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2026年10月27日火曜日

マンガ界の巨星落つ ― ちばてつや先生がついに逝ってしまった(2026年10月27日)

 (『ハリスの旋風』のオープニングより「国松さま」)


いきなり衝撃的なニュースが飛び込んできた。漫画家・ちばてつやさん死去、87歳 「あしたのジョー」「おれは鉄兵」文化勲章受章者 という訃報だ。

ついに逝ってしまわれたか・・・。マンガ界の巨星落つ。 

物心ついた幼少期からアニメ、というより当時はテレビマンガといっていた白黒テレビ時代の『ハリスの旋風(かぜ)』以来、アニメにマンガに、半世紀をはるかに超える月日にわたって数々の作品をつうじて触れてきた。いまからなんと60年前(!)の話である。


(1966年にTV放送された『ハリスの旋風』)
(たぶん再放送で見たのではないかな・・)


一般には『あしたのジョー』が代表作として引き合いに出されることが多いが、それはもちろん異論がない。1970年のアニメ版を見ていた。

「団塊の世代」ではないのでマンガの原作は読んでいない。だから、その当時の大学生の熱狂ぶりなど知りようがない。自分はアニメをみていたから、主題歌が記憶に強く残っている。


(TVアニメ『あしたのジョー』のオープニング主題歌)


いまこれを書いていて気づいたが、1966年の『ハリスの旋風』は白黒だったが、1970年の『あしたのジョー』はカラーになっている。この間に、白黒テレビからカラーテレビに変わったのだな、と。

『あしたのジョー』はカラーで見た記憶が残っているから、うちの実家もその間にカラーテレビに買い換えていたのだろう。まあ、絵に描いたような「テレビっ子世代」であったわけだ。

自分としては、『のたり松太郎』という相撲マンガが好きだった。 これは雑誌連載で毎週読んでいた。1973年から1998年にかけての長期連載だったので、ぜんぶ読んだのか記憶がないのだが・・




近年は、満洲からの命からがらの引き上げを回想したカラーマンガ『ひねもすのたり日記』(2018年)で、その少年時代を知った。東洋経済オンラインでその抜粋を読んだだけだが、たいへん苦労されたのだな、と。 この作品はぜんぶ読んでみたい。

マンガを日本文化の代表として育て上げた功労者、ちばたつや先生。

マンガ(manga)はいまや英語となって、世界中で愛される日本文化となっている。マンガの黄金時代を築いた水木しげる先生も、松本零士先生も、この世代の巨星はみな逝ってしまった。

 『ハリスの旋風』の主題歌「国松さまのお通りだ~い」を口ずさみながら、あらためてご冥福をお祈りします。合掌


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2026年10月26日月曜日

TVアニメ『チェーンソーマン』(全12話、2022年)を amazon prime で視聴(2026年10月25日)― このTVアニメは大いに気に入った。世界的大ヒットになるのも当然だろう

 

 TVアニメ『チェーンソーマン』(全12話、2022年)を amazon prime で視聴。「総集編」だと前編・後編でつづけて視聴も可能だ。ただし、「総集編」からは「第12話」のエンディングのあとの動画が省略されている。

『チェーンソーマン』については、アニメについても原作のマンガについても知ってはいたが、これまで見てなかった。内容は以下のとおり。 


『チェンソーの悪魔』ポチタと共にデビルハンターとして暮らす少年デンジ。親が遺した借金返済のため、貧乏な生活を送る中、裏切りに遭い殺されてしまう。薄れる意識の中、デンジはポチタと契約し、悪魔の心臓 を持つもの 『 チェンソーマン 』として蘇る ── 。 ©藤本タツキ/集英社・MAPPA」 


『呪術廻戦』と設定とテイストが似ているのは、アニメ制作がおなじくMAPPAということもあろうが、戦う相手が人間とまったく無縁の存在ではないからであろう。

バイオレンスアクションもののダークファンタジーである。喫煙と暴力シーンがあるので、レーティングは「+18」。 少年マンガが原作なので、もうすこし下げてもいいような気がするが・・・




スピード感ある展開とダイナミックなバトルシーンがイケる。主人公が、頭部と両手のチェーンソーで悪魔をぶった斬る際のスプラッター度が半端じゃない。残酷ではあるが美しい映像。ある種のスカッとするような爽快感がある。 

