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2010年2月28日日曜日

書評 『外国語を身につけるための日本語レッスン』(三森ゆりか、白水社、2003)-日本語の「言語技術」の訓練こそ「急がば回れ」の外国語学習法!




日本語の「言語技術」の訓練こそ「急がば回れ」の外国語学習法! 「論理的思考能力」の基礎づくりにもなる実践的トレーニング法

 本書は、「急がば回れ」の外国語取得法である。というよりも、論理的な日本語を使いこなすためのトレーニング法として、きわめて有用な実用書になっているといっていい。

 多くの日本人が、単語や文法を覚えても、英語をはじめとする外国語を使いこなせないのはなぜか? それは、第一言語である母語であるのにかかわらず、日本語の基礎が自分が思っている以上にあやふやだからである。第二言語である外国語が、母語である日本語の能力以上になることはありえないのだ。逆にいえば、日本語をきちんと鍛えられれば、外国語を使うための基礎ができあがったことになるのである。だから「急がば回れ」なのだ。

 著者によれば、欧米の「言語教育」は、「言語技術」と「読書技術」の二本柱から成り立っているという。前者の言語技術とは、自分の得た情報を伝達するための技術のこと。後者の読書技術とは、情報を受信して分析して解釈し、批判的考察を加えて自分独自の考えを構築するための技術のことで「クリティカル・リーディング」ともいう。

 本書で中心に扱われるのは「言語技術」(language arts)、あるいは「コミュニケーション・スキル」とよばれる技術だ。欧米では言語習得は、後天的に、訓練によって獲得される「技術」(スキル)であると考えられている。たとえ欧米人であっても、適切な言語技術の訓練がされていなければ、筋道立った会話をすることができないのだ。だから、欧米では言語教育は、あくまでも技術教科として実施されているという。

 著者は第一章「外国語と日本語の違いを意識する」で、1.説明の技術、2.描写の技術、 3.明確にいう技術、 4.質問の技術、5.返答の技術、6.分析の技術、のそれそれについて、具体的な事例をとりあげて、日本人の言語技術能力(のなさ)について検証しているが、これらを読んでいると、驚きを通り越してあきれかえるばかりか、少し寒くなってくるはずだ。ぜひ目をとおしてほしい。

 日本人は、いわなくても察してもらえるはずだという主観的な思い込み、別のいい方をすればいわゆる「甘え」を無意識の前提としていることが多い。お互い真意がわからなくても、なんとなく会話が成り立っていることも少なくない。しかし、英語を含めた欧米語の世界では、それは「コミュニケーション」とはみなさないのである。ふだんの日本語の発想で表現しても相手には伝わらないのである。  

 そのために必要なのが、主語を明確にすること、主観的な意見と客観的な事実を区別すること、質問を具体的にして的確な答えを引き出すこと、結論を先にいってから根拠を示すこと、である。これは著者のいうように「翻訳できる日本語」といっていいだろう。これに、ナンバリング(numbering)ラベリング(labeling)といった説明の技術を使うことによって、説明能力は飛躍的に向上することになる。

 著者が実践をつうじて練り上げてきた言語技術のトレーニング法が、本書では「対話の技術」と「説明の技術」について具体的に紹介されている。こうしたトレーニングを生活習慣化していけば、外国語の習得が最終目的ではないにしても、少なくとも日本語で論理的なコミュニケーションができるようになるはずだ。

 「言語技術」強化のためのこのトレーニング法は、すでに日本サッカー界では正式に採用されて効果を上げている。子どもだけでなく、すでに大人になった人もこの言語技術を身につければ「ロジカル・シンキング」で苦労することもなくなるだろう。私自身、従業員向けの研修で徹底的に行ってきた内容そのものである。

 熟読した上で、大いに活用してほしい。


<初出情報>

■bk1書評「日本語の「言語技術」の訓練こそ「急がば回れ」の外国語学習法! 「論理的思考能力」の基礎づくりにもなる実践的トレーニング法」投稿掲載(2002年2月27日)






<書評への付記>

「言語技術」は基礎の基礎、これは反復トレーニングを繰り返すことでしか習得できない性格のものだ

 「外国語を身につけるための」にはあまりこだわることはない。この本で説かれているのは、日本語を論理的に使いこなすための「言語技術」(コミュニケーション・スキル)の訓練法についてである。

 日本語の「言語技術」が向上すれば、おのずから外国語学習も容易になる。しかしそれだけでは不十分なことはいうまでもない。外国語の単語と文法を身につけなければならいのは当然だ。

 私がかつて、ある中小企業にナンバー・ツーの取締役として迎えられたとき、驚いたのは営業担当の従業員たちの現状であった。彼らは営業トークはできるのだが、会議の場できちんと筋道たてて自分の考えることを表現できない、対話になっていない、説明ができていないという状況だったのだ。

 これは多かれ少なかれ、日本企業ではどこでも出会う現象であって、けっして中小企業だけに限ったものではない。大企業でも同じような問題があるのだ。一言でいってしまえば、内輪のコトバでしかしゃべれないという問題である。

 これはいかんな、「自分の頭で考えて、自分で行動できる人間」に変身させないと、本当の意味で優良企業に変身させるなんて夢のまた夢だ。組織内に「暗黙知」は蓄積されていて、それがバランスシートには現れてこない「無形資産」として優位性を作り出しているのだが、いかんせん「形式知」に変換されていないので、まったくの新人にワザを伝承できないし、異なるエリアどうしでの情報交換も実のあるものになっていないいのではないか。何よりも、顧客にきちんと商品特性を説明できているのだろうか、と。

 そんなときに出会ったのが、出版されたばかりのこの本である。私の問題意識にジャストミートした内容であった。そのときは、中身をしっかり読んだわけではなかったのだが、著者のコンセプトには全面的に賛同を感じたので、直接テキストにしたわけではないが、エッセンスは「従業員研修」という場を作ることによって、さまざまな試みを開始したのである。

 私が研修の場をつうじて、また普段からクチうるさく指導してきたのは、まさに本書の内容そのものであるといってよい。これは今回、隅から隅まで読んでみて確認したことである。

 おかげで、いまではそんじょそこらの大企業の中堅社員にも負けない、自身に満ちた優秀なビジネスパーソンになっている。とくに中小企業は人材こそ命であり、現在では胸をはっていいくらいに成長したのである。何事もやればできる!

 さらにいっておくと、本書に説明されている日本語の「言語技術」を完全にマスターしていない限り、いま流行の「ロジカル・シンキング」研修を受けても、あまり効果はない、といってもいい過ぎではない。「言語技術」の基礎の上にたって、はじめて「ロジカル・シンキング」も生きてくるのである。

 そして、蔭山英夫の「百マス計算」や漢字の書き取りではないが、基礎の基礎というものは、ひたすら反復トレーニングを繰り返す以外に、習得は不可能である。これはスポーツとまったく同じである。

 その意味で、本書はうまく使えば、「論理的思考能力」の基礎づくりにもなる実践的トレーニング法として大いに活用できるのである。ぜひ徹底的に活用して欲しいものだ、と感じている。

 ちなみに、書評『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(田嶋幸三、光文社新書、2007)で日本サッカー界の現状の取り組みについて取り上げたが、田島幸三氏によって「言語技術」強化の講師として招聘されたのが、本書の著者である三森ゆりか氏であることを付け加えておこう。


<参考サイト>

つくば言語技術教育研究所(三森ゆりか氏が主催する「言語技術」教室)

JALの現役パイロットが特別指導! 会議が劇的に早く終わるコミュニケーション術 (ダイヤモンド・オンライン編集部、 2015年7月7日)
・・「言語技術」の企業への応用

(2015年7月7日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

書評 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(田嶋幸三、光文社新書、2007)

「人生に成功したければ、言葉を勉強したまえ」 (片岡義男)
・・アメリカのエリート教育

書評 『言葉でたたかう技術-日本的美質と雄弁力-』(加藤恭子、文藝春秋社、2010)
・・アメリカのエリート教育

書評 『言葉にして伝える技術-ソムリエの表現力-』(田崎真也、祥伝社新書、2010)-ソムリエの説く「記憶術」と「言語技術」の本は、万人に役に立つ、思想をもった実用書だ

いかにして異なる業種業界や職種間、また組織内の異なる機能間で「共通言語」と「コンテクスト共有」によるコミュニケーションを可能とするか

書評 『小泉進次郎の話す力』(佐藤綾子、幻冬舎、2010)
・・スピーチ

書評 『思いが伝わる、心が動くスピーチの教科書-感動をつくる7つのプロセス-』(佐々木繁範、ダイヤモンド社、2012)-よいスピーチは事前の準備がカギ!

(2015年7月7日 情報追加)





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2010年2月27日土曜日

コトバのチカラ-『オシムの言葉-フィールドの向こうに人生が見える-』(木村元彦、集英社インターナショナル、2005)より




いまさらあえて私が付け加えることはないと思いながらも、あえてこの『オシムの言葉-フィールドの向こうに人生が見える-』(木村元彦、集英社インターナショナル、2005)の紹介を書くのは、この本の内容がノンフィクションとして素晴らしいことはいうまでもないが、なんといってもイビツァ・オシム(1941-)という一人の男の人生からにじみでるコトバ、人生哲学が凝縮したコトバ、コトバというものに対するオシムの考え方について、深く感じ入ることが多いためだ。

 オシムが日本代表監督に就任した際に購入したこの単行本、買ってからすでに4年以上たっている。その間、脳梗塞で倒れて生死の境をさまよったのち、奇跡的に生還するということもあった。この監督のもとで日本代表チームがワールドカップにいくものだと思っていたのに・・・

 オシムがコトバについて敏感な理由は、ユーゴスラビア代表監督時代の1992年、ユーゴ解体時の悲惨な内戦を経験しているからである。

 多民族国家ユーゴスラビアから実力本意で代表選手を選出したオシムには、各民族のナショナリストからの圧力が凄まじかったらしい。この経験から次のようなコトバがクチにされることになる。

言葉はきわめて重要だ。そして銃器のように危険でもある。私は記者を観察している。このメディアは正しいのか。ジェフを応援しているのか。そうではないのか。新聞記者は戦争を始めることができる。意図をもてば世の中を危険な方向に導くことができるのだから。ユーゴ戦争だってそこから始まった部分がある(P.38)。

実は発言に気をつけていることがある。いまの世の中、真実そのものをいうことは往々にして危険だ。サッカーも政治も日常生活も、世の真実には辛いことが多すぎる。だから真実に近いこと、大体真実であろうことをいうようにしているのだ(P.38)


 大学で数学を専攻し、論理的思考能力にたけていたイビツァ・オシムは、親の希望で大学教授か医学の道に進むことを期待されていた。しかし彼は、親の思いを振り切って、あえてプロサッカー選手という、きわめてリスクに満ちた人生を選んだ男だ

 サッカーにおいても、あえてリスクを取って攻めるサッカーを選択し、世界的に名の通ったクラブチームからオファーがあっても断り、日本のJリーグの、しかも弱小チームであったジェフ千葉を選んだ男でもある。

 「本当に他人の評価や、メディアの賞賛に興味がない、反俗的な本質追究の人」と著者の木村氏が単行本あとがきで評しているが、私はこれに付け加えて、オシムの人生哲学は、「リスクを取ること」こそが、もっとも「リスキーではない」人生であることを示している、といっておきたい。


 日本人選手に対する苦言をまず読んで欲しい。私も含めて、大いに反省したい内容だ。

日本人は平均的な地位、中間に甘んじるきらいがある。野心に欠ける。これは危険なメンタリティーだ。受け身過ぎる。(精神的に)周囲に左右されることが多い。フットボールの世界ではもっと批判に強くならなければ(P.37)


 モチベーションの上げ方についての姿勢とコトバもまた傾聴に値する。オシムは心理学者でもある。内発的動機を何よりも重視している。

特定の法則があるわけではないから、どういう方法とは一概にいえない。常に考えているのは、選手たちの「勝ちたい」、「克ちたい」という強い気持ちを、目覚めさせることなんだ(P.126)

モチベーションを高める方法なんて何千通りもある。それぞれ違うのだ。・・(中略)・・試合の前とかにはほとんんど戦術の話はしない。モチベーションを上げるのに大事だと思っているのは、選手が自分たちで物事を考えようとするのを助けてやることだ。自分たちが何をやるのか、どう戦うのかを考えやすくしてやる。・・(中略)・・まずは自分たちのために、自分のやれることをやり切るということが大事だという話をする。次に、対戦相手が自分たちと試合するに当たって何を考えて臨んでいるかということを思考させる、そういう話をする(P.182-183)


