「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問は ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2009~2026 禁無断転載!



ラベル 発想 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 発想 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年6月10日土曜日

「逆回し」とは? ― 『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』は常識とは「真逆」の方法で製作された歴史書であり、ビジネス書である



つい先日(2017年5月18日)のことだが、『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン社、2017)というタイトルの本を出版した。2017年の現時点から、240年前の1776年までさかのぼった、ビジネス書のフォーマットで製作された歴史書だ。

内容は文字通り、「ビジネスパーソンのための近現代史」なのだが、コンセプト自体はもう少し長い。「ビジネスパーソンの、ビジネスパーソンによる、ビジネスパーソンのための」近現代史である。いうまでもなく、「人民の・・・」で始まる、リンカーン大統領の「ゲティスバーグ演説」の一節をもじったものだ。

なぜこのようなことを書くかというと、この3条件を備えたビジネスパーソン向けの歴史書がきわめて少ないからだ。

いわゆる「ビジネスパーソン向け」と銘打ってある本は、さまざまな分野で大量に出版されていくことだろう。だが、リアルなビジネス体験をもたない著者が書いた本は、現役のビジネスパーソンの立場から言わせてもらえば、いまひとつリアリティを欠いているといわざるをえない。

だが、それだけなら、それほどたいした特徴だとはいえないかもしれない。本書の最大の特徴は、「逆回し」という表現で「歴史を過去にさかのぼる」という手法を導入したことにあると考えている。経済学者のシュンペーター流にいえば、「新機軸」と言っていいかもそれない。


(カバーの袖に記載された本文からの引用)


 「逆回し」というのは、もちろん比喩的な表現だ。録画したビデオを「逆回し」すると、人間の動作がなんだかぎこちなく再生されてしまい、思わず笑ってしまうことがある。だが、そういう意味でつかったわけではない。ある意味では、「リバース・エンジニ アリング」の実践と考えていただいたほうがいいかもしれない。

いま目の前にある製品をバラバラに分解することで、その構造と機構、構成部品の詳細を知り、「見えない設計図」を再現する行為をさして「リバース・エンジニアリング」という。

「リバース・エンジニアリング」は、通常のものづくりの真逆の方向で行われる。最終製品をバラしてモジュールにし、モジュールを分解してユニットに、ユニットを分解して個々のパーツを取り出す。このプロセスで分解することで、逆に設計図が見えてくる。「リバース・エンジニアリング」の発想は、ものづくりのプロセスを「逆回し」にするものだ。

とはいえ、最終製品をバラバラにして取り出してきたパーツは、あくまでも断片であるに過ぎない。ユニットや、モジュールの単位まで再構成しなくては、設計図(=ストーリー)が見えてこない。ストーリーが明確でないと、アタマのなかで明確なイメージを構築できない恐れがある。執筆にあたって最大の難関はそこにあった。

「逆回し」で「さかのぼる」方法論によって制作された作品はないだろうか? なにかヒントになるものがないかと探した結果、NHKで『さかのぼり日本史』という番組が放送されていたことを知った。

2011年に放送されたこの番組は、ある特定のテーマを設定して日本史を「さかのぼる」という形式の歴史ものだ。放送後にはテーマごとに単行本化もされている。



■ヒントにしたのは「逆回し」で製作された映像作品

ほかに参考になるものがないかと探索している際に思い出したのが、韓国映画の『ペパーミント・キャンディー』(イ・チャンドン監督、1999年制作)という作品だ。


 (DVDのメインメニューより チャプター 1~4)


この作品は、「20年間の韓国現代史を背景に、ひとりの男が絶望の淵から人生の最も美しい時期までをさかのぼっていくという手法」だと、DVDの解説文にある。

独立したが事業に失敗、悲劇的な最期をとげることになる主人公が、時間を「巻き戻し」て過去にさかのぼっていき、最後は人生でもっとも美しかった瞬間で終わるというストーリー展開だ。全体で7つの「チャプター」で構成されている。


 (DVDのメインメニューより チャプター 5~7)


