景をたどる
 武家に生まれて
 延暦寺を覆う暗雲
 「山から街へ」がもつ意味
 最良の友との出会い
 「死にいたる病」にかかった人々
第三章 「救い」の発見
 「山の念仏」の実践
 阿弥陀仏との出会い
 さまざまな神秘体験との比較
 「真身の仏」を見るということ
 念仏という意識変容体験
第四章 念仏とは何か
 観相から口称へ
 『一枚起請文』の重み
 声において仏と出会う
 「声の力」を科学する
 西田哲学と念仏
 「救いの大地」としての人間の死
 闇を光に変えてしまった法然
第五章 現実を超える力
 底なき源信の不安
 地獄を見なかった法然
 現実を乗り越える力何が人の心を打つのか
第六章 悪とは何か、善とは何か
 因果応報ということ
 法然に始まる悪人正機説
 人間性の中のアンチコスモス
 近代的自我の目覚め
 逆説的救済論の衝撃
 法然の運命を決めた「選択集」
第七章 専修念仏の衝撃
 ついに始まった信者の暴走
 手に汗握る迫害のドラマ
 建永の法難きたる
 人々を酔わしめた六時礼賛念仏
 なぜ法然は自戒にこだわったのか
 信仰か道徳か
第八章 法然と女性たち
 「解放の神学」としての専修念仏
 本音で語り合う
 遊女との出会い
 尼将軍・北条政子
 式子内親王の面影びと
 言葉の力、信じる力
第九章 法然の革新性と普遍性
 「信・謗ともに常の人に越えたり」
 上皇や殿上人との交わり
 武士と念仏
 配流で深まった専修念仏の奥行き
 法然と親鸞の違い
 両性具有の人
 善人と悪人
終章 死生観としての法然浄土教
 「生かされて、今ここにいいる」
 タダの人の美学
 「痴聖人」となった法然
 制約の中で発見する自由
 法然を超えられるか
 新しい文明のアラダイムを求めて
 日々新たに、絶望から希望へ
おわりに


著者プロフィール

町田宗鳳(まちだ・そうほう)

1950年、京都市生まれ。14歳で出家。20年間、京都・臨済宗大徳寺で修行。34歳のとき寺を離れ、渡米。ハーバード大学神学部で神学修士号、ペンシルベニア大学東洋学部で博士号取得。1990年からプリンストン大学東洋学部助教授、国立シンガポール大学日本研究学科准教授、東京外国語大学教授を経て、広島大学大学院総合科学研究科教授。環境平和学プロジェクト研究センター所長。オスロ国際平和研究所客員研究員。研究分野は、比較宗教学、比較文明論、生命倫理学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

 これぐらい大胆に捉えなければ、法然の意味は現代人にはわからないだろう、という内容と言ってよい。

 浄土真宗の門徒である宗教学者・阿満利麿が先鞭をつけたあたらしい法然像は、禅寺20年の体験をもつ宗教学者・町田宗鳳によって、さらに浄土系の枠組みを超えて日本人全体のものとなったといえるだろう。

 キリスト教の世界も知り、しかも禅仏教の世界にどっぷり浸かっていた人であるので、浄土宗や浄土真宗の護教論からは無縁の立場からの法然論である。

 わたしは一度、少人数の講座で町田宗鳳氏の話を直接聞いたことがある。それ以来、この異色の宗教学者に魅せられてしまった。なにより禅寺で鍛えられた声がすばらしい。本書における「念仏」という「声のもつチカラ」にかんする文章はじつに説得力がある。
 
 その後、著書も何冊も読み、とくに米国での留学経験いついては共感すことも多く、現在ではもっとも注目する宗教学者と捉えている。ハーバード神学大学院(Harvard Divinity School)について書いた記事 ハーバード・ディヴィニティ・スクールって?-Ari L. Goldman, The Search for God at Harvard, Ballantine Books, 1992 を参考にされたい。

 なぜ法然は「南無阿弥陀仏」という六字の称名?を発見したのか?著者は、みずからの体験や宗教学者としての知見をフルに活かして解読を試みていいる。念仏のまえに存在した瞑想における観仏、ビジョンとしての、イメージとしての極楽浄土。

 詳しくはぜひ本文を直接お読みいただきたい。あらたな発見になんども出くわし、新鮮なおどろきをなんども味わうことになるだろう。まさに現代人にとっての法然論なのである。



<ブログ内関連記事>

■法然上人と念仏関連

善光寺御開帳 2009 体験記
・・善光寺は宗派には関係ないが、とはいえ天台宗と浄土宗が中心になって管理運営している。極楽浄土を願い庶民信仰のお寺である

「法然セミナー2011 苦楽共生」 に参加してきた-法然上人の精神はいったいどこへ?・・既成教団への失望感を、率直な気持ちとしてつづった

書評 『法然の編集力』(松岡正剛、NHK出版、2011)
・・編集工学の大家による「編集」を切り口にした斬新な法然論。第三部の特別対談 松岡正剛×町田宗鳳 「3-11と法然」はぜひ読むべき

『選択の人 法然上人』(横山まさみち=漫画、阿川文正=監修、浄土宗出版、1998)を読んでみた

「没後50年・日本民藝館開館75周年-暮らしへの眼差し 柳宗悦展」 にいってきた
・・『南無阿弥陀仏』という著書をもち、「妙好人」を讃えていた柳宗悦は、法然や親鸞のそのさきの一遍上人を見つめていた

書評 『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平、平凡社新書、2009)
・・国文学者で民俗学者であった折口信夫は、じつは大阪の浄土真宗の門徒の家に生まれた人でもあった。

ハーバード・ディヴィニティ・スクールって?-Ari L. Goldman, The Search for God at Harvard, Ballantine Books, 1992・・町田宗鳳氏が修士号を取得したハーバード神学大学院(Harvard Divinity School)について書いた記事

Memento mori (メメント・モリ)と Carpe diem (カルペー・ディエム)-「3-11」から 49日目に記す
・・カトリック中世ではよく知られていた標語「死を忘れるな」にからめて書いた生きる意味について


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