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2010年1月31日日曜日

アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)


    
 私は、キリスト教徒でも、カトリックでもありませんが、アッシジのフランチェスコのような生き方は、決して真似ることはできないものの、たいへん素晴らしいものだと思ってきました。
 そんな私の感想、映画や本を中心に5回にわたってつづってみました。
 リリアーナ・カヴァーニ監督による『フランチェスコ(ノーカット・イタリア語版)』(主演:ミッキー・ローク、ヘレナ・ボナム=カーター)の日本版が、ようやく2010年1月に発売されたのを機会に、「総目次」を作成しました。
 さまざまな人によって、さまざまに語られるフランチェスコ、お楽しみください。


<目次>

アッシジのフランチェスコ (1) フランコ・ゼッフィレッリによる  
アッシジのフランチェスコ (2) Intermesso(間奏曲):「太陽の歌」   
アッシジのフランチェスコ (3) リリアーナ・カヴァーニによる  
アッシジのフランチェスコ (4) マザーテレサとインド 
アッシジのフランチェスコ (5) フランチェスコとミラレパ 







           
                      

2010年1月30日土曜日

書評 『折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)




     
 女嫌いで有名だった<折口信夫=釋迢空>に鮮烈に惹かれ、その作品に惚れ込み読み込んできた、1999年の出版当時39歳の女性研究者が書いた、非常に新鮮で鮮やかな切り口で折口信夫像。
 著者の高校二年生のときの出会いの一冊とは、古書店の店頭で見た漆黒の装丁のハードカバー、折口信夫の小説『死者の書』だっというのだから、それは運命的なものだったといえよう。
 折口信夫のような複雑な人物の全体像を描くためには、さまざまな切り口から迫っていくしかない。「群盲象をなでる」という格言に陥る危険をもちながらも、キラキラ光る断片から迫っていくしか方法はないのである。
 その点、著者は1995年から2000年まで、新編『折口信夫全集』(中央公論新社)に編集に携わっていたという強みがある。テクストのすべてを読み込んだ上で浮かび上がってきた断片の数々。拾い上げた断片のいくつかは、目次に表現されいる。

 目次を紹介しておこう。

  餓鬼の思想-大食家・正岡子規と折口信夫
  <伝承>をめぐって
  誕生の系譜・母胎を経ない誕生
  折口信夫の内なる<父>
  奴隷論-創造の原風景
  釋迢空『安乗帖』と田山花袋『南船北馬』
  汗する少年-「口ぶえ」論-
  碩学を描く-折口信夫における懐疑の思想-
  結婚の文化/独身の文化
  折口信夫における水への郷愁

 すべてが面白いといってしまうと、何もいっていないことにつながりかねないが、硬軟取り混ぜた切り口は、ある程度、濃厚な、肉体をもった存在であったの折口信夫象の再現に成功しているといえよう。

 私はとくに最終章の「折口信夫における水への郷愁」で描かれたイメージが、非常に強く記憶に残っている。
 古代日本人が、海の彼方から漂う舟でやってきたという事実にまつわる集団記憶。著者の表現を借りれば、「波に揺られ、行方もさだまらない長い航海の旅の間に培われたであろう、日本人の不安のよるべない存在感覚」(P.212)。歴史以前の集団的無意識の領域にかつわるものであるといってよい。板戸一枚下は地獄、という存在不安。

 著者はあとがきで非常に面白いことをいっている。

 女性読者に限っていえば、おそらくその好みは柳田國男と折口信夫のいずれかに、きれいに二極分化するのではないだろうか。柳田も折口も両方ともに好き!という人は希有の存在に違いにない。
 ・・(中略)・・
 ともあれ、結婚し子をなす人生に疲れ、行き暮れる世代にとって、柳田はあたたかい擁護者であり、理論的支柱でもある。それに比べ、しゃがれ声でぼぞぼそと同性愛を語り、<まれびと>の孤独を語る折口信夫の文章は、彼女たちにとっては「エキセントリック」「気もちがわるい」「わからない」ということになるのかもしれない。
 しかし逆に、柳田の語り口に感動する母たちの娘である私の世代はもう、柳田の言葉にそう素直に感応することはできない。それどころか、柳田國男の温順に対すると、どうにも居心地のわるさと面映ゆさを感じざるを得ない。私たちは、優しいおだやかな女性として、語りかけられたくないないのだ。<家>に定住する根源的な存在としてなど、評価されたくないのだ。
 ・・(中略)・・
 折口信夫の声は、人をそのあるべき位置に定位する力強い確信に満ちた声とは異なるものである。その声はむしろ人を、固着するそれぞれの位置から解き放ち、浮遊させる。根を離れ、たゆたい、ゆらぐことにより、私たちはひどく醜怪な存在にもなり、この世ならぬ貴やかな存在にもなり得る。聖女ににもなり、少年にもなり得る。
 おそらく現実には、折口信夫読者の大多数は、定住を旨とする堅実な人生を送るのだろう。しかしその胸底には、そのような人生を相対化し、越えようとする不逞で豊穣な想像力が育まれ、それが時に私たちを大きく自由にし、身動き取れぬ崖っぷちから救い、飛躍させるであろう。(P.241-243)


 1999年の本書出版当時、39歳の著者による発言である。著者自身は子供もいるようだが、であるからこそ、上記のような文章がつづられるのだと読む。
 折口信夫を読む、この関わり方に私は共感をもつ。

 著者は本書執筆後、研究テーマを永井荷風に移行させてしまったようで、折口関連の単行本は執筆していないのは残念だ。いうべきことは、いいつくしてしまったのだろうか。






                    

グルマン(食いしん坊)で、「料理する男」であった折口信夫

 折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)の第一章は「餓鬼の思想-大食家・正岡子規と折口信夫」と題されている。著者の文章をそのまま引用させていただく。

二人とも生涯独身の借家住まい。身辺のあれこれについて、驚くべき無頓着と淡泊を示す一方、食生活への執着が異様に激しいこと。そしてその執着を隠蔽しようとしなかったこと。実際、両者とも、それぞれが自分が生きた時代の、”知識人” ”学者”としては珍しく、肉・臓物類まで歓び貪る己の口腹の貪婪・希有な大食をその文章において標榜してはばかることがない。さらに問題は、彼らにおけるそのような執着が、あまりにも脂ぎり、あまりにも情けないほどに子供めき、およそ美食・大食の伝統の志向する”洗練された感覚” “卓抜した生活思想”という主題とは無縁なことである。(P.6)

 折口信夫は、最近の表現を使えば、文字通り「肉食系」の人であったようだ。「食い倒れの町」大阪出身の人である。
 この第一章には、アララギ派の同人で、『野菊の墓』の作者・伊藤左千夫が自ら庖丁を握ってウサギを屠り、料理する姿も引用されており、意外な感を抱くものである。

 歌人・釋迢空として、自らを、むさぼり食う”餓鬼”(ガキ)になぞらえた歌を作っている。

前(サキ)の世の 我が名は、
人に、な言ひそよ。
藤澤寺の餓鬼阿弥(ガキアミ)は、
我ぞ


 神奈川県の藤沢にある時宗(一遍宗)の寺、藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)の餓鬼阿弥(ガキアミ)のことを語った歌だ。説教節の主人公・小栗判官(をぐりはんがん)は舅に毒殺されて地獄に堕ちるが、遊行寺の坊さんに救済されて、醜い餓鬼の姿のまま生き返る。手押し車に乗せられ、妻である照手姫(てるてひめ)がさまざまな人たちの助けをかりなが熊野まで連れて行き、熊野の湯で湯治してもとの小栗に甦った、という伝説にもとづく。
 この話は、説教 小栗判官』(近藤ようこ、ちくま文庫、2003)というマンガに描き尽くされている。私が好きな物語である。折口信夫はこの物語を「餓鬼阿弥蘇生譚」とよんでいる。

 大学一年生のとき、フランス語会話の授業で習ったのは、グルメとグルマンとは違う!ということだ。グルメ(gourmet)は美食家グルマン(gourmands)は食いしん坊。フランスでは、グルメとよばれてストレートによろこぶ人はあまりいないようだ。
 日本人はやたら何かと「グルメ」と口にするが、フランス語のニュアンスでは、必ずしもほめコトバではないらしい。スノッブな響きがあるためか。
 この意味でいえば、正岡子規も折口信夫もグルマンであったといえるだろう。大食漢であり、「食いしん坊ばんざい!」である。私もグルメではなく、グルマンである。何よりも旨いものを食って、旨い酒を飲むのがすきな、関西人の DNA を100%受け継いでいる。
 各種の回想録によれば、折口信夫はグルマン(食いしん坊)であり、酒は日本酒は飲まずビールのみだったという。日本の「古代」を研究する学者がビールしか飲まなかったというのも面白い。コメつくりが弥生人によっってもたらされる以前、縄文人は日本酒は知らなかったが、それとは関係はないだろう。趣味嗜好の問題に過ぎないと思われる。

 また、折口信夫は、自ら料理する男、でもあった。

●集合写真のキャプションより

大正10年信夫宅で。前列左より金田一京助、ニコライ・ネフスキー、柳田國男、後列左より信夫・・(中略)・・この時か、20人分位の天麩羅を信夫が一人で揚げてもてなし柳田はこんなに料理を熱心にする人の学問は果たして大成するのかと思ったという
(出典:『新潮日本文学アルバム26 折口信夫』(新潮社、1985) P.40 太字は引用者による)

●わがまま料理

折口信夫は料理をつくるのが好きだし、上手だった。ところが夜中に急に「しるこをつくろう」などといい出し、弟子たちに用意させる。それができあがるころには夜もしらじらと明けかかるのだった。

(出典:『世界史こぼれ話』(三浦一郎、辻まこと=イラスト、角川文庫、1976)

 料理は、女が作るものと頭から決めてかかっていた柳田國男には理解不能なことだったのだろう。「あなた作る人、私食べるひと」という固定観念である。
 料理作りほど身近にあってクリエイティブな行為はない、と実際に料理作りをする私は思うのだが・・。料理作りとは、素材を使った加工という側面だけではなく、情報編集そのものであり、創造性そのものにかかわる行為である。

 「料理をつくる男」としての折口信夫、私が編集者だったら、誰かに書いてもらいたいテーマなんだけどねー。檀一雄の『檀流クッキング』は有名なのだが。



<ブログ内関連記事>

『檀流クッキング』(檀一雄、中公文庫、1975 単行本初版 1970 現在は文庫が改版で 2002) もまた明確な思想のある料理本だ

『こんな料理で男はまいる。』(大竹 まこと、角川書店、2001)は、「聡明な男は料理がうまい」の典型だ            

『聡明な女は料理がうまい』(桐島洋子、文春文庫、1990 単行本初版 1976) は、明確な思想をもった実用書だ

『きのう何食べた?』(よしなが ふみ、講談社、2007~)

庄内平野と出羽三山への旅 (10) 松尾芭蕉にとって出羽三山巡礼は 『奥の細道』 の旅の主目的であった
・・「死と再生」といえば出羽三山        




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2010年1月29日金曜日

書評 『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平、平凡社新書、2009)




「プネウマ」、「西方浄土」、「霊性」といったキーワードで読み込む、<学者・折口信夫=歌人・釋迢空>のあらたな全体像

 ここ数年、折口信夫(1887-1953)にかんする本が次から次へと出版されており、再び大きく脚光を浴び始めている。そんななかでも本書は出色のものといってよい。  
 本書は体裁は新書本だが、折口信夫の入門者だけでなく、私もその一人であるが、長く読み続けてきた読者の双方を満足させる内容となっている。前者にとっては、非常の中身の濃い充実した内容であり、後者にとっては自分の「読み」をひとつひとつ点検することが可能な内容となっているためだ。  
 作家・富岡多恵子、文芸評論家・安藤英二が切り開いてきた、折口信夫の学問形成期における謎の解明は、<学者・折口信夫=歌人・釋迢空>像を大きく塗り替えようとしている。本書もまたこういった新しい知見を踏まえた最新の成果である。

 目次を紹介しておこう。  

  序 章 折口信夫像の揺れ  
  第1章 折口信夫の「発生」  
  第2章 折口学とは何か  
  第3章 プネウマとともに-息と声の詩学  
  第4章 浄土への欲望と京極派和歌  
  第5章 霊性の思索者

 「プネウマ」、「西方浄土」、「霊性」・・こういったキーワードは決して奇をてらったものではない。私自身が感じていた、ある種の感じをうまくコトバとして表現してくれた、という思いがしている。  
 著者自身、かつては「霊性」(スピリチュアリティ)には懐疑的であったというが、この視点で折口信夫を読み込むことの重要性を認識するにいたったことを述懐している。折口信夫の全体像を表すのに、これほど適切な表現はないのではないだろうか。  

 あとがきに記された、哲学者・坂口恵が著者にもらしたという、「ああ、あのひとはどうも日本人じゃないみたいですね」。このコトバには、折口信夫(=釋迢空)という日本人が、たんなる国文学者や民俗学者、そして歌人の域を超えた思索者として、日本語世界においては屹立した存在であり続けていることを示しているように思われた。  

 折口信夫は、さまざまな「読み」が可能な、まだまだその全体像が読み込まれているとはいえない膨大なテクストである。日本とは何か、日本人とは何かを考える人は、必ず読み込まなければならない、日本語で遺された、きわめて貴重な財産なのである。  

 新書本にはもったいないような思索が、集約されて詰め込まれている。読み捨てにはできない内容豊かな一冊である。


<初出情報>

■bk1投稿「「プネウマ」、「西方浄土」、「霊性」といったキーワードで読み込む、<学者・折口信夫=歌人・釋迢空>のあらたな全体像」投稿掲載(2010年1月7日)


<書評への付記>

 折口信夫(おりくち・しのぶ)の略歴を簡単に記しておこう。Wikipedia では以下のように説明される。

折口信夫 明治20年(1887年)2月11日 - 昭和28年(1953年)9月3日)は、日本の民俗学、国文学、国学の研究者。釋迢空(しゃく・ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。折口の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。

 折口信夫は、一般には、民俗学者・国文学者とされているが、本人の意識としては「最後の国学者」であったようだ。釋契沖、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などに連なる系統である。もちろん日本人の宗教についての考察も中心テーマの一つであった。
 折口信夫は、日本語の言語研究から始まった国学を、国文学資料と民俗伝承を付き合わせて「古代」を探求した人である。「国学者」としての認識から、和歌をつくることを何よりも重視していた。学者としての折口信夫と、歌人としての釋迢空は、不可分の一体といって良い。
 学者としては國學院大學教授と慶應義塾大学教授を兼任、慶應の文学部では「芸能史」という講座を立ち上げた。主著は『古代研究 全三巻』、有名な小説『死者の書』。歌人の釋迢空としては『海やまのあひだ』など。アララギ派の斎藤茂吉は終生ライバルであった。

 私は大学時代から、中公文庫版で『折口信夫全集』を読み始めた。日本についてちっとも知らないのではないかという反省から、高校3年生の夏から読み始めた柳田國男とは肌合いのまったく異なる、この国学者はきわめて謎めいた、不思議な魅力に充ち満ちた存在であり続けてきた。文庫版全集はすべてもっているし、関連する本はダンボール一箱分くらい集めて読んできた。

 宗教学者の中沢新一は、NHK・ETVで放送したテキストをもとにした古代から来た未来人』(ちくまプリマーブックス、2008)で、「折口信夫のような奇跡的な学問をなんとかして自分でもつくってみたい。それが私をこれまで突き動かしてきた夢だったような気がします」と序文に書き記している。
 南方熊楠について書かれた大著に比べ、折口信夫について書かれたこの本は非常にコンパクトでうすいものだが、中沢新一がやろうとした学問の方向を簡潔に要約したものともなっている。とくに「第6章 心の未来の設計図」には、折口信夫の神道観が中沢新一流に、「魂-生命-物質」の三位一体として構造化し、図解しているのは興味深い。この説明の当否は留保しておくが。

 中沢新一流のややクセのある折口信夫の紹介ではあるが、「折口信夫入門」として本書とあわせて読むことをすすめたい。          



                     
                       

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)




「いきどほり」と融合した「さびしさ」という情念を軸にすえた、折口信夫が一生かけて探求した問題の解明

 学者・折口信夫は、歌人・釋迢空の名において、次のような歌を詠んでいる。

 いきどほる心すべなし。
 手にすゑて、蟹のはさみを もぎはなちたり


 自らの生の根底に、「怒り」や「いきどほり」といった情念を抱えていた折口信夫。しかし、激情しての「怒り」は、他者とのあいだで共感を作り出さない限り、世間からは受け入れられない、孤独な怒りに終わってしまう。そこに残るのは一人感じる「さびしさ」という諦念に近い感情である。

 著者は、「いきどほり」と融合した「さびしさ」という情念を軸にすえて、折口信夫が一生かけて探求した問題について解明を試みている。それは、日本の「神」とはいったいどのようなものなのか、という問いである。

