『井筒俊彦とイスラーム 回想と書評』(坂本勉/松原秀一編、慶應義塾大学出版会、2012)を今回はじめて通読してみた。
出版後すぐに入手して一部を読んだままになっていたこの本を、出版から10年たったいま、あらためて通読してみて思うのは、その内容がタイトルから受けるよりも、はるかに充実したものであることだ。
そもそもイスラームの研究者でもなんでもない、わたしのような一般読者が読む本であるかどうか、タイトルからはうかがい知ることはできない。その意味では、タイトルづけとしてはちょっと損しているのではないか。
まず「序 イスラーム事始めの頃の井筒俊彦」(坂本勉)がかなり有益だ。シンポジウム発表をベースにしているので「ですます調」で語られているが、「若き日の井筒俊彦」と言い換えてもいい内容である。近代トルコ史の専門家としての知見が大いに活かされている。
1 二人のタタール人との出会い2 イスラーム改革思想家としてのムーサー・ジャールッラー3 ムーサー・ジャールッラーの来日4 事始めの頃の研究成果5 戦後の本格的研究への歩み6 イスラーム神秘哲学への途7 革命前夜におけるイランの神秘哲学者との交流
重要なことは、戦前来日したタタール人たちは、ロシア帝国の臣民であったことだ。露西亜革命以前の話である。
かれらはムスリム学者としてアラビア語の経典とその注釈をすべてアタマのなかに入れていただけでなく、日常的にはロシア語を話す話者でもあった。井筒俊彦とロシア語の関係についての推測も、なるほどと思わされる。
『ロシア的人間』という、ロシア語で文学作品を読み込み、ドストエフスキーを中心としたロシア文学にあらわれたロシア神秘主義を熱く語った著書もある井筒俊彦だが、まずはムーサーとの実際上のコミュニケーションの必要が先にあったのであはないか、と。
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「第一部 回想の井筒俊彦」は、イスラーム研究関係の弟子たちや同僚、そして言語学者の弟子の回想をあつめたもので、それぞれ多面的な井筒俊彦像を描いている。
多元的文化への偏見のない関心――井筒俊彦を引き継ぐために(黒田壽郎、インタビュアー:湯川武)鎌倉、軽井沢、テヘラン(岩見隆、インタビュアー:高田康一+尾崎貴久子)共生の思想を模索する(松本耿郎、インタビュアー:野元晋)井筒俊彦の知を求める旅――モントリオール、エラノス会議、そしてテヘラン(ヘルマン・ランドルト、インタビュアー・翻訳:野元晋)井筒俊彦の本質直観(鈴木孝夫、インタビュアー:松原秀一)
イスラーム関係では黒田氏と松本氏のものが読みでがある。師としての井筒俊彦を語ることは、弟子としての自分の研究との共通性と違いを語ることでもあるからだ。
それぞれ個性の強い師と、個性の強い弟子の関係は、まさに昔ながらの「師弟関係」そのものというのがふさわしい。
そのカリスマ的な魔力に吸い寄せられ、飲み込まれてつぶされてしまう危険と戦いながら、厳しい師にくらいついていくガッツが必要だ。しかしながら、最終的に師を超える観点を打ち出さなければ、研究者として独り立ちできず、ものになれないという厳しい関係であることも示している。
イランに本拠地を移すまでは、「来る者は拒まず、去る者は追わず」だったようだ。魅力に惹かれて集まってくるが、あまりの厳しさにほとんどが脱落しているのである。
その意味では、言語学者の鈴木孝夫氏の10年におよぶ同居研学生活と、劇的な決別が興味深い。これは社会言語学者の田中克彦との『対論 言語学が輝いていた時代』(岩波書店、2008)でも語られていたが、こちらはより詳細に述べられている。象徴的な「父親殺し」というべきものか。あるいは意図せざる「守・破・離」の実践というべきか。
鈴木孝夫氏が弟子であった時代、井筒俊彦は「イスラームのイの字」も口にしていないといいう。敗戦後どっと入ってきた欧米の言語学や人類学その他の学問の吸収に専念しており、それが独自の言語意味論的方法論、言語哲学の基盤となったらしい。
