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2013年5月30日木曜日

ビジネスパーソンに「教養」は絶対に不可欠!-歴史・哲学・宗教の素養は自分でものを考えるための基礎の基礎


昨日(2013年5月29日)の夕方のことですが、たまたまNHK「首都圏ネットワーク」という番組を見るともなく見ていたら、「ビジネスの現場で「教養」が注目 背景は?」という特集をやってました。

大企業を中心に、いまビジネスの現場で「教養」が重視されるようになっていきているという内容でした。

たしかに、現代のような価値観が根本的に激変している時代には、小手先のテクニックでは対応不可能で、哲学や宗教、歴史などの「教養」が絶対に必要という意見には、わたしは全面的に賛成です。

もちろん、「教養」とはなにかという定義がないので人によって受け止め方がまちまちでしょうが、日本のビジネスパーソンは専門知識は豊富でも「教養」には大いに欠けているという事実を否定できる人はいないでしょう。

なんせ、いまのいままで、ビジネス界においては「教養」の重要性はまったく強調されてきませんでしたからね。

わたしは、昨年出版した拙著 『自分を変えるアタマの引き出しの増やし方』(佐藤けんいち、こう書房、2012)では、「雑学」というコトバをつかいましたが、ほんとうは「教養」なり「リベラルアーツ」と表現したほうがよかったかな、といまではすこし後悔(?)しております。

大事なのは哲学や宗教、そして歴史なのです。すぐにはカネにならないが、深いところで人間を支えてくれるのがこれらの学問です。

わたしは大学学部では経営学ではなく歴史学専攻で、しかも中世ユダヤ史をテーマに西洋中世史で卒論を書きました。高校時代に「世界史」を選択した人なら、「哲学は神学の婢女(はしため)」というフレーズとともに、リベラルアーツ(七自由学芸)のことは知っていることでしょう。

ただし、「教養」というのは知識そのものではありませんね。「知識社会」というフレーズに踊らされないことも重要です。

知識の量をひけらかす「勘違い系」が世の中には少なくないですが、知識は自分の血肉となってこそ、はじめてそれを「教養」ということができるものです。さらに青臭い表現なら、「人間いかに生きるべきか」への問いとその答えを求めて考え抜いたものが「教養」となるといってもいいかもしれません。

このブログ 「アタマの引き出しは生きるチカラだ!」 においては、フォントがちいさくて見えないもしれませんが、タイトルの下に 「"思索するビジネスマン" が惜しみなく披露する「引き出し」の数々。ビジネスを広い文脈のなかに位置づけて、重層的かつ複眼的に考える。」 と自己紹介しています。

わたしは、ビジネスパーソンにとって、いかにビジネス以外の世界について知ることが重要であるかを言いたいがために、このブログではいっけんビジネスとは関係のないテーマで延々と書きつづけているのです。

ビジネスパーソンに小手先のスキルではなく、「モノを考える」チカラをつけるための研修やセミナーはぜひイベントなりなんらかの形で開催したいと思っています。

あるいはそういう趣旨の会合などに呼んでいただければ、いくらでもその関連の話はいたしますよ。いつでもご連絡ください。


●連絡先: ken@kensatoken.com (コピーしてご使用ください)




<関連サイト>

「教養? 大学で教えるわけないよ」 英国名門大、教養教育の秘密【前】 (池上 彰他、日経ビジネスオンライン、2014年6月24日)
・・東工大における「教養教育」の実践者ったいが英国流の「教養」について語り合う

「伊藤: 専門外の人に自分の専門をアピールするためには、単に分かりやすく伝えるだけではなくて、自分の専門が私たちの生きる社会とどのように結びついているか、その部分について相手に実感してもらう必要があります。なぜ、そういった会話が自然にできるのか。それは、イギリスの大学では、社会との関係を常にイメージしながら専門教育を進めているからです。そしてまさにこの部分をイメージする力が教養なのです。イギリスでは、教養は「専門外の知識」ではありません。「専門を活かすための知識」が教養なのです。
池上: なるほど。
伊藤:こうしたイギリスの教養観をひとことで表すのが「transferable skill」という言葉です。
(2014年6月30日 項目新設)


<ブログ内関連記事>

書評 『教養の力-東大駒場で学ぶこと-』(斎藤兆史、集英社新書、2013)-新時代に必要な「教養」を情報リテラシーにおける「センス・オブ・プローポーション」(バランス感覚)に見る

世の中には「雑学」なんて存在しない!-「雑学」の重要性について逆説的に考えてみる

日印交流事業:公開シンポジウム(1)「アジア・ルネサンス-渋沢栄一、J.N. タタ、岡倉天心、タゴールに学ぶ」 に参加してきた
・・ビジネスパーソンと知識人との対話の必要性

書評 『「紙の本」はかく語りき』(古田博司、ちくま文庫、2013)-すでに「近代」が終わった時代に生きるわれわれは「近代」の遺産をどう活用するべきか

日本語の本で知る英国の名門大学 "オックス・ブリッジ" (Ox-bridge)

"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと

「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは

書評 『私が「白熱教室」で学んだこと-ボーディングスクールからハーバード・ビジネススクールまで-』(石角友愛、阪急コミュニケーションズ、2012)-「ハウツー」よりも「自分で考えるチカラ」こそ重要だ!

書評 『キュレーションの時代-「つながり」の情報革命が始まる-』(佐々木俊尚、ちくま新書、2011)

「アート・スタンダード検定®」って、知ってますか?-ジャンル横断型でアートのリベラルアーツを身につける

「バークレー白熱教室」が面白い!-UCバークレーの物理学者による高校生にもわかるリベラルアーツ教育としてのエネルギー問題入門

ファラデー『ロウソクの科学』の 「クリスマス講演」から150年、子どもが科学精神をもつことの重要性について考えてみる

書評 『狂言サイボーグ』(野村萬斎、文春文庫、2013 単行本初版 2001)-「型」が人をつくる。「型」こそ日本人にとっての「教養」だ!





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2013年5月28日火曜日

ことしも「初ネコ」の季節-ミケネコの子どもはミケネコとは限らない


ことしも「初ネコ」の季節になりました。

写真の上にはミケネコ(三毛猫)の母。
写真の下にはキジネコ(雉猫)の子ネコ。

子ネコは見事なまでに保護色となってます。
ことし生まれた子ネコです。見えますか~?



