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2024年7月18日木曜日

書評『広東語の世界 ― 香港、華南が育んだグローバル中国語』(飯田真紀、中公新書、2024)― 広東語は「中国語方言」ではなく「もう一つの標準中国語」だ!

 
 
 『広東語の世界 ― 香港、華南が育んだグローバル中国語』(飯田真紀、中公新書、2024)という本を読んだ。先月出版されたばかりの新刊書である。  

「広東語」は「カントンご」と読む。香港を中心に広東省(カントンしょう)でつかわれてきた言語だ。そして、いまなお旺盛に使用されている。 

しかも広東語は、香港を中心とした広東省だけでなく、「華僑」という形で、海外移民とともに東南アジアや北米大陸にも拡がっている。世界全体で8,000万人の話者がいうという大言語でもある。 

日本では一般的に「中国語の方言」という扱いを受けてきた広東語だが、「もう一つの標準中国語」と考えた方が実態に近い。それが、中国語学を専門とする著者の最終的な認識である。 

漢字音の読みが「普通話」(プートンホワ)と呼ばれる「北京語」(マンダリン)とはまったく異なることから、それはわかる。広東語は耳で聴いただけでは、どういう漢字に該当するのか見当がつかないからだ。

1997年に香港が「返還」されてから、すでに四半世紀がたっている。にもかかわらず、依然として広東語が普通話にとって代わられることがないという。 

なぜいまだに広東語は、香港でしぶとく生き続けているのか? その秘密が中国語学の立場から、さらに社会言語学的なアプローチで明らかにされる。そのカギは、広東語の「言文不一致」と、いまなお公用語である英語の存在にある。くわしくは本文を見ていただきたい。 

巨大な中国は、けっして単一の存在ではない。「南船北馬」という漢字熟語があるように、長江を境にして南北の違いがきわめて大きいことは、かつてから指摘されてきた。だが、言語という側面にそくして考えてみると、さらに複雑な様相が見えてくる。 

それはまた、コミュニケーションツールとしての「漢字」について考えることにもつながっていくのである。漢字は表音文字であるとともに表意文字である。書き言葉としての漢字文章は、広く中国語圏で共有されている。 ざっとした意味をとるだけなら、日本語人にも可能だ。


(香港POPSとして広東語でカバーされた日本の楽曲集のCD ブログ筆者コレクション)


「返還」後の現在の香港に関心のある人1970年代から90年代にかけての黄金時代の「香港映画」や「香港POPS」にはまったことのある人(・・かく言うわたしも、お気に入りの香港POPSを YouTube で流しながら読んでいた)。






そのほか、複数の中国語が移民社会ととともに存在する東南アジアで暮らしたことのある人、そしてニューヨークやサンフランシスコなど、米国の有名なチャイナタウンを知っている人なら、じつに興味深く読めると思う。 

とはいえ、いまから本格的に広東語を勉強しようとは、さすがに思わないな。かつてチャレンジしたことがあったが断念したまま現在に至るのは、声調が6つもあるのでハードルが高すぎるからだ。声調が4つの普通話よりも多いのだ。

広東語やベトナム語のように声調の多い言語は、若いときから耳を慣らしておかないと習得はむずかしい。


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目 次
まえがき 
序章 広東語はどこで話されているか 
第1章 広東語はどのような言葉か 
第2章 話し言葉―香港の標準語 
第3章 書き言葉―言文不一致な中国語 
第4章 英語、北京語との共存、競争 
第5章 その他の中国語方言 
終章 広東語から問い直す「中国語」「方言」 
あとがき 
主要参考文献

著者プロフィール
飯田真紀(いいだ・まき)
1998年東京外国語大学大学院地域文化研究科修士課程修了、2005年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。香港中文大学中国文化研究所客員研究助手、北海道大学メディア・コミュニケーション研究院准教授を経て、東京都立大学人文社会学部教授。専門は中国語学・広東語文法。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<関連サイト>