その方法論を駆使したのがコーラン(=クルアーン)にかんする意味論的分析の英文著作三部作であり、岩波文庫から出版された『コーラン』(初版1957年)翻訳の際に作製した綿密なノートが素材となっているらしい。これは他の方のインタビューで語られていた。
これらのインタビューは、たんなる「回想」というよりも、多く考えさせる内容を含んだものとなっている。
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「第二部 私の一冊」は、編者がわりあてて依頼し、執筆されたものである。
思い入れのある本であるものもあり、綿密な注をつけてその著書の意味を語ったものもあり、著書だけの関係によるものなど、執筆者によって異なる取り上げ方をしているのが読んでいて面白い。
井筒俊彦の多面的な像がそのまま反映しており、直接にはイスラームとは関係のないように見えるロシア文学(と神秘主義)、ユダヤ神秘主義などの著書も取り上げられている。
『アラビア語入門』― 「井筒言語学」の曙光(大河原知樹)『イスラーム生誕』― ムハンマド伝をめぐって(後藤明)『コーラン』と『コーランを読む』― コトバの深奥へ(大川玲子)『意味の構造』― 意味論的分析によるクルアーン読解(牧野信也)『イスラーム文化』― 雄弁な啓蒙と呑み込まれた言葉(長谷部史彦)『イスラーム思想史』― 沙漠の思想か共生の思想か(塩尻和子)『イスラーム哲学の原像』― 神秘主義と哲学の融合、そして「東洋」をめぐって(野元晋)『存在認識の道』― 井筒東洋哲学を支えるもの(鎌田繁)『ルーミー語録』― その意義をめぐって(藤井守男)
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『ロシア的人間』― 全一的双面性の洞見者(谷寿美)『超越のことば』― 自我滅却の哲学のゆくえ(市川裕)『神秘哲学』と『意識と本質』― 二つの主著(若松英輔)
とりわけ、『神秘哲学』と『意識と本質』について書かれた若松英輔氏の文章は、大いに読ませるものであり、さすがに『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011) 井筒俊彦の全体像に迫る本格的評伝を書き上げた人だけの深い読みが示されている。わたしもこの2冊をなんども繰り返し読んできた。
『意識と本質』は主著である。それは英文著作を含めても変わらない。主著とは、作者の他の著述を読まずとも、その中核的思想に出会うことができる作品の謂である。
そして、その読み方の示唆も大いにうなづかせるものがある。
『意識と本質』は、必ずしも通読する必要はない。読者は好きなところから好き読み方にみ、自由に解釈を楽しむことができる。この著作の価値が読み方によって減ぜられることはない。部分的に繙く、といった読み手の気まぐれにもまったく動じない。それが恣意的な、ときに独断に満ちた「誤読」であったとしても。「『誤読』のプロセスを経ることによってこそ、過去の思想家たちは現在に生き返」る、と井筒俊彦は、空海を論じた作品に書いている。『意識と本質』は、彼のいう「誤読」の歴程にほかならない。だが、それゆえに作者の主体的体験に満ちている。
まさに意を得たり、と膝を打ちたくなる。わたしもそんな読み方を、単行本の初版を入手してから40年近く断続的につづけてきた。わたしの場合もまた、クリエイティブな「誤読」であると思いたい。
つい先日も、いままでまったく読んでいなかった箇所があることを発見して、大いに驚くとともに、大いに裨益されるものを感じたばかりである。井筒俊彦は、朱子学にまで探求を向けていたのか、と。老荘思想だけではなかったのである。回想によれば、日頃から漢文も読み込んでいたらしい。
直接イスラーム哲学を扱ったのではない著書の紹介が面白い。これらはみな、本書のタイトルからは想像できない、想像を裏切るすばらしい内容なのであった。
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