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2025年6月29日日曜日

映画『LORO イタリアの欲望』(2018年、イタリア)ー ベルルスコーニという実業家から政治家に転身したポピュリストを描いた快作

 

映画『LORO 欲望のイタリア』(2018年、イタリア)という映画を amazon prime video で視聴Loro(ローロ)とは、イタリア語で「かれら」を意味する。ベルルスコーニとその取り巻きたちのことを指しているのだろう。

冷戦構造崩壊後の1995年から2000年代にかけて、断続的だがイタリアで4期合計6年間にわたって首相をつとめたシルヴィオ・ベルルスコーニを描いた作品だ。第1部と第2部の2部構成で156分。

amazon prime video 掲載の概要は以下のとおりである。


政治とカネ、女性問題や失言など数々のスキャンダルで世間を騒がせたイタリアの元首相シルヴィオ・ベルルスコーニ。政敵に敗れて失脚するも、一度はトップに登りつめた怪物的な手腕で、 政権への返り咲きを虎視眈々と狙っていた。セクシー美女を招き、贅の限りを尽くしたパーティーで生気を養い、持ち前のセールストークを武器に足場を固めていくのだが、政治家生命を揺るがす大スキャンダルが勃発するのだった…。


映画では、9ヶ月と短命に終わった政権が崩壊したあと、野党経験を経て2回にわたって連立政権を率いているが、ふたたび2006年に野に下っていたベルルスコーニが2008年に復活するまでを描いている。政権復活後にはラクイアで大地震が発生している。イタリアは地震国なのだ。




ベルルスコーニは実業家から政治家に転じた人物で、その出発点が不動産開発ビジネスだった点はトランプと共通している。その後はメディア王となった新興成金だが、蓄財の過程では脱税やマフィアとの関係などがり、何本も裁判を抱えていた人物でもある。 

日本では、人を食ったようなおふざけ発言や、カネやセックス関連のスキャンダルばかりが取り上げられ、なぜイタリアではこんなトリックスターのような人物が首相なのかという見方をされてきた。 

だが、イタリアでは熱烈な支持者とアンチが賛否相半ばする人物だったようだ。その点でも、トランプ大統領に先行する人物だったといえるかもしれない。 


(日本版トレーラー)

プロサッカーチームのACミランのオーナーであり、もともと学生時代にはプロの歌手として活動していたこともあり、実業家と政治家以外にも多彩な顔を持ち合わせていた怪物的人物であった。

すでに目を通していた『ベルルスコーニの時代 ー 崩れゆくイタリア政治』(村上信一郎、岩波新書、2018)の他に、ベルルスコーニ関連で何かないかと amazon で検索していたら、『LORO 欲望のイタリア』という映画があることをはじめて知った。昨夜のことだ。  

ちょっと見てみるか、といった軽い気持ちで視聴し始めたら、これがなかなか面白い。カリカチュア化された主人公を描いたコメディタッチの作品だが、イタリア人は「ベルルスコーニとその時代」はこういう描き方もするのだな、と。


(オフィシャルトレーラー 英語字幕つき)

  
日本のバブル期のような欲望全開、美女と美食あふれる世界古代ローマなら「サチュリコン」というべきか? 

ただし、日本や米国とは違ってゴルフをプレイするシーンはない。もっぱらプレジャーボートやウォーターバイクなどのマリンスポーツが中心なのは、地中海ならではといえようか。ベルルスコーニの別荘のひとつがあったサルデーニャ島とその海の映像が美しい。 

ベルルスコーニの世界は、新興成金の大金持ちのセレブ限定ではあるが、一般人とくに男性はかならずしも、こんな世界は嫌いではない。ある意味、イタリア人男性の夢を実現した存在と見なされていたのであろう。日本ならスポーツ紙、英国ならタブロイド紙の世界である。 イタリアも同様だろう。

「ほんと、どうしようもね~なベルルスコーニは」感が全面にあふれていながら、かならずしもネガティブな描き方はされていない。とはいえ、植毛手術に入れ歯など、寄る年波を乗り越えるべくアンチエイジングにいそしむ姿には、なんだか哀愁ただよう空気がなくもない。

とにかく面白かった。日本流にいえば清濁併せのむ政治家。自己顕示欲とエゴの塊。それでいて憎めないキャラクター。まさに怪物というべきであろう。日本でいえば、おなじく実業家出身の田中角栄のような存在だったといえようか。

