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2011年5月31日火曜日

書評 『ことばの哲学 関口存男のこと』(池内紀、青土社、2010)


言語哲学の迷路に踏み込んでしまったドイツ語文法学者を描いた「第二列の人生」番外編

 関口存男(せきぐち・つぎお)という名前にピンとくる人は、果たしていまどれだけいるのだろうか?

 いまから30年くらい前に大学でドイツ語を第三外国語として選択した私は、関口存男の『関口・新ドイツ語の基礎』(三修社、1981)(写真右下)を参考書に勉強した。

 数年前にドイツ語を復習した際に、この本を改めて読み直してみた。1945年発行の原本『新ドイツ語大講座』がもので戦前のよき伝統を残しつつ、敗戦後の日本社会復興という時代の息吹も感じられる名著である。

 ドイツ語との対比で英語がでてくるだけでなく、ギリシア語、ラテン語、ロシア語も何のことわりもなしにぼんぼん出てくる。また、例文が面白いだけでなく、哲学やドイツ思想にかかわる背景説明も詳しいので読んで楽しくい。語り口の面白さでは、最近の教科書や参考書でも、そう滅多にお目にかからないものだ。

 この関口存男を、大学でドイツ語の先生もやっていた池内紀が取り上げるのは当然だろうなと思って読み始めたのだが、姫路生まれという共通点もあるのにかかわらず、池内氏の関口存男に対する関心はそういった共通の基盤から来るものではなさそうだ、ということが読んでいてわかってくる。おなじくドイツ語にかかわる仕事でも、ドイツ語学とドイツ文学とでは、まったくフィールドが異なるのだという。言われてみればそのとおりだ。

 池内紀には『二列目の人生-隠れた異才たち-』(晶文社、2003)という、評伝エッセイ集があるが、関口存男もある意味では池内氏ごのみの「二列目の人生」にふさわしい人物だ。

 陸軍士官学校卒業の関口存男は「軍人失格」なので「一列目の人生」を歩いた人ではない。士官学校時代に独自の語学勉強法を編み出してドイツ語をものにした関口存男の語学学習法は、奇しくもかのシュリーマンと同じようなものであったが、そっくりそのまま万人に適用できる方法ではない。

 ドイツ語の教師としても、学歴の点からいったら帝大出ではないので「二列目」だ。しかも、20歳台は陸士時代の反動であるかのように、東京でどっぷりと演劇の世界に浸かった青春時代を送っている。モリエールの『人間嫌ひ』の翻訳も草創期の岩波文庫から出していた。モリエールの原文はフランス語である。


 ベストセラーのドイツ語の語学教科書と参考書の著者だったが、出版のあてもなく骨身を削って取り組んだライフワークはあと少しを残して未完成。死後ようやく刊行されたその著者はドイツ語がぎっしり詰まった2千ページを超える大著、果たしていったい誰が読むのやら。

 戦時中のドイツ文学者たちが日独伊三国同盟という世相のもと、時局に便乗して、降って湧いたナチスドイツブームに乗っかったものの、敗戦後はその事実にほっかむりしてトマス・マンなどを持ち上げて民主主義者の旗をふっていたことは、『文学部をめぐる病い-教養主義・ナチス・旧制高校-』(高田里惠子、ちくま文庫、2006、単行本松頼社2001)で徹底的に暴かれた事実だが、この点にかんしては元演劇青年・関口存男は彼らとは微妙な関係で距離を置いていたようだ。

 士官学校卒業という学歴がたたって、戦後は公職追放のため大学教授の職に復帰することはなかった。生活費稼ぎの予備校教師以外はライフワークに専念した晩年。けっして群れない「狼」としての生き方

 関口存男という人物は、まあざっとこんな感じだ。言語哲学者ヴィトゲンシュタインを引き合いに出しているものの、本書は言語哲学を論じた本ではない。「第一列」に並ぶような高名な人物ではないが、かつては一世を風靡しながらも、文法にとりつかれて生涯をその探求に捧げてしまった人物を描いた作品だ。

 『二列目の人生-隠れた異才たち-』『モーツァルトの息子-史実に埋もれた愛すべき人たち』といった池内紀の作品が気に入っている人は、ぜひ手にとってもらいたい。読んで得になるわけではないが、人生とはこんなものだという一つのケーススタディとして読んでみるのも面白いのではないかな、と思う。


<初出情報>

■bk1書評「言語哲学の迷路に踏み込んでしまったドイツ語文法学者を描いた「第二列の人生」番外編」投稿掲載(2011年2月13日)
■amazon書評「言語哲学の迷路に踏み込んでしまったドイツ語文法学者を描いた「第二列の人生」番外編」投稿掲載(2011年2月13日)





目 次

1. 大尉の息子
2. 陸軍幼年学校生
3. 軍人失格
4. 言語演技
5. 文例集の周辺
6. 幕合喜劇
7. 教程の行方
8. 文化村の日々
9. 妻篭(つまごめ)にて
10. 文法の本
11. 狼暮らし
12. 死の前後

あとがき
参考文献


著者プロフィール

池内紀(いけうち・おさむ)

1940年、兵庫県姫路市生まれ。ドイツ文学者、エッセイスト。主な著訳書に、『海山のあいだ』(講談社エッセイ賞)、『ゲーテさん、こんばんは』(桑原武夫学芸賞)ほか(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

 関口存男(せきぐち・つぎお 1894~1958)は、陸軍士官学校卒業だが軍務に服したことがない「軍人失格」だったかもしれないが、士官学校で身につけた「規律」は生涯もちつづけたという。これは、在野の研究者として長かった人生においては、非常に大きな意味をもったことだろう。

 法政大学においては、夏目漱石の弟子で有名な内田百閒(うちだ・ひゃっけん)先生とは、ドイツ語の同僚であったらしいが、犬猿の仲であったらしい。正統的なアカデミックなコース出身者ではない関口存男に対する、内田百閒の男の嫉妬だったのかもしれない。

 ドイツ語の学習法は、池内紀氏が言うのは「変則的だが正攻法」であった、と。ドストエフスキーのドイツ語訳のレクラム文庫版を、読書百遍とばかりに来る日も来る日も、意味もわからず読んでいたら、あるときスラスラ意味がわかるようになって読めてしまった、という。

 これは、奇しくも「シュリーマン式」とよく似ている。

 シュリーマンとは言わずもがな、古代ギリシアのトロイの遺跡を発掘したドイツの実業家でアマチュア考古学者である。自伝である『古代への情熱』に記された語学勉強法とは、『テレマックの冒険』というフランス語の原書を、全部丸暗記してしまうもの。

 この勉強法をつぎからつぎへとその他の外国語で実施、その際のテキストは『テレマックの冒険』の各国誤訳を使用したという。話のあらすじはすでにわかっているので、あとは単語と言い回しさえ覚えてしまえば、どんな外国語だって実用のものとしてモノにできる。

 シュリーマンは自分が編み出したメソッドでロシア語もものにし、ロシアがらみの商売で一大財産をなしたのであった、と『古代への情熱』には書いてある。財産をつくったあと、することがなくなってミッドライフクライシスに陥ったシュリーマンが意味を見いだしたのが、古代ギリシアの遺跡発掘であった、とするのがシュリーマンの評伝を書いたロバート・ペインの見立てである。

 士官学校出身であるがゆえに「公職追放」となった関口存男、人生とはほんとうに自分の思うようにはならないものである。しかし、それくらいでめげるような人ではなかったようだ。

 言語哲学や、言語と意味の関係、言語と意味の中間領域である意味形態にとりつかれた一人の男の生涯。Ces't la vie. (人生とはこんなもの)と、フランス語でつぶやいてみたくもなる。



<ブログ内関連記事>

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる
・・冒頭で関口存男(せきぐち・つぎお)の『関口・新ドイツ語の基礎』(三修社、1981)から引用

書評 『富の王国 ロスチャイルド』(池内 紀、東洋経済新報社、2008)
・・いっけん池内紀らしくないテーマを池内紀らしく料理。ポイントはフランクフルトのユダヤ人コミュニティーから飛び出したロスチャイルドのその後

書評 『漢文法基礎-本当にわかる漢文入門-』(二畳庵主人(=加地伸行)、講談社学術文庫、2010)
・・おなじく語り口の面白さではバツグンの参考書。マジメな内容を面白おかしく。




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2011年5月29日日曜日

『緊急出版 特別報道写真集 3・11大震災 国内最大 M9.0 巨大津波が襲った発生から10日間 東北の記録』 (河北新報社、2011) に収録された写真を読む


 かつて米国のタイムライフ社から発行されていた「ライフ」が休刊となって以後も、不定期の形で内外の新聞社から、大きな戦争や大規模な自然災害が起きる度に「報道写真集」がムックという形で出版されてきた。

 現在はすでにインターネット時代。ネットでもテレビでも、震災関連の報道写真や映像だけでなく、一般市民が撮影した写真やビデオ映像の多くをすでに目にしてきている。

 それだけが理由ではないが、書店やコンビニの店頭で各社からでている「報道写真集」を手にとってみることがあっても、もう購入することはないだろうと思っていた。

 だが、宮城県の仙台市の地方紙である河北新報(かほくしんぽう)社から発行された『報道写真集 3・11大震災 巨大津波が襲った発生から10日間 東北の記録』の存在をしって、このムックだけは手に入れたいと強く思った。

 現在は政府の決定によって「東日本大震災」という名前になってしまったが、もっとも大地震と大津波の被害が大きかったのは、言うまでもなく東北地方の大平洋沿岸である。

 地域に密着した報道機関が、報道の使命のもと、地の利を活かした報道によって、震災発生後10日間にわたって撮影した写真の数々は、外部からやってきた写真家による写真とはまた違う。外部の視線からのものではない、内部の目によるものだ。

 いま、入手してこの「写真集」を見ながら強くそう思っているところだ。

 すさまじい大津波の傷跡にあらためて息を呑み、そして静止画像でディテールを読む。128ページに収録された写真は、膨大な写真から現時点の視点から精選されたものばかりである。

 巻末に収録された「河北新報」の震災翌日3月12日から 3日間の紙面の第一面を見て、地域のことは地域に、という感をあらたにした。今回の大震災と大津波は、「復興と再生」にかんしては日本全体として日本国民が取り組まねばならないことであるとともに、「復興と再生」の主体は、あくまでも地域の住民である東北の人たちであるということも。

 わたしが入手したのは、2011年5月16日付けの第4刷、発刊から1ヶ月ですでに第4刷。地元以外では書店やコンビニでの入手は困難かもしれないので、ネット書店での購入を勧めます。






<関連サイト>

『報道写真集 3・11大震災 巨大津波が襲った 発生から10日間 東北の記録』(河北新報の出版物のサイト)

「河北新報」(仙台市)のウェブサイト


<ブログ内関連記事>

書評 『三陸海岸大津波』 (吉村 昭、文春文庫、2004、 単行本初版 1970年)

「天災は忘れた頃にやってくる」で有名な寺田寅彦が書いた随筆 「天災と国防」(1934年)を読んでみる

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む

大震災のあと余震がつづくいま 『方丈記』 を読むことの意味




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2011年5月28日土曜日

タイのスパ(spa) へご案内-タイのヒーリング・ミュージックを BGM に


 前回のブログでは、書評 『HELL <地獄の歩き方> タイランド編』 (都築響一、洋泉社、2010) によって、タイの「地獄」めぐりしたので、きょうはタイの「天国」へお連れしましょう!

