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2024年9月17日火曜日

書評『潜入取材、全手法 ― 調査、記録、ファクトチェック、執筆に訴訟対策まで』(横田増生、角川新書、2024)―「潜入ジャーナリスト」が試行錯誤の末に身につけた知恵とノウハウから学ぶべきもの

 


著者の横田増生氏は、アマゾンやユニクロのパート従業員として働きながら、内部事情をノンフィクションとして書くという、いわゆる「潜入ジャーナリスト」ととして名をはせてきた人だ。 

本書は、その「潜入取材」の全容を「メーキング・オブ・●●●」という形でまとめたもの。すでに横田氏のノンフィクション作品を読んできた人には、正直いってそれほど新鮮味があるわけではない。ただし、各社の広報担当者や訴訟の場における企業側弁護士とのやりとりは面白い。また、著者の文章術は参考になる。 

大学卒業後、大手紙への就職活動にのきなみ失敗した著者は、物流専門誌の記者を経て独立することになる。この時代の経験が企業取材には多いに役だったようだ。財務諸表の読み方もこの時代に身につけている。 

ジャーナリズムを勉強するため、米国の大学院で学んだ体験談は興味深い。第4章に書かれた、専門大学院でのきわめて実践的な教育内容は、日本の大学も大いに意識するべきだろう。ジャーナリズムの道を目指す若者なら読むべきだ。 

英国では大手紙も当たり前のように行っている「潜入取材」だが、まだまだ日本では主流になっていない。著者が日本ではまだ数少ない「潜入ジャーナリスト」になったキッカケは、ぶっちゃけカネが底をついてしまったからだという。働きながら取材もする、たしかにこれは一石二鳥だ。 

読んでいて思ったのは、企業で働いている人も、潜入取材中の著者のように熱心に業務に取り組み、働きながら徹底的に「取材」、いや「観察」すべきだろう、ということだ。そうすれば、自分がやっていることの意味が、明確に把握できるようになるはずだ。 

そのために必要なのは、「現場」という内側からみたミクロの視点と、企業全体を外側から見渡すマクロの視点を両立させることである。どちらが欠けても、企業組織で働くということの意味は見えてこない。 

著者自身はとくに意識はしていないようだが、やっていることは企業組織を「現場」にした「フィールドワーク」であり、その手法は人類学や社会学では当たり前になっている「参与観察法」そのものである。

この手法はビジネスパーソンであれば、ぜひ身につけたいものだ。ただし、ビジネスパーソンの場合は、公表を前提とはしない点が「潜入取材」とは異なることは言うまでもない。 

全体的に面白い内容なのだが、AI時代の現在においては、手法としてはややオールドスタイルだという印象を受ける。 とはいえ、この手法もまた取材方法のひとつと捉え、著者を手本にして、この道を目指す若者が増えてほしいと思う。日本では「潜入取材」がメジャーになっていないから。

企業活動とジャーナリストとの緊張関係とせめぎ合いは、日本の企業社会が健全化するために絶対に必要なことだ。 上場企業であればもちろん、たとえ非上場企業であっても、「企業は公器」であり、営利活動であっても「公益性」を意識しなくてはならないのである。 



目 次  
まえがき 
第1章 いかに潜入するか 
第2章 いかに記録をとるか 
第3章 いかに裏をとるか 
第4章 いかに売り込むか 
第5章 いかに身を守るか 
第6章 いかに文章力をつけるか 
あとがき 
参考文献一覧

著者プロフィール
横田増生(よこた・ますお)
1965年福岡県生まれ。関西学院大学を卒業後、予備校講師を経て、アメリカ・アイオワ大学ジャーナリズム学部で修士号を取得。1993年に帰国後、物流業界紙『輸送経済』の記者、編集長を務める。1999年よりフリーランスとして活躍。2020年、『潜入ルポ amazon帝国』で第19回新潮ドキュメント賞を受賞。著書多数。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


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■企業組織を「現場」とした「フィールドワーク」と「参与観察法」





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2019年7月28日日曜日

書評『評伝 小室直樹 上・下』(村上篤直、ミネルヴァ書房、2018)― かつて小室直樹という桁外れの知的巨人がいた



小室直樹という桁外れのスケールの学者の「評伝」を読了した。『評伝 小室直樹 上-学問と酒と猫を愛した過激な天才』と『評伝 小室直樹 下-現実はやがて私に追いつくであろう』の2巻本である。

著者は村上篤直氏。出版社は京都のミネルヴァ書房。 活字は大きく、文体も行替えの多い小室直樹の一般向け書籍風であるとはいえ、注を除いた総ページ数が上下2巻で1200ページ超という大著である。これまた桁外れだ。よくこんな本が出版できたものだ。 

小室直樹氏は、2010年に78歳で亡くなっている。それからすでに9年たつ。真っ当だが、やや過激な内容であった一般向け書籍の多くが絶版となっているが、晩年に出版された「原論もの」の単行本は、現在でもロングセラーであり続けている。 

高校時代に『ソビエト帝国の崩壊』(カッパビジネス、1980)を読んで以来、数学を基礎にして社会科学の全分野を網羅した、小室直樹という桁外れの学者の大きな影響を受けてきた。社会科学のすべての分野を自家薬籠中のもとして、快刀乱麻の如く現実を斬ってみせる、その鮮やかさはわかりやすく、しかもきわめて痛快だ。 

そして小室直樹氏自身、この1冊で運命が大転換してしまったようだ。学問と酒とネコ以外関心がないという奇人変人が、48歳を期にマスコミの寵児となってしまったからだ。それについては、本書の下巻の内容となる。 

『危機の構造』(ダイヤモンド社、1976)こそ、「アノミー論」に代表される、小室直樹氏の方法論について書かれた代表作ともいうべき本(*)なのだが、学者や研究者に注目されたこの本は、その世界を超えて一般に受け入れられることはなかった。

(*注:この投稿の<付録> これこそ名著! ぜひ復刊を望みたい を参照)