 とにかく自分で考えること」が重要だ。

同時にサッカーにおいて最も大切なものもアイデアだ。アイデアのない人間もサッカーはできるが、サッカー選手にはなれない。でもアイデアは練習だけでは身につかない。鍛えられない。バルカン半島からテクニックに優れた選手が多く出たのは、生活の中でアイデアを見つける、答えを出していくという環境に鍛えこまれたからだろう。さらにいえば、ある選手が、そういったアイデアを身につけているかどうかは、サッカーのプレーを見なくても、普段の言動をみていれば予想できる(P.43)


 そして考えたことを着実に実行するために、つねに準備を怠らないこと、そのために身体技術の基礎である走り込みを選手に求めている。これは有名な語録だが、あえて再録しておこう。

ライオンに追われたウサギが逃げ出すときに、肉離れをしますか? 要は、準備が足りないのです(P.28)

 
 戦術については知り尽くしていながら、けっして戦術に頼らない采配

サッカーとは戦術が一番だと思っている監督がいるかもしれない。しかし私はムービングこそが、最も重要だと思っている」(P.122)

トレーニング方法でいえば、教師がこういうメニューがある、と黒板に書いた段階ですでに過去のものになっている。練習メニューというものはそれだけ毎日進化し、変化するものだと私は思っている」(P.48)


 カネにまかせて最強選手をスカウトして集めたところで、最強のチームになるわけではない。

 これはサッカーでも、企業組織でも同じことだ。経営学のコトバを使えば、「リソース(資源)ベースの戦略」というやつだ。人的資源、すなわちいまいる選手のチカラをいかに引き出して最強のチームを作り出すかが重要なのだ。オシムはそれをジェフユナイテッド市原(・・現在のジェフ千葉)でやってのけた。

ジダンやベッカムやロナウドやいろんな人間を集めても、じゃあ彼らのために誰が走るんだ?(P.120)

システムはもっとできる選手から自由を奪う。システムが選手を作るんじゃなくて、選手がシステムを作っていくべきだと考えている。チームでこのシステムをしたいと考えて当てはめる。でもできる選手がいない。じゃあ、外から買ってくるというのは本末転倒だ。チームが一番効率よく力が発揮できるシステムを選手自身が探していくべきだ(P.121)

年俸の差にかかわらず、選手は全員同じ選手なのだから、皆、対等に平等に接するのが普通だろう。大体、選手の中で自然とランクやキャラクター分けがされるものだ。・・(中略)・・平等に見るということは自分をフラットにするということでもある。もちろん監督だって完璧じゃない。そのことを自覚した上で選手を見ている(P.206)



 そして選手に対しては、何よりも自分で考えることを求める。そのためには失敗を恐れず、リスクをとって果敢にチャレンジしていくことだ。

懲罰ではなく考えさせること(P.207)

ミスをした選手を使わないと、彼らは怖がってリスクを冒さないようになってしまう(P.208)


 このほかにも、この本のなかで紹介されたコトバは多い。いくつか抜き書きしておこう。

日常生活の中で、平坦な道のりはない。上に上がっていくには何らかの危険を冒し、何かを犠牲にしなければんらないのだ(P.148)

「父は哲学があって、どこでも結果よりもビジョンを重視してチームを作るんだ」(P.156) これは、同じくサッカー選手となった息子のコトバ。

夢ばかり見て後で現実に打ちのめされるより、現実を見据え、現実を徐々に良くしていくことを考えるべきだろう(P.185)

大事なのは言葉ではなく、自分でその意味を感じているか。前にも話したが、時として何も言わないほうが、100万言を費やすよりも伝わる場合がある(P.207)


 学び続けること、現状に満足せず常に進化していくこと、それこそがオシムのサッカー哲学であり、人生哲学なのである。

 けっしてコトバを惜しむ(オシム)ことなく・・・



<参考サイト>

オシム監督語録』 (ジェフ千葉)


P.S. 文庫化について

 2008年には文庫版が出版されているようだ。文庫版にあたってあらたに一章が書き加えられているらしい。文庫版はみていないのでなんともいえないのだが・・





PS2 文春文庫から「増補改訂版」が出版

文春文庫から『オシムの言葉 増補改訂版』として刊行。

文藝春秋社の書籍サイトから「立ち読み」できる。

(2014年1月4日 記す)





<ブログ内関連記事>

『Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2011年3月10日号 特集:名将の言葉学。-2011年のリーダー論-』

書評 『采配』(落合博満、ダイヤモンド社、2011)-ビジネス書の域を超えた「人生の書」になっている

書評 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(田嶋幸三、光文社新書、2007)-「論理力」と「言語力」こそ、いま最も日本人に必要なスキル

映画 『インビクタス / 負けざる者たち』(米国、2009)は、真のリーダーシップとは何かを教えてくれる味わい深い人間ドラマだ

「サッカー日本代表チーム」を「プロジェクト・チーム」として考えてみる




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2010年2月26日金曜日

書評 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(田嶋幸三、光文社新書、2007)-「論理力」と「言語力」こそ、いま最も日本人に必要なスキル




カタカナ語の「ロジカルシンキング」を一過性の流行に終わらせないために必要なメソッドとは

 日本のサッカーを世界水準に引き上げるには何が必要なのか?

それはずばりいって、選手の個人としての「自己決定力」であり、その基盤となるのが「論理的」に思考し、それを的確に表現できる「言語力」である。

 著者は、自らの現場(フィールド)であるサッカー界を舞台に、「言語技術」や「論理力向上」をともなった「サッカー選手の育成プログラム」の取り組みの実際を具体的に紹介している。


 高校・大学時代そして実業団時代には選手として活躍した著者が、指導者(コーチ)になるため1980年代前半に留学したドイツのケルンで体験したものは、子供たちのサッカーに「バカ蹴り」がない(!)という事実だった。

 「バカ蹴り」とは、監督にいわれるがままに無意味な大蹴りをして、ボールを遠くにクリアすること。ドイツでは10歳の子供たちでも、「バカ蹴り」はせず、自分が出したパスの意図を、コトバによって言い合いをする・・・。著者にはこれは大きなショックだった。これこそが、日本とドイツもその一つである欧州サッカーとの大きな、そして埋めがたいまでのギャップだったのだ。個人として「自己決定」したうえで身体技術を駆使し、自らの行為を「論理」で説明できるプレイ。これが日本のサッカーには欠けているのだ、と。

 なぜなら、「サッカーは、スピーディーなゲームの最中に究極の判断を求められるチームスポーツであり、刻々と変化していく局面に対してその都度、自分の考えを明確にし、それを相手に伝えていく必要性が生じるからです。こうした姿勢や対応能力は、日本人がこれまで最も苦手にしてきた領域だといえるでしょう」(P.15)。


 著者の問題意識をもとに始まった、指導者向けの「ディベート」訓練と「言語技術」訓練。個人としての選手のもてるチカラを最大限に引き出し、チームのチカラを勝利に向けて導いていくのが、「論理的」に説明し、納得させる能力をもつ指導者のチカラなのである、と。そこにあるのは選手どうし、選手と監督、コーチとのあいだで交わされる、論理と論理のぶつかりあいである。

 そしてユース向けの中高一貫コースでの「言語技術」訓練。論理力と言語力を鍛えるためには、中学生から「言語技術」を生活習慣化させることが必要だと、著者は実践をとおして主張している。


 本書は、「言語技術」や「論理力向上」をともなった「サッカー選手の育成プログラム」の取り組みの実際を具体的に紹介しているが、サッカー以外の世界でも、日本人が真剣に取り組むべき方向性を指し示してくれたと受け取りたい。

 全体をとおして繰り返しの表現がやや多いのが気にはなるが、それは著者の情熱のほとばしり捉えるべきだろう。また「エリート養成」という表現が鼻につくという人も多いだろうが、これは真の意味におけるエリート、すなわち一流の人材であってかつ、いずれ人の上に立つことになる指導者(リーダー)と言い換えて理解してもいいだろう。


 「ロジカルシンキング」というカタカナ語を一過性の流行に終わらせないためにも、「言語技術」は生活習慣化していかねばならない。これによって、国際水準で張り合っていける日本人は必ず育成されるはずだ。

 この本はまた、新しい時代に求められる「リーダーシップ」とは何かを示してくれる本でもある。すぐにでも応用可能なメソッドの実例が紹介されており、サッカーだけでなくビジネスでも、またその他どんな世界でも、一流を目指し、指導者(リーダー)を目指す人、そしてその父兄、教育者、そして企業の研修担当者にとっても必読書であるといえよう。

 ぜひ一読を薦めたい。


<初出情報>

■bk1書評「「論理力」と「言語力」こそ、いま最も日本人に必要なスキルである。カタカナ語の「ロジカルシンキング」を一過性の流行に終わらせないために必要なメソッドとは」投稿掲載(2002年2月23日)





<書評への付記>

 つい先日、ひさびさに新古書店のブックオフにいって見つけた本である。こんな重要な本がすでに出版されていたとは知らなかった。まったくもって、お恥ずかしい限りである。

 NHKの「追跡AtoZ」という時事テーマを追跡した報道ドキュメント番組で、「問われる日本人の"言語力"」という番組が放送されたが(2010年1月30日)、この番組で日本サッカー界で「言語力」強化訓練が行われていることを知ったばかりだったからだ。

 この本は、サッカーを知らなくても読むべき本だ。知っていればなおさら面白い。

 「言語力」を高めるために「言語技術」の重要性を十分に認識してほしい。社会人になってから「ロジカル・シンキング」なんて騒いでいるようじゃ、ちょっと遅すぎるのではないか? しかも、「ロジカルシンキング」などとカタカナ語に留まっているかぎり、日本人に「論理的思考能力」は定着しないだろう。
 子どもの頃から、「言語技術」を生活習慣にするべきなのだ。そのためにはとくに母親の役割は大きい。この本には、そのための具体的な方法が紹介されているので、ぜひ直接目を通して欲しいと思う次第である。

 実に簡単なメソッドである。しかし、生活場面で活用しなくては、決して身につかないものである。
 もちろんその意味では、大人がまず目を通すべきなのだ。すでに大人となった人も、遅れを取り戻すべきだ!



PS 「FIFAワールドカップ2014」(ブラジル大会)で、日本代表は一次リーグの最終戦の対コロンビア戦で 4-1 と惨敗し、一勝もすることもなく最下位で敗退、決勝トーナメントに進むことができなかった。あらためてこの事実と意味するものをかみしめるときである (2014年6月25日 記す)



<関連サイト>

JALの現役パイロットが特別指導! 会議が劇的に早く終わるコミュニケーション術 (ダイヤモンド・オンライン編集部、 2015年7月7日)
・・「言語技術」の企業への応用

(2015年7月7日 項目新設)



<ブログ内関連記事>

書評 『外国語を身につけるための日本語レッスン』(三森ゆりか、白水社、2003)
・・田嶋氏と共同作業を行った「言語技術」専門家の本

書評 『言葉でたたかう技術-日本的美質と雄弁力-』(加藤恭子、文藝春秋社、2010)-自らの豊富な滞米体験をもとに説くアリストテレス流「雄弁術」のすすめ

コトバのチカラ-『オシムの言葉-フィールドの向こうに人生が見える-』(木村元彦、集英社インターナショナル、2005)より
・・あらためてかみしめるべき至言のコトバの数々

(2014年6月25日 情報追加)






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2010年2月25日木曜日

書評  『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情-』(河添恵子、学研新書、2009)-世界の「エリート教育」について考えてみよう!