 バンコクはタイ語では、クルンテープ・マハナコーン・・・というものすごく長い名前ですが、直訳すると「天使の都」となるそうですね。英語では City of Angeles となります。スペイン語の Los angelos がなまった Los Angeles となった、米国のロサンゼルスと同じですね。L.A.もまた「天使の都」!? クルマ中心の交通体系で、殺人事件が多いという点は共通してますが・・・。

 「天使の都」といえば、男性諸氏は別の連想をいだくことでしょうが(笑)、きょうは女性向けのお話を中心に。

 タイといったら、なんといっても「スパ」でしょう。スパ(spa)と聞いて温泉を思い浮かべた方、ちょっと連想が古すぎます。現在では、スパといえば、リラクゼーションの施設としてのほうがとおりがよいでしょう。

 日本でいうエステが該当すると思います。エステはもともとは美学を意味するエステティック(esthetics)の略、全身美容のことですね。アローマのあるオイルによる各種の全身マッサージをチュUS人にして、フェイシャルやペディキュアなども施こしてくれる施設のこと。

 仕事でバンコクに住んでいたとき、わたしは週に最低1回はタイ・マッサージ、月に1回はスパに行くことにしていました。

 なぜかというと安いから(笑)。もちろん、現地物価から考えればかならずしも安くはないのですが、日本と比較すると安いという、相対的なお値打ち感というのがまずあげられます。

 それにまして、やはりタイが「微笑みの国」というキャッチフレーズを標榜(ひょうぼう)する観光立国であり、スパ産業は政府が積極的に推進していることも、技術レベルの高さを後押ししていることの大きな要因であるようですね。

 まずは、スチームサウナ、つぎにボディ・スクラブ(body scrub)はトロピカル・フルーツを全身に刷り込みながらのマッサージ。シャワーで洗い流した後、ローズ・オイルでマッサージ。とオイル・マッサージを時間をかけてたっぷりとやってもらいます。カラダとココロが癒される最高の時間を過ごすことができるわけです。

 だいたい3~4時間くらいでしょうか。これで日本円で1~2万円くらい。これが標準価格です。もちろん、最高級ホテルのスパはもっと高いですし、雑居ビルに入っているスパにはもっと安いものもあります。

 わたしのイチオシは「オアシス・スパ」(Oasis Spa)。冒頭に掲載した写真は、オアシス・スパのウェブサイトから。

 ファラン(白人)とタイ人女性のカップルが、古都チェンマイで起業したもので、現在はチェンマイ市内の数店舗を中心に、バンコクでも展開しています。ファラン(白人)が大好きなチェンマイというブランド力があり、バンコク発のサービスではないというのが面白いところです。
 
 これは、タクシン元首相のファミリーと同じパターンですね。タクシン元首相のファミリーネームはチナワットといって客家系の華人ファミリーですが、実家はシルクのビジネスをチェンマイ中心に展開しています。


 以下に掲載した写真2枚は、「オアシス・スパ」ではなく、マッサージのためにいつも通っていたタイマッサージの店。スパも併設しているお店の内装です。比較的ミドルクラスのマッサージ&スパといえるでしょう。



 これはウェイティング・ルーム。台湾人がオーナーで、台湾人観光客を中心の集客を考えているためでしょう、ややエキゾチック・タイを前面に出しているようです。



 たいていのスパでは、タイのヒーリング・ミュージックが流されています。タイの作曲家でピアニストのチャムラス・セワタポーン(Chamras Saewataporn)によるヒーリング・ミュージッック。バンコクのスカイトレインBTSの駅でCDとDVDが販売されているので、見たことある人も多いでしょう。



 YouTube に DVD の映像がアップされていますので、心身ともに疲れているときに視聴してみてください。かならず癒されること間違いなし。

 Title 1 : DVD The Beautiful Inspiration At Greenmusic

 Title 2 : DVD The Beautiful Inspiration At Greenmusic

 Title 3 : DVD The Beautiful Inspiration At Greenmusic

 Title 4 : DVD The Beautiful Inspiration At Greenmusic

 Title 5 : DVD The Beautiful Inspiration At Greenmusic

 Title 6 : DVD The Beautiful Inspiration At Greenmusic

 Title 7 : DVD The Beautiful Inspiration At Greenmusic


 ぜひタイのスパで、カラダとココロを癒されてくださいますよう。すくなくとも、スパの内部は「微笑みの国」ですから。
 


<ブログ内関連記事>

バンコクのアラブ人街-メディカル・ツーリズムにかんする一視点

タイのあれこれ (1)-タイマッサージ

タイのあれこれ  総目次 (1)~(26)+番外編

「マイナスをプラスに変える方法」-『なぜか、人とお金がついてくる 50の習慣』(たかの友梨、フォレスト出版、2011) 「出版記念講演会」 に行ってきた




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2011年5月26日木曜日

書評 『HELL <地獄の歩き方> タイランド編』 (都築響一、洋泉社、2010)


世界初、極彩色によるタイの「地獄庭園」めぐり写真集

 観光ガイドブックには未来永劫にわたって登場することはないであろう、タイの「地獄庭園」の数々。

 いわば立体地獄マンダラともいうべき「地獄庭園」は、まさに極彩色によるB級ムービーのスプラッター・シーンのオンパレード。これでもか、これでもかと、見る人に迫ってくる。

 そう、「地獄庭園」とは教育目的の「目で見る地獄」なのである。一般民衆に善き行いをするように教え諭すために作られた「教育施設」なのである。

 タイガーバームガーデン(・・シンガポールのハウパーヴィラ)と同様、そもそも観光施設ではないのである。タイの「地獄庭園」は、実際のところ、歴史が新しいものが多いようだ。

 本書には、私自身も実際に訪れたものも多少は含まれているが、大半は未見である。ここまで撮影して一冊にした写真集は私も見たことがないし、著者もいうようにおそらく世界初めての試みだろう。この写真集をみながら、タイのテーラヴァーダ仏教(=上座仏教)の地獄と、日本の大乗仏教の地獄を対比させて考えて見るのも面白い。

 二次元の写真で見るのも面白いが、やはり「地獄庭園」は立体像として三次元で直接見てみたいものだ。次回タイにいく際は、本書をガイドブックにしていくつか回ってみようかな、なんて考えてみたくなる横長サイズの写真集である。

 タイ好きな人にも、キッチュ好きな人にも大いに薦めたい。


<初出情報>

■bk1書評「世界初、極彩色によるタイの「地獄庭園」めぐり写真集」投稿掲載(2010年10月29日)
■amazon 書評「世界初、極彩色によるタイの「地獄庭園」めぐり写真集」投稿掲載(2010年10月29日)


目 次 

ワット・パーラックローイ (ナコンラチャシマー)
ワット・パイロンウア (スパンブリ)
ワット・プートウドム (ラムルーカー)
ワット・ムアン (アユタヤ)
ワット・プラローイ (スパンブリ)
ワット・セーンスック (バーンセーン)
ワット・ケーク/ブッダ・パーク (ノーンカイ/ヴィエンチャン=ラオス)
ワット・ルアンポーナーク (ウドーンターニー)
ワット・プラタージョームジェーン (プレー)
ワット・ガイ (アユタヤ)・・・ほか

*ワット(wat)とは、タイ語でお寺のこと


著者プロフィール

都築響一(つづき・きょういち)

1956年、東京生まれ。ポパイ、ブルータス誌の編集を経て、全102巻の現代美術全集『アート・ランダム』(京都書院)を刊行。以来現代美術、建築、写真、デザインなどの分野での執筆活動、書籍編集を続けている。現在も日本および世界のロードサイドを巡る取材を続行中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

 かつて香港にあった、かろうじていまだシンガポールに残る「タイガーバーム・ガーデン」が、ある意味ではこのタイの立体地獄ワンダーランドにもっともコンセプトとして近いかもしれない。

 シンガポールのタイガーバーム・ガーデンは「ハウパー・ヴィラ」という。このブログに書いた 「タイガー・バーム」創業者の「タイガー・カー」(改造車) を参照されたい。ただし、タイガーバームの産みの親である胡文虎兄弟はミャンマー(当時は英領ビルマ)の首都ヤンゴン(当時はラングーン)に生まれ育った客家であり、その地獄図はタイ風ではなく、中国の道教と大乗仏教に、ミャンマーの上座仏教が融合したものであるとわたしは見ている。

 「ハウパー・ヴィラ」の地獄巡り立体パノラマから一枚だけ、比較的おだやか(?)なものを紹介しておこう。



 ちなみに、わたしがタイ北部チェンマイの寺院で撮影した画像もご紹介しておこう。 チェンマイはタイ北部で、もともと19世紀まではラオ系のランナー王国という独立王国であった。この地方の仏教寺院は隣国のミャンマーの影響を受けたものが多い。龍のクチに咬まれた人が何の教訓なのかは、わたしにはよくわからない。



 一般庶民むけの市場(いちば)でも、川魚などアタマを切り落とした状態で、血まみれのまま売られていることも多い。写真は、カンボジア王国の首都プノンペンの中央市場で撮影したもの。



 二次元の画像、モノクロよりもカラー、さらには三次元の立体像が、即物的である。とくにタイは、血まみれのスプラッターまがいの事件写真が現地紙の一面に掲載されることも多く、同じく魚を食べる仏教徒とはいえ、日本人とは感覚の違いが大きい

 「血の不浄」などといって、血を見ることを忌み嫌う日本人とは、上座仏教の東南アジア人は、かなり異なる感覚をもっているようだ。そしてこの違いはかなり大きい。ものの見方も異なるということだ。

 まだ本格的な夏まで時間があるが、「節電生活」の一環として、納涼のために恐怖を感じるのも悪くないだろうか。まあ、こんな趣味の悪い写真をのせるなんて品格がありません、とT大卒で元官僚の「品格おばさん」や「品格ある日本人」数学者からは叱られるだろうが(笑)。



<ブログ内関連記事>

「タイガー・バーム」創業者の「タイガー・カー」(改造車)
・・シンガポールのハウパーヴィラのごく一部に言及 

タイのあれこれ (16) ワットはアミューズメントパーク
・・観光寺ではない、タイの一般庶民がかようワット(お寺)はコミュニティーセンターで遊園地

今年も参加した「ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日 2010」-アジアの上座仏教圏で仕事をする人は・・

書評 『怪奇映画天国アジア』(四方田犬彦、白水社、2009)-タイのあれこれ 番外編-


P.S. この記事をもって、通算700本目となる。カメの歩みであろうと、1,000本目へ向けて進んでいく都t理にかわりなし。




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2011年5月24日火曜日

イサーン料理について-タイのあれこれ(番外編)


 イサーン地方は、タイの東北地方。現在のラオスから、タイ東北部、タイ北部にかけては、じつは同じラオ族の居住地域。同じタイといっても、そもそも微妙というか、かなり存在なのである。

 タイという国は、じつは国名もそうであるが、じつは古くて新しい国である。もともとは暹羅(シャム)と自らのことを自称していた(・・正確にいうとサヤーム。日本人は Siam という英語つづりからシャムと誤解したようだ)。

 自由を意味するタイという国名になったのは 1939年、まだ100年もたっていない。タイはまだまだ「国民形成途上」にある状態といっても言い過ぎではないだろう。明治維新以後の日本が、北海道を併合し、琉球王国(=沖縄)を併合し、「日本国民」を創り上げていったプロセスと似ている。

 交通体系から何から何まで、首都のバンコクを中心に放射状に設計されているタイという中央集権国家においては、つねに「都市と地方の対立」がつきまとってきた。都市バンコクの中流階級は、露骨に地方を蔑視した視線を隠そうともしない。

 この点は、いまでこそ東京一極集中が進んでいるものの、中心が複数あって楕円形の日本とは大きく異なる点である。日本でも地都市と地方の格差は狭まったかに見えて、またふたたび拡大しつつあるのだが。

 バンコク市内で屋台で営業している人たち、バイク便の運転手、天秤棒をかついで農産物を商っている農民などは、みな東北地方から出稼ぎできているイサーンの人たちである。貧富の差が、日本とは比較にならにほど、目に見える形で明らかなのが、バンコクという都市の姿である。


激辛のさらに激辛のイサーン料理は、バンコクでも定番に

 そのくせ、バンコクではイサーン料理が流行している。イサーン料理を前面に打ち出している店もあるが、たいていの料理店では、もともとイサーン料理であったものがメニューに入っているのが当たり前になっている。
 
 そもそも1980年代に日本でタイ料理店が激増した当時、タイ料理は辛い!というのが評判であった。韓国料理とならんで、唐辛子(プリッキーヌー)をたっぷりつかったタイ料理は、当時の「激辛ブーム」とあいまって、すっかり日本での市民権を得たものだが、イサーン料理はそのタイ料理よりも辛い。というより、タイ料理で辛いのは、イサーン料理起源であるものが少なくないようだ。

 日本と比べれば、一年中、暑いといってもいいタイであるから、辛い料理が定着しているのは当然といえば当然だろう。だが、すべてが激辛というわけでもない。


 わたしにとってのイサーン料理を紹介しておきたい。上掲の写真は典型的なイサーン料理。手前のビールに隠れていのが、独特のタレで焼いた焼き鳥のガイヤーン、左手には蒼いパパイヤをつかったサラダのソムタム、左手奥にはふかしたモチ米のカオニャオである。これが定番といったところだ。

 ガイヤーン(焼き鳥)



 ソムタム(青いパパイヤのサラダ)



 ヤムウンセン(春雨サラダ)



 ラープ(ブタ挽肉のサラダ)



 じつは、ここに掲載した料理のすべてがイサーン料理ではなくラオス料理もふくまれている。

 先にも書いたように、イサーン地方は、ラオスと同じくラオ族なのである! ラオス語の料理名は知らないが、タイ語とラオス語は言語的にかなり似ているので、料理名も似たようなものかもしれない。