一般的な映画とは真逆の発想だが、ハッピーエンドで終わる映画であることには変わりはない。見終わったあと、じつに不思議な印象が残る映画だ。




似たような作品には、フランス映画の『ふたりの5つの分かれ路』(フランソワ・オゾン監督、2004年制作)がある。離婚した夫婦が、離婚からさかのぼって出会いまで時間をさかのぼるという映画だ。




映像作品はDVDで視聴する場合、チャプターごとに番号とタイトルがついているので、意識的に区分して視聴することも可能だ。チャプター内では、シークエンスごとに時間の流れにしたがって物語は展開するので違和感はない。

文字として記された書籍なら、紙の本であれ電子書籍版であれ、映像より対応しやすいのではないか? そこまで考えてから、ようやく本書の構想がまとまり、執筆を開始することができるようになったのだった。じつに3ヶ月も費やしてしまった。



■「逆回し」は、歴史書としては「常識」に反する発想だが・・・

人間にとって「さかのぼる」という行為は、じつは自然な発想なのである。

長い年月を生きてきた人なら当然のことであるが、それほど長い人生を生きていない若者だって、学校時代のことを思い出したりして懐かしい想いをするだろう。自分が「いま、ここに」存在するのは、その前に自分の親がいるからであり、その親にもまた親がいる。さかのぼれば、その連鎖は無限につづいていくことになる。

過去を振り返って出来事を思い出す。人間にとってはごく当たり前のことである。そして、人生にはいくつかの「分岐点」があることに気がつく。人生だけではない、歴史にもいくつもの「分岐点」がある。

これは「現在」からさかのぼってみてはじめてわかることだ。その渦中にいるとそれが分岐点であることは正確にはわからないが、振り返ってみて、はじめてそうだと気がつくことも多い。

「逆回し」とは、「流れ」を重視する歴史書にはあるまじき非常識な試みだろう。だが、「現在」を知り、「未来」を考えるために歴史を知ることが必要であるならば、「逆回し」という発想はけっして非常識ではないはずだ。



■「現在」を起点に「未来」と「過去」を認識する

かつてブログに 書評『人間にとって科学とはなにか』(湯川秀樹・梅棹忠夫、中公クラシック、2012 初版 1967)-「問い」そのものに意味がある骨太の科学論 という記事を書いているが、科学的認識の方向性は、現在を起点にして、過去と未来の二つの方向に展開されうることが、同書で指摘されていることを紹介した(・・下図を参照)。


(人間の認識は「現在」を起点に「未来」と「過去」に向かう)


ビジネスパーソンの活動は、基本的に「未来」に向けてのものである。

歴史家の活動は、基本的に「過去」に向けてのものである。

だが、科学的認識の方向とおなじく、これは認識のベクトルが異なるだけで、認識の方法そのもの基本的に同じ構造をもっているといってよい。

一般に「未来」を予測することは難しいが、自分自身が体験している「過去」を振り返ることは比較的容易であるといえる。だから、人間は自分自身の「過去」の体験をベースにして「未来」を予測するのである。

だが、人間の体験には限界がある。自分が体験していること自体は一次情報であるが、あくまでも主観的なものである。自分が体験していないことは、あくまでも伝聞であり、情報の性格としては二次情報、あるいは三次情報となってしまうことは仕方ない。

だからこそ、イマジネーションが必要とされるのである。

未来を知るために過去を知る。過去についての正確な認識をもつためにはイマジネーションで補う。そして、「過去」と「未来」が「現在」を規定していることを知れば、まずは「過去」に「逆回し」でさかのぼることが、「現在」をより深く、かつ正確に知ることにつながることが理解されるであろう。

「逆回し」の発想とは、ただ単に振り返るだけでなく、データをもとに事実をあぶりだし、それをイマジネーションで補うことを意味しているのである。

「逆回し」という発想の実践として製作された『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』は、この機会にぜひ読んでみて欲しいと思う次第だ。

執筆中は、『「現在」がわかる「逆回し」世界史講座』という「仮タイトル」だったが、最終的に出版社の判断で現在のタイトルに落ち着いたというエピソードをここに書き留めておくこととしよう。


(画像をクリック!)




<ブログ内関連記事>

2017年5月18日に5年ぶりに新著を出版します-『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』(佐藤けんいち、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017)

「ビジネス書か歴史書か、それが問題だ!」-『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』を書店のどのコーナーに並べるか?