グローバル社会のさまざまな分野でリーダーとして活躍することになる予備軍たちは、いったいどういう教育を受けているのだろうか

 これ一冊で世界の「エリート教育」を総覧できる、コンパクトだが非常に密度の濃い、お買い得な一冊。

 学校と図書館向けの図鑑として刊行された『世界の子どもたちは いま』シリーズ(24カ国・24冊)と『世界の中学生』シリーズ(16カ国・16冊)の内容を一冊に圧縮した内容なので、情報がフルコースでしかもてんこ盛り、思ったよりも読むのに時間がかかって、少し食傷気味になるくらいだ。

 ボーディングスクールやプレップスクールだけでなく、小学校レベルからの中高一貫の「エリート教育」や、スポーツや芸術のエリート教育についても紹介されている。

 英語が国際化にとっての必要条件とされることから、どうしても英語圏の米国や英国を中心に、その他オーストラリアやカナダの学校ばかりが紹介されがちだ。

  だが、本書ではアングロサクソン圏の先進国だけでなく、教育を国家戦略に位置づけているインド、中国、トルコといったいわゆる新興経済国、また教育先進国となったシンガポール、そしてフランスの伝統あるエリート教育の現状についても紹介されているので、比較対象として参考になる。

 「エリート」というと、多くの日本人には鼻につく表現で抵抗感も少なくないだろう。だが、真の意味におけるエリートは一流の人材であってかつ、いずれ人の上に立つことになる指導者(リーダー)のことであり、これは一国の生存のためには絶対不可欠の存在である。

 もちろんすべての人間がエリートになれるわけではない。だが、グローバル社会のさまざまな分野でリーダーとして活躍することになる予備軍たちが、どういう教育を受けているかを知っておくことはムダではない。大いに刺激と危機感を感じて問題意識を抱いてほしいものだ。

 「下り坂」にある日本だが、今後の生存のカギを握るのは、未来を担うリーダー予備軍の教育である。しかしながら、「エリートの条件」である、心身のタフネスと高いレベルのコミュニケーション能力を備えた人材を養成する体制が、果たして確立しているといえるだろうか。現在の迷走する状況では、国に期待してもそれはムリというものだろう。

 グローバル社会で問われるのはあくまでも個人としての存在だ。個人を前提とし、個性を伸ばすために本当に必要な教育とはいったい何かを考えるために、本書を通読してみることもその一助となろう。基本はコミュニケーション教育に尽きるといってもいい過ぎではないのだが、具体的な実例については直接読んで確かめていただきたい。

 一流を目指す人、指導者(リーダー)を目指す人、そしてその父兄や教育者に読んで問題意識をもってほしいものである。


<初出情報>

■bk1書評「グローバル社会のさまざまな分野でリーダーとして活躍することになる予備軍たちは、いったいどういう教育を受けているのだろうか」投稿掲載(2002年2月24日)






<書評への付記>


日本で「エリート教育」は果たして可能か-英国のエリート教育から考える

 どうもこの国では「エリート」は誤解されているようだ。エリート臭くて鼻持ちならないヤツ、エリートを鼻にかけやがって、とか一般世間での評価はさんざんだ。

 エリートの義務というのがあって、「ノーブレス・オブリージュ」という、などと得意げに語られることも多い。この表現は、この本でも「エリートの義務」と訳されているが、正確にいうともともとはフランス語で Nobless oblige. であり、高貴な者は義務をもつというフランス語の短文である。Nobless は名詞、oblige は動詞 obliger の三人称単数の現在活用形である。

 しかし、この表現を鼻にかけて、「上から目線」で下々を見おろしているのが、全部とはいわないが、日本の高級官僚であり、政治家である。自民党の麻生太郎前首相が、はじめて選挙にでたときの街頭演説の第一声が、「しもじもの皆さん!」であったという、笑い話というか、鼻つまむようなアネクドートがある。

 これは儒教的な「統治者感覚」である。下々の者はあくまでも統治される対象であり、俺たち上に立つ者ががしっかりしないと国を統治できない、という誤った思い上がりであって、義務と献身を基本姿勢とする、本来の意味の「ノーブレス・オリージュ」からほど遠い。

 戦争になったら先頭を切って敵陣に飛び込み、率先垂範のリーダーシップを示すというの本来の「ノーブレス・オリージュ」だ。みずからは安全地帯にいて高見の見物をするのはリーダーではない。

 むかし高校生の頃読んだ『自由と規律-イギリスの学校生活-』(池田 潔、岩波新書、1963)には、英国のパブリックスクール卒業の貴族階級の士官が、第一次世界大戦のヨーロッパ戦線では、ラグビーボールを蹴って Follow me ! と叫んで敵陣に飛び込んでいった、というエピソードが紹介されていたことを記憶している。この結果、パブリックスクール出身者の戦死率がきわめて高かったという。

 もちろん英国のエリート教育を、過度に理想化してはいけない。大学時代に英語の授業で読まされた George Orwell の Such, Such Were The Joys というパブリック・スクール時代の回想録では、思い出すのも不愉快な日々であったことがこれでもか、これでもかと書かれていたのを覚えている。オーウェルはその後大学には進学せず、植民地ビルマで警察官になる道を選んでいる。





なぜ日本では「現場」は優秀だがエリートはダメなのか?

 日本では昔から、兵と下士官は優秀だが、将校以上がまったくなってない、といわれてきた。大東亜戦争におけるインパール作戦の戦記など読んでいると、情けなくなってくるだけでなく、激しい怒りがこみ上げてくる。

 ひたすら責任を回避する高級軍人は、失敗しても信賞必罰からはほど遠く、予備役となることもなく組織内で温存されるという構造。これとまったく同じことが、現在でも高級官僚についてはそっくりそのまま当てはまる

 こんなていたらくであるからこそ、日本では、世の中全般にいわゆる「エリート不信」が根強く存在するのである。おそらくこのエリート不信は、簡単に消えてなくなることはないだろう。

 こういう状態であれば、たとえ「エリート教育」の必要を認識したとしても、果たして日本に定着するのかどうか疑問に感じるのも当然である。

 戦前には旧制高校や陸軍士官学校ないしは海軍兵学校というエリート育成のための教育はあったが、エリートがエリートの責務を果たしたといいきれるかどうか。

 日本の大学は、東大も京大も早稲田も慶應も、戦後は大衆マンモス大学となっており、とても本来の意味のエリート養成校とはいいがたい






日本ではエリート教育よりもリーダーシップ教育が課題

 私は個人的には、日本では「エリート教育」よりも、あらゆるレベルでの「リーダシップ教育」こそ必要と考えている。将校があてにならぬ以上、現場の下士官レベルのリーダーシップを強化したほうが実際的である。

 近年よくいわれている「現場力」強化はこの意味では正しい。グローバル企業トヨタで発生した、リコール問題から端を発した品質問題が米国を中心に社会問題化しているが、それでもまだまだ日本の製造現場は世界最強といっていいだろう。

 問題は、グローバル経営の担い手であるはずの、幹部クラスのレベルが国際水準からみて相対的に低いことに問題があると考えられる。これは、むかしから日本にはつきまとう問題だ。
 だからこそ、日本以外の世界各国で、エリート予備軍たちがどういう教育を受けているのかを知っておいて損はないと思うのである。

 たとえば、日産を再建したレバノン人カルロス・ゴーンが、フランスのグランゼコール出身のスーパーエリートであることは、まだ覚えている人も少なくないだろう。好き嫌いは別として、彼らはただ単にアタマがいいだけでなく、真の意味で「ノーブレス・オブリージュ」を実践している存在であることは否定できない。


米国のプレッップ・スクールはエリート育成予備門

 とはいえ、 『エリートの条件』に紹介された事例は、世界の現状を知るには役に立つが、これをそのまま日本にもってきても成功するかといえば、ちょっと違うのではないかとも思う。

 いっそのこと、ボーディング・スクールやプレップ・スクール経由で、米国や英国のエリート大学にそのまま進学する方がいいのかもしれない。そのように考える親や子どももいてもまったく不思議ではない。本書もそういった人たちへの情報提供も目的としているはずだ。


 米国のプレッップ・スクールについては、こういう本があるのでぜひ目を通すことをお勧めしたい、私が以前書いた書評を参考のために再録しておこう。

 『レイコ@チョート校-アメリカ東部名門プレップスクールの16歳-』(岡崎玲子、集英社新書、2001)

 実に面白い。一気に読んでしまった。
 この本の著者である岡崎玲子さん(1985年生まれの16歳)みたいに、知的好奇心が旺盛で、柔軟な人にとっては、このチョート校のようなアメリカ東部の名門プレップスクール(寄宿制私立高校)はうってつけなんだろうな。日本の大学よりはるかに知的な内容の授業が行われているのだ。はっきりいってうらやましい。もし僕も生まれ変わって(?)もう一回高校生になれたら、絶対アメリカのプレップスクールにいきたいな、そんな気にもさせられた。
 この本を読むまでは、プレップスクールというと、ロビン・ウィリアムズ主演のアメリカ青春映画『今を生きる』のイメージしかもっていなかったが、著者による、プレップスクールの1年といったかんじの、ほとんどライブ中継のような紹介で、はじめて明確に内容を知ることができるようになった。
 それにしても驚くのは、玲子さんの日本語能力の高さである。英語ができるから難関のプレップスクールに入れたのは当然だが、16歳でこれだけロジカルで臨場感豊かな日本語を書ける(もちろん編集者の指導はあるだろうが)ということに正直おどろいている。こんな子がいれば日本の将来は決して暗くないぞ、そんな気にもさせられる。きっと国際的な大きな活躍をしてくれることだろう。
 同世代の人や教育に関心のある親だけでなく、あらゆる年齢層の人におすすめの本だ。

 岡崎玲子さんだけでなく、多くの若者が日本の大学をスルーして米国や英国の大学にストレートで進学している。目的意識の高い若者にとって、日本の大学にいくよりも正しい選択であるといえるかもしれない。




米国のエリートは大学院ではなく学部

 なおついでながら付け加えておくと、米国の場合「エリート」になるのが目的なら、大学院(graduate school)ではなく、大学学部(undergraduate)のほうが重要だ。専門課程の大学院よりも教養課程の学部のほうが重要であり、ハーバードでも Harvard Business School よりも、学部の Harvard College のほうがはるかに格が高いようである。大学院は「学歴ロンダリング」の場として使われることも少なくはないからだ。

 米国の前大統領のジョージ・ブッシュ Jr. も、ハーバード・ビジネス・スクールで M.B.A.を取得した人だが(・・本人の実力だけで入学したのかどかは知らないが)、彼にとって重要なのは学部時代のイェール大学であり、学生の秘密結社であるフラタニティ(fraternity:中世ヨーロッパの兄弟団に起源をもつ)"スカル・アンド・ボーン"(Skull & Bones)であるこことは知っておくべきだろう。

 いずれにせよ、米国と日本はまったく社会構造、教育構造の違う国であり、フランスほどではないが、米国もまたエリート主導の国であることに変わりはない。そもそもが「格差社会」なのである。
 
 少なくとも日本以外の国の現状はこうなのだ、ということだけでも知っておきたいものである。
 処方箋を示したことにはなっていないのだが。
 


<参考文献>

米国
アメリカ最強のエリート教育』(釣島平三郎、講談社+α新書、2004)
アメリカのスーパーエリート教育』(石角完爾、ジャパンタイムズ、2000)

フランス
エリートのつくり方-グランド・ゼコールの社会学-』(柏倉康夫、ちくま新書、1996)
フランス式エリート育成法-ENA留学記-』(八幡和郎、中公新書、1984)


<映像資料>

◆ロビン・ウィリアムズ主演の青春映画『今を生きる』
 原題は Dead Poets Society 、1989年製作公開。米国版トレーラーはここ。
・・英国のパブリクスクールにモデル作られたプレップ・スクールを舞台にした青春映画。

『アナザー・カントリー』(Another Country)1984年製作公開の英国映画。
・・1930年代、思想としての共産主義全盛時代のパブリック・スクールを舞台にした青春映画。後にソ連(=another country)のスパイとなったある大物をモデルにした映画。ゲイ(=ほもセクシュアル)映画でもある。9分割で YouTube にアップされている。
 ちなみに作家ジョージ・オーウェルが学んだのは、1910年代の終わりから1920年代のはじめである。

 
PS 改行を増やし読みやすくした。また一部について加筆を行った (2014年1月15日 記す)



<ブログ内関連記事>

日本語の本で知る英国の名門大学 "オックス・ブリッジ" (Ox-bridge)

書評 『イギリスの大学・ニッポンの大学-カレッジ、チュートリアル、エリート教育-(グローバル化時代の大学論 ②)』(苅谷剛彦、中公新書ラクレ、2012)-東大の "ベストティーチャー" がオックスフォード大学で体験し、思考した大学改革のゆくえ

書評 『私が「白熱教室」で学んだこと-ボーディングスクールからハーバード・ビジネススクールまで-』(石角友愛、阪急コミュニケーションズ、2012)-「ハウツー」よりも「自分で考えるチカラ」こそ重要だ!