ノラネコ親子です。母子ですね。

ミケネコの子どもがミケネコとは限りません。
なぜならミケネコにはオスはほとんどいないからです。
ミケネコのオスは、1000匹に一匹程度の希少性なのだそうです。

つまりこの子ネコの父親はミケネコではなく
ごくふつうのキジネコのようです。



ミケネコは英語では Calico cat (キャラコ・キャット)と言うそうですが、
日本ではあたりまえのようにどこにでもいるミケネコも
日本以外では希少性があるのだそうです。

ミケネコはほとんどがメスであるという事実、
これは遺伝学で説明できるようです。

wikipediaには以下の説明があります。

オスの三毛猫が生まれる原因は、クラインフェルター症候群と呼ばれる染色体異常(X染色体の過剰によるXXYなど)やモザイクの場合、そして遺伝子乗り換えによりO遺伝子がY染色体に乗り移った時である。

もしこの子ネコが三毛猫であったなら、
ほぼ100%の確率でメスであるということになるわけです

ネコにかんする知識も深掘りすればするほど、
さまざまな学問分野にかかわってくるわけです。

たじかがノラネコ、されどノラネコ、ですね。






<ブログ内関連記事>

猛暑の夏の自然観察 (2) ノラネコの生態 (2010年8月の記録)

ノラネコに学ぶ「テリトリー感覚」-自分のシマは自分で守れ!

ノラネコも寒い日はお互い助け合い

「地頭」(ぢあたま)について考える (2) 「地頭の良さ」は勉強では鍛えられない




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2013年5月26日日曜日

『はじめての宗教論 右巻・左巻』(佐藤優、NHK出版、2009・2011)を読む ー「見えない世界」をキチンと認識することが絶対に必要




ふとしたキッカケから、買ったままほったらかしにしていた『はじめての宗教論』二部作を思い立って読んでみました。

『はじめての宗教論 右巻-見えない世界の逆襲』(佐藤優、NHK生活人新書、2009)。
『はじめての宗教論 左巻-ナショナリズムと神学』(佐藤優、NHK新書、2011)

結論から先にいえば、『右巻』はじつに面白い。ぜひ読むことを薦めたいと思います。『左巻』も面白いですが、おのずから読者を選ぶ本だといっていいでしょう。

「見えない世界」の認識の重要性を理解し、自己啓発やマルチ販売などの「宗教と名乗らない宗教」への免疫をつけることができるために、『右巻』だけでも読むべきだと思います。

著者は元外交官でインテリジェンスの専門家。いわゆる「国策捜査」というコトバを一般語にした人ですね。最高裁では結局のところ勝てませんでしたが。


プロテスタント神学の立場による「見えない世界」へのアプローチ

しかも著者は、同志社大学神学部卒という異色の経歴をもっています。プロテスタントのなかでも、もっとも厳格なカルヴァン派。いわゆる予定説。あらかじめ救済されることがわかっているので、投獄されても苦ではなかったようです。

そんな著者がプロテスタント神学の立場から書いたキリスト教神学入門宗教学者ではなく神学研究者の立場から書いた本ということに意味があり、差別化されているわけです。

わたしも含めて一般読者は「神学」の本などめったに読むものではありませんので、その意味でも著者の存在は貴重なものがあるといえましょう。

「神学」といえば、高校世界史の授業で耳にしたこともあるでしょう。「哲学は神学の婢(はしため)」トというフレーズに登場する神学です。カトリックが支配的であったヨーロッパ中世の神学者のコトバです。

ここでいう哲学とは狭い意味の哲学ではなく、いわゆるリベラルアーツとして総称される七自由学芸のことをさしています。具体的にいえば、文法学・修辞学・論理学の3学、それから算術・幾何・天文学・音楽の4科のことを指しています。

中世においてはリベラルアーツの基礎のうえに、神学あるいは医学、法学という「実学」が学ばれました。現在でも欧米の総合大学は神学部からはじまったものが少なくありません。

神学といえば「虚学」というイメージがつよいかもしれません。しかし神学は「実学」でもありました。そのわけはキリスト教の聖職者養成のための学問であるからです。

神学は「見えない世界」にアプローチするための学問であり、諸学の頂点に位置づけられていたということにキリスト教世界の構造を知ることができます。

近代化を西洋近代化という形で体験することになった日本は、当然のことながら西洋キリスト教文明の圧倒的な影響のもとにあります。

しかし、著者が述べるように、「コルプス・クリスティアヌム」(Corpus Christianum)、すなわち、「ユダヤ・キリスト教の一神教の伝統 × ギリシア古典哲学 × ローマ法」が混在一体となった西洋のキリスト教共同体から、キリスト教だけを抜いて導入したのが日本近代でありました。

西欧におけてはキリスト教の神が位置するところに、国家神道をもってそれに代替させたのが近代日本です。敗戦後はその国家神道が否定された結果、空洞のまま放置されて現在に至っています。

明治以降の近代日本にはキリスト教的なものは充満していますが、もっぱら風俗として受容されたにとどまり、ましてや神学なる学問が学問の世界で正当な位置づけをもっているのは、神学部をもっているキリスト教系の大学の一部に限定されます。そのため、一般の日本人には神学とは神学論争というフレーズで揶揄する以外につかわれることはありません。

とはいえ、キリスト教の神学的思考法の枠組みくらいはアタマで理解しておいたほうがいいということでしょう。キリスト教神学の枠組みをとおして「見えない世界」を見るというアプローチは重要ですし、キリスト教がバックボーンにある西洋文明を理解しておかないと、ヨーロッパもアメリカも理解することができません。


『はじめての宗教論 左巻-ナショナリズムと神学』

 『はじめての宗教論 左巻-ナショナリズムと神学』(佐藤優、NHK新書、2011)は、「近代」とは何であったのか、その限界を考えるためには面白い本です。

近代になって前面にでてきたナショナリズムは、キリスト教が後退したことによって優勢となった「宗教」であること、そしてその端緒をつくったのが18世紀ドイツの神学者シュライエルマッハーの思想であることにあります。

著者はこう書いています。

初期の著作『宗教論』(1799年)で「宗教の本質は直観と感情である」と定義し、晩年の著作『キリスト教信仰』(1821~22年、第二版1830年)では「宗教の本質は絶対依存の感情である」と定義したのです。その結果、神は天上ではなく、各人の心の中にいることになりました。神を「見えない世界」にうまく隠すことに成功したと言っていいかもしれません。・・(中略)・・自らの心の中に絶対的存在を認めることで、人間の自己絶対化の危険性が生じたわけです。・・(中略)・・近代とはナショナリズムの時代です。ナショナリズムの台頭を背景に、心の中の絶対者の位置にはネイション(民族)が忍び込んでくる。ここに、国家・民族という大義の前に人が身を投げ出す構えができあがってしまいました。(P.13~14) *太字ゴチックは引用者=わたし

近代世界においてはキリスト教から外部絶対者としての神が背景に退き、その結果として強化されたナショナリズムが第一次世界大戦という惨事を招くことになったわけです。第一次大戦後に登場したのがカール・バルトの神学である、と書かれています。

哲学者ニーチェが「神の死亡宣告」をした以降、キリスト教が後退したという理解が一般的ですが、プロテスタント神学の立場からは、それとは異なる観点から説明がなされるのが興味深いですね。