とはいえ、大学でのポストを獲得することはできなかった。規格外の怪物は、制度のなかに安住する大学人からは嫌われていたからだ。 

だが、ベストセラー作家となったことで、社会科学の分野でノーベル賞をとる!という誇大妄想気味な最初の志は全うできなかった。 

悔いなき人生だったのかどうかは、外部からは伺い知るよしもない。内面の葛藤が、心身をむしばんでいったのかもしれない。

貧乏だが意気軒昂の上巻とくらべて、下巻の内容は、なんだか痛々しいという印象を感ぜざるを得ない。『ソビエト帝国の崩壊』以降の一般読者にとっては、知りたい内容が満載で、その点では大いに満足することになる内容ではあるのだが。 

上下2巻のこの大著は労作である。よくぞここまで資料を収集し、関係をたずね回って調べ上げたものだなあ、と。その成果が惜しみなく投入されている大著。著者自身の人生にとって、一度も直接会ったことのない小室直樹という存在が、いかに大きなものになっていたのである。 


■小室直樹の方法論は「帰納法」ではなく徹底した「演繹法」

だが、ふつうこれくらいボリュームのある本を読了したときは、読みごたえありという感想をもつのだが、どうもそういう感じがわいてこない。それはなぜかについて考えていた。 

結論というわけではないが、一つは小室直樹氏の弟子筋にあたる人たちとは、自分があまりにもテイストが違いすぎるということにある。正直いって生理的に合わないということである。この人たちが祭り上げる存在としての小室直樹には距離を取りたくなる。 

もっと本質的なことは、小室直樹という大学者が、理論にしか関心をもっておらず、実証にはまったく関心がなかったという点が確認できたことにある。事実から出発する方法論ではないのだ。 

比較するのもおこがましいが、私自身とはまったく資質が違う。高校時代に「演繹法」と「帰納法」の違いについて知ったが、森羅万象すべてに関心のあった自分は、「帰納法」だなと確信した。現実から理論を引き出す方向性。 

ビジネスパーソンには人気のあった小室直樹氏だが、現実世界そのものであるビジネスの世界に、どっぷりと浸かっていた私のような人間とは資質が違いすぎることを感じてしまう。 小室直樹氏の業績が独創的かと言われれば、かならずしもそうでないと言わざるを得ないのは、方法論の性格に起因している。

小室直樹氏の方法論とは、理論を徹底的に鍛え上げて、その理論によるフレームワークで現実を解析するという絵に描いたような演繹法だ。 だから、「原論」的な書籍での切れ味はきわめて良い。スパっと切れるのは、雑多な現実を捨象してしまうからである。

社会変動の理論を打ち出そうと奮闘した小室直樹氏の生涯だが、演繹法には限界があることが明らかになっているのが、21世紀の現在の状況である。前提そのものが崩れつつある現状では、小室直樹氏の方法論にはムリがあると、感じないわけないわけにはいかないのである。合理的思考法の限界か。小室直樹の「亜流」が精彩を欠くのはそのためだ。

だが、繰り返しになるが、憲法や宗教、数学など『日本人のための●●』がタイトルがついた「原論もの」は、まだしばらくは生命を保ち続けるだろう。これほど明解に「原理」そのものを説明してくれる解説書は、ほかに例がないからだ。演繹法の強みである。

フレームワークで理解することの意味がそこにある。こういった形の書籍を残せた理由は下巻で語られている。配偶者となった元編集者の貢献は大きい。


■合理主義を支えた非合理な熱情

個人的には、本書の最大の貢献は、京大から阪大にかけての学問形成期の小室直樹氏の、学問とは別の天皇主義者としての側面についての解明だと思う。敗戦後にいっさい転向しなかった人生である。生き方である。 

それは、数理経済学者の市村真一氏の門下として、経済学という学問だけでなく、皇国史観の平泉澄(ひらいずみ・きよし)が主催する寮生として過ごした年月のことだ。この側面を理解することによって、合理を貫いた姿勢の背後にある非合理な熱情がなにであったかを知ることができるのである。 

『日本教の社会学』(1981年)の共著者となったのは山本七平だが、2人のあいだで共通の認識の核となっている、江戸時代の儒者で思想家の山崎闇斎(やまざき・あんさい)に始まる「崎門(きもん)の学」、その系譜にある浅見絅斎(あさみ・けいさい)という存在。 

「日本こそ中華(=世界の中心)である」という天皇中心の神国思想が生まれ、下級武士を中心とした倒幕勢力の原動力の核心となったこと、しかし明治維新後はほとんど顧みられなくなったという事実。なぜ、崎門の学であり、浅見絅斎なのか、これは、小室直樹氏の前半生について知らなければわからないことなのである。 

合理を貫き、理論を徹底的に鍛え上げることを基本方針とした小室直樹氏だが、数日にわたる断食によってアタマをクリアにし、直観が降りてくるのを待つという方法論もまた、エピソードとして本書の随所にでてくる。過度の断食と過度の飲酒が、命を縮めたことは否定しようない。 

書き出していくときりがないが、この大著は、資料集として大いに価値がある。充実した索引、年譜と著作目録、これが本書のキモだ。 小室直樹に惚れ込んで、小室直樹にかんするものすべてを収集してしまいたいという情熱とライフワークの一里塚である。

著者のような人がいたことは、故人にとっては幸せなことであったと言うべきであろう。



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上巻 目次 

はしがき 
第1章 柳津国民学校-征夷大将軍になりたい 
第2章 会津中学校-敗戦、ケンカ三昧の日々 
第3章 会津高校-俺はノーベル賞をとる 
第4章 京都大学 -燃える“ファシスト "小室と“反戦・平和"弁論部 
第5章 軍事科学研究会と平泉学派-烈々たる憂国の真情 
第6章 大阪大学大学院経済学研究科-日本伏龍 小室直樹 
第7章 米国留学、栄光と挫折-サムエルソンを成敗する!  
第8章 東京大学大学院法学政治学研究科-社会科学の方法論的統合をめざして 
第9章 田無寮-学問と酒と猫と 
第10章 社会指標の研究-福祉水準をどう測定するか 
第11章 小室ゼミの誕生と発展-君は頭がいいなぁ、素晴らしい! 
第12章 一般評論へ-日本一の頭脳、44歳、独身、6畳1間暮らし 
第13章 小室ゼミの拡大-橋爪大三郎の奮闘 
第14章 瀕死の小室-すべては良い論文を書くために 
第15章 出生の謎-父はマルクス、母はフロイト 
注 
あとがき 
小室直樹試論-なぜ小室直樹はソ連崩壊を預言できたか 
小室直樹著作目録 
人名・事項・猫名索引 