「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは

書評 『ハーバードの「世界を動かす授業」-ビジネスエリートが学ぶグローバル経済の読み解き方-』(リチャード・ヴィートー / 仲條亮子=共著、 徳間書店、2010)

ハーバード・ディヴィニティ・スクールって?-Ari L. Goldman, The Search for God at Harvard, Ballantine Books, 1992

「海軍神話」の崩壊-"サイレント・ネイビー"とは"やましき沈黙"のことだったのか・・・

NHKスペシャル『海軍400時間の証言』 第一回 「開戦 海軍あって国家なし」(2009年8月9日放送)

書評 『実録 ドイツで決闘した日本人』(菅野瑞治也、集英社新書、2013)-「決闘する学生結社」という知られざるドイツのエリート育成の世界とは何か

書評 『私たち「ユニクロ154番店」で働いていました。』(大宮冬洋、ぱる出版、2013)-小売業は店舗にすべてが集約されているからこそ・・・
・・現場で実績をあげた者だけを昇進させるユニクロの人事システムは、イスラエル軍とよく似ている

(2014年1月15日、12月7日、2015年6月29日 情報追加)






(2012年7月3日発売の拙著です)





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end

2010年2月24日水曜日

スマートフォン、ツイッター、そしてクラウド・コンピューティングという三題噺




 iPhoneとツイッターで会社は儲かる』(山本敏行、マイコミ新書、2010)という本を、著者の会社からいただいたのでさっそく目を通してみた。
 山本敏行氏は現在31歳、10年前に米国留学中に起業した EC. studio の代表取締役。社員数33名の中小企業の社長とのことだ。

 社員全員にスマートフォンである iPhone を支給し、全員がどこでもアクセスできる環境を整え、社員全員がツイッターのアカウントをもって、それぞれ好きなようにつぶやいているとのことだ。
 もともとデジタル、アナログ含めてさまざまなコミュニケーションを活用していたとのことだが、全員ツイッター化によって、社内のコミュニケーション・ギャップが大幅に解消されている、という。

 会社が儲かるかどうかは別にして、少なくとも社内コミュニケーションが格段に活性化することは間違いない。なぜなら、ツイッターはブログに比べて格段に敷居が低いから。あらためて気構えていう必要のないつぶやきで社員のそれぞれが何を考えているかがわかるし、社長のつぶやきを知っているので、何か方針がでたときもあらかじめ心の準備ができている、というわけだ。

 ただし社内イントラネットとは違って、ツイッターでつぶやいた情報はリアルタイムで全世界に公開されることになる。そうでないと意味がないからだ。もちろん、公開にすることによるメリットとデメリットの両面ある。社外でもつぶやきをみることができるので、社外から反応してくれることもあるし、商談前にツイッターでのつぶやきをみてくと、会話がスムーズに進むという効果もあるようだ。

 デメリットは社内情報が漏洩する危険があるというものだが、これについてはひとつだけルールを作って運用しているという。

 「機密情報についてのつぶやきはしないこと」 

 たったこれだけ。

 ツイッターでつぶやける環境があると、つぶやいた本人が特定できるし履歴が残るので、そもそもうかつなことは発言しにくいし、誹謗中傷するような情報は「2ちゃんねる」のほうが投稿先としては適切だ。また、ツイッターでガス抜きできるので、「2ちゃんねる」へのエネルギーも減殺されるかもしれない、と。
 透明性は格段に高まるが、いいか悪いかは別にして、ますますプライバシーがなくなるということでもある。社員の休日のつぶやきも、週明けには社内で話題になるということだから。経営者だけでなく、社員も24時間365日化の方向に進むことになるのかな?

 この会社は社員の大半が20歳台だが、ツイッターを使うか使わないかは自主性にまかされているので、2/3くらいがヘビーユーザーらしい。
 しかし社内コミュニケーション・ツールとして活用する限り、ツイッターを使わせるよう仕向けなくてはならない。何をやっているかはこの本に書いてある。
 この会社の実験結果はポシティブにでているので、おそらく中小企業で導入したら、間違いなく効果があがるだろう。少なくとも社長自らがツイッターを使っているのであればノー・プロブレムだ。
 しかし、大企業はそう簡単にはいかないだろうし、中小企業でも社歴が長くて、40歳台以上の社員がいる会社はなかなか抵抗が強いかも。


 ところで、この本のキモは「クラウド化」にある。 Google.Apps(グーグル・アプス)などの「クラウド・コンピューティング」を会社ぐるみで導入することによって、仕事のやり方が抜本的に変化するであろうことだ。つまり、会社をクラウド化せよ、ということ。

 「グーグル・アプス」は、個人で使用する限りタダなので私も利用しているが、Gmail の受発信管理、検索、スケジューラー(カレンダー)、ドキュメント管理、画像、動画などを、個人のパソコンではなく、グーグルのサーバー上で一括してで行うサービスのことだ。データの管理とバックアップはグーグルが行うので、個人のパソコンが壊れてもデータ破損の心配はないし、パソコンを紛失しても情報漏洩の心配もない。
 これをパソコンではなく、モバイルのスマートフォンで行えば、いつでもどこでもデータのやりとりもできるし、情報の共有も容易になる、というわけだ。
 クラウド化が完全に浸透すれば、その時には大幅なコスト削減が可能になるし、その分の利益は出てくるといえよう。もちろん完全に使いこなせればという条件つきだが。

 こんな話を知ると、私もそろそろ携帯電話はやめて、スマートフォンに一本化しようかな、という気持ちになってくる。iPhone 以外にも、Google の Android 搭載型のスマートフォン(黒イチゴ)も発売されたことだし、現在使用している携帯電話の償却が終わる頃にはスマートフォンに一本化したいと思う。2つもつのは通信費のムダなので。

 会社のクラウド化はもちろん、個人もクラウド化する時代となってきたようだ。さらにグーグル化する、ということなのかな。なんだかカツマーみたいだが。
 
 







        

                 

2010年2月23日火曜日

書評 『「独裁者」との交渉術』(明石 康、木村元彦=インタビュー・解説、集英社新書、2010)+「交渉術」としての「食事術」




真の「現実主義者」明石康の軌跡-交渉術はテクニックではない、アートである

 1990年代以降、頻発する国際紛争の最前線で、調停者の立場で当事者としてコミットしてきた明石康。本書は、ユーゴスラビア問題とサッカーを中心に取材活動を続けてきたジャーナリスト・木村元彦が、よく準備し煮詰められた的確な質問で突っ込んで聞き出した、国際調停の現場で本当にあったこと。

 カンボジアボスニア(旧ユーゴ)においては国連事務総長特別代表として、スリランカでは日本政府代表として調停にあたった明石康の話からは、もちろん極秘事項については触れられていないだろうが、ウラ話も含めて実に興味深いエピソードの数々が披露されている。
 紛争当事国でリーダーシップを発揮する政治指導者(・・「独裁者」というのは、明石氏もあとがきでいうように、表現としては少し過激だが)のナマの人となりや言動も伝わってきて、読んでいて非常に面白かった。
 さまざまな制約条件のなかで、現場リーダーがいかにその時々で最善の意志決定を行うか、グローバル組織における現場と本部との関係、限りなく偏向した欧米マスコミ報道にどう対応したか・・などなど、国際機関に勤める人間以外にも興味深い内容だ。

 国際紛争の調停者として活躍した日本人・明石 康は、良き調停者はまず何よりも「良き聞き手」(グッド・リスナー)たれと繰り返している。交渉術についても、テクニックというよりもアート(・・このコトバにはもちろん”術”という意味もある)であるといっている。ソマリアにおける調停が失敗した理由の一つが、欧米流の黒白ハッキリさせる交渉術が現地では嫌われたからだと指摘されるとき、なるほどと深く納得させられた。
 国際社会で自己主張することは重要だが、日本人のよき特性である人間関係構築を活かしていくべきだ、という明石氏の主張には、長年国際調停の最前線で活躍してきた人の発言だけに耳を傾けるものがある。

 真の「現実主義者」明石康の軌跡をたどった本書は一読の価値がある。


<初出情報>

■bk1書評「真の「現実主義者」明石康の軌跡-交渉術はテクニックではない、アートである」投稿掲載(2010年2月19)




<書評への付記>

 この本を読んで思ったのは、明石康氏が思いの外、「現実主義者」である、という感想である。ここでカッコ書きで「現実主義者」と書いたのは、書評『海洋国家日本の構想』(高坂正堯、中公クラシックス、2008)に書いたように、「現実追随主義者」ではない「現実主義者」という意味である。


「交渉術」としての「食事術」

 この本の楽しみの一つは、第9章「食事術」である。箸休めとして挿入された一章であるが、「交渉術」において食事のもつ意味はあらためて強調するまでもない。

・・ちゃんとした会議の場で箸にも棒にもかからないような人物でも、食事の席で隣り合わせか、向かい合った席の場合、リラックスした瞬間をとらえてそれとなく話しかけてみるべきです。一対一で話すのが相手の本音を聞くには一番いいですね。(P.172)

 この章では、カンボジア王国のシハヌーク前国王、旧ユーゴから分離独立したクロアチアの故トゥジマン大統領のエピソードが興味深い。

 機会があって、私はカンボジア王国の日本大使館公邸を訪れてパーティに参加したことがあるが、その際振る舞われたワインの質とバラエティの豊富さには驚かされたものだ。
 外務省の無駄遣いとして、なにかとやり玉に挙げられがちだが、明石氏が紹介しているように、シハヌーク前国王が自らフランス料理の本を執筆しているほどの万能人であることと、王宮でだされたフランス料理が素晴らしいものであったことからも、最高級のもてなしを行う事のできる体制は、国力を測る物差しの一つだといえるだろう。一概に無駄遣いといい切れるものでもない。

 また、クロアチアのトウジマン大統領が、旧ユーゴスラヴィアの故チトー大統領を批判しながらも、ちゃっかりチトー大統領のワインセラーを自分のものにしてしまったエピソードが紹介されている。旧ユーゴの継承こくが新ユーゴ(セルビア・モンテネグロ)であったにもかかわらず。
 海に面したクロアチアの魚料理が美味いことが紹介されているが、ここらへんはジャーナリスト木村元彦氏にとっても得意中のテーマだろう。
 私は残念なことに、いまだ美しい海と世界遺産で有名なクロアチアにはいったことがないが、隣国のスロヴェニア(旧ユーゴ)には何度かいったことがあり、これまた機会があってお招きにあずかり、チトー大統領の元料理長がつくって目の前で給仕してくれる素晴らしい料理を、スロヴェニア・ワインと一緒にいただいた経験をもっている。たいへん貴重な経験であり、このときほど、すでに亡きチトー大統領を身近に感じたことはなかった。
 旧ユーゴのアドリア海側は実に"美味しい"地域である。スロヴェニアもイタリアのフリウーリ地方に近い地域では生ハムもワインも実に美味い!!こういう話は、思い出して書いているだけでも、口腹感でいっぱいになる。

 そんなこともあって、この第9章は楽しみながら読むことができた。できればこの内容だけを引き延ばして一冊にして欲しいくらいだ。

 うまい料理にうまい酒、ワインと料理の相性のことを、フランス語で結婚を意味する"マリアージュ"と表現することがあるが、このマリアージュが実現している「料理と酒」を堪能しているときにこそ、人間はホンネを漏らしがちなものだ。双方にとって気を許しながらも、気が許せない、なかなかやっかいな場面でもある。

 「食事術」「交渉術」の重要なアイテムとして、野蛮人のテーブルマナー』(講談社、2007)を書いた元外務省の佐藤優以外にも、多くの人に書いてもらいたいものだと思うのだ。

 「交渉術」としての「食事術」は、料理本の新しいジャンルとなるはずだ。


<参考サイト>

スロヴェニア・ブティック・ワイン
・・知られざる、酸化剤なしのオーガニック・ワインの世界を扱っているラネットのサイトです。いずれもワイナリーのオーナーの顔の見えるワインばかり。味は保証します!



