あの頃はまだ、オーバーツーリズムによる観光公害も現在ほどひどくなかったとはいえ、当日になってからヴェネツィアで宿を確保するのは困難だった。そこで、内陸部にあるヴェネツィア後背地のパドヴァに滞在し、約1時間かけて毎日ヴェネツィアに通うことにした。
パドヴァは、あまり日本人はいかないようだが、自分としては気に入っている。
「ミラノ 霧の風景」というと須賀敦子の小説のタイトルだが、
8月の早朝のパドヴァも霧に包まれていた。パドヴァには、15年後の2006年にもヴェネツィアとあわせて再訪している。1991年当時は、スクロヴェーニ礼拝堂が修復中でジオットの壁画を見ることができなかったからだ。
イタリアは大学発祥の地であるが、パドヴァ大学もまた中世以来の由緒あるもので、ボローニャ大学についで世界で2番目に古い大学だ。
地動説のガリレオ・ガリレイゆかりの大学であり「科学革命」発祥の地である。血液循環説をとなえたウィリアム・ハーヴィーもイングランドから留学していた。ハーヴィーも出席していたであろう解剖教室は階段教室になっていて、現在でも見学可能だ。
ゲーテが訪れたという植物園(オルト・ボタニコ)もある。ゲーテが見たというヤシの木もある。日本の柿や長ネギもある。
(2006年に再訪した際のパドヴァの植物園 筆者撮影)
(ゲーテのヤシの木 筆者撮影)
ブログ記事に最初に掲載した写真は、
パドヴァの聖アントニオ聖堂。2006年秋の撮影。
丸屋根と尖塔がビザンツ風、あるいはイスラーム風でさまざまな建築手法が混在していながら調和している。なるほど、
「東方への窓口」であったヴェネツィアの文化圏にあったことがよくわかる。
16世紀以降のヴェネツィアの主たる通商相手はオスマン帝国であった。
聖アントニオ聖堂のまわりは門前町で、なんだか「昭和の日本」のような雰囲気すらある。ロウソクやメダイユ、幼子を右手に抱えた聖アントニオのフィギュアを売る露天が並んでいる。
知り合いのカトリック司祭によれば、ポルトガル出身の聖アントニオは、イタリアではもっとも愛される聖人らしい* なくし物が見つかるなど、御利益が多いからなのだ、と。
*ただし、イタリア全土ということではなく、パドヴァを中心にした北イタリアでの人気が高いと捉えるべきであろう。
(2006年に再訪した際の聖アントニオ聖堂の壁 筆者撮影)
ヴェネツィア滞在を終え、パドヴァからヴィチェンツァを経由してヴェローナへ。
ヴィチェンツァは、ルネサンスを代表する建築家アンドレア・パラーディオゆかりの町。パラーディオ建築の生きた博物館のような町である。
ヴェローナは、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』で有名だが、夏の夜は野外劇場でオペラを楽しめる。現地で当日チケットを入手して、ヴェルディの『リゴレット』を鑑賞。イタリアの一般庶民の、イタリアオペラへの熱狂ぶりが体感できた。
ヴェローナからブレシアを経てミラノへ。ミラノは基本的にイタリアビジネスの中心都市。スーツ姿が似合うデザインの町。大聖堂とダヴィンチの「最後の晩餐」(・・この作品も修復中で見ていない)。
ミラノからジェノヴァへ。中世には、ヴェネツィアと競い合ったジェノヴァ共和国。コロンブスが出航したのはジェノヴァ港であった。1991年当時は、治安のあまりよくない、赤さびた港湾都市となっていたが、さて現在はどうだろうか。
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ジェノヴァから、ピアチェンツァ、パルマを経てボローニャへ。
ボローニャは、中世に生まれた世界最古のボローニャ大学のある大学都市で、かつてソ連型とは一線を画した「ユーロ・コミュニズムの首都」とよばれた都市であった(・・訪問した1991年当時はソ連崩壊直前であった)。
日本でいえば、かつて革新府政が行われていた京都のようなものか。大学では学生食堂(メンサ)を利用したが、日本でも有名なスパゲッティ・ボロネーゼを食べたわけではない。
ボローニャは、現代でもイタリアの知的中心のひとつで書店も充実していた。平積みになっているイタリア語のタイトルを見ていたら、意外に英語の本からの翻訳本が多いことに気がついた。日本は翻訳大国だと言われることが多いが、イタリアも日本に劣らずそうなのだな、と。