下巻 目次  
はしがき 
第16章 おそるべし,カッパ・ビジネス-俺はマスコミに殺される 
第17章 ‟旧約" の時代と ‟新約" の時代-奔走する担当編集者たち 
第18章 田中角栄-検事を殺せッ!  
第19章 対話-危惧、矜持、疑問、痴態、怒号、憧れ、感動 
第20章 小室ゼミの終焉-最高のティーチャー 
第21章 スナック・ドン-野良でも、血統書つきでも、猫は猫 
第22章 日本近代化と天皇-方法論学者(メソドロジスト)の本領発揮 
第23章 誰も書けなかった韓国-‟新約" 編集者たちの活躍 
第24章 昭和天皇-神であり、英雄である 
第25章 結婚-おれの嫁、覚えててくれ 
第26章 死、訣別、そして再会-寄る年波に抗えず 
第27章 『原論』の時代-いい本は、最低限10回は読みなさい 
第28章 晩年-人生は短い 
第29章 会津彷徨-ある会津藩士の記録 
第30章 没後-学恩に報いる道 
注 
あとがきにかえて-私にとっての小室直樹とは 
小室直樹略年譜 
人名・事項・猫名索引




<付録> これこそ名著! ぜひ復刊を望みたい

 『危機の構造ー日本社会崩壊のモデル-』(小室直樹、ダイヤモンド社、1976)が、取り上げられている。このたび上下2巻の評伝を出版した村上篤直氏へのインタビュー記事。 この記事を読んでFBに投稿した内容(2018年11月3日)を、ブログに転載する。

(以下引用) 

坪井賢一(以下、坪井) 
 村上さんが小室先生の著作や理論のなかで最も重要だと思うものは何ですか? 
村上篤直(以下、村上) 
 著書としては、ダイヤモンド社から1976年に出た初の単著『危機の構造』ですね。これはダイヤモンド社に気を遣って言っているわけではなく(笑)、日本の名著100冊に必ず入れるべき作品だと本当に思っています。その後の小室先生の著作は、ある意味では『危機の構造』で語ったことの繰り返しとさえ言えると思います。日本の社会というのは戦前と戦後で変わっていない。機能集団である会社が共同体化してしまい、その矛盾が日本社会の危機の構造である、と実に見事に納得のいく説明をされている。そこで用いられ、日本の構造的無規範、無連帯を分析した「アノミー」の理論は今でも十分に通用するものです。 




まさに村上氏が言うように、『危機の構造』は小室直樹の原点でありエッセンスである。私が読み込んだのは1982年の「増補」版だが(写真)、本当に何度も何度も繰り返し読み込んだ本だ。「増補」されたのは「第8章 私の新戦争論ー合理的、論理的側面」。 

小室直樹自身は、「増補 あとがき」(1982年)でこう述べている。「私が力説したかったのは、日本人の社会科学的な思考の致命的な欠落である」。これが、小室直樹が一生かけて主張し続けたことであったのだが、はたして日本人は社会科学的思考が身についたといえるのだろうか??? 

内容的にはやや難しい点もあるが(・・なんといっても、数学から経済学、法学、社会学までずべて制覇した天才学者だ)、ダイヤモンド社には、ぜひ新装復刊を望みたい(*)。


*2022年8月に「新装版」として復刊されたことを記しておく。 (2024年4月22日 記す)


(画像をクリック!)


目  次 
第1章 戦後デモクラシーの認識 
第2章 日本型行動原理の系譜 
第3章 歴史と日本人思考―ジャーナリズム批判 
第4章 「経済」と「経済学」 
第5章 危機の構造 
第6章 ツケを回す思想 
第7章 社会科学の解体 
第8章 私の新戦争論





<ブログ内関連記事>

『ソビエト帝国の崩壊』の登場から30年、1991年のソ連崩壊から20年目の本日、この場を借りて今年逝去された小室直樹氏の死をあらためて悼む

書評 『日本教の社会学』(山本七平/小室直樹、ビジネス社、2016 単行本初版 1981)-「日本教」というキーワードで日本社会をあざやかに分析した濃密かつ濃厚で骨太な議論

最近ふたたび復活した世界的大数学者・岡潔(おか・きよし)を文庫本で読んで、数学について考えてみる

書評 『異端力のススメ-破天荒でセクシーな凄いこいつら-』(島地勝彦、光文社文庫、2012)-「常識に染まらず、己の道を行く」怪物たちの生き様

"粘菌" 生活-南方熊楠について読む-

『生誕150年企画展 南方熊楠 100年早かった智の人』(国立科学博物館 東京・上野)に行ってきた(2017年12月22日)-「グローカル」で「智の巨人」であった南方熊楠の全体像を知る企画展


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2017年7月28日金曜日

古田博司教授の「産経新聞に掲載拒否された原稿」を「独占公開」!-タイトルは「現代は先見と常識で生き抜こう」

(いただいたオリジナル原稿をスキャンしたもの 1ページ目)


古田博司・筑波大学大学院教授から、産経新聞の「正論」コラム向けに書いた文章が掲載拒否されたので、その内容に賛同するのであれば、ブログにアップしてもらえないかという依頼がありました。

「内容が高度すぎて新聞向けではない」という理由で掲載を断られたとのことです。この掲載拒否にかんして、古田先生は、「新聞というものは、そこに書かれていることはすべて過去であり、未来にかんしては怯懦(きょうだ=臆病な、という意味)である」、という感想を強められたようです。

「掲載拒否された原稿」については、その内容にかんしては、わたくしも賛同しておりますので、「ブログへの掲載を快諾」した次第です。



■はじめに

いただいた原文をそのままアップしてますが、タテ書きの原稿をブログ用にヨコ書きに変換したため、読みやすくするために、以下の処理を行ってあります。

行替えを増やしたこと、漢数字をアラビア数字に変換したこと、ルビを( )のなかに入れたこと。それ以外には、「原文」にはいっさい手を入れておりません。

一読して理解しにくい用語などがあると思いますので、「原文」のあとに、必要最小限の「注釈」を「コメント&コメンタリー」という形で行ってあります。

あくまでも「解釈」は、「原文」に即して、皆さんご自身で行っていただきたいと思います。

では、「掲載拒否された文章」の「原文」に目を通していただきますよう。



*********************************


現代は先見と常識で生き抜こう      古田博司 


《理想と理念の近代は終わった》 

今日は、「先見」の有用性について語ろう。近代は理想と理念の時代だった。だが終わってみると、「社会主義」は収容所群島に成り果て、「開かれた国益」(2001年、外交理念)は北朝鮮からのミサイルに化けたではないか。我々は理想や理念にはもううんざりしている。
   