 ところで、イサーンといったら「虫料理」が有名。バンコクでも屋台で、虫の揚げ物をスナックとして売っている。これは東南アジアではどこでもあるので、イサーンに限った話ではないのだが・・・

 以前、「今度むし料理を食べにいきましょう!」、といわれてゾっとした経験をもっている。

 なぜ女性が虫料理なんか好きこのんで!と思ったが、よくよく考えてみたら、その頃はやりだした「蒸し料理」のことであった。ああ、まぎらわしい(笑)。








<関連サイト>

「バンコク騒乱」から1周年(2011年5月19日)-書評 『イサーン-目撃したバンコク解放区-』(三留理男、毎日新聞社、2010)
・・「バンコク騒乱」の赤服組は、タイ東北部や北部の農民が中心

仏歴2553年、「ラオス新年会」に参加してきた(2010年4月10日)-ビア・ラオとラオス料理を堪能
・・イサーン料理とラオス料理は基本的に共通しているが、コメからつくった麺の、いわゆる「ラオスそうめん」はタイで食べることはまずない

「ラオス・フェスティバル2010」 (東京・代々木公園)にいってきた
・・いわゆる「ラオスそうめん」

タイのあれこれ (2)-オースアン(タイ料理のひとつ)

タイのあれこれ (12) カオ・マン・ガイ(タイ料理) vs. 海南鶏飯(シンガポール料理)・・・




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2011年5月19日木曜日

「バンコク騒乱」から1周年(2011年5月19日)-書評 『イサーン-目撃したバンコク解放区-』(三留理男、毎日新聞社、2010)


政治的権利に目覚め、声を上げだしたタイ東北部の農民たちの素顔に迫る写真集

 長年にわたって、とくにアジアの社会問題の現実を撮ってきた報道写真家の最新写真集。今年72歳のベテラン報道写真家が最前線で取材を行った「解放区」とは、2010年3月から5月まで2ヶ月以上にわたって続いた、バンコクの中心部に「赤シャツ隊」が作って籠城したバリケードの内側のことである。

 「赤シャツ隊」の中心は、かつての学生運動のように学生や労働者ではなく、政治的な権利に目覚め、自らの声をもつようになった農民たち、それもタイ東北部イサーンの農民たちである。著者は、写真撮影とともに、彼らの声を直接聞き取っている。

 イサーンといってもタイ通でなければピンとこないかもしれないが、かつての日本の東北地方と同様に、独自の文化をもちながらも首都バンコクを中心とする中央集権体制のもとで差別され、貧困に苦しんできた地域である。

 「バンコク騒乱」は、最終的には治安部隊の突入によって「解放区」が強制排除され、農民たちはイサーンに戻ることとなった。激しい銃撃戦の模様や、騒乱末期に放火されて焼け落ちた中心街の百貨店の映像は YouTube などで見ることができるが、放火や銃撃戦は実は農民ではなく、潜入していたテロリストが行ったものだという説もある。その意味でも、農民たちがほんとうに訴えたかったことを取り上げたことに、この写真集の価値があるといえる。

 なによりも圧巻は、5月13日のタクシン派のカティヤ陸軍少将の取材中に、著者の 50cm 先でインタビューに答えていた将軍が、スナイパーの狙撃によって額を打ち抜かれた現場に居合わせた際の写真だろう。防弾チョッキを着用しないポリシーをもつ著者は、その直後発生した銃撃戦のなか、かろうじて生きのびることができたことは報道されていたとおりだ。その際のインタビューの写真も収録されている。

 この作品集は、「バンコク騒乱」の背景にある構造的な社会問題、すなわちタイ東北部イサーンの貧困の現実について、1973年の学生叛乱と鎮圧後にイサーンの森に逃げた学生運動家たち、またこのほかタイの華僑華人とタクシンもその一人である客家(ハッカ)の故郷など、著者が過去に撮影してきた写真もあわせて収録して、タイが抱える問題の背景まで写真で説明している。

 政治家レベルの話ではなく、あくまでも民衆の視線から、写真で切り取ったタイの現実。こういう視線は日々の報道に終始しているマスコミには残念ながら欠けているものだ。

 まずは直接この写真集を手にとって、著者が生命を賭けて撮影してきた写真を眺めて考えてみるべきであろう。タイが抱える社会問題を知る一つの手がかりになるはずだ。


<初出情報>

■bk1書評「政治的権利に目覚め、声を上げだしたタイ東北部の農民たちの素顔に迫る写真集」投稿掲載(2010年12月1日)
■amazon 書評「政治的権利に目覚め、声を上げだしたタイ東北部の農民たちの素顔に迫る写真集」投稿掲載(2010年12月1日)





目 次

ゴザと竹やりの解放区
カティヤ少将の暗殺
91人の死者
イサーン地方とは
バンコクのスラム
学生革命と「血の水曜日」-タイ民主化の源流
森に入った学生
山岳少数民族
歓楽街パッポン、タニヤ
南部の町
タイの華僑


著者プロフィール

三留理男(みとめ・ただお)

1938年生まれ。報道写真家。日本大学藝術学部中退。在学中に写真集『小児マヒの記録』(法政大学出版局、1961)を発表。以後、アジア・アフリカを中心に取材を続け、1982年『国境を越えた子供たち』(集英社)をはじめとする一連の作品によって第三世界の国境線上の状況を広く伝えたことで「第1回土門拳賞」を受賞。1988年、長期にわたるアジア・アフリカ取材活動に対して「第4回アジア・アフリカ賞」受賞。1997年、『辺境の民 アジアの近代化と少数民族』(弘文堂)で「第9回アジア・太平洋賞特別賞」を受賞した(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

 イサーンはタイの東北地方!

 歴史は古いのに、中央集権国家体制のもと、つねに抑圧されてきた存在は、日本の東北地方と似ている。

 タイの北部から、東北部にかけては、じつは現在のラオスと同じくラオ系なのである。余談だが、タイ北部のチェンマイには日本人好みの色白美人が多いといわれるのは理由があるのだ。

 単純な階級問題ではなく、身分差別の問題であり、地域差別の問題でもある。
 

 参考までに、twitter 投稿文章を再録して、一年前の再現しておこう。

2010年05月19日(水)
ソース取得:
バンコク情勢・・現地時間午前6時(=日本時間午前8時)、ついに強制排除が始まったようだ。
posted at 08:28:03

2010年5月19日(水)
タイ情勢について:バンコク市内の強制排除は本日完了したが、暴徒が各地に散らばって収拾がつかないとの報道。英語報道も、日本語報道も、「赤服組」内部に潜入していた"テロリスト"(外人傭兵)の存在に言及しないのはバイアス報道だという声がタイ国内であがっているようだ。
posted at 22:20:29

2010年05月20日(木)
【タイ】夜間外出禁止令を発令:各地で暴動、火災が発生 NNA・・・ビジネスに与える悪影響は計り知れない。クライシス・マネジメントの必要性をあらためて痛感 http://news.nna.jp/free/news/20100520thb002A.html
posted at 07:52:34

 バンコク市内は平穏を取り戻しているが、タイ王国がかかえる問題は依然として解決しているわけではない。その一方で経済は拡大傾向にある。これがさらなる社会矛盾の拡大を招いている点も否定できない。

 今年(2011年)7月にはタイでは総選挙が行われることが確実になった。つぎの政権は、真に民意を反映したものとなるであろうか?



<関連サイト>

バンコク反政府デモから1年: 日系企業、被害と再起 (NNA 2011年5月19日)


<ブログ内関連記事>

「バンコク騒乱」について-アジアビジネスにおける「クライシス・マネジメント」(危機管理)の重要性

「タイ・フェスティバル2010」 が開催された東京 と「封鎖エリア」で市街戦がつづく騒乱のバンコク

書評 『タイ-中進国の模索-』(末廣 昭、岩波新書、2009)
・・<書評への付記>にもかなり書き込んでおいた

書評 『バンコク燃ゆ-タックシンと「タイ式」民主主義-』(柴田直治、めこん、2010)

「タイのあれこれ」 全26回+番外編・・随時増補中




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2011年5月18日水曜日

All's Well That Ends Well. 「終わりよければすべてよし」 (シェイクスピア)-「シンドラーのリスト」 と 「浜岡原発運転停止」


 「終わりよければすべてよし」。日常会話では、「結果よければすべてよし」とか、あるいはよりスラング的な表現なら「結果オーライ」といった感じだろうか。
 
All's Well That Ends Well. (Shakespeare)

 シェイクスピアのコメディのタイトルである。小田島雄志による日本語訳では『終わりよければすべてよし』となっている。英語の語調もいいが、この日本語の語調もクチに乗せやすく、耳にも心地よい。さすがに芝居の日本語を熟知している翻訳者による名訳である。


「善ならざる動機が出発点」だった実業家シンドラーのユダヤ人救出

 日本でも知名度の高いシンドラー。といっても、事故を起こして問題になったエレベーターのシンドラーではなく、スティーブン・スピルバーグ監督の作品で世界的に有名になった、強制収容所からユダヤ人を「合法的に」救いだした実業家シンドラーのほうである。つづりは同じだが。

 ユダヤ系であるスピルバーグ監督の作品『シンドラーのリスト』に描かれたシンドラーは、やや理想化された傾向がなくもなかったが、ETV特集で昨年(2010年)10月24日(日)に放送された『シンドラーとユダヤ人-ホロコーストの時代とその後-』(第332回)で描かれた等身大のシンドラーは、救世主でも聖人でもなんでもない、成功を求めていた実業家(ビジネスマン)に過ぎなかったことが描かれている。たしか、ドイツで制作された番組だっと思う。

 実業家としてのシンドラーは、ユダヤ人救出が目的だったのではない。カネ儲けが目的で、自分のビジネスを成立させるための有利な取引として、強制収容所に収容されていたユダヤ人たちを労働力として活用することにしたのだ。だから、初発の動機はけっして「善なるもの」だったわけではない

 製造業の経営者としての判断は間違っていたわけではない。たとえ「動機が善」ではなかったにしても。

 しかし、ユダヤ人を労働者として使用しているうちに、自らのなかに義侠心というか、人間としての連帯感というか、そんな感情が芽生えてくる。たんなる使用人ではなく、同じ人間であるという意識が前面にでてくることになる。

 これが、結果として、強制収容所からユダヤ人を「合法的に」救った英雄として、後世に祭り上げられることになったわけだ。けっして、ユダヤ人救出を目的に事業をおこしたわけではないのだ。

 その後のシンドラーは、戦後アルゼンチンへ渡り事業を起こしたが失敗し、ドイツに帰国しても立ち上げた会社は倒産するなど、成功者とはいえない後半生を送ることになる。しかし、そんなシンドラーだが、恩義を忘れないユダヤ人からは、その死に至るまで熱いもてなしを受け続けたことが番組では紹介されていた。

 動機そのものよりも、行為の結果で人は判断するという好例だろう。

 アカウンタビリティ(accountability)というコトバが日本語でも使用されるようになってきたが、これは「説明責任」と訳すのはほんとうは適当ではない。「結果責任」と訳すべきだろう。アカウントというコトバが含まれていることが示しているように、基本的に企業業績の数字に対する責任のことである。

 経営者だけでなく、政治家も求められるのは、動機の純粋さや善であることよりも、結果そのものである。もちろん、行動面における倫理性の遵守は必要だが、結果が意に反して悲惨なものであったら・・・である。

 わたしが思い出すのは、The Road to Hell is paved with Good Intentions. という英語のことわざである。「地獄への道は善意で敷き詰められている」

 不純な動機から始まった企てが善なる結果をもたらすという話は、キリスト教でも仏教でも、宗教の世界では腐るほどある。動機が善であるかがどかが、すべてを決定するわけではない。

 「善なる動機」が重要でないというのではない。より重要なのは「善なる結果」のほうなのだ。たとえ「動機が善」であっても、方向を誤ると「不善なる結果」がもたらされることもしばしばある。

 極端な話、たとえプロセスに問題があったとしても、「終わりよければすべてよし」ということは、現実世界ではじつに多い。


「浜岡原発運転停止要請」の件について

 先日いきなり日本の首相から発表された「浜岡原発運転停止要請」の件についても、まさにそのとおりであるといってよい。

 「浜岡原発運転停止要請」の件については、経団連会長を筆頭にいわゆる有識者たちからは、法律に基づくものでなく、しかも意志決定のプロセスが不明瞭で、政治的パフォーマンスに過ぎないという菅首相批判が批判がなされている。

 意志決定に至ったプロセスが不明瞭という点はもっともだし、ビジネスマンとしてはわからなくもない。ただ、TVの映像で見た経団連会長の、あたかも国民を愚弄(ぐろう)したようなゴーマンな態度には、きわめて不快感を感じたのだが。

 とはいえ、原発事故がさらに起きたときは、福島第一原発の比ではないといわれる浜岡原発が運転停止になることは、国民としては歓迎したいと正直に思う。

 放射能を含んだ風や雨という、「死の灰」をかぶるのはごめん被りたいからだ。まずは、健康に生きていくこと、こちらのほうがカネ儲けよりもはるかにプライオリティ(優先順位)が高い。いくらカネをもらったとしても、放射能を浴びるのはごめん被りたい。

 なぜ首相がその決断をくだしたのか、真の動機について現在もよくわからない。

 歴史に名を残したいのか? あるいは自分の任期中に浜岡原発で事故が発生したら責任をとるのはイヤだということか? そんな勘ぐりもしたくなるが、たとえそうであったとしても、それはそれでいいではないか!