設定が非現実的でありながら、貧困からの脱出という現実的な要素もある。そんな非現実と現実とのバランスが面白い。主人公は16歳だが、貧困層出身であって高校生ではない。思わず笑ってしまうような性的欲望とロマンス的な要素もある。

『呪術廻戦』とおなじく東京が舞台の中心であるが、もうひとつの拠点が京都である点も共通している。呪術や悪魔といったテーマにかんしては、東京と京都がつねに一対(いっつい)の関係と認識されているようで興味深い。

『呪術廻戦』は「第2シーズン」まで視聴したが、呪いにあてられたためか(?)えらく消耗してしまったので「第3シーズン」はまだ見ていない。それに対して、『チェーンソーマン』は大いに気に入った。世界的に大人気であるのも当然だと思った。 

ということなので、劇場版『チェーンソーマン レゼ篇』(2025年)を先に見ることにしよう。世界的メガヒットになったというこの劇映画をいまから期待している。
 



ところで、昨日のことだが、TVアニメの『チ。― 地球の運動について』(2024~2025年)を第17話まで我慢して視聴したが、正直いってあまり面白くないので、その先を見るのは中止した。

異端とされた「地動説」にかんする科学的発見が、研究者から研究者へとリレーのように引き継がれていくというテーマ自体は面白いのだが、際だった要素だけ取り出して歴史を無視するつまみ食い的な設定、さらに時代考証があまりにも雑過ぎて、ヨーロッパ中世史を知ってる人間には耐えがたいものがある。

というわけで不完全燃焼状態(!)に陥っていたので、残酷だが爽快感のある『チェーンソーマン』がいい毒消しとなった。いや悪魔のチカラを借りた悪魔退治(?)というべきか。カタルシスだな。

おなじ「ち」とはいっても、「地」や「知」やより「血」のほうがエンタメ度が強いということだ(笑)


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・・アニメ版の製作は『チェーンソーマン』とおなじくMAPPA


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2026年10月23日金曜日

書評『神経症的な美しさ ― アウトサイダーがみた日本』(モリス・バーマン、込山宏太訳、慶應義塾大学出版会、2022)― 現代日本がなぜ世界中から注目されるのか、その理由について広くかつ深く考察した日本文化論

 


読み終えてからすでに4ヶ月以上たっているが、米国人の思想家による本格的な「日本文化論」として、今後も言及されることになるだろう本だからだ。


■『デカルトからベイトソンまで』の著者による「日本文化論」

すでに5年前のことになるのだが、『超訳ベーコン 未来をひらく言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティ、2021)という本を作成している際のことだ。

フランシス・ベーコン関連の参考書になるかもしれないと思って、復刊された『デカルトからベイトソンまで―世界の再魔術化(モリス・バーマン、柴田元幸訳、文藝春秋、2019)の前半を読んだ。17世紀に生きたフランスのデカルトとイングランドのベーコンは同時代人である。

知的に刺激のある本だったので、著者について調べているうちに、米国人の「脱領域型」の思想家モリス・バーマン氏がイタリア・ルネサンスや日本について書いていることも知った。

日本についての本が、本書の原本である "Neurotic Beauty"(神経症的な美しさ) というタイトルの本である。




 "Neurotic Beauty"(神経症的な美しさ)とは奇妙なタイトルだな、カバーの装画にある水墨画の竹と特攻機とおぼしき図像との取り合わせが妙に印象的だなと思いつつ、とりあえずサンプル版をダウンロードしてざっと目を通したあと、気にはなっていたものの、そのままうっちゃっていた。

2022年になって日本語訳がでたことを知って、税込みで4000円強とはちょっと高いなとは思いながらも、書籍版で『神経症的な美しさ  ―  アウトサイダーがみた日本』(モリス・バーマン、込山宏太訳、慶應義塾大学出版会、2022)を購入した。

購入してから3年後になってから、ようやく日本語訳を少しずつ読み進め、1週間かけて一読した。

「近代日本」を米国との密接かつ濃厚に絡み合う関係のなかで捉え、日本文化についてポジティブな側面だけでなくネガティブな側面まで押さえたうえで、禅体験をベースにした京都学派の哲学を論じ、現在日本のポップカルチャーまで考察する。

