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2022年2月27日日曜日

書評『昭和維新の朝(あした)ー 二・二六事件と軍師・斎藤瀏』(工藤美代子、日本経済出版社、2008)ー 天皇と日本人、そして和歌のもつ鎮魂と和解のチカラと意味について深く感じさせられる

 

本日(2022年2月26日)は、「二・二六事件」(1936年)から86年になる。 もう、はるか彼方の歴史上の出来事になってしまった「二・二六事件」だが、それでもこのことについて記憶から想起しつづけることは重要だと考えている。 


斎藤瀏(さいとう・りゅう 1879~1953)は、陸軍軍人で歌人だった人。その一人娘が歌人の斎藤史(さいとう・ふみ 1909~2002)。そして、その史の幼なじみが「226事件」の首謀者の一人で、事件後に銃殺刑になった栗原安秀中尉(1908~1936)であった。 斎藤史と栗原安秀は、お互いを「クリコ」と「フミ公」と呼び合うような仲だった。

(栗原安秀 Wikipediaより)

政治外交と現地での治安維持のはざまで精神的苦労を強いられた「済南事件」(1928年)を機に予備役に回された陸軍少将の斎藤瀏は、上層部への激しい批判を行う栗原安秀を中心とする青年将校たちにとってはメンターであり、「226事件」を物心両面で支えていた軍師ともいうべき存在であった。「済南事件」が「226事件」へのレールを敷いたのである。

斎藤瀏もまた事件後に拘束され投獄、いっさいの名誉剥奪のうえ、最終的に禁固5年の刑を宣告されたが、戦時中に仮出所となる。高名な歌人として、釈迢空(=折口信夫)などとともに『愛国百人一首』(1942年)の選者にもなった。

そんな斎藤瀏とその娘の史の人生をを中心に、逆賊とされた青年将校たちとの知られざる関係を「和歌」という切り口で描いたノンフィクション作品であった。 

蹶起した青年将校たちを最終的に裏切った真崎甚三郎のような上官がいた一方、最後までその側に立ち続けたたうえ、かれらの思いを記録に残す役割をはたした斎藤瀏のような元将官もいたのである。 この事実は、日本人として知っておくべきことだ。安曇野出身の斎藤瀏は、少年時代から郷里の佐久間象山や、陽明学の大塩平八郎の話を聞かされて育った人であった。

この本を読んだことで、あらためて天皇と日本人、そして和歌のもつ鎮魂と和解のチカラと意味について深く感じさせられた。プロローグに描かれた92歳の斎藤史と天皇との「和解」(1997年)は、感動的なシーンである。

青年将校たちが処刑されてから60年の月日のち、宮中歌会始の召人として呼ばれ、 明仁天皇に「お父上は瀏さん、でしたね」とお言葉をかけられたのである。これで青年将校たちも、やっと成仏できたのだ、と。





<関連サイト>

「二・二六事件」の資金提供者は、マレー半島で財を築いた石原広一郎という実業家
・・「石原広一郎(いしはら・ひろいちろう、1890年(明治23年)~1970年)は、日本の実業家で石原産業の創業者。 京都府京都市生まれ。1913年立命館大学法科専門部卒業。1916年にマレー半島に渡航し鉄鉱山の発見・開発に成功。東南アジア各地や日本国内での鉱山開発や、海運業へ事業を拡大した。1931年の満州事変勃発後、南進論提唱の好機が到来したとして日本に帰国し政治活動を展開、国家主義的団体神武会・明倫会を創立して世論を喚起し、1936年の二・二六事件では、明倫会の斎藤瀏を介して首謀者の1人である栗原安秀中尉を資金面で援助、逮捕された。戦後、A級戦犯容疑で巣鴨に拘禁されるも不起訴となり釈放された」。(Wikipediaの文章を編集)


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2014年5月18日日曜日

会田雄次の『アーロン収容所』は、英国人とビルマ人(=ミャンマー人)とインド人を知るために絶対に読んでおきたい現代の古典である!



古典というのは、さまざまな読み方が可能だからこそ、長生きするものである。

わたしは『アーロン収容所』を「日本人論」としてだけでなく、英国人、ビルマ人(=ミャンマー)、インド人を知るための必読書として推奨したい。いや、絶対に読んでおきたい現代の古典と言っておく。

もともとは「中公新書」の発刊とともに1962年に出版されたものらしい。副題には「西欧ヒューマニズムの限界」とあり、現在でもひきつづきロングセラーとして増刷されつづけている。

わたしがうまれたのが奇しくも1962年なので、ちょうど同じ年ということになる。まさに半世紀を超えるロングセラー中のロングセラーなのである。文庫化されたのは1973年のことだ。文庫版からは「西欧ヒューマニズムの限界」という副題は外されている。

高校時代に「推薦図書」の一冊であったので、わたしは文庫版で読んだ。1970年代後半のことである。

高校時代に読んだ本で、大きな影響を受けたものを三冊あげよと言われたら、この『アーロン収容所』、すでにこのブログでも紹介した『ソビエト帝国の崩壊』(小室直樹、カッパビジネス、1980)、それからまだブログでは取り上げていないが『ものの見方について』(笠信太郎、角川文庫、1957 単行本初版 1950)をあげるだろう(・・いま聞かれたらという仮定の質問なので、聞かれるたび多少の変更はありかもしれない)。

いずれも高校生でも読めるような平易な文章でありながら、鋭い観察と推論が全編を貫いているものだ。こういった本を高校時代に読んでおいたからこそ、社会科学的な「ものの見方」が知らず知らずのうちに培われたのかもしれない。

(文庫版カバーのウラ 1997年第24版のもの)

高校時代に『アーロン収容所』を読んだとき、自分自身がもっていた白人、とくに英国人にかんする固定観念が完全に崩されたのを覚えている。捕虜という屈辱的な立場に置かれながら、その立場からの観察力の鋭さと豊富さが読み物としても魅力的なのだ。

1970年代後半は、すでに「高度成長」期を経て日本経済が世界的に強くなっていたとはいえ、その経済が強いという一点を除いては先進国からは評価されていない時代であった。日本人もまだ肩肘張っているところがあったようにも思う。いまだ成熟していなかったということだ。

