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2023年11月6日月曜日

書評『宗教と過激思想 ― 現代の信仰と社会に何が起きているか』(藤原聖子、中公新書、2021)― 社会的公正の実現を主張する人たちが切迫感にかられて暴力やテロに訴える背景にあるものとは

 


思わず手に取りたくなるタイトルである。「宗教」と「過激思想」と、2つのことばが「と」で挟まれている。だが、ほんとうは「宗教」は「過激思想」であると、「は」で挟んだほうがいいかもしれない。

そもそも、どんな宗教であれ、社会から受け入れられ、成熟化して「穏健化」するまでは「過激」である。自己主張のかたまりであるからこそ、新興宗教に限らず、どんな宗教でも他の宗教との違いをことさら強調する。設立最初は「過激」にならざるをえないはずだ。

とはいえ、暴力的で「過激」に見える宗教が目立つのはなぜか。とくに2000年代に入ってから「過激」さが際立っているのがイスラーム主義者のテロや暴力行為。前近代では「異端」とされていた宗教思想は、現代では「過激」な宗教思想となっている。英語では religious extremism という。

著者は、過激な言動の背後にある「思想」に注目している。暴力やテロなどの過激な行動を起こす「人物」は、それぞれに個別の動機や背景があるが、外部からその真意をうかがい知ることはむずかしい

それに対して、ことばで表現された「思想」は分析の対象として適切だ。しかも、比較分析が可能となるし、その分析から傾向を導きだすことができる。


■事例研究の対象としての「世界宗教」

著者は、結論ありきのアプローチではなく、事例を分析しながら現代の過激な宗教思想の「共通性」をあぶりだそうと試みている。

まずは、「世界宗教」あるいは「普遍宗教」とされている世界の三大宗教について、イスラム系過激思想、キリスト教系過激思想、仏教系過激思想から事例をとりあげている。

イスラム系過激思想からは、20世紀エジプトのイスラーム思想家サイード・クトゥブ米国の黒人解放指導者マルカムXが対比されているが、この2人がイスラーム主義者であり、かつ同時代人であったという指摘に、はっとささられる。

宗教が先にありきか、民族主義が先にありきか。これがかれらの相違点だ。マルカムXは、暴力を肯定していたわけではない。そこが、アルカーイダやISISの源流とされるクトゥブとの違いだ。

キリスト教系過激思想からは、白人でありながら黒人解放のため暴力も辞さず、「テロリストの父」とよばれる19世紀のジョン・ブラウン、中絶反対のためテロも暴力も辞さない米国の「プロ・ライフ」の福音派のキリスト教徒たち。

そして、仏教系過激思想からは、日本で「一人一殺」を実行した井上日召、暴力の向かう先が他者ではなく自分に対してであるが、焼身による抵抗運動をおこなうチベットの僧侶たちがとりあげられる。

暴力も辞さない過激な宗教思想は、けっして「一神教」特有のものではないことが明らかになる。一神教か一神教多神教かという、通俗的な二分法では見えてこないものがあるのだ。


■「民族宗教」と暴力化する「ナショナリズム」
 
過激な宗教思想は、世界宗教だけではない。

むしろ「民族宗教」こそ、かえって見えやすい形で「ナショナリズム」とむすびつきやすいみずからが属する集団の「アイデンティティを、他者を否定するかたちで明確化するのである。

自民族至上主義他民族排斥主義を主張する過激な宗教思想。「ナショナリズム」を近代に生まれた代替宗教と考えれば、これらの過激な思想は、ナショナリズムの極北といえるものであろうか。

取り上げられているのは、イスラエルとインド、そして日本の民族宗教である。ユダヤ教は「一神教」、ヒンドゥー教と神道は一般に「多神教」と分類されているが、むしろ「民族宗教」という側面に注目すべきである。本質的な差違は、一神教か否かという点には存在しない。

米国生まれでイスラエルに移住した正統派ユダヤ教のラビのメイル・カハネは、その暗殺後も、カハネ主義としてテロ組織認定されながらも、イスラエルでは熱烈な支持者がいる。選民思想の極地ともいうべき極端な思想である。


ヒンドゥー至上主義を唱える政党 BJP が、現在のモディ政権の出身母体であることは、比較的よく知られていることだ。隣国パキスタンやインド国内のイスラーム主義者によるテロや暴力からの脅威を批判し、それに対抗するための過激な言動を実際の政策に反映させている。