 宗教的熱情を根底にもっていた学者が一生かけて探求した問題、これを著者はまず、折口信夫を「新しい国学」を樹立しようとした「国学者」として規定し(第一章 国学者折口信夫)、その上で戦前(・・第二章 『古代研究』における神)および戦後(・・第三章 戦後の折口学)の言説を、子細に検証する作業をつうじて明らかにしていく。
 折口信夫は、明治維新後、廃仏毀釈による神仏分離令によって、宗教ではなく道徳体系にされた神道ではなく、あくまでも「己自身の抱える罪や苦しみからの解放と、死者との交流という二つの側面を十分に納得させてくれる」宗教としての神道を、生涯にわたって探求を続け、思想体系として確立しようと格闘をし続けた。

 折口信夫が明らかにした古代日本の神とは、人間からみた道徳を説く神ではなく、善悪の両面を兼ね備えた、人間の意志とは関係なく、その深い情念のままに振る舞う神である。人々を祝福するだけでなく、愛欲・狡智・残虐といった正と負の両義的なエネルギーに充ち、「一挙にすべてを破壊する事のできる」ような「怒り」や「憎しみ」をもった神であった。
 それは、ある意味で、同じく民族宗教であるユダヤ教の一神教の神に限りなく近い印象すら与える「超越神」である。折口信夫のいう「既存者」という表現は、「ありてあるもの」という旧約聖書の表現さえ想起させる。

 最後の「第4章 罪、恋、そして死」において著者は、学者・折口信夫の実人生の軌跡をたどり、歌人・釋迢空として作った歌に、一人の生きた思想家の無意識の心性の深淵まで、ともに寄り添いながら下降し、思想が発生する根源を見つめようとする。  
 出生の秘密に苦しみ、悩み、罪の意識を抱いて、若き日に何度も自殺未遂をした男の、罪や苦しみからの解放。そして、若き日に最愛の人を喪い、弟子であり養子でもあった一人息子を硫黄島の玉砕戦で喪った男の、死者たちとの交流・・・

 国学者としての折口信夫、浄土真宗の法名でもある歌人・釋迢空、この二つの人格が交差し乖離する、ねじれた関係を凝視する著者は、思索の糸を一本一本とより分け、丹念に検証を加えてゆく。著者の論述の進め方は、詰め将棋のような執拗さというか、あるいは神経の一本一本もゆるがせにせず、慎重に手術を進めてゆく外科医の手さばきを想起させる。
 韜晦(とうかい)に充ち満ちた表現をする折口信夫その人の思考をときほぐすためのアプローチは、鮮やかというよりも、粘着質なものといってもいいだろう。あるいは折口信夫が愛した探偵小説(=推理小説)のような、息の詰まるような執拗な追跡といってもいいだろうか。

 折口信夫は敗戦後、弟子の岡野弘彦に、憂い顔でこう洩らしていたという。「日本人が自分たちの負けた理由を、ただ物資の豊かさと、科学の進歩において劣っていたのだというだけで、もっと深い本質的な反省を持たないなら、五十年後の日本はきわめて危ない状態になってしまうよ」(P.263 注23)。
 日本の神は敗れたもうた、という深い反省をともなう認識を抱いていた折口信夫の予言が、まさに的中していることは、あえていうまでもない。

 著者は、折口信夫がついにその生前には到達し得なかった、宗教としてみた日本の神とは何かという残された問題を、問題を問題として認識することの重要性を指摘している。この問題は、現代に生きるわれわれ自身が考え続けなければならない問題である。
 「近代の日本社会が抱える矛楯をそのままに体現していた」(P.253)折口信夫という人間存在、その思索と生の軌跡をたどる意味がここにあるといってよいだろう。

 現在もなお続く、この国の精神的な漂流状態がいったい何に起因するのか、これについて深く考えるための道標(みちしるべ)として。
         


<初出情報>

■bk1書評「「いきどほり」と融合した「さびしさ」という情念を軸にすえた、折口信夫が一生かけて探求した問題の解明」投稿掲載(2010年1月20日)


<書評への付記> 

 「国学者」としての認識から、和歌をつくることを何よりも重視していた。学者としての折口信夫と、歌人としての釋迢空は、不可分の一体といって良い。

 さて、「いきどほる心すべなし。・・」の歌は、私が初めて知ったのは大学生のときだが、非常に気に入ってそらんじていたものだ。この歌を皮切りに論を進めたこの著者の姿勢が何よりも気に入った。
 この歌は、有名な「葛の花・・」で始まる14首の連作「島山」に含まれる。一般に女嫌いであったといわれている、折口信夫=釋迢空の唯一の女弟子といわれている歌人・穂積生萩(ほづみ・なまはぎ)は、宗教学者・山折哲雄との共著執深くあれ-折口信夫のエロス-』(小学館、1997)で次のようにいっている(P.154)

 迢空の作品は、一首ずつ独立はしているが、一首だけ覗き込んではいけないようである。すべての連作は、序破急、又は起承転結に構成されている。
 とにかく狙って書く人だし、自分の狙いの的を外したくない一心で、推敲もし、編集も綿密に行う人だから、一連を一幕物の演劇と思って読む方がいい。

 では、連作「島山」を全首掲載しておく。沖縄での民俗調査の帰途、調査のため訪れた壱岐(いき)での連作らしい。壱岐は九州・福岡の、玄界灘に浮かぶ島である。

『海やまのあひだ』 釋迢空
 大正十三年 -五十二首- 島 山


葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

谷々に、家居ちりぼひ ひそけさよ。山の木の間に息づく。われは

山岸に、昼を 地(ヂ)虫の鳴き満ちて、このしづけさに 身はつかれたり

山の際(マ)の空ひた曇る さびしさよ。四方の木(コ)むらは 音たえにけり

この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの さびしさ

わがあとに 歩みゆるべずつゞき来る子にもの言へば、恥ぢてこたへず

ひとりある心ゆるびに、島山のさやけきに向きて、息つきにけり

ゆき行きて、ひそけさあまる山路かな。ひとろごゝろは もの言ひにけり

もの言はぬ日かさなれり。稀に言ふことばつたなく 足らふ心

いきどほる心すべなし。手にすゑて、蟹のはさみを もぎはなちたり

澤の道に、こゝだ逃げ散る蟹のむれ 踏みつぶしつゝ、心むなしもよ

いまだ わが ものに寂しむさがやまず。沖の小島にひとり遊びて

蜑(あま)の家 隣りすくなみあひみつみ、湯をたてにけり。
 荒(アラ)磯のうへに

雛(ひな))の子の ひろき屋庭に出でゐるが、
 夕焼けどきを過ぎて さびしも

(*カタカナは釋迢空自身による読み。ひらかなは私が補足したもの)


 ちなみに「葛の花・・」の一首は、一般におもわれているような内容ではなく、匂い立つような、かなりセンシュアルでセクシュアルな意味を秘めた歌のようである。

 折口信夫の「いきどほり」は、岡本太郎の「怒り」にも似て、きわめてストレートに表現されたものである。ともに、日本的「世間」への違和感の強い人だったように思われる。
 阿部謹也は、「世間」から距離をとった人として、とくに金子光晴永井荷風が好みのようだが、私は永井荷風は当然のことながら、折口信夫岡本太郎の二人がとくに好みだ。
 この二人には共通性もある。
 恋人で秘書の岡本(旧姓 平野)敏子を養女にした岡本太郎。
 恋人で弟子の折口(旧姓 藤井)春洋を養子にした折口信夫。
 異性愛と同性愛という違いがあるものの、その性をめぐる関係は、日本の一般常識、すなわち「世間」から大きく逸脱していることは、否定できない事実である。宗教学者の山折哲雄風にいえば、「脱血縁の思想」といえようか。ともに自らの血を引く子供は残さなかった、あるいは遺すことを拒否したのかもしれない。
 岡本太郎が日本の学校制度に適応できず、フランスで学業を終了し長く滞在したことは、日本を他者の眼で見る姿勢を植え付けたことはいうまでもない。
 折口信夫は外遊経験はないが、自殺未遂を3度も繰り返し、学校も一度落第、大学も家業である医学を選ばず、大阪から逃げるようにして東京の國學院に学んでいる。哲学者・坂口恵が『折口信夫 霊性の思索者』9)の著者・林浩平にもらしたという、「ああ、あのひとはどうも日本人じゃないみたいですね」という表現(・・この件については「書評『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平、平凡社新書、2009)」参照)は、折口信夫が「世間」から距離をとって「古代」に生きてきたことの証左となろう。


 「近代の日本社会が抱える矛楯をそのままに体現していた」(P.253)折口信夫という人間存在、という表現が何を意味しているかというと、神仏分離と廃仏毀釈によって、日本人の自然な宗教感情をズタズタに引き裂いてしまった、明治維新政府の"合理的な"宗教政策のことを指している。
 明治政府の設計者は、西洋近代の精神的支柱となっていたキリスト教の代替物として神道(しんとう)を据えることとし、これを近代天皇制とセットになった国家神道という形に作り替え、国家神道は宗教ではない(!)としたのである。この事情については、安丸良夫の名著神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈-』(安丸良夫、岩波新書、1979)を必読文献としてあげておく。
 国家神道となった神道からは、一般民衆の宗教感情を拾い上げることは不可能となり、天理教や大本教のような新宗教である「教派神道」にゆだねられることとなった。穂積生萩の回想によれば、折口信夫は大本教には深い共感を抱いていたようだ。

 折口信夫には、キリスト教徒の文芸評論家・富岡幸一郎をはじめとする、さまざまな人たちに引用される有名な述懐がある。

まさか、終戰のみじめな事實が、日々刻々に近寄つてゐようとは考へもつきませんでした。その或日、ふつと或啓示が胸に浮かんで來るやうな氣持ちがして、愕然と致しました。それはこんな話を聞いたのです。あめりかの青年達がひよつとすると、あのえるされむを囘復する爲に出來るだけの努力を費やした、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戰爭に努力してゐるのではなからうか、と。もしさうだつたら、われわれは、この戰爭に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起こつても來ました。

(出典:『折口信夫全集 第二十巻』(中公文庫版)所収「神道の新しい方向」昭和24年 斜体部分は原文では傍線)

 この話は戦争末期の昭和19年(1944年)の秋の一日、プロテスタント教会牧師の養成を目的とする東京神学大学教授となった、日本基督教団の比屋根安定(ひやごん・やすさだ)が折口信夫に頼み込んで実現した、牧師たち向けの「古事記」講義の席で耳にしたらしい。この件は、『神道学者・折口信夫とキリスト教』(濱田辰雄、聖学院大学出版会、1995)の第二部「折口信夫の戦後神道論とキリスト教」(P.106)を参照。
 「日本の神、敗れたもう」という認識をもった折口信夫の敗戦後の課題とは、神道を人間の合理的な解釈や人間からみた道徳から解放し、再び宗教としての意味づけを行うことであった。しかし、神道界では主流となることはなかったようである。
 折口信夫のいう、「日本人が自分たちの負けた理由を、ただ物資の豊かさと、科学の進歩において劣っていたのだというだけで、もっと深い本質的な反省を持たないなら、五十年後の日本はきわめて危ない状態になってしまうよ」(P.263 注23)は、残念ながら実現してしまった。天皇と神道にかんする考えは異にしながらも、三島由紀夫の予言と重なるものも感じる。

 しかし、最近のスピリチュアル・ブームは、神道の宗教的側面を復権するための兆しともいえるかもしれない。もちろんTV番組でのブームとは距離を置く必要はあるとは思うが、パワースポットという英語由来の表現ではあるにしても、とくに若い女性のあいだで、神社が再び脚光を浴びるようになってきたことは、たいへん喜ばしいことである。
 神社で、「二礼二拍一礼」するとき、神さまの名前はわからなくても、何かしら荘厳な、厳粛な気分になるのは、日本人の自然な宗教感情である。そこに目に見えない超越的な存在を感じるのは、限りなく一神教に近い、といってもいいすぎではないと思われる。あるいはスピノザ的な汎神論といってもいいかもしれない。遍在する神、エーテルのように充満する神。八百万の神という表現があるが、これは「ひとつの神」を分節化された表現として捉えるべきではないか。一般的にも、私自身も、神さまの名前などまったく意識せずに、神社で礼拝している。ただ単に「神さま」として。
 西行法師の有名な歌、「何ごとのおはしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる」は、まさにその超越的存在について語っているのである。

 折口信夫は、大学時代から読んできた。いまあらためて再び新しい視点で読み込むことの必要を感じている。


            

                        

2010年1月27日水曜日

『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック、南満州鉄道株式会社調査部特別調査班、大連、1943)-25年前に卒論を書いた際に発見した本から・・・

                                                 
 以前にブログに書いたことだが、私は大学時代に歴史学を専攻し、西洋中世史の分野で卒業論文を執筆して卒業した。いまから25年前のことである。

 卒論のタイトルは、『中世フランスにおけるユダヤ人の経済生活』。この論文では、ユダヤ人信用業者、ひらたくいえば金貸しの実態について扱ったものだ。1985年当時は日本語でずばりこの問題を扱った単行本も論文もなく、えらく苦労させられたが、たまたまフランスの社会経済史の専門学術誌「アナール」(・・いわゆる「アナール派」である)に格好な論文が掲載されていたのを発見し、この論文(フランス語)をもとに、卒業論分をまとめあげたのであった。13世紀南フランスの事例をもとにしたものである。
 400字詰め原稿用紙で250枚という長編になってしまい、一冊に製本できず、二分冊となったしまった。卒業論分はすべて製本して図書館に保存される決まりになっている大学なので、いまでも図書館に架蔵されているはずである(・・確かめたことはない)。

 なぜ卒論でユダヤ人をテーマに取り上げたのか? 

 基本的に阿部謹也ゼミナール(阿部ゼミ)では、卒論のテーマは何でもよい、とされており、選択の自由が完全に学生に任されている点が非常に魅力的であった反面、自分で考えて、最終的に結論を出さなくてはならないというのは、実に厳しい要求であったような気もする。
 われらが恩師であった阿部謹也教授は、「そのテーマを選ばなければ生きていけないテーマを選ぶことです」と、さらにその先生であった上原専禄教授からいわれたという。このアネクドートはわれわれも口頭で聴かされたものであるが、自分のなかに歴史をよむ』(阿部謹也、ちくまプリマーブックス、1988)という名著にも書かれているので、よく知られていることだろう。現在は、ちくま文庫からも出ている(2007年)。この本には、上原専禄ゼミで哲学者の三木清について書いた学生の話もでてくる。活字になっていない面白い話は他にもあるので、また機会があれば書いてみたいと思う。
 しかし阿部先生ならずとも、「そのテーマを選ばなければ生きていけない」なんてテーマがあるはずはない。一年間考えに考えた末、私は「ユダヤ人」をテーマに取り上げることにした。中世西洋史のゼミナールなので、せっかくなので中世ヨーロッパにこだわることにした。
 卒論指導に際して、何冊か先生の蔵書を貸していただいたが、コピーをとって夏休みに辞書を片手に読んでみた。そのうちの一冊が L.K. Little, Religious Poverty and the Profit Economy in Medieval Europe, Cornell University というタイトルのハードカバーであった。
 ところどころに先生自身がした、鉛筆による線引きと書き込みが多数なされており、「あー、学者というのはこういう風に本を読むのかー」という感想をもった。ある意味では、大学院生でもないのに実地教育を受けたような気もする。
 その本は、タイトルを日本語にすると、『中世ヨーロッパにおける清貧と営利経済』とでもなるのだろうか。卒論執筆には、Chapter 3. The Jews in Christian Europe(キリスト教ヨーロッパにおけるユダヤ人) と Chapter 10. Scholastic social thought(スコラ派の社会思想)が役にたった。同書のペーパーバック版は現在でも入手可能のロングセラーである。

 なぜ卒論でユダヤ人をテーマに取り上げたのか?  