その意味では、梅棹忠夫の『文明の生態史観』と同様、敗戦後の日本人に「自信」を回復させ、「高度成長」に向けてのエートスを大いに後押しした内容だといえるだろう。英語版がそれぞれ不評であったのはそのためだ。

世界を支配しているのは西欧であり、いまでもまだそうだが、先進国首脳が一堂に会する「サミット」において「非西欧国家」はいまだ日本だけなのである。冷戦後のソ連崩壊後にはロシアが加わってG7がG8になったものの、先般のウクライナ問題(2014年)で抜けてふたたびG7に戻ってしまった。

1970年代当時にくらべたら、2014年の現在は、西欧諸国のさらなる衰退もあって、日本人がそこにいる違和感もなくなった(・・見慣れたからということもある)。

価値観の点からみても、経済が強くなっても異質の価値観の大国が出現していることも、日本がサミットに参加している違和感がなくなった理由であろう。


■『アーロン収容所再訪』(1975年)はビルマ再訪記

文庫版カバーのウラにも印刷されているように(・・上掲の写真)、『アーロン収容所』は基本的に「日本人論」として読まれてきたようだ。

そういう読み方以外にわたしが提案したいのは、英国人、ビルマ人(=ミャンマー)、インド人を知るための必読書という側面である。

まず著者を含めて、大東亜戦争敗戦の結果、捕虜となったは日本人である。日本と戦ったのは大英帝国であり捕虜収容所を管理するのは英国人である。英国の将兵には男性だけでなく、女性もいたことは著者だけでなく、読者にも驚きであった。

それだけではなく、大英帝国の軍隊には、当時まだ英国の植民地であったインド人の兵士がいただけでなく、ネパールの精鋭グルカ兵もおり、なんといっても大日本帝国と大英帝国が激突し、死闘を行ったのは、当時まだ英国の植民地であったビルマ(=ミャンマー)であったということだ。


(現在は原動機付き! 初訪問した1997年当時もまだ手漕きだった)


高校時代に『アーロン収容所』を読んだときは、どうしても英国の将兵と日本捕虜との関係の印象が強かったが、その後、1997年にはじめてミャンマーにを訪問したあと(だと思う)、『アーロン収容所再訪』(会田雄次、中公文庫、1988)という本を八重洲ブックセンター(東京)で見つけて読んだことが、『アーロン収容所』は英国関連本であり、ビルマ関連本なのだと思うキッカケになったと思う。


(『アーロン収容所再訪』文庫版1988年 カバーのウラ)



『アーロン収容所再訪』は、ビルマでの体験以来、いわゆる「ビルキチ」(=ビルマ大好き人間のこと)になった著者が、26年後の1974年に1週間だけビルマを再訪した旅の紀行文である。

当時は、「ビルマ式社会主義」の名のもと、ネ・ウイン独裁が続いていた時代であった。単行本の出版は1975年であり、日本は公害など「高度成長」の負の側面が顕在化していた頃である。そのコントラストがあざやかな紀行文なのだが、この本が1988年に文庫化されたのは、「ビルマ民主化」が挫折し、軍事政権の時代へと大転換した年であったためだろう。

1988年当時は、わたしもまさか20年以上も軍事独裁が続くとは思いもしなかったのだが・・・

長くなってしまったが、『アーロン収容所再訪』がビルマ再訪がそのテーマであったことで、『アーロン収容所』もまたビルマについての本であったことを思い出したわけである。

高校時代は、ビルマといえば『ビルマの竪琴』などの粗雑な知識しか持ち合わせていなかったため、それ以上の関心が薄かったのかもしれない。

ついでにいうと、1970年の大阪万博は小学生の頃にいったが、あまりもの混雑のため、入館できたのはビルマ館やソビエト館、そしてベルギー館など人気のない(・・失礼!)ものばかりだった。アポロ宇宙船が持ち帰った「月の石」を見るために、子どもながら疲弊してしまった記憶もある。

ビルマ館は、龍の形をした建物であった。わたしにとってビルマ(=ミャンマー)は、1970年以来の「縁」ということになる。



■英国人、ビルマ人(=ミャンマー人)、インド人を知るための必読書

『アーロン収容所』を英国関連本であり、ビルマ関連本として読むとはどういうことか、具体的に著者自身の文章を引用しながら見ていってみよう。

その前に確認しておくべきことがある。著者は、日本が降伏後に捕虜になったので、戦闘中に戦争捕虜になったわけではない。捕虜収容所においての処遇には違いがあったらしい。

この作業のとき、私は奇妙な一群を見た。・・(中略)・・ 戦時中の捕虜、投降者たちである。それは、捕虜(キャプチャード)、または戦争捕虜(プリズナー・オブ・ウォー)、(戦犯者 クライムド ではない)として私たち降伏軍人(サレンダー・パーソネル)または非武装解除人(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)から区別され、中央監獄に収容されている人々であった。(P.72)

この事実はかなり重要なので、会田雄次の回想は、あくまでも「降伏軍人」(サレンダー・パーソネル)または「非武装解除人」(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)の立場からのものであったことを理解する必要がある。

まずは、英国人にかんする観察からみておこう。

彼女たち(=英軍の女性兵士)からすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。どうもそうとしか思えない。・・(中略)・・ もっとも私自身はあまり気にならなくなった。だがおそろしいことに、そのときはビルマ人やインド人とおなじように、イギリス人にはなにか別種の、特別の支配者であるような気分の支配する世界にとけこんでいたのである。(P.50)

1945年当時、いまだ大英帝国が植民地帝国であった時代のことであるから、現在ではさすがにここまではないだろう。だが歴史的ドキュメントとしての意味はある。

ヨーロッパ人には、いったん自分がとった重大な行動の責任は、どんなことがあってもなくならないとする考え方がある。また一度やりだしたことは都合が悪くなっても、いや悪いと思っても断じて曲げない方が立派で男らしいのだという考え方も、私たちの想像以上に強く広く根を張っているようである。(P.77~78)