ならば先のことにうまく対処できる先見の方が、ずっと良いではないか。それにはいつも考えていることだ。コツは、「欠如・例外・近似」の三点把握である。「零戦にはなぜ防御板がないのか」(欠如)とか、「ダビデはなぜ地下水道からエルサレムを攻略したのか」(例外)とか、「前川喜平文科省前事務次官はなぜ断末魔のように吠えるのか」(近似)とか。すると、それを埋めるように直観が飛来する。
   
「あっ、そうか」と思うようなコマの到来があったら、未来過去にかかわらず、自分の「今」のカーソルをそこに当てるのである。なぜなら、外界に今はない。今があるのは私の体内時間(持続)なのだ。これが私の実存である。

そこから、カーソルを往復運動させて、記憶(自分の過去経験)と記録(他者の過去記述)の中からコマを切り出して並べ、因果の意味を見出すのである。

簡単に言えば、外の変化にサッと気づき、記憶と記録から関連のコマをパッパと切り出し、脈絡あるなと思ったら言語化する。そのとき自分の持つ未来像や俗説を色々修正し、外の変化の意味を人々に語るのである。天気予報や地震予報に似ているが、系(コマ)の中で物理法則が使えない。始まりは直観によるコマの到来になる。
  

《未来予測とは先見のことだ》
     
宮家邦彦さんは先見(フォーサイト)の達人だ。前川喜平氏の例で、「あれは日本官僚の断末魔だ」(近似)というコマに今カーソルを当て、官僚が自治王国を作ってきた過去のコマを次々と切り出す。

(1)大蔵省スーパー官庁の擬制、(2)族議員の養成、(3)勉強エリートの継続リクルートと、暴走しないようにコマはできるだけ少なく取る。こうして絶対服従と天下りと民間平均以上の生涯給与を保証することで、官僚王国の体内倫理が生まれた。
   
そしてこれをぶち壊したのが、2014年の内閣人事局設置だと、変異系のコマに今カーソルを大手のように当てるのである。これで官僚は次官ではなく、官邸に服従を誓わざるを得なくなった。

あとは論理的に未来を語る。今や優秀な人材は官僚を志向しない。彼らを行政府に取り込めない。民間にいる人材を政策過程に取り込むしかないだろう。(宮家邦彦「国際問題第75回 前川前次官は官僚王国ニッポンの黄昏」「週刊新潮」7月6日号)
   
哲学者のハイデガーが『存在と時間』の中で、訳の分からないことを言っていた。記録(資料や史料)は、書かれているのは過去のことだが、我々が向かうときは未来なのだ、という。意味が分からないので、私は何年も考え続けた。

ある日。直観が到来した。「あっ、そうか。記録の中でも先見(プレシャンス)を使うのだ。他人の記憶だから想起は使えない!」(欠如)。
  

《先見は歴史研究にも使える》 

私は今、WILL という雑誌で、旧約聖書を社会科学するという実験を行っている。わざと勉強しないようにして直観と常識だけで読み解くのだ。
  
ダビデのエルサレム攻略のところで、変異系のコマが到来した。ダビデよ、「あなたはけっして、ここに攻め入ることはできない。かえって、めしいやあしなえでも、あなたを追い払うであろう」(サムエル記下5-6)と、敵のエブスという民族が言う。ここが変だ(例外)。

そこで私の今カーソルを記録の中で往復運動させ、関連のコマを切り出す。

(1)新約聖書のヨハネ福音書中、ベテスダという人工池で盲人、足なえが憩っている。(2)ダビデは攻めるときに、「めしいたち」を撃てと兵を鼓舞している。(3)ダビデはエブス人を滅ぼさず包摂した。ヒビという民族は、イスラエルに敗れて井戸水をくむ奴隷となったが、後に人工池を持つギベオン人になり、神の家が置かれる有力都市になった。

人工池を持つ町は有力都市だ。当時、この地方の池のほとりには、移動しにくい障碍者がいた。人は3日水を飲まないと死ぬ(常識)。ダビデは、エブス人が人工池を誇っていることに気づき、地下水道から兵をあげて攻めた。給水技術に優れた民族は滅ぼされず、包摂されたが強い民となって再生した。こんなことが「先見」でわかる。

つまり何を言いたいのと言えば、もっと「先見」と「常識」を使って、理想も理念も失われた近代以後を力強く生き抜こうという提言である。

最後に、理念や理想が、先見と常識に敗れる例を挙げておこう。

朝日新聞の社説「韓国民主化 歩み30年不断の進化を」(6月30日付)。韓国で、軍事政権に対し反体制勢力が「民主化宣言」を勝ち取り、その文脈で市民勢力が朴槿恵を弾劾・罷免した。民主化は30年間ふだんに進歩している、というのである。

どこの民主国家に大統領をやっつけて万歳し、次の大統領選挙で踊り狂っている国民がいるのか。常識がなさすぎるというものである。

(以上)

*********************************

(いただいたオリジナル原稿をスキャンしたもの 2ページ目)


以下の「コメント&コメンタリー」は、このブログのオーナーである、わたくしこと 佐藤けんいち によるものです。あくまでも個人的見解であることを、はじめにお断りしておきます。


■コメント&コメンタリー

正直いって、あまりにも圧縮された文章なので、一度目を通しただけでは理解しにくいかもしれません。ですが、虚心坦懐に2~3回繰り返して読めば、理解できる人も少なからずいるのではないでしょうか。

とはいえ、使用されている「用語」については、辞書を検索しても理解しにくいものがあるかもしれません。参考のために注釈を加えておきます。



●「コマ」?