このインドの状況は、現在のイスラエルとよく似ているのではないか。

ムスリムとの共存を説いた「インド独立の父」ガンディーはヒンドゥー教徒であったが、過激なヒンドゥー至上主義者の青年によって暗殺されている。近年のインドでは、ガンディー暗殺犯を英雄として礼賛するインド人が増えているという情報もある。

インドとイスラエルは期間に違いがあるとはいえ、ともに英国の統治下から「独立」したことも共通している。この件は本書とは直接関係はないが、その他にも共通点が少なからずあることに気がつかされた。

神道系過激思想からは、安藤昌益が取り上げられているのは意外であった。

現在のイスラエルやインドの状況を想起させるような、戦前の「国体思想」につながる本居宣長や平田篤胤の思想ではなく、いっけん平和思想に見える安藤昌益の思想の過激性に注目している。

東洋系の宗教に共通するテーマだが、「梵我一如」や「天人合一」と表現される宗教思想のもつ正負両面に注目する必要がある。

ポジティブな側面とは「人類みなきょうだい」という人類愛の思想、ネガティブな側面とは「天に代わって悪を撃つ」ことが許されるという思想である。後者はテロを正当化することにつながりやすい。

宗教が説く人類愛と、不公正を糺すためにテロに訴える宗教思想は、じつは同根なのである。



■なぜ過激な宗教思想は暴力やテロと結びつきやすいのか

著者は、事例研究から過激な宗教思想の共通点を抽出している。著者が整理した4項目を、さらにわたしなりに書き直しておこう。


1. 「公正」な社会を求めていること。たんなる幸福ではなく、社会的な公正が実現されていないことを批判し、「不公正を糺す」ための行動が必要だとする
2. 問題解決に「いまでなければいつ?」という「切迫性」を感じていること
3. 西洋近代が生み出した民主主義、リベラリズム、社会主義、宗教性のないナショナリズムでは社会的公正は実現しないとし、問題解決を宗教そのものに求める
4. 自分が信じる宗教が、社会的公正実現の唯一のあり方だとみなし、そこに敵の存在を前提にした否定的な形での「アイデンティティ」を見いだす。「世界宗教」の場合は、国境を越えたネットワークを志向し、「民族宗教」の場合は国境線で明確にウチとソトを区分する道を選ぶ


「公正」とは英語でいえばジャスティス(Justice)のことだ。「公正な」(just)な社会の実現こそがカギである。経済格差が拡大し、平等とはほど遠いという不公正自分が割を食っているという不公平感。いずれも近代社会であるからこそ、生まれてくる感情である。

社会的公正を実現しなくてはならない。だが、民主主義的なプロセスなどまどろっこしい。「切迫感」を感じるからこそ、直接的な行動、つまり暴力やテロに訴える。短絡的にそう思いがちがちなのである。そして、その行動の背景には、過激な宗教思想があることが多い。

ただし、革命のような体制変革ではなく、あくまでもテロの段階にとどまる。パフォーマンス的なのである。

この本を読んでいると、明解に整理された結論がむりなく導きだされるのを感じて、ある種の心地よさを感じる。だが、はたしてだから読者であるわれわれは、いったいどうすべきなのかという疑問も生まれてくる。

おそらく、このような本を読む人は、過激な宗教が背景にある暴力やテロ事件が多発する理由を知りたいと思う人が大半であって、実際に過激な宗教思想を抱いていて、社会的公正の実現のためにテロを起こそうなどという人はいないだろう。

とはいえ、ネットに横行する陰謀論が引き金になっているケースは増大しつつある。トランプ主義者たちによる米国の連邦議会襲撃事件の引き金になったのも、ディープステート(DS)などのオカルト的な陰謀論であった。いとも簡単に陰謀論に絡め取られてしまう危ない状況。

本書が出版されたのは2021年5月、その翌年の2022年7月には、「安倍元首相銃撃事件」が発生している。

暗殺者の行動に、宗教的な背景が直接的に影響を与えているかどうかは別にして(・・井上日召の場合も、後付け的性格が濃厚だと著者が指摘している)、日本では「テロの伝統」があることを忘れてはならない。

本書ではサタニズム(悪魔主義)について簡単に触れられているが、過激な宗教思想だけでなく、オカルト的な陰謀論の影響についても、考察を深める必要がある。

著者の表現をつかえば、「思想内在的過激性」についての自覚が必要なのである。



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目 次 
はじめに 「イスラム過激思想」という造語への疑問 
序章 宗教・過激に関わるいくつかの言葉 
第1章 「アンチ西洋」ではくくれない ― イスラム系過激思想 
第2章 「弱き者のため」のエネルギーはどこから ― キリスト教系過激思想 
第3章 善悪二元論ではないのに ― 仏教系過激思想 
第4章 ナショナリズムと鶏卵関係か ― ユダヤ教・ヒンドゥー教・神道系過激思想 
第5章 過激派と異端はどう違うか 
終章 宗教的過激思想とは何か 
おわりに 「宗教的過激思想」が照らし出すもの 
あとがき
参考文献