『正論』最新号(2017年9月号)に拙著の「書評」が掲載されました-「まことに厄介な、かつスリリングな歴史書」

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)
・・「私が知る歴史家の中に、過去が現在を照らすというよりも、現在が過去を照らすのだという事実を受け入れる者はいない。大半の歴史家は、目の前で起きていることに興味をしめさないのだ。」(ホッファー『自伝』より)

(2017年9月3日 情報追加)


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどう
ぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end

2012年8月22日水曜日

今宵は三日月-三日月は英語でクレッセント、フランス語でクロワッサン、そして・・・



今宵(2012年8月22日)はきれいな三日月が見えています。
これは、日没前に撮影したものです。

満月は英語で full moon、半月は英語で half moon
これは、日本語と発想がまったく同じですね。

でも三日月は crescent (クレッセント)
クレッセント、いい響きのコトバです。
そこには moon というコトバがでてきません。

なぜかというと、起源はラテン語だから。
成長するという意味の動詞 crēscere の変化系。
これから成長して満月になっていく月ということ。

それは、フランス語の croissant (クロワッサン)ともまた同じ意味ですね。ラテン語がフランス語化したものです。

クロワッサンといえば、生地のやわらかいパンのことですね。でも、もともとの意味は三日月。形がにているから。いわゆるアナロジーです。

肥沃な三日月地帯(The Fertile Crescent)とは古代メソポタミア、いまのイラクのことですね。古代文明発祥の地の一つです。

そして、三日月といえばイスラーム。月星は、イスラームのシンボルです。トルコやパキスタンの国旗にも登場しますね。靴メーカーの月星製靴(ムーンスター)は、この事実をしっていたのでしょうか?

三日月のマークといえば、おなじみの花王石鹸。花王は、Kao と英文表記するので、東南アジアでローマ字をみると、なんだか中国系の名字のように思えてきます。

三日月からいろんな連想をしてみるのも、たのしいことです。

なんといっても「みかづき」という「やまとことば」の響きが柔らかい。
満月や半月という漢語とは違います。

満月もいいけど、三日月もいいですね!






(2012年7月3日発売の拙著です)








Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!

 
end

2010年8月24日火曜日

最近ふたたび復活した世界的大数学者・岡潔(おか・きよし)を文庫本で読んで、数学について考えてみる



■世界的大数学者・岡潔(おか・きよし)という天才が書いた文章を文庫本で読んでみる、という経験

 岡潔と書いて、おか・きよし と読む。数学者で随筆家である。
 ここまでは知っていた。表面的に知っていたがゆえに、かえってその岡潔が書いたものは一度も手に取ったことがなかった。数学者が書いた「情緒」についての随筆なんか読んでも意味はないだろうと。

 思い上がりと言うべきか。かつて自分がそうであった幼い合理主義者の態度というべきか。「情緒」は芸術家の専売特許と思っていたからだ。

 その岡潔(1901-1978)が、このところ立て続けに文庫版で復刊されている。

 時代の要請なのであろうか? 
 数学ブームの余塵なのであろうか? 
 ホンモノの時代の到来なのだろうか?

 かつて新書版などの著者名として目にしてもいっさい黙殺していた岡潔、ここらで読むべきなのではないか、そういう内心の声に従い、まとめて読んでみることとした。

 岡潔は、世界的代数学者であった、という。「多変数解析函数論」において、世界中の数学者が解けなかった「三大問題」を、すべて一人で解決したという。

 そんなすごい人だったのか、しかし「多変数解析函数論」とは何だか、数学を専門としたことのない私には、すごいというその一言しか感想はないのだが。

 2010年8月現在、文庫本として入手可能なタイトルを並べておこう。順番は、実際に読んでみて、この順番で読み進めると岡潔を理解しやすいのではないかという、私の提案である。

① 『春の草-私の生い立ち-』(岡潔、日経ビジネス人文庫、2010 単行本初版 1966)
② 『春宵十話』(岡潔、光文社文庫、2006 単行本初版 1963)
③ 『人間の建設』(岡潔/小林秀雄、新潮文庫、2010 単行本初版 1965)