この点にかんしてはヨーロッパ人もアメリカ人も同じではないだろうか。日本人の変わり身が早いこともまた変化はないようだが。

英軍の階級は社会秩序をそのまま反映しているといえる。とくに士官と下士官・兵との間には、これでも同じイギリス人かと思われるほどの差がある。士官はいわばホワイト・カラーであり、下士官・兵は労働者である。下士官・兵にもホワイト・カラーが少しはいるが、それは幹部候補生としてのそれではなく、下積み的な事務屋である。このこと自体は別に不思議ではない。近代国家のなかで日本だけが特殊なのである。・・(中略)・・ そのことはさておき、このような士官と下士官・兵の差、とくにその体格の隔絶といってよい決定的な相違は眼を見張らすほどのものであった。(P.111~112)

これは重要な指摘である。やや崩れたとはいえ、いまでも階級意識が強く残る英国はそのままあてはまるのではないか。労働者階級と中流階級、アッパーミドル、貴族はまったく異なるカテゴリーであり、相互に階級間移動はない。

文章や時の誤りは、ただそれだけのことだからよかったが、私たちを驚かせたばかりではなく大いに迷惑をこうむったのは、かれらの計算力である。・・(中略)・・ 三ケタの数を三回足したりすると大変である。何回やっても答えがちがうのには私たちの方が驚いてしまう。なかには「ヘーイ、ジャニイ」と私たちを呼びつけるのがいる。計算しろというのである。一回で計算してみせると、しきりに首をひねっている。・・(中略)・・イギリス兵のこういう能力の低さというものは私たちの想像の外である。私たちのうけた初等義務教育のゆきとどいていること、それもかなりの程度が高いもんであることは大いに誇りにしてもよいことではなかろうか。(P.116~118)

この点は、大学時代に富士山八合目でアルバイトしているときに多数かかわることになった米軍兵士とまったく同じである。とにかく単純計算ができないのだ! 

1945年当時の英軍兵士も、1982年当時の米軍兵士もまったく同じである。もちろん、日本人の計算能力は1962年当時とくらべると落ちているだろうが、それでも概して世界的には高い方だろう。

さて、ここから先は、英軍とともに行動してきたグルカ兵とインド兵についてみておこう。英国のグルカ兵は1997年の「香港返還」によって大幅に規模が縮小されたが、現在でもブルネイに駐屯している。ブルネイの旧宗主国は英国である。

私たちの看視兵にははじめの間ネパールのグルカ兵があてられていたが、半年ほどたってインド兵に代わった。グルカ兵は馬鹿正直で勇敢で規律正しく剛健愚直の見本みたいなもので、戦争中も第一線に立ち日本軍をさんざん苦しめた。看視兵としてもイギリス人にはまったく忠犬といった格好だった。(P.124)  戦闘中の敵歩兵の主力はかれらだった。さんざん悩まされた相手に終戦後はじめてお目にかかる。英軍など戦闘中見たことはないからあまり対面ばえがしなかったが、グルカ兵に出会ったときはまったくギクりとした。決戦場へもう一度つれだされたような妙な感じである。(P.33)

グルカ兵も、ビルマ人からはあまり好かれていなかったが、私たちには愛想のいいインド兵はビルマ人からは徹底的に嫌われていた。(P.130)

インドの兵制がどうなっているのか知らないが、大きくは宗教各派の信者別、地方別、カースト別に隊が異なっている。ほかに理由があるかもしれないが、いずれにしても他隊のものには大変不人情である。(P.132)

この当時はまだインドは英国の植民地でいまだ独立していなかったので、このようなマインドセットがあらわれていたのであろう。いわゆる植民地根性に近いものがある。

また、英領ビルマはもともと行政的には英領インドへの補給基地という位置づけでその一部であったので、植民地時代に大量にインド人が入植してきていたことも、ビルマ人の対インド人観を形成しているようである。

このほか重要な指摘も多々あるのだが、あまりにも多いのでインド人にかんしては引用はこれでやめておく。

最後にビルマ人について引用を行っておこう。きわめて根本的なものである。


ビルマの仏教は、ただこの国が僧侶の天下であり僧侶も又真面目であるというだけでなく、その精神が人びとのなかにこのように生きているということである。・・(中略)・・仏教の精神が本当に広く一般にしみこんでいたとすると、あとでいろいろ述べるビルマ人の行為は、この精神と関係あるように思える。(P.162)

こういったビルマ人に接することによって、著者もまた「ビルキチ」の一人となったのである。「ビルキチ」とは「ビルマきちがい」の略である。現在ならミャンマーおたく略して「ミャンたく」かしらん?

わたしがはじめてミャンマーに渡航した1997年、そのときはミャンマー投資ブーム期待のあった頃で、関西空港からヤンゴンまで全日空の直行便が飛んでいたのだが(・・近年また復活)、ガラガラの機内にいたのは「ビルキチ」とおぼしき日本人の老人ばかりであった。現在では生きていれば100歳近いので、「ビルキチ」生存者はもうほとんどいないだろう。

いまミャンマーに熱中している日本人には「ビルキチ」など無縁だろうが、こういう歴史もあったのだよ、と書き留めておきたいのである。相思相愛の関係だが、それは細々としたものであった。





■京都の知的風土から生まれ、さらに影響を与えたもの

『アーロン収容所』の著者・会田雄次氏の略歴を文庫版から引用しておこう。一部わたしが補足しておく。

1916年(大正5年)京都に生まれる。京都帝国大学史学科を卒業して、1943年(昭和18年)に応収、ビルマ戦線に送られ、戦後2年間、英軍捕虜としてラングーン(・・現在のヤンゴン)に抑留された。帰国後、神戸大学助教授をへて、京都大学教授(人文科学研究所)。専攻はイタリア・ルネサンス史。・・(以下略)・・

そう、会田氏もまた京都の知的風土のなかにいた人である。京都生まれの京都育ちの、ほんまもんの京都人である。

生態学者の梅棹忠夫や政治学者の高坂正堯(こうさか・まさたか)などもそうであったが、会田雄次もまた「京大派知識人」の一人でもあったわけであり、左派が幅をきかせてい「戦後知識人」のなかでは異色の存在であった。