⇒ 広東語の短いフレーズの発音つき


<ブログ内関連記事>

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・・中国南部からの大反乱。首謀者の洪秀全は広東出身だが広東語ではなく、客家語を母語としていた


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2023年12月27日水曜日

書評『言語の本質 ― ことばはどう生まれ、進化したか』(今井むつみ/秋田喜美、中公新書、2023)― 「言語の本質」にかんする知的刺激に満ちた探求が「オノマトペの幸(さきわ)う日本語世界」からでてきたことを言祝(ことほ)ぎたい

 


認知科学と発達心理学、心理言語学を専門とする2人の研究者による実験と観察、そして両者の対話の成果である。じつに面白い。知的刺激を受けることは間違いない。

日本語を母語にする話者にとって、豊富にあってごくごく親しいオノマトペ(擬音語で擬態語)から始まった疑問が、最終的に「言語の本質」とはなにかを探求する道へとつながっていく。

そして進化のプロセスのなかで分岐した、ヒトとチンパンジーをわけるもの、さらにヒトが生み出した AI とヒトとの違いも考察に入ってくる。

「言語」こそ、ヒトとその他の動物をわけるものであり、「言語の本質」にこそ、AIとの違いがある。


(通常のカバーのうえに、さらに特別カバー。包み紙好きなのは日本的?)


オノマトペとは、「もっちり」感があるとか、「もふもふ」としているとか、感覚を表現するのに最適なことばだ。日本語にはきわめて多いが(とはいっても語彙全体の 1% だという)、その他の言語にもなんらかの形で存在する。

副題にあるように、「ことばはどう生まれ、進化したか」の旅路の最初に、赤ちゃんがつかうオノマトペがある。

人間としての成長と発達のプロセスのなかで、いかにことばを覚えて、それをつかえるようになっていくか、その学習のプロセスに「言語の本質」があると著者たちはみている。




この本は、結果ありきという本ではない。結論に至るまでのプロセスを楽しむべき本だ。読んでいるとじつに面白いが、一気読みをさせないという力も働く。内容を充分に咀嚼したうえで、つぎのプロセスに進んでいくことが、暗黙のうちに求められるからだ。

「言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に「学習の仕方」自体も学習し、洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである」(P.204)というフレーズが、太字ゴチックで記されている。「ブートストラッピング・サイクル」である。




オノマトペから始まった探求は、赤ちゃんの「言語習得」のステージに入っていくと、がぜん面白さが増していく。赤ちゃんは、上記のような「言語習得」のプロセスを無意識のうちに実行しているのである。

まずは、身体性によって習得したオノマトペから始まるのである。直観的に理解できるからだ。オノマトペから始まった言語習得は、発達とともに複雑化し、具体的な事物から離れた抽象概念を理解して、つかうことができるようになっていく。

そこで行われる「推論」は、まずは「統計的推論」であり、「アブダクション」(=仮説推論)と「帰納法」(=インダクション in-duction)も駆使している。驚きではないか! 赤ちゃんは、いずれも無意識のうちに実行しているのだ。

アブダクション(=仮説推論)とは、結果から「たぶんこうだろう」と推測する推論方法のことだ。いわゆる「●●だと、あたりをつける」という推論方法のことである。否定的に語られがちな「当て推量」もその1つである。

アブダクション(ab-duction)は英語の一般語としては「誘拐」を意味するが、ここでは専門用語として使用されている。19世紀米国の哲学者パースがはじめて提唱した概念だ。なじみがないカタカナ語かもしれないが、アブダクションは、日常的に行われているものだ。

ただし、アブダクションによる推論はあくまでも「仮説」であって、仮説であるという認識をもつことと、それがただしいかどうかは検証しなくてはならない。学者や研究者でなくても、それはおなじである。赤ちゃんや子どもですら日常的に行っているのだから。

仮説検証という作業を怠るのは、子どもではなく大人である。思い込みが固定観念を生み出すことが増えている。AI時代に必要なことは「仮説検証能力」であろう。「ちょっと違うのではないか」という疑問をもち、一呼吸おくことが大事なのだ。