「日本はポスト資本主義のモデルになりうるか?」という問いがその根底にある。この是非については、最後に考えたい。


■英語文献だけでも「日本文化論」は可能

日本語版は、なによりも翻訳がすばらしい。労作である。しかも細部まで配慮のよく行き届いた丁寧なつくりになっている。

詳細な注もすべて翻訳されているだけでなく、対応する日本語文献も掲載されている。日本にかんする本は、日本語の固有名詞をローマ字表記から漢字に戻すことが必要なので、そのまま英語で読むと誤解が生じる恐れがある。日本語版を読む理由はそこにある。

読後感としては、まずなんといっても、日本語の読解能力がなくても日本についてここまで広く、かつ深く書くことができるのか、という驚きである。「何年も合気道を実践し、囲碁を打ち、俳句を詠み、座禅を組んできた」とはいえ、著者の日本語能力はきわめて限定されているからだ。

日本で一般的に言及される思想家があまり登場しないのは、英語文献にのみ頼っているからだろう。だが、そうはいっても本格的な日本研究もかなり進んでいて、英語による論文や著作も100年前と比べたら、それはもう比較のしようがないほど蓄積されている。現代社会まで視野を拡大した最近の日本研究の進捗ぶりも、目を見張るものがある。

英語の翻訳だけをもとに古今東西の哲学を踏まえたうえで、独自の哲学を展開している米国人思想家ケン・ウィルバーもそうだが、重要なことは分析の視角であり、考察の深さである。日本語あができるかどうかは、二次的な問題だ。モリス・バーマン氏の日本論を読む意味はそこにある。


■「神経症的」は「開国」以後の日本を形容するキーワード

さて、タイトルの『神経症的な美しさ』は、なにを意味しているのか? 

「美しさ」については、「真・善・美」のなかでは、もっとも「美」を最重視してきたのが日本の伝統であることはあえて説明するまでもない。

「神経症的」(neuroteic)というのは、明治維新後の「近代日本」、さらに敗戦後の「戦後日本」のことを指している形容詞だ。

「近代日本が神経症的」であることは、文化人や知識階層は別にして、一般の日本人にその自覚症状はあまりないのではないか? 自分で自分の症状は自覚しにくいからだ。

だが、ざまざまな精神的な「ひずみ」として日本社会で顕在化していることが、外国人である著者には鮮明に見えているようだ。

そもそも、きわめて長きにわたって、東洋世界で「精神のあり方」が形成されてきたのが「前近代」の日本人である。日本人の存在の根っこは本来そこにある。

著者は、禅(Zen)と工芸品(Craft)をもって「前近代」の日本を代表させているが、米国による「開国」という「外圧」によっていやおうなく受け入れざるをえなくなった日本人は、「近代化」=「西欧化」によって存在基盤が揺るがされ、精神的に浮遊する状態が現在にいたるまで続いている。

表面的に「近代化」されたものの、その中身はけっして西欧人ではない。東洋に根っこを持ちながら、表面は西洋化された「ねじれ状態」は、日本と日本人のアイデンティティを不確かなものとしている。

「敗戦」によって米国を中心とした連合軍に占領され、アメリカナイズされた「戦後日本」の日本人。この時代に日本人はほぼすべてが「近代化」されたことになる。

とはいえ、変わり身の早いのが日本人であり、近代化がどの層まで及んでいるのかは疑問は残る。もちろん、これは功罪両面から考えるべきことである。ローカル文化の核が古層として残っていることは、日本を日本たらしめているからだ。

しかしながら、「近代」の後遺症はけっして無視できるものではない。急速な近代化が生み出したひずみが代償として、無意識レベルで日本人を呪縛し、「神経症的」な状態を恒常化させたまま現在にいたっているのだ。

繰り返しになるが、日本人に突きつけられているのは、「お前は何者だ?」というアイデンティティをめぐる終わることのない問いである。

そもそも、日本人にとって、日本とはなにか? 日本人とはなにか? という問いは、きわめて答えるのが難しい。自分は自分のことを外側から眺めることができないからだが、とりわけ日本と日本人については困難をきわめる。

だからこそ、他者の視線が重要なのだ。日本を外側から眺めることのできる著者のような「アウトサイダー」なら、なおさらだろう。「神経症的」という診断は、みずからについて下すことは難しい。自覚症状がなければなおさらだ。