 理由はいくつかある。間違いなくあったのは、ユダヤ人がヨーロッパのキリスト教世界のなかではつねに「少数派」(マイノリティ)であった、という事実への共感とでもいったものである。
 私自身は日本人としては多数派に属するはずであるが、なぜかある時期から周囲に馴染めず、つねに違和感を感じている、というタイプの人間となっていた。高校時代くらいからだろうか。
 その当時はうまく表現できなかったが、その後に阿部謹也先生による「世間論がでて、昔から日本にも同じような思いを抱いて、周囲からスタンスを取ることによって精神の安定を得てきた人たちがいるのだ、と知った。
 大学時代から、読んでいた折口信夫(国文学者・民俗学者)の文庫版全集に収録されていた、若き日の「日記」に、こういう一節をみつけて非常に同感を覚えていた。「・・・また、同化せられざる悲しみを覚えに行くに過ぎないのだらう。」いま手元にないので確認できないのだが、同じ日記のなかで「ちょうずんぴーぷる」なんて表現をひらがなで書いているのも興味深い。Chosen People とはユダヤ人についてしばしばいわれる「選民」のことである。
 キリスト教への違和感が、マイノリティであるユダヤ人への共感を感じたのは不思議ではない。ユダヤ人歴史に決めてからも、さらにテーマを絞り込むのに時間がかかった。1492年のスペインからのユダヤ人追放事件の後、スペインからモロッコ経由で移動し、最終的にエジプトに落ち着いたマイモニデス(モゼス・ベン・マイモン)について書こうかなどとも考えた。
 最終的に、『中世フランスにおけるユダヤ人の経済生活』としたのは、就職活動にも有利になるかもしれない、などという不埒なものがあったことも否定しない。この話題をしたとき、銀行の就職面接では受けが悪くなかったのは事実である。結局、銀行そのものには就職しなかったが、これは結果としては良かった。人間万事塞翁が馬、である。
 同時期に受講した「華僑問題特別講義」も、大いにインスパイアしてくれたものである。自らが台湾・客家(はっか)出身である、立教大学の戴国煇(たい・くおふぇい)教授のこの授業は、東洋のユダヤ人とすらいわれた客家の立場からの講義は、私としては大いに得るものがあった。後に東南アジアのタイに深く関わった際にも大いに役立ったことはいうまでもない。

 さて、資料収集にあたって大いに役だったのが、たまたま見つけた、増補 ユダヤ人論考-日本における論議の追跡-』(宮沢正典、新泉社、1982)という本だった。1877年(明治10年)から1981年(昭和56年)まで、日本で出版されたユダヤ関連文献を、すべて網羅した資料編がことのほか有用で、のちにさらなる増補版もでている。定価2,500円もする高い本だったが、実に価値の高い本だ。
 この資料編をみていて気がついたのは、1935年(昭和10年)から1943年(昭和18年)にかけて、満鉄調査部(南満洲鉄道調査部)からユダヤ問題関連の調査資料が大量に発行されていた事実であった。
 『タルムード研究資料』(昭和18年)、『猶太人社会の研究』(昭和14年)など多数あり、大学図書館で図書カードを繰っては探しだし、片っ端から借り出してみた。その多くが、満鉄から東京商科大学(当時)に直接寄贈されたもので、いずれも「マル秘」か「取扱注意」の赤い印が押されていた。
 
 そんななかの一冊が、『猶太教』 (南満州鉄道株式会社・調査部特別調査班、大連、昭和18年3月)である。
 大学図書館にあったのか、それとも国会図書館で借りてみたのか正確な記憶がないのだが、最初の部分を読んでみて、非常に共感を覚えてコピーを取った。
 その後、当時普及の始まったワープロに打ち込んだみた。フロッピーディスクはすでにないが、先日資料を整理していたら、クリアファイルに挟まったプリントアウトがでてきた。
 あらためて、ここに転載しておきたい。なぜユダヤ人で卒論を書いたのか、その答えの一つになるからだ。

 『猶太教』は、「第一部 ユダヤ教概説」(B.D.コーホン) と「第二部 ユダヤ教の本質」(レオ・ベック)の二篇を合本したものであり、引用は後者の「第1章 ユダヤ教の性格 第1節・統一と発展」(P.102-103)から抜き書きしたものである。

 これはむしろ当然の結果であった。何となればユダヤ人を取囲む現実は、疑う余なき程明白に物語った。冷酷な現実によって打ち建てられ、それに新しき迫害や圧迫の一つが環を加えた長き証しの連鎖からは、それと同じ数の打ち消し難い結論が生まれ来る。
 しかもそれらの結論は、ユダヤ教の指向に反するごとくでさえあった。とにかく、古(いにし)えの預言者たちによって約束されたものと、それぞれの新時代が肯定せんとしたとこのものとの間に生じた矛盾は強き緊張を生み、それがユダヤ人をして、ただ自らの殻の中に引龍ることを許さなかった。
 踏みひしがれた人や喧嘩に負けた犬は、自然自らを頼りとするに至る。さもなくば滅亡あるのみであろう。しかし、彼が世界の真中に立っている限り、自分自身をのみ知り、かつ眺めるために、閉込められた自己自身の観念にのみ生きるは不可能である。これができるのは権威の嗣子(しし)にのみ許された特権である。
 更にユダヤ人は常に少数者であった。少数者はとかく思索に耽りがちであるが、これが彼等の不運が与えた賜物(たまもの)である。彼等は闘争と思索とによってしばしば真理の認識を新にさせられた。
 その意識は支配者やこれを囲繞(いにょう)する多数者にとっては、権力や社会的成功によって容易に確証せられるところのものである。
 多数者の確信は所有の重みを有するが、少数者の確信は探求してやまぬ溢刺たる精力を有する。この内的活動はユダヤ教の内に浸み渡った。それ自体で完成し、満足している世界の平静さはユダヤ教には見られないところのものである。
 自己を信ずるという事は、ユダヤ教にとっては当然のこととして約束せられたのではなく、実に絶えず繰り返されたる要求として、またすべての望みをかけた目標として存在した。
 而(しか)して外的生活が極限されればされる程、人生の義務に関するの確信がいよいよ熱心に求められ獲得されねばならなかった。

(* 太字の強調、漢字の読みは引用者が行ったもの。OCRで読み取った原稿はバグつぶしに意外と時間がかかる・・・)



 『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック)の原本は、Leo Baeck, 》Das Wesen des Judentums《, 1936. だが、この本が満洲国の大連で昭和18年(1943年)3月に出版されたとき、著者であるレオ・ベックはすでに強制収容所の一つであるテレージエンシュタットに送られていたのだった! 1943年1月(!)、70歳のときであった。 
 この事実は、今回あらためてレオ・ベック(Leo Beack)について調べてみて初めて知ったことである。まさかそんなことがあろうとは、さすがに満鉄調査部関係者も知らなかっただろうし、1984年に卒業論文を書いていた当時の私も、とくに考えてもいなかった。
 これは、二十世紀のユダヤ思想家』(サイモン・ベック編、鵜沼秀夫訳、ミルトス、1996)の「第5章レオ・ベック」(執筆ヘンリー・ウォルター・ブラン)に詳細が書かれており、はじめて知ることができた。なお同書は、米国のユダヤ人向けの本で1963年に出版されている。

 この本によれば、しかもレオ・ベックは強制収容所のテレージエンシュタットを生きのびたのである!
 『二十世紀のユダヤ思想家』によって、レオ・ベックの生涯を簡単に振り返っておこう。なお、レオ・ベックの肖像写真は同書カバーの左下にある(写真参照)。
 1873年ドイツ北部のプロイセン王国ポーゼン州のリサに代々ラビ(ユダヤ教律法学者)の家系に生まれた。本人も社会人人生をラビとして過ごした人である。
 代表的著作である『ユダヤ教の本質』は初版が1905年にでており、ドイツだけでなく英語に翻訳されて、ユダヤ人のあいだでは広く読まれたという。ベルリンのラビに任命され、偉大な学者との評判を得る。
 第一次大戦ではドイツ軍の従軍ラビに任命され、ドイツ敗戦までその任にあった。
 戦後は、ベルリンのラビに戻り、カイザーリンク伯の「叡智学園」に招かれ、ユダヤ教についての講義も行っている。
 ナチズムの台頭する時代にあって、1935年のニュルンベルク法施行に際しては、ナチスを恐れずに批判し、特別の祈祷文をつくって全ドイツのユダヤ人コミュニティで、新年祭の礼拝式に説教壇から読み上げさせている。このため、たびたびゲシュタポから召喚され、何度も拘引されている。
  周囲から亡命を何度勧められても断ったという。「ユダヤ人と一緒に留まって彼らの苦しみを和らげることがラビとしての道徳的義務であると考える」といっていたという。
 しかしついに、1943年1月、70歳前に強制収容所のテレージエンシュタットに移送される。ユダヤ人の扱いが人間的であると示すためのショーケースの役割を担わされたのである。
 ドイツ敗戦により、2年後の1945年に解放されたベックは、ユダヤ教の中心はドイツから米国に移ったという考えのもと、米国への招致に応じ客員教授として講義をもち、80歳のときには市民権を得ていた英国に移住、1956年に83歳で英国で没した。
 思想・教説・行動が完全に一致し、外部の圧力に対しては不死身であった、と評されている。日本的にいえば、陽明学で言う「知行合一」の人だった、ということができようか。

 最後に、レオ・ベックの考えていた「ユダヤ教の本質」について、『二十世紀のユダヤ思想家』の担当執筆者による要約を・・・しておく。
 
 ベックにとってユダヤ教の本質とは、正義と愛をとおして悪から人類を贖う(あがなう)ようにとの神の命令(戒め)である。・・(中略)・・ユダヤ教は個人の宗教よりも民族と共同体の宗教、即ち「律法のまわりの垣」として捉えられると考えた。・・(中略)・・
 ベックの見解では、ユダヤ教をキリスト教から区別する基本的な原理は教理がないことである。(P.188-189)


 「ユダヤ教は民族と共同体の宗教」であり、「ユダヤ教には教理がない」という指摘は実に重要である。
 民族宗教で教理がない、といえば基本的には日本の神道(しんとう)と同じではないか。

 さらに、「ユダヤ教の独自性」については、私が書き抜きを作っていなかった箇所について、『二十世紀のユダヤ思想家』からレオ・ベック自身による文章を孫引きしておく。英訳からの重訳のようだが。

 ユダヤ教に主要な形式は、体系よりもむしろ方法を生み出す哲学、探求の宗教哲学のそれであった。原理は常に結果よりも重要であった。表現の様式には常に寛大であり無頓着ですらある。中心にあるべきものはその理念であった。・・(中略)・・教理という支柱をもたないことがユダヤ教の性格そのもののなかにあり、それはまたその歴史的発展の本質的な結果でもある。・・(中略)・・それは絶えず思考する労働を義務づけられた宗教であった。(P.189)


 もうひとつ執筆者が書いていることで、日本人からみて面白い指摘があるので引用しておく。

 近代の聖書批判を論破するにあたって、ベックが強調した他の重要な要素はユダヤ人の宗教の独創性である。関わりをもった外国文明の多くの異なった要素を吸収するユダヤ人の天与の才は、しばしば創造性の欠如の証拠として引き合いに出されてきた。しかし厳密にユダヤ教の伝統を見るならば、正にその逆である。ユダヤ教はこれらの外国の影響をそれ自身の伝統の中に取り入れ、それらに全くユダヤ的な性格を与えた。あらゆる概念はユダヤ人特定の言葉に改鋳(かいちゅう)され、完全にそれらの言葉に適応し改鋳できる理念だけが、永続するユダヤ的遺産の一部となった。(P.189)


 ユダヤ人が「創造性の欠如」? いやしかしその逆である、と。
 どうだろう、文中の「ユダヤ」をすべて「日本」に置き換えることが可能ではないだろうか。面白いと思うのは私だけだろうか。
 やはりユダヤ人と日本人は、かなり大きな共通性をもっているのである。
 相違点は、徹底性の度合いだけかもしれない。この点については、昨日書いた、本の紹介 『ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか-』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987)を参考にしてほしい。
 ユダヤ人と日本人は、律法に対する態度を軸にしてみれば、対極の位置にあるといってよい。ユダヤ人は律法に過度にこだわり、日本人は律法についてはあまりにも無意識な態度に終始してきた。だから合わせ鏡のような存在なのである。
 ユダヤ教でも、神道でも、神の像はつくられない。あくまでも不可視の存在である。

 なお、国策会社であった南満洲鉄道株式会社の調査部(いわゆる満鉄調査部)が、なぜユダヤ関係の報告書を翻訳ふくめて大連(満洲国)で多数出版しているのか、この理由についてはまた機会をあらためて、後日書いてみることとしたい。
 あまりにも面白い話なのだが、このためには「満鉄」そのものと「フグ計画」(Fugu Plan)について知っておく必要がある。

 キーパーソンの一人は、小辻節三(=小辻誠祐 a.k.a. Abaraham S. Kotsuji)である。




              
                               

2010年1月26日火曜日

本の紹介 『ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか-』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987)




 25年ぶり(!)にユダヤ・イスラエル関係書を片っ端から読んでいる。ダンボール箱に入れて眠ったままになっていた本の数々だ。昨年から集中的に、また断続的に読みふけっている。
 最近の粗製濫造される、つまらないビジネス書やあやしげな脳科学本を読むよりはるかに面白い(・・もちろん、すべてのビジネス書や脳科学本がダメなわけではない)。人生を生きるうえで不可欠な「生きた知恵」の数々を見いだすからだ。

 そんななかに再発見した一冊が、ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987)だ。パラパラとページをめくるうちに、思わず再び全部読んでしまった。実に23年ぶり(!)に読んだことになる。

 著者自らの人生の軌跡を語りながら、「ユダヤ的思考法」「ユダヤ的発想法」を、日本人のために惜しみなく披露した、著者41歳のときに日本語で書き下ろされた新書本だ。
 著者の春遍雀来(ハルペン・ジャック)氏は、本名はヘブライ語でヤアコヴ・ハルペルン、1949年西ドイツ(当時)のミュンヘン生まれ、イスラエル、フランス、ブラジル、アメリカと5つの国を移り住む。イスラエルでは漢字の魅力にとりつかれて、漢字研究のため来日、最終的に埼玉県に落ち着いて、ライフワークの独自の理論に基づく「漢字辞典」の編纂に従事。
 日本語含めて8つの言語を習得。イディッシュ語、ドイツ語、ヘブライ語、ポルトガル語、アラム語、英語、スペイン語に日本語。本書も最初から日本語で書き下ろされている。Wikipedia の記述を見る限り、まだ日本に住んでいて健在のようだ。
 自伝でもある本書『ユダヤ感覚を盗め!』によれば、13歳から18歳までユダヤ教学院であるイェシヴァ大学(ニューヨーク)で、『タルムード』による徹底的な研鑽を受けた、とのことだ。しかしながら、理詰めに考え続けた末に、ユダヤ教からは離れた、と本書で語っている。これ自体がユダヤ的だな、と本人は述懐している。

 いまから23年も前に出版された本であるが、まだまだ日本人はユダヤ人から学ぶべきことが多い、と痛感する。
 昨日は、書評『大使が書いた 日本人とユダヤ人』(エリ・コーヘン、青木偉作訳、中経出版、2006)において、日本人とユダヤ人は実に共通性が多い、という本を紹介したが、正直いって日本人を褒めすぎている。やはり、それだけでは偏った見方に陥ってしまう懸念がある。

 実際のところ、ユダヤ人と日本人のあいだには、かなり大きな相違点もあることは、強調しておく必要があるのだ。
 日本人と比較したときのユダヤ人の優位性とは、ものごとを突き詰めて考えるという徹底性と論理重視の姿勢である。
 島国に生きてきた日本人と放浪の民となったユダヤ人が大きく異なるのは当然といえば当然である。であるからこそ、共通性があるのはうれしいことでもあり、また一方、相違点の大きさには本書が出版されてから23年たった今でもいっこうに埋まる気配もないという絶望感(?)に似た気持ちがないでもない。
 ユダヤ教の「口伝律法」である『タルムード』(Talmud)読解によって培われたこの精神は、詳しくは本書からの抜き書きをじっくり読んでいただきたいと思うが、いまごろになってロジカル・シンキングの重要性に気づいて焦りまくっている日本人とは大違いなわけなのだ。
 
 日本で日本語を使って活動するユダヤ人は実に多い。近年でいえば、ハンガリー出身のピーター・フランクルがもっとも活躍している人の一人だろう。国際的数学者でかつ大道芸人。
 ハルペン・ジャック氏も漢字研究のかたわら、「日本一輪車クラブ」を立ち上げている多芸多才の人である。ライフワークの漢字事典は、初志貫徹して新漢英字典』(春遍雀来編、研究社、1990)として完成、出版されている。カネにもならない事業を投げ出すことなく貫徹した知力と精神力は並大抵のものではない。

 本書『ユダヤ感覚を盗め!』は、いま読んでも実に面白い。しかし残念ながら絶版になってひさしいので、参考のために目次を紹介しておく。

プロローグ ぼくの学校は「国境を越える人生」だった
第1章 意志力をつくる-ユダヤ人の父親教育
第2章 人生に生き残る-ユダヤ的知恵の活用法
第3章 独創を生む-タルムード頭脳開発システム
第4章 スキのない思考をつくる-ケンカ式論理育成術
第5章 出会いに学ぶ-異国体験と自分教育
第6章 誰もいわない-不思議大国日本の欠陥発想
第7章 世界が見える-国境を越える想像力


 私は、この本に書いてあったことは、ほとんどすべて実行してきたように思う。あらためて読み返してみて、そう思った。もちろん、すべてが身についたわけではないことはいうまでもない。だから23年ぶりに読み返してみて、非常に新鮮な印象を受けているのだ。