視聴を終えてネット検索してみたら、日本でも2019年に公開されていたらしい。まったく知らなかった。知ってたら見に行ってたのに・・

ベルルスコーニは、一昨年の2023年に亡くなっているが、イタリアでは国葬されている。  日本と同様、ころころと首相が代わるイタリアでは、例外的に連立政権で長期政権を担ったからだろうか。いい意味でも悪い意味でも、ベルルスコーニがイタリアの顔となっていたことは確かなことだ。

ベルルスコーニの「第1次政権」は、1994年5月11日から1995年1月17日までの9ヶ月であったが、6年後に復帰した「第2次政権」は「第3次政権」までつづいて、2001年6月11日から2006年5月17日まで

映画で描かれたのは「第4次政権」での二度目の復活であるが、それは2008年5月8日から2011年11月12日までのことであった。

その点では、安倍晋三元首相と似ていなくもない中道(右派)の連立政権で、1期目の失敗経験から学び、返り咲いた2期目で長期政権を確立した点もまたそうだ。 




ベルルスコーニは、没年の翌年2024年にはイタリアでは切手になっているのだ! この点は台湾で銅像が建ったものの、日本ではまったくその動きのない安倍晋三氏とは違う。 安倍晋三氏が日本の切手になることは、ちょっと想像しにくい(・・外国切手ならその可能性はあるが)。

いやはや、イタリアという国は、ほんと不思議な国である。まあ、外国人からみたら日本も同様なのかもしれないが・・・


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・・イタリアで1978年におきた、極左暴力集団「赤い旅団」によるモロ首相誘拐監禁殺害事件をテーマにした『夜よ、こんにちは』(Buongiorno notte)についても言及


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2025年6月27日金曜日

ムッソリーニ時代のイタリアを旅した日本人による100年前の記録『イタリア古寺巡礼』(和辻哲郎、岩波文庫、1991)をはじめて読んでみた

  

イタリア旅行にいくなら、直行便があるので直接ローマに入ってしまえばいい。イタリアは、首都ローマを中心に交通体系が設計されているので、理にかなっている。 

イタリア一国だけを回る熱心なイタリア好きなら、それはベストな選択だといえる。ビジネス目的なら、いきなりミラノに入ってしまうということもあろう。

だが、陸路で国境を超えることがそれほど困難ではないので、隣国からイタリアに入るのも悪くない。 

ただし、EU圏内であっても日本人は非EU市民(Non-EU Citizen)なので、シェンゲン条約は適用されないことは念頭に置いておかなくてはならない。

自分の場合は、2回ともオーストリアのウィーンを起点にしていたが、約100年前にイタリアを回った若き哲学者は、フランス南部の地中海沿岸からイタリアに入って、アルプスからスイスに抜けている。 

その若き哲学者とは、和辻哲郎のことだ。倫理学を中心とした業績は多岐にわたるが、一般によく知られているのは『古寺巡礼』と『風土』という著書だろう。わたしは、この2冊は大学時代に読んでいる。 

そんな和辻哲郎には、『イタリア古寺巡礼』(岩波文庫、1991)という著作もある。当時38歳だった和辻が、1927年(昭和2年)の年末から約3ヶ月かけてイタリアを北から回った旅の記録である。その記録を再編集して1950年に出版している。

ドイツ留学中であった和辻の旅のルートは、フランスのニースを地中海沿いに鉄道で移動、まずジェノヴァからイタリアに入って、ローマに南下している。 

ローマからさらに南下してナポリ、アマルフィ、それからシチリアへ。わたしとは違って、シチリアは時計回りで周遊し、パレルモから汽船でローマに戻り、北上してアッシジ、フィレンツェ、ピサと回り、ボローニャからラヴェンナ、パドヴァ、そしてヴェネツィアへ。 

ところが、ヴェネツィアでは高熱がでて、十分に観光できなかったようだ。ラヴェンナで蚊に刺されてマラリアに感染したらしい。100年前はイタリアでもマラリアは当たり前の感染症だったのだ。 

旅のルートは、ざっと以上のようなものだが、さすがに鉄道網が整備されていた時代なので、スピードの違いを別にしたら現在と大きく変わるものではない。旅行代理店は、いまは亡き英国のトマス・クックを利用している。 