著者はまた、この状況にあるのは日本人だけではないとする。アメリカ人もまたそうなのだ、と。これもまた重要な指摘だ。なぜ、日本が世界中から注目されるかの答えのひとつになっているからだ。

精神の内側に「虚無」を抱えたアメリカ人について語る著者は、神経症的な現代日本人の精神のあり方に、時代の象徴を見いだしているのである。



■日本文化の特徴は「古きもののモダニズム」
 
著者は、日本人の精神がどう変容してきたかを、ペリー来航に始まる米国との紆余曲折でありながら濃厚なものであった接触のなか、日本人の精神のあり方を探っている。

ポジティブな側面としては、禅や工芸品(とくに柳宗悦の民藝)、座禅体験をベースにした京都学派の哲学やアートなど、ハイカルチャーに属する事象を取り上げている。1944年生まれの著者の日本文化へのアプローチは、この世代の米国の知識階層特有のものであり、哲学への傾倒を除けば、けっして特別なものではない。

とはいえ、日本好きの外国人の多くがそうであるような礼賛一辺倒ではない。「甘え」や「集団思考」「序列」など、日本社会のネガティブな側面についても、しっかり見つめている。光だけでなく影も見なくては、ただしく見たことにはならない。

さらにその上で、現在は世界中でポップカルチャー化している日本の「オタク文化」にかんしては、通訳をつうじてだが10代の若者たちにインタビューも行っている。

アニメやマンガから日本好きになる、1980年台生まれのアメリカ人とは真逆のアプローチであるが、ハイカルチャーとポップカルチャーの両面を見ることで、日本文化を複眼的に見ることを可能にしている。

そんな著者は、どうやら日本を「ポスト資本主義」のモデルと見ているようだ。無限に拡張し暴走をつづける米国型資本主義の限界を越える存在として。日本モデルに期待しているというべきか。 

日本文化のあり方を分析して、著者は「古きもののモダニズム」にその特徴を見いだしている。日本では、過去と断絶することなく、過去が参照され現代に甦らせることが繰り返し行われてきた。

「古きもののモダニズム」は、 原文では "archaic modernism" となっている。「アルカイックな近代主義」である。確認のため原書 Neurotic Beauty の kindle版も購入してダウンロードしてるので、原文をチェックしておこう。


• Continuity with the past in terms of values and practice, and a recasting of traditional craft in terms of contemporary design––what I shall call “archaic modernism,” though it is an approach that includes more than just craft..


読んでいて、「古きもののモダニズム」とは、漢字熟語の「温故知新」のことだなと気がついた。日本では当たり前のように使われるフレーズである。『論語』の一節だ。

「温故知新」は直訳すれば、to learn from the past to discover the present となるだろうが、understand を create や innovate に置き換えたら著者の言いたいことに近くなるだろう。いや、その前に「温故創新」と言い換えるべきかもね。

もちろん、著者がいいたいことは、日本においてはつねに「過去をあらたに再生する」という形でモダニズムが実行されてきたということ。「再生」という形で「新生」(=ルネサンス)が行われるということを意味している。



■「日本はポスト資本主義のモデルになりうるか?」という問い

著者のメインテーマである、はたして日本は「ポスト資本主義」のモデルになりうるか?という問いについて考えてみよう。

資本主義は破滅のプロセスにあるという著者の主張は、強すぎるのではないかという印象をわたしは受ける。現実的というよりも希望的観測に近いのではないか。そんな印象も受ける。わたしには、著者は「見たいものを見ている」ようにしか思えないのだ。

現実に存在する日本は、著者のアタマのなかにある、そうであってほしい「脳内ジャパン」そのものではない。そんな理想郷ではない。おそらく日本は、「ポスト資本主義的」なマインドをもちつつも、「プレモダン」を志向するのではなく、テクノロジーとの共生という道を選ぶだろう。これまでずっとそうしてきたからだ。

もちろん、テクロノジー万能主義は、福島の原発事故以後もはや日本には存在しない。イーロン・マスクのような無限拡張主義は、スゴイなあと思いながらも無理があるだろうと思うのが、一般的な日本人の反応だろう。

とはいえ、江戸時代に戻ることは現実的ではない。それはすでに消滅した文明であり、そもそも江戸時代に戻ることは日本人自身が望んでいない。

「手仕事の重要性」については、日本人も同意するだろう。米国ではすでに1820年代に消滅していった手仕事へのノスタルジーを語る著者の心情は理解できる。職人の手仕事は守っていきたいと日本人も思っている。

重要なことは、資本主義もテクノロジーも制御することだ。手に負えない存在としないことだ。最先端のハイテクだけでなく、手仕事もふくめた江戸時代の「ローテク」も活用することに、日本的未来の可能性があるのだろう。すくなくとも、意識していなくても、言語化されていなくても、それが日本人の総意ではないか?