しかもマキャヴェッリなどの研究者でもあった。イタリア・ルネサンス関連の会田雄次の本を読んだことはないのだが・・・(・・読んだのは塩野七生ばかり)。

いま書きながら重要なことを思い出した。『アーロン収容所』が一人称の「体験記」であることの積極的な意味についてである。著者は「まえがき」でこう書いている。

最後に一言お断りを。この本に書いたことは、できるだけ客観性を持たすためなるべく伝聞を避け、私自身の体験を主にした。「私」という言葉がすこし出すぎたようだけれども、そういう次第でご諒承いただければ幸いである。

高校時代、この一節の意味についてかなり考えたことを覚えている。「客観性」と「主観性」の関係についてであるが、客観性を担保するために主観的に書くという発想が、当時はなかなか飲み込めなかったのだ。理科系特有の「客観性信仰」のようなものだろうか(・・当時はまだ「理系」進学のつもりだった)。

だが、この一節の意味をアタマのなかで何度も何度も反芻(はんすう)するうちに、やっと納得することができたのである。それは「体験」と「伝聞」の違い、言い換えれば「一次情報」と「二次情報」の違いである。

さらに大学時代、現象学を学んで以後は、完全な「客観性」などあり得ないもので、しょせん「間主観性」(inter-subjectivity)に過ぎないのだという考えに達することができた。一次情報を語る「一人称としての私」は主観的であるが、主観性を離れた一次情報など存在し得ない。

これは認知科学の問題であり、量子力学における「観測問題」にもかかわってくるテーマなのである。観測者という「一人称としての私」にかかわる問題だ。

こういった基本的なことを考える出発点が、わたしにとっては高校時代に読んだ『アーロン収容所』だったわけだ。

先にあげた三冊の本のうち、『ソビエト帝国の崩壊』の著者・小室直樹は京大理学部数学科卒(・・博士号は東大から)、『ものの見方について』の著者・笠信太郎は朝日新聞論説委員であったが東京商大卒(・・専攻は西洋文明史)である。『アーロン収容所』の著者・会田雄次は言うまでもなく京大卒である。

こうやって振り返ると、わたし自身、無意識のうちに京都帝大(=京大)と東京商大(=一橋大学)の二つの流れに大きな影響を受けて知的形成してきたのだなあと、あらためて感じるのである。

観念論に傾斜しない現実主義、ある種の日本型プラグマティズムが貫いているといってよかろうか。戦後の知的社会を支配した、「左派の啓蒙思想」としての東大型思考とは異なる流れであったわけだが、現実主義やプラグマティズムはアメリカの専売特許ではなく、一般庶民の世界では当たり前といえば当たり前の「常識」的世界観である。

冷戦終結後も時代を超えてロングセラーとして生き残った理由は、ここにもあるというわけだ。

まだ読んでいない人は、ぜひ虚心坦懐に読んでみることをすすめたい。もちろん半世紀前のものだから、ところどころ突っ込みを入れながら読むことは必要だ。


 
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<関連サイト>

『アーロン収容所-西欧ヒューマニズムの限界-』(中央公論新社のサイト)



<ブログ内関連記事>

■ミャンマー(=ビルマ)関連

三度目のミャンマー、三度目の正直 (5) われビルマにて大日本帝国に遭遇せり (インレー湖 ④)
・・日本軍占領下のビルマで発行されたルピー軍票に書かれた大日本帝国の文字

「三度目のミャンマー、三度目の正直」 総目次 および ミャンマー関連の参考文献案内

「ミャンマー再遊記」(2009年6月) 総目次

ミャンマーで日本向けオフショア開発が有望な理由-それは日本語能力にある
・・二つの言語は、語順が同じなのだ


■大英帝国と植民地ビルマ、東南アジア

書評 『大英帝国衰亡史』(中西輝政、PHP文庫、2004 初版単行本 1997)-「下り坂の衰退過程」にある日本をどうマネジメントしていくか「考えるヒント」を与えてくれる本
・・中西教授も京大出身

『戦場のメリークリスマス』(1983年)の原作は 『影の獄にて』(ローレンス・ヴァン・デル・ポスト)という小説-追悼 大島渚監督
・・原作は南アフリカ出身の英国陸軍コマンド部隊大佐、ジャワ島の日本軍捕虜収容所を舞台にした日英の相克と奇妙な友情の物語。大島渚監督も京都出身で京大卒

原爆記念日とローレンス・ヴァン・デル・ポストの『新月の夜』
・・原爆投下による日本降伏によって捕虜収容所から生きて出ることができたと考える著者の回想録

「タイガーバーム」創業者の「タイガー・カー」(改造車)
・・大英帝国ネットワークとタイガーバーム。英領ビルマのラングーン(=ヤンゴン)に生まれた客家(ハッカ)の胡文虎はシンガポールでビジネスを成功させた


■白人と非白人の非対称的な関係

書評 『「肌色」の憂鬱-近代日本の人種体験-』(眞嶋亜有、中公叢書、2014)-「近代日本」のエリート男性たちが隠してきた「人種の壁」にまつわる心情とは

書評 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(松原久子、田中敏訳、文春文庫、2008 単行本初版 2005)-ドイツ人読者にむけて書かれた日本近代史は日本人にとっても有益な内容


■京都の「知的風土」-現実主義とプラグマティズム

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!
・・京都生まれの京都育ちの生態学者

書評 『海洋国家日本の構想』(高坂正堯、中公クラシックス、2008)-国家ビジョンが不透明ないまこそ読むべき「現実主義者」による日本外交論
・・京都生まれの京都育ちの政治学者

書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!
・・京都生まれの京都育ちの歴史家による封建制度論

書評 『知的生産な生き方-京大・鎌田流 ロールモデルを求めて-』(鎌田浩毅、東洋経済新報社、2009)-京都の知的風土のなかから生まれてきた、ワンランク上の「知的生産な生き方」
・・東京出身の京大名物教授

書評 『革新幻想の戦後史』(竹内洋、中央公論新社、2011)-教育社会学者が「自分史」として語る「革新幻想」時代の「戦後日本」論
・・佐渡島生まれで京大卒の京大教授が書いた「戦後日本」の知識人世界。「戦後」というのがいかに異様な時代であったかがよくわかる本