 わたしは菅直人首相には一日も早く辞めてもらいたいと思っているので、「浜岡原発運転停止要請」の決断は評価しても、一国の総理大臣としての適性や能力を評価するものではないし、評価が変わることもない。

 だが、国民の立場からみたら、判断を先送りするのをただ黙って見ているわけにはいかないだろう。

今後30年間で約90%弱の確率で必ず発生することが明らかな東海大地震に際して、大津波を防潮堤で防ぎ得たとしても、直下型地震の直撃をくらったら間違いなく原発事故になることがわかっているのだから。

この点についてのみは、首相の決断を評価する。あくまでも、是々非々(ぜぜひひ)である。

 東電をはじめとする大手電力会社からの広告収入に大きく依存しているため、モノがいえない日本のテレビ局とは異なり、たとえばアルジャジーラではこんな番組も放送している。「日本の原発政策と日本のマスメディア」(音声英語、日本語字幕あり) マスメディアがなぜか取り上げない浜岡原発については、海外のマスコミをつうじていくらでも、一般人が情報を知ることのできる時代である。

 また、今回の「浜岡原発運転停止要請」の件については、「広瀬隆 特別インタビュー 「浜岡原発全面停止」以降の課題」という記事が、「ダイヤモンド・オンライン」に掲載されており、ネット上では読むことができる。

 このように、情報は知ろうと思えば知ることのできる時代なのである。

 「浜岡原発運転停止要請」の件については、政治的な動機がどこにあるのか、意志決定のプロセスも不明瞭な点があるとはいえ、中部電力の経営陣がすみやかに「要請受け入れ」を行ったことは、ビジネス上の判断にとどまらず、国民としての義務を果たしたものとして、賞賛すべきものだと考えている。

 もちろんすべてがそうだとまでは言わないが、 All's Well That Ends Well. (終わりよければすべてよし) 、現実世界ではこの格言めいた表現は大きな意味をもっている。






<関連サイト>

ETV特集で昨年(2010年)10月24日(日)に放送された『シンドラーとユダヤ人-ホロコーストの時代とその後-』(第332回)

映画『シンドラーのリスト』トレーラー(英語)


<ブログ内関連記事>

書評 『指揮官の決断-満州とアッツの将軍 樋口季一郎-』(早坂 隆、文春新書、2010)
・・杉原ビザでシベリア鉄道経由で満洲国に入国したユダヤ人に入国許可を与えたジェネラル・ヒグチ。彼にとっては人生のヒトコマに過ぎなかったが、救出されたユダヤ人たちにとっては

スリーマイル島「原発事故」から 32年のきょう(2011年3月28日)、『原子炉時限爆弾-大地震におびえる日本列島-』(広瀬隆、ダイヤモンド社、2010) を読む

「自然エネルギー財団」設立に際して示した、ソフトバンク孫正義氏の 「使命」、「ビジョン」、「バリュー」・・・
・・姉妹ブログ「佐藤けんいち@ケン・マネジメント代表  公式ブログ」に掲載




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2011年5月17日火曜日

「小国」スイスは「小国」日本のモデルとなりうるか?-スイスについて考えるために


    
 先週金曜日(2011年5月13日)のメルマガ KON362【「津波プレイン」で復興へ~スイスのように国民の自立を促す政策が必要だ】~大前研一ニュースの視点で、大前研一さんが「小国スイスに学べ」という趣旨のことを書いていました。

 ちょっと長くなりますが、メルマガの後半部分のスイスにかんする文章を引用させていただきます。


▼ 日本復興にあたって、スイスは研究する価値がある
-------------------------------------------------------------------

 これから日本の復興を考えていく際、スイスという国は研究に値すると私は思っています。

 日本に負けず劣らず資源が少ない国なのに、世界のトップ企業が数多く存在している国です。海外の成功事例として、日本にとっては参考にしたいところです。

 スイスは、国が小さい上に周囲を大きな国で囲まれているという特徴があります。国土の点から見るとオーストリアなど今は比較的小さい国ですが、かつてはオーストリア=ハンガリー帝国という巨大国家として君臨していました。

 そのような環境の中で、スイスはいつでも自分たちが征服されるかもしれないという恐怖を抱え、そして緊張感を持ち続けたのだと思います。国民皆兵制度にも、こうした歴史的な背景が影響しているのでしょう。

 国民性を見ると、まず非常に「国際的」です。スイスの中では、それぞれの地域で主要言語として、フランス語、ドイツ語、イタリア語に加え英語も話されています。

 多国籍企業も多く、海外に勤務している国民も多数います。この点、英語も話せずにドメスティックに過ぎる日本人とは正反対だと言えるかも知れません。

 また直接民主主義ということもあって、驚くほどに「議論」をする国民性を持っています。私は学生の頃ルームメイトにスイス人がいましたが、彼らの議論に向かってくる姿勢は全く日本人と違っていて驚きました。

 そのスイス人の友人とは未だに交友関係がありますが、今でも会えば議論になります。一緒に散歩に出掛けても、散歩の間に議論をけしかけてくるほどです。昔を懐かしむ話をする余裕などまるでありません。

 これがスイス人としての標準で、街の中でも平気で議論しますし、政治経済の事柄に限らず様々なテーマを扱います。

 日本人の国民性とは相当に違いますので、一朝一夕にスイス人のようなメンタリティを身に付けることは難しいかもしれません。そして、もちろんスイスの全てが成功事例という訳でもありません。

 しかしそれでも、研究する価値は十分にあると私は思っています。日本がこれから復興の道を歩んでいくにあたって、スイスという小国 がどのように発展してきたのか、それを学びとしてもらいたいと思います。

(出典)KON362【「津波プレイン」で復興へ~スイスのように国民の自立を促す政策が必要だ】~大前研一ニュースの視点 (2011年5月13日)


 大前さんが書かれているとおり、「直接民主制」のスイスは、大国に周囲を囲まれた小国のためでしょう、「国民皆兵」であるだけでなく、議論するチカラによっても「武装」しているというわけですね。

 ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語と、公用語が 4つあるスイスでは、現在は英語が普及した結果、自分の母語以外に公用語を覚えようとしないという問題点も出てきているようですが、それでも平均的な日本人よりは、はるかに「国際的」であることは、一度でもスイスを訪問したり、スイス人とかかわったことがあればわかることだと思います。

 もちろん、日常使用しているコトバの影響は思っている以上に大きいものがあり、ドイツ語を母語とするスイス国民と、フランス語を母語とするスイス国民とでは、文化面でも、気質の面でも違いがあるようですが、それでも「盟約によって成立したスイス」という国においては、スイス国民は団結するときは団結するのです。

 フランス語世界の啓蒙思想家ジャン・ジャック・ルソーのいう「社会契約論」そのものですね。「直接民主制」の背景にはこの思想があります。ちなみに、ルソーはフランス人ではなく、フランス語圏のジュネーヴ出身で時計職人(!)の子として生まれたスイス人です。

 「盟約という社会契約によって成立したスイス」は、「在りて在る日本」のような自然発生的な国家とは異なりますが、それでも周囲を米国や中国やロシアといった「大国」にかこまれた「小国」という点においては、共通するものがあるといっても間違いはありません。スイスも欧州の「陸の孤島」と形容されることもある、欧州の交通の要衝(ようしょう)でありながら、アプローチがかならずしも容易ではない「山岳国家」です。

 スイスについては、わたしもブログに「書評」という形式をつかって、何本か記事を書いていますので、この場を借りて整理して紹介いたします。


書評  『ブランド王国スイスの秘密』(磯山友幸、日経BP社、2006)
・・ビジネスパーソンにとっては「ブランド王国スイス」という捉え方が面白い

書評 『マネーの公理-スイスの銀行家に学ぶ儲けのルール-』(マックス・ギュンター、マックス・ギュンター、林 康史=監訳、石川由美子訳、日経BP社、2005)
・・「マネーの防衛」というのがスイス流の投機。セキュリティの観点から投資と投機を考える

書評 『民間防衛-あらゆる危険から身をまもる-』(スイス政府編、原書房編集部訳、原書房、1970、新装版1995、新装版2003)
・・スイスといえば、いまでは「国民皆兵」は日本人の常識になったことと思う。スイス人の家庭には、一家に一冊備え付けなのが、この本と銃器一式!

書評 『スイス探訪-したたかなスイス人のしなやかな生き方-』(國松孝次、角川文庫、2006 単行本初版 2003)
・・とはいえ、スイスも曲がり角にきていることが、スイス大使として赴任した國松元警視庁長官のやわらかな筆致で描かれている

1980年代に出版された、日本女性の手になる二冊の「スイス本」・・・犬養道子の『私のスイス』 と 八木あき子の 『二十世紀の迷信 理想国家スイス』・・・を振り返っておこう
・・現在から30年前はまだスイスは観光先としてしか認識されていなかったようだ。そういう現状認識への異議申し立ての内容でもある

「急がば回れ」-スイスをよりよく知るためには、地理的条件を踏まえたうえで歴史を知ることが何よりも重要だ
・・欧州の「陸の孤島」とも形容されるスイス、まずは地形を知り、歴史を知るのが「急がば回れ」となる



 「小国」日本の将来を考えるあたって、わたしは、いい意味も悪い意味もふくめて、さらには「反面教師」としての意味においても、英国、スイス、イスラエル、ポルトガルを徹底研究することが重要だと考えています。

 このうちスイスについては、上記の記事を参考にしていただけると、執筆者としては幸いこれに過ぎるものはありません。





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2011年5月16日月曜日

「目には青葉 山ほととぎず 初かつを」 -五感をフルに満足させる旬のアイテムが列挙された一句


 
目には青葉 山ほととぎず 初かつを(山口素堂)

 いまの季節にピッタリの俳句。作者の山口素堂(やまぐち・そどう 1642年~1716年)は、江戸時代前期の俳人・治水家だそうだ。松尾芭蕉の同時代人である。
 
 江戸時代前期には、すでに初鰹(はつがつを)が旬の食材として話題に上っていたことがわかる。

 この俳句は、ただたんに季節ものを並べただけなのだが、ビジュアルなイメージが浮かんでくるだけでなく、視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚の五感すべてを満足させてくれるものになっているのが面白い。

 まずは青葉。青葉とは新緑のこと。目にまぶしい青葉で、太陽光とともに視覚が刺激される。

 ホトトギスが鳴いているのが聞こえる。聴覚の刺激。耳に聞こえてくるホトトギスの鳴き声で、姿は見えぬがココロのなかで視覚イメージとして再現する。ホトトギスの鳴き声は、YouTube で聞いてみるとよい。

 初鰹(はつがつを。これはいうまでもなく味覚。そして舌触りという触覚目で見て楽しむ赤身。現代なら、冷やしたビールでクイっと一杯といったところか。

 それにしても、初かつを、これはちょっと値段は高いが、じつに旨い。
 
 そういえば、たしか、徒然草にも「かつを」がでてきたという記憶がある。

第百十九段

 鎌倉の海に、かつをと云ふ魚は、彼(か)のさかひには雙(さう)なきものにて、此(こ)の比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍(はべ)りしは、「此の魚、己等若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき。頭は下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。
 かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍(はべ)れ。
(*太字ゴチックは引用者=私)
(出典)Japanese Text Initiative 所収の「徒然草」(Tsurezuregusa)
Japanese Text Initiative は、バージニア大学図書館エレクトロニック・テキスト・センターとピッツバーグ大学東アジア図書館が行っている共同事業。

 鰹(かつを)は、すでに鎌倉時代には食べられていたということがわかるエビデンスのひとつである。

 いちおう現代語訳をつけておこう。文学者の佐藤春夫訳による。

 鎌倉の海で、鰹(かつを)という魚は、あの辺では無上のものとして近来は賞美されている。これも鎌倉の老人が話したのだが、「この魚は自分らの若年の時代までは相当な人の前には出なかったものである。頭(かしら)は、下男ですら食べず、切って捨てていたものである」ということであった。このようなものでも世が末になると上流へもはいりこむものである。
(出典:『現代語訳 徒然草』(吉田兼好作、佐藤春夫訳、河出文庫、2004、原版1976)

 吉田兼好がこの話を聞いてからすでに、800年近くもたった現在は、世の末の末の末・・・か? それでも日本人は生きているわけだ。

 ところで、冒頭に掲載した「桜の若葉」、これもまた目で楽しむだけでなく、食用にもなる edible leaves である。塩漬けにして道明寺を包むのに使う。柏餅の柏の葉っぱは包むだけだが、道明寺を包む桜の若葉はそのまま食べることができるわけだ。

 そういえば、このブログでも、以前に「味噌で酒を飲む話」を書いたのだったなあ。

 どうも、食べものの話に終始してしまいがちなわたしである(笑)。また、そういう話ばかり「アタマの引き出し」のなかにあるというのもまた、「好きこそものの上手なれ」ということか?