このテーマであれば、『ナショナリズムの起源をシュライエルマッハー神学で解く』とでも題して別個の書籍にしたほうがよかったかもしれません。

ですからキリスト教徒ではない一般読者にとっては、かならずしも問題意識を共有するわけではないので、プロテスタント神学入門である『左巻』はあまり面白くないかもしれません。あくまでもそういうものの見方もあるといったた程度で問題ないでしょう。読むのは『右巻』だけで十分だと思います。

とはいえ、『右巻』と『左巻』は別々に読んでも意味がわかるようにしてあると著者は言っていますが、『右巻』に書いてあることを前提にしないと理解しにくいと思います。


外部性、すなわち「見えない世界」を認識することが必要だ

「見えない世界」を認識することの重要性、その方法について、プロテスタント神学の立場から考察したものです。

「見える世界」がすべてだと思い込むのは傲岸不遜(ごうがんふそん)であり、「見えない世界」の逆襲を受けてしまうためでありますね。これは「3-11」で日本人が、大津波や原発事故による放射能汚染で痛烈に体験したことであります。

「見える世界」だけで捉えていたのでは足をすくわれます。「見えない世界」を感じ取り、読み解くチカラは絶対に必要なのです。

そのためのアプローチとしてキリスト教神学が役に立つというのが著者の立場です。とはいえ、キリスト教徒ではない一般読者が神学まで勉強する必要はない。神学的思考法の枠組みがわかればそれで十分でしょう。また、その立場には立たない人は、それぞれ異なるアプローチを探求すべきことを示唆してくれている本だといってよいかと思います。

わたしもこの本を読んでアタマのなかがかなり整理できました。きわめて読みやすく、アタマに入りやすい本です。騙されたと思って、ぜひ読んでみるといいでしょう。



『はじめての宗教論 右巻-見えない世界の逆襲』(佐藤優、NHK生活人新書、2009)
目 次

序章 「見える世界」と「見えない世界」-なぜ、宗教について考えるのか?
第1章 宗教と政治-神話はいかに作られるのか?
第2章 聖書の正しい読み方-何のために神学を学ぶのか?
第3章 プネウマとプシュケー-キリスト教は霊魂をどう捉えたのか?
第4章 キリスト教と国家-啓示とは何か?
第5章 人間と原罪-現代人に要請される倫理とは?
第6章 宗教と類型-日本人にとって神学とは何か?
ブックガイド
あとがき


『はじめての宗教論 左巻-ナショナリズムと神学』(佐藤優、NHK新書、2011)
目 次

序章 キリスト教神学は役に立つ-危機の時代を見通す知
第1章 近代とともにキリスト教はどう変わったのか?
第2章 宗教はなぜナショナリズムと結びつくのか?
第3章 キリスト教神学入門(1)-知の全体像をつかむために
第4章 キリスト教神学入門(2)-近代の内在的論理を読みとく
第5章 宗教は「戦争の世紀」にどう対峙したのか?
第6章 神は悪に責任があるのか?- 危機の時代の倫理
ブックガイド
あとがき

著者プロフィール  
佐藤 優(さとう・まさる)1960年東京都生まれ。作家・元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了。著書に『国家の罠』(新潮社、毎日出版文化賞特別賞)、『自壊する帝国』(新潮社、新潮ドキュメント賞と大宅壮一ノンフィクション賞)など(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<ブログ内関連記事>

書評 『聖書を語る-宗教は震災後の日本を救えるか-』(中村うさぎ/ 佐藤優、文藝春秋、2011)-キリスト教の立場からみたポスト「3-11」論
・・こちらを先に読んだほうがいいかもしれない。わたしは結果としてそうなったが、「3-11」は日本人にとてはまさにカイロス的時間の強烈な体験として刻みこまれることになった。以下、該当箇所を再録しておく。

「時間には二種類あるという論点だ。それは、クロノス と カイロス という二種類の時間についてである。ともにギリシア語で時間をあらわすコトバだが、クロノスは一般につかう時間の意味。時系列で連続している物理的な時間のことである。
 一方、カイロスはエピソードによって切断され時間のことである。エピソードとエピソードのなかにつなげられた時間のこと。
 日本人の歴史認識も、その意味ではカイロス的であるといえる。「戦前」と「戦後」といった時代区分は、大東亜戦争というカイロス的時間によって分断されたもの。
 その意味では、「3-11」によって、あらたな時代認識が発生したのは当然のことなわけだ」

本の紹介 『交渉術』(佐藤 優、文藝春秋、2009)


キリスト教とキリスト教神学

ハーバード・ディヴィニティ・スクールって?-Ari L. Goldman, The Search for God at Harvard, Ballantine Books, 1992
・・ハーバード大学神学大学院について

書評 『なんでもわかるキリスト教大事典』(八木谷涼子、朝日文庫、2012 初版 2001)一家に一冊というよりぜひ手元に置いておきたい文庫版サイズのお値打ちレファレンス本

書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに


神なき時代にキリスト教世界に生まれた全体主義

『「経済人」の終わり』(ドラッカー、原著 1939)は、「近代」の行き詰まりが生み出した「全体主義の起源」を「社会生態学」の立場から分析した社会科学の古典
・・「第4章の「キリスト教の失敗」については、全体のなかではちょっと異質な感じのする章である。背景となる文脈はいまひとつ読みにくいということがある。・・(中略)・・知的エリートたちが「経済人」モデルの問題点を解決するためにキリスト教倫理に戻ってきたのに対し、一般大衆は慣習以上の関心をキリスト教に対しては抱いていなかったということが指摘されているのだ。つまり、キリスト教はすでにヨーロッパにおいて熱情を失っていたことであり、そのために宗教的な熱情をともなう「全体主義」に引き寄せられたという分析だ」

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ
・・日本人の若手宗教学者による必読書


プネウマ(息・気・霊)

書評 『折口信夫 霊性の思索者』(林浩平、平凡社新書、2009)
・・プネウマ(息、気、霊)について

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?
・・キリスト教徒・山本七平の「空気」はプネウマの訳語である

(2014年8月14日 情報追加)


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書評『龍馬史』(磯田道史、文春文庫、2013 単行本初版 2010)-この本は文句なしに面白い!


この本は文句なしに面白い。

商人の血筋を引く郷士に生まれた坂本龍馬は金持ちの坊ちゃんだったこと。
「根拠なき自信」の持ち主であり、脇が甘かったこと。
無邪気に人を信じる反面、交渉ではタフネゴーシエーターであったこと。

などなど、歴史家が手紙や関連史料を丹念に読み解いて、坂本龍馬の真相を明らかにした歴史書です。

龍馬を斬ったのは誰か? 
誰が黒幕だったのか?

これらの問いにも著者は結論を出しています。
ここにはその結論は書きません(笑)
みなさんのお楽しみとしておきましょう。

歴史小説家ではなく歴史家が書いた歴史書ですが、推理小説のような味わいがあります。

もういちど繰り返しますが、この本は文句なしに面白い!