正直いって、わたくしも「コマ」が何を意味しているのかよくわからないので、古田先生に直接質問してみました。

「系(コマ)について」は、『正論』(2017年9月号)に掲載予定の連載コラム 「近代以後 no.39  「先見」は理想に代わり得るか」に書いたので、参照して欲しい、とのことです。発売日は、2017年8月1日です。

「コマ」は「フィルムのコマ」のことです。「記憶の一齣」の「齣」(こま)のことですね。「齣」とは、「枠(フレーム)のあるなかの小区画」のことです。マンガの「コマ」や、授業の「コマ」という表現もあります。


●「過去」イコール「未来」?

「哲学者のハイデガーが『存在と時間』の中で、訳の分からないことを言っていた。記録(資料や史料)は、書かれているのは過去のことだが、我々が向かうときは未来なのだ・・・」 という文章が「原文」にありますが、「近似」という観点から、補助線を引いておきましょう。

この点にかんしては、わが恩師の阿部謹也先生も、「近似」したことを言ってます。「歴史発見のおもしろさというのは、異文化との接触といってもいいし、SF的なおもしろさといってもいい」、と。『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017)より引用(P.24 より)。

さすがに「過去」は「未来」であるとまでは言ってませんが、「過去」だけでなく「未来」もまた、「現在」に生きる自分という存在から見れば、「異世界」であり「未知の世界」である点においては同等なのだ、という意味でしょう。「SF的なもの」とは「先見」でありますが、かならずしも「未来」についてだけあてはまるわけではないということですね。

もちろん、その「過去」の「記録」(・・そもそも「記録」というものは他者によるものであり、すべて過去に属する)に向かう際には、「近似」だけでなく「例外」、「欠如」を念頭に置いて考えてみると、「先見」が得られるかもしれませんよ。

あるいは「異文化」へのアプローチという方法論でもよいのかもしれません。自分が属する文化を軸にして、「近似」「例外」「欠如」のすべてを総動員して理解しようという知性の働きが、「異文化理解」だからです。

とはいえ、「先見」はさておき、「常識」の働かせ方がキモになるかもしれません。「常識」にとらわれず、しかし「常識」をフルに働かせるのは、意外と難しい課題ではありますからね。

「先見」と「常識」は、「ケーススタディ」分析の基礎とすべきものでありましょう。それは言い換えれば、「実学として歴史学」ということになるのです。








<ブログ内関連記事>

■古田教授の著書

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」

書評 『使える哲学-ビジネスにも人生にも役立つ-』(古田博司、ディスカヴァー・トウェンティワン、2015)-使えなければ哲学じゃない!?

書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)-「日本文明」は「中華文明」とは根本的に異なる文明である

書評 『「紙の本」はかく語りき』(古田博司、ちくま文庫、2013)-すでに「近代」が終わった時代に生きるわれわれは「近代」の遺産をどう活用するべきか

書評 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(古田博司、WAC、2014)-フツーの日本人が感じている「実感」を韓国研究40年の著者が明快に裏付ける







■「原文」で言及されている関連事項

書評 『語られざる中国の結末』(宮家邦彦、PHP新書、2013)-実務家出身の論客が考え抜いた悲観論でも希望的観測でもない複眼的な「ものの見方」


■「実学としての歴史学」

書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)-日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著
・・一橋大学の「歴史学」は、明治時代の東京高商時代に「実学」から出発した

JBPress連載第4回目のタイトルは、 「トランプ陣営「2人の将軍」の知られざる共通点-マティス国防長官の座右の書は古代ローマの古典」(2017年7月18日)
・・実務家にとって歴史をたんなる「教養」に終わらせないために必要なこととは?

JBPress連載第5回目のタイトルは、「歴史家」大統領補佐官はトランプを制御できるか-ベトナム戦争の「失敗の本質」を分析したマクマスター氏(2017年8月1日)
・・歴史家としての専門トレーニングを受けて歴史学で博士号(Ph.D)をもつ将軍

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2016年1月21日木曜日

『サル学の現在 上下』(立花隆、文春文庫、1996)は、20年後の現時点で読んでもじつに面白い-「個体識別」によるフィールドワークから始まった日本発の「サル学」の全体像


『サル学の現在』(立花隆、文春文庫、1996)を年明けから読みはじめたのだがじつに面白い。

この本はジャーナリストの立花隆氏が、日本の現役のサル学研究者たちに突っ込んだインタビューを行ったものだ。単行本初版は1991年である。

日本のサル学の生みの親である今西錦司氏から始まり、草創期のサル学を確立した一人である伊谷純一郎氏で終える構成。その間にはさまれた、世代の異なる日本のサル学の研究者たちへのインタビュー。上下二冊の文庫本は、かなりのボリュームがある。

帯には、「サル学とは、人間学である 人間というものに興味がある知的人間であれば、サル学に興味を持たないはずがない(著者まえがきより)」とある。まさに、その通りだと思う。

サルについて考えることはじつに知的好奇心を刺激されるのである。読み始めながらそう思ったし、上下二冊を読み終えたいまも、さらにその想いを強くしている。人間を深く知るには、サル、とくに類人猿の研究は絶対不可欠なのだ、と。

そもそも「サル学」は日本で本格的に始まった学問だ。なぜなら、そこにサルがいるから。ニホンザルという野生のサルが、南は九州から北は下北半島にまで生息するのである。先進国でこれほど野生のサルが生息している国はほかにはない。

そして、今西錦司氏が編み出したのが「個体識別」という方法。サル一匹一匹をそれぞれ異なる個体として識別し、その生態をフィールドで徹底的に観察するという方法である。サルに対する意識の垣根の低さが生んだ日本オリジナルの方法である。それはじつに画期的な観察方法であったのだ。

この成果として一般人にもよく知られているのが、伊谷純一郎氏による『高崎山のサル』であった。わたしもその本は、いまから30数年前に読んでおおいに好奇心をかき立てられたものだ。読後は動物園にいってサル山ばかり見ていたほどである。サルがイモを海水で洗って、塩気のついたイモを食べること集団全体に拡がった話は、日本人ならほぼ誰でも知っているのではないだろうか。

だが、『サル学の現在』をいまになってから読んで、日本のサル学は、1991年時点ですら、もはやその段階ではまったくないことを知ることになった。

さらにいえば、すでに「現在」とは言い難い2016年時点においても、意外なことサル学について基礎的なことを知らないことにも気がつかされる。とくに、チンパンジーの子殺しとカニバリズムの話は、現時点でもかなり衝撃的である。研究者が語る淡々とした描写がよけいそう感じさせるのかもしれない。