<ブログ内関連記事>

味噌を肴に酒を飲む
・・『徒然草』第二百二十五段にでてくる話

大震災のあと余震がつづくいま 『方丈記』 を読むことの意味

『伊勢物語』を21世紀に読む意味





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2011年5月15日日曜日

「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」 に参加してきた(2011年5月14日)


 今年は、仏陀釈尊、すなわちお釈迦様が、覚りを開いて仏陀(覚者)となってから 2600年という記念すべき年にあたる。釈尊成道と書いて、しゃくそん・じょうどう と読む。

 いまから2555年前、マガダ王国(・・現在のネパールに位置する)の王府ルンピニに、世継ぎの王子として生まれて裕福な生活を送っていたシッダールタ青年は、29歳のとき現世の縁を断ちきり、一切合切を捨て去って文字通り「出家」する。さまざまな試行錯誤の末、35歳のとき覚りを開いて仏陀(覚者)となったのであった。覚醒したのである。

 わたしも一昨年から毎年参加しているウェーサーカ祭、いつもの誕生会(たんじょうえ)に加えて、今年は上記の理由で、特別に記念すべきものとなったわけだ。

 そう考えると、シッッダールタ王子が仏陀(ブッダ)となって「釈尊成道」したということは、じつに奇跡にも近いことに思えてくる。仏教世界が存在していることによって、世の中すべてが一神教世界に覆われているわけではないということは、じつに奇跡に近い。

 スマナサーラ長老による「記念法話」にもあったが、お釈迦様が人間であったこと、神ではなく人間であったことがいかに大きな意味をもっているか、あらためてそのことを深く考えてみ必要があるだろう。

 ちょっと先を急ぎすぎたようだ。「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」 の当日の概要以下に掲載しておこう。

●日時: 2011(仏歴2555)年5月14日(土)
     開場 12:30
     開演 13:15〜
     終了 19:00(予定)
●会場: 渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール4階(定員735名)
●参加費: 無料(お布施は歓迎)
●予約: 不要
●主催: 日本テーラワーダ仏教協会

 なお、当日のプログラムは以下のとおりであった。

プログラム *予定は一部変更されることがございます。

12:30 開場 誕生仏への献花(自由にお花を1本お持ちください)書籍販売
13:15 スライドショー
13:30 開式 おねり・献花・献茶
 記念式典:テーラワーダ&日本仏教の僧侶方
 1. 仏讃法要
2. 震災犠牲者追悼法要
3. 早期復興祈願      
 -小休憩-
14:50 記念法話:スマナサーラ長老
 -休憩-
16:30 特別対談:『無智の壁』養老孟司氏&スマナサーラ長老 司会:釈徹宗氏
18:20 祝福の読経・聖糸の授与
19:00 終了(予定)

 いつものことだが、今年もまた大幅に時間を超過して終わった。終わったのは20時前、スローライフを推奨する仏教とはいえ、現代に生きる現代人が参加する以上、終了時間の公差(=トレランス)は前後20分以内には収めてほしいものである。

 タイ王国公使の日本語によるあいさつ、モンゴル共和国公使、カンボジア王国公使からもそれぞれあいさつがあった。タイ王国公使は夫妻で出席、スリランカは公用のため残念ながら出席できず、と。スリランカ、タイ、カンボジア、モンゴルと、広い意味での仏教国の縁である。

 式典の内容は、例年と同じなので割愛させていただく。詳しくは、一昨年のものと、昨年のものをご参照いただければ幸いである。


スマナサーラ長老による「記念法話」

 スマナサーラ長老による「記念法話」の話は、すでに書いたように、ブッダが人間であったこと、神ではなく人間であったことの意味は、なんど強調してもしすぎることにはならないほど重要なことだ。

 それから2600年たって文明も進んだはずであるのに、ココロの科学である仏教の知見が圧倒的に深く透徹したものであることは、ブッダの覚りというものが、いかに人類史上において大きな意味をもつことかをあらためて知ることになる。

 今回のウェーサーカ祭は、また、「3-11」という未曾有の大災害のあとに行われるものとなった。「震災犠牲者追悼法要」と「早期復興祈願」の1分間黙とうも行われた。

 スマナサーラ長老は、大災害からの「復興」については、「復興は執着である」という趣旨の話もされていた。これにはわたしも大いに賛同するものである。

 いずれ人間は死ぬのであるから、生き残った人間は「復興」ではなく、また新たに作り上げればいい。その際に重要なのはカネよりも、精神的なチカラ、めげないやる気がでてくればなんとかなる。生まれてきたときよりも、死ぬときに精神的に豊かであるならばそれでいい。そんな内容であった。いっけん、突き放したように聞こえるかもしれないが、仏教的世界観にたてば正し発言だといえるだろう。


特別対談:『無智の壁』 養老孟司氏&スマナサーラ長老 司会:釈徹宗氏

 今回のメインイベントは、なんといっても特別対談:『無智の壁』 養老孟司氏&スマナサーラ長老 司会:釈徹宗氏 であった。養老孟司氏のベストセラー『バカの壁』をもじったものか?

 釈徹宗氏の司会進行は、正直なところ、あまりうまくないなあという感じもした。列挙すると、司会なのに余計なことをしゃべりすぎ、うなづけばすむものを掛け合いしてしまう、声のトーンが高すぎる、会場が東京なのに関西弁のままなので耳で聞いただけでは聴き取れない恐れなど。司会は引き立て役に徹すべしというのがわたしのポリシーなので他意はない。悪しからずご了承いただきたく。



 養老孟司氏とスマナサーラ長老という、ビッグな対談者の存在と発言そのものは、司会の巧拙とは関係なく、じつに内容深いものがあった。この二人の対談集『希望のしくみ』(宝島社、2004)はすでに読んだことがあるが、究極的には二人の意見が合致してしまうので、対談になると意見のぶつかり合いがなくなってしまう危険もある。

 つまり、スマナサーラ長老の説く仏教と、科学者としての養老孟司氏の脳の話は、アプローチの出発点と発想が異なるはずにもかかわらず、同じ結論になってしまうということだ。これは、仏教が科学的であるということと同時に、科学もつきつめると仏教的になるということを意味している。

 実際に、養老孟司氏の発言にたいして、スマナサーラ長老はとくに付け加えることがないという場面も何回かあった。

 養老孟司氏の深くて低いトーンの語り口を心地よく聞いていた。脳死問題にかんして、日本で脳死議論が諸外国に比べて10年以上も遅れた理由を「世間」から解き明かしたのは実に明快であった。日本では死ねば「世間」から外に出される。一方、妊娠中絶がまったくといっていいほど問題にならないのは、「世間」に入っていない状態だから。この両者は裏腹の関係にある、と。

 わが恩師・阿部謹也先生の提唱した「世間論」をこういうカタチで応用しているのを聞くのは、じつにうれしいことである。「世間」をあまりにも明快に説明されてしまうから。だが、「世間」というコトバが、もともとローカというサンスクリット語であったことに言及がないのは、このような性格の会場においては、すこし淋しいものがあったが。


「聖糸の授与」

 といったわけで、対談が終了したのは 19時前、このあと「祝福の読経」で終了。これまたえらく長いのですこし眠ってしまったような・・

 19時半頃、すべてが終了。このあと、「聖糸の授与」があり、スリランカの僧侶(・・スマナサーラ長老ではない)に、右手首に「聖糸」を結んでもらった。



 まあウイッシュ・リングのようなものだが、満願成就までは自分でほどいてはいけない。昨年はいきなり自然にほどけてしまったが、今年はまだまだほどける感じではない。ちょっとこそばゆい感じなのだが。

 このあと、大乗仏教の僧侶から「聖水」をいただき、錫杖で肩をうって祈願してもらった。

 会場に到着する時間が遅かったため、真ん中の席しか空いてなかったので、動くのが面倒で休憩時間もまったく席を立たなかった。ほぼ満員に近い入場者があったから。相撲ではないので、満員御礼の感謝も福袋もでないが(笑)。

 トイレにもいかず、約7時間ぶっ続けで狭い席に座っていた。途中で水分補給はしていたが、成田バンコク間よりも長い時間である。そのためだろうか、なんだか「エコノミー症候群」(?)になってしまったようで、えらくくたびれてしまった一日であった。





<関連サイト>

「釈尊成道2600年記念 ウェーサーカ法要 仏陀の徳を遍く」


<ブログ内関連記事>

今年も参加した「ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日 2010」-アジアの上座仏教圏で仕事をする人は・・

ウェーサーカ祭・釈尊祝祭日 2009

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)




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2011年5月14日土曜日

「13日の金曜日」-2011年5月13日(金)のこと

  
 「13日の金曜日」といえばジェイソン! そういう連想もありでしょう。ちなみに余談ですが、クロックスのシューズをみるたびに、わたしはジェイソンを思い出してしまいます(笑)。穴の開き方がゴルフボールそっくりなので(笑)。

 実はこの文章は、5月13日の金曜日にアップする予定でした。ですが、まさに「13日の金曜日」のその当日、このブログを使用している Blogger のメンテナンス作業が難航、まる一日 Read-Only 状態となってしまったのです。ROM ですね。

 思いも寄らぬ「13日の金曜日」プレゼントとなったのでありました。TGIF どころではないですね。


 「13日の金曜日」というと西洋の迷信の一言で片付けたくもなりますが、じっさいにトラブルが起きると、なんだか一言くらいは言いたくなると言うものです。 

 故障しながらも地球に生還した「アポロ13号」のようなケースもありますが、迷信は迷信です。実際に、この日がとくに問題であるという統計データは存在しません。

 そもそも、数字の迷信と問題発生には直接の因果関係はありません。ただ、まったく異なる因果関係が、たまたまこの日に交差することで「偶然の一致」が発生するというべきでしょう。

 なぜ、西洋世界では「13」という数字が忌み嫌われるのでしょうか?

 これは端的にいって、キリスト教では「13」という数字に意味があるからです。

 イエス・キリストには、12人の弟子がおりました。あるいは使徒(apostle または disciple)ともいいます。「十二使徒」(The Twelve Apostles)という表現もあります。

 『マルコによる福音書』に列記されている「十二使徒」の名前は、① シモン・ペトロ、② ゼベダイの子ヤコブ、③ ヨハネ、④ アンデレ、⑤ フィリポ、⑥ バルトロマイ、⑦ マタイ、⑧ トマス、⑨ アルファイの子ヤコブ、⑩ タダイ、⑪ 熱心者のシモン、⑫ イスカリオテのユダ となっています。

 イエス・キリストと十二弟子で合計13人!、そして「十三人目の男」とは・・・。そうです、エントリーナンバー⑫ のイスカリオテのユダ、その人です。

 ユダというと裏切り者の代名詞となってしまっているように、銀貨30枚でイエスを売ったとされています。現在に至るまでこの汚名がそそがれることがほとんどないようです。

 「十三人目の男」=ユダ、という連想が、「13日の金曜日」が忌み嫌われる原因の一つになったようですが、ほんとうのところはよくわからないようです。

 13 という数字はそのものが、じつに興味深い数字です。13 は「素数」(そすう)でもあるのです。「素数」とは、1 とその数字以外に割ることのできる整数をもたない数のことを意味しています。1, 2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19・・・。13 をひっくりかえした 31 もまた「素数」です。興味深いですね。

 素数の話をしていてはキリがないので深入りはしませんが、素数は多くの数学者の人生を蕩尽してきたこともまた確かです。

 近年では、『オーシャンズ13』などのエンターテインメント映画もあるので、以前ほど「13」という数字に神経質ではなくなったのでしょうか? それとも、日本で思われているほど「13」はそれほど意識されていないのか、わたしにはよくわかりません。

 どの文化圏にも、特有の忌み言葉などの迷信はあります。

 日本なら 4 とか 9 がつく数字を避けるとか。死や苦を連想させるから。

 わたしは以前 402号室に住んでいましたが、住んでいた8年くらいのあいだ、それほど大きな問題は発生しませんでした。数字の語呂合わせでは、「死人部屋」ともなりかねないので、賃貸契約する際に、ちょっと考えたものでしたが、ロケーションがいいので意を決して住むことにした次第です。

 わたしがこの懸念をもらしたとき、誰も真剣に取り上げてくれませんでした。まあそういうもんでしょう。わたしがフツー以上に迷信深いのかもしれません(笑)。

 「13日の金曜日」と同様、いたづらに騒ぐ性格のものでもなさそうです。なお、今年2011年は「13日の金曜日」は 5月の一回切りです。次回は、2012年1月13日(金)、すいぶん先の話ですね。



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TGIF 「ああ、やっと金曜日!?」 いいえ、Twitter, Google, iPhone and Facebook の頭文字が TGIF




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2011年5月12日木曜日

書評 『津波てんでんこ-近代日本の津波史-』(山下文男、新日本出版社、2008)


「津波てんでんこ」というコトバに託された著者の思いを、日本人全体で共有しよう!