「ポスト資本主義」、つまり「資本主義のオルタナティブ」のモデルを日本に見る著者の姿勢は興味深い。以上述べてきたように賛否両論があるだろうが、「第3次日本ブーム」の日本に米国人が期待するものとして、日本人も認識しておいたほうがいいかもしれない。

無理に外国人の期待に沿いたいとは思わないが、かといって「第1次日本ブーム」後の「幻想の日本」に終わってしまってほしいわけでもない。なかなか微妙ではあるな。


■著者には「メキシコ論」を期待したい

最後になるが、せっかく著者はメキシコ在住なのだから、メキシコにインスパイアされた日本のアーチストたちの活動の軌跡についても、目配りをすべきだったと思う。

本書は日本文化論であって日本美術論ではないので、まあそれは無い物ねだりというべきだが、著者にはぜひメキシコについて書いてほしいと思う。

情報によれば、バーマン氏は2006年以降、メキシコ中部のグアナファト(Guanajuato)と首都メキシコシティ(Mexico City)に拠点を置き、行き来しながらの二拠点生活を行っているとのことだ。

イタリア、日本ときたら、手仕事を重視する職人文化の国メキシコをどう見ているのか、知りたいからだ。


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目 次 
日本語版への序
謝辞

序章 別の仕方で考えること 
第1章 日本的なるもの(1)―  禅、工芸、永遠の現在 
第2章 日本的なるもの(2)―  甘え、集団志向、序列 
    ***
第3章 明治維新とその余波 
第4章 戦争と占領 
    ***
第5章 哲学  ―  京都学派の時代 
第6章 『なんとなく、クリスタル』―アメリカ化する日本のディレンマ 
    *** 
第7章 江戸的な現代へ  ―  ポスト資本主義モデルとしての日本? 

付録1 英語の用語法における問題
付録2 禅のリアリティ
付録3 禅、倫理、「枢軸時代」
付録4 オタク文化―インタビュー

訳者あとがき
用語集/注/
邦語文献リスト/図版リスト/事項索引/人名索引



著者プロフィール
モリス・ バーマン(Morris Berman)
詩人、小説家、エッセイスト、社会批評家、文化史家。これまでに17冊の単行本、150本近くの論文を発表しており、ヨーロッパ、北アメリカ、メキシコの様々な大学で教鞭を取る。1990年にワシントン州の州知事作家賞を受賞、1992年にはロロ・メイ・センターの人文学を対象とした年間助成の第一号となる。2013年、メディア・エコロジー協会より、公共的知的活動における業績に対するニール・ポストマン賞を受賞。著書に『デカルトからベイトソンへ――世界の再魔術化』(柴田元幸訳、文藝春秋、2019年)がある。2000年、The Twilight of American Culture が『ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー』紙で「注目すべき本」として紹介される。2013年、メディア・エコロジー協会より、公共的知的活動における業績に対するニール・ポストマン賞を受賞。メキシコ在住。

日本語訳者
込山宏太(こみやま・こうた)
青山学院大学大学院文学研究科英米文学専攻博士前期課程修了。専門はイギリス文学・文化史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



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■存在の底に「虚無」を抱えているのは日本人アメリカ人(抜き書き的メモ)

●アメリカも日本も、ともに「虚無」を抱えている
●アメリカは「~でない」という「否定的同一性」(negative identity  ヘーゲルの)によるアイデンティティ。日本もまた「~でない」というアイデンティティ。その核にあるのは「空」「虚空」「空洞」・・・・
●ヤスパースの「枢軸時代」と無縁であった日本。日本には、中国やインド、古代ギリシアのような「軸」をもたない。
●重要な概念は「自己を無に」にする「ケノーシス」というキリスト教の概念。シモーヌ・ヴェイユもまた
●京都学派の祖である西田幾多郎が、禅仏教の「無」あるいは「空」とキリスト教神学の「ケノーシス」を哲学的に考察している
●哲学の「京都学派」の戦後を代表する西谷啓治に対する、著者によるきわめて高い評価
Keiji Nishitani. Some have regarded his magnum opus, Religion and Nothingness (1961), as one of the greatest works of philosophy written in the twentieth century, and they may well be right.