 いま日本のビジネス界では、ロジカル・シンキングの必要性が叫ばれており、セミナーもさかんに開かれているが、この本を読んで、実行したほうがはるかにためになる、と思う。もうすでに23年前に、最初から日本語で!書かれた本がでてるのに、ロジカル・シンキングがブームになるまで、いったい日本人はずっと眠りこけてたのかねー
 たまには、耳の痛い話を聞くことも時には必要だ。率直に語ることを傾聴するだけでは意味がない。著者のいうことに反論し、議論を戦わせることこそ、著者も本望とするところであろう。それが「対話」というものである。

 とはいえ、反論するも何も、内容を紹介しておかねばならない。
 いまから23年前の1987年に買って読んだ際、いろんなところに線を引きまくっているのだが、線引き箇所をあらためて抜き書きして、皆様にお見せしよう。
 興味のある方はぜひ目を通してほしいものだ。なんせ絶版で現在入手不可能なので。


<コトバの抜き書きノート>

第1章 意志力をつくる-ユダヤ人の父親教育

 ユダヤ人家庭に特徴的な父親教育の大部分は、こうした小さい頃から子供に聞かせる語りによって行われてきたのである。(P.42)

 「意志に勝るものはない」というのが父の生活理念であり、これはボクの人生観にもなった。(P.49)

タルムードの表現から・・)
 「人間の目には白い部分と黒い部分があるのに、神はなぜ黒い部分を通してだけ物事をみるように人間をつくったbのだろうか」
 これも人間が人間自身を知るための「タルムード」一流の表現だが、これには次のような明快な答えが用意されている。
 「人生とは暗いところを通して明るいものをみるべきものだからである」(P.52-53)

 「敗北に耐え抜いた者が、真の勝利者になることを歴史は教えている」(P.53)

 ユダヤ人のビジネスマンの中には、かつて商売でさんざんな目にあったときの契約書を、オフィスの壁に飾っているという話もよく聞く。そこでは、ユダヤ人の発想は日本人のように「失敗を水に流して出直す」といものとは180度も異なっている。要するに、ユダヤ人にとって失敗や敗北は、それが苦痛をっともなったものであればあるほど、次の成功のためのステップとして、常に記憶に刻み込まれるものとしてあるのだ。(P.54)

 ユダヤ人の父親教育はある意味では神さまの教えを伝えることでもあるが、「目をつぶって神さまについていってしまうのはいけない、神さまの律法に照らして、自らを省みる意志を持つことが大切だ」ということを教える。
 ユダヤ人にとっては、自分自身の足で立つ意志と責任が、実生活の中では非常に重んじられるのである。・・(中略)・・要は自分の責任で生活上の約束事にはずれないように生きなさい、ということなのだ。(P.56)

 ユダヤ人たちが父親教育によって目指すものは、なによりも「生物」として生まれた子供を「人間」としての子供に成長させていくということだ。(P.72)


第2章 人生に生き残る-ユダヤ的知恵の活用法

ユダヤ人は「学問と商売」で生き残った(P.74) 

ユダヤ教徒の考え方では、学ぶことはそのまま善であり、聖なる務めである。人は一生涯学び続けて信仰を深めていくもの、というのがユダヤ教徒の考えだ。(P.75)

 損をしないこと、これは大きな知恵である。誰もが面倒だからといっておおざっぱにやっていること、それをおっくうがらずにひとつ緻密につきあってみようじゃないかということ。この精神が習い性になっていなくては、決して商売で成功することはないだろう。
 これをボクは、「徹底主義」とか「とことん主義」とかいっている。損をするのは、どこかで不合理なことをやっているからだ。問題をとことんまで追求し、最も合理的なことを見つけ出す。これが損をしない最良の方法なのである。(P.77-78)

 ユダヤ商人たちにとっては、商売の条件がマイナーな状態にあることが当たり前だった。だから、それをどう突き崩すかが商売を展開するにあたっての最大の課題になった。そこにひと工夫もふた工夫もひねった商売センスが要求されたのである。(P.80)

 条件が悪いから仕方ない、とはユダヤ人は考えない。ハンディがあるならば、どうしたらそのハンディをカバーできるかと必死になって考える。そしてハンディを抱えたままでも相手に勝つ方法を考える。それがユダヤ人である。(P.82)

 誰かの助けを期待すれば、そこですでに自力が放棄され、なんらの工夫も生まれる余地がなくなる。実人生に生き残ることは、現実に勝ち残ることである。マイナーな条件を突き崩す方法、そこに全神経を集中させることしかないことを知って欲しい。(P.82) 

 なにごとにも一貫して駆け引きが大切なのである。つまり、駆け引き精神が身体に染み通っていなくては、いざというときに人生を賭けた駆け引きはできない。(P.91)

 ユダヤ的知恵の特徴は、・・(中略)・・まっすぐに目的に向かって直線的に突き進む直線的なものではない。あるときはジグザグにあるときは螺旋状に旋回し、多方向への可能性を常に失わない、柔軟性に富んだものといってよいだろう。それは、国境を越えた往来や移住を当たり前としてきたユダヤ人の生き方と無縁なものではない。異国の地理的環境や天候・気象に慣れ、その土地の文化・風俗・習慣に素早く適応しなくては生活することのできなかったことから生まれた、当然の知恵のあり方だったのである。(P.92-93)

 これからは、日本の企業もますます生産拠点を海外に移さなくてはならなくなる。と同時に、日本に外国の企業がどんどん進出してくる。時代はまさにユダヤ人に絶好の展開期となっているのである。とすれば、その正反対の島国民族日本人は、果たして生き残れるのだろうか、と思わずにはいられない。(P.93-94)

 ユダヤ商人たちが商業のパイオニアとして生きることを運命づけられていったところで、どうやらユダヤ人の心は冒険精神として鍛えられていったようだ。ユダヤ人には、人のやらないことを率先してやる、ちょっと尻込みしそうなことでも思い切ってやってしまうという人がなかなか多い。(P.97-98)


第3章 独創を生む-タルムード頭脳開発システム


 神さまの祝福を求めながら、人間のことは人間の力で解決する、というのがユダヤ人の考えなのだ。(P.102-103)

 凄まじい頭脳開発システムタルムード式教育の実際(P.104)

 音・リズム・コトバ・思考の調和が「脳力」を飛躍させる(P.108)

 タルムードを勉強する場合、そこでは音として、またリズムとしてのタルムードが、そして複数の言語が相乗するタルムードが、そして思考の複雑な回路としてのタルムードが、一つの全体として形作る調和を頭脳が受け止めていることになる。(P.110-111)

 タルムードは全63巻、1万2千ページ。紀元前500~紀元500年の間に語り伝えられてきた伝承を、何千人という学者が集大成したもので、伝承の起源は5000年を遡るといわれる。まさにユダヤ人5000年の知恵の集積庫であり、あらゆる分野にわたる情報の大海である。(P.113)

 タルムードのコトバはユダヤ教徒にとっては絶対的なものだが、重要なことは自分の頭を働かせなさいということなのだ。(P.113)

 学校人にすすめたいあらゆる可能性を追求するタルムード的思考 (P.113)

 そんなこと自明の理ではないか、というようにやらないところが、タルムードなのだ。とことんまで、考えられるあらゆる可能性について議論するのである。(P.116)

 識と識はまったく異なる頭脳の活動だ(P.120)

 タルムードにはいろいろな名言・格言が収録されているが、ボクは次のコトバをぜひ日本人にお勧めしたいと思う。
 「貧乏な人に魚を一匹やれば、その人はその日だけは助かるけども、魚の釣り方を教えてあげればその人は一生助かる」
 ・・(中略)・・つまり「知」は「ある情報を知る」という単純な動作だけを表しているが、「智」は「知恵」を含み、考え、応用するという動作を表しているのである。
 ・・(中略)・・
 ところでなぜこのコトバをとくに「日本人に――」というのかというと、日本人の多くがどうも目先の知識、テクニック、ハードにご執心の一方で、自分で身につける知識=知恵としてのアート、ソフトの方面に弱いという現実を感じるからなのだ。
 もしかして、日本人は誰かが釣り上げた魚を工面してきて日々を暮らしているのではないのかな? もしそうならば、魚をいつまでも工面できるとは限らない。本当に魚の釣り方を自分のものにすることこそが、日本人の課題となってくるのではないだろうか。(P.120-122)

 タルムードを勉強する目的は、なにかをそこから得るとか、なにかを身につけるためというのではなく、それがミツバ(善行)だからである。そしてタルムードの議論、タルムードで展開されていることそのものを学ぶのである。学ぶこと、それだけが目的なのだ。
 とはいっても、実際そこからはたくさんのものを得ることができるし、身につくものがいろいろあることは当然のことである。
 第一に、複雑な構造のものを分析する力が格段につく。これは凄いものだ。なにしろ、「究極の複雑」ともいうべきタルムードの絡み合った論法と取っ組み合いをするのだから、いやでも分析力がつくわけだ。専門的な構造分析、言語分析、精神分析、経済分析などを十分にこなせる素地ができる。ものごとの全体を一つのシステムとして見る力もこれで養われる。
 また、まるで底なし沼のようにどこまでも深く突っ込んでいくタルムード論理に懸命についていくわけだから、推論の方法のさまざまなバリエーションを覚えることになる。論理の筋道がいくつもあるため、ははん?これだな、といって行ってみると違っていた、これかな思って行ってみても違う。そんなとことから、推論の立て方、進め方が自然にわかってくるようになるのである。この応用範囲は限りなく広い。推理小説の謎解きなどお手のもの、数学や物理に、経済に哲学にと、いくらでも活用することができる。
 ・・(中略)・・そして、すべてについていえることは、限界を突破する創造的な思考、行き詰まりをパッと乗り越えてしまうヒラメキ思考を生み出す回路への入り方、通り方が見えてくる。それはとことんまで追求する結果のことだが、その「とことん」という地点がどこなのかの感じがよくわかるのだ。
 まあ、こんな具合にいいことづくめなのだが、ボクは真面目な話、タルムード頭脳開発法は、人間の教育の基本的な方法として応用できると思う。別にタルムードに即して勉強するというのではない。盗むべきはタルムード式のやり方である。(P.122-124)


 いやいや、まだ全体の半分も終わってないのだが、きりがないのでここでやめておこう。キーボードに手入力で打ち込み写す作業は、「写経」みたいなもんだなあ。デジタル写経、か。
 正直いってくたびれたけど、あらためて指を通じて、アタマのなかにたたき込まれた思いがする。

 ただ、第6章 誰もいわない-不思議大国日本の欠陥発想 から一カ所だけ引用させていただく。

 なぜ、日本人はこんなにもソフトに弱いのか?
 自分でプログラムを組んでいてわかることは、これはまさしくタルムード思考の、例の複雑な論理そのものの現実化ではないか、ということである。ある条件ではこうしてみる、ある条件ではこんなふうにするということが、複雑に関連し合って絡み合うことが、本当にタルムード的なのである。だから、当然ボクにはプログラミングがぴったりくるのだろう。(P.188)

  (* 太字強調部分は引用者による)

 
 ざっと、抜き書きを読んでいただいて、どんな感想をもっただろうか。 
 2010年現在、著者の発言は、すでに時代遅れとなっているといえるだろうか・・・

 いまから23年も前に出版された本であるが、本書を再読して思うのは、まだまだ日本人はユダヤ人から学ぶべきことが多い、ということだ。
 日本人が書いたユダヤ本は多数あるが、ユダヤ人自身が日本語で書いた本書は実に貴重な一冊である。
 ますます進展するグローバル化は、もはや不可逆の流れと行っても言いすぎではないだろう。複雑化する国際社会のなかで生きるしかない日本人にとって、大いに参考になるアドバイスに充ち満ちている。

 こんなに中身がつまっていて有用な内容に充ち満ちた本書を絶版のままにしておくのは実に惜しいではないですか!
 「復刊ドットコム」で運動を起こしましょう。私が本書『ユダヤ感覚を盗め!』の復刊リクエストを行いましたので、「復刊リクエスト」ページを訪れてみて下さい。
 そしてぜひ「清き一票」を! もしかしたら復刊されるかもね・・・


P.S. 「タルムード」研究の映像化

 ちなみに「タルムード」研究がどういうものかについては、ハリウッド女優で歌手のバーブラ・ストライサンドが監督・製作・主演・歌唱のすべてを行った、1983年度のミュージカル映画作品『愛のイエントル』(Yentle)をご覧になっていただきたいのだが、日本ではDVDがまだ販売されていないのが残念だ。ビデオがまだレンタルできるかどうかもわからないので、YouTube でトレーラー を見て欲しい。米国版の DVD はこちら。
 原作は、イディッシュ文学の巨匠イツハク・バシェヴィス・シンガー(I.B. Singer)の短編小説 Yentle, the Yeshiva Boy である。ユダヤ人世界では、学問がまだ男にしか許されなかった時代、禁断の学問の世界に憧れ、ユダヤ教学院(イェシヴァ)に男装して潜り込むことに成功した19世紀東欧のユダヤ女性の物語。
 自らもユダヤ系(ドイツ)であるバーブラ・ストライサンドが、圧倒的な歌唱力と演技によってにによって歌いあげる、亡き父親へに捧げられた作品。原作は基本的に「倒錯した性」を扱ったコメディとしての色彩が強いが、この原作に惚れ込んでいたバーブラ・ストライサンドの解釈で、人間の根源的欲求である、知へのやみがたい思いと、精神の自由への限りない憧れを謳い上げたこの映画は、感動的な作品となっている。
 舞台は19世紀のポーランド、実際のロケはチェコで行われたらしい。冒頭シーンに登場するのはプラハのカレル橋である。自然描写もまた実に美しい。
 とくに挿入歌の Papa Can you Hear Me? は感動的で、素晴らしい!YouTube にて。ラストシーンの、「約束の地」であった新天地・米国に渡る船上で歌われる主題歌 A Piece of Sky も。YouTube にて。父親に捧げたこの作品は、同時に米国への愛を歌ったものでもある。
 バーブラ・ストライサンドのファンである私は、アルバム Yentle も聴きこんだものだが、この CD も日本版はすでに廃盤というのは残念。米国版は入手可能である。


            
                             

2010年1月25日月曜日

書評 『大使が書いた 日本人とユダヤ人』(エリ・コーヘン、青木偉作訳、中経出版、2006)




「日本の武士道精神とユダヤの人生哲学」には非常に共通するものがある


 長年にわたってイスラエルで空手を修行してきた著者が、在日イスラエル大使としての滞在も含め、三度にわたる自らの日本滞在経験も踏まえて書きおろした思索の書。

 本書の著者であるエリ・コーヘン氏は、「日本の武士道精神とユダヤの人生哲学」には非常に共通するものがあることを教えてくれる。
 著者は、ユダヤ人としてのアイデンティティのきわめて強い人であり、しかも空手修行に加えて、英文で宮本武蔵の『五輪書』を熟読してきた人でもある。英国でM.B.A.を取得した国際ビジネスマンであり、国民皆兵制のもと軍務もこなし、政治家と外交官も経験してきた"実践の人"である。
 訳文がこなれて読みやすいということもあろう、松濤館(しょうとうかん)空手五段の腕前をもつコーヘン氏の文章は核心を突く指摘に充ち満ちており、読んでいてビンビンと心に響くものを感じた。
 イスラエルは人口比でみたら、日本以上に各種の日本武道が普及している国であるという。この意味においては、正確には日本人と”ユダヤ系イスラエル人”に共通するものが多い、というべきかもしれない。

 日本人とユダヤ人がよく似ていることは、日本人とユダヤ人の双方からさまざまな人たちによって指摘されてきたことである。しかし著者は、いわゆる「日猶(にちゆ)同祖論」からは距離を置いている。こういった立場をとらなくても、日本人とユダヤ人がかなり共通性をもっていることを著者は確かに示している。
 本書を読むことで、あらためて日本人とは何なのか考えるキッカケになるであろう。そして必ずや日本人としての自覚、誇りを見いだすはずである。ただちょっと日本人を理想化しすぎているきらいがなくはないのだが・・・
 日本人は、共通点と相違点をよく認識したうえで、自らの鏡としてのユダヤ人(=ユダヤ系イスラエル人)を大いに意識すべきなのである。

 パラパラと見ているうちに、思わず引き込まれて最後まで読んでしまった。読むべき価値のある一冊といえよう。


<初出情報>

■bk1書評「「日本の武士道精神とユダヤの人生哲学」には非常に共通するものがある」投稿掲載(2010年1月5日)
■amazon書評「「日本の武士道精神とユダヤの人生哲学」には非常に共通するものがある」投稿掲載(2010年1月5日)
 

<書籍情報など>

 私が読んだのは単行本だが、『驚くほど似ている日本人とユダヤ人』(中経文庫、2008)というタイトルで文庫化されている。
 単行本タイトルにある「大使が書いた・・」とは、その昔、イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』(角川文庫、1971)というベストセラーがあったので、それをもじったものだろう。現在では、イザヤ・ベンダサンとは、評論家でキリスト教関連書籍の出版者オーナーであった山本七平の覆面であることは、現在では周知の事実である。事実関係の間違いも多数あると指摘されている。
 本書自体は、正真正銘のユダヤ系イスラエル人が書いたものである。出版されてすぐ読んでいるが、また最近パラパラとみているうちに、思わず引き込まれて結局全部読んでしまった。