著者プロフィール
藤原聖子(ふじわら・さとこ)
1963年東京生まれ。1986年東京大学文学部卒業、2001年シカゴ大学大学院博士課程修了(Ph.D)。東京大学大学院人文社会系研究科准教授などを経て、2017年から同教授。著書 には、『現代アメリカ宗教地図』(平凡社新書、2009)、 『教科書の中の宗教―この奇妙な実態』(岩波新書、2011)、 『ポスト多文化主義教育が描く宗教 イギリス<共同体の結束>政策の功罪』(岩波書店、2017)など多数。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものにWikipedia情報を付加)



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■インドとイスラエルの「民族宗教」と過激なナショナリズム





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2023年9月16日土曜日

書評『西洋人の「無神論」 日本人の「無宗教」』(中村圭司、ディスカヴァー携書、2019)― 「一神教世界」の「無神論」を知れば、日本人の「無宗教」の意味が見えてくる



『西洋人の「無神論」 日本人の「無宗教」』(中村圭司、ディスカヴァー携書、2019)を読むと、日本人が「無神論」なるものをまったく理解していなかった、いやいまでもほとんど理解していないことがわかる。

「無神論」と「無宗教」はまったく異なるものだ。多くの日本人が自分のことをそうであると思い、軽々とクチにする「無宗教」は、じつのところ「無神論」ではない。両者は似て非なるものなのだ。

本書は、宗教学者が「無神論」なるものに本格的に取り組んだめずらしい本である。「無神論」について知り、それについて考えることで、日本人の「無宗教」の意味が浮き彫りになってくる。

出版されてすぐに読んだ本だが、ブログにアップ機会を失していた。4年後のいま、あらためて書き直してアップすることにしたい。


■海外では「無宗教」は禁句という「常識」

1979年は「一神教」のイスラームが前面に登場してきた年として記憶すべきである。

わたし自身は、1979年の「イラン・イスラーム革命」と「メッカのカーバ神殿占拠事件」、そして「無神論」国家・ソ連による「アフガン侵攻」について、あくまでもニュースではあるが高校2年のときにリアルタイムで見てきた。

そういうわけで「一神教」のイスラームだけでなく、「宗教」に対しては先行世代よりも、はるかに深い関心を抱いてきた。

「神は存在するのか?」と疑問に思っていた高校時代のわたしは、神が人間を創ったのではなく、人間が神(という概念)を創ったのであるが、神(=絶対者)という存在を設定すると、説明が可能になることが多い、という結論に達した。拙いながらも自分のアタマで考えた結論である。

とはいえ、間違っても自分のことを「無宗教者」や「無神論者」などと語ったことはいっさいない。自分のことを「無神論者」などと思ったこともない。もちろん普段から神社仏閣をお詣りし、苦しいときには神頼みする、ごくごくふつうの日本人である(笑)

海外生活の「常識」として「無宗教」など絶対にクチにするな、とくにイスラーム圏においては死を招きかねないぞ! そう言いくるめられ、海外に旅立った日本人は少なくないはずだ。自分もまたそうである。

社会人になってから、はじめての海外出張でマレーシアに渡航した際も、KL(=クアラルンプール)空港から乗車したタクシーで、さっそく運転手から宗教を聞かれるという体験をしている。30年以上前のことだ。マレーシアは人口の7割がイスラーム教徒である。現在は国家としてイスラーム化を推進している。

キリスト教国の米国でも平気のように宗教を聞かれたこともある。もちろん間髪を入れずに即座に「ブディスト」(=仏教徒)であると回答している。こう答えておけば、熱心な信者ではなくても、まったく問題はない。安心されるのである。

イスラーム圏でも、キリスト教圏でも、信仰をもたない人間は、まともな人間とみなされないのである。このことは、なんどでも繰り返し強調しておこう。だからこそ、「無神論者」であることは、ある意味では確信犯的なのである。それだけの覚悟が求められるのだ。

とはいえ、日本仏教と神道の関係などめんどうくさいので、そこまで詳細な説明はしない。「比較宗教学」を学んだことのない一般人には、なにをどう説明しようが、どうせ理解できるはずがないからだ。

ちなみに、この点にかんしては、タイやミャンマーにおいても日本と似たような状況であることを、実際に住んでみて確認した。これらの上座仏教圏においても、仏教と土着の信仰が共存、あるいは融合しているのである。


■米国では「無神論」が増大中!?