ボローニャからラヴェンナへ。ユスティニアヌス帝を描いた、かの有名なビザンツ様式のモザイク画を見るためだ。ラヴェンナは、ビザンツ帝国(=東ローマ帝国)の都がおかれていたこともあるだけに、イタリア北部にあるが、その他の町とはだいぶテイストが違う。
ふたたびボローニャに戻ってから、フィレンツェへ。
フィレンツェは、ウフィッツィ美術館その他ポンテ・ヴェッキオなど観光資源の多い、日本人にもなじみの深い定番の観光地。かつて作家の塩野七生もここを拠点にしていた。
ちなみに、ウフィッツィはイタリア語でオフィスのことだと、大学学部時代の美術史の授業で知った。 レオナルド・ダヴィンチの「受胎告知」、ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」と「プリマヴェーラ」。みな分厚いガラス越しの鑑賞となる。
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フィレンツェから、斜塔で有名なピサへ。塔の町サンジミニャーノ、シエナを経てアッシジへ。
シエナは、町の中心に広場(カンポ)のある、こじんまりとしているが典型的な中世ルネサンス都市といった感じが好きだ。イタリアは大都市よりも、シエナやアッシジといった中小都市が個性的でいい。
教会にはジョットのフレスコ画。自分が訪れたあとになるが、大地震で教会も壁画も大きな被害がでている(・・その前後に訪問経験のある司祭によれば、素人目には修復で問題ないとのこと)。
アッシジからはバスでオルヴィエートへ。小高い丘の上にあるオルヴィエートもこじんまりとした、いい感じの町。 イタリアの中小都市が丘の上にあるのは、マラリアを避けるためだったようだ。地場のスーパーに入ると、なんと日本製の蚊取り線香が売っていた!
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ローマから先は南イタリアである。北イタリアでは、宿泊はユースホステル(YH)中心だったが、南イタリアにはユースホステルがほとんどないので、基本的に安い宿を求めて歩くことになる。北イタリアのユースには、ヴィラを改造したようなものもあって、ユースの会員証1枚で、比較的格安でぜいたくな気分味合うことができたものだった。
さて、ローマの話をしなくてはならない。永遠の都ローマには、つい最近も
「教皇選挙」で話題になったヴァティカンこと、ローマ教皇庁がある。 サンピエトロ広場では、
信者の列に紛れ込んで、バルコニーに姿を現した当時の教皇でポーランド人のヨハネ・パウロ二世を拝謁。日本からの修道女の巡礼団には、なんと日本語で(!)祝福をあたえていた。
システィナ礼拝堂のミケランジェロによる壁画は、やはり現地で見るべきだろう。写真集では全体像が見えないから。このほかミケランジェロのモーセ像や、コロッセウムや『ローマの休日』(・・こちらはオードリーのほうのヘップバーン)のトレビの泉など、定番の観光地を回ったが詳細は省略する。ローマを訪れた日本人は、それこそ無数にいるだろうから。
ローマでは、満員の市内バスのなかでスリに遭遇、見事な手さばきで、子ども連れのジプシー女に、なんと10万リラ(!)入った財布を抜かれた。ただし、幸いなことに、パスポートは腹巻きのなかに入れていたのでノープレブレム。当時はまだユーロ導入以前であった。
ローマからナポリに南下。「ナポリを見て死ね」というナポリは、ギリシア語のネアポリス(新都市)がなまったもの。古代ギリシアの植民都市がその起源であり、イタリア北部とはずいぶんテイストが異なる。そういえば、桜島という活火山のある鹿児島湾はナポリに似ていると、鹿児島では宣伝していたな・・
ナポリでは当然のことながら、ポンペイの遺跡とカプリ島へ。太陽を遮る場所のない8月のポンペイは、じつに暑くてつらかった。
ポンペイ遺跡では、物売りから「アンニョンハシムニカ」と声をかけられたのは、1991年当時は韓国で海外旅行が自由化されたため、韓国人旅行者が急増したからだろう。旅の途中で韓国の大学生たちとは何度も会話をかわしている。現在なら「ニーハオ」だろうな。
カプリ島では、定番の観光地「青の洞窟」(グロッタ・アズーラ)に行った。いやあ、ほんと素晴らしかった。海の青さが、いまなお記憶に鮮明。 さきほど名前をあげた日本人司祭は、青の洞窟には2回チャレンジして、2回とも敗退したという。夏ならそんなことはないのにね。