(2014年6月8日、2015年10月14日 情報追加)


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2014年3月8日土曜日

書評『未完のファシズム ―「持たざる国」日本の運命』(片山杜秀、新潮選書、2012)― 陸軍軍人たちの合理的思考が行き着いた先の「逆説」とは



これは面白い! これほど面白い本はひさびさに読んだ、という気にさせてくれる本だ。この『未完のファシズム ー「持たざる国」日本の運命』という本は。

最初から最後まで一気に読みたくなるほど巧みなストーリー構成、意表を突く視点に話題の数々。しかし、読みながらなんともいえない暗澹(あんたん)とした気持ちにもさせられる、そんな本である。

「未完のファシズム」なんていうと、日本ファシズムは未完成のまま現在に至っている、といったニュアンスなのかという印象を抱かないでもない。だが、著者が意味するところはそこにはない。日本では有史以来、国民が一丸となって事に臨んだことなどない、という歴史的事実を冷静に示した表現なのである。ファシズムとは、もともとイタリア語で束(たば)を意味するコトバからきている。

「軍国主義の時代」や「ファシズムの時代」とされてきた「戦争期日本」には、じつはファシズムは成立していなかった(!)のである。「ファシズム」というには、それはあまりにも「未完成」なものであった。明治憲法下の日本には、ファシズムを成立させる条件がなかったのだ。

明治憲法下においては、「独裁者」とされた東條英機首相(陸軍大将)ですら、戦争指導の実効性をあげるためには首相以外の複数の大臣を兼務するしか策がなかったのであり、「独裁者」というには程遠いのがその実態であった。同時代のヒトラーやムッソリーニ、あるいはスターリンといった「独裁者」たちとはまったく異なるのである。

「未完のファシズム」とはそういう意味でもある。


■陸軍軍人たちの「思想」

本書は、陸軍軍人という軍事官僚たちの「思想」を読み説いた本である。

軍事機密にかかわる軍人の思想は、なかなかまとまった形で文字として記されることはない。軍人は軍事官僚であるから、文官と同様、基本的にそのマインドセットは前例主義である。

なかには「世界最終戦論」という形でみずからの特異な思想を語った石原莞爾のような軍人もいるが、あくまでも例外的存在だ。

本書には、小畑敏四郎中将と中柴末純少将(なかしば・すえずみ)という陸軍軍人の思想を大きく取り上げられている。

小畑敏四郎という名前は、東條英機首相退陣後に表舞台にでてくるので目にすることがあっても、中柴末純という軍人とその思想については、本書を読むまでまったく知らなかった。

中柴末純という軍人思想家の軍歴と、その思想が導かれた道筋をたどり、その思想がもたらした結果を知ると、ほんとうに驚かざるをえないのである。

軍人とくに将校クラス以上は、技術エリートとして本来は科学精神にもとづいて合理的思考を行う存在である。中柴末純もまた数学的思考をベースにした工兵出身の将校であり、日露戦争にも出征している。

そんな合理主義の塊のような軍人が、なぜ極度の精神主義を振り回し自滅の道に突き進む先導役となったのか? この問いと、それに対する解答が本書を貫くテーマである。


■日本の陸軍軍人たちが第一次世界大戦から受けた衝撃

ことし2014年は、第一次世界大戦が勃発してからちょうど100年。日本でもさまざまな形で取り上げられることになるだろう。

だが、一般の日本人の認識においては、あくまでも「第二次」世界大戦の前哨戦としての「第一次」世界大戦というイメージが変わることはないのではないだろうか。

日本からみたら、遠い欧州が主戦場となった「第一次世界大戦」は、一部の軍人が戦死した以外は、国民が巻き込まれて犠牲になることながったため、どうしても印象が希薄となりがちなのである。それだけでなく、すべて「先の大戦」を基準にものを考えてしまいがちである。「先の大戦」は、戦死者310万人(うち民間人90万人!)という、日本と日本人にとっては、あまりにも悲惨で壊滅的な戦いであったからだ。

日露戦争(1904~1905)の勝利におごった日本は、第一次世界大戦(1914~1918)を体験しなかったために教訓を得ることなく第二次世界大戦に突入し、その結果、見るも無残に惨敗した。日本国民は大東亜戦争を熱狂的に歓迎したつけを払うことになったのである。

国力のすべてをかけて日露戦争を戦った日本は、戦争目的を限定していたため、かろうじて講和条約にもちこみ、からくも敗戦を免れたというのが真相である。合理的思考を旨とする軍人なら、この事実は当然のことながら理解していたのである。

ここまでは『坂の上の雲』などの「国民文学」をつじて司馬遼太郎が流布させた「常識」でありけっして間違っているわけではない。だが、ここから先は、司馬遼太郎は「明治の先人たちに比べて昭和の軍人は・・・」といった嘆き節になってしまう。

著者はこの見解に異議を唱えている。それが本書全体に流れる主旋律である。

じつは軍人たちは、第一次世界大戦にきわめて大きな衝撃を受けていたのである! この点を全面的に取り上げたことが本書の最大の成果だろう。日本人の認識を一変させる可能性もあるからだ。

「世界大戦」が「総力戦」であり、そのたった10年前(!)の日露戦争がその「総力戦」のはじまりであったことは、同時代人の世界中の軍人にとっては常識であった。もちろん、日本の軍人も例外ではなかった。いやむしろ、当事者として日露戦争を体験していた日本の軍人にとっては、20世紀の戦争が一国の科学力と生産力を総動員した「総力戦」となることは十二分に理解できることだったのである。だからこそ陸軍は、第一次世界大戦を徹底的に研究し、膨大な研究成果を蓄積したのである。

当時ドイツ領であった青島(チンタオ)攻略作戦は、日本陸軍がかかわった数少ない実戦の一つあるが、勝敗を決したのは日露戦争のときのような肉弾戦ではない。大砲の火力によってドイツ軍を圧倒したのであるという著者の指摘もじつに新鮮である。つまり、日本陸軍は日露戦争の経験から大いに学び、軍事面においては「近代戦」を徹底させたのである。