現在ではトンデモ発言へのバッシングを含め、毀誉褒貶相半ばする存在となってしまった感のある立花隆氏だが、『サル学の現在』においては、立花氏はあくまでもインタビュアーという立ち位置なので、自説の主張よりも研究者の発言を引き出すことに専念している。

現時点では訂正された仮説も少なくないと思うが、それにかんしては個別の研究分野の成果をあたるしかあるまい。ただし、サル学を専門としない一般読者にとっては、それは荷の重い話である。

おそらく、この本に匹敵する2016年版の『サル学の現在』を製作することは、今西錦司氏などの創始者たちが物故しているいま、もはや叶わぬことであろう。著者もまた、この本の「最新版」をつくる情熱も気力も、さすがにもたないだろう。

断片的なエピーソードなどは、さまざまな科学番組やポピュラー・サイエンスものをつうじて知ることはできるとはいえ、草創期からのサル学のすべてを通観できるような本は他にない。その意味では、日本ではあまり多くない本格的なポピュラーサイエンスものとしての価値は現在でも十分にあるのではないか、と思うのである。

サル学に関心があるから新刊の文庫本として購入してから、なんと20年(!)、積ん読のまま年月があっという間に過ぎていたが、ことし2016年が「サル年」なのでついに読み出すことにした次第。
 




目 次

序章 ヒトとサル 今西錦司
Ⅰ フィールドの発見
 第1章 サル学者の誕生 岡安直比
 第2章 セックスを回避する親和関係 高畑由紀夫
 第3章 ボスザルは存在しない 伊沢紘生
Ⅱ  ヒトにせまる
 第1章 チンパンジーにおける社会構造の発見 西田利貞
 第2章 言葉を覚えたチンパンジー 室伏靖子
 第3章 サルの脳でヒトを知る 久保田競
Ⅲ 知られざる社会生態
 第1章 ハーレムと同性愛・ゴリラ 山極寿一
 第2章 全員参加の乱交パーティー社会・ピグチン 加納隆至
 第3章 孤独な<森の哲人>オランウータン 鈴木晃
Ⅳ なぜ子殺しか
 第1章 子殺しで発情する・ハヌマンラングール 杉山幸丸
 第2章 カニバリズムがうむ集団興奮・チンパンジー 鈴木晃・高畑由紀夫・川中健二
 第3章 群れの解体をうながす子殺し・ゴリラ  山極寿一
Ⅴ ヒトはどこから来たか
 第1章 ヴェールをぬいだ新世界ザル 伊沢紘生・渡辺毅
 第2章 化石で探る人類の起源 江原昭善
 第3章 謎のサンブル・ホミノイド 石田英実
Ⅵ 分子から見た霊長類進化
 第1章 フィールドに出た生化学者 竹中修
 第2章 遺伝距離が明かす系統進化の道筋 野澤謙
 第3章 偽遺伝子は進化の分子時計 尾本恵市
 第4章 DNAがあばいた父子関係 井上美穂
終章 サルからヒトへの社会進化 伊谷純一郎
参考文献
図版出典
写真クレジット
用語解説索引


著者プロフィール   

立花 隆(たちばな・たかし)
1940年長崎県生まれ。64年東京大学仏文科卒業。同年、文藝春秋入社。66年退社し、67年に東大哲学科に学士入学。在学中から評論活動に入る。徹底した取材と卓抜した分析力による文筆活動で菊池寛賞、司馬遼太郎賞を受賞。




<ブログ内関連記事>

梅棹忠夫の幻の名著 『日本探検』(1960年)が、単行本未収録の作品も含めて 2014年9月 ついに文庫化!
・・「高崎山のサル」についての章がある。「サル学は日本独自の「土着科学」である。それは研究対象となるニホンザルが日本国内というフィールドに存在するだけでなく、日本人の自然観が無意識のうちに大いに反映した科学だからでもある。日本文明におけるサルの位置づけは、キリスト教世界とは異なり、親近感に満ちたものである。人間のつぎにサルがあるという自然序列観は日本人には不思議でもなんでもない。「河童駒引」や柳田國男の『孤猿随筆』などへの言及もあるが、サル学はナチュラル・ヒストリーの復権という意味合いもあることを梅棹忠夫は記している。」

書評 『渋沢家三代』(佐野眞一、文春新書、1998)-始まりから完成までの「日本近代化」の歴史を渋沢栄一に始まる三代で描く
・・「渋沢敬三が私費を投じたパトロネージのおかげで、民俗学者や人類学だけでなく自然科学から社会科学にいたるまで、かならずしも「実学」ではないが、日本にとって重要な学問が保護育成されたのである。」  日本のサル学もまた、渋沢敬三が申年生まれということもあって、その育成には物心両面の支援を行った


■野生動物の観察

猛暑の夏の自然観察 (2) ノラネコの生態 (2010年8月の記録)
・・ノラネコは一匹一匹がかなり異なるので「個体識別」はサルよりも容易であろう

猛暑の夏の自然観察 (3) 身近な生物を観察する動物行動学-ユクスキュルの「環世界」(Umwelt)


■人間を考えるために

書評 『ロボットとは何か-人の心を写す鏡-』(石黒浩、講談社現代新書、2009)-「人間とは何か」、「自分とは何か」というロボット工学者の哲学的な問い

書評 『2045年問題-コンピュータが人間を超える日-』(松田卓也、廣済堂新書、2013)-「特異点」を超えるとコンピュータの行く末を人間が予測できなくなる?