本書によれば急速に「無神論」が増大中だという。これは驚きだ。

「エヴァンジェリカル」と総称される「キリスト教原理主義」(=ファンダメンタリズム)の存在が大きい米国という認識をもっていたからだ。

ところが本書では、代表的な「無神論者」(atheist)として、キリスト教世界からクリストファー・ヒチンズ、さらにはイスラーム国家のイランから脱出してカナダに移住した元ムスリムのアーミン・ナヴァビが紹介されている。

前者については、まあそういう人は、ホーキンス博士を始めとした知識人を中心に、いてもおかしくはないだろうと思うが、かつてイスラーム教徒だった人間が「無神論者」になった例など聞いたこともなかった。自分のなかに固定観念があったのだろう。

しかし、いずれにせよ「無神論」は基本的に「一神教世界」の話であることが、本書で確認することができる。キリスト教もイスラームもともに一神教である。

宗教学者である著者は、「第4章 無神論のロジック」で、多神教世界から生まれた一神教の「ヤハウェの3つの性格」を、「創造の神」「奇跡の神」「規律の神」に分解して、それぞれ「無神論」との関係を考察している。「無神論」は「一神教」の神のもつそれぞれの要素の否定という形で表現される。

「無神論」自体がひとつの「宗教」になっているという揶揄や批判もあるそうだが、たしかにそうだろう。「無神論者」の一神教の神を否定するロジックとパッションは、正直いって多神教世界の住人であるわたしには、アタマでは理解できても、心情的に共感は感じないのが正直なところだ。

著者によれば、無神論者は、現在のところ、「多神教世界」の神否定にはあまり関心がないようだ。もしそのような批判をしたところで、のれんに腕押しといったところだろう。そうである以上、無神論が日本の知的風土のなかで話題になることもあるまい。

共産主義という宗教体制における「無神論」をかかげたソ連についての言及がないのが不思議だが(・・ソ連のアフガン侵攻がイスラーム世界で激しい反発を招いたのはそのためだ)、西の一神教世界の「無神論」と東の多神教世界の「無宗教」について考えるために大いに参考になる議論である。


■日本人の「無宗教」とは?

これまでも「日本人は無宗教か?」という問いは、それこそ腐るほどされてきた。

統計データでは「無宗教」とアンケートに回答した結果がでるにもかかわらず、お守りをみにつけたり、年始には初詣、お盆や春分や秋分には墓参りする日本人。日本人にとっても、それは大いなる「謎」であったのだ。

ただ単に宗教に「無関心」であるか、あるいは「スピリチュアル」であっても、特定の「宗教」や「宗派」に所属していないだけのことなのだ。慣習としてやっていることであり、逆にいうと、やらないとなんだか気持ちが悪いというとらえ方だろう。

まあ、わたしなら山本七平にならって、それが「日本教」なんだよと言ってしまえばいいのではないか、と思ってしまうが。あるいは経済思想研究者で民俗学者の住谷一彦のように  》Das Japantum《 と社会科学風に決めてみるか。

まあ、そういう話は別にして、そんな日本人としての生き方について考えるためにも、「一神教世界における無神論」についてくわしく考察した本書は有益である。本書は「無神論」について論じながら、「宗教」現象そのものの解説にもなっている。


   
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目 次
はじめに
第1章 無神論-世界の新たなトレンド?
 1. 「宗教なし」「神なし」が世界で急伸!
 2. 『ダ・ヴィンチ・コード』騒動に見る現代欧米の宗教事情
 3. 宗教家による情報汚染-ファンダメンタリスト VS ドーキンス
 4. クリストファー・ヒチンズとアーミン・ナヴァビ
第2章 盛り上がる無神論ツイッター
 1. 神様って変?
 2. 信仰は不道徳?
 3. 議論を起こせ!
第3章 無神論と無宗教を理解するための宗教史
 1. 多神教から一神教へ
 2. 仏教-神頼みから悟りの修行へ
第4章 無神論のロジック
 1. ヤハウェの三つの性格
 2. “創造の神”
 3. “奇跡の神”
 4. “規律の神”
 5. 究極のロジック
第5章 西洋人の無神論 日本人の無宗教


著者プロフィール
中村圭志(なかむら・けいし)
1958年北海道小樽市生まれ。北海道大学文学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学(宗教学・宗教史学)。宗教学者、昭和女子大学非常勤講師。 著書は『図解 世界5大宗教全史』(ディスカヴァー・トエンティワン)、『教養としての宗教入門』『聖書、コーラン、仏典』(中公新書)ほか多数。 (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)

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2019年11月26日火曜日

『MUSIC LIFE特集●フレディ・マーキュリー/QUEEN (シンコー・ミュージックMOOK) 』(シンコーミュージック、2019)は、ビジュアルと記事が満載の要保存版!