AIの能力はさらに進化していくが、生身の肉体をもった人間の身体性がゼロになるわけではない。「記号接地問題」こそ重要なのである。AIはデータがなければなにもできない。ゼロからものを生み出すことはできないのだ。それができるのは身体性をもった人間だけである。

あくまでも身体性から生まれることばが、身体をもった人間に使用され、データ蓄積がAIによってあらたな組み合わせが生成され、その生成物を人間が使用し、ふたたびデータとして取り込まれる。

身体性をもった人間とAIとの「双方向性の相互作用」とその循環プロセス」がつづいていくのではないだろうかと、わたしは考えている。楽観的に過ぎるかもしれないが、技術と人間の関係というものは、有史以来おなじパタンを繰り返してきた。

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言語をもち、言語を習得できること
が、ヒトとヒトにもっとも近い類人猿であるチンパンジーをわけている。こういった進化人類学の観点から研究も、今後は大いに期待したいところだ。

もちろん、進化という観点からみたら、チンパンジーと AI にはさまれているのがヒトである。ヒトじたいもAIの進化に応じて変化していく可能性は高い。

言語を軸にした本質にかかわる考察は、人間の根本にかかわる問題である。そんな探求が、「オノマトペの幸(さきわ)う日本語世界」からでてきたことを言祝(ことほ)ぐべきだろう。

『言語の本質 ー ことばはどう生まれ、進化したか』のような、オリジナルな研究をもとにした、新書本にしてはきわめて内容の濃い本がベストセラーになるという現在の日本。すばらしいことではないか!



目 次 
はじめに
第1章 オノマトペとは何か
第2章 アイコン性―形式と意味の類似性
第3章 オノマトペは言語か
第4章 子どもの言語習得1 ー オノマトペ篇
第5章 言語の進化
第6章 子どもの言語習得2 ー アブダクション推論篇
第7章 ヒトと動物を分かつもの ー 推論と思考バイアス
終章 言語の本質 
あとがき
参考文献

共著者プロフィール
今井むつみ(いまい・むつみ)
1989年慶應義塾大学大学院博士課程単位取得退学。1994年ノースウェスタン大学心理学部Ph.D取得。慶應義塾大学環境情報学部教授。専門は認知科学、言語心理学、発達心理学。
著書に『英語独習法』(岩波新書)、『学びとは何か』(岩波新書)、『算数文章題が解けない子どもたち ― ことば、思考の力と学力不振』(岩波書店、共著)、『ことばと思考』(岩波新書)、『ことばの発達の謎を解く』(ちくまプリマー新書)、『親子で育てることば力と思考力』(筑摩書房)、『言葉をおぼえるしくみ ― 母語から外国語まで』(ちくま学芸文庫、共著)など多数。

秋田喜美(あきた・きよみ)
2009年神戸大学大学院文化学研究科修了。博士(学術)取得。大阪大学大学院言語文化研究科講師を経て、名古屋大学大学院人文学研究科准教授。専門は認知・心理言語学。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


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・・「ひんひん」もオノマトペ。現代なら「ひひ~ん」ではあるが


・・チンパンジーの生態について




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2018年12月29日土曜日

書評『全国マン・チン分布考』 (松本修、集英社インターナショナル新書、2018)-日本語とそれを担ってきた日本人への深い愛が伝わってくる総決算の書



『全国マン・チン分布考』(松本修、集英社インターナショナル新書、2018)を読んだ。新書の新刊だ。この本はじつにすばらしい! 著者会心の一作であろう。読者もまた、ある種の暖かい感動を覚えるに違いない。(*この文章を書いたのは10月だが、多忙のためブログへのアップが大幅に遅れた)。