 これら3冊を読んでの感想を一言で述べると、数学というものは私の理解している範囲よりはるかに広く、深いものである、と。
 たんなる論理ではなく、まさに岡潔のいう「情緒」というものがその本質か。
 目が開かれる思いとはこういうことだろうか。

「数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。」(『春宵十話』 はしがき)

 まったく新しいことをクリエイトすることにおいて、数学は本質的に詩作に近いようだ。

 前後の脈絡なしに、いきなり繰り出されるコトバ。社会通念に対して、いきなり真っ正面から意義をとなえる過激さ、妥協をしない徹底性。すべて借り物ではない、自分のコトバで語るという頑固な姿勢。思い詰めたような直情径行な言動。

 もちろん単行本になる際には、そうとうの編集がされているはずだが、なにか唐突な感じが否めない。

 放談に近いような印象がなくもないが、繰り返し、繰り返し同じ話をしているので(・・老人だからということがあるかもしれない)、ずっと読んでいるうちに、それこそ「情緒」のレベルで納得している自分に気づくことになろう。

 数学って本来はそういうものなのか・・。

 少なくとも、世界的大数学者・岡潔の脳裏においては、そのように理解されていたということだ。別のコトバで置き換えても、あまり意味はないような気がする。

 岡潔が使う「情緒」という意味を拡張して捉えるべきなのだろう。どうも「情緒的」という形容詞をネガティブな意味に使いがちな私としては、少し反省もしている。

 不思議な、不思議な読後感である。



■数学者と数学教師をめぐって私が抱いてきたイメージ

 日本を代表する数学者といえば、数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞を受賞した、広中平祐や小平邦彦といった人たちのことが脳裏に浮かぶ。すでに古典の領域の人といえば、高木貞治などという名前もときおり目にすることがある。

 マスコミでの露出の多かった数学者といえば、秋山仁、ピーター・フランクル、藤原正彦といったところか。これらはみな筆の立つ人なので、数学者が本業であることを忘れがちではある。

 数学者といえば、高校時代や大学時代の数学教師がまず連想される。

 高校時代の数学教師はいずれも、他の教科にはない個性的で、やや奇矯な(?)人たちであったという印象がなくもない。演劇狂、教員生活25年の骨川筋右衛門、日教組などなど、まさに多士済々であった。

 「変わっている」というのは、基本的にほめコトバであると私は受け取っているのだが、数学者はちと違う。

 高校時代、文系物理クラス(・・文系志望で理科の選択が物理)にいたのだが、私は性懲りもなく、大学二年まで数学の授業をとっていた。大学時代は、合計して3人の数学教師の授業をとったと記憶している。社会科学系だが、数学教師の数も質も高い大学であった。

 そのなかでももっとも印象が強いのは、幾何の証明問題を嬉々として黒板に板書しながら、ときに石川啄木について熱っぽく語っていたI先生のことである。小柄なI先生は、カラダ全体を使って幾何学の、いや数学の喜びを表現していた。授業をとっている私たちは、ひたすら板書の内容を筆記するのに追われていたのだが。


 まあ、「ピュタゴラスの定理」で有名な古代ギリシアの数学者ピュタゴラスが、秘教教団の主催者であったことを知れば、不思議でもなんでもない。ピュタゴラスの出生地サモス島はトルコに近い。私はこの島には、いまから20年くらい前に滞在したことがある。

 「幾何学を学ばざる者、この門をくぐるなかれ」と、プラトンは自分が経営する学園「アカデメイア」の門に書いていたという。

 幾何学(geometry)は、古代エジプトの測量術に起源をもつ、実学から発した学問である。高校時代、図書館でエウクレイデス(=ユークリッド)のギリシア語からの日本語訳書を眺めていたこともいま思い出した。


 米国に留学したとき、語学研修のためカリフォルニア大学バークレー校で遊学していた。その際に企画されたバスツアーでレッドウッドに一泊二日でいった遠足で、バスの隣の座席に座った韓国人の留学生と話をしたことがある。ちょっと幼く見える彼は、バークレーで数学を専攻するという。私の人生のなかでは、数学を専攻するという人間と直接会話をしたのははじめての経験だったので、印象深く覚えている。

 現象学の祖である哲学者フッサールも数学から、京都学派の田辺元も数学から哲学へ、そういえば、ユング派の臨床心理学・河合隼雄も、京大理学部数学科卒で、高校の数学教師をしていたのだった。