              
                 

2010年2月22日月曜日

本の紹介 『人を惹きつける技術-カリスマ劇画原作者が指南する売れる「キャラ」の創り方-』(小池一夫、講談社+α新書、2010)




「キャラ」を起てよ!-あまりにも読みやすいので、読み飛ばしてしまってそれで終わり、というのでは実にもったいない

 マンガは主人公の「キャラ」ですべてが決まる。キャラが起てば、ドラマや物語はあとからついてくる。そう主張して実践してきたプロの劇画原作者による、クリエーター志望者のための、実践的「キャラ」の創り方。

 非常に読みやすいので、あっという間に読み終えてしまうのは、この本自体が語り口調で書かれていることと、著者による「つかみ」が実に優れているからだろう。また人間心理の洞察力、旺盛な好奇心など、マンガ原作者として40年以上にわたって最前線を走り続けてきた実績が有無をいわさぬ説得力をもっているためだろう。

 『子連れ狼』『クライイングフリーマン』など数々のヒット作を生み出してきた著者のいうことは、すべてが具体的で、抽象的な話はいっさいない。

 この本は、マンガ家を目指している人のために、1977年から著者が主催している「劇画村塾」大阪芸大での「キャラクター原論」の講義録を一般向けに公開したものだ。

 この本のなかで繰り返し強調されているのは、マンガなら最初の7ぺージ映画や演劇なら最初の3分で人の心をつかまなければ、誰も最後まで読まないし、最後まで見ないという厳然とした事実である。

 あくまでもお客さんに受け入れられてなんぼの世界である。自己満足ではカネにならない

 カギとなるのは主人公のキャラであり、主人公を間接的にもりたてる役割を果たすライバルであり、引き回し役である。

 では主人公の「キャラを起てる」にはどうしたらいいのか。著者自身が原作者となった数々のマンガや、弟子たちのマンガ作品から、実例を具体的に紹介している。第2章 ヒットするキャラの「三角方程式」、第3章 ヒットキャラが持つ「九ヵ条」、第4章 キャラを魅力的にする「プロファイリング」、第5章 キャラクター作りのマル秘テクニック。

 具体的なテクニックは直接読んでのお楽しみ。

 とはいっても、テクニックは読んだだけでは何の意味もない。いろんな場面で実際に応用してみて、はじめてその意味がわかってくるものだろう。この本では一般向けの応用として、相手の立場にたって考えるために、相手のキャラをプロファイリングしたらいいというアドバイスを第4章でしているが、応用をそれだけにとどめていてはもったいない。

 マンガ家でも、プロのクリエーターでなくても、ビジネスパーソンにもクリエーター的センスが求められる時代となっているからだ。

 あまりにも読みやすいので、読み飛ばしてしまってそれで終わり、というのでは実にもったいない。自分の関係する世界で、著者のアドバイスやテクニックをどう活かしていくか、日々考えるためのヒントにしたいものだ。


<初出情報>

■bk1書評「キャラを起てよ!-あまりにも読みやすいので、読み飛ばしてしまってそれで終わり、というのでは実にもったいない」投稿掲載(2010年2月19日)





<書評への付記>

 「キャラクター」の省略形である「キャラ」というコトバは、すでに日本語に定着したといってもいいだろう。英語のキャラクターは、もともと「性格」という意味だが、「キャラ」と短縮形で使うとき、それは「際だった個性」のことを意味している。
 あの芸人は「キャラが立っている」とか、本社の××さんは「キャラが濃いいからなあ」、とか日常的によく使う表現になっている。

 私がこの本を取り上げるのは、マンガ家や脚本家などクリエーターだけに「小池理論」を限定させていてはもったいない、と思うからだ。
 小池一夫原作のマンガはどちらかといって劇画が中心なので、男性週刊誌をよむ男性サラリーマンなら原作者として知らない人はいないと思う。
 出版社サイドも、マンガ家志望者やクリエーターだけでなく、広く一般人向けに売りたいという希望があって、『人を惹きつける技術』なんてタイトルにしたのだろう。
 
 米国では会社に雇われる勤め人が減少し、日本語でいえば自営業、あるいはフリーエージェントとでもいうべき人たちが増えている。これは自らそう望んだというよりも、景気の悪化で余儀なくされた結果ではあるが、self-employed(自営)は、自分で仕事を取っていかなければならないので、自分自身を「キャラ」化する必要に迫られる。「一人法人」でも同じことだ。
 私自身も現在コンサルティングで起業準備中であり、自分をいかに「キャラ起ち」させるか、日々考えを練っているところである。
 そのためにも、小池理論による「キャラの創り方」は、分身としてのキャラ創りだけでなく、自分自身をいかに「キャラ」にするかのための、よい手引きになると思うのだ。

 「セルフ・ブランディング」なんて難しい表現使うよりも、ひとことで自分を「キャラ」化する、といったほうがインパクトも強い。今後、日本も米国と同じ途を進むことになるだろうから、個人も「キャラ立ち」しなくてはならないのだ!

 買って読んで損のない一冊でしょう。おすすめです。


<参考サイト>

小池一夫公式ホームページ
  ●新書「人を惹きつける技術」が発売されました。(2010年1月20日)




            



end

2010年2月21日日曜日

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む

                                            

 「宗教と経済の関係」については、書評『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)のなかで書いておいたが、この機会に再びこのテーマについて書かれた本を取り上げてみたい。

 人間の生存にとって重要な経済について宗教はどう見ているのか、経済と宗教の関係はいったいどうなっているのか、狭い意味の「経済思想」ではなく、「宗教思想」において「経済」がどう捉えられているのか、についてである。

 まず最初に、『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009)の紹介をしておこう。こういう書評を2ヶ月前に書いたので、一部字句を修正したうえで再録しておく。




宗教学者による「経済学」批判-経済学は「神の見えざる手の神学」だ-

 「リーマンショック」が引き金となった、米国発の金融恐慌から1年近くたったこの時期に、宗教学者が「金融資本主義」の中核に「ユダヤ・キリスト教」の一神教信仰が見え隠れしていることを示してみせた。
 
 ユダヤ教とキリスト教(・・とくにプロテスタントのなかでもカルヴァン主義とピューリタン)の信仰の核心には「終末論」が存在する。

 金融恐慌にさなか、慌てふためいた強欲な資本家たちや、パニックに陥った経済学者や政策決定者に、なりふり構わぬ言動をとらせたことの背景には「終末論」があったのである。 

 著者の表現をつかえば、「危機に直面したとき、それを自動的に世界が崩壊する予兆として解釈してしまう回路が形成されている」(P.32)のである。「終末論的に解釈する心理的な回路が形成」(p.37)されているのである、と。

 こうした"思考の枠組み"(フレームワーク)が、無意識のうちに働いているのである。

 また、経済学の影響を受けてきた日本人のビジネス関係者が日頃何気なく使用する表現に、アダム・スミスの「神の見えざる手」というものがある。

 自由放任(レッセフェール)のもとにおける、市場(マーケット)の自動調整メカニズムのことだが、著者はアダム・スミスが「見えざる手」という表現を使用してはいても、決して「神の見えざる手」とはいっていない(!)こと着目している。

 アダム・スミスの意図にかかわりなく、受容する側が自分たちに都合のいいような解釈をした結果、意味が変容して定着したのだと。

(「見えざる手 an invisible hand  アジア文庫蔵 筆者撮影) 

 これもまた、無意識のうちに働く"思考の枠組み"(フレームワーク)である。
 
 こういう土壌のもとにある米国で暴走した「市場原理主義」が、まさに宗教的な原理主義と同じ構造をもっていたことは明らかだ。

 そして宗教学者である著者は、アメリカで主流の新古典派経済学は、「神の見えざる手」の神学だと喝破する。「欧米で発達した経済学という学問は、根拠の薄弱な前提によって立つ神学的な試みに見えてくる。」(P.171)。

 「市場原理主義」の背後には、世界を支配し、その動向に決定的な影響を与える唯一絶対の神が存在し、市場主義の経済学とは、その神学である、というわけだ。

 だからこそ日本人は、経済学の呪縛から解き放たれねばならないのだ、と。

 目次を紹介しておこう。

第1章 終末論が生んだ100年に1度の金融危機
第2章 ノアの箱船に殺到するアメリカの企業家たち
第3章 資本主義を生んだキリスト教の禁欲主義とその矛盾
第4章 市場原理主義と「神の見えざる手」
第5章 マルクス経済学の終末論と脱宗教としてのケインズ経済学
第6章 なぜ経済学は宗教化するのか
第7章 イスラム金融の宗教的背景
第8章 日本における「神なき資本主義」の形成

 タイトルにある「ユダヤ・キリスト教」という表現は、同じ一神教であるイスラームとの対比で用いられており、宗教学的な意味で受け取る必要があることに注意しておきたい。けっしてユダヤ教とキリスト教が共謀した陰謀があると主張しているわけではないし、本書もそういった「陰謀論」とはまったく無縁である。

 ビジネスマンである私は、最終章で著者が描く日本の現実は牧歌的にすぎるのではないかとは思うが、本書で平易に説明されている、経済学的思考の枠組みがいかなる影響のもとにあるかを知っておくことは、きわめて重要であると考えている。

 「宗教と経済の関係」について考える際の入門書として、ぜひ一読することをおすすめしたい。


<初出情報>

■bk1書評「宗教学者による「経済学」批判-経済学は「神の見えざる手の神学」だ-」投稿掲載(2009年12月19日)

*再録にあたって字句の一部は修正した。





<書評への付記>

 冒頭にも触れたように、宗教と経済の関係について積極的に発言しているのは、中沢新一も同様で、『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)の書評を補足して、このテーマに関する私自身の見解についても補足として書いておいた。私の大学卒業論文にも関連するテーマだからだ。

 宗教学者で作家の島田裕巳が、宗教と経済の関連について関心が高いことは、『資本主義2.0-宗教と経済が融合する時代-』(水野和夫/島田裕巳、講談社、2008)という本を、経済アナリストと共著で書いていることでもわかる。


 島田裕巳による本書は、その意味では、宗教と経済の関係についての入門書として読むのがよい。基本的なポイントはすべて押さえてあるからだ。

 「リーマンショック」と命名されたこの時期にいったい何が起こったのか、私を含めて世の中は健忘症の人間が多いので、本書を紹介しておく必要はあると思う。ただ何点か、注意しておきたい事項があるので、以下に書いておくこととする。


「ユダヤ・キリスト教」というくくりの問題点

 タイトルにある「ユダヤ・キリスト教」というくくりは、同じ一神教であるイスラームとの対比で用いられた、宗教学的な意味として受け取る必要があることに注意しておきたい。決して、ユダヤ教とキリスト教が共謀した陰謀(?)が存在するわけではない。

 しかし、私は本書のタイトルは適切な表現ではない、と考える。キリスト教とユダヤ教はともに旧約聖書(・・これはキリスト教的な表現だ。ユダヤ教では「タナハ」といい、内容は同じだが配列が異なる*)を母胎として発生したことは否定できない事実だが、この二つの一神教は異なる宗教であることもまた事実である。

 極端な比喩かもしれないが、進化論を例にとって説明すれば、人間とサルは祖先をともにするが、人間の祖先がサルだというわけではない、というロジックと同じである。「キリスト教が成立した時点のユダヤ教」と、それ以後に独自に発展し2000年以上の歴史をもつ「現在のユダヤ教」がイコールではないのは当然である。しかも、現在のユダヤ教も超正統派から改革派まで幅が広い。

 「ユダヤ・キリスト教」という表現は、キリスト教の側からみた表現であり、民族宗教であるユダヤ教と世界宗教であるキリスト教は区分して考えるべきである。

*注:ユダヤ教では、内容によって全体を3つに分け、以下の順番で配列されている。トーラー(=モーセ五書:『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』)、ネヴィーム(=預言書:『ヨシュア記』『士師記』『サムエル』『列王記』『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』『12小預言書』)、ケトゥビーム(=諸書:『詩篇』『箴言』『ヨブ記』『雅歌』『ルツ記』『哀歌』『コヘレトの言葉』『エステル記』『ダニエル書』『エズラ/ネヘミヤ記』『歴代誌』の11書)。


 もちろんユダヤ教の経典である「旧約聖書」から、キリスト教が生まれたことは事実であり、とくにプロテスタントは新約聖書だけでなく旧約聖書の世界も重視しているので、米国のプロテスタントにはイスラエルに限りない愛を感じる人たちも少なからずいるようだ。イスラエルへ聖地巡礼を行う米国人ツアーは多い。彼ら米国人プロテスタントは、ローマよりもエルサレムを重視する人たちである。

 その意味では、この「ユダヤ・キリスト教」という表現は、米国のユダヤ教徒と米国のプロテスタントの「同床異夢」の関係を示唆していると見るのも、あながち間違いだともいえない。「野合」などという、あまり品のよくないコトバを使う人もいるのだが。