変化したといえば、当時はまだ旅行者もそれほど多くなく、オーバーツーリズムによる観光公害などとは無縁であったことだろう。 和辻はじっくり時間をかけて、美術品や建築物を鑑賞しており、その審美眼はなかなかのものがある。 

もちろん、オリジナルの『古寺巡礼』と同様、信仰抜きの美術という観点から見ているのは共通している。あくまでも哲学者としての視点なのである。 

この本には、モノクロだが多数の写真が挿入されているが、和辻自身も実物と写真の違いが大きいことを語っている。 


■当時のイタリア社会の観察が興味深い

興味深いのは、和辻がイタリアを訪れた1927年は、ムッソリーニが政権をとってから5年目であったことだ。つまりファシズム体制下のイタリアである。 

本書の1928年1月9日づけの記述に、アフガニスタン国王(当時)のローマ公式訪問の際、歓迎の行進で自動車に乗って通り過ぎたムッソリーニを見たとある。 

1928年3月18日づけの記述には、フィレンツェのヴェッキオ宮殿の前で、ファシスト少年隊と青年隊が黒シャツ姿で行進するのを見物したとある。 


イタリア人は祭り好きのせいでこういうことをやるのでもあろうが、しかしそれにしてもファシズムがこんなに繁盛していようとは、全く案外であった。(・・・中略・・・) 
見ていて一番かわいらしかったのは少年隊である。白い上衣の女の先生が引率していて、幼稚園くらいの小さい子どもたちが、いかにも楽しそうに、ファッーーショ、ファッーーショという号令に合わせて歩調を取っていた。教育が基本だというところへ、ムッソリーニは目をつけているらしい。


「ファッーーショ、ファッーーショという号令」という表現が面白い。日本語の「ワッショイ、ワッショイ」みたいな響きがあるが、もともと「ファッショ」というのはイタリア語で「束ねる」という意味だから、「みんな一緒に」というニュアンスで捉えたらいいのだろう。

1922年の「ローマ進軍」で政権を奪取して以来、ムッソリーニが独裁者として約20年以上にわたってイタリア政治を動かしていたのである。この時期にイタリアに渡航した旅行者による観察の記録が興味深い。 

和辻哲郎のこの本は、美術史家の高階秀爾氏による文庫本解説の文章によれば、イタリア美術鑑賞のガイドとして読まれてきたらしい。

とはいえ、美術以外の観察もなかなかのものがある。 自分が旅をするのはもちろんだが、他者による旅の記録を読んで追体験するのも面白い。 


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2025年6月26日木曜日

34年前の1991年の夏、1ヶ月かけて回ったバックパッカーの「イタリア一人旅」の記録(2025年6月26日)

 (2006年に再訪した際のパドヴァの聖アントニオ聖堂 筆者撮影)


いまから34年前になるが、1ヶ月かけてイタリア半島を北から南まで、かかとからつま先まで、くまなく旅したことがある。 

MBA取得のため留学していたアメリカの大学の夏休みを利用して、それまで訪れたことのなかったヨーロッパを回ったのである。自分の足で歩き、自分の目で見る。これをモットーにして。 

最近のことだが、自分が属している小さなネットワーク(というか、人間関係)のなかで、「旅行先としてのイタリア」が話題になった。そこで、自分の旅の記録を披露したという次第だ。 

「旅の記録ノート」を探したものの、取り出すのが大変なので今回は断念した。現在のようにスマホでなんでも写真撮ったりビデオ撮ったりという時代ではなく、当時の自分は写真はいっさい撮らないという主義をもっていたので、写真もいっさいない。記憶に刻みつけるためだ(と当時は思っていたが、それが正しかったかどうかはまた別の話)。 


(イタリア地図 Google map より 画像をクリック!


イタリアの地図をみながら、「記録」ではなく「記憶」を再現しながら記してみた。その文章に手を加えて、以下に再録しておく。「みちのく一人旅」ならぬ「イタリア一人旅」の記録。 

なにぶんにも34年前なので、記憶違いもあることだろう。言い換えれば一世代より前ということになるのだ。当然のことながら、現在のイタリアはそれなりに変化していることを、あらかじめお断りしておく。 


■34年前のイタリア見聞録(1991年夏) 

1992年当時はアメリカ留学中で、やっと過酷な勉強から解放された1年目の夏休み、2ヶ月かけてヨーロッパを回った。そのうち半分をイタリアに費やしたのは、それだけの価値があると考えたからだ。 