 単行本出版当時は著者は在日イスラエル大使であったが、現在はテラリム・グループ(Tlalim Group)極東代表。イスラエル松濤館空手道協会名誉会長。
 著者略歴は、1949年エルサレム生まれ。イスラエル・ヘブライ大学数学・物理学科、ロンドンテームズヴァリー大学でM.B.A.取得。
 先祖は、コーヘン(祭司:Cohen)の家系であり、エルサレムの第二神殿破壊以後、チュニジアのジェルバ島で2500年以上過ごす。イスラエル建国後、父親の代にコーヘン・ファミリーはイスラエルに帰還した。

 なお「日猶同祖論」の「日猶」とは日本人と猶太人(ユダヤ人)の略で、「日猶同祖論」とは、イスラエルの失われた十支族の一つが日本にやってきて、日本人の祖先となったという、まあ都市伝説の類の「妄説」であるが、日本とイスラエルの双方に、その主張を信奉している人たちがいる。
 しかしながら、偶然の一致とはいえ、日本人とイスラエル人(ユダヤ人)には共通性も多いことは否定できない。民族宗教のユダヤ教と同じく民族宗教の日本の神道(しんとう)は、さまざまな点でよく似ていることも確かである。詳しくは本書を直接読むといい。著者は、すでに書いたように、コーヘンという祭司の家系に生まれた人である。日本なら神道の神官の家系、となろう。
 しかしこの話題は語り出したら切りがないので、ここらへんでやめておこう。
 実際は、両民族には、かなり相違点も多いことは強調しておく必要がある。

 イスラエルでは人口比でみたら、日本以上に各種の日本武道が普及している国であるという事実。空手も、柔道も、合気道も、どんな小さな町にも、必ず一つは道場があって、老若男女が日々稽古に励んでいるという。これは実に驚くべきことだ! 私自身、合気道をやってきたので、その点にかんしては、イスラエルには大いに親近感を感じるのだ!
 参考のために、テル・アヴィヴの合気道場のウェブサイトを再び紹介しておこう。この道場のIntegral Aikido Tel Avivプロモーション・ビデオがある。残念ながら,私はまだこの道場を訪問したことはないのだが。

 これで、皆さんも少しはイスラエルに関心をもたれただろうか?
 詳しく知りたいと思う人は、このブログで以前執筆した記事もご覧いただけると幸いである。『イスラエル』(臼杵 陽、岩波新書、2009)を中心に、現代イスラエルを解読するための三部作を紹介。その記事で取り上げた『イスラエル』(臼杵 陽、岩波新書、2009)はぜひ一読を薦めしたい。



   


 

        

2010年1月24日日曜日

書評 『対話の哲学-ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜-』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)




ユダヤ教の文脈を離れても成り立つ、普通の人のための、生きることの意味を明らかにする、常識に基づいた「対話の哲学」

 古代ギリシアに始まる、西洋哲学の常識を否定するところにユダヤ人哲学者たちが発見した「対話の哲学」。
 私という「自我」が出発点となる、ひとり語りのモノローグではなく、「あなた」の存在によって成り立つ対話であるダイアローグ。「対話の哲学」は、哲学専門用語ではなく、日常語による哲学で、普通の人のための、常識に基づいた哲学である。

 18世紀の啓蒙の時代に「解放」され、19世紀には西洋社会に「同化」したはずだと思っていたドイツのユダヤ人、しかし彼らは根強く社会に存在する「反ユダヤ主義」のなか、「同化」によるアイデンティティ喪失の道ではなく、自らの内なるユダヤ性探求の方向に向かい出す。新カント派の哲学者ヘルマン・コーヘンもまたその道の探求を始めた一人である。
 そしてその弟子にあたる思想家フランツ・ローゼンツヴァイクが、ドイツ軍の下士官として、第一次世界大戦のバルカン戦線の塹壕のなかで書き始め、不治の病に苦しみながらも作りあげていったのが「対話の哲学」であった。

 死ぬ存在である人間である「私」と、同じく死ぬ存在である「君」とのあいだに成り立ちうる「対話」。「あなた」あっての「私」、「私」あっての「あなた」。「呼びかけ」と「応答」によって成り立つ関係、「話す」よりも「聞く」ことの重要性。
 対話は、絶対他者としての「あなた」あってこそ成り立つ。「あなた」が他者でなければ、それは単に自我を投影しているにすぎないからだ。そこには「他者」から切り離された「自我」ではなく、「他者」とのかかわりのなかではじめて意味を持つ関係が生じている。対話は、つねに偶然性をはらんでいる。

 本書は研究書の体裁はとっているが、知識を得るための本ではない。
 読むことによって、一気に視界が開けてくる思いをする本。あらたな地平が開けるような思い、目が覚めゆくような思いがする本だ。
 哲学書を読んでいるというよりも、人間が生きていることの意味を、そのまま語っているのを聞くような思いをしながら読み進めている自分を見いだした。もちろんそれは著者との対話なのだが、著者ではなく特定の「あなた」との対話を続けているような気もしていた。

 それは著者の意図とは違うのかも知れないが、生きているということをこれほど、声高でなく、普通の声で肯定する哲学はないのではないか。
 著者は、これらドイツ系ユダヤ人哲学者が開拓していった「対話の哲学」を、ユダヤ教の文脈を離れても成り立つ、より普遍性のある哲学として、われわれ日本人にも示してみせてくれた。
 著者は「反哲学」を説く、哲学者・木田元の弟子である。
 
 ふだんは哲学書や思想書など読まない人も、ぜひ手にとってみてほしい。
 意義深い読書経験になると思う。


<初出情報>

■bk1書評「ユダヤ教の文脈を離れて成り立つ、普通の人のための、生きることの意味を明らかにする、常識に基づいた「対話の哲学」」投稿掲載(2010年1月10日)
*再録にあたって、一部字句の修正を行った。


<書評への付記>

 「耳を傾ける」ということについて、私はコーチング理論でいう、アクティブ・リスニング(Active Listening)を想起したが、しかしそれとも若干ニュアンスが違うようだ。
 日本語の「傾聴」は、かしこまって聞くというニュアンスが強すぎる。聴くだけでは「対話」にはらない。
 それが「対話」につながるためには、双方向のコミュニケーションである必要がある。「呼びかけ」の声に耳を傾け、そしてそれに対する「応答」を行う。この無限の可能性をもった有限の連鎖が「対話」である。
 一言でいってしまえば、「呼びかけ」と「応答」の連鎖が対話なのである。

 本書について若干の補足をしておく。
 「対話の哲学」は著者によれば、ドイツ系ユダヤ人の思想家たちが、あらたに再発見した自らのユダヤ性とユダヤ教を出発点に、18世紀の言語学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(・・有名な探検家アレグザンダー・フォン・フンボルトはその弟)の言語論を媒介にして展開した哲学である。
 ユダヤ教の文脈においては、もちろん超越的な存在である神が「あなた」であり、「私」はその呼びかけに応答し、また「私」の呼びかけに神である「あなた」が応答する、そういう関係にある。この枠組みを人間と人間のあいだの関係として読み替えたものである。
 フンボルトの言語論で、とくに「双数について」で展開された対話的言語論が、「対話の哲学」成立に大きな役割を果たしたらしい。
 孫引きになるが、フンボルトはこう述べているという。「言語の根源的本質のうちには、ある変更不能の二元論がひそんでおり、言語活動の可能性そのものが呼びかけと応答によって条件づけられている」(P.135)と。

 フランツ・ローゼンツヴァイク(1886-1929)については、Wikipedia の項目を参照。以下、『対話の哲学』の記述と、『二十世紀のユダヤ思想家』(サイモン・ノベック編、鵜沼秀夫訳、ミルトス、1996)の第6章を参考に補足し、簡単にまとめておく。
 ユダヤ人コミュニティに属してはいたが、安息日の夕べすら知らないという世俗的な人生を送っていたローゼンツヴァイク(・・日本語に直訳すれば、"バラの小枝")は、キリスト教に改宗してドイツ社会への「同化」の道を選択するか否か、最終的な決断を下す前に訪れたユダヤ教会(シナゴーグ)で参加したコル・ニドレイ(贖罪の日)の礼拝で、ユダヤ教が生きた信仰であることを確信し、ユダヤ教に回帰するという劇的な宗教的自己発見をした。そして終生「ユダヤ人として生き続けること」を決意する。
 その後、第一次大戦においては、自ら志願してドイツ軍の下士官として出征、バルカン戦線の塹壕のなかで突然、「新しい哲学」の霊感を受けた。これが後に「対話の哲学」へと結晶していく。
 復員後はアカデミックな道は選ばず、ユダヤ教の研究生活を続けながら、ユダヤ人教育のための機関として「自由ユダヤ学舎」を組織し、7年間にわたって実践活動に専念していたが、まさにその絶頂期に、筋萎縮側索硬化症(ALS)という不治の病に突然冒され、10年以上にわたって闘病生活を続けるという不幸に見舞われる。
 筋萎縮側索硬化症によって全身の筋肉が徐々に萎縮していき、ついには書くことも話すこともできなくなる。しかし、病気で自分を暗くすることなく、家族の助けをえながら、特別に改良されたタイプライターも使いながら、最後の最後まで創造的な仕事をし続けた。
 ローゼンツヴァイクの感動的な人生は伝説の一つとなって語り伝えられている。

 塹壕のなかで哲学にかんする思索を続けていたという点においては、同じく第一次大戦においてハンガリー=オーストリア帝国軍の兵士として出征していた、論理哲学者ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)も思い起こされる。彼はウィーン出身のユダヤ系であったが、父親の代にカトリックに改宗している。後に英国に渡って、ケンブリッジで教鞭をとった。
 ユダヤ系哲学者で「対話」とくれば、のちにイスラエルに移住した、同じくウィーン出身の哲学者マルティン・ブーバー(1878-1965)による『我と汝』を想起する。ローゼンツヴァイクはブーバーと共同して、ヘブライ語旧約聖書のドイツ語訳作業を行っている。
 ただし、ブーバーによる『我と汝』は、著者によれば「対話の哲学」ではない、ということになるらしい。『我と汝』においては、あくまでも中心にあるのは「我」であり、「汝(あなた)」あっての「私」ではないということのようだ。

 また、本書を読んで、「弁証法」こそ「対話的原理」だと思い込んできた私の固定観念が覆された
 弁証法(dialectique)とは、ヘーゲルに代表される思考法だが、基本的に 正⇒反⇒合のループを繰り返しながら歴史が前進するという思考である。
 「正」に対するアンチとしての「反」、この正⇔反のあいだにある対立を乗り越えて「合」になる。この「合」が「生」となり、またアンチである「反」が現れ、それを乗り越えて「合」になり、それが・・・・
 「正⇔反」の対立を乗り越えることをヘーゲルは、アウフヘーベン(aufheben)といったわけだが、日本ではかつて、止揚(しよう)なんて意味不明なコトバが哲学用語として止揚、もとい使用されていた。一般ピープルにとっては、まったくもって「はあ?」って感じだろうが・・・
 しかし、何が「正」であるにか一義的に前提されることは無理がある。高校時代からそういう疑問は感じてきたが、本書を読むことによって、太陽を覆っていた黒い雲が去った、というような感想も抱いている。対話的原理としての弁証法は、そもそもがプラトンの対話編にもさかのぼるものであり、ギリシア哲学そのものなわけなのだ。
 ヘーゲル哲学を学んだカール・マルクス(1818-1883)は、いわゆる「唯物弁証法」で、さまざまな社会現象を考察しようとした。
 唯物弁証法についての評価はさておき、マルクス自身は19世紀ドイツの改宗ユダヤ人である。弁護士だった父親がドイツ社会への「同化」を選択し、キリスト教に改宗した。
 マルクス自身は、そもそもデモクリトスの唯物哲学の研究から出発した人である。プラトンの観念論の対極としてのデモクリトスである。
 したがって、マルクス自身もギリシア哲学の流れのなかにいる人だ、ということになる。

 「反哲学」とはギリシア以来の正統派哲学に反旗を翻したニーチェ以降の哲学的立場であるが、日本人の立場から見れば、まったくもって同感を覚えるものである。ローゼンツヴァイクの哲学もまた、ドイツ観念論哲学に対する反旗であった。
 だから、著者もいうように、「対話の哲学」は日本人にも貴重な示唆を含んでいる。ただし、「対話」は「対決」ではない。「対決」はモノローグのぶつけあいに過ぎないからだ。「対話」はあくまでも「双方向性のダイアローグ」であり、「君」と「私」の相互作用である。
 「反哲学」については、また別の機会にふれることもあろう。


 長々と書いてしまったが、「対話の哲学」は、もともとの出発点であるユダヤ教の文脈を離れても、発展可能性の大きな哲学であることが、著者によって示されたといえる。
 おそらく時間がたてばこの本に書かれている細かい内容はは忘れてしまうだろうが、それでも何か一気に視界が開けていくような記がしたという記憶は残るだろう。そんな印象をもった本である。

 たとえ困難であっても、「対話」そのものの窓は開いておかねばならないし、「対話」の努力は放棄してはならない、と反省をこめて思うのである。






 
                    

2010年1月23日土曜日

書評 『現代日本の転機-「自由」と「安定」のジレンマ-』(高原基彰、NHKブックス、2009)




冷静に現実をみつめるために必要な、社会学者が整理したこの30数年間の日本現代史

 1976年生まれの33歳の社会学者が、石油ショックの発生した1973年以降の社会変動を、社会理論の観点から冷静に整理した、この30数年間の日本現代史。

 1980年代にかけて実現した「超安定社会」は、バブル崩壊後の1990年代には機能不全に陥りはじめた。そして2000年代に入って最終的に「日本型新自由主義」のもと一気に崩壊したことが明るみになり、多くの人たちが裏切られたという思いを抱いている。「被害者意識」に充ち満ちている現在の日本。
 雇用と仕事の破壊は、地域や家庭の崩壊をともない、誰の何に対すする被害者意識かもわからないまま、無力感と閉塞感が強まるばかりである。

 このもやもやとした、つかみどころのない閉塞感の原因がどこにあるのかを考えてみたい人には、ぜひ読んでみることをすすめたい。
 「あまりにも過去が早く忘却される」日本では、現状を正確に把握するためには、歴史的な経緯を整理しておくことがきわめて重要だからだ。

 「超安定社会」とは歴史的な偶然により実現したものであり、しかもそれは日本人が自ら抱いた自画像であった。崩壊したいま明らかになったのは、その自画像は実は幻想だったということである。

 「日本的経営」という、正社員男子とその配偶者である専業主婦、そして子供(たち)という家族をセットとしたシステムのもとにおいては、社会福祉もまた会社と不可分のものとなっていた。しかし、このシステムがパートタイムの主婦やアルバイトの若者を「第二身分」として前提としていたことに、多くの人たちは気がついていなかった。
 激化するグローバル競争のなか、経済界が経済合理性の観点から「日本的経営」に決別し、「新自由主義」を選択したことは、1980年代後半からビジネス社会に身を置き、とくに人事管理に深くかかわった経験を私にはよく理解できる。しかし、その私も現在の日本の状況は想像できなかった。私もまた「幻想」のなかにいたのだろう。

 失ってみてはじめてわかった「超安定社会」、「一億総中流社会」という幻想。
 幻想であった以上、もはやこの「超安定社会」に戻ることもありえない。崩壊を嘆いてみても、ノスタルジーにひたるのも無意味なことだろう。
 ましてや裏切られたと被害者意識をもっても、何も生み出さないのではないか。
 著者もいうように、個々人が手探りで進むしかないのである。処方箋を優秀なエリートに作ってくれると期待するのは、もうやめたほうがいい。また裏切られることになる。

 冷静に現実をみつめるために、この30数年間の日本現代史を、著者と一緒ににみつめてみることを、すすめたい。
 処方箋を、自分自身で見つけるために。



<初出情報>

■bk1書評「冷静に現実をみつめるために必要な、社会学者が整理したこの30数年間の日本現代史」投稿掲載(2009年12月21日)


<書評への付記>

 著者のデビュー作であった前著不安型ナショナリズムの時代-日韓中のネット世代が憎みあう本当の理由-』(洋泉社新書y、2006)は、きわめて刺激的な本だった。
 本書もまた、日本の読者だけでなく、韓国や中国の読者も最初から想定に入れて執筆されている。新しい世代の学者のこういった姿勢はたいへん望ましい。本書が韓国や中国の対日観に何かしら貢献してくれるものと期待する。