「終末論」について

 「ユダヤ・キリスト教が強く影響しているアメリカ社会には、危機的な事態を終末論的に解釈する心理的な回路が形成されているのである」(P.37)。 

 この発言については総論賛成であるが、イスラームについても、ユダヤ教やキリスト教と同様、「終末論」と「メシアニズム」が濃厚に存在してきたことが、本書でははいっさい触れられていないのは問題ではあるまいか。

 経済思想について「ユダヤ・キリスト教」とイスラームを対比し、論旨を明確にするための措置だとは思うが、誤解を生むおそれがある。

 イスラーム神秘哲学研究の世界的権威であった井筒俊彦は、カトリック作家の遠藤周作との対談のなかで、次のようにいっている。

 元来、イスラームでは、『コーラン』という聖典そのものが歴史的には旧約から非常に大きな影響を受けています。ですから、コーランを読んでいくと、いたるところで旧約的なものにぶつかるんです。とくに律法中心の考え方とか、預言の概念とか、神と人間の関係とか、終末論的ヴィジョンとか、そういうものはだいたい旧約に通じているんですね。
 こんなわけで、新約聖書と旧約聖書を足がかりとして私はイスラームに入っていった。それだけに、案外、イスラームというものがわかりやすかった、言えるかもしれませんね。イスラームを動かしている根源的なもの、それは新約・旧約両聖書の精神に通じるものです。キリスト教もユダヤ教もイスラームも、窮極的には同じ精神、同じメンタリティー、セミティックというのですか、セム的なメンタリティーが生み出した宗教現象なんですから。
 ・・(中略)・・
 真に生きた神、人格的一神、にたいする情熱的な、なまなましい信仰をもとにして、それを全存在の極点として表象する(その存在をわれわれが信じるか信じないかは別として)、そういう形で存在性のギリギリの原点を表象するということがセム的じゃないかと私は思うのです。

(出典:『叡知の台座-井筒俊彦対談集-』(岩波書店、1986)所収 Ⅰ 文学と思想の深層 P.9-11)



 「イスラームの終末論」については、イスラーム研究の若き俊秀・池内 恵の処女作『現代アラブの社会思想-終末論とイスラーム主義-』(池内 恵、講談社現代新書、2002)が必読書だ。

 この本をよむと、イスラエル成立後、反ユダヤ主義の中心地が、キリスト教世界からイスラーム世界にシフトしたことが理解できる。



 池内恵が留学先のエジプトで大量に収集した「終末論」をテーマにしたアラビア語の本やCDの数々には、「待望の救世主マフディー」、「偽救世主ダッジャール」などの登場する、まさにおどろおどろしいようなオカルトの世界である。

 これらがアル・カーイダなどの反ユダヤ・キリスト教的な世界観を創り上げていることを知っておく必要がある。

 参考のために『現代アラブの社会思想』の「目次」を紹介しておこう。

序 アラブ社会の現在
 Ⅰ:狭まる世界認識 Ⅱ:悪化する世相
第1部 アラブの苦境
 Ⅰ:「一九六七」の衝撃-社会思想の分極化 
 Ⅱ:「人民闘争」論の隆盛  
 Ⅲ:パレスチナへの視線
 Ⅳ:「イスラームが解決だ」  
 Ⅴ:イスラーム原理主義の隘路  
 Ⅵ:アラブ現実主義のプロファイル
第2部 高まる終末意識
 Ⅰ:終末論の流行
 Ⅱ:セム的一神教と終末論
 Ⅲ:『コーラン』の終末論
 Ⅳ:『ハディース集』の終末「前兆」論
 Ⅴ:前兆との符号
 Ⅵ:陰謀史観とオカルト思想
おわりに

 もちろん現在に至るまで、キリスト教世界では依然としてユダヤ人はマイノリティであり、反ユダヤ主義が過去のものであるとはいい難い

 これは米国でも欧州でも同じである。表だった形での差別はできないが、潜在的な差別感情が存在することは、私自身も直接見聞きしている。

 ちなみに池内恵はドイツ文学者・池内紀の息子である。

 終末論について書かれた本はその多くがキリスト教に関したものだが、幅広く考えるためには、東京大学におけるシンポジウムの記録を活字化した、『地中海 終末論の誘惑((UP選書)』(蓮實重彦/山内昌之=編、東京大学出版会、1996)がよい。世界の主要な一神教3つが発生した地中海世界をこういう視点からみることもできる、という意味で興味深い内容になっている。




 また、資本主義の徹底分析を行ったマルクス主義には、終末論的な構造があることも、多くの宗教学者が指摘してきたことである。

 たとえば、ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデ『聖と俗-宗教的なるものの本質について-』(風間敏夫訳、法政大学出版局、1969)の最終章の終わり近くで、以下のように述べている。原著の出版は1957年である。

 たとえば共産主義の神話的構造とその終末論的内容を考えてみるがよかろう。
マルクスはアジア・地中海世界の偉大な終末論神話の一つを再発見し、継承したのである。すなわちそれは世界の存在論的状態を替える使命を負うて苦難を受ける義人(<選ばれたる者><救世主><罪なき者><使徒>――現代ではプロレタリア階級)の救済者的役割である。階級なき社会と、その結果としての歴史的緊張の消滅は、多くの伝承が歴史の初めと終わりにおく黄金時代の神話のなかに、すでにその正確にその先蹤(せんしょう)が示されている。マルクスはこの尊敬すべき神話に、ユダヤ・キリスト教的救世主の理念をそっくり付け加えた。それは彼のプロレタリア階級に与えた預言者的、救済者的役割と、キリストの勝利に終わるかの黙示録の、キリストと反キリストの戦いそのままな善人と悪人の最終闘争とを考えさえすれば明瞭である。マルクスが歴史の絶対的終焉を期待するユダヤ・キリスト教的終末論を受け継いでいることは注目に値する。これによって彼は、(たとえばクローチェやオルテガ・イ・ガセットのように)歴史的緊張が人間的状態と同体共存するものであり、それゆえこれを全面的に廃棄することは不可能であるとする、その他の歴史主義哲学から区別される。(P.196-197)

 この文章は、大学一年の1981年に読んでたいへん強い印象を受けた。

 すでに退潮していたとはいえ、とくに社会科学系大学のキャンパスには、まだまだマルクス主義の残滓が多く存在していたが、私がマルクス主義にも唯物史観にも染まることなく終わったのは、この文章のおかげも大きい。



 多くの日本人には、マルクス主義の根底に終末論があるという構造が見えないので、マルクス主義を純粋な唯物論だと受け取ってきたに過ぎない、という島田裕巳の発言には、だから全面的に賛成である。

 もちろん、マルクスもエンゲルスも、マルクス主義者によるものではなく、それ自体は何冊も読んでいる。小林秀雄ではないが、マルクスとマルクス主義者は別物である。

 そして1981年前後の数年間は、中沢新一や浅田彰が「ニュー・アカデミズム」略して「ニューアカ」の旗手などといわれていた頃でもあった。

 セゾングループに代表される「消費文化」が頂点を迎えつつあったバブル前夜のこの時代、時代の雰囲気にに馴染めず、精神的なものを求めようとする動きが同時代的に存在したことは指摘しておく必要がある。

 学生運動もすでに退潮していたこの時代、宗教が学生運動の代替物となっていたのも、まぎれもない事実である。

 「オウム世代」というレッテル貼りの表現はあまり好きではないが、オウム真理教の幹部に、この時期に大学生活を過ごした者が少なくないのも、けっして偶然ではない。

 エリアーデはルーマニア王国の文化アタッシェとして駐在していた、ポルトガルのリスボンで第二次大戦の終結を迎えている。共産化した祖国には以後戻らず、フランスと米国で学究人生を送ったエミグレ(難民亡命者)であることを付け加えておこう。

 宗教学にかんする著作の大半は、フランス語と英語で行ったエリアーデだが、文学者としては母語であるルーマニア語でのみ執筆活動を行った。二度と足を踏むこともかなわぬ祖国へのノスタルジーでもあったのだろうか。



日本における「神なき資本主義」?

 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』の最終章である第8章 日本における「神なき資本主義」の形成、について。

 私は「ビジネスマンである私は、最終章で著者が描く日本の現実は牧歌的にすぎるのではないかとは思うが・・」と書評のなかで書いているが、島田裕巳は一時期はやった「日本的経営論」も、日本企業組織の実態も詳しく知らないのだろうとしか思われない。島田裕巳の議論には、1980年代的な響きしか感じ取れない。

 また、日本が本当に「神なき資本主義」であるかどうか、この点についても疑問が残る。

 「神」を「ユダヤ・キリスト教」的な一神教に限定すればそのようにいうのも可能かもしれない。しかし日本の「神」を多神教といって済ませてしまうのもいかがなものか。私自身は日本の神は多くの顔をもつ、きわめて一神教的な存在ではないかと考えているのだが・・・

 そもそもキリスト教の God を日本語で「神」と訳したことが、間違いの始まりなのではないだろうか。どうも日本語での議論が混乱しがちである。

 経済と宗教は、発生時点においては不可分の関係にあることは、何も一神教に限定されるわけではないし、ウェーバーの通称「プロ倫」は、あくまでも近代の「産業資本主義」の成立についての論文であり、古代から存在した「商業資本主義」と「金融資本主義」について述べているわけではない

 日本については網野善彦が、経済と宗教の関係が日本中世においては密接不可分なものであったことを何度も指摘している。「商業資本主義」、「金融資本主義」は、日本で自生的に発生したものであることは、基本的な商業用語や金融用語(とくに株式関係)が欧米語からの翻訳語ではないことに着目している。

 網野善彦は中沢新一の叔父さんにあたる人なので、互いに学問上の影響関係は少なくないようだが。『僕の叔父さん 網野善彦』(中沢新一、集英社新書、2004)を参照。 

 このテーマについては、さらに突っ込んだ検討が必要だ。



島田裕巳という生き方-宗教学者・中沢新一との関係


 「宗教と経済の関係」というテーマからは少しはずれるが、島田裕巳について書いておかねばならないことは、中沢新一との関係である。

 オウム真理教による「サリン事件」を境にして、命運がまったく分かれたこの二人の宗教学者は、東大文学部宗教学研究室の先輩後輩の関係にある。中沢新一のほうが島田裕巳の3年上になる。

 サリン事件から12年後、島田裕巳は中沢新一批判の一書を出版している。題して、『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』(島田裕巳、亜紀書房、2007)。私はこの本は出版後すぐに目を通した。


 本来ならルサンチマン丸出しの叙述でもおかしくないハズだが、島田裕巳はかなり抑えた筆致で、中沢新一という大学教授としての公人の発言が社会に与える影響-もちろん、よい影響だけでなく悪い影響もある-について書いている。

 チベット密教における「グル思想」、レーニンに代表される左翼前衛思想という「政治性」、そして「霊的革命」などのキーワードによって、中沢新一という宗教学者の悪の側面に目をこらしている。そこにあるのは、一握りの精神的エリートが一般民衆を指導するという思想そのものではないか?