 数学者となれば、変わっているという点にかんしては、高校や大学の数学教師の比ではないだろう。

 高校時代の数学の教科書にでてきた絶対数のガウスや、微分積分法のニュートンやライプニッツはさておき、われわれに近い時代でも、映画『ビューティフル・マインド』の主人公にもなった米国人数学者ジョン・ナッシュ、NHKスペシャルで放送した、「ポアンカレ予想」を証明したロシアの数学者グリゴーリー・ペレルマンなど、数学者というのは変人だというイメージを増幅した可能性も高い。

 小説の主人公だが、『博士の愛した数式』(小川洋子、新潮文庫、2005)の主人公「博士」や、数学者・藤原正彦の『天才の栄光と挫折』(文春文庫、2008)に取り上げられた、ガロワ、ウィリアム・ハミルトン、ラマヌジャン、アラン・チューリングといった数学者たちも、ある種の変人といえばそのとおりである。

 ちなみに、藤原正彦は同書では、岡潔については項目としては取り上げず、数行で触れているのみである。彼の好みではないのだろう。これは後ほど引用しておくことにしたい。




■岡潔の随筆を文庫本で読む(続き)

 ずいぶん横道にそれてしまった。岡潔(おか・きよし)という世界的大数学者について語っていたのであった。

 しかし、ここまで振り返ってみた数学者と数学教師のイメージから考えて見ると、岡潔本人が書いたもの、岡潔本人がしゃべった内容を読む限り、岡潔もまた、よくいえばかなり個性的、ある意味においては変人人間であったという印象はきわめて強い。

 留学先のフランスで二二六事件について聞かれても的確な答えができなかたったことから、帰国後、日本的なものを知るために、芭蕉と道元を徹底的に読み込んだという岡潔。

 連歌もやり、浄土宗の念仏信仰にはまっていた人でもある。晩年に自宅を新築した際、念仏堂を兼ねた数学研究室を自宅に設けていたという。


 ① 『春の草-私の生い立ち-』(岡潔、日経ビジネス人文庫、2010 単行本初版 1966)

 日本経済新聞社に連載された「私の履歴書」を単行本にまとめたものが、34年ぶりに文庫版として復刊。

 なんか、非常に不思議な感じの文章であった。数学上の功績については、専門家ではないのでよくわからないが、現代風にいえば、なんだか「不思議ちゃん」っぽい匂いを漂わせている言動に満ちているのだ。

 そんな不思議なお祖父さんから、孫が昔話をきかせてもらっているような気分になる。不思議な経験だ。

 自叙伝なのだが、幼児教育と青少年教育がテーマで、自分の人生はあくまでもその実例として、素材(マテリアル)として取り上げる、といったスタンスである。前頭葉にかんする話がたくさんでてくる。




 ② 『春宵十話』(岡潔、光文社文庫、2006 単行本初版 1963)

 これはタイトルはかなり有名な随筆集。口述筆記で毎日新聞に連載されたもの。

 テーマ的には「私の履歴書」とかなりかぶっている。

 自発性、直観と情熱、飛躍といったキーワード。13歳頃の暗記の重要性。

 数学的発見のプロセスについて回想して記録しているが、これが実に興味深い。中国人経営の理髪店で耳そうじをしてもらっているときにインスピレーション、友人宅の応接室で座り込んでいるうちに突然の発見、子どもたちをつれてほたる狩りをしているときに突然難問が解けた、などなど。

 試験会場で数学の問題を解いた後、帰宅途中に間違えに気づくことがある、という話を岡潔も持ち出している。ひらめきやインスピレーションは突然やってくるという話である。

 岡潔を一冊だけ読むのであれば、本書をすすめる。




 ③ 『人間の建設』(岡潔/小林秀雄、新潮文庫、2010 単行本初版 1965)