 「津波の際は、とにかく躊躇せず、一人一人バラバラで全力で高台に逃げろ!」。これが著者による本書の最大のメッセージである。

 そして、「津波は他人事じゃない!」。これが本書を一読してのわたしの率直な感想だ。

 タイトルになっている「津波てんでんこ」とは、明治三陸大津波の悲しい歴史を背負った貴重な教訓である。

 「てんでんばらばら」の「てんでん」に東北地方言の「こ」がついたもの。親兄弟が災害時に助け合うのは人間として当然の感情だが、こと津波に限ってはそれは例外でなければならない。なぜなら津波は不意打ちで突然襲ってくるから、共倒れを避けるためにはそれしかない、ということを意味している。

 「津波てんでんこ」という表現には、著者が子どもの時に体験した「昭和8年の大津波」が原点にあるという。

七人兄弟の末っ子だったが、両親も兄たちも、誰も手を引いてくれなかった。そのため否応なしで一人で逃げ、雪道を裸足で山まで駆け上がっている。後で聞くと、友だちの多くもみんな同じことだったらしい。助かろうと思ったら子どもでそうせざるをえないのである。(P.223)

 今年87歳になる本書の著者・山下文男氏は、今回の大津波でも九死に一生を得たことが報道されていた。

 吉村昭の『三陸海岸大津波』は読み継がれるべきロングセラーだが、津波はけっして三陸海岸だけのものではない。本書はこの重要な事実に読者の注意を促してくれる。「津波は他人事じゃない!」とはこのことだ。

 本書によれば、関東大震災(1923年)のときには相模湾沿岸では津波と山津波の挟み撃ちになっている。戦時下の東南海地震津波(1944年)は厳しい情報統制のため知られていないだけ。敗戦後の南海地震津波(1946年)はそれどころではない状況だった。日本海中部地震津波(1983年)では秋田に大被害、北海道南西沖地震津波(1993年)では奥尻島を中心に。このほか、沖縄の石垣島でも過去には大津波の被害を受けている。

 日本は、地震と津波の多さにかんしては、同じくプレートのうえに乗っかり、周囲を海に囲まれた島国のインドネシアと並んでいるのだ。。津波が tsunami として英語になっていることからもわかるように、この国は「世界有数の津波大国」なのだ。

 自然災害である津波は、人間サイドの事情にはいっさいお構いなしに突然襲ってくる。しかも、集中豪雨や台風など、毎年の決まった時期に定期的に襲ってくる自然災害に比べると、大津波と大津波のあいだのインターバルがきわめて長いのが特徴である。そのため、どうしても体験が風化しやすい

 また逆に、過去に津波を体験していると、どうしても実際より軽くみなしがちという側面もあることが指摘されている。津波への対応は、マインド面でも難しいのだ。

 狭い意味の専門家ではなく、三陸海岸に生まれ育った一市民の立場から書かれた、日本国民に覚醒を促す本である。ぜひこの機会に眼をとおして「自分の問題」だと受け止めてほしいと強く思う。


<初出情報>

■bk1書評「「津波てんでんこ」というコトバに託された著者の思いを、日本人全体で共有しよう!」投稿掲載(2011年5月11日)
■amazon 書評「「津波てんでんこ」というコトバに託された著者の思いを、日本人全体で共有しよう!」投稿掲載(2011年5月11日)





目 次

プロローグ キラー・ウエーブ
第1章 節句の賑わいを直撃した狂瀾怒涛
  -明治三陸大津波(1896年6月15日)
第2章 海と山から津波攻めの相模湾岸
  -関東大地震津波(1923年9月1日)
第3章 被災地の息子たちは中国の最前線に
  -昭和三陸津波(1933年3月3日)
第4章 大戦末期、厳秘にされた被害情況
  -東南海地震津波(1944年12月7日)
第5章 敗戦後の混乱と激動の最中に
  -南海地震津波(1946年12月21日)
第6章 地球の裏側から遙々と
  -昭和のチリ津波(1960年5月23日~24日)
第7章 激浪のなかに消えた学童たち
  -日本海中部地震津波(1983年5月26日)
第8章 際立った「災害弱者」の犠牲
  -北海道南西沖地震津波(1993年7月12日)
エピローグ 自分の命は自分で守る
  -三陸だけが「宿命的津波海岸」ではない
参考文献
あとがき


著者プロフィール

山下文男(やました・ふみお)

1924年岩手県三陸海岸生まれ。現在、大船渡市綾里地区在住。明治の三陸津波で一族9人が溺死。自らも少年時代に津波や東北大凶作を体験。1986年以降、「歴史地震研究会」会員として著作と津波防災活動に従事。1991年『津波ものがたり』で「日本科学読物賞」「北の児童文学賞」、2000年「日本自然災害学会賞」(功績賞)、2003年「平成15年度防災功労者表彰」(内閣府、防災思想の普及)、2006年「『岩手日報』社文化賞」を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

 なんと、日本の海岸線の長さは世界第6位である。総延長 29,751km、カナダ、インドネシア、グリーンランド、ロシア、フィリピンについでの第6位。図録島国日本:海岸線の長い国・地域ランキング を参照。

 島国では、インドネシア、フィリピン、日本、オーストラリアがトップ10に入る。面積の大きさではなく、周囲を海に囲まれていることがこのランキング上位に入る大きな要因である。 

 このうち、インドネシア、フィリピン、日本はプレートの真上に存在する島国。そして、日本とインドネシアは世界一を争うほどの大地震かつ大津波の被害大国だ。

 「津波」はできてから100年くらいしか立っていない「新語」だが、すでに英語となって久しい。

  英語の辞書をみると以下のような説明がある。Random House Dictionary によれば以下のように説明されている。

tsu·na·mi [tsoo-nah-mee]
–noun) an unusually large sea wave produced by a seaquake or undersea volcanic eruption. Also called seismic sea wave.
Origin: 1905–10; < Japanese, equivalent to tsu harbor (earlier tu ) + nami

 だが、いつ頃、英語に入ったのか手元の資料ではわからない。


 「逃げろ!」などと聞くと、わたしの世代の人間なら、浅田彰の『逃走論』を思い出すかもしれない。「闘争論」ではなく「逃走論」。

 一般には「逃げない」ことが美徳であり、倫理とされるが、こと津波にかんしては逃げるしかない。それも一瞬の躊躇なく逃げなくてはならないのだ。

 本書でも、津波の死者は溺死もさることながら打撲死が多いことが強調されている。一般にTV映像でも報道写真でも遺体の映像や画像をださない日本のマスコミの報道ではわからないが、無残なまでに変化した遺体が多いという話が、本書には書かれている。

 映像や生存者の証言だけでは、けっしてわからない事実にも注意を払う必要がある。そのためにはこのような本を読む意味もある。


<関連サイト>

なぜこれほどの尊い命が失われてしまったか-検死医が目の当たりにした“津波遺体”のメッセージ 
高木徹也・杏林大学准教授のケース-(ダイヤモンドオンライン)

・・2011年3月11日の大津波の検死を行った報告 (2011年8月23日 追加)


<ブログ内関連記事>

書評 『三陸海岸大津波』 (吉村 昭、文春文庫、2004、 単行本初版 1970年)

「天災は忘れた頃にやってくる」で有名な寺田寅彦が書いた随筆 「天災と国防」(1934年)を読んでみる

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む

大震災のあと余震がつづくいま 『方丈記』 を読むことの意味




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2011年5月10日火曜日

書評 『三陸海岸大津波』 (吉村 昭、文春文庫、2004、 単行本初版 1970年)


「3-11」の大地震にともなう大津波の映像をみた現在、記述内容のリアルさに驚く

 「3-11」の大地震にともなう大津波。被災者として直接体験していない多くの人もまた、すでに膨大な数の映像を見て津波という自然現象のすさまじさを、アタマとココロに刻みつけられた。

 この映像視聴体験を踏まえたうえで本書を読むと、すでに明治29年(1896年)と昭和8年(1933年)におこった三陸海岸大津波において、今回2011年の大津波とほぼ同じことが起こっていたことを知ることができる。

 とくに「明治29年の津波」。当時は、文字通り「陸の孤島」であった三陸地方の受けた津波の被害があまりにもナマナマしい。文字で追って読む内容と、今回の津波を映像で見た記憶が完全にオーバラップしてくる。

 津波の犠牲者のほとんどは溺死か打撲死したいるわけだが、溺死寸前で生還した体験者の語った証言内容を読むと、あまりものリアリティに、読んでいる自分自身が、水のなかでもがき苦しんでいる状態を想像してしまうくらいだ。これは、高台から撮影した映像からは、けっしてうかがい知ることのできない貴重な証言である。

 文明がいくら進もうと、地震と津波は避けることができない。防潮堤すら越えてあっという間に押し寄せてくる津波。地震予知が進歩したと思ったのも幻想に過ぎなかったことがわかってしまった。いや、すでに1934年に寺田寅彦が書いているように、文明が進めば進むほど被害はかえって大きくなるということが、残念なことに今回もまた実証されてしまったのだ。

 今回の大津波の生存者の証言も時間がたてば集められ、整理されることになると思うが、おそらく明治29年のときのものと大きな違いはないのかもしれない。

 本書じたい、いまから40年も前の出版だが、まったく古さを感じないのは、自然の猛威を前にしたら、たとえ文明が進もうが、人間などほんとうにちっぽけな存在に過ぎないことを再確認したことにある。

 まだまだ、これからも読み続けられていくべき名著であることは間違いない。はじめて読んでみて強くそう感じた。


<初出情報>

■bk1書評「「3-11」の大地震にともなう大津波の映像をみた現在、記述内容のリアルさに驚く」投稿掲載(2011年5月1日)
■amazon 書評「「3-11」の大地震にともなう大津波の映像をみた現在、記述内容のリアルさに驚く」投稿掲載(2011年5月1日)





目 次

まえがき
1. 明治二十九年の津波
 前兆
 被害
 挿話
 余波
 津波の歴史
2. 昭和八年の津波
 津波・海嘯・よだ
 波高
 前兆
 来襲
 田老と津波
 住民
 子供の眼
 救援
3. チリ地震津波
 のっこ、のっことやって来た
 予知
 津波との戦い

参考文献
あとがき-文庫化にあたって
ふたたび文庫にあたって
解説 記録する力 髙山文彦


著者プロフィール

吉村 昭(よしむら・あきら)

1927年、東京生まれ。2006年没。学習院大学中退。1966年『星への旅』で太宰治賞を受賞。同年『戦艦武蔵』で脚光を浴び、以降『零式戦闘機』『陸奥爆沈』『総員起シ』等を次々に発表。1973年これら一連のドキュメンタリー作品の業績により第21回菊池寛賞を受賞する。他に『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞(1979年)、『破獄』により読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞(1984年)、『冷い夏、熱い夏』で毎日芸術賞(1985年)、さらに1987年日本芸術院賞、1994年には『天狗争乱』で大仏次郎賞をそれぞれ受賞。1997年より芸術院会員。



<書評への付記>

 いま比較的大きな書店にいくと、吉村昭の文庫本が二冊、平積みになっているのを目にすることができるだろう。二冊の文庫本とは、『三陸海岸大津波』『関東大震災』である。

 後者の『関東大震災』(単行本初版 1973年)は、1995年の阪神大震災のあとによく読まれた本である。わたしもそのとき初めて手に取って熟読したことを覚えている。

 『関東大震災』を読めば、秩序ただしい日本人が神話に過ぎないことがよく理解できる。流言飛語というデマによる朝鮮人虐殺というとんでもない事件を引き起こしただけでなく、華僑も被害にあっているし、どさくさにまぎれてアナキスト(無政府主義者)の大杉栄が家族とともに殺されている。国文学者で民俗学者の折口信夫は、朝鮮人と間違われて殺されそうになったという体験もしている。

 1923年の関東大震災の当時にくらべれば、日本人も反省を経て人間的に成長したといっていいのかどうかはわからない。ただ一つ言えることは、時代環境によって日本人がとった行動(behavior)は同じではないということだ。

 そして今回の東北関東大震災(東日本大震災)では、大地震に大津波が加わった。

 ふたたび吉村昭の登場である。『三陸海岸大津波』は今回はじめて読んだ。名前は知っていたが、読書のプライオリティは高くなかったのだ、大津波の大被害をリアルタイムの映像で見るまでは・・・

 何かことが起こったときに、すぐれた関連本を読むことは、時局便乗でもなんでもない。

 この読書体験は、確実に、知識としてだけでなく、体験や疑似体験を「構造化」する役にたつはずである。あのとき、あんなことがあって、こんな本を読んだという記憶は、すぐれてエピソード記憶として刻み込まれ、確実に「アタマの引き出し」となる。

 ただし、読むべきものはすぐれた本であることが重要。粗製濫造の便乗本は読む価値はない。週刊誌のほうが直接取材を行っているからだ。

 みなさんもぜひこの機会に『三陸海岸大津波』を読んで、津波がなぜ tsunami という英語になったのか考えてみる機会にしてほしいと思う。

 本書には、英語化の経緯については書かれていないが、「津波」というコトバが、日本ではいつ頃から使われるようになったかの考察もある。その歴史が意外とあたらしいことを知って驚くのではないだろか?