坂本龍馬という人物の個人史を軸にして、複雑な幕末史の体系をわかりやすく説明する読み物として、十二分に成功しているといっていでしょう。

文庫本で200ページと手軽な分量ですが、なかなかどうして密度の濃い一冊です。ぜひおすすめします。





目 次

第一章 自筆書状から龍馬を知る
第二章 龍馬、幕末を生きる
 一、龍馬は一日にしてならず
 二、龍馬はなぜ龍馬になっていったのか
 三、脱藩への布石を追う
 四、「龍馬の海軍」はいかに創設されたか
 五、なぜ龍馬は「武士の壁」を越えられたのか
 六、龍馬とイギリスが倒幕に肩入れした本当の理由
 七、なぜ薩長が同盟しないと倒幕はできないか
 八、将軍暗殺も辞さない龍馬の思想
第三章 龍馬暗殺に謎なし
 一、新撰組黒幕説-事件直後に疑われた
 二、紀州藩黒幕説-動機がもっともあった
 三、土佐藩黒幕説-成り立たない犯行動機
 四、薩摩藩黒幕説-常に疑いの目でみられた集団
 五、幕府内の立ち位置
 六、死の直前の龍馬の行動
 七、龍馬、最後の一日
 八、襲撃犯たちの回想
 九、龍馬暗殺の黒幕
 十、最後に
あとがき
龍馬暗殺関連京都地図
坂本龍馬年譜
解説 長宗我部友親
人名索引(巻末)

著者プロフィール

磯田道史(いそだ・みちふみ)
1970年、岡山に生まれる。慶応義塾大学大学院博士課程修了。現在、静岡文化芸術大学准教授。史料を読みこみ、社会経済史的な知見を活かして、歴史上の人物の精神を再現する仕事をつづけている。『近世大名家臣団の社会構造』、『武士の家計簿』、『殿様の通信簿』、『歴史の愉しみ方』、『無私の日本人』など著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。

<ブログ内関連記事>

書評 『仏教徒 坂本龍馬』(長松清潤、講談社、2012)-その死によって実現することなく消え去った坂本龍馬の国家構想を仏教を切り口に考える

書評 『岩崎彌太郎- 「会社」の創造-』(伊井直行、 講談社現代新書、2010)

書評 『明治維新 1858 - 1881』(坂野潤治/大野健一、講談社現代新書、2010)-近代日本史だけでなく、発展途上国問題に関心のある人もぜひ何度も読み返したい本

書評 『岩倉具視-言葉の皮を剝きながら-』(永井路子、文藝春秋、2008)-政治というものの本質、政治的人間の本質を描き尽くした「一級の書」

書評 『山本覚馬伝』(青山霞村、住谷悦治=校閲、田村敬男=編集、宮帯出版社、2013)-この人がいなければ維新後の「京都復興」はなかったであろう



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2013年5月23日木曜日

「ワーグナー生誕200年」(2013年5月22日)に際してつれづれに思うこと



ことし(2013年)の5月22日は「ワーグナー生誕200年」であった。

英語でいえば The Wagner Bicentennial である。Bicentennial という英語を耳にするのは、わたし的には 1976年の「アメリカ建国200年祭」以来である。ワーグナーが生まれた当時の欧州がどういうものだったのかは、なんとなく想像がつくだろう。

ワーグナーというと、まずはフランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』に使用された「ワルキューレの騎行」を想起する。攻撃型ヘリコプターが地上に向けてロケット発射とマシンガンを乱射するシーンに使用されていた。ちなみに『地獄の黙示録』(Apocalypse Now)は、1979年の作品である。

ワーグナーというとどうしてもヒトラーとナチズムの連想があるのは仕方がないことだろう。とくにニュルンベルクという都市名との結びつきがつよい。

ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』。
国家社会主義ドイツ労働者党(=ナチス党)の 1934年の党大会が開催されたニュルンベルク。
そして党大会を映像化したレーニ・リーフェンシュタールの傑作 『意思の勝利』(Triumph des Willens)。
敗戦後のドイツの戦争責任を問うために開かれたニュルンベルク裁判。

1930年代ドイツにおける政治と芸術の関係については、『ヴァーグナー家の人々-30年代バイロイトとナチズム-』(清水多吉、中公文庫、1998 初版 1980)が正面から扱っていた面白い。せっかくの機会なので、読まないままになっていたこの本を読んでみたら、これがじつに面白いのだ。


バイロイトとは、ワーグナーが自分の楽劇を上演するために建設した専用劇場のことである。

バイロイトとワーグナーといえば、言うまでもなく財政的支援を与えたパトロンのバイエルン王国のルードヴィヒ2世である。日本人観光客ならかならず一度は訪れたいというノイシュヴァンシュタイン城を建設させた王だ。ディズニーランドのお城のモデルになったもの。

そうでなくても上演にはカネのかかるオペラである。入場料収入だけではまかなえない、しかも夏季の・・期間だけ上演されるバイロイト音楽祭を支えてきたのは、19世紀後半にはルードヴィヒ2世、1930年代にはヒトラーとナチス党、そして戦後は財団法人をささえる公的機関である。

ワグナーというとヒトラーを連想するのは、ある意味では刷りこみかもしれない。ヒトラーが熱狂的なワグナーファンであったことは、ヒトラー関連の本ならかならずできくる話である。

上記の『ヴァーグナー家の人々-30年代バイロイトとナチズム-』においても、指揮者フルトヴェングラーが主要主人公である。ナチスとのかかわりが批判されてきたのはハイデガーなどとも共通することだが、1930年代のドイツをあとから批判するのはたやすい。

失敗に終わったドイツ1848年革命にコミットしたために指名手配となりながらも、その後は王侯貴族の庇護のもとにバイロイトで「精神の王国」の実現に成功したワグナーは、ドイツ近現代史を考えるうで欠かせない要素である。

わたし自身とはいえば、40歳を過ぎるまでワーグナーは好きではなかった。ヒトラーとの関連というよりも、魔術的で陶酔的な要素のつよすぎる音楽が好きでなかったからかもしれない。いまでも
基本的にはイタリア・オペラのほうが好きだ。

陶酔的といえば、三島由紀夫の主演監督作品『憂国』で使用された『トリスタンとイゾルデ』がそれに該当する。ドイツロマン派のワグナーと日本浪漫派の三島由紀夫に通低する感覚的なものだろうか。

いまだに『ワルキューレ』も『神々のたそがれ』も劇場で鑑賞していないが、これは将来の楽しみとしてとっておくこととしよう。

ワーグナーについて語ると膨大なものになっていまうので、ここらへんでやめておくことにしよう。

いまだ毀誉褒貶あいなかばするワーグナーという人物とその作品。芸術と政治の関係を考えるうえではずせないテーマでありつづけていくのは否定できないことだろう。





<関連サイト>

Apocalypse Now/Ride Of The Valkyries  (『地獄の黙示録』の一シーンで「ワルキューレの騎行」が使用されている)