日本全国のフレディ・マーキュリーのファンへ!

『MUSIC LIFE特集●フレディ・マーキュリー/QUEEN (シンコー・ミュージックMOOK) 』(シンコーミュージック)。  伝説のバンドQUEENを特集したムックの第4弾は、フレディ・マーキュリー。2019年11月25日の出版です。

A4サイズでビジュアルと記事が充実、思わず読み込んでしまいます。 さて、このムックには、なんとこの私も寄稿しております! 題して、「信者としてのフレディ-フレディー・マーキュリーも信者だったゾロアスター教の教え」


音楽雑誌自分が書いた記事が掲載されるなんて、まったく考えたことすらありませんでしたが、こういう形での登場もあるのだな、と。うれしい限りです。

フレディのファンなら、QUEENのファンなら、ぜひ手にとっていただきたいと思います。要保存版ですよ。




<関連サイト>


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<ブログ内関連記事>

JBPress連載コラム第40回目は、「Queenフレディも信者だったゾロアスター教の教え 超マイノリティだが、今も生きている古代宗教」(2018年12月4日)

映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年、英国・米国)を見てきた(2018年11月28日)-こんなに泣ける映画はひさびさだ

書評 『インド 宗教の坩堝(るつぼ)』(武藤友治、勉誠出版、2005)-戦後インドについての「生き字引的」存在が宗教を軸に描く「分断と統一のインド」


 
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2017年11月29日水曜日

書評『なぜ私たちは生きているのか ― シュタイナー人智学とキリスト教神学の対話』(平凡社新書、2017)― 人間存在の「個別性」と「一回性」という観点に立ち「見えないもの」を見る感受性を研ぎ澄ます



2017年11月の新刊 『なぜ私たちは生きているのか-シュタイナー人智学とキリスト教神学の対話-』(平凡社新書、2017)という本を読んでみた。

副題にあるとおり、シュタイナー人智学の日本での第一人者である高橋巌氏とキリスト教神学(・・より正確にいえばプロテスタント神学)の佐藤優氏との3回の対話である。この組み合わせが面白いと思って読んだのだが、自分にとっての主たる関心はシュタイナーであって、キリスト教神学の方は副次的なものだ。

年齢からいったらはるかに先輩にあたる高橋巌氏が、同時代人として読書をつうじて親しみを感じてきたという佐藤優氏に教えを請うようなスタイルになっている。ホストが主催するセミナーにゲストを呼んで対話を行った記録を編集したこともあるのだろうが、やや違和感を感じないではない。

逆にいえば、高橋氏の謙虚な姿勢の現れといえるだろうが、本来的にグノーシス的な傾向のあるシュタイナー人智学への佐藤優の歩み寄りによって対話が成り立っている、という面もあるように思われた。

正直いって、この本を読んでも本書のタイトルである「なぜ私たちは生きているのか」という問いに対する直接的な答えは得られないだろう。そのためには、「見えないもの」に対する感受性を研ぎ澄まさなければならないことが両者に共通する結論であろうか。

「見えないもの」は「神」と呼んでもいいし、それ以外の表現でもいい。ただし、「なぜ私たちは生きているのか」という能動態の問いではなく、「なぜ生かされているのか」という受動態の問いの方が日本人にはしっくりくるような気がする。タイトルは編集者がつけるものだから対話者の意向かどうかはわからないが。

人間存在の、時間と空間における「個別性」と「一回性」という観点に立つ点は両者に共通している。また、ともに「道の途上」にあるという求道者性も共通している。

ともに抽象的な議論はしないという点には共感を感じる。これはキリスト教であろうが、シュタイナー人智学であろうが、仏教であろうが、その他の宗教であれ重要なことだ。

わたくし個人の感想としては、本書で論じられている「国家・資本・宗教」のうち、「宗教」は面白いと思ったが、「国家」と「資本」に関しては、違和感を感じる内容もあったと正直に書いておく。この両者はともに「経済人」ではないからだろう。とくに佐藤優氏の発言は牽強附会なものが多いのは相変わらずだ。