 本書はよりマクロな視点で現代史、それも1973年頃から直近までの現代史を扱っている。「一億総中流幻想」の形成とその崩壊、1970年代に石油ショックを乗り切った日本では、格差社会が欧米に30年近く周回遅れて到来したこと、についての分析である。
 こういう視点はきわめて重要である。
 ただし、基本的に社会学者による歴史分析であるので、やや社会理論の概念が過多な感じは否めない。
 それでも、じっくり読む価値ある本である。

 私もその一人であるが、1970年代から1980年代前半を社会人として過ごしていない人は、自分が自覚的に体験していない時代を、知的に理解するために。またその時代を体験してきた人は、自らの生の軌跡を、理論的に検証してみるために。
 ビジネスマンであれば、とくに経営企画担当者は目を通しておくことを奨めたい。将来予測ををするためには、過去について正確な自己認識をもっておくことが必要だからだ。

 ぜひ、書評『田中角栄 封じられた資源戦略-石油、ウラン、そしてアメリカとの闘い-』(山岡淳一郎、草思社、2009)もあわせて、ご覧いただきたい。「一億総中流幻想」の意味を考えるうえで、田中角栄はどうしても押さえておかねばならない歴史的存在である。





<関連サイト>
                
中国の友人に聞かれた。「なぜ君たちは、自分をかわいそうだと思うのか?」-『現代日本の転機―「自由」と「安定」のジレンマ』の高原基彰氏に聞く(日経ビジネスオンライン」(2010年8月6日)




    

2010年1月22日金曜日

バカとハサミは使いよう-ツイッターの「軍事利用」について


              
 ツイッター(twitter)が爆発的に広がっているようだ。私も先週から参加して、自ら"体感"してみることとした。

 一般には、コミュニケーション・ツールとして意識されているようだ。ブログや、ミクシィなどと同様のものとして。
 ただ多くの人が勘違いしているようだが、コミュニケーションは必ずしも双方向である必要はない。これらのコミュニケーション・ツールが、双方向のコミュニケーションを容易にしたことは確かであるが、基本的に発信型のコミュニケーションであることを、もっとよく認識した方がよいと思われる。
 世の中には、昔から ROM(ロム)という、コンピュータ用語の ROM(=Read Only Memory)をもじった表現があって、自ら情報発信はしないが、発信されたメッセージを読むだけという人が多数存在する。というより、むしろ多数派であろう。
 この点、ツイッターは、発信されたネタ(=情報)に対して「つぶやく」に際して、昔風の表現を使えば、"敷居が低くなった"ということはいえるだろう。この点は、ツイッターを実際に使ってみて"敷居の低さは革命的"だと、私自身思っている。

 ツール(道具)というものは、人間の諸活動を容易にするためのものだから、使う人間によって、その使い方が異なってきて当然である。極端な話、どう使おうが人の勝手である。
 私自身は、自分自身のメモ帳として使っている。たとえば出先で携帯電話からツイッターに発信しておけば、140字以内という絶対的な制約条件があるので、簡潔にメモを作ることが可能になる。もちろん内容は、他人に見られてもまったく問題ないものに限定している。
 子供のときから、試験問題で 「この趣旨を100字以内で述べよ」なんてのに慣れているので、140字以内でメモをまとめるのは、全然苦痛ではない。実際、140字ギリギリまで書くよりも、もっと短く80字以内くらいの制限があってもいいのではないか、とも思う。
 なんせ、日本語人は、五七五の俳句という、世界最小の17文字の表現に慣れているのだからね。

 もちろん、企業関係者も、マーケティング手法の一つとして大いに活用しようとしているらしい。こういった使い方もある。「ハイチから宇宙から、カトキチから「なう」-肥大化するつぶやきメディア「Twitter」の正体」によれば、食品メーカーのカトキチでは、ツイッター上で「うどん」というキーワードで検索し、発言している人全員に返信しているらしい。
 まさに、一対一の双方向性コミュニケーションを実現しているといえる。

 世の中にはこんな使い方をしている者もあるらしい。タイトルに掲げたツイッターの「軍事利用」である。
 田中宇(たなか・さかい)という、ネット上でメールマガを配信しているジャーナリストがいるが、無料公開している「田中宇の国際ニュース解説」の最新記事「グーグルと中国」(2010年1月20日)に、こういう内容の文章があったので、一部引用させていただく。


▼政権転覆の道具としてのツイッター

(前略)・・イスラエル軍の諜報部門では、ツイッターを使った敵国政府の転覆を画策する部隊があると報じられている。また、旧ソ連のモルドバで昨春に起きた反政府運動も、米CIAがツイッターを活用して反政府運動を煽った疑いが指摘されている。米国発のサービスであるツイッターやフェイスブックは、軍産イスラエル複合体が、敵性国の政権転覆を画策するときに使うツールだと疑われる。
これらの事象を見ると、中国政府がツイッターを遮断すべきと考えたのは理解できる。

New IDF Web 2.0 unit to fight enemies on Facebook, Twitter

Moldova's 'Twitter Revolution' a CIA Plot?


 引用した文章の、田中宇氏の見解については、正しいかどうかは私には検証しようがないので、ここでは棚上げしておく。しかしながら、ツイッターもコミュニケーションのツールである以上、様々な人間が様々な使い方を考え出すのも当然であろう。
 特に、軍というものは、なんとかして敵よりも一歩前に出て優位に立たねばならないというマインド・セットができあがっているので、つねに最新のテクノロジーを取り入れ、自ら開発も行うことは、当たり前といえば当たり前なのである。ここでは具体的には、軍による情報宣伝活動のツールとして、コミュニケーション戦略の一貫として活用する、という姿勢である。
 ツイッターの開発者の、思いもよらぬ使い方をする人間がでてきてもまったく不思議ではないわけなのだ。

 というわけなので、ツイッターについては、みなさん自らいろいろ実験して、使いこなしてみたらいいでしょう。
 決して、ネット上で双方向のコミュニケーションをとり続けなければならない、なんて強迫観念を待たないことだ。そんなことしてたら、さらに日本人ウツ病患者が増えるだけである。まさにその当人にとっては、無間地獄である。
 日本では「世間」や「空気」が要求する同調圧力が、人間精神を萎縮させていることは、このブログでも何度も書いてきたことである。
 「世間」から距離をとれ!

 日本映画『戦争と人間』で、五代財閥の総帥を演じる芦田淳がつぶやくセリフにこういうものがある。ときはノモンハン事件前夜、関東軍の暴走により、日本が大陸での戦争にずるずるとはまっていった時代のことだ。

 「バカとハサミは使いよう、軍人さんも使いようだ」

 「軍人さん」を「ツイッター」に替えてみたらいいでしょう。
 まあ、こういう「上から目線」も、時には必要でしょうね。


P.S.

「世間」と「空気」については、ブログでも何度もかいているので、ご参考まで。

ネット空間における「世間」について(再び

ネット空間における世論形成と「世間」について少し考えてみた

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009

また、阿部謹也の出演NHK番組「世間への深い考察」(2006年)。ぜひ、ヒマなときに1から6まで通しでみてほしいと思います。全部で60分。阿部謹也は、
『世間論』の提唱者です。


(2010年1月23日)



          
           
       

2010年1月21日木曜日

書評 『未完の「国鉄改革」』(葛西敬之、東洋経済新報社、2001)-JALの「法的整理」について考えるために(つづき) 




JALが会社更生法に基づく法的整理対象となり、改革への「最後の一歩」を踏み出したいまこそ読むべき本

 日本経済新聞社は2010年1月19日、「日経平均」の指数構成銘柄を、会社更生法を申請し上場廃止となるJAL(株式会社日本航空)に替えて、JR東海(東日本旅客鉄道株式会社)を新規採用すると発表した、という。なかなか意味深なニュースであった。

 JALとJR東海、運輸交通業界に属するこれら二大企業の明暗は、さかのぼれば「分割民営化」される前の旧国鉄についての連想を呼び覚ます。
 三公社の一つであった国鉄が分割民営化され、それぞれJR五社体制になって再生したのは、歴代の国鉄総裁(=運輸省からの天下り経営者)による改革がことごとく失敗したのち、最後の最後に、薄氷を踏むような闘いの末に、かろうじて実現したものであった。

 本書は、JALが会社更生法に基づく法的整理対象となり、外部から京セラ創業者の稲盛和夫を迎え、改革への「最後の一歩」を踏み出したいまこそ、読むべき本ではないだろうか。

 JAL再建にあたって参照すべき実例は、米国のGMや、海外の航空会社はさておき、なんといっても、いまから23年前の1987年に実現した「国鉄改革」という、公益性をもった巨大組織体の変革であったこと意識するべきであろう。国鉄はまさに「日本人の、日本人による、日本人のための」巨大組織であったからだ。
 もちろん、私はJALの行く末が分割解体であると主張するわけではないが、非効率な資産を抱え、売り上げ不振による債務超過であったという財務問題だけでなく、複数の組合を内部に抱えた労務問題の複雑怪奇さが、JALと旧国鉄には共通しているのである。
 そして、政治家、国鉄内部関係者、外部の組合運動家、マスコミと、さまざまなプレイヤーが入り乱れての国鉄改革が、まさに言語を絶する壮絶な戦いであったことは、再建途上にあるJALにもそのままあてはまることであろう。

 「国鉄改革三人組」のなかでも、本書の著者である葛西敬之(現在JR東海会長)は、国鉄時代にはもっとも困難といわれていた労務・職員問題の責任者として、改革のリーダーシップを発揮した人である。それだけに、労務問題にからみた国鉄改革の記録である本書の価値がきわめて大きいのである。
 本書『未完の「国鉄改革」』は、単行本で300ページを越える大冊であるが、二・二六事件の志士たちをも彷彿させるような内部改革リーダーたちの、手に汗握る、息が詰まるような心理戦を描いた、内部関係者にしか書きえない、迫力にみちたサスペンス・ドラマにもなっている。
 本書と二部作をなす、『国鉄改革の真実-「宮廷革命」と「啓蒙運動」-』(葛西敬之、中央公論新社、2007)もあわせてぜひ読むことを推奨したい。
 後者をあわせて読むことで、国鉄改革の経緯を「組織変革」の生きた実例として、理論的に整理することができるだろう。

 国鉄改革においては、それに政治生命をかけた自民党の中曽根康弘という首相がいた。そしたまた組織内部には改革の志士たちがいた。この両者が志をともにし、息を合わせて共闘を組んだことで、改革ははじめて実現した。
 ひるがえって、JAL改革にあたってはどうか。果たして、民主党に政治的なリーダーシップを発揮し腹をくくる覚悟はできているのか、そしてJAL内部に改革の志士たちがいるのか。こういった疑問も脳裏に浮かんでくる。

 本書は、そういった観点から、税金投入によって国民全体の資産となった、JAL再建のプロセスをじっくり見ているための、またとない参考書ともなろう。

 あえてこの機会に、読むことを奨めたい。


<初出情報>

■bk1書評「JALが会社更生法に基づく法的整理対象となり、改革への最後の一歩を踏み出したいまこそ、読むべき本」投稿掲載(2010年1月20日)
■amazon書評「JALが会社更生法に基づく法的整理対象となり、改革への最後の一歩を踏み出したいまこそ、読むべき本」投稿掲載(2010年1月20日)

 なお、ブログ掲載にあたって、字句の一部を修正した。



<書評への付記>-JALの「法的整理」について考えるために(つづき)

 労務問題、いいかえれば組合問題が JAL経営において、大きな躓(つまづき)きの石になってきたことは、すでにこのブログでも、JALの「法的整理」について考えるためにと題して書いたとおりである。
 しかしまだまだ、この面に対する認識が甘いようだ。国会の予算委員会の質疑でも、国鉄清算事業団についての言及があっても、労務問題への言及がない。これは民主党が、連合(日本労働組合総連合会)に票を大きく依存しているというアキレス腱があることと、まったく無縁ではあるまい。

 JAL(日本航空)について、ネットで手っ取り早く調べようと思えば、まず検索で wikipedia をみるのが、おそらくここ数年の常道であろう。しかし、wikipedia で「日本航空」の項目をみても、詳細にみてリンク先を探さなければ、何もわからないだろう。
 「日本航空の組合問題」という項目をまず見なくてはならない。もちろん情報の信憑性については、自分で検証する必要があるものの、基礎的な知識を得ることができるだろう。
 JAL には、現在8つ(!)の労組があり、もともと5つ(!)あった労組に、JAS(旧 東亜国内航空)の合併により、さらに3つの組合が統合されたことが記されている。
 そうでなくても難しい、合併企業の社内融和をさらに難しくしているのが、正社員(=正規従業員)と契約社員(=非正規従業員)、派遣社員など、雇用形態の異なる従業員が混在していることである。

 もちろん労組が悪いというつもりは全くない。
 健全な労使関係が、経営に対するチェック機能として働くことは、戦後1950年代の激しい労働争議の時代を除けば、ほぼ常識となっているといっても問題はない。
 株主(シェアホールダー)による経営チェック機能が有効に働いていなかった、株式持合構造にがんじがらめになっていた、規制緩和以前の日本の大企業では、ステークホールダーとしての従業員の代表である労働組合は、重要な機能を果たしていた。

 しかし、JAL の組合問題の複雑怪奇さは、旧国鉄に限りなく近い、といっても言いすぎではないだろう。
 経営サイドに都合のいい「第二組合」、反経営の立場の組合、外部の過激な労働運動とのかかわりをもつ組合などが複数混在してお互いを牽制しあっており、従業員の一体感を阻害していることは、外部からでも容易に想像できる。

 試みに、検索サイトを使って、「日航 労働組合」(まんなかに一字あける)などで検索してみればよい。内部告発文書や怪文書など大量にでてくるはずである。これらの文書がどこまで信憑性があるのか、当事者ではない私には判断しかねるが、それぞれ自分の都合のいいように主張を行っている状況からみて、労使間だけでなく、従業員のあいだに果たして一体感があるのか、と疑問を感じないわけにいかないのだ。

 こういう状況なので、今回の「会社更生法」が「事前調整型」(プレパッケージ型)であるといっても、これはあくまでも債権者の債権保全にかんする話についてであって、今後不可欠となる大規模なリストラ(・・昔風に"合理化"といったほうが適切だ)という人員削減を思うように進められないのではないか、という危惧の念をもつのである。
 英語の本来の意味である財務リストラクチャリング(Re-structuring)は、日本語で言うリストラ、つまり人員削減に比べると、はるかに容易である。もちろんこれは比較論の話だが、カネと違ってヒトは、経営資源のなかでは別格の存在であり、ヒトの問題をうまくマネジメントできるかどうかで、今後の再建計画がスムーズに進行するかどうか決まってくる。
 しかも更生計画決定が8月(?)なんていうのでは、あまりにも気が遠くなるような話ではないか。果たして8月まで改革意欲が持続するのだろうか? すでに「JAL 8月の危機二番底説」もささやかれ始めている。


 「国鉄改革」は、政治の強い意志と主導権のもと、「国鉄分割民営化」という形で実現した。この経緯については、書評でとりあげた 『未完の「国鉄改革」』(葛西敬之、東洋経済新報社、2001)『国鉄改革の真実-「宮廷革命」と「啓蒙運動」-』(葛西敬之、中央公論新社、2007)の二部作を読むにしくはない。
 私は、『未完の「国鉄改革」』は出版されてから2年後の2003年に、『国鉄改革の真実-「宮廷革命」と「啓蒙運動」-』は出版されてすぐに読んだが、とくに前者については、手に汗握るようなサスペンス・ドラマであるという印象を強くいだいた。プレイヤーでかつ内部観察者による、すぐれた歴史ドキュメントになっている。
 後者でいう「宮廷革命」とは、「本社トップ経営層と少壮準トップグループとの葛藤の結果であって、上層部のあいだで動いた」ものであり、いわゆる「権力闘争」という見方である。それに対して「啓蒙運動」とは、著者である葛西敬之氏がいうところでは、「分割民営化実施のための労務・要員対策」であり、経営側の指揮命令系統と労組の執行体制との、国民全体を巻き込んでの「説得合戦」であった。
 事の本質を「宮廷革命」と捉えていたのは、JR西日本を率いることとなった井手正敬氏であり、1988年の発言である。その後JR西日本という会社が、1995年に福知山線脱線事故という大惨事をまきおこしたことを知っておく必要がある。労務問題の正しい理解がないと、いかに見かけの再建がなたっとしても、それはあくまでも財務的な再建にすぎないのである。おぞましき「日勤教育」について思い出すだけでも、ぞっとしないではないか。
 分割民営後の JR においても、旧国鉄時代からの労働組合問題が尾を引いていることは、『マングローブ-テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実ー』(西岡研介、講談社、2007)が取り扱っている。根が深い問題だ。