映画『憂国』(1960年) (二二六事件で死ねなかった青年将校の切腹後のシーン)

Triumph des Willens (1935) - Triumph of the Will (『意思の勝利』が全編 YouTube にアップロードされている)


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バイエルン国王ルードヴィヒ2世がもっとも好んだオペラ 『ローエングリン』(バイエルン国立歌劇場日本公演)にいってきた-だが、現代風の演出は・・・

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・・「第7章 「総合力」のリーダーシップ-指揮者ヴァーグナーから学ぶこと」

今年(2010年)もまた毎年恒例の玉川大学の「第九演奏会」(サントリーホール)に行ってきた
・・R.ワーグナー/楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から第1幕への前奏曲

「憂国忌」にはじめて参加してみた(2010年11月25日)

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2013年5月18日土曜日

韓国現代史の転換点になった「光州事件」から33年-韓国映画 『光州 5・18』(2007年)を DVD でみて考えたこと(2013年5月18日)


韓国現代史の転換点になった「光州事件」から33年のいま、韓国映画 『光州 5・18』(2007年)をDVDではじめてみた。

1980年5月18日から27日にかけて韓国南部の光州市でおこった、軍による一般市民に対する無差別発砲という悲劇的事件を全面的に取り上げたヒューマン・ドラマである。

この映画が製作されたのはいまから6年前の2007年。事件から27年後になる。日本で公開されたことは知らなかった。この頃は、わたしはタイにいたためだろう。

映画はもちろんドラマとして脚色はあるのだろうが、光州事件を海を挟んだ対岸の日本からマスコミ報道をつうじてリアルタムにみていたわたしにとっては、さまざまなことを思い出すことをうながす内容であった。

感動的な内容の映画だが、映画そのものについてよりも「光州事件」そのものについて書いてみたいと思う。



「光州事件」とは

わたしの脳裏には当時つかわれていた「光州事件」という名称が濃厚に刻み込まれているのだが、現在では「5.18光州民主化運動」と呼ばれているようだ。

5.18光州民主化運動は、1980年5月18日から27日にかけて大韓民国(韓国)の全羅南道の道庁所在地であった光州市で発生した、民主化を求める活動家とそれを支持する学生や市民が韓国軍と衝突し、多数の死傷者を出した事件。(wikipedia 日本語版 5.18光州民主化運動

上記のサイトに引用されているデータによれば、死者154名、行方不明70名、負傷者3,000名以上とある。かなりの規模であったことがこの数字からわかる。

だが、リアルタイムで事件の推移を知っている日本人としては、「光州事件」として濃厚に記憶に刻み込まれてるので、以下の文章では「光州事件」と記述することにする。

当時は高校三年生だったわたしにとっては、衝撃的な事件だった。日本人にとって朝鮮半島で発生する事件は他人ごとではないのは、いまもむかしも変わらない。

新聞見出しの大きさやマスコミ報道の多さによって刷りこまれているのかもしれないが、日韓の心理的な距離感はじつはきわめて近いのであろう。とくにそれが事件や動乱である場合は、つぎは日本に波及するのかという無意識に感じる不安感のあらわれかもしれないが。

1980年当時の韓国は、ちょっと前までのミャンマーと同様、軍事独裁政権によって支配された不幸な国というイメージが日本では一般的であった。いまではまったく想像できないだろうが、韓国に対する好印象などカケラもなかったのである。

そんな固定観念が支配的だったなかで起こったのが、1979年10月26日の朴正煕大統領暗殺事件である。朴大統領の暗殺によって、やっと軍事独裁政権が終わり、韓国は民主化に向かっているというムードは、韓国だけでなく日本国内にも大いにあった。ちなみに現在では韓国語読みでパク・チョンヒといっているが、当時は日本語読みでボク・セイキといっていた。

ところが「光州事件」によって楽観ムードは一気に暗転することになった。朝鮮半島情勢はめまぐるしく変化するのである。これは当時も現在も変わらない。

当時は、日本以外の東アジア諸国は、韓国も台湾も戒厳令がしかれ、中国は毛沢東が死んでからまだ数年で改革開放などまだまだ先の話であった。冷戦構造のまっただなかであり、いまからは書想像もできないが共産主義の脅威がリアルに存在した時代である。

「光州事件」から2年後のことか、大学時代の前期には寮生活をしていたのだが、隣の隣の部屋にいた韓国からの留学生から聞いた話はじつに印象深いものだった。彼は、光州事件の際にはすでに大学生であったが徴兵されており、おなじく大学生に対して発砲する側に回されていたのだという。

思えば1979年はつぎからつぎへと大事件が起こっていた。イラン革命と第二次石油ショック、朴正煕大統領暗殺、そして年末にはソ連によるアフガニスタン侵攻・・・

ちょうど就職活動をしていた1984年の9月、光州事件を武力制圧し大統領となった全斗煥(チョン・ドファン)が国賓として来日していた。暑いさなかであったが東京は厳戒態勢にあったことを思い出した。

その後、1988年にはソウルオリンピックを実現させ、韓国は軍事政権のイメージを払拭させていくのだが、光州事件以後の韓国のイメージは、大学生による民主化デモと催涙弾の応酬といった映像で埋め尽くされることになる。そんな時代であったのだ。

(韓国版ポスター)


軍が一般市民に発砲するということは・・・

この映画に限らず、韓国映画に登場する韓国軍は、いい面も悪い面もふくめて、戦前の大日本帝国陸軍をそのまま引き継いでいる印象を受ける。だが、その日本においては戦前においても国軍が一般市民に対して発砲したことはない

「二・二六事件」というクーデター鎮圧以後は、軍による治安出動は検討はされても実行に移されたことはない。治安維持法のもとにおける思想犯に対する拷問はあったが、それは軍ではなく特高という警察の一部門の権限内のことである。

幕末の戊辰戦争は旧幕府軍と新政府軍との戦争であり、明治維新後の西南戦争の終結以来、日本では内乱は存在しない。その西南戦争も旧武士階級と新政府側との戦いであり、一般市民を犠牲にしたものではなかった。

日本では五・一五事件や二・二六事件のように軍人による政治家に対するテロは存在したが、一般民衆に対する組織的な発砲はなかった。ただし、戦地においてはかならずしもそうでなかったということは、まことにもって残念で恥ずべきこととして記憶されつづけなければならない。量的規模については論争が残るにせよ。

日本の五・一五事件もそうだが、5月というのはどうも血なまぐさい連想が多い。1980年の韓国の「光州事件」、1992年のタイの「5月流血事件」、そして2010年の5月に終結したバンコク騒乱・・・。タイの「5月流血事件」は、奇しくも5月17日から19日にかけておこった事件だ。民主化をもとめた学生や一般市民に軍が発砲して300人以上の死傷者がでた事件である。