ともにドイツ思想の圧倒的影響下にある人たちだ。 プロテスタント神学はドイツ思想、マルクスもドイツ思想である。シュタイナーはドイツロマン派の流れのなかにある。その意味では、対話者はまったく無縁の立場というわけでもない。

シュタイナー人智学やキリスト教神学といったテーマに関心のある人にとっては読む意味のある本だと思うが、内容については是々非々の評価を下せばよい。

現在の日本では佐藤優氏のほうがはるかに知名度が高いので、本書を手に取る人は圧倒的にそちらからのアプローチが多いと思うが、この本で初めて高橋巌氏について知ることになる人にとっては、ある意味では「シュタイナー入門」の「入門」になるかもしれない。





目 次

はじめに(佐藤優)
  
 I 国家-一人ひとりの時間と空間の共同体
 道半ばを歩く者として
 見えるものと見えないもの
 キリスト教はオカルト?
 ぎりぎりのところで神と出会う
 普遍主義では世界宗教になりえない
 ドイツのキリスト教とナチス
 見えない世界を言語化する
 時間と空間は溶けるのか
 人は形而上学から逃れられない
 日米安保と北方領土問題
 個人と国家と社会
 国家における性の二重構造
 社会の力を強化する
 日本の教育と子どもの未来
 フィクションの力で他者を想像する
II 資本-お金と働くこと
 資本主義の男性原理と女性原理
 お金がすべて?
 プロテスタンティズムと資本主義は関係ない
 現象をとらえる宗教学的手法と内在論理をつかむ神学的手法
 日本文化とキリスト教の女性原理
 生活のなかに植え付けられた資本主義
 労働力の商品化
 見えるお金が見えない心を縛る
 不安定な社会だからこそ必要とされるもの
III 宗教-善と悪のはざまで
 現代人は悪に鈍感
 善と悪のはざまで生きる
 悪はどこから入りどこから去っていくのか
 破壊的な悪の力を包むには
 人間の努力を重視するグノーシス
 意志の力を超えて働く縁と召命
 音楽や本との出会いも召命
 悪は人間の言葉から生まれる
 人間関係のなかにいる神と悪
 愛をリアルに感じるためには
 なぜ私たちは生きているのか

おわりに(高橋巖)


著者プロフィール
佐藤優(さとう・まさる)1960年生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年背任と偽計業務妨害容疑で逮捕され、2009年最高裁で執行猶予付有罪が確定し失職。2014年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。2005年発表の『国家の罠』(新潮社)で毎日出版文化賞特別賞受賞。著書に『自壊する帝国』(新潮社、大宅壮一ノンフィクション賞)など多数。 (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


高橋巖(たかはし・いわお)東京・代々木生まれ。ミュンヘンでドイツ・ロマン派美学を学ぶなか、ルドルフ・シュタイナーの著書と出会う。73年まで慶應義塾大学で美学と西洋美術史を担当。その後シュタイナーとその思想である人智学の研究、翻訳を行う。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<ブログ内関連記事>

■シュタイナー関連

「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(ワタリウム美術館)にいってきた(2014年4月10日)-「黒板絵」と「建築」に表現された「思考するアート」

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる

シュタイナー研究家の西川隆範氏による仏教書は、教団や教派とは関係のないフリーな立場に身を置いた個人ベースのスピリチュアリティ重視の仏教を志向する

子安美知子氏の「シュタイナー教育」関連本をまとめて読んで「シュタイナー教育」について考えてみる


■プロテスタント神学関連

書評 『聖書を語る-宗教は震災後の日本を救えるか-』(中村うさぎ/ 佐藤優、文藝春秋、2011)-キリスト教の立場からみたポスト「3-11」論

『はじめての宗教論 右巻・左巻』(佐藤優、NHK出版、2009・2011)を読む-「見えない世界」をキチンと認識することが絶対に必要


■宗教学関連

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ

書評 『現代オカルトの根源-霊性進化論の光と闇-』(大田俊寛、ちくま新書、2013)-宗教と科学とのあいだの亀裂を埋めつづけてきた「妄想の系譜」

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む


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2017年1月26日木曜日

スコセッシ監督が28年間をかけて完成した映画 『沈黙 ― サイレンス ―』(2016年、米国)を見てきた(2016年1月25日)― 拷問による「精神的苦痛」に屈し「棄教者」となった宣教師たちの運命