だが、火力に依存した戦争を長期にわたって継続する能力が不可能なことが、財政という国力からみて明らかなことは、合理的思考を旨とする軍人には十分に理解できたのであった。

悲しいかな、それが「持たざる国」の限界であった。「持たざる国」として、国際社会において「持てる国」と対峙しなくてはならない新興国・日本。

この意味を肌身をつうじて理解していた日露戦争後の日本軍人にとって、4年間という長期にわた継続した「総力戦」、言いかえれば国力のすべてを動員した「消耗戦」であった第一次世界大戦の衝撃がいかに大きなものであったか、イマジネーションを働かせれば現在の日本人にも理解できないことではない。


■「持たざる国」日本という認識ゆえに・・

では「持たざる国」日本は、いかなる道を歩むべきであったのか? 道は二つあった。

一つ目の道は、財政負担の観点から国民を疲弊させず、あくまでも身の丈にあった範囲で勝てる見込みのある戦いしかしないという保守的な現状維持志向。陸軍内部では「皇道派」と呼ばれていた軍人たちの思考である。直接の関係はないが、経済ジャーナリスト石橋湛山が主張した「小国主義」にも通じるものがある。

もう一つの道は、「持てる国」に対抗するために、自らが「持てる国」を目指し、そのためは無理にでも背伸びして国力を増強させる未来志向。陸軍内部では「統制派」と呼ばれていた軍人たちの思考である。「大国主義」である。特異な宗教的ビジョンを発想の根底においていた思想派軍人・石原莞爾は、軍事大国建設のための経済基盤を満洲に求めて満洲事変の主導者となる。

いずれも合理的な選択である。ちなみにここに引き合いにだした石橋湛山も石原莞爾も、ともに日蓮信仰の持ち主であったが、その方向性は真逆であった。

ワシントン条約における海軍軍縮に憤慨したことに端的にあらわれていたように、国民の多くは日本が「小国」であることを受け入れようとしなかった。閉塞感のつよまる社会では「内にこもる選択」よりも「外に打って出る選択」が好まれるということだろう。

関東軍による満洲事変とその後の満洲国建設が国民に支持された理由も、閉塞感の打破が期待されたからだろう。過去にこだわるよりも、未来に賭ける志向。戦前においては右派こそ「革新」の担い手であった。

失敗に終わったクーデターであった二・二六事件の結果、陸軍内部では現状維持派の「皇道派」がパージされ、拡大路線の「統制派」が陸軍中枢を握ることになった。その結果、なし崩し的に戦争へとなだれこんでいくことになる。

大東亜戦争に踏み切ったのは「ABCD包囲網」によって追い詰められたという側面もあるが、拡大路線に必要な資源とエネルギーを求めて南進したことが英米を中心に警戒を招いたことは否定できない。みずから播いたタネであったのだ。

「持たざる国」日本の軍人は、当然のことながら日米の国力と軍事力の大きな格差を数字で認識していた。だが、戦争に踏み切った以上、「持たざる国」日本には「有形」の資産は人間しかいない。この有形の資産をフル稼働させるために「無形」の精神力が強調されることになる。合理的思考をつきつめたがゆえに、活路は非合理的な神懸かりにしか求めることしかできなかった理由はここにあったのだ。

「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」という『戦陣訓』は、「撃ちてし止まん」という敢闘精神は死に物狂いの万歳突撃を生み出し、そしてついには合理的な観点からはまったく意味のない総攻撃による全滅を、「玉砕」というレトリカルな美辞麗句で飾って称賛するまでにいたる。

一度はじまった戦争は自動機械のように自ら止めることがでず、一般市民を大量に巻き込んで犠牲にすることで、「総力戦」としての戦争は壊滅的打撃を受けた結果ようやく終わることになる。

この代償がいかに巨大なものであったかは、あえて語るまでもないことだ。


■「逆説(アイロニー)の日本近現代史」

本書は、むしろ「逆説(アイロニー)の日本近現代史」とでもしたほうがよかったかもしれない。

合理的思考をつきつめたがゆえに、活路は非合理的な神懸かりにしか求めることしかできなかったという逆説。合理信仰が非合理主義を生み出したのはフランス革命であったが、「反対物の一致」というフレーズも想起する。

「持たざる国」日本は、あまりにもムリにムリを重ね、破綻すべくして破綻したのである。目標を設定して成長していくこと自体に問題はない。だが、身の丈を無視してたあまりにも無茶な拡大は、大きな禍根をもたらす危険も抱えている。

この教訓を日本人は個人としても、また国民全体としても共有しなくてはならないのだが・・・・

ぜひ読むことを薦めたい。読めば必ずや認識が変わることは間違いない力作である。


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目 次

はじめに
第1章 日本人にとって第一次世界大戦とは何だったのか
第2章 物量戦としての青島戦役-日本陸軍の1914年体験
第3章 参謀本部の冷静な『観察』
第4章 タンネンベルク信仰の誕生
第5章 「持たざる国」の身の丈に合った戦争-小畑敏四郎の殲滅戦思想
第6章 「持たざる国」を「持てる国」にする計画-石原莞爾の世界最終戦論
第7章 未完のファシズム-明治憲法に阻まれる総力戦体制
第8章 「持たざる国」が「持てる国」に勝つ方法-中柴末純の日本的総力戦思想
第9章 月経・創意・原爆-「持たざる国」の最期
主要参考文献
あとがき

著者プロフィール

片山杜秀(かたやま・もりひで)
1963年生まれ。思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。慶應義塾大学法学部准教授。著書に『音盤考現学』、『音盤博物誌』(ともにアルテスパブリッシング、この2冊で吉田秀和賞、サントリー学芸賞を受賞)、『近代日本の右翼思想』などがある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに情報追加)。



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書評 『国の死に方』(片山杜秀、新潮新書、2012)-「非常事態に弱い国」日本を関東大震災とその後に重ね合わせながら考える


■じつは「集団主義」とはほど遠い日本人

日体大の『集団行動』は、「自律型個人」と「自律型組織」のインタラクティブな関係を教えてくれる好例

アムンセンが南極に到達してから100年-西堀榮三郎博士が説くアムンセンとスコットの運命を分けたチームワークとリーダーシップの違い

* ラグビーのスローガン "One for All"(一人はすべてのために) がよく引用されるが、日本人の大半はこのフレーズにつづくものを失念している。それは "All for One"(すべては一人のために) というものだ。"One for All, All for One" と相まってはじめて「個人主義」と「集団主義」が両立することを知らねばならない。これがアングロサクソン発想であり、個人主義の国ほどいざという非常事態に底力を発揮する秘密がここにある。だから、個人主義の確立していない日本人は、いざというときにまとまらないのである。小異を捨てて大同につくというフレーズがたんなるレトリックに終わってしまうのであえる。


■戦争を選んだ日本人

書評 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子、朝日出版社、2009)-「対話型授業」を日本近現代史でやってのけた本書は、「ハーバード白熱授業」よりもはるかに面白い!