 葛西敬之氏による二部作を読むことで、巨大組織の「組織変革」が、いかに全身全霊を賭けた闘いであり、腹を括らなければ、とても達成できるものではないことが、腹の底からわかるはずだ。
 「組織変革」、「企業変革」について携わり、考え抜いて実行しなければばならない人にとっては、葛西敬之氏の二部作は必読と考える理由である。「組織変革」の生きた実例として研究する必要があるわけだ。
 ただし、いうまでもないが、JAL と旧国鉄とでは、組織の規模も、競争状況も、労働組合の性格についても、歴史的経緯もまったく異なる。しかし、あえてアナロジー(類推)として、この両組織を考えることはきわめて有効であると考える次第である。


 JAL の再建については、裁判所の執行命令が大きなチカラとして機能することを期待するが、しかし更正決定が8月というのはあまりにも時間がかかりすぎる。どこまで従業員自身が本気になって改革できるかは、現在では非常に不透明であり、また息切れしてしまう可能性もなくはない。
 書評には、「もちろん、私はJALの行く末が分割解体であると主張するわけではないが・・・」なんて文言を入れてあるが、おそらく国家財政投入から3年以内の再建と資金返却というゴールを視野に入れれば、事業の「解体切り売り」は避けて通れないと思われる。
 どのように「事業仕分け」するか、この点にかんしてだけでも、すべてのステークホールダーを巻き込んだ大きな論議となり、計画実行ができるかどうかも不透明だ。おそらく中途で大幅な計画変更に直面するのではないか。いずれにせよ、政治の強いバックアップが不可欠である。
 しかも実際問題、従業員の立場にたってみれば、「自分がいつクビキリ対象になるのかわからない」という状態では、疑心暗鬼が組織内に蔓延し、授業員のあいだで著しくモラール・ダウン(士気低下)につながるのではないか、という不安を抱く。
 
 来月2月1日から京セラ創業者の稲盛和夫氏が最高経営責任者(CEO)として着任することになっている。
 おそらく、「アメーバ経営」に代表される「稲盛イズム」とよばれる、きわめて強い価値観の注入がおこなわれることだろう。価値観によって従業員を洗脳(indoctorination)し、価値観に従う者とそれ以外の選別を行っていこうという戦略だろうが、価値観の注入と浸透という経営手法は、はっきりいって短時日に実現可能なものではない。即効性を狙うと、必ず強い反作用が発生する。うまくいったとしても、大きな副作用をともなうものである。
 つい近年も、これもまたきわめて強い価値観をもった、QCサークルによる「トヨタ式生産管理」を、民営化された郵政会社で導入実験を行ったところ、かえって現場が混乱し、非効率な結果に終わったという事実も思い出される。計画と実行はイコールではないのである。
 正面きっての組織抵抗よりも、サボタージュという形での消極的な抵抗が蔓延することも大いに予想される。

 以上、非常に辛口のことを書いてきたが、JAL 所有者の一人となる納税者の立場としては、今後3年以内に JAL の再建が完了することを強く望むことはいうまでもない。

 次回以降(・・ただしがいつになるかはわからないが)、「価値観による経営」について詳しく考察してみたい。







PS. なお、財務リストラにかんして誤解の多い「100%減資」について理解するためには「なぜJALは「99%減資」を選択しなかったのか?」(磯崎哲也氏)を参照。同氏によれば、「既存株主が持つ株式を、会社法で新たに導入された「全部取得条項付種類株式」という株式に変え、会社が株式を全部取得する(取り上げる)ことを意味する。(中略)「100%減資」は株式数をゼロにすること、である」。


                        
                  

2010年1月20日水曜日

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)


肉体的な極限状況のなか、「眠りかかろうとする意識のさらに下層ではたらいている何物かの声」で語られる、岡本太郎の「日本列島文化論」

 この本はどうしても紹介したいと思っていた。
 何といっても、このタイトルとこの表紙デザイン。東京・青山の「岡本太郎美術館」でこの本をはじめて見て、「爆発」という二文字に目が釘付けになってしまった。いまから7年前のことである。

 さっそくこの本を購入して自宅で読み始めた。予想はまったく裏切られなかった。熱い、熱い情熱。自らもフランスで民族学を修めた岡本太郎が、文化人類学者の泉靖一を前に持論をとうとうと述べ立てる

 もともとは1970年に『日本列島文化論』というタイトルで出版されたらしい。復刻版のタイトルは第五章からとられている。

 アジアの拠点として、日本に「民族学博物館」を作るという夢を共有し、ともに 1970年の大阪万博の準備のために奔走していた二人が、激務の合間をぬって、肉体的には極限状況のなかで行われた対話である。岡本太郎はいうまでもなく「太陽の塔」の建築で、泉 靖一はそこに展示して民族学博物館に収録する仮面や神像などの民族資料の収集のため。

 岡本太郎は、最終章である第五章で、対話中に過労のため、不覚にも突然居眠りを始める。本文にはこう記されている。

(ここで岡本氏、連日の疲れが重なったせいか、急にバタンと倒れ、イビキをかいて眠りはじめる)
編集部  言葉や文字からくる日本文化の特殊性はあるでしょうか。――おやすみになりましたね、続けますか?
  続けましょう。――さて、もちろん、日本文化と日本語、あるいは文字とのあいだには密接な関係があるにちがいありません。(後略)

 
 岡本太郎がいびきをかいて眠っている間も、対話者の泉 靖一はなんと本文で7ページにわたって話続けるのだ。最後に岡本太郎はむっくり起き上がって締めのセリフを吐くのだが、すごいのは岡本太郎だけではない。泉靖一もすごい。そして、あえてこの部分も活字に残して生かしましょうといったのも泉靖一であったと岡本太郎は書いている。

 泉靖一は親友との食事の際に、この本の見本をもってきてうれしそうに語り、そしてその場で倒れて不帰の客となったという。享年55歳。

 こういったエピソードもさることながら、独自の日本文化論を展開していた岡本太郎と、人生の前半を植民地時代の朝鮮半島で過ごし、済州島やインカ文明についてのフィールドワークをもとにすぐれた研究を遺した泉靖一との対談は、実に中身が濃く面白いのだ。

 序文を寄せている岡本敏子さんは、こう回想している。

(泉靖一は)幅の広い学者だった。人間的なふくらみと男らしい決断、行動力、あわせもった魅力的な方だった。岡本太郎とは肝胆相照らすという感じで、お互い認め合い、触発しあって、いい仲だった。・・中略・・男同士というよりも、男の子同士として相手を認め合う。お互い、すっくと立って、肩を組んでいる。そう私には思えた。そういう信頼の上に、この対談がひろがっていることを、いま読む人にもしってほしい。


 「極限におかれたために、眠りかかろうとする意識のさらに下層ではたらいている何物かの声」がでてきたと、泉靖一はあとがきに書いている。

 ともに肉体的に極限の状況で行われた、希有な対話だったのだ。二人とも、まさにシャマンそのものになっていたといってよいのだろうか。

 岡本太郎をただ芸術家だと思っている人は、ぜひ本書を読むべきだ。
 縄文土器の美を発見し、日本列島文化の見方を根本的に転換させたのは、岡本太郎その人なのである。

             
■bk1書評「肉体的な極限状況のなか、「眠りかかろうとする意識のさらに下層ではたらいている何物かの声」で語られる、岡本太郎の「日本列島文化論」」投稿掲載(2010年1月10日)
■amazon書評「肉体的な極限状況のなか、「眠りかかろうとする意識のさらに下層ではたらいている何物かの声」で語られる、岡本太郎の「日本列島文化論」」投稿掲載(2010年1月10日)






<書評への付記-文化人類学者・泉靖一を中心に->


 表紙写真は、岡本太郎作「縄文人」。背後で燃え上がっているのは、密教の護摩の火だろうか、すさまじまでにインパクトのあるグラフィック・デザインである。

 書評でふれた「民族学博物館」とは、大阪千里の大阪万博跡跡地にある「国立民族学博物館」(愛称 みんぱく)のことである。岡本太郎の作品「太陽の塔」とともに、遺産として後世に遺されたことは、日本国民として大いに感謝したい。関東に住んでいるとなかなか訪問する機会がないのは残念であるが。
 展示品の基礎が、1970年の大阪万博のために、学術的な見地にたって系統的に蒐集されたものであり、そして当時は学生運動が荒れまわるなかで、人類学者が植民地収奪によって成立した学問だという猛烈な批判と罵声が浴びせられていた時代であったことも記憶しておきたい。対話者の泉靖一が激務のなか斃れたのは、こういう時代状況があったのである。
 
 文化人類学者の泉靖一については、アイヌ関係の著作を多数出版している藤本英夫による『泉靖一伝-アンデスから済州島へ-』(藤本英夫、平凡社、1994)参照。絶版品切れ状態が残念であるが。
 この本には、泉靖一が前半生を過ごした、植民地時代の朝鮮半島への限りない愛着の念が詳細にたどられている。人類学的研究の大著『済州島』(東京大学出版会、1966)の著者・泉靖一が斃れることなく韓国のシャマニズム研究に回帰できていたら、実に魅力的な研究がなされたのにと思うと残念でならない。

 岡本太郎自身、『岡本太郎が愛した韓国』(平井敏晴、岡本敏子=監修、河出書房新社、2004)にまとめられた韓国紀行を残しており、なお同書は、岡本太郎自身が撮影した貴重な民俗芸能などの写真が満載で、手元に置いておきたい一冊である。泉靖一が亡くなったため、同行することがかなわなかったのはまことにもって残念だったというしかない。

 せっかく機会なので、広い視野をもってフィールダワークに従事していた人類学者・泉靖一の語り口を紹介しておきたい。「日本におけるキリスト教の不振」にかんする見解と、取捨選択に当たっての「無意識の主体性」というコンセプトは実に魅力的である。

第5章 日本人は爆発しなければならない(同書:P.199~203)(*読みやすくするために、引用者の判断で適宜行がえを行った)

日本におけるキリスト教の不振

 それからさっきちょっと問題になった、日本になぜキリスト教が浸透しなかったかということ、これはやはり非常に大きな問題です。
岡本 そうですね。それを考えると、日本人ってのはまったく不思議な民族だと思いますね。これだけ融通無碍でありながら、みじんも影響されていない。
 もちろん東アジアの文明国には、それほど強くキリスト教が入れなかったのは事実でです。しかし、その中でも日本が最も入っていない。それでいて日本の文化は見かけだけだと非常に西欧化されています。
 日本になぜキリストkょうが浸透しなかったかという最も大きな原因あるいは結果は、イデオロギーの立場からいって、多元論から二元論への切り換えができなかったことです。また、そういう機運が西欧的イデオロギーに接する前に起こらなかったからともいえましょう。七、八世紀に入ってきた仏教が、仏教か、しからざれば死か・・・・という二元論的発想で、日本列島を仏教一色に塗りつぶすことはできなかった。社会の上層から入ってきた仏教を歯止めしたのは、日本の多元論的な土着宗教であり、それが、内的には多元論的仏教と習合したのが、七、八世紀以降の日本的イデオロギーであるともいえましょう。この状態はある程度中国でも、朝鮮でも、またベトナムでも同じだったように思います。
 ところがそうなった場合、当然かようにして定着した古代の既成宗教は、封建体制のうちで、強力な権力の核になってくる・ヨーロッパではキリスト教の修道院や寺院が大きな寺領をもっていましたが、日本でも中国、朝鮮またはベトナムでも、仏教寺院が不可侵の寺領をもっていて、諸侯や国家にたいして、経済的にも政治的にも、外側からの力をもっていた。
 仏教と寺領をなんとかしないかぎり、東アジアにおける国家権力は存続しえなかったことは事実です。いいかえれば、王朝は仏教と対決せざるを得なかった。その場合、中国と朝鮮では、王朝の政治権力は寺領の権力と対抗し、いっぽう、それだけではやはり弱いので、イデオロギーのうえでは、新興の朱子学が仏教と対決することにより、仏教体制を敗者として山の中に追いこみ、平野の生産性の高い寺領を取り上げて、国家の財政体制をととのえたのです。その結果、中国と朝鮮では、朱子学が村落レベルまで浸透しました。朱子学の発想には二元論的発想がととのえられています。だから、中国と朝鮮のキリスト教化のために、朱子学が論理的地ならしをしたと、皮肉ることもできます。
 ところが、日本の場合は、これと趣きを異にします。寺領に煩され続けた戦国大名たちは、信長をはじめとして、寺院に焼き討ちをかけ、イデオロギー上の対抗者としてキリスト教を使い、やがてキリスト教を追放して、勢力の弱まった仏教をキリスト教にあい対立するものとして明治維新まで使います。
 この間、朱子学も入ってきましたが、それは武士のみだしなみ、武家の倫理または政治哲学にとどまって、村落レベルまで浸透して習俗化されませんでした。この点が、ベトナムはよくわかりませんが、中国・朝鮮と日本のイデオロギーの大きな違いです。
 だからこそ、多元論的なものが、日本では明治以後にもそのまま残ってしまったのです。そしてヨーロッパ文明、機械文明が明治維新になって入ってきたとき、それらを価値の体系のなかで整理をしないで、「よきをとり、悪しきを捨て」て、あっというまに先進国の仲間入りをした、というのが真相ではありますまいか?
岡本 確かにその通りだと思いますが、それにしても・・・・やっぱり不思議ですねえ。世界中がキリスト教にやられちゃったんだからなあ。今までの日本式やり方だったら、表面だけでももっと受け入れて、混淆するところでしょう。どうしてあんなにケロリとしていたのか、これは面白いテーマですね。

無意識の主体性

 つまり、中国や朝鮮のように二元論的な朱子学のイデオロギー体系が定着したところでは、ヨーロッパの文化が入ってきたときに、これと対決し、価値としてのヨーロッパ体系に抵抗していますよ。「よきをとり、悪しきを捨て」ではなく、中国や朝鮮では全体として批判し、拒否しています。
 ところが、日本は体系論はほとんどせず、有用なものをとりあげ、有害なものを捨てて、ともかく技術的経済的側面でぐんぐん伸びていったため、東アジアの他の国は、ついてゆけなくなったのです。しかも、西ヨーロッパの価値体系の核をなしているキリスト教については、ある場合は「悪しき存在」として、ある場合は多数中の一つの信仰として処理されてきたわけです。キリスト教と、溶鉱炉や大砲は、日本ではまったく次元の違うものとして扱われてきました。
編集部 そうすると、日本に伝わった段階での仏教というものは宗教といえるでしょうか。
 古代に伝った仏教はもちろんそういえます。一番問題なのは儒教とくに朱子学は宗教であるかどうかということです。祖先や天を祭ることは、明らかに宗教ですが、習俗化された葬式その他各種の儀礼になるとむずかしい。
編集部 たとえば今の日本を考えた場合、結婚式は教会で挙げる、葬式は仏教でやるというような形が残されているのですが、それはおっしゃったように都合のいいところだけ取るというだけの話で、宗教とは別問題なんですね。
 いや、むしろその背後に排他的でない土着の宗教またはイデオロギーがある。だから、結婚式はキリスト教、七五三は神道、そして葬式は仏教式であるのは、無意識の主体性があるからです。その主体性自体が土着の宗教だとみることもできるでしょう。
編集部 それはかなり特殊な文化ということがいえるでしょうか。
 特殊文化というよりも、文化の古代性といったほうがいいかもしれません。余談ですが、このような古代的イデオロギーを心臓のまわりの脂肪みたいにもっている連中が、横文字をふりかざして、ヨーロッパ人みたいな顔をしているのをみると、ヘドがでそうです。
岡本 構造的にみても、こういう文化圏というのはちょっとほかには見あたらないですね。
 やはり古代東アジアの特徴といえるかもしれませんが、まえに述べたように日本が最もそれが強いですね。
 おそらくベトナムは日本に似ているでしょう。中国仏教が朱子学に塗りつぶされていないという点では、ベトナムをあげられようと思います。
 またいっぽう、中国仏教の勢力は朱子学に圧殺されたが、土着の信仰=シャマニズムが、女性の社会に脈々と生きている点では、朝鮮でしょう。

(ここで岡本氏、連日の疲れが重なったせいか、急にバタンと倒れ、イビキをかいて眠りはじめる)・・・以下、7ページにわたって、泉靖一の発言が続く・・・


 「日本におけるキリスト教の不振」にかんして、中華文明圏の中国・韓国(朝鮮)・日本・ベトナムを視野に入れた上でのこの発言は、傾聴に値するといえる。この点にかんして、こういう形で説明したものはあまり見ないので貴重である。