 自然科学とはことなり、人文科学では、研究者の生き方そのものが問われる。この意味において、島田裕巳の仕事は無意味なものではない。

 参考のために目次を紹介しておこう。
中沢氏の変節-はじめに
第1章 一番弟子の困惑
第2章 サリン事件の本当の意味
第3章 『虹の階梯』の影響と問題点
第4章 コミュニストの子どもとして
第5章 テロを正当化する思想
第6章 宗教学者としての責任

 1985年3月に発生した「サリン事件」からそろそろ15年になる。阪神大震災に続いて発生し、大きな分水嶺となったオウム真理教(当時)の思想的背景を知るうえでも、あえて敬遠せず目をとおすことを奨めたい。

 そのうえで、中沢新一の言説についての論評を行うべきである。私自身も中沢新一の言説は、面白く魅力的だと思って読んできた人間だが、手放しの礼賛はやめたほうがいいのではないかとは思っている。

 島田裕巳のこの本を読んではじめて、中沢新一の『はじまりのレーニン』(岩波書店、1998 現在は岩波現代文庫 2005)が何をいいたい本なのか、その隠されたメッセージを理解することができたことを、恥ずかしながら告白しておく。

 オウム真理教が、仏教から出発しながら、次第にキリスト教的な終末論も取り込み、ハルマゲドン到来を待ち望んでいた背景には何があったのか、真相はよくわからないが、いろいろと考えさせられることも多い(*)。

(*)この点については、「オウム真理教的なものを批判するよりもむしろそれに加担した1950年代世代の宗教学者たちへの根源的な批判を行っている『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011) をぜひごお読みいただきたい。(2014年2月18日 追記)。


 中沢新一がうまく「世間」を泳ぎ切っている一方、「世間」の圧力によって大学教授という安定した世界から追放された島田裕巳が、以後苦難の人生を歩んできたことは、昨年出版された経済学者・小幡績との共著『下り坂社会を生きる』(宝島社新書、2009)でこういう述懐をしていることからもわかる(・・この本についてはブログで取り上げて書評を書いている)。

私も今は物書きで食べていますが、本というのは当たるときはすごく当たったりする。でも、いつでもそうではないし、ほとんどの場合には本を出しても。初版止まりで、よくて一度重版というくらいで終わってしまう。もし、当たることを前提に仕事をしていたら、それは続かない。・・(中略)・・
あるとき気づいたのは、昔のベストセラー作家というのは、たとえば松本清張なんかそうですが、とにかく量を書いている。・・(中略)・・
それを考えると、物書きで食べられないのは、出す量が少ないからだと気がついた。そうすればたまに当たることもあるし、当たらなくても生活が成り立つ位は稼げる。下り坂の時代というのは、仕事の面では、そうやって食べていくしかない。それが現実だと思います。(P.136-137)

 まさに "publish or perish"(論文を出さねば、消え去るのみ)である。これは米国の大学の研究者の世界の話だが、日本の文筆家の世界でも、一家の生計をたてるためには著作を量産しなければならないわけなのである。

 最近も、『葬式は、要らない』(幻冬舎新書、2010)という本が中高年のあいだで話題になっているようだ。まだ読んでいないが、「葬式仏教」ビジネス批判のようだ。 

 葬儀の世界でもいま「価格破壊」が進んでいるが、その援護射撃となるのではないか?

 たとえ「逆境」に落ちてもけっして絶望せず、「勇気」を振り絞って生きていかねばならない。宗教学者・島田裕巳の復活物語は、「波瀾万丈もの」として取り上げられてもいいはずのものだ。ポジティブに考えれば、宗教を研究する者としては、希有な体験をしたことにもなったといってもいい。

 マスコミからバッシングを受け、「世間」という目に見えない声と視線によって迫害され、大学という安楽の園(エデン)からは追放され、苦難を強いられた人生の軌跡。

 私が島田裕巳の著作を評価する理由の一つは、そういった島田氏の逆境から這い上がった人生の軌跡が、彼を宗教学者としてさらに鍛えあげることになったのではないか、とも思うからだ。

 ほとんど誰もが希望などもてない「下り坂社会」を生きるには、へんな希望などではなく、「絶望に打ち克つ勇気」こそが必要なのである。ラテン語には Per aspera ad astra(ペラスペラ・アダストラ)という、「苦難をつうじて星まで」という金言もある。真理は時代を超えて存在する。



 いろいろ書いてきたが、島田裕巳と中沢新一を天秤にかける意図は私にはない。島田裕巳を持ち上げて、中沢新一をけなすわけでもない。二人とも、ずいぶん長い期間にわたって読んできた読者として、書くべきことを書いたまでだと思っている。

 ただ、苦難というものは、正面から受け止めて、勇気をもってそれに打ち克つ努力をしない限り、突破口が開かないものなのだと、島田裕巳の人生をみてそう思うのである。



PS 読みやすくするため改行をふやし、写真を増やし大判にした。またその後の書いたブログ記事を踏まえて追記を書いておいた。本文にはいっさい手は加えていない。4年ぶりに全文を読み返してみたが、とくに修正の必要は感じない。 (2014年2月18日)。



<関連サイト>

25年目に振り返る東大駒場騒動 山口昌男さんを送りつつ、元一学生が思うこと(伊東 乾、日経ビジネスオンライン 2013年3月29日)
・・東大駒場をゆるがせてワイドショーネタにもなった中沢新一の人事問題について振り返った記事。読むべき価値あり(2013年3月29日 追加)


<ブログ内関連記事>

アダム・スミスの 「見えざる手」 は 「神の手」 ではない!-それは 「意図せざる結果」の説明として導入されたものだ

書評 『7大企業を動かす宗教哲学-名経営者、戦略の源-』(島田裕巳、角川ONEテーマ21、2013)-宗教や倫理が事業発展の原動力であった戦前派経営者たちの原点とは?
・・宗教学には熟知していても経営学も、実際のビジネス活動のなんたるかも理解していない著者には大きな限界あり

書評 『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)-東京という土地の歴史を縄文時代からの堆積として重層的に読み解く試み

『はじめての宗教論 右巻・左巻』(佐藤優、NHK出版、2009・2011)を読む-「見えない世界」をキチンと認識することが絶対に必要 
・・ただし佐藤優の「近代」認識には問題がある。彼の理解はあくまでもプロテスタント神学のものであり、日本の現実にあてはまめるには無理がある。佐藤憂氏は宗教学者ではなく、カルヴィニズムに立脚する信仰者であることに留意

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ
・・「オウム真理教的なものを批判するよりもむしろそれに加担した1950年代世代の宗教学者たちへの根源的な批判である」。 中沢新一だけでなく島田裕己も同様

書評 『革新幻想の戦後史』(竹内洋、中央公論新社、2011)-教育社会学者が「自分史」として語る「革新幻想」時代の「戦後日本」論
・・学生運動は挫折したもののソ連はいまだ崩壊していなかった1980年代後半、社会主義幻想はいまだ大学キャンパスには存在した。と同時にバブル時代の萌芽がすでに現れており、それに違和感を感じた若者たちがオウムなどに流れたのは不思議でもなんでもない

修道院から始まった「近代化」-ココ・シャネルの「ファッション革命」の原点はシトー会修道院にあった
・・「近代資本主義」はじつはカルヴィニズム以前、中世のカトリック修道院で生まれていること

「稲盛哲学」 は 「拝金社会主義中国」を変えることができるか?

(2013年3月29日 追加。 2014年2月18日、2016年5月31日 情報追加)






(2012年7月3日発売の拙著です)








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end     

2010年2月20日土曜日

映画 『インビクタス / 負けざる者たち』(米国、2009)は、真のリーダーシップとは何かを教えてくれる味わい深い人間ドラマだ






監督・製作:クリント・イーストウッド
主演:モーガン・フリーマン、マット・デイモン


 「2010年 FIFA サッカー・ワールドカップ」が開催される南アフリカ、この映画は同じフットボールでも足しか使わないアソシエーション・フットボール(=サッカー)ではなく、足も手も使うラグビー・フットボールのドラマである。

 長年にわたって続いてきた「アパルトヘイト」(人種隔離)政策が終わり、1990年に28年の獄中生活から解放されたネルソン・マンデラは、1994年には南アフルカ初の黒人大統領になった。

 マンデラにとっての課題は、「アパルトヘイトを理由にした経済制裁」が解除されたことによって可能となった、外国からの直接投資を陣頭指揮して誘致するだけでなく、少数派であるが経済や軍と警察の実権を握る白人層と、圧倒的多数を占める黒人層との国民的融和を図り、国民統合をいかに実現するかという大きな政治的課題であった。

 そこで国家を率いる指導者(リーダー)であるマンデラが目をつけたのが、目前に迫っていた「1995年 第3回ラグビー・ワールドカップ」である。アパルトヘイトのため、ワールドカップから除名されていた南アフリカは、この大会は開催国であり、かつ初出場だったのである。

 スポーツが国民統合の「求心力」となるのは理由がある。なによりもスポーツは一般人にもわかりやすく熱狂しやすい。スポーツのもつ特性には、感動・ひたむきさ・爽やかさ・チャレンジ精神・フェアプレイ精神といった好感度なイメージがあり、見る者をエキサイトさせ、巻き込んでいく。これは、芸術などの文化活動と比較した場合、対象がより大衆的で、かつ効果がダイレクトにあらわれるということでもある。これは現在開催中の「2010年 バンクーバー・冬期オリンピック」も例外ではない。

 ただし、近代スポーツ発祥の地である本家本元の英国では、サッカーが主に労働者階級のスポーツであるのに対し、ラグビーは上流階級のスポーツである。南アフリカではこの構図がさらに人種が重なることによって、白人エリートのスポーツであるラグビーが、果たして国民意識統合につながるのか、誰もが疑問に思ったことだろう。

 しかし、国家の政治指導者(リーダー)であるマンデラ大統領がとった行動は、ワールドカップのスケジュールを最優先し、代表ラグビーチームの白人主将(キャプテン=リーダー)を直接官邸に招いて歓談し、奮起を促したことだった。

 マンデラをして、政治犯として投獄されていた28年間(1962-1990)を精神的にもちこたえさせたのは、英国ヴィクトリア朝時代の詩人による Invictus(不屈)という詩であった。そしてこの詩句は、代表ラグビーチームの白人主将をもインスパイアしていく・・・。

 I am the master of my fate: I am the captain of my soul.

 実に味わい深いコトバではないか。噛みしめると勇気がわいてくる。

 人々の気持ちをインスパイアし、もてる実力以上のチカラを引き出すには何をしたらいいのか。

 この映画は、あらゆるレベにおいて必要なリーダーシップについて人間集団である組織の求心力をいかにつくりあげるかという課題にかんする生きた教材といえる。コトバとそれにともなう行動が、いかに人間の気持ちをインスパイアするものであることか。

 依然として多くの問題を抱えている南アフリカではあるが、同じく白人支配を脱しながらも、独裁者が君臨し、経済的破綻国への途をひたすら突き進んでいるジンバブエ(旧ローデシア)と比較すると、南アフリカにネルソン・マンデラというリーダーがいたこと、それに応えた人々がいたことが、いかに大きなチカラとなったか、感動的なフィナーレとともに味わっていただきたいと思う。

 それにしても奇跡は起こりうるのである! 
 この映画は実話(true story)に基づいたものなのだ。

日本版オフィシャルサイト
米国版オフィシャルサイト
オフィシャル・トレーラー(YouTube)






<補足コメント>

 身に覚えのないのに終身刑を宣告され投獄された囚人が脱獄して自由を手に入れる内容の『ショーションクの空に』(1994 The Shawshank Redemption)では主人公の一人を演じた、米国の名優モーガン・フリーマンの演じるネルソン・マンデラは真に迫ったものがある。今回の映画は出獄後の政治家を演じているが。トレーラーはこちら。

 それにしても監督としてのクリント・イーストウッドは一作ごとに素晴らしい映画を製作・監督している。いまではかつての名優としてのクリント・イーストウッドもさることながら、次の作品を期待したい監督としての存在が大きくなった。

 なお、「1995年 ラグビ-・ワールドカップ」の結果については Wikipedia の項目を参照。

 ネルソン・マンデラを、そしてラグビー代表チーム主将をインスパイアした詩 Invictus(不屈)の原文は以下のものである。

Invictus  by William Ernest Henley (1849–1903)

Out of the night that covers me,
Black as the pit from pole to pole,
I thank whatever gods may be
For my unconquerable soul.


In the fell clutch of circumstance
I have not winced nor cried aloud.
Under the bludgeonings of chance
My head is bloody, but unbowed.

Beyond this place of wrath and tears
Looms but the Horror of the shade,
And yet the menace of the years
Finds and shall find me unafraid.

It matters not how strait the gate,
How charged with punishments the scroll,
I am the master of my fate:
I am the captain of my soul.