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書評『グレイト・ウェイヴ ― 日本とアメリカの求めたもの』(クリストファー・ベンフィー、大橋悦子訳、小学館、2007)― 「金ピカ時代」のアメリカと「明治時代」の日本は同時代。その時代を文化をつうじて密接に交流した人びとがいた



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2026年10月22日木曜日

書評『日本はクール!? 間違いだらけの日本の魅力発信 From Cool Japan to Your Japan』(ベンジャミン・ボアズ、クロスメディア・パブリッシング、2022)― 「日本」というブランドの価値をただしく認識して、ただしく活かすために必要なことは?

 

「インバウンド公害」とさえ言いたくなるほど、来日する外国人観光客が多い。

人流が途絶えたコロナのパンデミック状況下では下火になっていたが、コロナ開けとともに再開して現在にいたっている。 

円安が原因だという声もあるが、かならずしもそうではないようだ。日本に行きたい、また行きたい、そんな人が少なくないのだ、と。 

日本にいちどでも来た人は、また来たくなる。好きになってしまったから、また来たくなる。しかも、円安だからハードルは低い。というわけでリピーターが多くなるようなのだ。 

最初の来日では、定番の観光地を回る。2回目以降は、ネット情報をもとに、日本人でさえ知らないような場所を自分で訪ねていく。3回目以降は、さらにもっと探求したくなる・・・・ 

どうやら、日本はいま「モテ期」に入っているようなのだ。 では、なぜそんなにモテるのか? なぜそんなに外国人を「引き寄せ」ているのか?

当の日本人自身にはよくわからないのだが、モテていることは事実である。そうであるなら、素直に受け入れたほうが良さそうだ。 

たとえ、それが誤解にもとづくものであっても、モテないよりモテたほうがいいにきまっている(よね)。 



■「売りたいモノ」と「売れるモノ」は違う 

この状況で正確に認識しなくてはならないのは、「日本人が見せたい日本」と、「外国人が見ている日本」はイコールではないということだ。

「売りたいモノ」と「売れるモノ」の違いといっていいかもしれない。 

この違いがわかってないから「クールジャパン政策」はうまくいかないのだというのが、『日本はクール!? 間違いだらけの日本の魅力発信 From Cool Japan to Your Japan』(ベンジャミン・ボアズ、クロスメディア・パブリッシング、2022)で著者が主張していることだ。     

1983年ニューヨーク生まれの著者は、日本のマンガから入って日本大好きになった人。ずっと日本に住み続けると決めていて、2016年からはクールジャパン・アンバッサダーもつとめていた。 

著者は、「クールジャパン」というフレーズは、自慢しているように聞こえるという。なぜなら、日本に関心のある外国人はみな、日本がクールであることなどわかっているから。

誰だって、自慢話など聞きたくはないではないか! 



■「売れるモノ」は「買う側のアタマのなか」にある 

著者はまた、「マイ・ジャパン」と「ユア・ジャパン」の違いがきわめて重要だとして、なんども繰り返し語っている。 

「マイ・ジャパン」とは「日本人が自慢したい日本」のこと。「ユア・ジャパン」とは、「外国人が好意的に見ている日本」のこと。 

後者の「ユア・ジャパン」は、あくまでも外国人のアタマのなかの日本であって、日本人自身の自己認識である「マイ・ジャパン」とズレが生じているのは当然だろう。「脳内ジャパン」にかかわるパーセプション・ギャップである。 

この状況は、百数十年前の「第1次日本ブーム」とおなじである。当時の日本人は、ポップカルチャーの浮世絵など価値を認めていなかったことはよく知られている。浮世絵の価値を発見したのは外国人のコレクターたちであり、印象派の画家たちであった。 

誰もが「自分が見たいもの」しか見ていないという認知バイアスを前提とするならば、「売りたいモノ」より「売れるモノ」に注目すべきことは言うまでもないではないか。なにが売れるかを決めるのは、あくまでも買う側であって売る側ではない。 