マーティン・スコセッシ監督が28年間をかけて完成した映画『沈黙 Silence』(2016年、米国)を見てきた。

上映時間は2時間41分と長い。重いテーマの宗教映画を見るには、正直いって体力も精神力も要するのだが、救いとなるのは登場人物の大多数が日本人で、演じているのは日本を代表する役者たち、しかもセリフの多くが日本語(!)であることだろう。

1988年に遠藤周作の原作を英訳版で読んで映画化を決意したものの、脚本を書くだけで15年間、映画の完成まであわせて28年もかかったという。すでに篠田正浩監督によって同タイトルで1971年に製作されているようだが、つい最近まで存在すら知らなかった。

イエス・キリストにかんする独自の解釈を映画化した問題作『最後の誘惑』(1988年)が、カトリック教会から批難を浴びていたさなか、スコセッシ監督はニューヨークのカトリック教会の司祭から、ぜひ読むようにと『沈黙』を手渡され、さっそく一読して映画化を決意したのだという。

ニューヨーク出身のスコセッシ監督はシチリアから移民してきたイタリア系移民三世で、少年時代にはカトリックの神学校に在学し、中退することにになったものの、将来は司祭になることを夢みていたという人だ。そのためもあろうか、製作する映画の多くには濃淡の違いはあれ、宗教色が感じられる。

先にも触れた『最後の誘惑』(1988年)はイエスの時代の原始キリスト教にかんするものであり、ダライラマ14世がチベットからインドに亡命するまでの半生を描いた『クンドゥン』(1997年)など直接に宗教をテーマにしたものだけではない。

スコセッシ監督の作品には宗教色があると感じて視聴すると、それなりに見えてくるものもあるだろう。『シネマの宗教美学』(服部弘一郎+編集部編、フィルムアート社、2003)のスコセッシ監督の項目が参考になる。




『沈黙-サイレンス-』の率直な感想

『沈黙-サイレンス-』の話題に戻ろう。この映画の時代設定は1637年の「島原の乱」後の「隠れキリシタン」の時代である。幕府による「キリシタン弾圧」が激しさを増していた弾圧完成までの最終段階である。

信仰という精神の内面まで監視対象としていた徳川幕府。その意向は上意下達で末端にまで徹底しており、信仰に不可欠な典礼をつかさどる司祭、とくに外国人司祭の存在は、もはや隠し通せるものではなくなっていた。本質的に軍事政権であった徳川幕府はすみずみまで諜報網を張り巡らせており、密告を奨励していたのだ。

原作でも映画でも取り上げられていないが、幕府の弾圧対象となったのはキリシタンだけではない。「日蓮宗の不受不施派」(ふじゅふせは)もまた、徹底的に弾圧されていた。幕府による弾圧理由は、世俗の権威である幕府より以上のものを信仰していたことに尽きる。一向宗(=浄土真宗)をはじめとする宗教的権威は、幕府という世俗の権威のもとに屈服することで存続を許され、幕府による統治を支える機構の一つとして活用されたのである。

「キリシタン」は「カトリック」のことであり、カトリックにおいてはバチカン、すなわちローマ教皇の権威が、「主権国家」の主権者である国王よりも上位に位置づけられていた。だから、幕府の立場からすれば絶対に許すことのできない不倶戴天の敵とみなされたのである。


(米国版ポスター 2016年公開)


そんな状況の布教地の日本において、信頼の厚かったポルトガル出身のイエズス会司祭フェレイラが拷問に耐えきれずに「転んだ」、つまり「転向」してカトリックの信仰を捨て「棄教者」となったという衝撃的なニュースがマカオにまで届いてきた。イエズス会は、ポルトガルの極東拠点マカオを中国布教のベースキャンプとしていたのである。

師匠であったフェレイラの「棄教」(apostasy)のニュースを知った弟子の二人の司祭が、真相を確かめるべく日本に密航することを決意する。彼ら自身が、日本に滞在して布教活動に従事した最後の宣教師となろうとは知るよしもなく(・・その後、1709年に種子島から密航したシドッティは布教活動を行うことなく、江戸で軟禁生活を送ることになる)。

日本に密航した二人の司祭の運命は過酷なものであった。「ミイラ取りがミイラになった」といえば、表現としても過酷すぎるかもしれない。


この小説を読んだのはずいぶん前のことになるが、それは心理療法家の河合隼雄氏がつよく推奨していたからだ。わたしも一読してみて、日本の風土というものがキリスト教信仰を根腐れさせてしまうと、棄教した司祭に語らせる遠藤周作氏の解釈に納得を覚えたものだ。日本の「世間」のもつ閉塞感に自分自身もウンザリしていたこともその理由の一つであった。