書評 『動物に魂はあるのか-生命を見つめる哲学-』(金森修、中公新書、2012)-日本人にとっては自明なこの命題は、西欧人にとってはかならずしもそうではない

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2014年11月30日日曜日

書評『裁判官と歴史家』(カルロ・ギンズブルク、上村忠男・堤康徳訳、ちくま学芸文庫、2012)ー 初期近代の「異端審問」の元資料を読み込んできた歴史家よる比較論



歴史家と裁判官は、資料をもとに事実関係を明らかにする職業であるという点では共通するものがある。
  
裁判官は公平無私との原則があるので、特定の立場から自分たちに有利に事を進める検察官や弁護士とは違う、とはよくいわれることだ。だが、じっさいには裁判官の公平無私という立場はタテマエの場合は少なくない。神ならぬ人間である以上、バイアスがかかるのは当然だし、100%公正な判断など下せるわけがない。

歴史家も公平無私という立場で事実に向かい合い、史実にかんするジャッジを行っているとみなされがちだ。この点において裁判官(=ジャッジ)と同じだと思われている。だが、裁判官と同様、じつはかならずしもそうではないことが多い。生きている時代やその本人の思想傾向によるバイアスが生じるのは当然といえば当然だ。

裁判官と歴史家には共通点もあるが、根本的な違いがある。

事実関係を明らかにして解釈し下し判断を示すことは共通していても、歴史家は判断材料を提供することはできるが、他者の人生を左右する意志決定まで踏み込むことはない。あくまでも間接的な仕方で影響を与えるのみだ。

一方、裁判官が下した結論は判決という形で、被告人という他者の人生に多大なる影響を与える。裁判官と歴史家の違いは、影響力が直接的か間接的かという違いであるが、裁判官の権力の根源は、司法制度という制度の枠組みのなかで担保されている。

そう考えていくと、裁判官は検察官や弁護士とそう大きくかけ離れた存在ではないし、歴史家もまた裁判官と対比されるだけでなく、検察官や弁護士と対比して考えることも不可能ではない。


■初期近代の「異端審問」の元史料を読み込んできた歴史家よる比較論

これくらいの対比であれば、なにも 『裁判官と歴史家』(Il giudice e lo storico)なるタイトルの本を読むまでもないだろう。

だが、本書を読む意味があるのは、歴史家の親友が巻き込まれた20世紀後半の裁判事件を徹底的に検証する作業をつうじて、裁判官と歴史家の共通点と相違点を考察している点にある。

しかも、著者のカルロ・ギンズブルクは、ミクロストーリア(=マイクロヒストリー)という歴史学方法論を開拓し、魅力的な歴史書を発表してきた現代イタリアを代表する歴史家だ。わたしも異端審問記録を徹底的に読み込んだ成果である、『チーズとうじ虫-16世紀の一粉挽屋の世界像-』や『ベナンダンティ-16~17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼-』など、初期近代のヨーロッパを生き生きと描いた作品には魅了されてきた。

親友が被告となった裁判記録を解読した感想として、歴史家としての出発時点から読み込んできた17世紀から18世紀という初期近代の異端審問記録との類似性に言及しているのは、その意味では当然といえば当然なのである。

裁判をつうじて歴史が形成される、あるいは歴史が捏造されていくプロセスを、20世紀後半の裁判記録に読み取っているのである。


(イタリア語2006年新版カバー 著者の親友アドリアーノ・ソフリ)


■イタリア現代史というコンテクスト

裁判が扱っているイタリア現代史は、ドイツや日本と共通する点が多い。1960年代から1970年代にかけて激しい政治対立がテロリズムにまで発展した、いわゆる急進派の新左翼による極左テロである。

歴史家の親友は新左翼の活動家であったが、その後は足を洗っていた。だが、事件から16年後に突然出現した「告発者」の「自白」によって、警視殺害事件の黒幕とされ、裁判に巻き込まれることになる。

本書執筆のそもそもの動機の第一は、親友の無実を晴らしたいという歴史家の「個人的動機」である。

日本人読者にとっては縁のない話であるし、よほどイタリア好きか、イタリア現代史に深い関心をもっている人でなければ、極左組織「赤い旅団」による1978年のモロ元首相誘拐暗殺事件に代表される極左テロ事件の詳細については、それほどつよい関心はないだろう。わたしも、もちろん同様だ。そもそも、わたしは左翼にも新左翼にもなんの共感も感じない。

イタリアの司法制度や、警察と憲兵(=カラビニエーレ)の違いなど、日本の制度とは大きく異なる点も多いので、ディテールを理解するのはやっかいだ。イタリアの政治は複雑怪奇で・・・ その点は日本でも京都など伝統ある地域と似たようなものだ。

そもそも日本の現実でさえ理解するのがむずかしいのに、ましてやイタリアの状況を正確に理解することなど専門家でもなければ困難であるし、また関心もないだろう。

歴史家の親友が「冤罪」なのかどうかも、わたしには判断しかねるし、それほど関心があるわけではない。



■「歴史学方法論」の考察として読む

歴史家の個人的な動機が個人的なものであったとしても、この動機が本書誕生のキッカケとなっただけでなく、この事件の解読をつうじて著者自身の歴史学方法論にかかわる考察が展開されているので読む価値があるのだ。

その意味では、「2. 裁判官と歴史家」、「6. 歴史的実験としての裁判」、「18. ふたたび裁判官と歴史家について」という3つの章が面白い。わたしが面白いと思った点をいくつか紹介しておこう。

まずは、「2. 裁判官と歴史家」では、古代ギリシアに出現した歴史(=ヒストリア)というジャンルは、「医学」と「法学」(・・とくに法定陳述としての「弁論術」)が交叉する地点で構成されるという指摘が興味深い。歴史の陳述においては、人物を生き生きと表象する能力が求められていたのであり、歴史学と証拠物件を扱う古物研究とは18世紀後半まで、それぞれ相互に独立していたのだという。

「6. 歴史的実験としての裁判」では、資料に語らせるためには、明確な見取り図と作業仮説が必要だという歴史家リュシアン・フェーヴルの文章を引用しながら、司法関係者と同様、歴史家においても「適切な質問を提出して訊問する能力」が必要なことが指摘される。

「18. ふたたび裁判官と歴史家について」においては、そもそも「歴史」と「人物伝」は古代ギリシア以来、異なるジャンルとして発展してきたことを指摘し、世界史と一体化した英雄を扱った「政治史」から、「事件史」を経て、隠蔽されてしまった次元を示唆するために開発された歴史学の技法としての「社会史」に至る推移について語っている。

社会史においては、欠落した事実を推測するためのコンテクストが重要である。アイリーン・パウアーとナタリー・デイヴィスという、世代の異なる英米の女性歴史家の詳細な対比が具体的で興味深い。前者は、英国中世史を題材にした『中世に生きる人々』、後者はフランス近世史を題材にした『帰ってきたマルタン・ゲール-16世紀フランスのにせ亭主騒動』が代表作である。