韓国もビルマもタイも、みなかつてのラテンアメリカやアフリカのような軍事政権の時代を経験してきたのである。一般市民が流した流血の犠牲が民主化を進展させたことは否定できないことだ。

と書いてきて、いま映画『レ・ミゼラブル』の市街戦のシーンを思い出したが、日本人はみずからの血を流して民主化を勝ち取ったのではないという知識人のコンプレックスが生まれるのも、ある意味では仕方がないかもしれない。

だが、日本では国軍が自国民に対して発砲したことはないという伝統、これは旧軍でも戦後の自衛隊でも一貫している。誇るべき伝統ではないだろうか。


再び映画 『光州 5・18』について

全部で121分。けっして長い映画ではない。

きわめて重いテーマを題材にした映画だが、韓国社会とはどういうものかよくわかる内容でもある。基本的に儒教をべースにしているが、キリスト教が社会にとってもつ意味の大きいこと。

この映画ではカトリック教会とその司祭が重要な役割を果たしているが、おなじ全羅南道の木浦(モッポ)出身でのちに大統領となる金大中(キム・デジュン)もカトリックであった。

さまざまな意味で、隣国をよく知るためにぜひ一度は見ることを薦めたい。そういった関心がなくても、感動的な内容の映画である。

「光州事件」の犠牲者にはこの場を借りて、あらためて哀悼の意を表したいと思う。





<関連サイト>

5·18 民主化運動の歴史的な意義(光州広域市 日本語)

1992年5月のタイの「5月流血事件」(YouTube映像)


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書評 『朝鮮半島201Z年』(鈴置高史、日本経済新聞出版社、2010)-朝鮮半島問題とはつまるところ中国問題なのである!この近未来シミュレーション小説はファクトベースの「思考実験」

書評 『中国に立ち向かう日本、つき従う韓国』(鈴置高史、日本経済新聞出版社、2013)-「離米従中」する韓国という認識を日本国民は一日も早くもたねばならない

書評 『バンコク燃ゆ-タックシンと「タイ式」民主主義-』(柴田直治、めこん、2010)

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(2014年8月19日 情報追加)


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2013年5月17日金曜日

「意図せざる結果」という認識をつねに考慮に入れておくことが必要だ


最近のものですが面白い内容の記事があります。「中国とツナミで気力を取り戻した日本」。英国の金融経済誌「フィナンシャル・タイムズ」(Financial Times)の翻訳記事です(2013年5月9日付)。執筆者は David Pilling 氏。David Pillng 氏はこんな記事を書いている人です。

毎日のように中国政府が揺さぶりをかけてくるので、マスコミで中国ネタが尽きる日がないわけですが、いつものことながら中国がやることなすこと、ほぼすべてが意図に反したリアクションを生み出しています。

津波は不可抗力ですが、中国政府の行動は意図的なものです。不可抗力とは英語でも最近ではもっぱら force majeure(フォルス・マジュール)というフランス語起源のコトバをつかいますが、一般的には Act of God (神の行為)といいます。

「神の行為」(=不可抗力)ではない意図的な行為とは、神ではない人間がある特定の意図をもって行う行為のこと。「人間の行為」ですね。

「神の行為」には人間の立場からみて功罪両面があります。先の記事でいえば、東日本大震災における津波の被害は死者をふくめてきわめて大きなものでありましたが、その結果、生き残った日本人全体が「きずな」や「つながり」の意識を取り戻したことがあげられます。

「人間の行為」にも功罪両面があることに注意しておきたいものです。

先の記事でいえば、中国がGDPの規模で日本を追い抜いたことは日本人にとっては残念なことですが、尖閣諸島をめぐってのトラブルが日本人にいい意味でのナショナリズムという求心力を生み出しています。

たとえ想定する結果をもたらすことを意図した「人間の行為」であっても、「意図せざる結果」がもたらされることを考慮に入れておかねばならないのです。「想定内」にしておくべきだとおてもいいでしょう。

それは、偶発的な事象の発生によって異なる結果がもたらされることもありますが、偶発的な事象が発生しなくても、そもそも意図に反した結果がもたらされることが多いのです。それは、意図する側が完全に相手をコントロールできないからだけでなく、状況そのものをコントロールはできないからです。

たとえば、古い話ですが、大学入試に偏差値が導入されたのは、もともとは一流大学に集中しがちな受験戦争を緩和するのが当初の意図でありました。ところがじっさいには、偏差値という数字ですべてが表現されたことにより、東大を頂点とする受験体制はよりいっそう強化されることになってしまったのです。

これは「意図せざる結果」ですね。

ビジネスや経済の世界でいえば、消費税をあげれば税収が増えると財務省が意図しているのに対し、消費税があがるまえに駆け込み需要が発生するものの、消費財増税後はかえって消費が冷え切ってしまい、結果として税収があがらないといったことも発生します。

これもまた「意図せざる結果」です。

中国がらみの話でいえば、2004年の台湾総統選の際、台湾独立の意思を鮮明にした李登輝に対して、中国は台湾沖にミサイルを打ちこむなど軍事的な恫喝を行ったことがあります。ところが、このためにかえって台湾の投票者の多くが中国に反発して地滑り的な勝利を収める結果となったことも記憶されている方も少なくないでしょう。

これもまた「意図せざる結果」ですね。

現在、中国が日本に対して行っている尖閣諸島での艦船派遣が、かえって日本人のあいだに反中国という感情をベースにしたナショナリズムをかきたてる結果をつくりだしているのです。

最近はさらに沖縄は中国の属国であったとすら言い始めています。尖閣問題からさらにエスカレートし始めているわけですが、沖縄県民のあいだにも反中国感情を生み出している結果となっており、まさに逆効果としかいいようがありません。

逆説的な意味では、中国にはふかく感謝しなくてはならないというわけですね(笑) 

「日本復活」かどうかはわかりませんが、中国政府はどうやら同胞であるはずの台湾人だけでなく、隣国である日本と日本人をまったく理解していないようです。逆効果を生み出すことまで「想定内」にしているのであれば、中国政府もたいしたものだと言うべきでしょうが、じっさいはそうとは考えにくい。

とはいえ、中国側の過剰なまでのデモンストレーションに対しては、日本としては挑発に乗らずに、事実関係をベースにした対応をとることが肝心ではありますね。

いずれにせよ、なにかアクションを起こす際は、かならず「意図せざる結果」の認識を考慮に入れなくてはならないとはこういうことなのです。

それはマインドセットの問題だけでなく、イマジネーションの訓練が必要だということでもあります。



PS 冒頭で引用した記事の筆者デビッド・ピリング(David Pilling)氏の著書が日本語訳されている。『日本-喪失と再起の物語-黒船、敗戦、そして3・11-上下』(早川書房、2014)。日本通の英国人によるノンフィクションである。 ’(2016年6月18日 記す)



<ブログ内関連記事>

書評 『知的複眼思考法-誰でも持っている創造力のスイッチ-』(苅谷剛彦、講談社+α文庫、2002 単行本初版 1996)
・・第4章で「意図せざる結果」についての重要な指摘が書かれています。この本は必読書。