<関連サイト>

なぜこれほどの尊い命が失われてしまったか-検死医が目の当たりにした“津波遺体”のメッセージ 
高木徹也・杏林大学准教授のケース-(ダイヤモンドオンライン)

・・2011年3月11日の大津波の検死を行った報告 (2011年8月23日 追加)


<ブログ内関連記事>

「天災は忘れた頃にやってくる」で有名な寺田寅彦が書いた随筆 「天災と国防」(1934年)を読んでみる

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む

大震災のあと余震がつづくいま 『方丈記』 を読むことの意味



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2011年5月8日日曜日

「生誕100年 岡本太郎展」 最終日(2011年5月8日)に駆け込みでいってきた


 「生誕100年 岡本太郎展」に行ってきた。会期ギリギリの駆け込みである。1911年生まれの岡本太郎は、1996年に 86歳で没している。

 1970年の大阪万博で太陽の塔を見て以来出会ってから40年来の「20世紀少年」であるわたしは、ぜひいかねばと思いながらも、あれよあれよという間に最終日になってしまったのだった。

 じつは先月に一度いってみたのだが、そのときは「節電」のため16時閉鎖(!)で泣く泣く入場できないということがあったのだ。本筋とは違うが、そのときはバクハツしたのだったが(笑) 

 混雑しているという情報があったので、朝イチで10時にいったらもう長蛇の列。

 岡本太郎も、白洲次郎ではないが、「養女」となった岡本敏子さんの精力的な紹介のおかげで死後に「復活」して以来、15年たったいまでもまったく人気が衰えずに高止まりなのだなあと、あらためて実感した次第だ。


「生誕100年 岡本太郎展」の率直な感想

 「生誕100年」の回顧展ということなので、内容的には初期の作品から後期まで網羅的に集めた入門編といったオーソドックスなものだった。

 かつてTVで流されていた意外に作品をまったく見たことがない人にとっては、「何だこれは!」感があるだろうが、すでに岡本太郎ファンであれば、東京青山のアトリエ(現在は岡本太郎記念館)や神奈川県川崎市の岡本太郎美術館で展示物を目にしているので、意外感はあまりない。

 とくに、わたしのように、「子どもの精神」を持ち続けている「非常識な人間」にとっては(笑)。

 もちろん、太陽の塔にかんするパネル展示やフィルム、晩年のCM出演やタモリの番組のゲスト出演のフィルムなど、日本人むけの展示としては絶対にはずせないコーナーである。入門編の内容としては、評価できるものだろう。

 唯一、斬新な展示だったのは、最後の出口前の「目玉を描いた作品群」の展示。これでもか、これでもかと目玉描いた作品を一同に集めた展示は、テーマ性が強く面白かった。

 わたしにとっての収穫は、「縄文人」という彫刻をふたたび見ることができたことくらいか。茶釜のような形態の彫刻作品である。『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)の表紙に採用されている。

 グッズの販売についても、わたしには物足りなかった。どうせやるなら、「座れない椅子」のミニチュアとか、青山の岡本太郎記念館にある「等身大の岡本太郎人形」の複製ミニチュアなどがほしいのだが・・。これはいつみても「何だこれは!」感に充ち満ちている。

 結局、今回はマグネットを3枚買ったのみとした。そのうちの一枚はもちろん太陽の塔である。



岡本太郎にとっての「東北」、岡本太郎にとっての「原発事故の恐怖」をもっと打ち出せると、よりアクチュアルな展示となったであろう

 残念なのは、この企画展示が「3-11」以前のものであったということだ。

 「生誕100年 岡本太郎展」は、2011年3月8日に会期がはじまってすぐに、「大震災」と「大津波」という超巨大自然災害に見舞われただけでなく、原発事故という起こってはならない人災に見舞われた美術展となった。

 もしこの企画展が「3-11」以後のものであったなら、「東北」と「原発事故」(放射能恐怖)を全面に出したものにするべきだったろう、と強く思ったことだ。

 「東北」については、岡本太郎が「美としての縄文」の「発見者」であることは、今回の展示でも縄文土器の写真パネルが展示されていたことにも明らかである。

 その「縄文」の担い手は、東北であり沖縄であったことも、フィルムが上映されていたが、これをもっと全面に打ち出したらよかったのではないかと思うのだ。

 東北のなまはげ、鹿踊り(ししおどり)んど、岡本太郎が東北に寄せた並々ならぬ好奇心と思いは、『岡本太郎の東北』(飯沢耕太郎=監修、岡本太郎・岡本敏子、毎日新聞社、2002)という写真集にもまとめられているとおり。岡本太郎じしんが撮影した貴重な民俗学的写真が多数収録されているので、ぜひ手にとってほしい。

 また、ピカソと真っ正面から対峙しピカソを乗り越えようとした岡本太郎が、ピカソの「ゲルニカ」の向こうを張って、核戦争の恐怖というテーマを、絵画や壁画として表現してきたことも今回の展示ではキチンと取り上げられていたが、これももっと全面に打ち出したらよかったのではとも思うのだ。

 1970年の大阪万博では、全体のテーマであった「進歩と調和」という近代文明に対して、あえて「ノン!」を突きつけた岡本太郎のことだ。福島第一の「原発事故」を知ったとしたら、間違いなく発言したはずだろう。1986年に発生したチェルノブイリ原発事故も生前に知っていたことであるし。

 いまだ大きな規模で余震が続く、被災地の東北で美術展を行うことはムリであるにしても、岡本太郎記念館のある東京や岡本太郎美術館のある川崎以外で、「東北」と「原発事故」を全面にだした企画展は、いまからでも遅くない、ぜひ実現されるといいと思う。

 2011年のいまというアクチュアルな状況のなかで、岡本太郎なら「東北」についてどう発言するか、「核戦争」ではないが同じく放射能被害では共通する「原発事故」をどう表現するか、こういったことを見る人に考えさせる企画にすると、きわめて意味あるものとなるのではないだろうか。

 そして、またとない「東北応援」になるはずだ。






<関連サイト>

「生誕100年 岡本太郎展」


<岡本太郎に関するリンク集>

岡本太郎記念館(東京・青山)・・岡本太郎アトリエの保存・再現
川崎市岡本太郎美術館・・神奈川県川崎市にある本格的美術館
・太陽の塔(独立行政法人 日本万国博覧会記念機構


<ブログ内関連記事>

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・この本の表紙は「縄文人の彫刻」であある

書評 『ピカソ [ピカソ講義]』(岡本太郎/宗 左近、ちくま学芸文庫、2009 原著 1980)

本の紹介 『アトリエの巨匠に会いに行く-ダリ、ミロ、シャガール・・・』(南川三治郎、朝日新書、2009)

マンガ 『20世紀少年』(浦沢直樹、小学館、2000~2007) 全22巻を一気読み・・大阪万博の太陽の塔を見ることのできた少年たち、見ることのできなかった少年たち

「チェルノブイリ原発事故」から 25年のきょう(2011年4月26日)、アンドレイ・タルコスフキー監督最後の作品 『サクリファイス』(1986)を回想する

「メキシコ20世紀絵画展」(世田谷美術館)にいってみた
・・パブリック・アートとしてのメキシコの「壁画運動」。岡本太郎もその影響を大きく受けており実作もしている。メキシコで発見され里帰りした壁画は、2008年以降は渋谷駅に展示され、有るべき姿でよみがえった




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2011年5月6日金曜日

書評 『苦海浄土-わが水俣病-』(石牟礼道子、講談社文庫(改稿版)、1972、初版単行本 1968)


「フクシマ」で「ミナマタ」の悲劇がふたたび繰り返さないことを願いつつ読む

 福島第一の「原発事故」の処理に際して、放射能汚染水を地域住民にも国際社会にもいっさい説明することもなく、垂れ流しの決定を行った日本政府。このことを知ってただちに思い出したのは「水俣病」のことであり、『苦海浄土』のことである。

 今回の「人災」を機会に、ずいぶん前に買って本棚に入れておきながら、背表紙を眺めるだけで、読まないままになっていた文庫本を読み始めた。単行本初版からは、すでに 43年もたっている。

 水俣病とは、チッソが海に流した廃液にふくまれたメチル水銀が食物連鎖のなかで魚介類に蓄積し、それを日常的に食べていた漁民を中心に引き起こされた公害病のことである。1956年に公式に確認された水俣の悲劇は世界中に知れ渡り、水俣はミナマタとなった。わたしも子どものときに TVで見た、ネコが踊り狂うモノクロの映像が目に焼き付いている。

 この本は、「公害事件」を目の当たりにした、その土地に育ち、生きてきた一人の女性で、主婦で、詩人の手になる作品である。「公害」発生前の美しい海と、「公害」発生後の汚れた海から目をそらすことなく、被害にあった漁民たちにきわめて近いところで寄り添い、声になった怒り、声にならぬ魂の叫びを、著者の肉体と精神というフィルターをとおして文字にした文章を集めて一書にしたものだ。

 『苦海浄土』の「苦海」(くかい)とは、生き地獄を意味する「苦界」(くがい)に掛けたものだろう。だが、その「苦海」と「浄土」が結びつくとき、いったい何を意味しているのだろうか?

 あくまでも「私小説」でありノンフィクション作品ではない。また、土地の方言を生かした語り口は、土地の人間ではない読者には慣れないので、けっして読みやすいものではない。だが、これは方言の使用なくして書きえなかった作品であることは間違いない。 

 福島に第一原発と第二原発をもつ東京電力と周辺住民の関係は、熊本県水俣に肥料工場を建設したチッソ(=新日本窒素肥料株式会社)と周辺住民の関係と似ていることは否定できない。もちろん単純な比較は意味がないことではあるが。

 メチル水銀のまじった汚染水と放射能をふくむ汚染水という違いはあるが、漁場が汚染されたという事実だけでなく、致命的な事故が発生するまでは東電もチッソも地域にカネを落とし、雇用の一部を作り出した恩恵者であったことが共通しているのだ。

 環境汚染企業と周辺地域住民との関係はアンビバレントなものであり、「企業城下町」や「原発城下町」という性格を知ることなしに、汚染水問題を論じることの難しさもまた知ることになる。

 この国は、近代に入ってから足尾銅山、カネミ油症、イタイイタイ病、森永ヒ素ミルク事件と、枚挙に暇(いとま)のないほど、数々の「公害事件」を引き起こしてきた。

 現在フクシマで起こっているアクチュアルな事件を見つめながら、先行するミナマタを描いた小説を読む。こういう読み方は文学作品の読み方としては邪道かもしれないが、それでもこの『苦海浄土』を読むと、文学のチカラをあらためて感じることもできるのだ。

 科学万能神話に疑問符がつきだしたいまこそ、詩人をはじめとする文学者への期待するものは大きい。

 今回の大地震、大津波、原発事故、風評被害という四重苦から、どんな文学作品が生まれてくることになるのだろうか? 読み終えて、そんなことも感じている。


<初出情報>

■bk1書評「「フクシマ」で「ミナマタ」の悲劇がふたたび繰り返さないことを願いつつ読む」投稿掲載(2011年5月4日)
■amazon 書評「「フクシマ」で「ミナマタ」の悲劇がふたたび繰り返さないことを願いつつ読む」投稿掲載(2011年5月4日)