扱っているテーマは、タイトル通りだ。日本語の女性器と男性器の名称が、日本全国でどのように分布しているかを徹底調査し、言語地理学の「方言周圏説」にもとづいた分析を加えることで、そのほぼすべてが、かつては文化の発信源であった京都から生まれた新語であったことを人文科学として立証したものだ。日本の言語学者や民俗学者が避けて通ってきたテーマに、あえて正面から向き合った自信作であり、画期的な内容である。

著者は、「探偵ナイトスクープ」の元プロデューサーで、ベストセラー『全国アホ・バカ分布考』(新潮文庫、1996)の著者でもある。ずいぶん昔に文庫化された際に読んだが、それはもう、かなり分厚いがじつに面白い本だった。今回の本は、その著者による総決算ともいえるような内容だ。おそらく、著者にしても、もうこれ以上の作品を書くことはできないのではないだろうか。

いっけんキワモノめいたタイトルだが、全編にあふれているのは、日本語とそれを担ってきた日本人への深い愛。日本人なら誰でもわかるはずの「愛(いと)おしい」という感情が、直接的に間接的に伝わってくる。 

ああ、この本はほんとに読んでよかった。そういう気持ちになる本はめったにない。みなさんにも、ぜひおすすめしたい。


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目 次 
第1章 東京での「おまん」の衝撃 
第2章 「虎屋」の饅頭へのあこがれ 
第3章 「チャンベ」「オメコ」らの愛すべき素性 
第4章 女性の心に生きる「オソソ」 
第5章 琉球に旅した『古事記』の言葉
第6章 「チンポ」にたどり着くまで 
第7章 「マラ」と南方熊楠 
第8章 女陰語の将来 
第9章 今までの「おまんこ」研究 
第10章「まん」を生きる人生





著者プロフィール 
松本修(まつもと・おさむ) 
TVプロデューサー。1949年、滋賀県生まれ。京都大学法学部卒業後、朝日放送入社。『ラブアタック!』(75年)、『探偵!ナイトスクープ』(88年)など数々のヒットテレビ番組を企画・演出・制作。大阪芸術大学で教授を、関西大学・甲南大学・京都精華大学などで講師を務めた。 著書に『全国アホ・バカ分布考』『どんくさいおかんがキレるみたいな。』(共に新潮文庫)、『探偵!ナイトスクープ アホの遺伝子』(ポプラ文庫)ほか。


<ブログ内関連記事>

書評 『お馬ひんひん-語源を探る愉しみ-』(亀井孝、小出昌洋=編、朝日選書、1998)-日本語の単語を音韻をもとに歴史的にさかのぼる

書評 『漢字が日本語をほろぼす』(田中克彦、角川SSC新書、2011)-異端の社会言語学者・田中克彦の「最初で最後の日本語論」

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (1) -くもん選書からでた「日本語論三部作」(1987~88)は、『知的生産の技術』(1969)第7章とあわせて読んでみよう!

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (2) - 『日本語の将来-ローマ字表記で国際化を-』(NHKブックス、2004)

3つの言語で偶然に一致する単語を発見した、という話

書評 『ことばの哲学 関口存男のこと』(池内紀、青土社、2010)-言語哲学の迷路に踏み込んでしまったドイツ語文法学者

書評 『漢文法基礎-本当にわかる漢文入門-』(二畳庵主人(=加地伸行)、講談社学術文庫、2010)



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2014年1月12日日曜日

書評『お馬ひんひん ― 語源を探る愉しみ』(亀井孝、小出昌洋=編、朝日選書、1998)― 日本語の単語を音韻をもとに歴史的にさかのぼる



出版直後に購入したまま読んでいなかった本を「馬」年関連なので読んでみる。これはその一冊である。

いまから16年前の1998年に出版されたこの本を買ったのは、社会言語学者でモンゴル学者の田中克彦氏の本によく出てくるのが、その先生である亀井孝(かめい たかし)氏だからだ。