このほか、ビジネスでもそれ以外でも、なにかアクションを起こす立場の人は、この本を読んで勉強してほしいものです。 

『悪循環の現象学-「行為の意図せざる結果」をめぐって』 (長谷直人、ハーベスト社、1991)



「ストライサンド効果」 (きょうのコトバ)
・・「インターネット上に公開された情報を、個人や企業が封じ込めようとすればするほど、かえってその情報が拡散してしまうという、「行為の意図せざる結果」がもたらされてしまう現象のこと」


書評 『松井石根と南京事件の真実』(早坂 隆、文春新書、2011)
・・本人の意図に反して致命的な結果を引き起こしたケースとして松井将軍のことを想起すべきでしょう


「神の見えざる手」ではない!-アダム・スミスの「見えざる手」は「意図せざる結果」をみちびく

(2014年8月30日、10月25日 情報追加)



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2013年5月12日日曜日

「ウェーサーカ祭 2013」(2013年5月12日)に参加してスマナサーラ長老の法話を聴いてきた+タイ・フェスティバル2013(代々木公園)



ことしは仏暦2557年。釈迦入滅から2557年である。

ことしもブッダ生誕を祝うウェーサカ祭に参加してきた。基本的に上座仏教のスリランカ仏教を中心に、大乗仏教もふくめた仏教各派の融合を意図したものである。

ことしは「タイ・フェスティバル2013」と日程が重なっているので、まずは代々木公園で開催されたタイ・フェスティバルに立ち寄る。あまりもの殺人的な混雑ぶりに、とにかくミッションを一つだけ遂行。

ドリアンを食べるというのがそのミッション。ドリアンを食べるとビールは飲めないので(・・化学反応するのだというが実験してみたことはない)、そのあと仏教関連のイベントに参加するのも問題はないはずだ。そもそも仏教には不飲酒戒(ふおんじゅかい)というものがあるのだ。


ドリアンは匂いは臭いが、食べたあと息が臭くなるわけではない。食べているときはクチのなかがネチャネチャになる。おかげで在家であっても、この日だけは不飲酒戒を守ることになるというわけだ。

比較的ひとがすくないのがタイ料理以外の文化関係のブース。仏教関連のブースが2つある。海外布教にも熱心な新興のタンマガーイ寺院と成田にあるタイ仏教寺院ワット・パクナム日本別院。写真はワットパクナムのブースである。

(上座仏教では僧侶は拝むのではなく拝まれる存在)

基本的にスリランカの上座仏教が中心になって開催されるウェーサーカ祭、おなじく上座仏教のタイとあわせて参加するならちょうどよい。上座仏教な午後を過ごすこととなったわけだ。

五月晴れの晴天にもめぐまれていたので、代々木公園から渋谷まで歩く。渋谷に足を踏み入れると、また誘惑も多いが、ちょっとだけ立ち寄って所用を済ませたあと、そのまま歩いて会場へ。

会場は、ここ数年は渋谷区文化総合センター大和田4階 さくらホールに落ち着いたようだ。

プログラム
13:30 開場 誕生仏、成道仏、涅槃仏への献花
13:40 スライドショー
14:00 開式 ・おねり ・献花 ・祝辞 ・仏讃法要
15:00 チャリア舞踊(岡本マルラ有子)
休憩
16:30 スマナサーラ長老による記念法話
18:00 祝福の読経/聖糸・聖水の授与
19:00頃 終了予定

もうすでに参加するのは5回目となるので前半の部はすべて省略。「スマナサーラ長老による記念法話」のみ参加した。今回は前回とは違って、比較的オンタイムな運営ができていたようだ。

(献花に囲まれた成道仏)

一般参加でも入場無料。すべてはお布施でまかなわれる。

プログラムと小冊子をいただく。小冊子のタイトルは『智慧と善行為』(アルボムッレ・スマナサーラ長老、日本テーラワーダ仏教協会、2013)。ことしは小冊子にくわえてスマナサーラ長老の直筆サイン入りのポストカードをいただいた(写真右上)。



スマナサーラ長老の法話は、今回も拝聴することができた。というよりも、これが参加の主目的である。

ことしのテーマは釈尊仏陀の仏教の基本についての解説であったので、あまり新鮮味がなかったは残念。やや毒舌がすくなかったのも残念であった。

仏教は宗教ではないこと(!)、人生は苦であるが苦を徹底的に見つめることによってそれを乗り越えることができること、幸せを求めればそれが不幸せの原因となる、執着(しゅうじゃく)を捨てることこそが智慧であるなど、基本のおさらいとなる内容であった。

18時過ぎに法話が終わったので質疑応答のセッションは省略して会場を出た。つぎの予定が入っているためである。ほんとうは、祝福の読経と聖糸・聖水の授与には預かりたかったのだが・・・

今回はそんなわけで、上座仏教のエキゾチックな雰囲気を味会うというよりも、スマナサーラ長老の法話のみの参加となった。

来年もまた都合がつけば参加しようと思っている。






<関連サイト>

ウェーサーカ祭 2013 公式サイト


<ブログ内関連記事>

「ウェーサーカ祭2014」にいってきた(2014年5月24日)「記念鼎談」におけるケネス・タナカ師の話が示唆に富むものであった

「ウェーサーカ祭 2013」(2013年5月12日)に参加してスマナサーラ長老の法話を聴いてきた+タイ・フェスティバル2013(代々木公園)

「釈尊祝祭日 ウェーサーカ祭 2012」 に一部参加してスマナサーラ長老の法話を聴いてきた

「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」 に参加してきた(2011年5月14日)

今年も参加した「ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日 2010」-アジアの上座仏教圏で仕事をする人は・・

ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日 2009

『ブッダのことば(スッタニパータ)』は「蛇の章」から始まる-蛇は仏教にとっての守り神なのだ

(2014年5月26日 情報追加)




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2013年5月11日土曜日

書評 『なぜ日本の大学生は世界でいちばん勉強しないのか?』(辻 太一朗、東洋経済新報社、2013)-「負のスパイラル」を断ち切るには?