ナポリからマテラ、奇妙な白い石造住宅の並んだアルベロベッロへ。最近は日本でも注目の観光地。
バーリ、そしてターラントから、イタリア半島のかかとの先のレッチェまで。 レッチェのスペイン風の風化したバロックの教会建築は、なかなか風情があった。1860年のイタリア統一前まで、イタリア南部はスペイン支配下にあった。
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イタリア半島のかかとまで行ったので、つま先のシチリア島に向かう。
シチリアは、けっこう大きな島である。メッシーナからパレルモ、南海岸のアグリジェント、シラクーザなど反時計回りで周遊。
ちなみにコーヒーのカプチーノは、カプチン派に由来する。カプチン派の修道士のフードが焦げ茶色で似ているから。イタリアでは、バールで小さなカップのエスプレッソをくいっと飲むのが粋なスタイル。
そうそう、パレルモではバイク2人乗りの若者たちにデイパックをひったくられそうになった。かなりの距離ひきずられたが、なんとか難を逃れた。たいしたものが入ってなかったので、身の安全を考えたほうが良かったかもしれない。
アグリジェントのギリシア神殿は、アテネのアクロポリスのようなものだ。ここも古代ギリシアの植民都市であった。枯れた大地で、風が強いのでオリーブなど樹木が低い。イタリア人がそれをさして「ボンサイ!」と言っていた記憶がある。ちなみに、イタリアでは昔から日本の「盆栽」は人気があるようだ。
おなじく古代ギリシアの植民都市だったシラクーザは、アルキメデスゆかりの町。 シチリアのどこか忘れましたが、サルディーネのグリルは最高。なんということもないイワシの網焼きが、レモン果汁とオリーブオイルをかけるだけであんなに美味くなるとは!
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シチリアまで行ったので、帰途はメッシーナ発トリーノ行きの長距離列車でイタリアの西海岸を一気に北上。メッシーナ駅では、肩車された小さな女の子が「チャーオ~、チャーオ~」といいながら、手を振って見送る光景に、ああイタリアだなあ、むかしのイタリア映画のようだなと感慨にふける。
列車ごとフェリーに乗りこんで、シチリアから本土へと海峡をわたる。その間は、乗客は列車から降りて甲板にあがる。そこで買って食べた土地の名物アランチーニというライスコロッケがうまかった。
トリーノからヴァレ・ダオスタへ。そこからはモンブランの長いトンネルを抜けてフランスへ。
ということで、34年前の「イタリア一人旅」は以上のとおり。記憶違いがあろうが、あしからずご了承を。
当時のイタリアの列車は、むかしの日本もそうだったが、夏でもエアコンなし。窓を開けっ放しで、乗客は窓から顔や手を出していて、往年のイタリア映画の世界そのものだった。 さすがに現在はそんなことはないと思うが・・・
■イタリア再訪(2006年秋)
(ヴェネツィアで宿泊したホテルの狭い路地 筆者撮影)
このときは事前に予約していて、ヴェネツィアに宿を確保した。狭い路地に面した宿には、電子蚊取り(vape)が設置されていたことを思い出した。イタリアも蚊取り線香の時代ではないのだな、と。
(海から見たサンマルコ寺院 筆者撮影)
ヴァポレット(=水上バス)で沖合にでて、トーマス・マン原作の映画『ベニスに死す』の舞台であるリド島へ。海から見たヴェネツィアは最高だ!
ヴェネツィア名物のゴンドラは、2回とも運河の上から見ただけで乗っていない。ゴンドラに乗るよりも、ヴァポレットで沖合に出たほうが素晴らしい体験ができると言っておこう。ヴェネツィアは、陸だけ見ていても都市の本質はわからない。
今回はヴェネツィアに宿が取れたので、パドヴァまで日帰り旅行をした。前回は修復中だったため見学できなかったスクロヴェーニ礼拝堂のジョットの壁画を堪能。予約制なので日本からサイトで予約。観光客が多くて見学時間に制限があるのが残念だ。
というわけなので、コロナ後のイタリアは知らない。はたして再訪することはあるかどうか・・・
(以上)
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