わたしが大学に入った頃は亀井氏はすでに退官して久しかったので残念ながら謦咳に接したことはない。『お馬ひんひん』の朝日選書版も著者の死後4年目に出版されたものだ。

亀井孝(1912~1995)は、「かめい たかし」と名前をひらかなで書くことも多い。一センテンスが長く、ちょっとまわりくどい独特の文体である。とはいえ、小説家の谷崎潤一郎の文体もそうだが、見かけのとっつきにくさとは異なり、じっさいに読んでみると、長いセンテンスであるのにかかわらず、切れ味の鋭いきわめてロジカルな文章である。

本書は、日本語の単語の語源を専門の言語学の観点から追求した論考が編集されて一冊になったものだが、収録されている「かァごめかごめ」(1971年)という論文は内容もさることながら文体に特徴がある。ひらかなの多い、しかも分かち書きの文章は、日本語が漢字を廃止してかな文字化したりローマ字化したらこういう文章になるという見本と考えてもいいだろう。


語源を日本語の「音」からさぐる随筆的論考の数々

書籍タイトルになっている「お馬ひんひん」(1960年)だが、馬のいななきを「ひんひん」と表記するようになったのはいつからかを、日本語の音韻から歴史的にさぐった論考。

馬のいななきの「ひんひん」も「ピンピン」だったと考えると、いななきの音声をそのまま写したのではなく、馬が立ち上がりながらいななく姿に「ピンピン」の語感が反映していると捉えるべきだという主張には説得力がある。

「古代人のわらいごえ」(1960年)によれば、「は」はもともと「パッ」というはじける音だから爆笑を意味する表記。現在風にいえば(爆)と表記されるところだろう。かならずしも「は」という音声を示しているのではない。

「春鶯囀」(1959年)「誰か鴉の声を弁ぜん」(1946年)もまた、日本語の「ハ行」の音についての論考であもある。日本語の「h音」がかつては「p音」で発音されていたことは常識としておきたいものだ。

鳥のさえずりピーチクやおしゃべりのペチャクチャもそうだ。鳥が「ピーチク」というのはお馬が「ひんひん」と同じで鳥の鳴き声そのものではない。ピーチクとペチャクチャに共通するのは「*p-t-k」音。ウグイスの「いす」も「ひす」であり、かつては「ピス」であったことを考えてみるべきだ、と。

このほか、「かァごめかごめ」(1969年)は、「かごめ」は「囲む」の異形「かごむ」の命令形「かごめ」だが、なぜ濁音 なのか? このテーマは、「懴悔考・女郎考」、「女郎考補記」、「女郎考追記」(いずれも1959年)にも共通するが、高い身分であった「上臈」が「女郎」に変化する社会言語学的なコトバと社会の関係の考察が面白い。女郎とお嬢さんが関係語だとは現代人は考えもしないだろう。日本語は漢字にとらわれず音韻で考えることが必要なのだ。

「「さざれ」「いさご」「おひ(い)し」-石に関することばのうちから」(1962年)は、古代日本人の生命観が反映した「いし」というコトバにかんする論考。『古今集』の歌をベースにした「君が代」の歌詞にでてくる「さざれいし」の意味もこれであきらかになる。『天皇制の言語学的考察』(1974年)をもともとドイツ語で執筆した人であることも想起しておきたい。

言語学と民俗学の接点に近いものといえようか。折口信夫は直観的な発想をそのまま断定的に書いているが、亀井孝の場合はあくまでも言語学にもとづいたロジカルな推論を記している。


亀井孝の「国語学」と「言語学」

亀井孝の基本的な姿勢は以下の三つのフレーズに集約されていると思う。

「おとこそ たましい である」(P.79 「かァごめかごめ」)
「文字は所詮ことばの幻影でしかない」(P.147 「女郎考追記」)
「意味の研究はすぐれて民俗の研究であるといいうるのである」(P.211 「虹二題」)

コトバを音韻を基本にして歴史的にさかのぼって考える姿勢だ。国学者の学問の基本は言語研究(フィロロギー)にあるのだが、亀井孝氏はそういう国学者の言語研究を近代言語学の方法論によって行った人だといえるような気もする。