■裁判官が歴史家となることの危険性

歴史家が裁判官になる時代は終わっていると著者はいう。それは倫理的な意味でそうあるべきという主張のようにも聞こえるが、歴史家の役割が変化したことが背景にあるのだろう。つまり歴史家の社会的役割が大幅に減少したということだ。

むしろ、裁判官が歴史家となる危険のほうが大きいかもしれない。裁判の判決をつうじて実質的に歴史が形成されるからだ。あるいは冤罪判決がひっくり返らないまま、歴史が捏造されるといっても差し支えないケースも少なくない。最高裁までいって判決が下されると、もはや司法制度の枠組みのなかでの「歴史書き換え」は困難になる。

17世紀の異端審問と同様、後世の歴史家があらたなコンテクストのもので、史料の「読み換え」をつうじてはじめて可能となることだ。いや、じっさいにはそのような「読み換え」すら起こらないことのほうが圧倒的に多いというべきか。

「歴史家は理解、裁判官は判決」を行うという著者の指摘は、まさにそのとおりだ。現実世界においての歴史家のチカラには限界がある。人々のパーセプションを変えるのは、きわめて困難な課題なのである。

本書が提起しているテーマに「告発者の自白」というものがある。

複数の証言をもとに事実関係を明らかにすることよりも、自白の内容を重視する傾向は、著者が批判している親友の裁判だけでなく、17世紀の異端審問にも見られるものだ。魔女のサバト、空中飛行を見たという告発や証言、魔女とされた人の自白。

自白と証言は似て非なるものだが、日本の裁判制度では、自白が過度に強調されている。いわゆる「被疑者泥を吐かせ」てえられた自白を重視する傾向である。

現代のイタリアにおいても、自白に見られる心理的動機が重視される傾向がなくもないことを著者は指摘しているが、自白と証言の関係については考えなくてはならない問題が多い。

著者は、古代ギリシアにおいて歴史が医学と法学の交叉する点に出現したと指摘しているが、医学と法学のまさに核心にある因果関係の議論には深く突っ込んでいない。

この点をさらに深掘りすると、さらに面白い議論になるのではないかと個人的に考えている。


 
(画像をクリック!)

 

目 次

新版へのまえがき
序文
 1. 窓から舞い落ちた死体-十六年後の告発
 2. 裁判官と歴史家
 3. 予審判事ロンバルディの報告
 4. 裁判長ミナーレの追及
 5. 殺害指示
 6. 歴史学的実験としての裁判
 7. 謎の十七日間
 8. 憲兵たちの証言
 9. 闇に包まれた夜の面談
 10. ヴィンチェンツィ司祭の証言
 11. いつ始まったのか
 12. 記録からもれた面談
 13. マリーノの動揺
 14. 陰謀はあったのか
 15. 目撃証言
 16. 第三の説明
 17. ミナーレ裁判長と異端審問官
 18. ふたたび裁判官と歴史家について
 19. 結論
後記
新版へのあとがき
年譜
訳者あとがき
ちくま文芸文庫版への訳者あとがき
原注


著者プロフィール

カルロ・ギンズブルグ(Carlo Ginzburug)
1939年生まれ。イタリアの歴史家。ミクロストーリア(=マイクロヒストリー)の創始者。ボローニャ大学教授、カリフォルニア大学ロスアンジェルス校教授、ピサ高等師範学校教授などを歴任。著書に『チーズとうじ虫-16世紀の一粉挽屋の世界像』『歴史を逆なでに読む『糸と痕跡』など。(出版社サイトより)




<ブログ内関連記事>

■左派による世界的な「革命幻想」の時代

マンガ 『レッド 1969~1972』(山本直樹、講談社、2007~2014年現在継続中)で読む、挫折期の「運動体組織」における「個と組織」のコンフリクト

映画 『バーダー・マインホフ-理想の果てに-』を見て考えたこと
・・ドイツ赤軍を描いたドイツ映画

「航空科学博物館」(成田空港)にいってきた(2013年12月)-三里塚という名の土地に刻まれた歴史を知る
・・成田空港闘争の史実や反対派のヘルメットなどを展示した資料館「成田空港 空と大地の歴史館」についても紹介しておいた

書評 『革新幻想の戦後史』(竹内洋、中央公論新社、2011)-教育社会学者が「自分史」として語る「革新幻想」時代の「戦後日本」論


■イタリア現代史

書評 『プリーモ・レーヴィ-アウシュヴィッツを考えぬいた作家-』(竹山博英、言叢社、2011)-トリーノに生まれ育ち、そこで死んだユダヤ系作家の生涯を日本語訳者がたどった評伝
・・ギンズブルクと同じくイタリア北部トリーノに生まれ育ったユダヤ人であるプリーモ・レーヴィは、ギンズブルクの20歳年長

書評 『バチカン株式会社-金融市場を動かす神の汚れた手-』(ジャンルイージ・ヌッツィ、竹下・ルッジェリ アンナ監訳、花本知子/鈴木真由美訳、柏書房、2010)
・・イタリア政治経済の複雑怪奇さが集約的にあらわれているのがバチカン銀行

(書評再録) 『ムッソリーニ-一イタリア人の物語-』(ロマノ・ヴルピッタ、中公叢書、2000)-いまだに「見えていないイタリア」がある!

書評 『想いの軌跡 1975-2012』(塩野七生、新潮社、2012)-塩野七生ファンなら必読の単行本未収録エッセイ集


■あたらしい歴史学としての「社会史」

書評 『向う岸からの世界史-一つの四八年革命史論-』(良知力、ちくま学芸文庫、1993 単行本初版 1978)-「社会史」研究における記念碑的名著


■証言と自白の違い

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点
・・「証人が、その事態について、感情の上で同意か不同意かを、日本語は見事に表現してしまう。そうしないためには、日本語ならざる日本語、つまり官庁式答弁をするほかはない。他方、現実のその事態がどんなものかについては、ややいい加減で済む。だから、われわれは伝統的に自白を重視する。これは言語の特性だから、しかたがない。日本語は、使用者の心理状態と、ことばとの間の関節が固いのである」  告発者の「自白」と心理的動機の関係について考察するヒントになる


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