*再録にあたって加筆修正を行った。




目 次

第1章 椿の海
第2章 不知火海沿岸漁民
第3章 ゆき女きき書
第4章 天の魚
第5章 地の魚
第6章 とんとん村
第7章 昭和四十三年


石牟礼道子(いしむれ・みちこ)

1927年熊本県天草生まれ。詩人・作家。水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て、1958年、谷川雁・森崎和江・上野英信などともに『サークル村』に参加。1960年5月終刊。代表作『苦海浄土-わが水俣病-』(講談社)は、第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが受賞辞退。1973年マグサイサイ賞受賞。1993年『十六夜橋』(径書房、のちに ちくま文庫)で紫式部文学賞受賞。2001年度朝日賞受賞。『はにかみの国 石牟礼道子全詩集』(石風社)で、2002年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞(本データは別書籍が刊行された際に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

 この書評を読まれて不快に思われる方もいるかもしれない。「人間の尊厳」をうたった「いのちの文学」、これがこの本につけられた評価だからだ。

 そういう反応があっても当然だろう。わたしは、いっさいの先入観なしに、最初のページから最後のパージまで読んでみた。その正直な感想を「書評」として書いてみたまでだ。どうもわたしは、アタマの構造が理系的なので、文学作品をそのまま情緒的に味わう能力に欠けて点があるのは仕方あるまい。
 
 そもそも、本というものは、著者の手を離れたとたんに、さまざまな読みがされるようになるものだ。

 『苦海浄土』もまた同様である。書評にも書いたように、これだけ有名でありながら、実は読まれていない本もないのではないか? わたし自身もそうであったし、もしかすると一般的にもそうかもしれない。「水俣病」と『苦海浄土』が連想でつながったとしても、読みやすい本ではないし、正直いって感想も書きにくい。

 放射能被害という「人災」にあったのは陸地の農家だけではなく、海の漁師に対してでもある。

 水俣は内湾で、天草と同様、有数の漁場である。メチル水銀は比重が重いのでそのまま沈殿しやすい。分解もされないいし、半減期もないので、そのまま食物連鎖をつうじて魚介類に蓄積されることになる。被害地域は工場排水が垂れ流しにされた水俣に集中している。

 福島沖は太平洋に面した漁場で、しかも黒潮という暖流と、親潮という寒流がぶつかる世界有数の漁場である。この広い海域が放射能を含んだ排水で汚染されたのだが、海流にのって拡散しやういのは、水俣の状況とは異なる点であろう。

 だが、たとえコウナゴなどの小魚の放射能が基準値を下回ったとしても、同じく食物連鎖をつうじて魚介類に蓄積していくであろうことは容易に想像できる。

 化学物質と放射能とでは、性格の異なる物質であるが、目に見えない汚染であり恐怖の源であるという点においては共通している。
 
 だが、2011年というこの時点において、過去に公害被害をさんざん経験しているはずの日本が、先進国であるはずの日本が、いとも簡単に放射能汚染水を、公共の存在である海に、無断で放出することを許可したのである。代替案を検討したかどうかも定かではない。

 この犯罪的行為は、半永久的にひとびとの記憶から消え去ることはないだろう。人類に対する犯罪行為である。



<ブログ内関連サイト>

書評 『複合汚染』(有吉佐和子、新潮文庫、1979、初版1975年)

書評 『日本は世界4位の海洋大国』(山田吉彦、講談社+α新書、2010)
・・日本の国土面積が世界61位であるにかかわらず、領海・排他的経済水域(EEZ)の面積は世界第6位、そして海岸線の長さも世界第6位であるが、国土の面積あたりの海岸線延長ではなんと世界一である

書評 『海洋国家日本の構想』(高坂正堯、中公クラシックス、2008)
・・海は日本の生命線!




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2011年5月4日水曜日

書評 『複合汚染』(有吉佐和子、新潮文庫、1979、初版1975年)


いまこそ読むべき本。有吉佐和子ってこんなに面白かったのか! という新鮮なオドロキを感じる知的刺激に充ち満ちた一冊

 知的刺激に充ち満ちた一冊。文庫本の600ページを全然長いと思わせない面白さ。最後まで読ませる、小説であって小説でないような、一人称語りのノンフィクション。

 いまからすでに、37年も前の作品だが、古さをまったく感じさせない。

 本書は、初版が1975年、元は1974年に朝日新聞に毎日連載されていた「新聞小説」だったというのは、さらにまたオドロキだ。「数年前から連載小説を書く約束をしていた朝日の学芸部に、私からお願いして、こういう内容だけれど必ず読者を掴まえて見せますからと公言して書かせて頂いたもの」(あとがき)だそうだ。

 1974年は石油ショックの翌年、「高度成長」時代を突っ走ってきた日本が、さまざまな問題をつうじて、高度成長のひずみが一気に噴き出した時代である。

 当時は「環境問題」ではなく、「公害」といわれていたが、カネミ油症事件や水俣病などだけでなく、日常的に光化学スモッグなどにさらされてきたのが日本人である。

 私自身も、子どもの頃にそんな時代を過ごしてきたのだが、著者の表現ではないが、世界から「人体実験」の場と見られてきたのも、けっして誇張ではない。今回の「原発事故」による放射能漏れにかんしても同じなのではないか、という気持ちにさせられるのである。

 殺虫剤、農薬、工場排水、排気ガス・・・。それらに含まれる一つ一つの化学物質についても、危険度が完全にわかっているとは言い難いのに、さらにそれらが「複合」しているのであれば「汚染」の度合いはいったいどうなのか? ほんとうのところ、いまだによくわかっていないのだ。

 読んでいて思うのは、この国の「近代」とは、いったいなんだったのかというため息にも似た感情だ。農業もふくめてすべてを「工業化」するという発想にもとづいた政策。

 この政策はが現在でもまったくゆるまることがないのは、「原発事故」に際して露呈した、監督官庁と産業界と御用学者との癒着に端的にあらわれている。一言でいえば「消費者不在」に尽きる。果たしてこの国は先進国といえるのだろうか??

 有吉佐和子の作品は『恍惚の人』など、タイトルのうまさが流行語になるので、名前は知っていたが、じつはいままでまったく読んだことがなかった。本書は、有吉佐和子ってこんなに面白かったのか! という新鮮なオドロキを感じる本である。

 著者は、この本を書くために参考文献を300冊以上読み、何十人もの専門家に会ったという。これだけの筆力のある作家が、自分が生きている時代に起こっていることに対して、問題意識と好奇心のおもむくままに突撃取材を積み重ねた内容。これが面白くないはずがない。

 そうでなければ、科学技術と工業、そして農業や漁業との関係を扱った本が当時のベストセラーとなっただけでなく、現在でもロングセラーとして読み継がれているはずがない。

 さまざまな感想をもつことは間違いない。それだけ、知的な満足感の強い、面白い作品なのである。

 化学物質による「複合汚染」だけでなく、さらに「放射能汚染」問題が加わったいまこそ、ぜひこの機会に手にとって読み始めてほしいと思う。



<初出情報>

■bk1書評「いまこそ読むべき本。有吉佐和子ってこんなに面白かったのか! という新鮮なオドロキを感じる知的刺激に充ち満ちた一冊」投稿掲載(2011年5月1日)
■amazon 書評「いまこそ読むべき本。有吉佐和子ってこんなに面白かったのか! という新鮮なオドロキを感じる知的刺激に充ち満ちた一冊」投稿掲載(2011年5月1日)





著者プロフィール

有吉佐和子(ありよし・さわこ)

1931~1984年。和歌山市生まれ。東京女子大短大卒。1956年「地唄」が芥川賞候補となり、文壇に登場。紀州を舞台にした『紀ノ川』『有田川』『日高川』の三部作を発表し、『華岡青洲の妻』で女流文学賞を受賞。



<書評への付記>

 ところで、冒頭の数十ページには、市川房枝の選挙応援をするはめになった著者が、選挙スタッフとして勝手連の中心にいた「菅さんというハンサムな若者」と微妙に距離をとるシーンがでてくる。

 いまこの時点で『複合汚染』を読んでいるとき、この国を迷走させている首相とオーバラップされてくる奇妙な感覚を、ぜひみなさんも味わってもらいたいと思う。菅直人というのはこういう人物か、と。

 この小説は、構成が先にありきといった作品ではなく、新聞連載という性格もあろうか、著者の興味と新聞読者の関心が交差しながら、どんどん発展していくという形態になっている。

 一人称語りのノンフィクションという、いまでは当たり前のスタイルが当時は読者の共感を得たのかもしれない。

 私が読んだ新潮文庫版も、平成14年に49刷改版から、私の手元にある平成20年の第55刷まで毎年コンスタントに刷りが重ねている。いまでも読まれているということは、それだけ知的に面白いということを意味している。もちろん、内容的には、その後の研究成果を踏まえれば、訂正される箇所も少なくないだろう。

 本書は、基本的に農業と漁業という「食の安全」に直結する産業に対する、工業化を突き進んでいた「近代日本の負の遺産」を描いたものだ。1974年という年は、石油ショックによる狂乱物価の翌年にあたる。高度成長が終わった年であり、これまでずっと続いてきた成長路線に懐疑的な視点が生まれてきた年だ。

 「近代日本の負の遺産」とは端的にいって「公害問題」。現在では「環境問題」といっているが、水も大気も汚染され、それはそれは酷い時代であったのだ。河川も海も汚染水で異臭が漂い、ヘドロがたまり、いまの中国のような状態だったといえば想像もつくだろうか。

 1974年当時にくらべたら、環境そのものはだいぶ浄化されたといっても言い過ぎではない。だが、化学物質にによる汚染が消え去ったわけではない。いったん排出された化学物質は、放射能と違って半減期はないので、そのまま堆積し、食物連鎖をつうじて結局は人間のクチに入ることになる。

 食物連鎖(food chain)による食品汚染といえば、とくに魚介類がその最たるものであることは、本書で何度も強調されていることだ。

 現在、福島第一の「原発事故」で海に放出された放射能汚染水は、コウナゴなどの小魚が放射能を吸収し、それを食べた大きな魚に蓄積し、さらには鳥や人間に蓄積されて高レベルになっていく。たとえ半減期があったところで、濃縮された量がいったいどれだけになるか、考えただけでも怖ろしい。

 それだけ酷い公害のなかで子ども時代を過ごしてきたのが、わたしの世代である。1960年代後半は、これに加えて中国により核実験の「死の灰」が風にのって日本まで来ていたのである。現在でも、黄砂には微量の放射性物質がまじっているようだ。

 とはいえ、いまにいたるまで、とくに大きな病気もなく過ごしていることを考えれば、人間というものも意外と生態系への適応力があるものなのかな、と思ってみたりもしないわけではない。

 本書は告発の書というよりも、問題提起の書である。「複合汚染」問題を、著者とともに、いろんな専門家に聞いて回るというスタイルが、知的な好奇心を刺激されるというわけなのだ。

 最後のほうで、その当時はまだ四輪車では中小企業だったホンダがでてくる。米国で高い基準を設定されたマスキー法をクリアして、CVCCエンジンの開発に成功して、一躍、世界的企業になった頃の若々しいホンダである。

 この問題に対する役人の答弁が、現在の「原発問題」でのそれとまったく変わらないことに、「内向き国家・日本」の政治家と官僚への失望感と、あくまでも「民」の立場に徹する中小ベンチャーへの期待ももつのは、本書のなかの数少ないが救いとなる箇所である。

 「消費者不在」、「国民不在」の姿勢、これがいっこうに改まることのない状態に、NOをつきつけなければ、いつまでたってもこの国が変わることはないだろう。

 『複合汚染』で提起された問題は、2011年現在でもアクチュアルなものである。残念なことながら。



<ブログ内関連サイト>

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる
・・思想家で人智学者のシュタイナーの見解

書評 『食べてはいけない!(地球のカタチ)』(森枝卓士、白水社、2007)
・・「食べてはいけない」というベストセラーとは違う意味の「食べてはいけない」

「マレーシア・ハラール・マーケット投資セミナー」(JETRO主催、農水省後援)に参加・・宗教上の理由によって「食べてはいけない」

書評 『日本は世界5位の農業大国-大噓だらけの食料自給率-』(浅川芳裕、講談社+α新書、2010)
・・放射能汚染の「風評被害」にまどわされないよう!中国の「毒菜」よりはるかにましな「地産地消」。

書評 『植物工場ビジネス-低コスト型なら個人でもできる-』(池田英男、日本経済新聞出版社、2010)
・・土壌とは無縁の植物工場なら、放射能汚染は関係ない




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