大学学部時代に「ヨーロッパ中世史」で卒論を書いているが、それまでヨーロッパに行ったことはなかった。あまのじゃくなわたしは、海外には背を向け、友人たちと1ヶ月かけて九州一周を行ったのだった。日本も知らないで、なにが海外だ、と。 

さてヨーロッパ旅行に話を戻すが、当時は「ユーレイルパス」の使い勝手がよかったので、基本的に鉄道をフル利用、バックパックを背負った青春一人旅となった。予約なしで飛び込みの旅をするバックパッカーである。 

格安チケットでニューヨークからロンドンへ飛び、英仏海峡をフェリーで渡ってフランスへ。パリからアムステルダム、ドイツを通ってオーストリアのウィーンへ。
 
 ***** 
 
イタリアの旅はウィーンから始まるウィーン発ヴェネツィアゆきの夜行列車でイタリアへ。この列車はスリ列車として悪名高いことは後から知ることになる。なんせスリと目を合わせているからね。 トイレにいこうとしたときのことだ。

その男は「アックア、アックア」(水、水)と弁解がましいことを口にした。問わず語りで自分はスリだと行っているようなものだな(笑)

ヴェネツィア到着は早朝で、駅を降りたらいきなり目の間に大運河が登場したので、驚きとともに大感激!  キャサリン・ヘップバーン主演の往年のハリウッド映画『旅情』(サマータイム)の世界がまだ残ってたなあ、と。 


(ハリウッド映画『慕情』(1955年)のトレーラー)


 あの頃はまだ、オーバーツーリズムによる観光公害も現在ほどひどくなかったとはいえ、当日になってからヴェネツィアで宿を確保するのは困難だった。そこで、内陸部にあるヴェネツィア後背地のパドヴァに滞在し、約1時間かけて毎日ヴェネツィアに通うことにした。 

パドヴァは、あまり日本人はいかないようだが、自分としては気に入っている。「ミラノ 霧の風景」というと須賀敦子の小説のタイトルだが、8月の早朝のパドヴァも霧に包まれていた。パドヴァには、15年後の2006年にもヴェネツィアとあわせて再訪している。1991年当時は、スクロヴェーニ礼拝堂が修復中でジオットの壁画を見ることができなかったからだ。

イタリアは大学発祥の地であるが、パドヴァ大学もまた中世以来の由緒あるもので、ボローニャ大学についで世界で2番目に古い大学だ。

地動説のガリレオ・ガリレイゆかりの大学であり「科学革命」発祥の地である。血液循環説をとなえたウィリアム・ハーヴィーもイングランドから留学していた。ハーヴィーも出席していたであろう解剖教室は階段教室になっていて、現在でも見学可能だ。

 
(パドヴァ大学の解剖学教室 Wikipediaイタリア語版より)


ゲーテが訪れたという植物園(オルト・ボタニコ)もある。ゲーテが見たというヤシの木もある。日本の柿や長ネギもある。


(2006年に再訪した際のパドヴァの植物園 筆者撮影)


日本でいえば、東京都文京区にある小石川植物園のような感じだ。16世紀にできたパドヴァの植物園は世界最古、小石川植物園は18世紀の吉宗の時代
 

(ゲーテのヤシの木 筆者撮影)


ブログ記事に最初に掲載した写真は、パドヴァの聖アントニオ聖堂。2006年秋の撮影。丸屋根と尖塔がビザンツ風、あるいはイスラーム風でさまざまな建築手法が混在していながら調和している。なるほど、「東方への窓口」であったヴェネツィアの文化圏にあったことがよくわかる。16世紀以降のヴェネツィアの主たる通商相手はオスマン帝国であった。

聖アントニオ聖堂のまわりは門前町で、なんだか「昭和の日本」のような雰囲気すらある。ロウソクやメダイユ、幼子を右手に抱えた聖アントニオのフィギュアを売る露天が並んでいる。

知り合いのカトリック司祭によれば、ポルトガル出身の聖アントニオは、イタリアではもっとも愛される聖人らしい* なくし物が見つかるなど、御利益が多いからなのだ、と。

*ただし、イタリア全土ということではなく、パドヴァを中心にした北イタリアでの人気が高いと捉えるべきであろう。


(2006年に再訪した際の聖アントニオ聖堂の壁 筆者撮影)