 ただし、岡本太郎の、「岡本 そうですね。それを考えると、日本人ってのはまったく不思議な民族だと思いますね。これだけ融通無碍でありながら、みじんも影響されていない。」、という認識は必ずしも正しくない。
 日本人は、キリスト教徒と名乗る人が全人口の1%程度であるというだけの話であって、日本人のものの考え方に、知らず識らずのうちにキリスト教が浸透していると私は考えている。
 明治維新以降、日本の思想家はキリスト教との格闘をつうじて、ある者は全面的に取り入れ、ある者は全面的に排斥したが、多くの者は外国文学などをつうじてキリスト教に触れている。そして多くの一般人は、無意識のうちにキリスト教の影響を受けているのが実態である。
 これは、まさに岡本太郎がいうように、日本人の融通無碍(ゆうづうむげ)さの現れである。ただし、「みじんも影響されていない」というのは、やや無知な発言といわざるをえない。泉靖一がいうよいうに「無意識の主体性」のもとに、取捨選択して取り入れているのではないだろうか。
 幕末の復古神道のパイオニア・平田篤胤(ひらた・あつたね)自身が、ひそかに漢籍文献をつうじて知りえた、キリスト教のアダムとイヴの創世神話を、大胆にも換骨奪胎(かんこつだったい)して、自分の教節内容に取り入れてしまっているくらいである。イザナギ・イザナミに置き換えるわけだ。
 まあ、こんな風に考えていくと、今後も日本ではキリスト教徒は増えることはないだろう。自分にとって都合のいいもの、受容しやすい部分だけ、無意識に取捨選択して、すでに十分に取り入れてしまっているからだ。

 現在の韓国はフィリピンに次ぐ、アジアのキリスト教国であり、総人口の三分の一がキリスト教徒である。仏教徒も多いとはいえ、先の引用にもあるように、儒教によって仏教寺院が山に追いやられてしまっているので、都市部だけをみると、キリスト教会が非常に目立つのが韓国の状況である。
 それにしても、泉靖一が斃れることなく、韓国シャマニズム研究が実現していれば、現在韓国のキリスト教で主流を占めるプロテスタント系で多い、カリスマ的キリスト教についての、非常に魅力的な研究がありえたかもしれないので、たいへん残念だ。
 韓国で土着化したメシアニズム系のプロテスタント教会は、シャマン的な牧師の個人的カリスマの存在が大きいことは、比較的よく知られている。

 東アジアというくくりで、中国・韓国との比較だけを見ていては視野が狭いのだが、もちろんそのなかでさえ、日本が儒教圏とはいいがたいことは、韓国・朝鮮の政治思想の専門家・古田博司が、華麗な文体で語っているとおりである。
 その著書『東アジアの思想風景』(古田博司、岩波書店、1998)には、「世に流布する浅はかな儒教理解は木っ端微塵に粉砕される」と題して、私がごく短く簡潔な書評を書いている。bk1 はこちらから、amazon はこちらから。あまり売れなかったようで、長期品切れ状態であるのが残念だ。
 かつて、いわゆる"韓流ブーム"発生よりはるか前に、韓国・朝鮮関連の本を大量に読み込んだことがあるが(・・合計100冊は下らないはずだ)、古田博司の著作を数冊じっくりと読み込めば、それで必要にして十分だという結論をもつに至っている。もちろんビジネス関係や時事問題の情報は別であるが。参考までに、筑波大学の古田研究室のウェブサイトを掲載しておく。
 古田博司を読むと、いかに朱子学が朝鮮半島にネガティブな影響を与えたか、いやというほど感じさせられるであろう。日本人の目からみると、ほとんど理解不能な世界が李氏朝鮮時代を支配していたこと、その痕跡は現在にいたるまで韓国だけでなく北朝鮮にも濃厚に残存していることが理解できる。
 岡本太郎が愛した韓国は、朱子学が徹底的に排除してきた民衆世界である。この世界は女性によるシャマニズムの世界ときわめて親和性が高い、きわめて濃厚なアジア世界そのものである。そしてこの世界こそが、くたびれた日本人に元気を入れてくれる世界なのだ。韓国は、縄文世界ではないが・・・


 泉靖一の発言の引用が非常に長いものとなったが、数日にわたって断続的に書き写しながら思ったのは、「ベトナムの儒教」についてもっと知りたい、という思いである。
 ハノイにある文廟(孔子聖堂)は訪問したが、現在の中国よりはるかに活気があるように感じた。共産中国では文化大革命で徹底的に批判されてから、儒教は完全に回復していないような印象を受けるからだ。中国では、仏教寺院は熱烈な信者が集まっているが、孔子の聖堂には誰も人がいない。東京の湯島聖堂とは大違いである。
 ベトナムでカトリックが普及していることはすでにこのブログでも書いたとおりだが、その理由はもしかすると、ただ単にフランスによる植民地化だけが原因ではないのかもしれない。朱子学における天の概念が、天主教(カトリック)の天帝の概念の受容を容易にしたはずであるからだ。
 いずれにせよ、中国と、私の表現による「中華文明の三点セット」(儒教・道教・大乗仏教)を受容した韓国、日本、ベトナムをあわせて、はじめて有効な比較ができるのである。

 今回ふれなかった、岡本太郎の民族学の先生であったマルセル・モースについては、長くなりすぎたので、またさらに別の機会に書くこととしたい。


P.S. 読みやすさを増すため、行替えなどの作業を行った。ただし、一部に字句を補足した以外は、本文には手を入れていない(2011年6月8日)




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2010年1月19日火曜日

書評 『ヨーロッパとは何か』(増田四郎、岩波新書、1967)




日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著

 ロングセラー『大学でいかに学ぶか』(講談社現代新書、1966)の著者によるヨーロッパ論。
 私がこの本をはじめて読んだのは今から30年近く前もだが、今から10年前に読み返したときも、また今回読み返しても、内容をとくに大幅に修正する必要のない、もはや古典といっても言い過ぎでない本になっていることを実感した。
 長く読み続けられてきた本に特有のオーラがあるのだ。
 
 「ベルリンの壁」がまだ存在した冷戦時代に書かれた本だが、政治的に線引きされた国境にとらわれず、ヨーロッパを根本的に理解するための視点を提供してくれる。

 著者の問題意識は、あくまでも日本人にとって「ヨーロッパとは何か」という探求姿勢にある。
 この問いに対して、著者は地理的要因から説明を始める。これがきわめて重要なのである。
 地理学者でかつ歴史学者であったフェルナン・ブローデルは「地中海世界」の全体史を描ききったが、これに対して著者は「アルプス以北」の世界の構造を明確化しようと試みる。
 明治以降、西洋近代化への道を選択した日本に、文明レベルで大きな影響を与えたのは、アルプスより北に位置する西欧であった。だから、日本人にとってのヨーロッパは、何よりもまず「アルプス以北」なのである。

 西洋中世史を主たる研究テーマにしていた著者は、フランク王国を知らなければヨーロッパとは何かを知ることはできない、という。
 フランス革命以降成立した「国民国家」という枠組みにとらわれていては、ほんとうのヨーロッパは見えてこないからだ。戦争のたびに国境線が引き直されてきたということだけをいってるのではない、「国民国家」成立以前は、国家意識も現代ほど明瞭ではなかったのである。

 ある意味、同じく著者の代表作である『都市』(ちくま学芸文庫、1994)と同様、社会学的な問題意識をもってヨーロッパ研究に取り組んだ、「比較社会史」志向の歴史書といえる。
 著者は狭い意味の専門家ではなく、歴史学を真の意味での実学として研究してきた人であった。

 こういう本をきちんと読んでおくと、イデオロギーにとらわれないもの見方が身に付くはずだ。必読の基本書である。


■bk1書評「日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著」投稿掲載(2009年11月18日)
■amazon書評「日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著」投稿掲載(2009年11月18日)




<書評への付記-"実学としての歴史学"->


 この本をはじめて読んだのは高校二年生で、行き帰りの通学電車の中で読んだ記憶がある。ほぼ10年おきに読み返してこれまで三回通読したが、感想は書評にかいた通りである。
 その当時は、書評のなかでも触れているが、いまだソ連崩壊もドイツ統一も実現するなどとは、まったく考えることすらできないような時代だった。
 だから、非常に新鮮な印象をもったのである。そしてこういう本を読んでいたおかげで、私はイデオロギーに目をくらまされないで済んだといえる。
 私が大学に入った頃は、バブルの前兆のような時代であったと、あとから振り返るとそう思うが、まだまだ「唯物史観」(・・正確にいうと史的唯物論)が、歴史学だけでなく、社会科学の領域ではありとあらゆる分野で幅をきかせていた時代である。
 
 ところで増田四郎という名前は面白い。かの有名な「島原の乱」の天草四郎は実は通称で、本名は益田四郎時貞であった。漢字は違うが、増田四郎という名前を耳できくと、天草四郎を想起するのは私だけだろうか。
 とはいえ、自らを天草四郎の生まれ変わりと名乗る美輪明宏の美貌と比べると、増田四郎の風貌は、それとはまったく異なるものだ。奈良の農家出身の、朴訥で、骨太な印象を受ける。直接お会いしたことはないので、肖像写真を見ただけの、単なる印象であるが・・・

 ちなみに私は、増田四郎の孫弟子ということになる。もちろん、学問の世界にいるわけではないので、不肖の孫弟子ではあるが。
 わずらわしいので敬称はいっさい省略するが、私の大学学部時代の恩師である阿部謹也は、学部時代の指導教官は上原専禄(うえはら・せんろく)であったが、大学院時代は上原専禄が定年を待たずに退官し隠遁生活に入ってしまったので、指導教官が増田四郎となったのであった。
 増田四郎は、のちに学長も務めているが、一橋大学として初の文化勲章受章者となった。一橋大学は、歴史学者が歴代の学長を務めるという、面白い大学である。

 『大学でいかに学ぶか』(講談社現代新書、1966)でも語っているが、著者は、もともと東京商科大学(現在の一橋大学)の商業教員養成科に入った人である。
 東京商科大学の前身である東京高等商業学校(=東京高商)は、そもそも近代的な商売人を養成するための学校であり、かつては、簿記・ソロバン・習字・行商実習等が全学生必修だった、と聞いている。
 作家の伊藤整(いとう・せい)も行商実習を体験したらしいが、増田四郎はいまひとつ商売人には適性がないとの自覚があり、商業科の教員になるコースに入学したようだ。

 増田四郎については、このほか文庫化された『都市』(ちくま学芸文庫、1994 初版1978)という本があって、阿部謹也が解説を書いている。
 この解説を読むと、「商慣習の近代化」を通じて、近代的人間関係の定着を図る、というのが、東京高等商業学校の理念だったことが指摘されている。

 増田四郎はもともと、幸田露伴の弟である、社会経済史学者で、東西交渉史の専門家であった幸田成友(こうだ・しげとも)博士の下で日本史を勉強していた。
 増田四郎が大学を卒業したのは昭和7年(1932年)、商売人には向いておらず、しかも世界大恐慌後のどん底にあったので、就職は断念して研究者の道を進んだ、と『大学でいかに学ぶか』に記している。

わたしの卒業したころのように不景気では、望んでも就職口はないのですから、みんなはそれぞれ勝手なことをしました。(P.60)

「おまえ、どうするんだ。」
「どこへもいくところがないんです。」
先生とわたしたちの会話は、おおむねこんな調子でした。(P.66)


 日本近代資本主義のプロモーターであった、渋沢栄一の伝記執筆のための資料整理の仕事に参加させてもらいながら、迷いながらも自らの意志で幸田博士を振り切って、自分が本当にやりたかった西洋史の研究を始めたという経緯がある。
 この事情については、『大学でいかに学ぶか』に詳しく書かれているので、ちょっと長くなるが江戸っ子であった幸田博士にまつわるエピソードとからめて引用しておこう。

「先生、せっかくのおことばですが、いろいろ考えたすえ、お断りいたしたいと思います。」
 先生は、風呂から上がったばかりのところでしたが、当然引き受けると思っていたのが断りにきたものですから、雷のような声でどなられました。なんといわれたのかわからない。わかったことは、あんなにおこられた覚えは、あとにもさきにもないということです。
 わたしにとっては一生の問題ですが、ああおこられては困ったことになった、と思って下宿に帰り、一日じゅうくさってました。ところがその翌日のこと、老先生がステッキをついて下宿をたずねて見えたのです。
 「きのうおこったのをよく考えてみたら、おれが悪かった。あやまる。おまえのことを考えずに、自分の仕事のことだけでおまえを抱えこもうとしたことは、誤りだった。」
 といって先生は帰られました。幸田先生にはそういう偉さがあり、それに触れえた私は幸運でした。それ以来、わたしの先生に対する尊敬の念は微動もしませんでした。このようにして、わたしのふたまたをかけた卒業後の仕事が始まったのです。(P.66-67)


 増田四郎はこの後も、日本史と西欧中世史の二股をかけ、専門論文は後者で書きながらも、つねに日本人にとってのヨーロッパとは何か、を追求した人であったのだ。
 幸田成友の名著『江戸と大阪』(冨山房百科文庫、1995 初版1934年)は東京商科大学(現在の一橋大学)での講義録であるが、初版出版に際して、浄書は商学士増田四郎氏を煩わせたと、「緒言」に記している。増田四郎は、幸田成友のもとで、江戸時代の株仲間の研究をしていたのである。

 阿部謹也につらなる一橋大学の歴史学を考えるうえで、上原専禄増田四郎の先生であった、三浦新七博士という歴史学者がいたことを知っておいて損はない。
 家業を継ぐために東京高商に入り、ドイツに留学してからは商学から歴史学に転換したうえで、文化史学の大家ランプレヒト教授のもとで助手として10年間過ごし、帰国してからは母校で経済史と文明史を講じただけでなく、大恐慌時代には、当時不良債権をかかえて苦境に陥っていた、実家の両羽銀行(・・現在の山形銀行)頭取を勤めあげ、再建を実現したうえで、昭和恐慌を乗り切った手腕を発揮した経営者でもあった。この後、ふたたび母校に学長として戻り、「文明史」を講じていたという人だ。
 生涯にただ一冊しか本をだしていないが(・・しかも著者没後に編集された論文集一冊のみ)、膨大な講義録が現在延々と編纂されており、さすがに「博学時代」の学者はすごいものだと感心する。
 生涯の一冊とは、『東西文明史論考-国民性の研究-』(岩波書店、1950)である。この本のなかに収録された、「アダム・スミスの体系なき体系」(1923年)という論文は、ビザンツ史の世界的権威である渡辺金一の授業で読まされた。著作権がきれているのでここで読むことができる。やや時代がかった文体で読みにくいのだが。
 余談だが、私の在学当時、前期教養課程の歴史学関連の講義(・・講義名は失念)は、年齢順に渡辺金一・山田欣吾・阿部謹也の三人の持ち回りであったが、この三人の名前がいずれもキンで始まるので、学生たちは「三キン交代」とよんでいたものだった。
 話を戻せば、三浦新七は、専門分化した現在の学問には期待しにくい、大きなスケールをもった歴史家であった。学問のための学問ではないのである。三浦新七には、ビジネスという"実学のバックグラウンドとしての歴史学"という姿勢が一貫していたようだ。いや、"実学としての歴史学"といったほうがより正確だろうか。もちろん、ここでいう実学とはハウツーのことではないことは、いうまでもない。
 増田四郎はある年次の学部卒業生たちに対して、「虚学の琴線に触れることのできるビジネスマンたれ」というコトバを贈ったと、どこかで読んだ記憶がある。三浦新七とはニュアンスが異なるが、これもまた素晴らしいコトバである。

 増田四郎は、一生にわたって「私は素人である」と発言してきたらしい。
 この発言は非常に誤解を生みやすいが、狭い専門にとらわれた学問研究の批判といった意味合いもあるのだろう。この点については、阿部謹也もNHKのETV番組「こころの時代-われとして生きる-」のなかで語っている。
 阿部謹也はまた、『西欧市民意識の形成』(増田四郎、講談社学術文庫、1995 初版1949)の解説で次のように書いている。

当時すでに東京商科大学には三浦新七、上原専禄といった錚々(そうそう)たる西洋史研究者を擁してはいたが、彼らも個別研究者としての西洋史研究者として自覚していたわけではない。わが国を近代化し、社会の合理化を果たすにはどうすべきかを考え続けていたのであり、東西両洋の歴史的・構造的研究こそは東京商科大学が自らに課した課題でもあったのである」(P.319)


 増田四郎の『西欧市民意識の形成』は、マックス・ウェーバーの社会学的な研究を、歴史的に肉付けしようとした研究、という阿部謹也による評価はまことに適切な要約である。

 奈良の農村に生まれた増田四郎の問題意識は、日本と比較したとき、なぜ西欧社会のみ市民を中核メンバーとしたとした「都市」と「市民意識」が発生したのか、にあった。これは生涯にわたって一貫している。
 阿部謹也のコトバを借りれば、以下のような態度であった(・・『都市』の解説文より)。

素直な心で歴史を見るという姿勢にある。それは簡単なように見えて至難なことである。自分の心に素直に従い、しかも資料に即し、歴史を見てゆくという態度であった。

自分を素人であると規定するところで日本の社会に対してなんらグループをつくることなく、いわゆる世間に与せず、自分の思うところを研究し、発表することができたのである。したがって著者にとっては都市と市民意識の問題は単なる研究テーマ以上のものであり、自分の存在をかけた問いなのであった(P.227)。


 増田四郎の「私は素人だ」という発言は、こういうバックグラウンドがあって、はじめてでてきたものなのである。