 岡潔と小林秀雄の議論はかみあっているのか、いないのか。対談といえるのか、いえないのか。岡潔という希代の変人に小林秀雄が苦労しているような印象も受けなくはない。

 せっかく佳境に入るのかと思ったら、また全然議論がそれてゆく。
 しかし、ときどき両者の思考がスパークを起こす場面があって、面白い。

 小林秀雄(1902~1983)は、旧制一校から東京帝大文学部、専攻はフランス文学。文芸評論家に。

 岡潔(1901~1978)は、旧制三校から京都帝大理学部、専攻は数学。以後、一貫して数学者、のちに随筆家に。

 共通するのは、ほぼ同年生まれで同世代ということだけでなく、ともに「創造」(クリエイトすること)に携わっていたことであろう。また、フランス語世界にいたことも共通している。岡潔の専門論文はすべてフランス語で執筆して、世界の数学者を相手に発表していた。日本では理解できる人がいなかったようだ。

 脳科学者・茂木健一郎による解説は、意外とチカラの入ったもので、読み応えがある。


(画像をクリック!)



■岡潔について書いた文章を読んで、他者による評価をみてみる

 文庫本3冊を読んだ後で、自叙伝ではない、数学者が書いた評伝も一冊読んでみる。ネット書店で検索すると、いまから二年前に新書で評伝がでていることを知った。

 『岡潔-数学の詩人-』(高瀬正仁、岩波新書、2008)という本である。

 数学者で歌人である高瀬正仁の本を読んで、私が岡潔の文章や対談を読んで抱いた印象が、けっして独りよがりなものではなかったことを知って、すこしホッとする。

 この評伝を読んで思ったのは、様々な心身症、というよりも精神疾患に基づく諸症状だろう。孤独な研究生活のもたらしたものには、数学的発見の代償としての、なにか痛々しいものを感じたことだ。


 新聞沙汰になるような騒ぎ、突然の失踪と行方不明、入退院の繰り返し。休職した大学からは復職を拒否され、自分の居場所が数学研究にしかないという切羽詰まった追い込まれかた。数学研究とは、つまるところ自分のアタマのなかのい世界のことである。

 先にも触れた、映画『ビューティフル・マインド』にもなった米国人数学者ジョン・ナッシュを想起してしまう。岡潔自身の出版された著作だけを読んでいては直接的には知ることのない世界が、描かれている。やはり、そうだったのか。

 とても生易しい人生ではない。正直いって、このような人になりたいとは誰も思わないだろう。

 天才の孤独というべきか。俗にバカと天才と紙一重というが、実際に岡潔も郷里に戻って数学に専念していた頃、悪童たちかたは「キチガイ博士」(原文ママ)とよぱれていたという。

 その一方で、岡潔が思索に没頭しているときは、これら悪童たちも邪魔をしないようにしていたという。つまるところ、畏怖の対象であったということだろう。
 
 ただし、この本は数学にかんする記述は、正直いってわかりにくい。具体的にイメージしにくいからとばして読んでもかまわないだろう。

 これとは別に、精神病理学の観点からの診断書も読んでみたいという気にさせられる。

 戦時中は、食糧自給のため子供を連れて畑にいき、畑仕事をしたあとに、棒きれで地面に数式を書いては思索に耽っていたといういう。このシーンは、なんだか目に浮かぶようだ。

 数学は、集中できる環境さえあれば、どこでもできるのである。しかも五感をフルに働かせながら。



■「数学ブーム」に思うこと

 岡潔の「数学」は、あくまでも数学者が研究している純粋数学であって、フツーの人間にはほとんど関係のない話である。
 
 先にもふれた、藤原正彦お岡潔にかんするコメントを引用しておこう。数学者にとっても、岡潔は異質な存在のようだ。

我国が誇る独創的数学者岡潔は生前、浄土宗の系統を引く光明主義を信仰しており、毎朝一時間念仏を唱えてから数学に向かったという。大発見のいくつかが、非常に少数の天才による、宗教に根ざしたものであった場合、大半の数学者はその経験がないから、とうてい了承し得ないだろう。ハーディーのごとく拒絶まではしなくとも、狐に鼻をつままれた気分になる。すなわちいつまでたっても、そのような話は、真偽とかかわりなく天才の個人的経験の域を出ないのである。

(出典:『天才の栄光と挫折』P.193 「シュリニヴァーサ・ラマヌジャン」の項)

 数学者ですらこういうコメントをするくらいだから、一部の一握りの天才の話でもって数学と数学者を語るのは、話のネタとしては面白いが、われわれの日常生活にはあまり関係のない話ではある。