ヴェネツィア滞在を終え、パドヴァからヴィチェンツァを経由してヴェローナへ。 

ヴィチェンツァは、ルネサンスを代表する建築家アンドレア・パラーディオゆかりの町。パラーディオ建築の生きた博物館のような町である。

ヴェローナは、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』で有名だが、夏の夜は野外劇場でオペラを楽しめる。現地で当日チケットを入手して、ヴェルディの『リゴレット』を鑑賞。イタリアの一般庶民の、イタリアオペラへの熱狂ぶりが体感できた。 

ヴェローナからブレシアを経てミラノへ。ミラノは基本的にイタリアビジネスの中心都市スーツ姿が似合うデザインの町。大聖堂とダヴィンチの「最後の晩餐」(・・この作品も修復中で見ていない)。 

ミラノからジェノヴァへ。中世には、ヴェネツィアと競い合ったジェノヴァ共和国。コロンブスが出航したのはジェノヴァ港であった1991年当時は、治安のあまりよくない、赤さびた港湾都市となっていたが、さて現在はどうだろうか。 
  
*****
 
 ジェノヴァから、ピアチェンツァ、パルマを経てボローニャへ。 

ボローニャは、中世に生まれた世界最古のボローニャ大学のある大学都市で、かつてソ連型とは一線を画した「ユーロ・コミュニズムの首都」とよばれた都市であった(・・訪問した1991年当時はソ連崩壊直前であった)。

日本でいえば、かつて革新府政が行われていた京都のようなものか。大学では学生食堂(メンサ)を利用したが、日本でも有名なスパゲッティ・ボロネーゼを食べたわけではない。




ボローニャは、現代でもイタリアの知的中心のひとつで書店も充実していた。平積みになっているイタリア語のタイトルを見ていたら、意外に英語の本からの翻訳本が多いことに気がついた。日本は翻訳大国だと言われることが多いが、イタリアも日本に劣らずそうなのだな、と。

ボローニャからラヴェンナへ。ユスティニアヌス帝を描いた、かの有名なビザンツ様式のモザイク画を見るためだ。ラヴェンナは、ビザンツ帝国(=東ローマ帝国)の都がおかれていたこともあるだけに、イタリア北部にあるが、その他の町とはだいぶテイストが違う。 

ふたたびボローニャに戻ってから、フィレンツェへ。

フィレンツェは、ウフィッツィ美術館その他ポンテ・ヴェッキオなど観光資源の多い、日本人にもなじみの深い定番の観光地。かつて作家の塩野七生もここを拠点にしていた。

ちなみに、ウフィッツィはイタリア語でオフィスのことだと、大学学部時代の美術史の授業で知った。 レオナルド・ダヴィンチの「受胎告知」、ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」と「プリマヴェーラ」。みな分厚いガラス越しの鑑賞となる。
  
*****
  
フィレンツェから、斜塔で有名なピサへ。塔の町サンジミニャーノ、シエナを経てアッシジへ。 

シエナは、町の中心に広場(カンポ)のある、こじんまりとしているが典型的な中世ルネサンス都市といった感じが好きだ。イタリアは大都市よりも、シエナやアッシジといった中小都市が個性的でいい。 

アッシジは、イタリアのなかでは例外的でピュアな印象。言うまでもなく、アッシジのフランチェスコの町青春映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』はここを舞台にしている。




教会にはジョットのフレスコ画。自分が訪れたあとになるが、大地震で教会も壁画も大きな被害がでている(・・その前後に訪問経験のある司祭によれば、素人目には修復で問題ないとのこと)。 

アッシジからはバスでオルヴィエートへ。小高い丘の上にあるオルヴィエートもこじんまりとした、いい感じの町イタリアの中小都市が丘の上にあるのは、マラリアを避けるためだったようだ。地場のスーパーに入ると、なんと日本製の蚊取り線香が売っていた! 
  