しかも、外国人のアタマのなかにある「ユア・ジャパン」は、個々人によって千差万別だ。 日本好きといっても、好きなものは人によって違うのは当たり前。

自分が好きなものは自分から探そうとするものであり、現在のネット環境なら、すぐにでも情報はゲットできる。日本好きが高じて英語(その他の言語)で情報発信している外国人など無数にいる。 

となると、売る側の日本人がすべきことは、売り込むのではなく、買いたいと思っている人うまく誘導する「仕組み」をつくることだろう。アクセスしやすい「場」を提供することである。 

「プロダクト・アウト」ではなく、「マーケット・イン」の発想に切り替えることだ。顧客の声を聴くことである。顧客が欲しがる情報を提供することだ。やみくもに情報発信すればいいというものではない。 

国内市場では当たり前に語られている発想が、なぜ海外の顧客を相手にする際に活かされないのか? 

日本人は自分をうまく見せようとばかり考えて、相手の興味に刺さっていないのである。「べき論」が多すぎるのだ。「島国意識」の悪しき側面である。 

まずは日本好きな外国人の声に素直に耳を傾けること、なんといってもこれがいちばん大事なことなのだ。関心のありかは人によって違うから、うまく誘導することが大事なのである。 


■「第3次日本ブーム」における日本サイドの問題に目を向けよ 

著者のボアズ氏は、マンガとゲームを入口にして日本好きになったという。 マンガから始まって、お茶や禅、合気道などハイカルチャーに進むという、絵に描いたような図式である。 

著者は、「第3次日本ブーム」のまっただなかにいるわけだ。人生には「モテ期」が3回あると言われるが、日本という国もまた3回目の「モテ期」にあるようだ。

一方、著者の親の世代は、日本の伝統工芸に魅せられて、それが日本好きの入口になっていると観察している。 

アニメと伝統工芸、一見すると異なるモノとみられがちだが、それが日本製である以外にも共通点がある。アニメも伝統工芸は、ともに「手仕事」のウェイトが大きいということだ。 

伝統工芸品にかんしては、つくり手である職人の減少が問題とされ、技術の伝承が懸念されていることが問題となって久しい。 


アニメ産業も需要をつくりだし、需要増に応えることにばかりに注力して、業界が抱える問題に手をこまねいていては、伝統工芸と同様に先細りしてしまう可能性も否定できない。この問題は、きわめて重大だ。

伝統工芸とアニメという、外国人がもっとも注目する分野が抱える問題に対して、日本人自身がもっと目を向けるべきである。当たり前だと思っているものは、失ったときはじめてその価値に気づくことも多い。

業界内部からも改善への取り組みは始まっているが 、著者のような日本大好きな外国人の懸念に耳を傾け、アクションを起こすことが必要だ。それは官民あげての課題である。 


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目 次
まえがき 
序章 完璧を売り込む 
第1章 日本ではなく「ジャパン」 
第2章 マイ・ジャパンからユア・ジャパンに渡る 
第3章 ビジネスにおけるクールジャパンの成功例 
第4章 他人の興味を活かせばいい 
第5章 クールジャパンってそもそも何? 
第6章 クールジャパンの本当の姿 
第7章 国や組織ができること 
第8章 クールジャパン庁を設立せよ 
終章 日本再発見


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■ジャポニスムと日本への環流






■日本人よりも外国人が高く評価してきた日本美術と工芸品


・・明治時代の日本美術発見者であるフェノロサとビゲローによる収集品は、その大半がボストン美術館に収蔵されている

書評 『若冲になったアメリカ人-ジョー・D・プライス物語-』(ジョー・D・プライス、 山下裕二=インタビュアー、小学館、2007) 
・・テーマ性で収集したジョブズやドラッカーとは異なり、埋もれていた一人の絵師の作品に惚れ込んだアメリカ人コレクターによるコレクション

『ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画- 「マネジメントの父」が愛した日本の美-』(千葉市美術館)に行ってきた(2015年5月28日)-水墨画を中心としたコレクションにドラッカーの知的創造の源泉を読む 
・・青年期まで過ごしたウィーンやフランクフルトなどで接していた、第一次世界大戦と同時代の「ドイツ表現主義」が実現できず終わったことを、すでに江戸時代の日本人が禅画で実現していたとドラッカーは言う。「写実」ではなく「写意」として

・・「新版画」の橋口五葉や川瀬巴水


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