 数学は美しいというのは、岡潔に限らず、数学者や数学教師がクチにすることだ。
 しかし一般人には、なかなかその境地に達することはない。

 私は、一般人はそれでもいいのではないかと思っている。有限の生命のなかで、「真善美」のうちどれに重点を置くかで、その人の個性が決まってくると思うのだが、日本人の多くは「美」であろう。「美」に倫理を求めるのが多くの日本人の性向だと思われるが、数学に「美」を感じるのはごく一部に人であって構わない。

 日本人の大半は実用的なものに重点をおく、きわめて現実的な性質をもっている。

 だから、数学も実用性という観点から求めるのは、数学者からみれば意に沿わぬものであったとしても、間違ったことではない。

 一般人は、数学の実用的な側面にしか関心がないのは当然といえば当然だ。

 「数学ブーム」、「数学脳」といった現在のブームも、そういう文脈のなかで捉えるべきだろう。

 数学の実用的な側面には、面と行っても直接的なものと間接的なものがある。直接的なものとは、自然科学や工学での応用である。間接的なものとは、論理的思考訓練のことである。

 その意味においては、いわゆる「私学文系」の大学入試に数学がなくなったのは、取り返しのきかない致命的な問題と思う。数学そのもの、数学的なものをひたすら忌避してきたツケが大きく回ってきたのだろう。だからこそ「数学ブーム」という状況が発生しているのだろう。数学から逃げ回ったことに対する後悔の念と、焦燥感。

 さきに高校時代の文系理系のクラス分けについて書いたが、まったくナンセンスな話だと思っている。私は強く思うのだが、そもそも、日本では理系と文系を二項対立的に区分し、もっぱら数学を理系に分類していることは諸悪の根源ではないか。私は、ここに現代日本が抱える大きな問題の一つがあると考えている。

 数学は、岡潔が理解したように、自然科学の範疇には収まりきらないものがある。

 むしろ、サイエンスというよりもアートとしての特性をもっているのか。

 それとも、すべての学問の基礎の一つと捉えるべきなのか。 岡潔にいわせれば、論理以前の「情緒」ということになるのだが、ここらへんの状況については、その領域まではいったことはないので、実感はあまりない。

  岡潔は、「計算でも、論理でもない数学」を追求したというが、大数学者とはほど遠い一般人は、数学の論理性にこそ着目したい。

 というよりも、純粋数学は目指したところで、大半の人間はついていけずに脱落していくのだろう。

 数学を専攻した人も、就職となると数学教師が多いのは、音楽をやった人が音楽教師になるのと似ているのかもしれない。数学者として食べていけるのは、音楽家として食べていくのと同様、きわめて狭き門なのであろう。この点はよく似ている。

 数学は文系でも理系でもなく、論理学の基礎であるという側面をさらに前面に出すべきだろう。そして、数学は面白い、このことをもっと学生に伝えるべきなのではないのだろううか?

 いや面白いのは数学教師だといわれれば、そのとおりなのだが。

 やれ論理的思考能力だ、やれロジカルシンキングだ、とかまびすしい現在の日本だが、岡潔も数学の表現としての論理性は否定しているわけではない。なんせ数学と論理の国フランスに4年間留学し、専門論文はすべてフランス語で書いた人である。岡潔がフランス語で書いた論文はすべてネット上で公開されている。

 具体的な処方箋としては、私は数学者から出発した小室直樹の本を読むべしと答えておこう。

 とくに『数学嫌いな人のための数学-数学原論-』(小室直樹、東洋経済新報社、2001)、痛快なタイトルの 『超常識の方法-頭のゴミを取れる数学発想の使い方-(知的サラリーマン・シリーズ)』(小室直樹、祥伝社NONブック、1981)。
 ともに新刊では入手できないのが問題だが。ほかにも「数学ブーム」のおかげでいろいろ本がでているので、自分にあったものを見つけたらいいと思う。

 私も、小室直樹と同様、幾何学的思考と数学的思考が、学問のすべての基礎だと信じて疑わない。
 

(追記)
 『超常識の方法』は、『数学を使わない数学の講義』(ワック、2005)とタイトルを変えて再刊されていることを知った。これは入手可能なので、ぜひ読まれることをお薦めする(2010年10月5日)。