***** 
 
さらに南下してローマへ。永遠の都ローマ。 ローマは、鴎外の訳で有名なアンデルセンの『即興詩人』の主要な舞台。『即興詩人』もまた、イタリア全土を回る作品である。

ローマから先は南イタリアである。北イタリアでは、宿泊はユースホステル(YH)中心だったが、南イタリアにはユースホステルがほとんどないので、基本的に安い宿を求めて歩くことになる。北イタリアのユースには、ヴィラを改造したようなものもあって、ユースの会員証1枚で、比較的格安でぜいたくな気分味合うことができたものだった。

さて、ローマの話をしなくてはならない。永遠の都ローマには、つい最近も「教皇選挙」で話題になったヴァティカンこと、ローマ教皇庁がある。 サンピエトロ広場では、信者の列に紛れ込んで、バルコニーに姿を現した当時の教皇でポーランド人のヨハネ・パウロ二世を拝謁。日本からの修道女の巡礼団には、なんと日本語で(!)祝福をあたえていた。 




システィナ礼拝堂のミケランジェロによる壁画は、やはり現地で見るべきだろう。写真集では全体像が見えないから。このほかミケランジェロのモーセ像や、コロッセウムや『ローマの休日』(・・こちらはオードリーのほうのヘップバーン)のトレビの泉など、定番の観光地を回ったが詳細は省略する。ローマを訪れた日本人は、それこそ無数にいるだろうから。 

ローマでは、満員の市内バスのなかでスリに遭遇、見事な手さばきで、子ども連れのジプシー女に、なんと10万リラ(!)入った財布を抜かれた。ただし、幸いなことに、パスポートは腹巻きのなかに入れていたのでノープレブレム。当時はまだユーロ導入以前であった。 

ローマからナポリに南下。「ナポリを見て死ね」というナポリは、ギリシア語のネアポリス(新都市)がなまったもの。古代ギリシアの植民都市がその起源であり、イタリア北部とはずいぶんテイストが異なる。そういえば、桜島という活火山のある鹿児島湾はナポリに似ていると、鹿児島では宣伝していたな・・

ナポリでは当然のことながら、ポンペイの遺跡とカプリ島へ。太陽を遮る場所のない8月のポンペイは、じつに暑くてつらかった

ポンペイ遺跡では、物売りから「アンニョンハシムニカ」と声をかけられたのは、1991年当時は韓国で海外旅行が自由化されたため、韓国人旅行者が急増したからだろう。旅の途中で韓国の大学生たちとは何度も会話をかわしている。現在なら「ニーハオ」だろうな。 

カプリ島では、定番の観光地「青の洞窟」(グロッタ・アズーラ)に行った。いやあ、ほんと素晴らしかった。海の青さが、いまなお記憶に鮮明。 さきほど名前をあげた日本人司祭は、青の洞窟には2回チャレンジして、2回とも敗退したという。夏ならそんなことはないのにね。

ナポリからマテラ、奇妙な白い石造住宅の並んだアルベロベッロへ。最近は日本でも注目の観光地。

バーリ、そしてターラントから、イタリア半島のかかとの先のレッチェまで。 レッチェのスペイン風の風化したバロックの教会建築は、なかなか風情があった。1860年のイタリア統一前まで、イタリア南部はスペイン支配下にあった。 
 
***** 
  
イタリア半島のかかとまで行ったので、つま先のシチリア島に向かう。 

シチリアというと、マフィアという連想が固定観念として根強いだろうが、シチリアこそゲーテが激賞しているすばらしい土地だ。「君知るや南の国 シトロンの花咲く・・」である。 

シチリアは、けっこう大きな島である。メッシーナからパレルモ、南海岸のアグリジェント、シラクーザなど反時計回りで周遊。 


ちなみにコーヒーのカプチーノは、カプチン派に由来する。カプチン派の修道士のフードが焦げ茶色で似ているから。イタリアでは、バールで小さなカップのエスプレッソをくいっと飲むのが粋なスタイル。 

そうそう、パレルモではバイク2人乗りの若者たちにデイパックをひったくられそうになった。かなりの距離ひきずられたが、なんとか難を逃れた。たいしたものが入ってなかったので、身の安全を考えたほうが良かったかもしれない。 

アグリジェントのギリシア神殿は、アテネのアクロポリスのようなものだ。ここも古代ギリシアの植民都市であった。枯れた大地で、風が強いのでオリーブなど樹木が低い。イタリア人がそれをさして「ボンサイ!」と言っていた記憶がある。ちなみに、イタリアでは昔から日本の「盆栽」は人気があるようだ。 

おなじく古代ギリシアの植民都市だったシラクーザは、アルキメデスゆかりの町。 シチリアのどこか忘れましたが、サルディーネのグリルは最高。なんということもないイワシの網焼きが、レモン果汁とオリーブオイルをかけるだけであんなに美味くなるとは! 
  