世界史上に例のない過酷な宗教弾圧が行われた17世紀前半の日本。キリスト教弾圧の歴史からいえば、キリスト教が公認されるまで続いたローマ帝国時代の弾圧に匹敵するだろう。ポーランドの歴史小説家シェンケヴィッチの『クォ・ヴァディス』に描かれた世界だ。

この映画で映像化された拷問の数々もすさまじい。十字架に磔になって海水責めされる拷問、司祭もふくめて実行された「逆さづり」という拷問。いずれも一気に殺してしまうのではなく、じわじわと真綿で首を絞めるタイプの、心身ともに苦痛を与えるタイプの拷問だ。拷問はただ単に肉体に苦痛を与えるだけでなく、内面の精神にまで苦痛を与えるものとして実行されていたのである。

幕府は、拷問による肉体的苦痛による死が、殉教として特権的な地位を与えてしまうことに気がついたのである。ある特定の宗教を根絶するには、戦場で敵を処刑するのとは性質が異なるのである。

苦難にあえぐ信者たちを前に、キリスト教信仰に根ざした精神的苦痛を与え、良心の呵責を引き起こし、最終的に「転向」(=棄教)させるという、きわめて高度なテクニック

フランスの思想家ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』で、肉体苦痛を与える拷問から精神的苦痛を与える方法に転換したのは、西欧では18世紀末以降であったと述べているが、適切な事例とは言い難いものの、精神的苦痛をもって「転ばせる」手法を編み出していた当時の日本が、いかに「高度文明国」であったかの証左になっていると考えることもできる。

「裏切り者のユダは、銀貨30枚でイエスを売った」がキリシタン弾圧時代の日本では、密告者には銀貨300枚(!)を与えているというセリフが映画のなかに登場する。当時の日本が、スペインの植民地ボリビアのポトシとならんで、世界でも有数の銀山を有していたことが背景にあるのだが、オランダが日本貿易を独占したかったのは、日本で産出される銀が目当てだった。



日本にキリスト教が根付かなかったのは・・・

日本でキリスト教が根付かなかったのは、根腐れさせてしまうような風土だからだというのは、あくまでも遠藤周作の解釈である。以前はそう思っていたのだが、最近はかならずしもそう思わなくなっている。

そもそも、切支丹(キリシタン)をもって、西欧生まれのキリスト教をすべて代表させるような言説が誤解のもとであるのではないか? 

キリシタンはあくまでもカトリックのことであり、幕府はカトリック国のスペインとポルトガル、プロテスタント国のオランダと英国(イングランド)は、明確に区別していたことを確認しておく必要がある。幕府はプロテスタント国だと知っていたうえでオランダと付き合っていたのだ。英国は日本ビジネスが採算がとれないため10年で撤退したのであって、追放されたのではない。

プロテスタント国が宣教に熱を入れはじめたのは19世紀の米国であり、16世紀から17世紀にかけて布教に熱心だったのはカトリックであった。もっぱらポルトガル王国をバックにつけていたイエズス会と、スペインをバックにつけていたフランシスコ会などである。

現在のわたしは、在野の社会科学者であった小室直樹が『日本人のための宗教原論』(徳間書房、2000)などで主張するように、「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)という形でなら、キリスト教は日本の信仰体系のなかに組み込まれて定着していた可能性があるという説に組みしたい。日本で仏教が定着したのは神仏習合であり、それは「本地垂迹」説による「土着化」であった。

スコセッシ監督が映画をつじて表現したかったこととは異なるかもしれないが、映画をじっさいに見た日本人としての率直な感想を書いておいた。


***********

いろいろ雑多なことを書いてきたが、映画そのものは、じつによくできるといえよう。

ポルトガル出身の司祭たちに英語をしゃべらせたり(・・母語が共通ではなかったら、本当はラテン語で会話しているはずだ)、必要以上に日本人の登場人物に英語をしゃべらせている点が気にはなるが、時代劇というものは舞台を過去に設定した現代劇だと思えば、とくに問題はない。

日本人のわたしからから見ても、日本と日本人についての描写は、とくに問題なく受け取れる。逆に、日本以外ではどう受け取られたのか知りたいところだ。


 (画像をクリック!


<関連サイト>

映画 『沈黙-サイレンス-』(公式サイト 日本版)

スコセッシは『沈黙』をどう映画化したのか 遠藤周作の名著を日米俳優で映画化(日経トレンディ、2017年1月20日)

Silence Official Trailer (2016) - Paramount Pictures (米国版)




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・・「土着化」したキリスト教の変容ぶり

(2017年2月6日・8日 情報追加)


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