亀井孝の師匠の一人は、音韻にもとづく厳密な研究を行った国語学者の橋本進吉岩波文庫に『古代国語の音韻に就いて(他二篇)』が収録されている。国語学者・大野晋の師でもある。もう一人の師は国文学者の倉野憲司。おなじく岩波文庫で、『古事記』(1963)を校注している。

そして忘れてはいけないのが近代言語学の父であるソシュールである。亀井氏はソスュールとフランス語の原音に近い表記をしているが、ソシュールのシニフィアンとシニフィエ、通時的と共時的という概念を知っていると本書に収録されている論考をさらに面白く読めることだろう。

書籍紹介には、「戦後半世紀の国語学界の歯に衣きせぬ論客であり、「超俗の風流人」と幸田露伴に言わしめた、学問真実以外の何者をも恐れなかった「畸人」一橋大学名誉教授・亀井孝の学風と人生を追う」、とある。

亀井孝の肩書は「国語学者」であるが、古典ギリシア語やラテン語にも精通しており「言語学者」としての素養を根底にもつ人でもあった。室町時代後期から戦国時代にかけての日本語の貴重な宝庫である『日葡辞書』はイエズス会の宣教師が日本布教のために作成されたものだが、その読解にはラテン語が不可欠である。「"月のごとくにいつくしき"-古版のまりあの像の、その賛について」(1963年)はその好例をみることができる。

その人となりと業績については、『圏外の精神-ユマニスト亀井孝の物語-』(小島幸枝、武蔵野書院、1999)という本がじつに面白い。「圏外」というのは「圏内」でも、「境界上」の人でない。生前も死後も権威主義の象徴である叙勲をいっさい拒否した人の、学会もその一つである「世間」との距離の取り方は独特なものであった。

亀井孝は一般にはそれほど知名度が高くないようだが、本書を文庫本として復刊することで、さらなる再評価の機会をつくるべきではないかと思う。


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目 次

古代人のわらいごえ
死に関する日本語について
春鶯囀誰か鴉の声を弁ぜん
お馬ひんひん
かァごめかごめ
「さざれ」「いさご」「おひ(い)し」-石に関することばのうちから
懴悔考・女郎考
女郎考補記
女郎考追記
長夜十眠-歳旦にちなみて
"月のごとくにいつくしき"-古版のまりあの像の、その賛について
鐘楼蝙蝠録
虹二題
調
編集の後に(小出昌洋)


著者プロフィール  

亀井孝(かめい・たかし)
1912年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。一橋大学、成城大学教授を経て、東洋文庫研究員。「国語学よ、死して生れよ」をテーゼとする。主要著書に「亀井孝論文集」。1995年没。(hontoの著者紹介文より)。


PS ドイツ語で発表された幻の論文「天皇制の言語学的考察」(亀井孝)

『言語学の戦後-田中克彦が語る〈1〉』(田中克彦、聞き手:安田敏朗/土屋礼子、三元社、2008)には、「天皇制の言語学的考察―ベルリン自由大学における講義ノートより」(亀井孝)が寺杣正夫(=田中克彦)による抄訳によって収録されている。




<ブログ内関連記事>

書評 『漢字が日本語をほろぼす』(田中克彦、角川SSC新書、2011)-異端の社会言語学者・田中克彦の「最初で最後の日本語論」
・・一橋大学における言語学の弟子である田中克彦

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (1) -くもん選書からでた「日本語論三部作」(1987~88)は、『知的生産の技術』(1969)第7章とあわせて読んでみよう!
・・国語学者にはない観点から日本語、とくに表記法について考察

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (2) - 『日本語の将来-ローマ字表記で国際化を-』(NHKブックス、2004)
・・日本語をローマ字で表記し、分かち書きする

「泥酔文化圏」日本!-ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』で知る、昔から変わらぬ日本人
・・「懴悔考・女郎考」(亀井孝)においてコリャードの『懺悔録』に言及されている。ただし内容ではなく国語学の資料として

古事記と勾玉(まがたま)


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