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庄内平野と出羽三山への旅 (2) 酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性
・・石原莞爾と大川周明

『王道楽土の戦争』(吉田司、NHKブックス、2005)二部作で、「戦前・戦中」と「戦後」を連続したものと捉える


■美辞麗句に騙されないために

スローガンには気をつけろ!-ゼークト将軍の警告(1929年)
・・軍人(=官僚)社会における「標語」(=スローガン)もまた目くらましだ。第一次大戦で敗戦後のドイツ参謀本部のトップをつとめ、ヴェルサイユ条約で弱体化させられたドイツ国防軍の再建を果たした知将ゼークト将軍(1866-1936)の著書、『一軍人の思想』(篠田英雄訳、岩波新書、1940)」

水木しげるの「戦記物マンガ」を読む(2010年8月15日)
・・「玉砕」という美辞麗句

スワイン・フルー-パンデミック、すなわち感染症の爆発的拡大における「コトバ狩り」について
・・BSEというコトバは、「科学的表現」を装った「目くらまし」である

「TPP」 という 「めくらましコトバ」 にご用心!
・・「略語」という目くらまし

書評 『岩倉具視-言葉の皮を剝きながら-』(永井路子、文藝春秋、2008)
・・「歴史用語」という決まり文句を使うことは、その時点で思考停止状態をもたらすだけだ。多くの歴史家がそのワナにかかっている。著者は「言葉は虚偽の衣装を身に纏う曲者(くせもの)である」という考えのもと、「尊皇攘夷」、「佐幕」、「王政復古」、「明治維新」といった歴史用語をいっさい使用せずに記述を進める

書評 『醜い日本の私』(中島義道、新潮文庫、2009)-哲学者による「反・日本文化論」とは、「世間論」のことなのだ
自分が見たくないものを見ないことにしてしまうという日本人の精神衛生上の知恵がマイナスに働くのが非常時・・


■世界の「小国主義」

「小国」スイスは「小国」日本のモデルとなりうるか?-スイスについて考えるために


■未来を切り開くために近現代史を総括する

書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか? ・・社会科学の分野では小室直樹と双璧をなすと、わたしが勝手に考えている湯浅赳男氏。この本は日本人必読書であると考えているが、文庫化されることがないのはじつに残念なことだ

書評 『田中角栄 封じられた資源戦略-石油、ウラン、そしてアメリカとの闘い-』(山岡淳一郎、草思社、2009)-「エネルギー自主独立路線」を貫こうとして敗れた田中角栄の闘い
・・「エピローグ 「持たざる国」の選択」として原子力を選択した日本

書評 『持たざる国への道-あの戦争と大日本帝国の破綻-』(松元 崇、中公文庫、2013)-誤算による日米開戦と国家破綻、そして明治維新以来の近代日本の連続性について「財政史」の観点から考察した好著
・・陸軍軍人の経済オンチが招いた大東亜戦争の破局

(2014年7月22日、8月7日 情報追加)


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2009年12月28日月曜日

秋山好古と真之の秋山兄弟と広瀬武夫-「坂の上の雲」についての所感 (2) 



    
 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」については、私はやや否定的なニュアンスで書いてきたが、これは歴史的な文脈を考えて視聴するべきであると考えるからである。
 ドラマ自体はよく出来ている、と評価したい。私も楽しみながら第一部は全部見てしまった。

 何はともあれ、昨日(12月28日)の放送で第一部が終了、第二部は2010年末、第三部は2011年末とたいへん気の長い話である。
 これだけ長期にわたるTVドラマ作成というプロジェクトは、製作する側からみてもたいへんなことだろう。何よりも、主役を演じる俳優たちが、きちんと自己管理してもらわないと、大きく支障を来すからだ。
 とくに前半の主役三人、すなわち秋山好古、秋山真之の秋山兄弟と同郷の正岡子規。それから後半は、秋山兄弟に加えて広瀬武夫、である。
 第一部ではまだ正岡子規は、結核からきた脊椎カリエスに苦しみながらも、まだ養生を続けており死去するには至っていない。撮影はそのうち終わるから、正岡子規役の香川照之はじきに解放されこととなろう。
 広瀬武夫も日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死して「軍神」となって途中で消える。秋山兄弟は最後まで残ることになる。

 そうそう思い出したが、司馬遼太郎の問題はもう一つある。秋山真之についてである。
 「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」の信号とともにZ旗(写真参照)を掲げ、東郷平八郎率いる日本艦隊がパーフェクトゲームとなった日本海海戦を立案した秋山真之参謀は、ビジネスマンから見れば、三国志の諸葛孔明以来の天才参謀といわねばならないのだが、彼は日露戦争後、精神に異常を来したという事実にいっさい触れていないことである。
 日本という「小さな国」がその存亡をかけて戦った日露戦争は、まさに死力をかけて死にもの狂いで戦った戦争である。1948年の建国以来、四面楚歌の状態にあるイスラエルにも比すべき状況であったのだ。いつ国が滅びて植民地化されるかわからない状況であった。
 だから、原作の末尾、故郷松山に戻って中学校校長として生涯を送った、最晩年の秋山好古が死の床で、ロシア軍の最強コサック騎馬軍団との死闘がフラッシュバックとして甦り、うなされていたというのも大いに頷ける話である。司馬遼太郎はこれについては多く語っている。
 しかしながら秋山真之の晩年については多く語ることをしていない。これが残念なのである。小説の構成上仕方がないといえばそれまでなのだが。
 人生の暗い面からひたすら目を背け続けた「国民作家」司馬遼太郎、彼を国民作家といい、「司馬史観」などともてはやしていては、日本人は進化しないだろう。