■終わりに-とりとめなく

 ときどきこういう夢を見る。数学の教科書の練習問題をまだぜんぜん解いていないのに期末試験が近づいている(!)という夢。数学というとどうしても、こういう記憶が残っているようだ。

 大学入試にあたっては、矢野健太郎先生には大いにお世話になった。
 天の邪鬼な私は、多数派であった『チャート式数学』ではなく、数学者・矢野健太郎先生の『解法のテクニック』(科学新興新社)の練習問題をひらすら解いていた。そう、それは30年も前のこと、今年と同じく、ひたすら暑い夏休みのことであった。

 凡人であるフツー人は、数学はあくまでも実用的な側面にとどめておいた方がいいだろう。あまり深入りしない方がいい。

 情緒にかんするものは、日本人は俳句や和歌で養うべきであろう。いや、自然のなかにわけいることによって五感を全開にして涵養すべきものだ。数学者になるかどうかは別にして。

 高校時代の演劇狂の数学教師のクチグセは、「数学をやると美人になる」というものだった。
 そのココロは・・・アタマに汗をかくから顔が引き締まる、と。

 「数学の美」とはほど遠いような気もするが、「美」は「美」である。
 「美」は日本人を律する倫理基準であるから、それでいいのかな。




<関連サイト>

◆数学者ジョン・ナッシュをモデルにした2001年制作のハリウッド映画 『ビューティフル・マインド』(A Beautiful Mind)のトレーラーはこちら。主演はラッセル・クロウ、ジェニファー・コネリー。




PS 読みやすくするために改行を増やした。また写真を大判にし、写真の追加も行った (2014年7月22日 記す)




<ブログ内関連記事>

■数学関連

「オックスフォード白熱教室」 (NHK・Eテレ)が面白い!-楽しみながら公開講座で数学を学んでみよう

月刊誌 「クーリエ・ジャポン COURRiER Japon」 (講談社)2013年11月号の 「特集 そして、「理系」が世界を支配する。」は必読!-数学を中心とした「文理融合」の時代なのだ

資本主義のオルタナティブ (3) -『完全なる証明-100万ドルを拒否した天才数学者-』(マーシャ・ガッセン、青木 薫訳、文藝春秋、2009) の主人公であるユダヤ系ロシア人数学者ペレリマン

映画 『イミテーション・ゲーム』(英国・米国、2014年)をみてきた(2015年3月14日)- 天才数学者チューリングの生涯をドイツの暗号機エニグマ解読を軸に描いたヒューマンドラマ

書評 『コンピュータが仕事を奪う』(新井紀子、日本経済新聞出版社、2010)-現代社会になぜ数学が不可欠かを説明してくれる本
・・一橋大学法学部出身の異色の数学者

『ソビエト帝国の崩壊』の登場から30年、1991年のソ連崩壊から20年目の本日、この場を借りて今年逝去された小室直樹氏の死をあらためて悼む
・・京大理学部数学科卒の知の巨人・小室直樹

書評 『河合隼雄-心理療法家の誕生-』(大塚信一、トランスビュー、2009)-メイキング・オブ・河合隼雄、そして新しい時代の「岩波文化人」たち・・・
・・ユング派の臨床心理学・河合隼雄も、京大理学部数学科卒で、高校の数学教師をしていた


■直観によって「見えないもの」を「見える化」するのが科学的発見

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点

書評 『「大発見」の思考法-iPS細胞 vs. 素粒子-』(山中伸弥 / 益川敏英、文春新書、2011)-人生には何一つムダなことなどない!

企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)にいってきた-日本科学未来館で 「地球時代の知の巨人」を身近に感じてみよう!
・・「「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるのである」(梅棹忠夫)

"粘菌" 生活-南方熊楠について読む-
・・直観は生命と密接な関係。因⇒縁⇒果

書評 『叙情と闘争-辻井喬*堤清二回顧録-』(辻井 喬、中央公論新社、2009)
・・詩人の直観と企業経営は両立しうるか?

(2014年7月22日、8月19日、2016年10月24日 情報追加)



<ブログ内関連記事> 
   






(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!)

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどう
ぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end