***** 
  
シチリアまで行ったので、帰途はメッシーナ発トリーノ行きの長距離列車でイタリアの西海岸を一気に北上。メッシーナ駅では、肩車された小さな女の子が「チャーオ~、チャーオ~」といいながら、手を振って見送る光景に、ああイタリアだなあ、むかしのイタリア映画のようだなと感慨にふける。 

列車ごとフェリーに乗りこんで、シチリアから本土へと海峡をわたる。その間は、乗客は列車から降りて甲板にあがる。そこで買って食べた土地の名物アランチーニというライスコロッケがうまかった。 

トリーノからヴァレ・ダオスタへ。そこからはモンブランの長いトンネルを抜けてフランスへ。 

ということで、34年前の「イタリア一人旅」は以上のとおり。記憶違いがあろうが、あしからずご了承を。 

当時のイタリアの列車は、むかしの日本もそうだったが、夏でもエアコンなし。窓を開けっ放しで、乗客は窓から顔や手を出していて、往年のイタリア映画の世界そのものだった。 さすがに現在はそんなことはないと思うが・・・ 


■イタリア再訪(2006年秋) 

その後、イタリアには2006年に再訪している。 今度もウィーンから列車で。ただし、スロヴェニアの首都リュブリャーナ経由でヴェネツィア、パドヴァへ。ただし、須賀敦子の小説のタイトルにもなっているトリエステに行くことができなかったのは残念。 


(ヴェネツィアで宿泊したホテルの狭い路地 筆者撮影)


このときは事前に予約していて、ヴェネツィアに宿を確保した。狭い路地に面した宿には、電子蚊取り(vape)が設置されていたことを思い出した。イタリアも蚊取り線香の時代ではないのだな、と。 


(海から見たサンマルコ寺院 筆者撮影)


ヴァポレット(=水上バス)で沖合にでて、トーマス・マン原作の映画『ベニスに死す』の舞台であるリド島へ。海から見たヴェネツィアは最高だ! 

ヴェネツィア名物のゴンドラは、2回とも運河の上から見ただけで乗っていない。ゴンドラに乗るよりも、ヴァポレットで沖合に出たほうが素晴らしい体験ができると言っておこう。ヴェネツィアは、陸だけ見ていても都市の本質はわからない。 

今回はヴェネツィアに宿が取れたので、パドヴァまで日帰り旅行をした。前回は修復中だったため見学できなかったスクロヴェーニ礼拝堂のジョットの壁画を堪能。予約制なので日本からサイトで予約。観光客が多くて見学時間に制限があるのが残念だ。 

というわけなので、コロナ後のイタリアは知らない。はたして再訪することはあるかどうか・・・ 

(以上)


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(付録)独断と偏見に満ちた考察と教訓などなど(順不同)

●イタリアは、ヨーロッパだが非ヨーロッパ的な面もあって、それが魅力的。 (個人的な見解としては、「東洋のラテン」と言われる韓国人やタイ人がイタリア人に近い) (気質的には、イタリア人よりスペイン人のほうが日本人に近いという印象あり)
●イタリアは、北部と南部でずいぶん雰囲気が違う。
 南部は完全に地中海世界で、中肉中背で黒髪で黒目、褐色の肌が多く、男性のある種の仕草がトルコ人と共通。(ただし、シチリアには金髪青目で長身のノルマン系の人がいる。
●イタリアは全般的に、日本より朝が早いので、現地では生活習慣は朝型に変えるべき。
 (そのかわり昼休みが長いことは、みなさんご存じのとおり。夕方の営業時間がひじょうに短い)
●郵便局や鉄道関係ふくめて、役所つとめのイタリア人は、杓子定規で融通が利かない官僚的な人が多い。民間とはあまりにも対照的。民間人は、基本的によく働き、よく遊ぶ。
●とくに南部では、平気な顔して釣り銭ごまかしてくるヤツがいるので要注意。
●当時もすでに、アフリカ人の路上物売りが多くて、現地のイタリア人が嫌っていた。詐欺には要注意。
●夏は暑いので、疲れを癒やし、涼むために教会を利用させてもらったが、平日の教会には、おばあさんしかいなかった。
●イタリア男子は、外国人女性にはよく声をかけているが、観察していると現地のイタリア人女性は声かけしていない。(狭いコミュニティに生きているので、「世間」の目があるためでしょう)


ご参考になるかどうか、わかりませんが・・・



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