「日本の大学生は勉強しない」という問題意識から出発した本である。日本の大学生を採用する企業の立場から本書を論評してみたい。

まず現状認識についてだが、著者は海外の大学生を引き合いに出して、日本の大学生は勉強していないと述べている。現象面についてはそのとおりだろう。

アメリカで勉強した経験があれば、日本の大学が甘すぎるように見えるのはその通りだ。ただし、これは前提がある。アメリカの一流大学に入るような人間は私立のプレップスクールなどで勉強してきているが、一般的にはハイスクール(=高校)卒業まであまり勉強してしていないので、大学に入学してから猛勉強が強いられるという構造がある。

日本とアメリカ以外の大学についてはわたし自身が体験したことがないので確かなことは言えないが、おそらく猛勉強している大学生のイメージには韓国の大学生があるのだろう。

韓国にかんしては、幸いなことに、『韓国のグローバル人材育成力-超競争社会の真実-』(岩渕秀樹、講談社現代新書、2013)という本があるので、それと比較検証してみることをすすめる。現象面だけ見ていれば、たしかに日本の大学生が勉強しなさすぎるのは否定できない。だが、日韓が置かれている環境があまりにも違うことを視野にいれなかれば比較したことにはならない。

つまり、著者が「日本の大学生が勉強しない」というのは、厳密な比較論ではなく印象論であるということだ。とはいえ、「日本の大学生が勉強しない」という印象は、多くの人がもっているのではないだろうか。

わたし自身も、その「印象」はもっている。かつてなら入社後に鍛え直すということもできたが、ホンネとしては大学時代に最低限の基礎的なことを終えておいてほしいと思う。その基礎のうえに「考えるチカラ」をつける教育を施してほしいものだ。

日本の大学教育をめぐっては、「負のスパイラル」ができあがって数十年たつという著者の指摘はそのとおりだ。イラスト1枚にすべてが表現されているが、日本では、大学生、大学教師、採用担当者のそれぞれの立場において部分最適化している結果、「勉強しない大学生」が量産され続けているのである。

この状況は「負のスパイラル」であり、終わりの見えない「無限ループ」といってもいいだろう。


(著者執筆の「東洋経済オンライン」記事から)


もちろん、「若いうちは勉強しなきゃダメだ」といった精神論をぶったところで大学生が勉強するようにはならないことは、「負のスパイラル」をみれば明らかだろう。

採用する側は、当然のことながら「考えるチカラ」を見ている。ますます複雑化する世の中で企業活動を遂行していくためには、既存の知識を組み合わせたり、自分で調べて考え抜くことが求められるからだ

だが、大学の成績があてにならないので、市販のSPIなどの検査をつかわざるをえない。その意味では教育産業が大学教育の補完的な役割を果たしているといえる。もしその状況が問題であるならば、国が「出口」基準を明確化して、全国共通の大学卒業資格試験でも実施するのも解決の方向の一つであろう。

だが、より本質的な問題は、本書の第3章のテーマであるが、考えるチカラはゼミではつけられているが、なぜ授業ではそれがなされていないのかということにある。(ただし、私大文系ではゼミに入れない学生もいることも忘れてはならない)。

カネと時間をかけた調査により、考えるチカラを養う授業が具体的に明らかにされた。一種の人気投票でもあるが、この調査結果だけでも読む価値はある。大学名と学部名、教師名まで明らかにされている。だが、現在はまだまだ個々の教師の力量次第で、組織的な取り組みがなさすぎることが問題であろう。

ゼミは考える場になっているが、「評価」がなされていないことが問題だという指摘には納得だ。そのためには絶対評価ではなく相対評価にしなくてはならない。絶対評価だと全員がAになる可能性があるが、相対評価ではAを取れる人数は比率によって限定される。

「考えるチカラ」は、学生と教師とのあいだに学問をめぐって真剣な関係が成り立つことが前提となる。対話とディスカッションである。「白熱教室」のサンデル教授はそれを大教室でも実行していることは実行不可能ではないことを示している。

わたし的にいえば、授業においても学生が「PDCAサイクル」を回すように仕向けることが必要だと考える。

P(Planというよりも Preparation 準備):学生に課されたアサインメント(課題)
D(Do): ゼミや授業における対話やディスカッション、論述レポート、試験
C(Check): 相対評価による成績評価
A(Action): つぎの課題に向けての教師による個別フィードバック

本書が扱っているのは基本的に日本の一流大学が中心である。海外の一流大学並みに勉強するようにするにはどうしたらいいか、とくに「考えるチカラ」をつけさせるためにはなにをすべきかについて扱っている。

企業と大学との意識ギャップはいまでもきわめて大きい。企業の立場に立ちながらも大学の世界も垣間見ているわたしには、断層といっていいほどのズレがあるように思われる。

しかし企業世界の変化のスピードはさらに早まっている。大学が企業の下請けになる必要はまったくないが、変化の風は体感してほしいものだと思う。

本書がそのキッカケになればいいと思う次第だ。





目 次

はじめに
第1章 日本の大学生は本当に「勉強しない」のか?
第2章 大学生・大学・企業 永続する「負のスパイラル」
第3章 「考える力」こそが日本を救う
第4章 「正のスパイラル」はこうして回す
おわりに
巻末資料 主要大学 授業ミシュラン

著者プロフィール

辻 太一朗(つじ・たいちろう)
1
959年生まれ。京都大学工学部卒業。(株)リクルートで全国採用責任者として活躍後、99年(株)アイジャストを創業。2006年(株)リンクアンドモチベーションと資本統合、同社取締役に就任。採用コンサルタントとして延べ数百社の企業を担当。数多くの大学で講演、面接トレーニングの実績ももつ。


<関連サイト>

なぜ日本の大学生は世界でいちばん勉強しないのか?(東洋経済オンライン 本書の著者による連載記事)


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「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは

ダイアローグ(=対話)を重視した「ソクラテス・メソッド」の本質は、一対一の対話経験を集団のなかで学びを共有するファシリテーションにある

書評 『進化する教育-あなたの脳力は進化する!-(大前研一通信特別保存版 PART VI』(大前研一、ビジネス・ブレークスルー出版事務局=編集、2012)-実社会との距離感が埋まらない教育界には危機感をもってほしい

What if ~ ? から始まる論理的思考の「型」を身につけ、そして自分なりの「型」をつくること-『慧眼-問題を解決する思考-』(大前研一、ビジネスブレークスルー出版、2010)

NHK・Eテレ 「スタンフォード白熱教室」(ティナ・シーリグ教授) 第8回放送(最終回)-最終課題のプレゼンテーションと全体のまとめ

コロンビア大学ビジネススクールの心理学者シーナ・アイエンガー教授の「白熱教室」(NHK・Eテレ)が始まりました

「バークレー白熱教室」が面白い!-UCバークレーの物理学者による高校生にもわかるリベラルアーツ教育としてのエネルギー問題入門

ビジネスパーソンにもぜひ視聴することをすすめたい、国際基督教大学(ICU)毛利勝彦教授の「白熱教室JAPAN」(NHK・ETV)

慶応大学ビジネススクール 高木晴夫教授の「白熱教室」(NHK・ETV)

書評 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子、朝日出版社、2009)-「対話型授業」を日本近現代史でやってのけた本書は、「ハーバード白熱授業」よりもはるかに面白い!

書評 『アップル、グーグル、マイクロソフトはなぜ、イスラエル企業を欲しがるのか?』(ダン・セノール & シャウル・シンゲル、宮本喜一訳、ダイヤモンド社、2012)-イノベーションが生み出される風土とは?




(2012年7月3日発売の拙著です)







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