 さて、本題は司馬遼太郎ではない。比較文学者・島田謹二による秋山真之(1868-1918)の伝記と広瀬武夫(1868-1904)の伝記である。私としては、便乗本である各種の粗製濫造の解説本よりも、島田謹二の伝記2本を腰を据えて読んで欲しいと思うのである。
 それぞれのタイトルは、『アメリカにおける秋山真之 上下』(朝日選書、1975)、『ロシヤにおける広瀬武夫 上下』(朝日選書、1976)である。
 いずれも、文学研究者による比較文学の研究書であり、原資料をして語らしめるという手法を使っているので、正直いって読みやすい本ではない。 明治の漢文体による書簡は極めて読みにくい。しかし明治の、本当の意味で国の命運を背負っていたエリート軍人たちの肉声を聞くことができる意味では貴重である。

 秋山真之の伝記は文庫化もされたようなので、気軽に手にとって読めるようになったことは喜ばしい。もし根気があれば、司馬遼太郎の原作と読み比べてみるのもよいだろう。
 秋山真之が戦艦三笠から発した艦隊出撃報告電報「本日天気晴朗ナレド波タカシ」は後世に残る名言となった。これほど簡潔に表現した文章力は、島田謹二ならずとも、文学作品といわねばなるまい。

 広瀬武夫の伝記の「武骨天使伝」という副題が泣かせる。もうかなり昔のことだが、たまたまNHKのラジオ・ドラマで、異色の画家としても知られる、俳優の米倉斉加年(よねくら・としかね)の語りによるドラマであった。このドラマで広瀬武夫のことを知ったのである。
 ロシアの貴族令嬢との恋、しかし軍人の広瀬は旅順項封鎖戦で戦死・・・というメロドラマ調のものだったが、これがきっかけで島田謹二の分厚い伝記文学を読むキッカケとなった。

 島田謹二による、明治の海軍軍人二人の伝記は、発展途上国あるいは後進国においては、軍事官僚が数少ない知的エリートなのである(!)ということを教えてくれた本である。
 初版が出版された当時はもとより、朝日選書から廉価版がでた1970年代当時は、非現実的な「非武装中立論」などという妄論が幅をきかせていた時代であり、そんな時代に出版された、あえて軍人を称揚した伝記は、毀誉褒貶相半ばであったときく。
 以来40年近くを経て、日本もずいぶんマシになったといえるだろう。しかしながら、いまだに「平和主義」を主張して、連立政権内で妄論を吐いている女性弁護士もおり、リアリズムからまた距離が遠くなった現在の日本国ではあるが。

 明治の日本は後進国であり、発展途上国であった、という事実、この事実を知ったうえで、現在の発展途上国を見つめれば、いたずらに米国や欧州のような居丈高な態度はとれないはずだ。
 東南アジアの軍事政権による開発独裁も、そういった眼で見ることも必要であろう。国家草創期の人的資源には数量的に限界があるためだ。現在では中進国の韓国も同様のプロセスをたどっている。

 しかし、何度も繰り返すが現在の日本は先進国である。貧富の格差が拡大しようが、発展途上国における貧富の格差とは性格を異にする。
 長期スパンでみたGDPの推移のグラフなどをみてみればよい。たとえば、ネット上にはこんなものがある。
 日露戦争当時(1904年)の日本とは、まるで別の国といってよいだろう。

 今後間違いなく、日本は下降局面、すなわち「下り坂」になるが、そうはいっても緩やかな下り坂であるはずだ。
 もちろんGDPや、一人あたりGDPでは個人個人の実感とは違うことはあるだろう。これらの数値はあくまでも平均値であり、格差拡大により大幅に所得が減少している人も少なからずいるからだ。
 資本主義を選択し、上り坂にあった明治時代もまた、格差が拡大した時期である。明治後期から大正時代にかけて労働運動が激化したことを想起しなければならない。明治末期の大逆事件という冤罪、治安維持法のもとにおける、特高による社会主義者拷問などなど。
 こんなことを考えれば、言論の自由の保障された戦後日本は天国のような世界ではないか。戦前に比べたら、はるかにマシな状態であると思わねばならない。

 「下り坂」をうまく下るスキル、これは真剣に考えなければならない国家的プロジェクトではないか。もちろん個々人が取り組むべき課題ではある。
 「上り坂」は息が切れれるが怪我をすることは普通はない。しかし「下り坂」は全身で注意しなければ本当に危険である。いかに安全に下っていくか、これこそ先進国日本の大きな課題であり、チャレンジすべき目標である。
 「昇龍」は中国にまかせておけばよい。しかしその中国も天下をとれるのはたかだか30年、いや20年もないかもしれない。驕れる者も久しからず。これは中国も例外ではないであろう。

 これからの世の中、日本人は決して右顧左眄(うこさべん)することなく、気概をもって我が道を行け! これこそ幕末の志士や、明治の先人たちから受け取るメッセージではないか!?
 ドラマでも一部みられたが、秋山好古も秋山真之も広瀬武夫も、現在の観点からみたら間違いなく奇人変人の類といってもいいすぎではない。彼らはその当時にあっても奇行で知られていたようだ。

 「百万人といえど、我ひとりゆかん」の気概で生きていきたいものである。


P.S.
 ところで、この投稿をもってマイ・ブログ「つれづれ なるままに」への投稿はは201本目となった。
 何事であれ「継続は力なり」と実感している。
 次は300本を目指して書き続けていこう。ネタが尽きることはない。

      
<ブログ内関連記事>

NHK連続ドラマ「坂の上の雲」・・・坂を上った先にあったのは「下り坂」だったんじゃないのかね?  

書評 『明治維新 1858 - 1881』(坂野潤治/大野健一、講談社現代新書、2010)・・「発展途上国」であった明治日本






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