<関連情報>

 「スポーツのもつ求心力」については、日本では企業が「企業スポーツ」という形で活用してきた。
 今回のバンクーバー・オリンピックでも男子スピードスケートで銀メダルと銅メダルを獲得した日本選手が、ともに日本電産サンキョー(旧 三協精機)に所属する選手である。日本電産サンキョー・スケート部のサイトを参照。
 長野県・諏訪の名門精密機器メーカーである三協精機を買収した、京都に本社のあるグローバル企業・日本電産の創業社長・永守氏は、従業員の解雇を一切行わないだけでなく、従業員の求心力となるスポーツのもつ重要性を理解したうえでスケート部を廃部にしなかった。さらに、今回のメダル報奨金の半分をポケットマネーから支出している。
 もしご興味があれば、私が1997年に行った講演録をご覧いただきたい。「企業とスポーツ」①「企業とスポーツ」②
 1時間の講演を要旨としてまとめたものである。

 リーダーシップについては、書評『国をつくるという仕事』(西水美恵子、英治出版、2009)を参照。真のリーダーシップとは何かを教えてくれる本、というタイトルでこの本を紹介している。南アフリカのネルソン・マンデラも、一国の指導者として、真のリーダーシップを発揮した人である。

 人を動かすコトバについては、岡倉天心の世界的影響力-人を動かすコトバのチカラについて-という文章をブログに書いている。

 南アフリカ出身の作家ローレンス・ヴァン・デル・ポスト(1906-1996)についてブログに書いた文章はこちら。原爆記念日とローレンス・ヴァン・デル・ポストの『新月の夜』。20歳台で日本に来たこともある日本通の作家は、運命の皮肉で英国陸軍のコマンド部隊大佐としてインドネシアのジャワ島で日本軍と戦い捕虜収容所に収容されることになり・・・


P.S. 追記

現代時評:「南ア・アパルトヘイトの今昔」 Ken(2010年2月23日号)
・・マンデラ大統領就任前に南アフリカに商用で入国した著者の回想録。
 
■■ 旧宗主国、英国系の白人は内心絶対的な白人優先の潜在意識もあるが、同じ白人でもユダヤ人やアフリカーナ、つまり旧オランダ系ボーア人の後裔などは二流白人の地位に甘んじてい、白人優先の南ア共和国という意識は希薄であった。マンデラ氏の前任者デクラーク元大統領もアフリカーナである。
■■ ここまで考えてくると、南アのアパルトヘイトは有色人と白人の争いというよりむしろ、貧乏で怠惰な有色人とまじめな有色人の間の争いという方が、正鵠を得ているかも知れない。 それをボクら日本人は
、「虐げられて可哀想な南アのアパルトヘイト」と、誤解していたのではなかったろうか。

 なかなか味わい深いコメントである。ぜひ全文をお読みいただきたい。(2010年2月23日記)



<ブログ内関連記事>

巨星落つ!-「超一級の本物のリーダー」であった南アフリカのネルソン・マンデラ氏(1918~2013)を悼む

書評 『南アフリカの衝撃(日経プレミアシリーズ)』(平野克己、日本経済新聞出版社、2009)-グロ-バリゼーションの光と影

キング牧師の "I have a dream"(わたしには夢がある)から50年-ビジョンをコトバで語るということ

「ハーバード リーダーシップ白熱教室」 (NHK・Eテレ)でリーダーシップの真髄に開眼せよ!-ケネディースクール(行政大学院)のハイフェッツ教授の真剣授業

映画 『プロミスト・ランド』(米国、2012)をみてきた(2014年9月8日)-衰退するコミュニティ(=共同体)とプロミスト・ランド(=約束の地)
・・マット・デイモン主演で、みずからが脚本を書きプロデュースした映画

映画 『アメリカン・スナイパー』(アメリカ、2014年)を見てきた-「遠い国」で行われた「つい最近の過去」の戦争にアメリカの「いま」を見る
・・クリント・イーストウッド監督作品


英連邦と英国生まれの近代スポーツであるラグビー

「近代スポーツ」からみた英国と英連邦-スポーツを広い文脈のなかで捉えてみよう!
・・ラグビーは英国生まれのスポーツ。上流階級のスポーツであるラグビーと中流以下のスポーツであったサッカーとの違い

『イメージとマネージ-リーダーシップとゲームメイクの戦略的指針-』(集英社、1996)-平尾誠二氏のあまりにも早い死を悼む(2016年10月20日)

(2014年9月15日 項目新設)
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2010年2月19日金曜日

書評 『平成海防論-国難は海からやってくる-』(富坂聰、新潮社、2009)-「平成の林子平」による警世の書




「平成の林子平」による警世の書

 「平成の林子平」による警世の書である。「自ら海に依存しながら海に無関心でいる日本人」に対し、「海洋国家」日本の国民の生命財産を守る海上保安体制が、あまりにも手薄い現状に警告を発した本だ。

 現在の日本人の快適な生活が大きく海に依存していることに、多くの日本人は日頃意識することなく、しかも無関心のようだ。どうしても「島国」意識が抜けず、関係者以外は「海洋国家」意識をもちにくいのだろうか。
 何といっても「食糧とエネルギー」のほとんどを大きく海外からの輸入に依存しているが、金額ベースでみて約7割が「海上輸送」に依存している。海上運賃は航空運賃よりはるかに安いので数量ベースでみたら、比率はもっと高くなることはいうまでもない。
 通商の舞台となり、富をもたらす存在である海は、また災難をもたらす存在でもある。
 著者は、日本の国土面積が世界61位であるにかかわらず、領海・排他的経済水域(EEZ)の面積は世界第6位、そして海岸線の長さも世界第6位であるが、国土の面積あたりの海岸線延長ではなんと世界一であることを強調している。これだけ長い海岸線を、これだけ広い領海・排他的経済水域を、なんと韓国と同じ人数の海上保安庁職員で守っているというのだから、驚きを超えて、ため息をつきたくなってしまう。

 著者は、専門の中国問題を大きく超えて、日本を取り巻く海にかかわるトピックを具体的に取り上げている。目次を紹介しておこう。

プロローグ 日本を映し出す“鏡”としての海
第1章 “友愛の海”という幻想
第2章 エネルギー争奪戦がもたらした自衛隊与那国島駐屯
第3章 調査捕鯨船団 vs. 環境テロリスト、南氷洋の闘い
第4章 「海賊問題」の本当の脅威とは何か?
第5章 北朝鮮不審船との白熱の攻防
第6章 空母でアジアの海の覇権を狙う中国の野望

 いずれの章においても、非常に行き届いた精力的な取材と、それに基づいた冷静な議論を展開しており、いたずらに世論をヒートアップさせることは目的とはしてない。いま日本の海をめぐる状況がいかなるものであるか、その事実関係を伝えて日本人が自らその問題について考えるための材料を提供してくれているのだ。

 幕末日本の警世家・林子平は、鎖国状態にある日本も海をつうじて全世界とつながっていることを指摘、海防を説いたその主著『海国兵談』は幕府によって発禁処分になり、版木は没収された。
 その後、実際に黒船を目撃した坂本龍馬「海援隊」を結成、同じく土佐藩出身の岩崎弥太郎は海援隊を経て海運業から本格的にビジネスを始め、三菱財閥の創始者となっている。彼らはいち早く「通商国家」としての「海洋国家」ビジョンを抱いた人たちであった。本年度のNHK大河ドラマ『龍馬伝によって、日本が海にむかって開かれた国であるという認識を、あらためて多くの日本人がもつこととなるだろう。
 しかしながら「生きている海と向き合う限り、変化との戦いは海洋国家の宿命である」(P.230)。このように説く「平成の林子平」による本書が黙殺されることなく、警告が一日も早く全国民の共通認識となることを願ってやまない。

 国民の生命財産を守るのが政治の役割であるが、その政治の質を引きあげるのは国民一人一人の意識にあるのだ。


<初出情報>

■bk1書評「「平成の林子平」による警世の書」投稿掲載(2010年2月15日)








<書評への付記>

「シーシェパード」と「北朝鮮の不審船」についてのコメント

 「平成の林子平」というのは、私が書評を書く際に勝手に命名しただけで、別に市民権を得た表現ではない。本書のプロローグ(序章)で、著者の富坂氏自身が幕末の林子平、工藤平助、本田利明といった面々を引き合いに出しているので、使ってみたまでのことだ。
 林子平と『海国兵談』については、高校日本史の教科書には必ず出てくるはずなので、知らない人はいないだろう(・・と思うのだがいかに)。
 
 本書の内容は、直接読んでもらうのが一番だが、いくつか補足情報を書いておきたい。


 第3章 調査捕鯨船団 vs. 環境テロリスト、南氷洋の闘い 

 シーシェパードについてついては、『エコ・テロリズム』(浜野喬士、洋泉社新書y、2009)を手がかりに、また今年も反捕鯨の暴力行動に訴える、という文章をブログに書いている。"テロリスト集団" 「シー・シェパード」 について考えるうええで、彼らの「内在論理」を知ることが何よりも重要だ。
 一方、本書『平成海防論』では、クジラをめぐる日本国内の状況について考えるヒントを与えてくれる。
 まず、沿岸捕鯨の中心地の一つである和歌山県の太地(たいじ)町は、地場産業である古式捕鯨によるクジラ漁の担い手が先細り状況であり、クジラをイルカやシャチとならぶ"観光資源"と位置づける以上、クジラを湾内に追い込む伝統的なクジラ漁は、大量の鮮血が海を染めることになるので、反捕鯨の欧米人だけでなく、日本人からもショッキングなものと捉えられる可能性が大きいので悩ましい、というのが現地の捉え方らしい。私も熊野の太地は一度だけ訪れたことがあるが、世界一のスケールを誇る「太地町立くじらの博物館」は訪れる価値があるものだ。米国東部カナデカ州ニューベッドフォードにある New Bedford Whaling Museum と並んで内容の濃いミュージアムである。
 また、日本人の鯨肉(クジラ肉)への需要が減少傾向にあるという事実も指摘されている。現在では供給過剰で、冷凍倉庫に眠っている在庫が・・・トン。これは調査捕鯨で捕獲するクジラが食肉として民間に供出されるものの、供給が需要を大きく上回る事実を指摘したものだ。
 そしてまた、大規模捕鯨の担い手は、もう民間にはいないという記事も最近読んだ。大規模捕鯨の担い手は、もう民間にはいない-「小型沿岸」への現実路線が迫られる捕鯨外交-。「反捕鯨団体による不買運動などもあり、特に大手企業にとって捕鯨は経営リスクでしかないのが現実」らしい。しかし、太地町の事例でもみたように、沿岸捕鯨も先行きは厳しいと考えるべきなのだろう。
 だとすると、シーシェパード vs. 調査捕鯨船とはいったい何なのだと、ため息をつきたくもなる。つまりいたずらにエキサイトしてみても・・ということだ。
 確かにクジラ肉は旨いが値段が高いことは否定できない。戦後の食糧不足時代に、安価で豊富なタンパク源としてクジラを食べた世代がいなくなったら、クジラ肉は単なる珍味として、クマ肉と同じような扱いとなるのかもしれない。
 

 第5章 北朝鮮不審船との白熱の攻防 について

  2001年12月に発生した「九州南西海域工作船事件」を補足として映像資料(YouTube)を紹介しておこう。映像は百聞に一見に如かず、映像は雄弁である。激しい銃撃戦を手に取るように目撃することができる。

NO-1 実録銃撃戦 北朝鮮工作船を追え!逃がすな!
NO-2 実録銃撃戦 北朝鮮工作船を追え!逃がすな!
NO-3 実録銃撃戦 北朝鮮工作船を追え!逃がすな!

 海上保安庁職員の方々にはこの場を借りて、日頃のご苦労をねぎらい、敬意を表したい。職員の皆さんの努力が必ず報われることを!! そして政権が海上保安体制強化を行うことを説に望む。
 現在、「北朝鮮の不審船」は、海上保安資料館横浜館-Japan Coast Guard Museum YOKOHAMA-に保管展示されているとのことだ。見に行きたい。


 日本は海に囲まれた「島国」であるが、海で全世界とつながっているという「海洋国家」であり「通商国家」である、ということを忘れてはならない。

 「下り坂」社会である日本ではあるが、現在の生活水準を守るためには何が必要なのか、振り返ってよく考えてみる機会があってもいいはずだ。民主党政権が国防問題について方針をまとめるとのことだが、広い意味の安全保障として、「海の守り」についても真剣に考えてもらいたいものである。
                              

P.S. 「実録銃撃戦 北朝鮮工作船を追え!逃がすな!」だが、著作権侵害とのことで映像は削除されている。残念。そのかわり、海上保安庁広報のビデオを掲載しておく(2013年4月24日 記す)

海上保安庁広報 国籍不明不審船 追跡ビデオ




PS 『平成海防論』の文庫版の刊行

2014年1月に副題を「膨張する中国に直面する日本」と改めて文春文庫から文庫版が刊行された。文庫版刊行にあたって著者は新章を執筆している。




「文庫版刊行によせて」は、文藝春秋社の書籍サイトから「立ち読み」できる。

単行本出版から5年、「尖閣国有化」を境に激変する状況について考えることが必要だ。


(2014年1月4日 記す)









(2012年7月3日発売の拙著です)








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